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掛布雅之の情報 (かけふまさゆき)
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【6月16日】今日誕生日の芸能人・有名人

掛布雅之の情報(かけふまさゆき) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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掛布 雅之さんについて調べます

■名前・氏名
掛布 雅之
(読み:かけふ まさゆき)
■職業
野球選手
■掛布雅之の誕生日・生年月日
1955年5月9日 (年齢69歳)
未年(ひつじ年)、牡牛座(おうし座)
■出身地・都道府県
千葉出身

(昭和30年)1955年生まれの人の年齢早見表

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掛布雅之の情報まとめ

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掛布 雅之(かけふ まさゆき)さんの誕生日は1955年5月9日です。千葉出身の野球選手のようです。

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プレースタイル、人物などについてまとめました。引退、現在、結婚、テレビ、映画、ドラマ、父親に関する情報もありますね。掛布雅之の現在の年齢は69歳のようです。

掛布雅之のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

掛布雅之の憧球

掛布 雅之(かけふ まさゆき、1955年〈昭和30年〉5月9日 - )は、新潟県三条市生まれ、千葉県千葉市中央区出身の元プロ野球選手(内野手)、野球解説者・評論家、指導者、タレント、YouTuber。大阪府豊中市在住。阪神タイガース現役時代から「ミスタータイガース」(4代目)と称される。

1988年の現役引退後は、野球の解説・評論活動を経て、2013年シーズン終了後にゼネラルマネジャー(GM)付育成&打撃コーディネーター→球団本部付 - (Development Coordinator〈略称:DC〉)として阪神に復帰。2016年から2シーズンにわたって二軍監督を務めた後に、2017年11月1日から2年間、オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー(Senior Executive Advisor〈略称:SEA〉)として活動した。

なお、DC・SEA時代にもフリーランスの野球解説者・タレントとして活動。2020年からは、阪神球団の親会社・阪神電気鉄道が新設した特別職「HANSHIN LEGEND TELLER」(ハンシン・レジェンド・テラー〈略称:HLT〉)に就いている。

実母の郷里である新潟県三条市で出生。その母の実家の数軒隣りにジャイアント馬場(馬場正平、プロ野球読売ジャイアンツからプロレスラーへ転向)の実家があったと言う。その後、1歳頃から、実父の郷里である千葉市(現在の中央区新宿)で生活。珍しい「掛布」姓のルーツは、祖父の出身地・愛知県犬山市辺りにあるのではないかと話している。「雅之」と言う名前は、実父が俳優の森雅之の大ファンだった事から名付けられた。

実父(2006年永眠)は、第二次世界大戦の前に一時、千葉県千葉商業学校教員の立場で硬式野球部の部長と監督を兼務していた。野球部を甲子園球場での全国大会出場に手の届くレベルへ引き上げたものの、後に諸事情で野球と縁を切っていた。大戦中に中国へ渡ると、終戦を機に郷里へ引き揚げ。職業を転々とした後に、料理店を営んだ。

幼少期に剣道を始めると、警察署で稽古に励んでいた。しかし、小学生時代に防具の購入を両親に頼んだところ、両親に拒否されたためやむなく辞めている。実父が第二次世界大戦の後に新制中学校の軟式野球部で監督へ復帰した時期に、実父の下で野球を始める。なお、この時期については、「利き手だった右手を実父から左手に矯正された」という記述の文献が多く見られる。ただし実際には、ペンを持つ時に右手、箸を持つ時に左手を使用。雅之自身も、上記の記述を否定したうえで、「右投げ左打ちになった理由はよく分からない」と述べている。

千葉県内にある習志野市立習志野高校への進学後は、石井好博監督の下で、2年時の1972年に「4番・遊撃手」として夏の選手権千葉大会で優勝。当時は都道府県ごとに甲子園球場での全国大会への出場校を決める体制になっていなかったため、代表校を決める東関東大会へ進出したところ、銚子商との決勝戦で根本隆から先制打を放った末にチームを全国大会へ導いた。もっとも、全国大会では、東洋大姫路高の前に初戦で敗退。3年時の1973年夏の選手権千葉大会では、エースの古屋英夫を擁する木更津中央高と準々決勝で対戦したが、延長11回の末に1-2xでサヨナラ負けを喫した。

なお、習志野高校硬式野球部の同級生には阿部慎之助の実父がいて、掛布とともにクリーンアップを打っていた。また、1975年の第56回選手権大会でエースとしてチームを初優勝に導いた小川淳司は2学年後輩で、在校中の掛布について「竹刀の袋にバットを入れて毎日自宅に持ち帰っていた」と後に述懐している。

