アウン=サン=スー=チーの情報(AungSanSuuKyi) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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アウン=サン=スー=チーと同じ1945年生まれの有名人・芸能人 アウン=サン=スー=チーと同じ6月19日生まれの有名人・芸能人 アウン=サン=スー=チーと同じ出身地の人 |
アウン=サン=スー=チーの情報まとめ
アウン=サン=スー=チー(Aung San Suu Kyi)さんの誕生日は1945年6月19日です。
映画、現在、母親、卒業、家族、結婚、病気、テレビ、父親、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。アウン=サン=スー=チーの現在の年齢は79歳のようです。
アウン=サン=スー=チーのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)アウンサンスーチー(ビルマ語: အောင်ဆန်းစုကြည်(画像による標示:)、ラテン文字表記: Aung San Suu Kyi、ALA-LC翻字法: ʼOṅʻ Chanʻ" Cu Kraññʻ、IPA: /àʊN sʰáN sṵ tɕì/。1945年6月19日 - )は、ミャンマーにおける非暴力民主化運動の元指導者、元映画監督。元国家顧問。現在はミャンマー国軍のクーデターによって発足した現政府に犯罪者として扱われている。国軍統制下の裁判で19件の罪で有罪判決が決定し、刑期は合計禁錮33年として法の下に刑を下された。 2016年3月30日にティンチョーを大統領とする新政権が発足したことに伴い、外相、大統領府相を兼任(当初は教育相と電力エネルギー相も兼任していた)、さらに新設の国家顧問にも就任した。同国における国家元首は大統領だが、大統領を超越する存在としてアウンサンスーチーが事実上の最高指導者であった。2021年ミャンマークーデターを受けて、現在は刑務所に収監中。 ビルマの独立運動を主導し、その達成を目前にして暗殺された「ビルマ建国の父」ことアウンサン将軍の娘である。敬虔なテーラワーダ仏教徒とされる。使用言語はビルマ語、英語、フランス語、日本語。2013年、訪仏時はフランス語で講演し、訪日時は英語で記者会見した。 日本や、英語メディア、仏語メディア、独語メディアなどの報道では「アウンサン・スーチー」「スー・チー」などと表記されることもあるが、ミャンマー人(現在のビルマ語族の大半)は姓(名字)はなく、ミャンマー国内では通常「アウンサンスーチー」の一語で表記する(後述)。 1945年6月、ミャンマーの旧首都ヤンゴンで生まれた。当時はビルマの戦いの末期で、敗勢の日本を裏切った父アウンサンらの攻勢もあり、5月にラングーンから日本軍が駆逐され、日本の支援を受けていたビルマ国も崩壊。日本統治時代が終わりイギリスの支配に戻ったばかりのころだった。 日本の降伏後、1947年に父アウンサンが、政敵ウー・ソオの部下に暗殺される。以降、ラングーンで元看護師の母親キンチー(en:Khin Kyi)と2人の兄とともに暮らし、母からテーラワーダ仏教の厳しい教育を受けた。 次兄のアウンサンリンが8歳のとき、自宅庭の池で溺死したのち、ラングーン市内のインヤー湖畔に転居した。長兄のアウンサンウー(en:Aung San Oo)は、のちにアメリカ・サンディエゴに移民として移り、アメリカ合衆国の市民権を取得した。妹の政治活動に反対している。 アウンサンスーチーは、ラングーンの聖フランシス修道会学校を経て、ダゴン郡区にあった、ビルマのトップ英語学校メソジスト英語学校(現・ダゴン第一高等学校、en:Basic Education High School No. 1 Dagon)に通った。同校の同級生に、のちにアウンサンスーチー側近となるティンチョーがいた。 1960年に母親のキンチーが、ウー・ヌ政権で駐インド兼駐ネパール特命全権大使に着任すると、スーチーは母とニューデリーに移り、同地のキリスト・メリー修道会学校に通った。 