もしもし情報局 > 皇族 > 東京都 > 皇太后良子

皇太后良子の情報 (こうたいごうながこ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月1日】今日誕生日の芸能人・有名人

皇太后良子の情報(こうたいごうながこ) 皇族 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

皇太后 良子さんについて調べます

■名前・氏名
皇太后 良子
(読み:こうたいごう ながこ)
■職業
皇族
■皇太后良子の誕生日・生年月日
1903年3月6日 (年齢97歳没)
卯年(うさぎ年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
東京出身

皇太后良子と同じ1903年生まれの有名人・芸能人

皇太后良子と同じ3月6日生まれの有名人・芸能人

皇太后良子と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


皇太后良子の情報まとめ

もしもしロボ

皇太后 良子(こうたいごう ながこ)さんの誕生日は1903年3月6日です。東京出身の皇族のようです。

もしもしロボ

生涯、年譜などについてまとめました。姉妹、現在、事件、家族、結婚、映画、事故に関する情報もありますね。97歳で亡くなられているようです。

皇太后良子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年〈明治36年〉3月6日 - 2000年〈平成12年〉6月16日)は、日本の第124代天皇・昭和天皇の皇后(在位: 1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は、良子(ながこ)。お印は、桃。

久邇宮家出身の生まれながらの皇族であり、誕生から昭和天皇の践祚以前は、名と身位は「良子女王(ながこじょおう)」と称され、皇室典範における敬称は「殿下」であった。

1924年(大正13年)1月26日に摂政宮皇太子裕仁親王(のち昭和天皇)と成婚し、2男5女を儲けた。1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、大正天皇の崩御及び昭和天皇の践祚に伴い、皇后に冊立された。

1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が崩御し、第1皇男子の皇太子明仁親王(上皇)が第125代天皇に即位し、その妃美智子が立后して皇后となったことに伴い、自身は皇太后となった。1996年(平成8年)3月6日に満93歳となり、藤原寛子(後冷泉天皇后)の数え年92歳を抜いて神代を除いては歴代最長寿となった。

2000年(平成12年)6月16日に崩御し、当時の天皇(平成年間)勅定により「香淳皇后」と追号された。

夫たる昭和天皇が神代を除いた歴代天皇のうち最長在位であるように、香淳皇后自らも歴代皇后の中で最長の在位(62年と14日間)であり、神代を除き最長寿(満97歳没)である。また、皇族出身である直近最後の皇后かつ皇太子妃である。

2019年(令和元年)の第126代今上天皇践祚/即位時において、昭和天皇・香淳皇后夫妻が皇位継承権を有する3人の親王(秋篠宮文仁親王・悠仁親王・常陸宮正仁親王)の最近共通祖先にあたる。

生涯

良子女王の誕生に際し、久邇宮家は宮内省を通じて乳人を募集し、各県知事から6人の女性が推薦されていた。最終的に埼玉県の旧家から、子を死産したばかりの関根もん(当時20歳)が選ばれた。もんの回想によれば、良子女王は幼少から母の俔子妃が驚くほど、食欲旺盛で健康であった。久邇宮家は質素な生活ぶりで、良子女王の産着も、もんが他の衣類を仕立て直したものだった。優しい一方しっかりとした性格で、三姉妹の長女として妹宮達の面倒も良く見、2人の妹(信子女王・智子女王)が彼女の行動を全て真似ることもあった。

満7歳頃(1910年撮影)
満7歳頃(1910年撮影)

久邇宮家の三女王(1912年撮影)
久邇宮家の三女王(1912年撮影)

1907年(明治40年)9月2日、学習院女学部幼稚園に入園。足立たかの回想によると幼稚園では皇族は他の在籍児童らとは別室で昼食をとるが、そのとき妹の信子女王の他、後に自身と結ばれる迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)と淳宮雍仁親王(後の秩父宮)と同室であった。教諭の野口幽香子は、この様子を見て迪宮と良子女王の縁組を予感した。

1909年(明治42年)、学習院女学部小学科入学。小学科2年生の時、授業に出たタライが分からなかったことを機に、自ら洗濯の仕方を学び、後年まで侍女たちと共に洗濯をするようになった。

1912年(明治45年/大正元年)7月30日、後の義祖父に当たる明治天皇の崩御後、母・俔子妃や妹宮とともに昭憲皇太后の元へ弔問のため参内し皇太后の目に留まる。

1915年(大正4年)、学習院女学部中学科進学。前年1914年(大正3年)4月9日に崩御した昭憲皇太后の遺志によって、1915年(大正4年)夏に迪宮裕仁親王が学友らと箱根の神山登山をした際、良子女王は同地の宮内旅館での見送りの一員に加わった。

