若浪順の情報(わかなみじゅん) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


若浪 順さんについて調べます
■名前・氏名 |
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羽黒山政司: 引退後は年寄専任となったが現役時代から後進の育成に熱心で、若羽黒朋明を大関に昇進させたほか、立浪襲名中には時津山仁一・安念山治・若浪順と若羽黒をそれぞれ幕内優勝者に育てた。 |
若浪順の情報まとめ

若浪 順(わかなみ じゅん)さんの誕生日は1941年3月1日です。茨城出身の相撲のようです。

引退、兄弟、卒業、現在に関する情報もありますね。2007年に亡くなられているようです。
若浪順のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)若浪 順(わかなみ じゅん、1941年3月1日 - 2007年4月16日)は、茨城県猿島郡七郷村(のち同郡岩井町→岩井市、現・坂東市)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は冨山 順(とみやま じゅん)。最高位は東小結(1968年5月場所)。現役時代の体格は178cm、103kg。得意手は左四つ、寄り、吊り、うっちゃり。 引退後は、年寄・大鳴戸から同・玉垣を襲名した。 実家は農家で土地相撲の大関を務めた父に似たのか、幼少の頃から怪力で、小学生の時に米俵を持ち上げ兄弟達を驚かせていた。自身の証言によると、米俵を担いだのは中学1年生の頃であり、2年生の時には80㎏の墓石を持ち上げた。兄弟はみな力が強く、冨山も野球、柔道、走り高跳び、砲丸投げで体を鍛えた。中学時代、当時人気絶頂にあった若ノ花に憧れて力士になることを志し、まず中学1年の時に立浪部屋へ入門を志願しに行ったが、立浪から「こんな体じゃだめだ。もう1年くらい遊んでから来い」と言われた。さらに、呼出か床山の志願者と間違われ、身長179cmで体重が86㎏あった連れ添いの7つ年上の兄の方が力士志望であるのではと間違われた。しかし立浪部屋付きの大島が「無駄メシ食うくらいいいじゃないですか」と入門を後押しし、中学校卒業後に立浪部屋へ入門した。入門が実現した背景には冨山の中学時代には故郷の七郷村の近所に住んでいた七ッ海が紹介してくれたこともあった。 だが1957年(昭和32年)1月の新弟子検査では体重不足で不合格、次の3月に目零しで合格させてもらって初土俵。立浪からは「押せ」と言われず「お前は吊りがあるんだから、吊りに専念せい」と言われ、自由に引っ張り込む四つ相撲を取って素養を伸ばした。新十両昇進は1961年(昭和36年)3月場所、1963年(昭和38年)5月場所に新入幕を果たした。体重は幕内優勝を果たした後の一時期によやく100kgに達し、普段は92㎏から93㎏程度(ただし公称は103kg)という小兵で「ちびっ子」と呼ばれていたが持ち前の怪力を活かした吊りが得意で、右上手を取れば怪力無双であり、体重200kgと自分の倍以上もある髙見山さえも吊り上げようとした程である。所謂『目まで吊る』と形容される、相手を高々と吊り上げて土俵外まで運ぶ豪快なものだった。同じく吊りを得意とする明武谷や陸奥嵐との対戦は、常に好取組として人気があった。対戦成績は対明武谷が6勝9敗、対陸奥嵐は6勝8敗。本人は「吊り上げれば相手は反撃できないから有利だけど、相手も吊りが得意だと吊り上げようとして逆に吊り出されたりもした」と言っていた。胸毛や濃いもみ上げも若浪の特徴であった。 十両2場所目に右足首を複雑骨折、針金や金の蝶つがいを入れてどうにか治したが、神経が切れたので直ってもしばらく右足の感覚が失われたままで、右の雪駄が脱げても分からず爪を剥がされても痛くない程だったという。その後も寒い日には足が動かないなど苦難を経験した。 東前頭8枚目にあった1968年(昭和43年)3月場所、12勝2敗で千秋楽を迎える。ここまで2敗の力士は大関・豊山と小結・麒麟児(のち大麒麟)、そして若浪と合わせて3人であった。千秋楽、まず若浪が勝って13勝2敗。ところが後2人の2敗力士が揃って負けたため、優勝が決まった。この結果、天皇賜杯制度ができてから最軽量の幕内最高優勝力士となった(97㎏)。周囲も豊山か麒麟児の優勝と予想、まさか平幕の若浪が優勝するなどとは思っていなかったため、驚いたという。場所の結果を報道する『相撲』誌も、優勝力士のカラー写真を事前に用意しておくことができずに、賜杯を抱いた若浪の白黒写真が表紙を飾った(1968年当時、日曜に撮影したカラー写真を金曜発売の月刊誌の表紙に使用することはできなかった)。この場所はうっちゃりで5勝、櫓投げで1勝を挙げた。3横綱の内2人が休場し、平幕が優勝を果たした例は、戦後15日制下ではこれが2例目。この場所の千秋楽の夜、賞金や祝儀など当時の額で600万円(2017年時点の3000万円に相当)もの大金を黒姫山を始めとする付け人が寝ずの番で盗まれないように見張っておいたという。尚、同場所では横綱・大関との対戦を経ずに優勝を決めたが、このようなケースでの平幕優勝は2022年現在で、若浪が最後である。また立浪部屋からの優勝力士は若浪以後、2023年(令和5年)7月場所で豊昇龍が優勝するまで55年間現れなかった。 1968年(昭和43年)5場所では約4年ぶりに小結へ返り咲いたが、2勝13敗と大敗した。これは前場所優勝した力士が翌場所に皆勤した成績では、史上1位のワースト記録である(後に貴闘力、旭天鵬も記録。)。本人は優勝を果たした1968年はもう既に全盛期ではなく、1966年から1967年頃が一番強かったと自認するところを語っていた。その後、1969年7月場所は十両に陥落し、格好悪いので引退しようかと思い、妻も早く相撲を辞めてほしいと言っていたが、死去する数ヶ月前の立浪から「やめちゃダメだよ」と言われ、現役を続投。