1962年からデリー大学(en:University of Delhi)レディ・スリラム・カレッジ(en:Lady Shri Ram College for Women)で政治学を学び、1964年に卒業。インドでは、ジャワハルラール・ネルーの家族などと親交し、マハトマ・ガンディーの非暴力不服従運動の影響を受けたとされる。 1964年から1967年まで、イギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジ(en:St Hugh's College, Oxford)哲学政治経済学部(PPE, en:Philosophy, Politics and Economics)で哲学・政治学・経済学を学ぶ。1967年に学士号を取得後、ビルマ政治史担当の助手に就任しヒュー・ティンカー(fr:Hugh Tinker)教授に師事。1968年に同大学を卒業して政治学修士号を取得した。しかし、オックスフォード大学での成績は不振で、2度コースを変更しようとしたもののいずれも失敗し、結局可の評価で卒業したため研究を続けることが困難となった。 しかし彼女はのちに、1990年にオックスフォード大学名誉フェローに選出されている。1993年にオックスフォード大学名誉博士の授与を打診されたものの出国できず断念。その後、2012年に名誉博士号を取得した。 大学卒業後、友人のタンイー(en:Than E)とともにニューヨークで暮らし、1969年からニューヨーク大学大学院で国際関係論を専攻してビルマ政治史が専門のフランク・トレイガー(Frank Trager)教授に師事したが、中退し、1969年から1971年にかけてニューヨークの国際連合事務局行政財政委員会で書記官補を務める。 1972年にオックスフォードの後輩で、当時ブータン在住だったチベット研究者のマイケル・アリス(1946 - 1999)と結婚し、国際連合事務局を退職し、専業主婦となった。1972年から73年までブータン外務省研究員。1973年に長男のアレキサンダー(en:Alexander Aris)を、1977年に次男のキムをもうける。 オックスフォード大学クイーン・エリザベス・カレッジで研究を再開し、1975年から77年までオックスフォード大学ボドリアン図書館編纂研究員を務めた。1985年から87年までロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)で研究生を務め、ビルマ文学とナショナリズムの関係を研究し、1988年にSOASでビルマ文学修士号を取得した。 父の研究をするため、オックスフォード大学で2年間かけて日本語を習得。その後1985年10月から翌年7月までの約9か月間、国際交流基金の支援で京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、大日本帝国軍関係者への聞き取り調査や、外務省外交史料館、旧防衛庁戦史部、国会図書館などでの資料調査を行い、父アウンサン将軍についての歴史研究を進める。当時の受け入れを行ったのは、当時同センター長の石井米雄(前・神田外語大学学長)らである。 シムラーでインド教育省Indian Institute of Advanced Studies(IIAS)特別研究員を2年間務めたほか、ビルマ連邦政府でも勤務した。1986年7月から10月までヤンデネの母を訪ねたのち、オックスフォードに戻った。 1988年3月31日に母が危篤との知らせを受け、病気の母を看護するため4月2日にビルマに戻る。1987年9月の高額紙幣廃止令などをきっかけとして学生を中心に始まった反政府運動(8888民主化運動)は、デモ中の学生が虐殺された3月以降に激化した。7月に1962年の軍事クーデターより独裁政治を敷いていたネ・ウィン将軍・ビルマ社会主義計画党議長が辞任した。 戒厳令下では学生や市民らが大規模なデモを行った。アウンサンスーチーは8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向けて演説を行った。9月18日に国軍がクーデターを起こし、ソウ・マウン議長を首班とする軍事政権(国家法秩序回復評議会、SLORC。のちのSPDC―国家平和発展評議会)が誕生した。