学生時代からNPB入りを志望。NPBのドラフト会議を控えた1973年の秋には、実父や叔父が小川善治に対して、ヤクルトスワローズに雅之を入団させるよう掛け合った。小川が当時ヤクルトの二軍監督を務めていたことや、実父が千葉商業学校の野球部長兼監督時代に小川を指導したことによる依頼であったが、小川は依頼を固辞。そこで実父たちは、篠田仁(同校を継承した千葉県立千葉商業高校硬式野球部の元・監督)を通じて、阪神タイガースへの仲介を依頼した。仲介先が阪神であったのは、篠田が千葉商業高校監督退任後の一時期にトレーニングコーチとして在籍していたことや、この年に現役を退いたばかりの安藤統男が、かねてから篠田や掛布の叔父と懇意にしていたことによる。以上の関係を背景に、篠田の依頼を受けた安藤が雅之の入団テストを球団に申し入れたところ、会議直前の11月に甲子園球場で実施する二軍秋季練習への参加を特別に許された。この練習では球団が雅之用のユニフォームを用意しなかったため、安藤が選手時代に使っていた背番号9のユニフォームを裏返しに着ながら、金田正泰監督を初めとする首脳陣の前でテストを受けていたという。結局、1週間にわたる練習の後で、当時のスカウト・河西俊雄が「大学や社会人野球のチームから勧誘されても断る」という条件で雅之に契約を打診。雅之自身も「このチャンスを逃してはいけない」との思いで打診を受け入れたことから、ドラフト会議での6位指名を経て、契約金300万円、年俸84万円(金額は推定)という条件で正式に契約した。背番号は、この年まで6年間にわたってウィリー・カークランドが着用していた31。もっとも、本人は高校野球での実績がNPB入りの水準に達していないことを自覚していて、阪神への入団についても「大好きな野球をいつまでも続けられないのなら、プロ野球で終わった方が納得できる」という程度の認識しかなかったことを引退後に明かしている。

1974年には、一軍内野守備コーチに転じた安藤などから春季キャンプで徹底的な指導を受けた後に、オープン戦へ出場。初めて出場したのは対南海ホークス戦で、野崎恒男から代打で安打を放った。3月21日の対太平洋クラブライオンズ戦(鳴門球場)では、オープン戦ながら「7番・遊撃手」として初めてスタメンに起用。当時の正遊撃手だった藤田平が自身の結婚式で欠場したことによる起用だったが、太平洋のエースだった東尾修から4打数2安打を記録した。さらに、3日後の対近鉄バファローズ戦(日生球場)にも、「8番・三塁手」として再びスタメンで起用。内野の要であった野田征稔(後にマネージャー)が実母の逝去で急遽帰郷したことによる起用ながら、4打数4安打という活躍で一躍注目された。結局、オープン戦で18打数8安打2二塁打という好成績を残したことから、レギュラーシーズンでも開幕から一軍に定着。高校時代までのポジションだった遊撃に藤田が定着していたことから、三塁手として中央大学からドラフト1位で入団した佐野仙好との間で、三塁のポジションを争った。その一方で、ジュニアオールスターにも出場。一軍公式戦全体では3本の本塁打を放ったものの、チームの高卒新人選手による一軍公式戦でのシーズン最多本塁打(1957年に並木輝男が記録した8本)には及ばなかった。

1975年には、藤田の前の正遊撃手だった吉田義男が、一軍監督としてチームに復帰。シーズン当初は、吉田の方針で右打者の佐野と併用されたため、掛布のスタメン出場は右投手の登板が予想される試合に限られていた。掛布は後に、「三塁のポジション争いで『ライバル』と感じたのは当時の佐野さんだけだった」と語っている。しかし、掛布がやがて正三塁手として定着したため、佐野は外野手に転向。掛布自身は高卒2年目にして、一軍公式戦100試合出場と2桁本塁打を達成した。

1976年には初めて規定打席に到達、王貞治を上回る打率.325(リーグ5位)を記録し、同年のベストナインに選ばれる。掛布は、「打撃ベストテンで王さんの上に立てたことが大きな自信になった」と語っている。さらに翌1977年も開幕戦の対ヤクルト戦でエース松岡弘から満塁本塁打を放つ等大活躍し、応援歌「GO! GO! 掛布」も売り出された。この人気に応援団は掛布の打席でヒッティングマーチを演奏するようになった。一説に阪神在籍選手では掛布が最初と言われる。最初の応援歌は「GO! GO! 掛布」のサビであったが、のちに変更された。

