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里谷多英
里谷 多英(さとや たえ)さんの誕生日は1976年6月12日です。北海道出身のフリースタイルスキーのようです。
戦績、エピソードなどについてまとめました。現在、テレビ、卒業、父親、引退、結婚、事件、母親に関する情報もありますね。現在の年齢は47歳のようです。
里谷 多英(さとや たえ、1976年6月12日 - )は、日本の元フリースタイル・スキーモーグル選手。長野オリンピック金メダリスト・ソルトレイクシティオリンピック銅メダリスト(共に女子モーグル)。現在はフジテレビジョンに所属している。 北海道札幌市北区出身。札幌市立新陽小学校、札幌市立北陽中学校、東海大学付属第四高等学校(現:東海大学付属札幌高等学校)体育コースを経て北海道東海大学(現:東海大学札幌キャンパス)を卒業。 スキーを始めたのは4歳の頃で、モーグルは小学校5年生で始めた。父である里谷昌昭の指導のもと地元の手稲山スキー場で練習を積み、同シーズンに札幌市のばんけいスキー場で初めて大会に出場した。 1989年度全日本選手権大会に6年生で出場し優勝。これは全日本スキー選手権史上最年少記録となる快挙である。中学生になるとFSS少年団に所属し、1年生の1990年度大会は宮越緑に敗れて2位だったものの、翌シーズンの1991年度大会から1996年度大会まで6連覇を達成した。 1992年(1991年度)2月29日、猪苗代で開催されたFISワールドカップに初参戦した(16位)。 1994年2月、リレハンメルオリンピックに出場し11位となった。その後、スティーブ・フェアリングコーチの指導を2006年まで受けた。およそ3週間後にフィンランドで開催された国際ユース選手権に参戦して優勝し、翌年の大会(豪州・マウントブラー(英語版))でも優勝し連覇を果たした。 1995年2月18日、フランスで開催された世界選手権大会に初出場した(12位)。 1996年3月7日にノルウェーで開催されたワールドカップで初めて表彰台(3位)に上った。 1997年7月に父親の昌昭さんを病気により54歳という若さで亡くし競技引退も考えたが、父の残した「成績よりも、よいすべりを」の言葉を胸に、翌1998年の長野オリンピックに出場し日本人女子選手として冬季オリンピック史上初の金メダルを獲得した。決勝でのスコアは当時のオリンピック記録を塗り替える好成績であった。さらに、決勝当日の年齢21歳244日は日本の女子金メダリストとしては冬季オリンピック史上最年少であり、2018年の平昌オリンピックでスピードスケートの佐藤綾乃が21歳73日で金メダルを獲得するまで記録として残った。 その約1か月後となる1998年3月9日にスウェーデンで開催されたワールドカップでは初優勝している。 1999年2月17日、猪苗代で開催されたワールドカップで二回目の優勝をし、同年4月、フジテレビジョンに入社。 その後は成績が低迷し、さらに左足首骨折という大けがをした。しかし、怪我によって一時滑れなくなったことで、スキーをしたいという意欲が増す。2002年のソルトレイクシティオリンピックで、冬季オリンピック3大会連続出場となり、2大会連続のメダルとなる銅メダルを獲得した。冬季オリンピックで日本の女子選手が2つ目のメダルを獲得したのは史上初であった。 2003年11月に建設会社に勤める一般男性と結婚した。 2005年2月、酒に酔って暴行事件を起こした。刑事事件としては起訴猶予処分となったものの自ら全日本スキー連盟に強化選手から外してもらうよう申し出をして、2005年10月に了承された。その後、フリースタイルスキー・ワールドカップには個人参加で出場を続け、2006年のトリノオリンピックへ4大会連続となる冬季五輪に出場。しかし、エアーの着地失敗が響いて決勝15位に終わった。同年3月に離婚している。 2006年から2007年にかけてのシーズンは、ワールドカップ等には出場せず腰の治療に専念した。翌2007年9月、故障からの回復が認められて、強化C指定選手に認定された。