民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出た。 アウンサンスーチーは9月に、翌1990年に予定された選挙への参加を目指して、1988年の国民民主連盟(NLD)の結党に参加し、書記長に就任。全国遊説を行うが、1989年7月に自宅軟禁され、NLD書記長を解任される。国外退去を条件に自由を認めるともちかけられたが拒否したといわれる。 軍事政権は1990年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟が大勝した。しかし、軍政側は「民主化より国の安全を優先する」と権力の移譲を拒否した。この強硬な姿勢は国際的に激しい非難を招き、アウンサンスーチーは1990年10月12日にトロルフ・ラフト財団からトロルフ・ラフト人権賞(en:Thorolf Rafto Memorial Prize)を受賞。1991年7月10日にサハロフ賞受賞、10月14日にノーベル平和賞を受賞した。ノーベル賞賞金の130万ドルはビルマ国民の健康と教育のための基金の設立に使われた。ただし自宅軟禁中のため授賞式に出席できず、受賞演説を行ったのは軍政が民主化に本腰を入れ始めた、受賞より21年後の2012年6月16日のことであった。 1995年7月10日に自宅軟禁から解放される。週末に自宅前集会を行って大勢の聴衆を集めたが、軍政によって中止に追い込まれる。10月10日にNLD書記長に就任。NLDは11月に制憲国民会議のボイコットを決断し、軍政は対抗措置として同党側委員を除名した。会議は事実上休眠状態となる(2003年に再開)。 NLDは1996年5月、アウンサンスーチー釈放以後初の党大会を計画したが、軍政側は国会議員235人を拘束する弾圧策に出た。軍政はアウンサンスーチーにヤンゴン外への移動を禁止していた。アウンサンスーチー側は1996年と1998年にこれに抵抗したが、いずれも妨害された。NLDは1998年9月、国会招集要求を無視した軍政に対抗し、アウンサンスーチーら議員10人で構成する国会代表者委員会(CRPP)を発足させる。 1999年3月、夫のマイケル・アリスが前立腺癌で死亡。ビルマ入国を求めたアリスの再三の要請を軍政は拒否した。再入国拒否の可能性があるアウンサンスーチーは出国できず、夫妻は再会することができなかった。 2000年8月24日、ダラーのNLD青年部への訪問を再び阻止される。抗議の篭城を行うが、9月2日に首都ヤンゴンに強制送還された。同月22日にマンダレー行きを試みたが再度拘束され、翌22日から再度自宅軟禁された。同10月から、ラザリ国連事務総長特使らの仲介のもと、アウンサンスーチーと軍政との間で国民和解対話に向けた前段交渉が始まり、2002年5月6日に自宅軟禁は解除される。その後、NLDの党組織再建のために各地を遊説し、訪問先で熱狂的な歓迎を受ける。2002年5月14日、アウンサンスーチーと久米宏が5分間の電話対談を行い、録音した音声がテレビ朝日系列の「ニュースステーション」で放送された。2003年5月30日、ビルマ北部を遊説中に軍政による計画的な襲撃に遭い、活動家や支援者に多数の死傷者と逮捕者が出た。襲撃の責任者は、のちに首相となるソー・ウィン中将とされる。その後は軍施設に連行され、3度目の軟禁状態に置かれる。外部からの訪問はほぼ完全にシャットアウトされた。9月に手術入院したあとは自宅に移され、自宅軟禁状態となる。 2007年9月23日、仏教僧侶らの反政府デモが広がるのにともない、軟禁先を自宅からインセイン刑務所に移されたとの情報がある。9月30日、ミャンマーを訪れたイブラヒム・ガンバリ国連事務総長特別顧問と1時間にわたり会談した。 2007年10月、カナダ名誉市民の称号を受けた。2008年4月、アメリカにて議会名誉黄金勲章授与法案が可決される。5月10日に軍事政権が信任選挙を強行した新憲法草案では、当初「配偶者および子供が外国人、もしくは外国の市民権を有する国民には選挙権を認めない」との条項があり、前夫が外国人のアウンサンスーチーの被選挙権を事実上剥奪していた。しかし、諸外国の抗議もあり、軍事政府はこの条項を撤回。同月23日、アウンサンスーチーは事前投票したと伝えられた。 