1916年(大正5年)11月3日、迪宮裕仁親王の立太子の礼が行われた。この頃から、貞明皇后は学習院女学部へ、式典以外でも行啓して少女たちの態度を観察するようになった。学友達の回想では、少女たちがはしゃぎまわる中でも、良子女王は行儀よく落ち着き、また動作も機敏であったという。やがて良子女王は、上級生の方子女王や(後、李王垠妃、戦後に大韓民国国籍取得)同級生の一条朝子(後、伏見宮家の博義王妃)とともに、皇太子裕仁親王の有力な妃候補とみなされるようになる。

英照皇太后は九条家、昭憲皇太后は一条家、貞明皇后は九条家であり、一条朝子が有力視された。しかし、方子女王は皇太子と同い年であることが、一条朝子は血縁的に近すぎることがそれぞれ懸念され、良子女王が皇太子妃に内定するに至った。

1918年(大正7年)1月14日、宮内大臣波多野敬直子爵から、第15師団長として愛知県豊橋市に赴任していた父・久邇宮邦彦王に、良子女王が皇太子裕仁親王の妃に内定したことが伝達された。邦彦王はただちに帰京し、参内して、内約を受諾する旨を大正天皇・貞明皇后に言上した。

1月19日に報道発表されると、2月4日の学習院の朝礼で、婚約内定に伴い中途退学したことが発表された。4月13日以降は久邇宮邸内に設置された学問所で皇太子妃になる為の教育を受ける。学問所は“お花御殿”と呼ばれ、妹宮たちのほか、親しい学友である佐藤貞子(佐藤達次郎の長女、加藤成之男爵夫人)や平山信子(平山成信の五女)が学習院の授業を終えた後に通い、共に学んだ。学問所での教育は2、3年の予定だった。学問所では、教育主任の後閑菊野と起居を共にし、学問や教養、テニスや薙刀等広範に学び、またピアノを神戸絢子に師事した。

なお、皇太子妃教育のために創設されたお花御殿の建物はその後に東京市麻布区日ヶ窪(現・東京都港区麻布十番)にあった東京府立第三高等女学校(府立三女)に下賜された。第二次世界大戦後の学制改革などにより府立三女が現在の東京都立駒場高等学校と改名し、校舎を現在の目黒区大橋に移転した後、お花御殿の建物も現校地へ移築し、「仰光寮」として保存されている。

1919年(大正8年)になって、皇太子裕仁親王は自身の婚約を知った。同年6月、貞明皇后は自身が皇太子妃になった際に昭憲皇太后から贈られたダイヤモンドの腕輪を嫁になる良子女王に与えた。また11月4日、久邇宮夫妻は皇太子を渋谷の久邇宮邸に招き、良子女王と対面の機会を設けたが、儀礼的であり言葉も交わさなかった。

1921年(大正10年)11月25日、裕仁親王は摂政に就任した。また同年に入って母系島津家に色盲の遺伝があり、皇太子妃として不適当として元老山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退を迫った、いわゆる"宮中某重大事件"が起こる。事件の内容は極秘扱いされたが、世上さまざまな憶測が流れ、中でも宮中に影響力を保持しようとする山縣の策略とする見解が強かったため久邇宮家に同情が集まり、原敬首相(原内閣)らの反山縣勢力が山縣追い落としにこの事件を利用したこともあって、最終的には翌年2月10日に宮内省から「良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし。」の発表が行われて事件は決着した(翌日付で新聞記事解禁)。

事件に際し、父邦彦王は貞明皇后に対し、宮内大臣の調書のみで辞退はできぬと上奏し、これが皇后を動かしたとされる。婚約内定から本事件まで、良子女王を写真付きで報じた記事は5本しかなかった。ところが、事件勃発以降、英字誌『The Far East』を皮切りに、良子女王が将来の皇太子妃・皇后に相応しい徳(資質)を有する少女であることをアピールする記事が多数発表されるようになった。情報源は、良子女王の家庭教師後閑菊野や宮務監督栗田直八郎らが中心であり、良子女王の作文や写真も掲載されていることから、久邇宮家側によるメディア工作が行われたと考えられている。

また事件を通じ、良子女王に好印象を抱いていたはずの貞明皇后が、辞退もせず、岳父としての政治的野心を見せ始めた邦彦王に立腹して、婚約に消極的になった。

事件の決着後、皇太子は史上初めてとなる外遊を行った(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。皇太子はそこで英国王室の歓待を受け、一夫一妻制の確立に影響を受けた。また、フランスでお忍びで買い物に行った際には、久邇宮家の三姉妹のために銀の手鏡を購入して贈った。1922年(大正11年)1月22日、皇太子は宮内大臣牧野伸顕を呼び寄せ、将来の家族のプライベートな環境を保つため、女官の通勤制について意見を述べた。

koutaigou nagako


皇太后良子と同じ誕生日3月6日生まれ、同じ東京出身の人

芥川 隆行(あくたがわ たかゆき)
1919年3月6日生まれの有名人 東京出身

芥川 隆行(あくたがわ たかゆき、1919年〈大正8年〉3月6日 - 1990年〈平成2年〉10月2日)は、日本の元アナウンサー、ナレーター、司会者。本名は同じ。東京府(現・東京都)出身。 1951…