1978年7月25日、オールスター第3戦(後楽園球場)での3打席連続本塁打の大活躍でファンに存在感を見せつけた。

1979年にはドン・ブレイザー監督が就任、シーズンを通して3番打者、三塁手として起用される。田淵幸一が移籍した後の主砲としてチーム新記録となる48本塁打(それまでのチーム記録は藤村富美男の46本。その後1985年にランディ・バースが54本で更新したが、日本人選手としては現在も球団記録)を放ち本塁打王となる。またフェリックス・ミヤーンに次ぐ打率.327も残し、リーグを代表する強打者に成長した。シーズン終了後に結婚

1980年には、早稲田大学の大物三塁手だった岡田彰布が入団したことから、シーズン前には三塁のポジションを岡田と争う可能性が報じられていた。このような報道に対して、既にチームの中心選手であった掛布には、岡田に対して佐野ほどのライバル意識は感じていなかったという。掛布は開幕から4番打者・三塁手で起用されたが、4月18日対巨人戦(後楽園球場)で左膝を痛めた影響で、一軍公式戦への出場は70試合にまで減少。成績も前年を大幅に下回ったことから、シーズン終了後には、「掛布を南海に放出、投手数名とトレード」「トレード相手は門田博光」といった内容の「スクープ」が、大阪で発行されるスポーツ紙の1面に出るまでに至った。球団は即座に否定したものの、江夏豊や田淵幸一の放出劇がまだ記憶に新しい頃で、ガセネタでは済まされない内容であった。掛布自身も大きな衝撃を受け、そうした話が出ないようにするよう摂生に努め、翌年から1985年までは5年連続で全試合出場を果たすこととなり、トレードの話も白紙となった。

1981年は自己最高の打率.341(リーグ4位)を記録し、1982年と1984年にも本塁打王、1982年には打点王に輝くなど、田淵に代わる新たな「ミスタータイガース」として人気を博した。1980年代前半は不動の4番打者。また、同学年でもある江川卓との対決は、両者が全盛期だった1980年代前半の名勝負と言われた。1984年に本塁打王を獲得した際には中日ドラゴンズの宇野勝と激しく争い、最後の直接対決2連戦では両者が全打席で敬遠を受けてタイトルを分け合った。この敬遠の応酬についてはセ・リーグ会長が両監督(安藤統男と山内一弘)に注意し、最終的には記者団に謝罪するほどであった。

1985年には3番・バース、4番・掛布、5番・岡田彰布からなるクリーンナップの一角を担って強力打線を形成し、リーグ優勝・日本一に貢献した。同年の対読売ジャイアンツ戦では槙原寛己からバックスクリーン3連発(掛布はバックスクリーン左に入ったため、賞金をもらい損ねていたが、スポンサーの計らいでもらっている)ではバースに続いて本塁打を叩き込み、この年の象徴のように語られている。また、吉田監督は日本シリーズ制覇の会見で、日本一になった要因を聞かれた際「ウチには日本一の四番(打者)がいますから」と答えている。

1986年4月20日、対中日戦でルーキーの斉藤学投手から手首に死球を受けて骨折、連続出場が663試合で途切れた。後年の述懐では、この負傷でそれまで張り詰めていた緊張の糸が切れ、怪我を言い訳にする「弱い自分」が出てきてしまったという。5月中旬に復帰するが、11日後には阪神甲子園球場の巨人戦で三塁守備の際にバウンドが変化した打球に当たって右肩を負傷し、1ヶ月近く欠場。さらに8月26日ヤクルト戦には守備中に左親指骨折で三たび戦列を離脱し、復帰できたのはシーズン終了間際だった。このシーズン後半以降、華麗なバッティングは影を潜めることとなる。

1987年は腰痛で成績が低迷し、チームの調子と歩を合わせることになった。約1ヶ月登録を抹消され、6月にはプロ入り以来初めての二軍落ちも経験した。同年3月に飲酒運転で逮捕され当時オーナーだった久万俊二郎に「大ばか野郎」「欠陥商品」と厳しく断じられた。12月12日、15%ダウンとなる年俸6800万円で契約更改した。

1988年も故障続きでかつての打棒は甦らず、開幕から7月12日対広島戦まで先発出場を続けたが、翌13日に古谷真吾球団代表、高田順弘本部長、村山実監督と話し合って出場を見合わせ、14日に一軍登録を抹消された。9月14日に現役引退を表明。10月10日、阪神甲子園球場でのホーム最終戦(対ヤクルト…ダブルヘッダー第2試合)が「引退試合」となり、多くのファンに見送られてグラウンドを去った。通算349本塁打は阪神の球団最多記録である。