同年9月場所では12勝3敗の好成績で十両の地位でも優勝、幕内優勝経験者が下位で優勝する初の例となった(のち、多賀竜、照ノ富士、朝乃山も記録)。さらに幕内に復帰してから、1971年3月場所では小結に返り咲き、粘りを見せた。 1972年(昭和47年)3月場所を最後に31歳で引退し、年寄・大鳴戸を襲名した。その後、玉垣に名跡変更し、2006年2月の停年退職まで、立浪部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たった。協会内では審判委員から監事を務め、その傍ら新宿区で相撲料理店を開いた(2005年閉店)。 なお立浪部屋の元幕下・若い浪(2006年1月場所から2007年5月場所までの四股名は、若浪。本名・冨山剛史(- たけし))は、彼の甥である。 2004年に脳出血に倒れ、以来病床にあった。停年退職した翌年の2007年4月16日、肺炎のため死去。66歳没。 新弟子時代の取り口はうっちゃり中心であり、自ら下がるような相撲が多かった。どちらかというと左四つであるが本人はなまくら四つを自認しており、幕下時代の中盤までは完全になまくら四つであった。その後、立浪から前廻しを取るように指導されて、若浪の左四つが形成されていった。右でも左でも廻しを取ったら投げやうっちゃりや吊りで仕留めた。幕内白星の23%が吊り出しによるものであり、うっちゃりが16%(幕内史上1位の56勝)、上手投げが11%と、その怪力ぶりはデータにも表れている。神風は1971年の対談で若瀬川や肥州山などの吊りの名手を思い出すようだとしながらも、彼らと異なりがっぷり四つになって吊ることが多く、もろ差しになってからの吊りは若浪の場合ほとんど見ないと分析していた。若浪も二本が入るとかえって体の自由度が下がると語っていた。義ノ花なら軽々と吊り上げるほど吊りの威力が高かったが、陸奥嵐など同じく吊りを得意とする力士は苦手とした。全盛期では握力が90㎏もあったが、現役末期になるとそれが60㎏程度にまで落ち、金剛や清國などの怪力の力士に敵わなくなることが多くなった。 黒姫山曰く「個性の塊」であり、負けん気が強く、草履で叩かれたり稽古場で負かされたりした兄弟子の中に、逆に執拗に稽古を付けられた者もいたという。 押しを行うは大の苦手であり、幕内優勝を果たした後に行われた神風との対談では、ぶつかり稽古は嫌いで押せないと話していた。 酒豪で知られ、演歌で村田英雄の『王将』を歌わせればプロ級で有名だった。 自身が吊りを得意としていたためか、晩年は吊りを得意とする力士をほとんど見かけなくなったことを気にしていた。 通算成績:568勝557敗20休 勝率.505 幕内成績:351勝429敗 勝率.450 現役在位:90場所 幕内在位:52場所 三役在位:3場所(小結3場所) 各段優勝
十両優勝:1回(1969年9月場所) 幕下優勝:2回(1961年1月場所、1962年3月場所) 三賞:4回
技能賞:2回 (1967年7月場所、1968年3月場所) 雷電賞:1回(1964年5月場所) 金星:3個(栃ノ海1個、柏戸1個、北の富士1個) 大鳴戸 順(おおなると じゅん)1972年3月-1972年10月 玉垣 順(たまがき -)1972年10月-2006年2月(停年退職) 『戦後新入幕力士物語 第2巻』(著者:佐竹義惇、発行元:ベースボール・マガジン社、1990年) ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p24 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p60-63 ^ 『大相撲ジャーナル』2017年6月号108頁 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p13 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p45 ^ 『相撲』2018年3月号 p.114-115 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p49 ^ 過去には、1939年1月場所の出羽湊、1953年5月場所の時津山、1957年11月場所の玉乃海、1961年5月場所の佐田の山、1964年7月場所の富士錦らが記録した。 ^ "豊昇龍が優勝決定戦制し初賜杯! モンゴル出身10人目、34回目の関脇V 3場所計33勝で大関獲り確実". Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. 23 July 2023. 2023年7月23日閲覧。 ^ 雑誌『相撲』別冊菊花号 創業70周年特別企画シリーズ(3)柏鵬時代 柔の大鵬 剛の柏戸――大型横綱たちの君臨(ベースボールマガジン社、2016年) p89 ^ 相撲人名鑑(若浪順)(アーカイブ) 小結一覧 大相撲優勝力士一覧 表 話 編 歴 高見山酉之助 常陸山谷右エ門 太刀山峯右エ門 鳳谷五郎 両國勇治郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦卯一郎 栃木山守也 常ノ花寛市 鶴ヶ濱増太郎 西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代) 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝 琴櫻将傑 一覧 年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。 茨城県出身の大相撲力士 立浪部屋 茨城県出身の人物 1941年生 2007年没 日本相撲協会の役員
2025/04/05 22:28更新
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wakanami jun
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