2009年5月、アメリカ人の男が自宅に侵入したのが軟禁条件違反にあたるとして、「国家転覆防御法」違反の罪で起訴される。5月18日、ヤンゴン市・インセイン刑務所内の裁判所で裁判が始まった。規定では有罪の場合、禁固3 - 5年が科せられる。自宅軟禁の最長期限は6年であり、同月末を迎えると軟禁が解かれる予定だった。同日、アウンサンスーチー率いる野党・国民民主連盟(NLD)が刑務所周辺で抗議行動を行った。17日の前日に、ニコール・キッドマン、ブラッド・ピット、デビッド・ベッカムら著名人44人がアウンサンスーチーの訴追に反対し、解放を求める共同声明を発表した。26日午前、タン・シュエをトップとする軍事政権は軟禁期限は11月との声明を出し、アウンサンスーチーと弁護士にも軟禁解除を伝えた。そのうえで8月11日、国家転覆の罪で禁固3年の実刑を言い渡し、直後に執行猶予と1年6か月分の特赦をつけて再度の軟禁状態に置いた。侵入者のアメリカ人は禁固7年の実刑判決を受けた。 2010年1月21日、軍事政権のマウン・ウ内相が地方の会合でアウンサンスーチーについて「軟禁期限となる11月に解放される」と述べていたことが判明し、11月13日に軟禁を解除された。政治活動の再開を進めるアウンサンスーチーに対し、政府は2011年6月28日に活動停止を通告。7月25日、8月12日に政府側と会談し、国家の発展のため協力していくことで合意したが、これには懐疑的な見方もある。8月14日に地方都市での政治活動を再開させた。2012年4月1日に行われたミャンマー連邦議会補欠選挙にNLDより立候補 し、当選を果たす。しかし軍事政権が定めた憲法に反対する立場から、議員就任の際に求められる憲法遵守の宣誓を拒否することを理由に、4月23日の初登院に応じず宣誓内容の修正を求めた。その後方針転換し、5月2日に正式に議員に就任。6月、国民代表院法の支配・平和安定委員会委員長に就任。 2012年1月10日、NLD中央執行委員会議長に選出。1月13日、ニコラ・サルコジフランス大統領が、レジオンドヌール勲章コマンドゥール(3等)の授与を電話で伝える。1月25日、アースィフ・アリー・ザルダーリーパキスタン大統領よりベナジル・ブット賞を授与される。2月10日、国際連合教育科学文化機関が、2002年に授与が決定していたマダンジート・シン賞を授与する。11月、インドを訪問し、1993年に受賞が決定していたネール賞の受賞演説などを行う。2月15日香港大学から名誉法学博士号を受ける。6月、24年ぶりにヨーロッパ諸国を歴訪し、同月27日にパリ市名誉市民の称号を受け、フランス語で講演を行った。 2013年2月1日、ソウル市冠岳区のソウル大学校文化館でソウル大学校名誉教育学博士号を授与された。同日に行われた宋永吉仁川広域市長との会談で、日本の慰安婦問題について、日本統治時代のビルマで日本帝国主義への抵抗運動を主導した父アウンサンの「誰にでも長所と短所がある」との言葉を引用し、「過ちは誰にでもあるが、過ちを認めることをためらうことこそ本当の過ち」とし、問題を否定する日本の姿勢を批判した。 4月13日、27年ぶりに来日。在日ミャンマー人や、京都滞在中に家族ぐるみの付き合いをしていた日本人との懇談や、経済界へのミャンマーへの支援の呼びかけ、安倍晋三首相などの日本政府要人との会談を行う。京都大学では、京都大学名誉フェローの称号を新設して、4月15日の講演時にこれを授与した。同日、日本滞在時から親交の深い大津定美教授夫妻がかつて教鞭をとっていた龍谷大学で講演を行い、龍谷大学名誉博士号を授与された。講演では、仏教の慈悲に基づく非暴力民主化運動を行う必要があると論じ、「仏教の教えを心に置きながら変革を進めないといけない」と述べた。 9月12日、ポーランドでレフ・ヴァウェンサ初代大統領と昼食をともにし、外国人として2人目のワルシャワ名誉市民の称号を受ける。10月にイタリアに訪問し、ローマ教皇フランシスコと面会。10月27日、1994年に授与が決定されたものの20年間受け取ることのできなかったローマ名誉市民の称号を、ローマ市庁舎で開かれた記念式典で受けた。その後、ボローニャ名誉市民の称号も授与された。 2015年11月8日に実施された総選挙において、NLDが圧倒的な勝利を収め、アウンサンスーチー自身も連邦議会下院議員に当選したことが選挙管理委員会に発表された。