引退に際しては、その若さを惜しんで複数の球団からオファーがあったことをのちに明かしている。ヤクルトスワローズ監督の関根潤三からは、将来は阪神に戻ってもよいという条件を示され、横浜大洋ホエールズ監督の古葉竹識からは「背番号31を用意する」と誘われた。長嶋茂雄からは「1年間二軍にいて、じっくりと体を鍛えて気持ちを切り替えれば」というアドバイスがあったなど、掛布の身の振り方を尊重した内容であったが、田淵がかつてトレードに際して「今度はお前だぞ。お前は、江夏や俺のように途中で縦縞のユニフォームを脱ぐようなことはするなよ」と言った言葉が頭にあり、現役を続けるなら阪神でなければならないと考えて固辞。引退試合の後、コーチだった中村勝広から「最近は阪神の歴代の主力選手が、こんな引退試合をしたことはなかった。新しい阪神の歴史を作ったな。惜しまれながら球場全員が涙する。お前が道筋を作ったおかげで、これからはこうやって阪神の選手が辞めていくことができるだろう」という言葉をもらったと述べている。

引退後は1989年から2015年までは報知新聞の野球評論家、1989年から2008年までは日本テレビ・読売テレビ・ラジオ日本の野球解説者、2009年から2012年まではMBSラジオの野球解説者(2009年のみゲスト解説、2010年から専属)、2013年から2015年まではサンテレビ・スカイ・エーの野球解説者を務めた。

2013年までは、アメリカ・マイナーリーグの臨時コーチを務めただけで、プロ野球を本格的に指導した経験はなかった。 1991年、ロッテオリオンズが千葉移転の際に千葉出身の掛布が監督候補に挙がり、オーナー代行重光昭夫とも一度話したことがあったが、「野球観が合わない」との理由で物別れに終わったという。

東北楽天ゴールデンイーグルスの発足当初(2004年秋)には監督の就任要請を受けたが辞退。掛布自身は後に、球団オーナーの三木谷浩史と直接会談していたことを告白。自身が望む監督像をめぐって、経営上の収益が出せることを強く求めた三木谷との間で意見が食い違ったことを辞退の原因に挙げている。

2013年10月21日には、阪神球団からの発表で、新設のゼネラルマネージャー付育成&打撃コーディネーター(DC)に就任することが判明。現役引退から25年振りに阪神へ復帰するとともに、同年11月の秋季キャンプから打撃や内野守備の指導を始めた。ただし、DCは非常勤扱い・背番号およびベンチ登録なしの特別職であるため、就任後も野球解説者・評論家としての活動を継続。また、契約上ユニフォームのうちズボンの着用しか認められなかったことから、選手への指導中には球団から支給されるジャンパー、トレーニングウェア、シャツを上着に用いていた。

なお、現役引退当時のコーチでもあったゼネラルマネージャーの中村が2015年9月23日に急逝したことから、球団では同年10月1日付の人事異動で当面の間ゼネラルマネージャー職を廃止。この廃止を機に役職を「球団本部付育成&打撃コーディネーター」に変更した。

しかし、「掛布さんとは野球観が合う」という金本知憲がその直後から一軍監督へ就任したことを受けて、球団社長の南信男が二軍監督への就任を要請。10月21日には、DCの立場でフェニックスリーグに帯同していた掛布が、前日(20日)にこの要請を受諾したことが一部で報じられた。

阪神球団は2015年10月26日に、掛布を二軍監督として正式に契約。翌27日には、二軍監督へ就任することや、現役時代と同じ背番号31を着用することを正式に発表した。契約期間は2年で、掛布が阪神のユニフォームを正式に着用するのは、現役引退以来27年振り。阪神の選手や首脳陣が背番号31を着用するのは、林威助外野手の退団(2013年)以来2年振りであった。ちなみに、二軍監督へ就任した背景には、DC時代に中村から「(自身と同じ左打者で2014年に入団した)横田慎太郎を一人前の打者に育てて欲しい」というリクエストを受けていたことも挙げられる。

二軍監督の就任後は、厳しいプロ意識を若手選手に植え付けながら、選手の自主性を重んじる指導でチームの底上げに尽力。DC時代から指導してきた伊藤隼太・中谷将大・原口文仁などを一軍へ定着させたほか、2016年の春季キャンプでは、新人外野手の髙山俊に対するマンツーマン指導によって、高山によるセ・リーグ新人王獲得への礎を築いた。また、横田も同様の指導で頭角を現したため、金本は一軍のレギュラーシーズンの開幕戦から一時「1番・高山、2番・横田」というスタメンを実現させていた。