嗣永 桃子(つぐなが ももこ)
【ハロプロ】
1992年3月6日生まれの有名人 東京出身

嗣永 桃子(つぐなが ももこ、1992年〈平成4年〉3月6日 - )は、日本の元アイドル、元歌手、元タレント、元女優。ハロー!プロジェクト・キッズを経て、Berryz工房のメンバー、Buono!のリー…

筧 美和子(かけい みわこ)
1994年3月6日生まれの有名人 東京出身

筧 美和子(かけい みわこ、1994年3月6日 - )は、日本のグラビアアイドル、タレント、俳優。 東京都出身。プラチナムプロダクション所属。 デビューのきっかけは、高校在学中の2011年、友人と…

安藤 和津(あんどう かづ)
1948年3月6日生まれの有名人 東京出身

安藤 和津(あんどう かづ、1948年3月6日 - )は、東京都台東区出身のエッセイスト、タレント。戸籍名は安藤 和子(あんどう かずこ、旧姓:荻野→犬養)。 東京柳橋に、荻野昌子と犬養健の子とし…

中山 史奈(なかやま ふみな)
1985年3月6日生まれの有名人 東京出身

中山 史奈(なかやま ふみな、1985年〈昭和60年〉3月6日 - )は、東京都出身の元グラビアアイドル、元タレントである。本名、根中 景子(ねなか けいこ)。元ジールアソシエイツ所属で、活動期間は1…

田口 珠美(たぐち たまみ )
1970年3月6日生まれの有名人 東京出身

田口 珠美(たぐち たまみ 1970年3月6日 - )は、日本の元タレント、元女優。東京都出身。 日本テレビのJリーグ中継のレポーターや同局のバラエティ番組『投稿!特ホウ王国』のレポーターを務めた…

宇津宮 雅代(うつのみや まさよ)
1948年3月6日生まれの有名人 東京出身

宇津宮 雅代(うつのみや まさよ、1948年〈昭和23年〉3月6日 - )は、日本の女優。東京都葛飾区出身。宇都宮雅代は誤り。 青山学院女子短期大学卒業。中退。 文学座付属演劇研究所第8期生を経…

福永 泰(ふくなが やすし)
1973年3月6日生まれの有名人 東京出身

福永 泰(ふくなが やすし、1973年3月6日 - )は東京都町田市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー、フォワード。 桐蔭学園時代は林健太郎と同級生で、戸倉健一郎…

森下 知哉(もりした ともや)
1979年3月6日生まれの有名人 東京出身

森下 知哉(もりした ともや、1979年(昭和54年)3月6日 - )は、フジテレビジョン報道局記者であり、同局元アナウンサー。 東京都出身。小学校1年から5年までイギリスで生活したため英語は得意…

荒木 道子(あらき みちこ)
1917年3月6日生まれの有名人 東京出身

荒木 道子(あらき みちこ、1917年3月6日 - 1989年3月24日)は、日本の女優。元夫は文芸評論家の菊池章一。息子は俳優・歌手の荒木一郎。 1917年(大正6年)3月6日、東京府東京市神田…

藤村 有弘(ふじむら ありひろ)
1934年3月6日生まれの有名人 東京出身

藤村 有弘(ふじむら ありひろ、1934年〈昭和9年〉3月6日 - 1982年〈昭和57年〉3月16日)は、日本のコメディアン・俳優・声優。東京都千代田区神田出身。 幼少期より芸能活動を行い、俳優…


TOPニュース

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表 

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

ねじねじファッションの中尾彬(なかおあきら)が死去

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕

元子役の若山耀人容疑者、殺人容疑で再逮捕


皇太后良子と近い名前の人

皇太子 徳仁親王(こうたいし なるひと)
1960年2月23日生まれの有名人 東京出身

徳仁(なるひと、1960年〈昭和35年〉2月23日 - )は、日本の第126代天皇(在位: 2019年〈令和元年〉5月1日 - )。御称号は浩宮(ひろのみや)、お印は梓(あずさ)。敬称は陛下。勲等は大…

皇太子妃 雅子(こうたいしひ まさこ)
1963年12月9日生まれの有名人 東京出身

雅子(まさこ、1963年〈昭和38年〉12月9日 - )は、日本の第126代天皇・徳仁の皇后(在位: 2019年〈令和元年〉5月1日 - )。皇族。元外交官。お印はハマナス。敬称は陛下。勲等は勲一等。…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
皇太后良子
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア