戦闘竜扁利の情報(せんとうりゅうへんり) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
戦闘竜 扁利さんについて調べます
■名前・氏名 |
戦闘竜扁利の情報まとめ
戦闘竜 扁利(せんとうりゅう へんり)さんの誕生日は1969年7月16日です。
卒業、引退、現在、再婚、兄弟、結婚に関する情報もありますね。戦闘竜扁利の現在の年齢は55歳のようです。
戦闘竜扁利のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)戦闘竜(せんとりゅう、1969年7月16日 - )は、アメリカのもと総合格闘家、大相撲力士である。東京都立川市生まれ。志村道場/ファイティング・ドラゴン所属。なおCage Rageで試合をする際は本名のヘンリー・ミラーで出場している。大相撲力士時代の体格は、身長176cm、体重144kg。株式会社KPに所属している。「戦闘竜」と書くが「せんとうりゅう」ではなく「せんとりゅう」が正しい。 父は横田基地に所属した米軍のコンピューター技術師。母は日本人。東京都立川市に生まれ、6歳まで日本(横田基地)に暮らした。 1975年にアメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスに転居。 1987年に高校を卒業した後、親戚に勧誘され再び来日、大相撲の友綱部屋に入門。四股名は、セントルイスにちなんで「戦闘竜(せんとりゅう)」。1988年7月場所初土俵を踏み、1994年11月場所でアメリカ合衆国本土出身力士、および黒人力士としては初の十両昇進を果たした。立川市出身者と扱った場合も史上初となる。その後は怪我もあり苦労したが2000年7月場所に12年かかったが新入幕を果たした。高校卒業まで続けたアメリカンフットボール、レスリングの爆発力を活かし、強烈な突き、押しを得意とするも、引き技などの変化についていけない場面が目立ち、怪我にも泣かされ幕内に定着できなかった。2003年11月場所幕下で負け越したのを最後に現役を引退した。 2004年、プロ格闘家に転向。2月15日、PRIDE 武士道 -其の弐-のリングに上がり、PRIDE参戦を発表した。
10月14日、PRIDE 武士道 -其の伍-でマル・"ザ・ツイン・タイガー"と対戦し、KO勝ち。転向後、初勝利を挙げた。試合前に、格闘技転向後まだ白星のなかった曙の名を挙げ「曙よりも先に勝つ」と語っていたが、それを実現し、試合後、リング上で「相撲は強いんだよ!」とマイクアピールした。 12月31日、PRIDE 男祭り 2004で総合格闘技転向初戦となった元柔道シドニーオリンピック金メダリストの瀧本誠と対戦し、判定負け。 2007年3月23日、HEAT初参戦となったHEAT 3でキム・ジフンと対戦し、TKO勝ちを収めた。
2008年12月14日、この日より開始されたHEAT総合ルール ヘビー級トーナメントに参戦。1回戦で濱田順平と対戦し、KO勝ち。 2009年3月28日、HEAT9のトーナメント準決勝で野地竜太と対戦し、KO勝ち。
9月26日、HEAT11で上西との再々戦(トーナメント決勝)を行なうも、2ラウンド終了後の延長ラウンドでTKO負けを喫し、HEATヘビー級王座を逃した。 2010年3月7日、SRC初参戦となったSRC12で中尾"KISS"芳広と対戦し、パウンドでTKO負け。 2013年8月25日、引退試合となったDEEP 63 IMPACTで中村和裕と対戦し、パンチラッシュでKO負け。 引退後は元妻の実家の家業にてタイ工場で働いていたが、2018年に退職。現在は再婚し、タイに本社を構える食品製造会社の日本営業部として、大きな成果をあげている。 戦闘竜 広光(せんとりゅう ひろみつ)1988年7月場所-1997年5月場所 魁心山 扁利(かいしんざん へんり)1997年7月場所-1999年5月場所 戦闘竜 扁利(せんとりゅう -)1999年7月場所-2003年11月場所 戦闘竜(日本) ヘンリー・ミラー(日本以外) 通算成績:351勝253敗77休 勝率.581 幕内成績:19勝26敗 勝率.422 現役在位:93場所 幕内在位:3場所 各段優勝