2017年には、新人内野手の大山悠輔に対して、金本による長期育成計画の下で3月から英才教育を実施。大山は、7月から一軍へ昇格すると、8月終盤から一軍公式戦のスタメンで4番打者を任されている。その一方で、右打者だった大和によるスイッチヒッターへの転向や、故障で戦線を離脱していた糸井嘉男・西岡剛のリハビリなど、中堅・ベテラン選手のサポートにも力を注いだ。

二軍監督への在任中は、現役時代からのネームバリューの高さを背景に、球団主催のウエスタン・リーグ公式戦で二軍なのにもかかわらず、満員札止めや1万人台の観客動員が相次いだ。2016年の終盤以降は、現役選手時代の経験から若手選手に猛練習を求める金本との間で、育成方針やウエートトレーニングに対する認識の違いが徐々に露呈。阪神球団も、翌2018年に向けたチーム方針の転換や二軍首脳陣の世代交代を視野に、「二軍監督としての掛布の役割は、契約期間の2年間で十分に果たされた」と判断した。このため、2017年シーズン終盤の9月8日には、同年10月31日の契約期間満了を機に二軍監督としての契約を更新しないことを通告。2018年シーズンからオーナー付アドバイザーへ就任することを要請する一方で、9月10日には、2017年シーズン限りで二軍監督を退任することを正式に発表した。さらに、二軍監督として最後に采配を振る主催試合(9月28日のウエスタン・リーグ対広島最終戦)で使用する球場を、阪神鳴尾浜球場(スタンドの収容人数500人)から甲子園球場(二軍戦で開放する内野スタンドに28,465席を設置)へ急遽変更。平日のデーゲームにもかかわらず、7,131名もの観衆が内野スタンドで見届けたこの試合を、監督在任中最多の16得点による大勝で締めくくった。なお、試合後のインタビューでは、自身初の監督生活を「僕を若返らせてくれた2年間だったが、ちょっと短かったかな。ただ、若い選手たちが着実に力を付けてきている。その意味では、非常に濃い2年間だった」という表現で述懐。その後にナインが胴上げの場を設けようとしたが、監督在任中にチームをウエスタン・リーグ優勝へ導けなかったことを背景に、「胴上げとは勝者(優勝チームの監督)や現役を退く選手がされるものであって、自分はその身ではない」という理由で胴上げを固辞した。

なお、上記の最終戦の後には、掛布を支えた古屋英夫野手チーフ兼育成コーチ、久保康生投手チーフコーチ、今岡真訪打撃兼野手総合コーチが相次いで退団。この時点で掛布は二軍監督としての契約期間を残していたが、後任の監督が決まるまで山田勝彦バッテリーコーチが二軍監督代行として指揮を執った。なお、2017年10月23日には、山田が2018年シーズンから一軍バッテリーコーチ、一軍作戦兼バッテリーコーチの矢野燿大が二軍監督へ異動することが球団から発表された。

2017年10月27日に、阪神球団が「オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー(SEA)」という役職を新設したうえで、掛布を同年11月1日付でSEAに就任させることを発表した。掛布がプロ野球球団でフロントの役職に就くことは初めてで、チーム編成に関するオーナーへのアドバイスや(二・三軍を含む)他球団の視察などの役割を担ったが、契約期間の満了を機に2019年10月31日で退任。同日付で阪神球団をいったん退団した。

その一方で、SEA在任中の2018年シーズンからは、サンテレビ、スカイ・エー、MBSラジオ、日本テレビ、読売テレビの阪神戦中継でゲスト解説者として再び出演。2020年2月14日から2週間限定で公開されている阪神タイガース創立85周年記念ドキュメンタリー映画『阪神タイガース THE MOVIE~猛虎神話集~』(製作:『TIGERS THE MOVIE』製作委員会、配給:KADOKAWA)では、阪神の関係者を代表してナビゲーターを務めている。

2020年1月からは、阪神電気鉄道(阪神タイガースの親会社)と契約したうえで、新設ポストの「HANSHIN LEGEND TELLER(ハンシン・レジェンド・テラー)」へ就任。NPB史上初の特別職で、野球解説者・タレントとしての活動と並行しながら、野球全般の振興に関する助言役や、現役時代の活躍を知る人物が多い関西財界とのパイプ役を担う。また、2015年以来5年振りに、報知新聞社野球評論家としての活動を再開している。