10日に行われた外国メディアの取材に対し、アウンサンスーチーは新たに選出される新大統領について、憲法上アウンサンスーチーの就任が禁じられていることに合わせた措置に過ぎず何らの権限を持たない傀儡であり、「私がすべてを決定する」と断言した。 ただし、こうしたアウンサンスーチーの立場や、コーコージーなど民主化運動の有力者を議員候補リストから排除するなどの党運営について、「憲法の無視」「権威主義的な姿勢」などという批判がニューヨーク・タイムズなどからなされた。違憲の疑いも指摘されるが、アウンサンスーチー自身は憲法に規定がないため違憲ではないと主張している。 2016年3月22日、ミャンマー次期大統領のティンチョーは議会に新内閣の閣僚名簿を提出し、新政権にアウンサンスーチーが入閣することを明らかにした。3月30日、ティンチョーは正式に大統領に就任し、新政権が発足した。日本のマスコミはこの政権を「事実上のアウンサンスーチー政権」と評価している。アウンサンスーチーは外務大臣(国防治安評議会(英語版)のメンバー)、大統領府大臣、教育大臣、電力エネルギー大臣の4閣僚を兼任した。ただし、この中の教育大臣と電力エネルギー大臣のポストについてはほかに適任者が現れるまでの暫定措置であったとされており、政権発足後すぐに電力・エネルギー相はテイン・セイン政権でエネルギー省次官を務めたペー・ジン・トゥン(Pe Zin Tun)、教育相は教育省勤務経験のある西ヤンゴン大学学長のミョー・テイン・ジー(Myo Thein Gyi)へ交代させる人事案が連邦議会に提示されている。ミャンマーの憲法では国会議員と国務大臣を兼任することはできないため、アウンサンスーチーは大臣就任に伴って連邦議会下院議員を自動失職した。 4月6日、ミャンマー連邦共和国国家顧問のポストを新設し、それにアウンサンスーチーを任命する法案が成立した。この「国家顧問」は、憲法の規定で大統領に就任できないアウンサンスーチーに国家の最高指導権を委ねるための措置であるとみなされている。国家顧問は大統領に政治上の「助言」を与えることができるとされているが、アウンサンスーチーの「助言」は事実上、大統領への「指示」となっており、このためアウンサンスーチーが事実上の首相とみなされることもある。 外相就任後の4月5日、中国の王毅外相と会談した。王外相は今回の訪問がアウンサンスーチーからの招待であることを明かしたうえで「政権が交代しても両国の永続的友好関係は変わらない。農業やインフラ分野の経済協力を進める」と応じている。王外相は6日までミャンマーに滞在し、ティンチョー大統領とも会談した。 5月3日、ミャンマーを訪問した日本の岸田文雄外務大臣と会談した。 2017年9月、ミャンマー西部ラカイン(Rakhine)州で、ミャンマー政府がイスラム系少数ロヒンギャと武装勢力の関わりを何ら検証しないまま、ロヒンギャの村を放火した事実がBBCにより放映された。これらミャンマー政府によるロヒンギャへの対応について、国連関係者から「民族浄化」であるとの指摘がされるなどしており、同国の事実上の指導者であるアウンサンスーチーに対して、授与されたノーベル平和賞を取り消すよう求める請願運動がネット上で行われ、36万を超える署名が寄せられている。オックスフォード市より1997年に授与された名誉市民権(英語版)は、ロヒンギャ問題への対応不足を理由に2017年に剥奪されている。ロヒンギャ虐殺の黒幕とも呼ばれている反イスラーム主義団体969運動の指導者アシン・ウィラトゥは当初アウンサンスーチーの支持者であり、アウンサンスーチーも支持層の1つである969運動を積極的に制止しなかったとされる。2018年11月12日にアムネスティ・インターナショナルが、アウンサンスーチーのロヒンギャへの対応に失望したとして2009年に授与した「心の大使賞」を取り消すと発表。14日に米国副大統領のマイク・ペンスが、会談先のシンガポールでアウンサンスーチーに対し「ロヒンギャに対する迫害は『理由なき暴力』だ」と述べるなど、強い口調で非難したことが明らかにされている。2018年12月、パリ議会は、アウンサンスーチーが指導者としてロヒンギャに対する暴力・虐殺に対応しなかったとして、パリ市名誉市民の称号の取り消しを決定した。 