訪欧の途上、米国ニクソン大統領・パット夫妻と懇談(1971年9月26日)
オランダ訪問時(1971年10月8日)
西ドイツ発行の訪欧記念切手スタンプ
1976年(昭和51年)には政府主催の「天皇陛下御在位五十年記念式典」に出席し祝賀を受けるものの、この頃から心身に老いの兆候が目立つようになる。翌年の夏に那須御用邸内で転倒した際に腰椎を骨折。側近はこのことを伏せ、適切な治療が遅れたため完全な回復は不可能な状態となる。この事故を境に認知症など心身の老いの兆候は顕著になった。歩行に際しても杖を用いることが多くなり、散歩の際に天皇が手を引く姿も見られた。式典・行事に際しても北白川女官長らが介添えしていた。
1984年(昭和59年)に成婚60周年を迎え、同年夏には新婚時代を過ごした猪苗代湖畔の天鏡閣を再訪した。天皇は折に触れて皇后を気遣い、1986年(昭和61年)3月6日の皇后誕生日に際しては手をつないだ写真が公表され、翌1987年(昭和62年)4月21日の昭和天皇の生涯最後の記者会見でも「なるべく皇后のペースに合わせるよう心がけています」と発言している。
可能な限り式典などの公務に出席を続けていたが、1986年(昭和61年)1月2日の新年祝賀・4月29日の天皇誕生日祝賀を最後に出席できなくなり、同年に政府主催で開催された「天皇陛下御在位六十年記念式典」は欠席。同年9月30日以降は日課にしていた散歩も取り止めるようになる。車椅子を頻繁に利用するようになり、1987年(昭和62年)12月11日、新年用の写真撮影後に軽い心臓発作を起こし、翌年以降は一般参賀にも欠席するようになった。
1989年(昭和64年)1月7日、夫・昭和天皇の崩御に伴い皇太后となる。昭和天皇崩御の直前には、北白川女官長らわずかな側近と共に天皇を見舞い、二人だけの別れの時間を持った。その後、午前6時33分、皇太子明仁親王を含め5人の子(鷹司和子、池田厚子、常陸宮正仁親王、島津貴子)が見守る中、昭和天皇の最期を看取った。吹上御所は吹上大宮御所と改称され、引き続き良子の住まいとなった。
同年(平成元年)2月24日に、内閣の主催で行われた昭和天皇の大喪の礼(委員会委員長・竹下登首相)も欠席し、皇太后名代を常陸宮正仁親王妃華子が務めた。この年には昭和天皇の他に第3皇女子(三女)の鷹司和子(59歳没)、従兄の山階芳麿(88歳没)、実妹の大谷智子(83歳没)が死去するなど肉親との死別が続いた。
平成になって以降は認知症の症状が進行し「皇太后さまは老人特有の症状」と報道されていた。また、外出することも稀になる。1996年(平成8年)3月6日に満93歳となり、後冷泉天皇の皇后藤原寛子の数え年92歳を抜いて神代を除いては歴代最長寿となった。同年、9年ぶりに近影が公開された。
20世紀最後の年となった2000年(平成12年)に入り、定期的に呼吸が荒くなる症状が出始めるようになり、6月16日午後4時46分、老衰による呼吸不全のため吹上大宮御所で崩御した。97歳没。歴代の皇后で最長の在位(62年と14日間)であり、神話時代を除き最長寿(97歳と102日)でもあった。
崩御の直前には4人の子女(池田厚子、天皇明仁、常陸宮正仁親王、島津貴子)をはじめ、孫も立ち会った。天皇は公務を終えて急いで吹上大宮御所に向かい、着御(到着)1分後に皇太后は息を引き取ったという。
7月10日に「香淳皇后(こうじゅんこうごう)」と追号された(明仁勅定)。香淳(こうじゅん)とは上代の漢詩集『懐風藻』で、お印と号にちなんだ「桃」から「花舒桃苑香、草秀蘭筵新(花は開いて桃の園は香しく,草は伸びて蘭のむしろは新しく感じられる)(安倍広庭「春日侍宴」)、および「四海既無為、九域正清淳」(四海は太平でよく治まり,天下に清らかであつい徳が広く及んでいる)(山前王「侍宴」)に拠る。「和書」を典拠にする諡号はこれが初めてであった。
崩御した16日が金曜日であったこともあり、夫たる昭和天皇の崩御時と同様各方面では哀悼の意を表明しつつも、比較的現実的な対応がなされた。例えば、崩御の当日と翌日(6月17日土曜日)は、中央競馬は哀悼の意を表するため、17日の競馬の全レースを中止し19日に振り替え、18日、19日の出走ファンファーレを自粛して開催された(なお、公営競技では、尼崎競艇が当日中止となっている)。翌日の甲子園の阪神 - 巨人戦は午前中に中止を決定しているが、これは皇太后崩御とは関係がなく悪天候のためであり、翌々日(6月18日日曜日)は開催している。また、大阪府大阪市中央区・道頓堀ではグリコのネオンサインが崩御当日のライトアップを自粛し、翌日は「くいだおれ太郎」も黒一色の衣装を纏っていた。