序ノ口優勝:1回 (1988年9月場所) アメリカ合衆国出身の非日系力士で関取に昇進した力士は多いが、ハワイ州以外の州の出身者では、戦闘竜が唯一である(東京都立川市出身だが、本籍はミズーリ州)。 戦闘竜と英語で日常会話が出来るようにと元幕下・小倉錦(現在はタレント、イベントプロデューサーの殿畑大作)が師匠の友綱(元関脇・魁輝)に「学費を出していただけるなら僕が勉強します」と申し出て英会話教室に通って英会話が出来るように努力したが、結局1年後には戦闘竜が日本語を覚えてしまったので小倉錦の英語学習は打ち切りとなった。 新十両となった場所に、漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の両津勘吉を描いた化粧廻しを部屋の後援会から贈られた。なお、当該作品の76巻で両津が乗っているパワーボートの名前が「戦闘竜」である。近年は漫画のキャラクターを化粧廻しのデザインにしている力士は特に珍しくもないが、戦闘竜が現役を務めていた時代はまだ珍しく、近年における化粧廻しのカジュアル化の走りともいえる。ただし、戦闘竜以前にも前例はあり、過去には玄武満が『天才バカボン』の主人公であるバカボンのパパをデザインした化粧廻しを使用していた事例がある。 立合い頭から当たる取り口の影響からか、20代後半から髪が薄くなってしまい、30代になると髷そのものが結えなくなった。十両復帰を目指していた1997年から1999年の時期には、同部屋の兄弟子魁皇から、「早く十両に戻ってこないと、大銀杏が結えなくなっちゃうよ。」と発破をかけられていたという。 1964年3月場所に高見山が入門して以降アメリカ合衆国出身力士が絶える事は無かったが、戦闘竜が引退した2003年11月場所番付では他に武蔵丸しかおらず、武蔵丸も場所中に引退していた事から、戦闘竜の引退と同時にアメリカ合衆国出身力士が0人となった。 同部屋の魁皇と大の仲良しで親友だった。1995年~1998年は相次ぐ膝や肩の怪我で番付がかなり落ちてしまい辞めて帰国しようかという状況だったが、魁皇に物凄い剣幕で説得され真剣に引き止められた事で奮起して幕内に昇進した。2000年5月場所で魁皇が初優勝した時も、言葉を交わす事なく握手し抱き合い涙を流していた。 2001年7月場所、何度も立ち合いで逃げて変わられている玉力道に、仇討ちの一発ノックアウトで勝った取り組みがある。2000年の11月場所で怪我で休場させられた恨みも晴らした。 2000年9月に結婚。 一時期大麻疑惑が一部で報道されていたが、師匠の10代友綱は12代武隈、世話人の王湖、弟子の魁皇を集め「もしアイツがクロだったら、オレは協会を辞めるから。後は頼んだぞ」と覚悟を決めていた。 ^ 初土俵から所要72場所は外国出身力士としては史上1位の新入幕スロー記録。 ^ “PRIDE 武士道 其の二”. スポーツナビ. http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/pride/live/200402/15/index.html ^ “PRIDE 武士道 其の伍 第2試合”. スポーツナビ. http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/pride/live/200410/14/a02.html ^ “初の黒人関取・戦闘竜さんは義父設立の会社で超多忙の日々”. https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/161771 ^ Yellow.Place. “Lime Co., Ltd. - Kawaguchi-shi, Japan” (英語). Yellow.Place. 2021年3月10日閲覧。 ^ 本人Facebookより ^ 公傷 ^ 『相撲』2012年1月号89頁 ^ “千代大龍は「キン肉マン」/主な漫画化粧まわしメモ”. 日刊スポーツ. (2017年4月25日). https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1812965.html ^ 佐藤祥子『相撲部屋ちゃんこ百景 とっておきの話15』〈河出文庫〉2016年、88頁。ISBN 978-4309414515。 大相撲力士一覧 男子総合格闘家一覧 SRC選手一覧 PRIDE選手一覧 K-1選手一覧 公式ブログ SRC 選手データ - ウェイバックマシン(2010年6月27日アーカイブ分) HEAT 選手データ パンクラス 選手データ PRIDE 選手データ - Internet Archive バウトレビュー 選手データ SHERDOG 選手データ 株式会社KPによるプロフィール 戦闘竜 扁利 - 日本相撲協会 戦闘竜 扁利 - 相撲レファレンス アメリカ合衆国出身の大相撲力士 東京都出身の大相撲力士 在日アメリカ人のスポーツ選手 友綱部屋 アメリカ合衆国の総合格闘家 日系アメリカ人の総合格闘家 アフリカ系アメリカ人の総合格闘家 レスリング出身の総合格闘家 大相撲出身の総合格闘家 K-1に参戦した選手 パンクラスに参戦した選手 東京都出身の人物 セントルイス出身の人物 1969年生 存命人物 ウィキデータにある日本相撲協会識別子 ウィキデータにある相撲レファレンス識別子
2025/01/29 01:10更新
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sentouryuu henri
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