2019年10月21日に迎賓館赤坂離宮で安倍晋三内閣総理大臣と会談を行い、翌22日の即位礼正殿の儀に参列した。 2020年11月8日に執行された総選挙ではNLDの苦戦も予想されたが、蓋を開けてみれば圧勝となった。惨敗を喫した国軍は不正投票があったと主張。 2021年2月1日未明にミャンマー国軍によって起こされたクーデターによりアウンサンスーチーは拘束された。アウンサンスーチーは昨年11月の国内総選挙の結果が不正であるとする国軍系の連邦団結発展党(USDP)と総選挙後から対立しておりそれにより拘束されたのではないかとしている。議会における四分の一の議席など軍への特権を認める憲法の改正をめぐって軍とアウンサンスーチーには確執があった。 ミャンマーの軍系メディア、ミャワディ・テレビによると、2021年2月1日に政権を掌握したミャンマー国軍のミン・アウン・フライン総司令官は一年間の国家非常事態宣言を発令。ミャンマーの首都ネピドーの電話・インターネットはすべて停止した。 さらにミャワディ・テレビは暫定大統領の元国軍幹部、ミンスエ副大統領が立法・司法・行政の三権を国軍のミン・アウン・フライン総司令官に委ねたと報道。 ミャンマー国内では連日アウンサンスーチーらの釈放を求める大規模デモが発生している。日本国内でも日本在住のミャンマー人を中心に品川区のミャンマー大使館前をはじめ各地ででアウンサンスーチーらの釈放を求めるデモが起きている。 また軍の意向によって、スーチーは以下の罪状で訴追されている。スーチー拘束の正当性を示すこと及びスーチー復権阻止が目的と見られている。 スーチーの家宅を捜索した際に、不法に輸入し許可なく使用されていた携帯型の無線端末を発見されたとして、不正輸入罪で訴追。 新型コロナウイルス対策を十分に施さなかった自然災害管理法違反で訴追。 恐怖や不安を招く情報を流したとする刑法違反で訴追。 通信機器の免許について定めた電気通信法違反で訴追。 2017年12月から2018年3月にヤンゴン地域の高官から現金60万ドル(約6500万円)と金塊を受け取った収賄で訴追。また別に汚職4件でも訴追。 国家機密漏洩罪で訴追。共犯として経済顧問のオーストラリア人を含め5人が訴追。 2021年12月6日に軍への反対意見を煽り社会不安を与えたことによる刑法違反容疑、新型コロナウイルス対策の規則に違反した自然災害管理法違反容疑で有罪となり、禁錮4年の実刑判決が下ったが、後にミン・アウン・フライン国軍総司令官の指示で2年に減刑されている。しかし2022年1月10日には無線機を密輸し自宅にて所持した容疑、さらに新型コロナウイルス対策の別の規則に違反した容疑でも有罪となり、懲役4年。同年4月27日には汚職防止法違反容疑で有罪となり、禁錮5年。同年8月15日、4件の汚職防止法違反容疑で有罪となり、禁錮6年となった。これまでで刑期は合計17年となっている。 2022年6月22日、ミャンマー国軍はスーチーを軟禁先から首都ネピドーにある刑務所の独房に移送した。 2022年9月2日、裁判所はスーチーに選挙違反の罪で禁錮3年の判決を言い渡した。これまでに下された判決10件とあわせ禁錮刑は計20年になった。12月30日、裁判所はスーチーに汚職防止法違反の罪で禁錮7年の有罪判決を言い渡した。訴追された全19件全てで有罪認定されたことになり、禁錮と懲役を合わせた刑期は計33年となった。 2023年8月1日、国軍はスーチーを恩赦で減刑したと発表した。扇動や新型コロナウイルスの規制違反など計5件の罪が対象で、刑期は6年短縮されたという。 2024年4月16日までに収監中の刑務所から別の場所へ移動されたと報じられており、報道官は取材に対してスーチー含む高齢の受刑者らを猛暑から守るための措置とコメントしている。 ロンドン名誉市民(2017年)
ソウル大学校名誉教育学博士(2013年) モナシュ大学名誉法学博士(2013年) オーストラリア国立大学名誉文学博士(2013年) シドニー大学名誉法学博士(2013年) シドニー工科大学名誉博士(2013年) ローマ名誉市民(2013年) ボローニャ名誉市民(2013年) ボローニャ大学名誉哲学博士(2013年) 京都大学名誉フェロー(2013年) 龍谷大学名誉博士(2013年) ワルシャワ名誉市民(2013年) エリー・ヴィーゼル賞(2012年授与)