プレースタイル

打撃

早い時期にレギュラーの座を獲得したが、レギュラー定着から数年間は中距離打者であった。しかし、チームの主砲であった田淵が1978年のオフに移籍したことで、長距離打者になる道を選ぶ。長距離打者としては小柄な部類に属する掛布は、猛練習による肉体改造と打法の改良に取り組み、強靱な体と長距離打者としての打法を身に付けることで打球をスタンドまで叩き込んだのである。同僚だったランディ・バースは「バッティングは引っ張っても打てたし、流しても打てたからね。完璧だったよ。日米野球だったと思うけどジョージ・フォスター(元シンシナティ・レッズの大打者)が彼のバッティングを見て、『このチビは、なんであんなにボールを飛ばせるんだ!』って聞いてきたことがあったほどだぜ。なにしろ腰の回転が凄かった。腕力はなかったけど、下半身の回転で打つ選手でミートも上手かった。右投手も左投手も苦にしなかったね。」と評している。しかしこの打法は体への負担も大きく、選手寿命を縮める一因ともなった。掛布自身、「体が大きくない僕が、ホームランを30本、40本まで増やすためには肉体的にはかなりの無理をしていた」と述べている。甲子園球場で本塁打を量産するために、左打者にとっては厄介な存在であった浜風と喧嘩するのではなく、逆に利用しようと研究を重ね、逆方向であるレフトスタンドへ本塁打を量産する、独特かつ芸術的な流し打ちを身に付けた。以降、レフトへの本塁打が飛躍的に増え、球界を代表するホームランバッターの一人となった。

本塁打は「狙って打つもの」と考えており、「ホームランの打ち損じがヒット」というイメージを持っていた。ただし、負傷による不調から復帰した1981年には「4番として全試合出場」を目標としたため、本塁打を意識しない打撃に徹した。その結果、フル出場を果たすとともに打率も.341という高い数字(自身の最高打率)を残したが、そのオフのイベントでファンから「もうちょっとホームランを見たい」(この年の本塁打は23本)と言われたことがきっかけで再び本塁打を意識した打撃に変更したという。掛布は引退後に、この1981年が「一番自分らしかったのかもしれない」と語り、「今でも自分がホームランバッターとは思っていない。(1981年のバッティングをやれれば)違うバッティング、違う掛布があったのかな、という思いが今でも強い」という。

セリーグ審判部長を務めた田中俊幸は、著書『プロ野球 審判だからわかること』で、攻守の技術に優れ審判に対する態度も良かった選手として、掛布を高く評価している。特に打撃面では、「掛布の打球はバットに当たった瞬間、ほんの一瞬だが消えた」と証言している。これは、「掛布がボールを手元まで呼び込み、それを速いスイングにのせて弾きかえすので、ボールがバットにへばりついている間、見えなくなったのではないか」と推測し、「闘魂ドラマに出てくるようなワザ」と称している。

投手の癖を観察して球種を予測する事を途中からしなくなった。これは、大洋時代の野村収と対戦した際に、「癖を見破っている」と思って打ちに行ったところ、頭部への死球となり、癖を見て判断することへの怖さが生じたからだと述べている。

江川卓は著書『江川流マウンドの心理学』(廣済堂出版、2003年)で「掛布の弱点はインコース高め」と指摘し、掛布自身も対談で「インコースは弱い」と認めている。しかし、「4番打者の強さ」を相手投手に見せつけるため、インコースに投げられたボールのコントロールミスをライトスタンドへの強烈な本塁打にすることを意識していた。引退への発端となった1986年の死球の際も、ライトに引っ張る本塁打を打つためにインコースを待っていて起きたと述べている。

現在は手首の保護目的でリストバンドを着用している選手が少なくないが、これを最初に始めたのが掛布である。一方、父親の教えもあり、バッティンググローブを使用せず素手でバットを持つことに引退までこだわり続けた。ただし守備時はグラブの下に手袋をはめており、バッティングの際はその手袋を尻ポケットに入れていた。その様子がサルのしっぽに似ているとやくみつるが漫画のネタにしたことがある。現役後半にはローカットタイプのストッキングを愛用。それが掛布スタイルの代名詞となった。

プロ15年間、公式戦ではサヨナラ本塁打を打ったことが一度もなく、サヨナラ安打も1本のみである。オールスターゲームには強く、1978年には3打席連続本塁打の記録を残している。また、1981年にも第2戦から第3戦にかけて3打席連続本塁打を記録しており、そのうち2本目が公式戦では記録しなかったサヨナラ本塁打であった。現役最終年の1988年4月26日対大洋戦(甲子園)にはプロ時代唯一のランニングホームランを記録している。

