羽嶋山昌乃武の情報(はじまやままさのぶ) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
羽嶋山 昌乃武さんについて調べます
■名前・氏名 |
羽嶋山昌乃武の情報まとめ
羽嶋山 昌乃武(はじまやま まさのぶ)さんの誕生日は1922年4月23日です。岐阜出身の相撲のようです。
引退に関する情報もありますね。2011年に亡くなられているようです。
羽嶋山昌乃武のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)羽嶋山 昌乃武(はじまやま まさのぶ、1922年(大正11年)4月23日 - 2011年(平成23年)6月13日)は、岐阜県羽島郡桑原村(現・羽島市)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は山内 昌乃武(やまうち まさのぶ)。身長176cm、体重120kg。最高位は西張出関脇(1956年(昭和31年)3月場所)。得意手は左四つ、櫓投げ、上手投げ。 一時期「羽島山」、「岐阜錦」を名乗った。 17歳の時に出羽海部屋へ入門し、1939年(昭和14年)5月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名でもある「山内」。以来順調に出世し、1945年(昭和20年)6月場所で新入幕を果たした(その間、初名の「山内」から「羽嶋山」→「羽島山」と2度四股名を変えた。入幕後、更に「岐阜錦」へ改名)。 「岐阜錦」を名乗っていた時期は、負傷が続き大負けして下位に落ちていた。四股名を従前の「羽嶋山」に戻した1949年(昭和24年)5月場所では13勝2敗という好成績を残し、同部屋の大関・増位山との優勝決定戦に出場。決定戦には敗れて優勝同点に終わったものの、生涯唯一の三賞となった敢闘賞を受賞している。 腕力が強く櫓投げの大技を得意とし、稽古場で栃錦を振り回すほどの強力ぶり、腰が重い事から将来の大関と期待されていた。だが両膝関節を負傷し、特に左膝の状態は深刻で、左右3cm以上の横ずれがある程であったため自転車のチューブを使って常に固定しなければならなかった。しかし、上手投げや出し投げを巧みに使う取り口に変え、37歳まで相撲を取り続けた。取り口の豪快さとは裏腹の枯れた土俵態度で古武士の風格をたたえており、人気があった。 現役晩年は幕尻近くまで番付を落とし、1959年(昭和34年)5月場所を最後に引退。 引退後は年寄・松ヶ根を襲名し、出羽海部屋付きの親方として後進を指導する傍ら、審判委員を長く務めた。1987年(昭和62年)4月、停年退職。 2011年(平成23年)6月13日午後8時38分、心筋梗塞のため東京都港区内の病院で亡くなった。89歳没。 通算成績:375勝349敗76休 勝率.518 幕内成績:307勝315敗69休 勝率.494 現役在位:61場所 幕内在位:48場所 三役在位:5場所(関脇1場所、小結4場所) 三賞:1回
金星:5個(東富士2個、羽黒山1個、鏡里2個) 各段優勝
他に優勝決定戦で増位山に1敗がある。 山内 昌乃武(やまうち まさのぶ):1940年1月場所→1942年1月場所 羽嶋山 昌乃武(はじまやま -):1942年5月場所→1944年11月場所、1946年11月場所→1948年5月場所、1949年5月場所→1959年5月場所 羽嶌山 昌乃武(はじまやま -):1945年6月場所→1946年11月場所 岐阜錦 昌乃武(ぎふにしき -):1948年10月場所→1949年1月場所 ^ 『大相撲名門列伝シリーズ』 1(出羽海部屋・春日野部屋)、ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK〉、2017年5月、26頁。ISBN 978-4-583-62513-3。 ^ 雑誌『相撲』、ベースボール・マガジン社刊、2013年(平成25年)9月5日発売 ^ 増位山と優勝決定戦 ^ 左膝関節捻挫により10日目から途中休場 ^ 慢性両膝関節捻挫により11日目から途中休場 ^ 腎臓炎により10日目から途中休場 ^ 両膝関節障害により5日目から途中休場 関脇一覧 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。 岐阜県出身の大相撲力士 出羽海部屋 1922年生 2011年没 岐阜県出身の人物 曖昧さ回避の必要なリンクのあるページ すべてのスタブ記事 相撲に関するスタブ
2025/01/24 01:01更新
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hajimayama masanobu
羽嶋山昌乃武と同じ誕生日4月23日生まれ、同じ岐阜出身の人
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