2008年3月22日、全日本選手権に出場し、12年ぶり8度目の優勝を果たした。 2009年2月に行われたバンクーバーオリンピックのテスト大会は、航空券の手配ができずに欠場したが、同月に、3年ぶりとなる日本国外のワールドカップに出場を果たした。 3月、世界選手権大会で自己最高位となる4位入賞を果たす。 2010年2月のバンクーバーオリンピックでは、5大会連続で冬季五輪日本代表に選出。バンクーバー五輪本番では上村愛子、村田愛里咲、伊藤みきと共に決勝に進んだが、第2エアーで転倒してしまい結局19位に終わり、これが最後の冬季五輪出場となった。 上村愛子とは、1994-1995シーズンから2011-2012シーズンまでの長きにわたり切磋琢磨しながら世界大会の上位で活躍し合ってきた仲であるが、FIS主催・公認の大会で二人が同時に表彰台に上った試合は、1995年国際ユース選手権(豪州・マウントブラー:里谷1位、上村2位)、1997年ヨーロッパカップ(スイス・ツェルマット:里谷2位、上村3位)、ならびに、2009年豪州・ニュージーランドカップ(豪州・ペリッシャー・ブルー(英語版):上村1位、里谷2位)の3回のみであり、共に参加、参戦した4回のオリンピック、4回の世界選手権(7戦)、ワールドカップ(14シーズン・88戦)で、同時にメダルを獲得した試合は一度もなかった。 2013年1月に現役引退を発表した。同年2月23日、福島県猪苗代町のリステルパークで行われたW杯で、引退セレモニーが行われた。 戦績参戦回数: 126回(うち、途中棄権(DNF)2回) 表彰台: 7回(優勝2回、2位3回、3位2回) トップ5: 22回、トップ10: 52回 エピソード競技を始めた11歳(1987年)当時から、モーグルが将来オリンピック競技になると信じていたという。 練習でサボり癖があった天才肌の里谷多英は、上村愛子が1995-96年シーズンW杯に初出場していきなり3位となった結果を見て奮起し、これが長野オリンピックで金メダルを獲得するきっかけになったという。 12歳で全日本選手権を制して“コブの天才少女”と称され、日本モーグルの先駆者的役割を果たしてきたが、長野オリンピック前には日本IBMのテレビCMに登場した上村愛子の注目度の方が高かった。 長野オリンピックの決勝を滑り終えた直後、スコアを見たときに25点を超えたことが信じられず、滑走タイムがそんなに早いのか、と戸惑った。 長野オリンピック決勝では、前年に他界した父親からプレゼントされたゴールドのピアスをして滑った。 長野オリンピックで優勝した直後にシャンパンを一気飲みするパフォーマンスを行ったり、金メダル授与の表彰式での国旗掲揚の際に脱帽しなかった事などの振る舞いに対して日本オリンピック委員会に抗議が殺到し、長野オリンピック日本選手団長の八木祐四郎が陳謝する事態となった。 ライバルの上村愛子とは、合宿で一緒の部屋で過ごすことが多かったが、長野オリンピックで活躍して以降は、お互いに個人部屋になってしまった。引退後は一緒にスキーや食事をする程の良き仲間となっている。 第18回全日本フリースタイル選手権大会は、オリンピックの直後の開催となり、金メダルを獲得した里谷多英、7位入賞の上村愛子を見ようと、会場にはこれまで最高の1500人のギャラリーが詰めかけ、報道陣も多数訪れた。しかし、両選手は体調不良により出場しなかった。 リステルスキーファンタジアで催された引退セレモニーでは、長野オリンピックのレプリカビブスを着用して滑走し、金メダルの滑りで見せたコザックに挑戦しようとしたが、バランスを崩して不完全なスプレッドになってしまった。 父親は「成績よりも、よいすべりを」と激励していた一方で、母親は娘が怪我をして欲しくない思いからオリンピックが嫌で見ていられず、引退の際には「やっとやめるの」と本人に伝えている。 2024/05/16 19:57更新
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satoya tae
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