守備

入団当初は、三塁手以外に遊撃手及び一塁手として公式戦に出場したことがある。守備については、現役時代に三塁手でダイヤモンドグラブ賞を6度受賞。ただし、これに関してプロ野球記録の調査・分析で知られた宇佐美徹也は「ほかに特にうまい選手がなく恵まれた感じが強い」と記している。吉田義男は初任監督時代の掛布の守備を「やや粗雑だが肩は強かった」と記し、ジョージ・アルトマンやハル・ブリーデンといった体格が大きかったり捕球技術に優れたりした一塁手に恵まれたことで、成長が促されたと評している。

好敵手・江川卓

高校時代、練習試合で作新学院と対戦する機会があったが、江川が登板する前に掛布は死球を受けて交代したため、直接の対戦はなかった。もしこのとき打席に立っていたらトラウマになってプロ入り後も打てなかったのではないか、と掛布は語っている。プロ入り後、ある時期まで江川は掛布に対する初球は必ずカーブを投げた。しかし、掛布はそれを見送り、ストレートを待って勝負したという。また、一度だけ江川が掛布を敬遠したとき(1982年9月4日、甲子園球場での試合)にはその球が異常に速かったという。掛布と江川の通算対戦成績は、167打数48安打で打率.287、14本塁打21三振33打点。このうち本塁打数は山本浩二と並んで江川の最多被本塁打打者である。

掛布は江川について「ストレートへの強いこだわりを持ったボールを感じさせてくれた唯一の投手」という評価をしている。また、お互いが相手との対戦が自身の調子を測る「バロメーター」となっていたことを認めている。

人物

この元プロ野球選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。出典を明記するためにご協力をお願いします。(2010年6月)

人物像

酒癖は悪いが、ギャンブルとタバコは全くやらない。

現役時代から球界屈指の大変な車好きとして知られる。実物の車のみならず、模型やラジコンカーも好み、自身のカスタムカーには31のゼッケンを入れていたほどである。現役時代は車内が「一人になれる空間」として大事で、独身時代にはガレージの車にしばらく座って合宿所の部屋に戻ることもしていたという。

現役時代には、美津和タイガーが製造・販売する「虎印」ブランドのバットやグラブを愛用。同社のアドバイザリースタッフとして、事あるごとに職人へ細かい注文を出しつつも、野球用品メーカーとしての技術や対応を高く評価していた。1985年には、シーズン前の2月20日に同社が破産した後も、シーズン終了まで「虎印」のバットを使用。その経験から、解説者や阪神のDCに転身してからも、野球道具にこだわりを持つことを若手選手に求めている。ちなみに、DCへの就任直後には、「虎印復活」と銘打った美津和タイガー(破産後新たに設立した会社)の記者発表会へ同席。自身の名を冠した復刻モデルの製造・販売のPRに一役買っていた。

現役時代の1985年から、債務処理に関する問題(詳細は後述)が報じられるようになった2009年頃までは、サイドビジネスを手広く展開していた。そのきっかけは、美津和タイガーの破産で再就職先を探す必要に迫られた元社員への一時的な受け皿として、大阪府豊中市にある自宅の近くにスポーツカジュアル用品店の「スポーツハウス・フィールド31」を開いたことにある。ただし、阪神選手としての年俸ではスタッフとして雇用した元社員全員の給料を賄い切れなかったことから、自宅近くの通称「ロマンチック街道」沿いに個人事務所の「掛布企画」名義で「ほっとこーなー」という広島風お好み焼き店も開いた。広島風お好み焼き店になったのは、プロ入り後初めての広島遠征をきっかけに、本場の広島風お好み焼きを好んだことによるという。なお、一時は京阪電気鉄道の天満橋駅付近で「参拾壱 ほっとこーなー」という地鶏の店を営んだほか、「掛布企画」とは別に「掛布」というプロダクション会社を設立。「スポーツハウス・フィールド31」については、スタッフ全員の進路が決まったことを機に閉店している。