斂葬の儀は同年7月25日に豊島岡墓地で行われ、喪主は、第1皇男子(長男)の天皇明仁が務めた。また、この日に予定されていたプロ野球のオールスターゲーム(長崎県営野球場で開催)が翌日に順延となった。さらに大阪の天神祭も同年に限り翌26日に行われた。
皇太后良子の崩御を受け、当時の内閣総理大臣森喜朗(第1次森内閣)は以下の内閣総理大臣謹話を発表した。
本日、皇太后陛下の崩御の報に接し、哀痛の念を禁じ得ません。天皇皇后両陛下、皇族各殿下、御近親の方々のお悲しみはいかばかりかと拝察申し上げます。
皇太后陛下におかせられては、その御生涯の大半を昭和天皇の后として正に激動の時代をお過ごしになりました。社会が大きく変化していく中で、困難な時期にありましても、皇太后陛下には、昭和天皇の良き御伴侶として、公私にわたり、常に、誠心誠意お尽くしになりました。私ども国民は深く心打たれると同時に、大きな励みとなったところであります。
また、その御生涯を通じ、国際親善や芸術、文化、医療、福祉など幅広い分野にわたり、昭和天皇をお助けして、お務めになりました。殊に、そのお優しいお人柄からにじみ出るほほえみを湛えられたお姿に心から敬愛の念を抱いたのであります。
昭和天皇が崩御せられた後は、在りし日の昭和天皇をお偲びになりつつ、慎ましくお過ごしになっていらっしゃいました。
皇太后陛下が崩御せられたことは誠に哀惜に堪えず、ここに、国民と共に謹んで哀悼の意を表します。
— 森喜朗内閣総理大臣、2000年(平成12年)6月16日。
崩御を受け、第125代天皇明仁は以下の御誄(おんるい:追悼の辞)を述べた。
在りし日のお姿や明るいお声は今もよみがえって日夜心を離れず、思い出は尽きることがありません。哀慕の情はいよいよ胸にせまるものがあります。
ここに、霊柩を殯宮にお遷しして、心からお祭り申し上げます。
— 明仁、2000年(平成12年)6月29日。殯宮移御後一日祭の儀において
御母皇太后の御霊に申し上げます。
長き歳月、昭和天皇をお助けになり、温かく、香しくましました在りし日のお姿は今も深く心に残っております。
ここに、追号して香淳皇后(こうじゅんこうごう)と申し上げます。
— 明仁、2000年(平成12年)7月10日。追号奉告の儀において
— 明仁、2000年(平成12年)7月25日。斂葬の儀 葬場殿の儀において
7月25日に東京都文京区の豊島岡墓地で斂葬の儀(喪主:天皇明仁)が行われた。陵墓は、東京都八王子市長房町の武蔵野東陵。
年譜
1903年(明治36年)3月6日、東京府麻布区(現:東京都港区六本木)久邇宮邸にて、誕生。
父:久邇宮邦彦王、母:邦彦王妃俔子夫妻の第1王女子。
1907年(明治40年)9月、学習院女学部幼稚園入園。
1909年(明治42年)、学習院女学部小学科入学。
1915年(大正4年)、学習院女学部中学科入学。
1918年(大正7年)1月14日、皇太子裕仁親王の妃に内定。
1924年(大正13年)1月26日、皇太子裕仁親王と成婚(皇太子妃冊立)。
1925年(大正14年)12月6日、照宮成子内親王(第1子/長女)を出産。
1926年(大正15年)12月25日、皇太子裕仁親王の践祚に伴い立后(第124代天皇后:皇后冊立)。
1927年(昭和2年)9月10日、久宮祐子内親王(第2子/次女)を出産。
1929年(昭和4年)9月30日、孝宮和子内親王(第3子/三女)を出産。
1931年(昭和6年)3月7日、順宮厚子内親王(第4子/四女)を出産。
1933年(昭和8年)12月23日、継宮明仁親王(第5子/長男)を出産。
1935年(昭和10年)11月28日、義宮正仁親王(第6子/次男)を出産。
1939年(昭和14年)3月2日、清宮貴子内親王(第7子/五女)を出産。
1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇の崩御に伴い皇太后となる(皇太后冊立)。
2000年(平成12年)6月16日、皇居・吹上大宮御所にて崩御。97歳没。