解説を行う際は選手の名を言うときは語尾に「~君」と敬称を付けることが多いが、外国人選手のときにはそれが付かないことが主。ただし、若くして引退したため、解説者になった当初は現役時代の同僚だった真弓明信や阪神以外にも中畑清、落合博満、村田兆治といった自身より年上の現役選手も多くいたため、そういう選手に対しては「~選手」と敬称を付けていた。阪神のDCになってからは阪神の選手に関して敬称をつけて呼ばなくなっている。また、「非常にこう」「やはりこの〜」「〜ですね、ええ」などといったフレーズを多用。末尾は「ええ」「はい」で完了することが多い。また「ファースト」を独特の発音で「ホワスト」「ホワァースト」と言う癖があり、掛布のモノマネで知られる松村邦洋が好んで掛布独特の発音を再現している。

サイン色紙に常に記す言葉は「憧球」である。

人間関係

2年目の1975年6月に甲子園球場の対ヤクルト戦で、1点ビハインドの6回表2死満塁の場面に三塁ゴロをトンネルし、そこから大量失点を招いて敗れた。試合後、ロッカールームに入れず、扉の前でしゃがみ込んでいたところに先発投手の江夏豊が通りがかり、「なにしてんだ、バカ。気にするな」と声を掛けたという。

長嶋茂雄のことを敬愛している。デビューした年の5月21日の対巨人戦でプロ入り初安打を記録したとき、掛布は三塁を狙ったが長嶋にタッチアウトされた。しかし、「憧れの長嶋」にタッチされたことが嬉しくてたまらなかったという。長嶋は掛布の結婚披露宴で「君には巨人戦で数多くのホームランを打たれて悔しい思いもした。だが、君は千葉の後輩なんだ。悔しいが、誰にも負けない大きな拍手を、心から君のホームランには贈っている」とスピーチし、掛布も「長嶋巨人を倒すことが長嶋が最も喜ぶことだ」と考えたという。

新人時代、対巨人戦で安打で出塁した際、王貞治に「いつあんなバッティング覚えたんだ」と声を掛けられ、「あぁ、見てくれていたんだ」と自信がついたという。王とあまり言葉は交わさず、そのときだけ声をかけられた。一方、長嶋茂雄は三塁で「君はいくつなんだ?」などといった声をかけてきたとのこと。

長嶋が評論家に転じたのち、スランプに陥っていた掛布は長嶋に電話で助言を求めたことがある。すると長嶋曰く「そこにバットある? あったら振ってみて」。首をかしげながら掛布は素振りの音を電話越しに長嶋に聞かせた。音を聞いた長嶋は「雑念を取り払え、無心で振れ!」と言う。今度は無心でバットを数度振り、音を聞かせる。すると「そうだ、今のスイングだ。忘れるな!」と言い、電話は終わった。その後、掛布はスランプを脱したという。

ライバルであった江川卓とは、現役当時はオールスターゲームの際に会話する程度であった。しかし、引退後にともに解説者として仕事をするようになってから親交が深まり、現在は親友の間柄となっている。

現役時代、ともに主力選手であった岡田彰布との間で不仲説やそれぞれの「派閥」があるような記述が当時のスポーツ紙などでみられた。これについて岡田は2008年の著書で、入団後に飲食をともにしなかったことは事実としながらも不仲説は否定しており、そうしたマスコミの記述を「一緒に行かないから=仲が悪いと決めつけられても困る」と批判的に記している。岡田は、掛布の引退試合の際に「後は頼むぞ」と言われたことが、「初めての2人の本音の会話だったかもしれない」と述べている。

元巨人の阿部慎之助の父親は掛布の習志野高時代の同級生で、同じく野球部に所属していた。3年生時に主将だった掛布は、後輩に厳しく当たる役は阿部の父に「押しつけていた」と後年述べている。高校時代は阿部の父親が4番を打っており、掛布は3番打者だった。今でも阿部の父親とは深い親交があり、阿部が子供の頃から掛布に憧れていたのはこの縁に由来する。

ものまねタレントの松村邦洋によくものまねされている。初期の頃は「阪神よりも下半身がいいですねー。」や「昼は解説・夜はワイセツ」といったダジャレに下ネタを織り込んだものまねをしていたため、本人は少々迷惑がっていたが、これをきっかけに親交は深くなった。松村の話によると、自分の家に一般人が平気で訪れたり悪戯電話をかけるなど嫌がらせが絶えなかった時代に、掛布の声で電話があり、はじめは悪戯と思ったが、本物の掛布であることが分かり感動したという。掛布自身もバラエティ番組にゲスト出演した際に様々なタレントから松村の事で突っ込まれており、『いつみても波瀾万丈』にゲスト出演した際に間寛平から「野球中継で顔出ししない時は松村に(替え玉で野球解説を)やらせてみては?」と言われている。

2024/06/14 01:17更新

kakefu masayuki


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