オックスフォード大学名誉私法学博士(2012年) パリ市名誉市民(2012年)
香港大学名誉法学博士(2012年) ヨハネスブルグ大学名誉博士(2010年) 心の大使賞(2009年授与)
カナダ名誉市民(2007年授与)
ルーヴァン・カトリック大学名誉博士(2006年) アメリカン大学名誉博士(1997年) オックスフォード市より名誉市民権(英語版)(1997年授与)
ノーベル平和賞(1991年) オックスフォード大学名誉フェロー(1990年) ロンドン大学東洋アフリカ研究学院名誉フェロー(1990年) サハロフ賞(1990年受賞、自宅軟禁から解放後の2013年に賞を受け取った)(※2020年9月10日、欧州議会はアウンサンスーチー氏はロヒンギャに対する犯罪行為を容認し行動を怠っているとして受賞者としての活動資格を停止した。サハロフ賞として初めての措置だが、受賞者としては残る。 アウンサンスーチーの名前は、父親の名前(アウンサン)に、父方の祖母の名前(スー)と母親の名前(キンチー)から一音節ずつ取ってつけられたものである。 ミャンマーに住むビルマ民族は、性別に関係なく姓を持たない。アウンサンスーチーの「アウンサン」も姓や父姓ではなく、個人名の一部分に過ぎない。彼女の名前は「アウンサンスーチー」で、原語では分割して呼ばれることが多い。日本の大手メディアでは毎日新聞が1996年から、朝日新聞が2012年から「アウンサンスーチー」と表記しているがそれ以外は「アウン・サン・スー・チー」と表記している。 ビルマ人は、通常、年配の女性につける「女史」に相当する敬称「ドー(Daw)」をつけて「ドー・アウンサンスーチー」と呼ぶ。親しみを込めて「ドー・スー」ということもある。 8888民主化運動から1990年総選挙の間、NLD支持者に元ビルマ共産党(CPB)党員やそのシンパが多く、当時元ビルマ共産党中央委員会のメンバーだったタキン・ティンミャ(Thakin Tin Mya)がスーチーの自宅に事務所を持ち、彼女の顧問を務めていたことから、スーチーも共産主義者ではないかと激しく非難された。これに対してスーチーは、1988年9月12日付英国紙インデペンデントへの寄稿文で「私がさまざまな経歴の多くのベテラン政治家から助言を得ているのは事実です。けれどもそれは、これらの人々が将来の政治的利益への期待や個人的利得とはまったく無関係に、民主主義の大義のために働いているとの前提にもとづいてのことです。私自身は、国民の福祉よりも個々人の政治的信条やイデオロギーを優先することには強く反対しています」と反論している。 かつてスーチーは自宅前の道路に人を集めて毎週末演説集会を開いていたが、ある日、日本人の観光客のグループが演説を見物していると、それを見とめたスーチーは、「(観光客が落とすお金が軍事政権を潤すから)どうかミャンマーへはもう来ないでください。日本のお友だちにもミャンマーに来ないように伝えてください」と言い放ったのだという。 1988年の軍事クーデター後、日本のミャンマーに対する経済協力は大幅に縮小していたが、日本政府が看護大学建設の無償支援を行おうとした際、スーチーは「看護師学校に行けるのは軍人の奥さんや娘さんばかりだから」という理由で反対したのだという。 1997年、日本政府がミャンマーのASEAN加盟について賛意を示すと、スーチーは「日本はなんということをしたのか。橋本首相(当時)の決定を、私は公開の場で批判しますよ」と烈火のごとく怒ったのだという。また1998年に日本政府がヤンゴン空港への円借款を一部再開した時、当時ミャンマー大使だった山口洋一が「人道上の理由です」と理由を説明すると、スーチーは「軍政に援助するなんて、私たちを殺す気ですか」と取り付くしまがなかったのだという。 2011年に国軍とカチン独立軍(KIA)との間の停戦合意が破棄され、戦闘が勃発し、国軍がKIAの拠点に激しい空爆を加え多数の死傷者を出していた。この際、カチン統一民主党の女性議員がスーチーに問題解決を求めたが、「カチン州の和平を促す発言をスーチーに求めたが、彼女は何も言わず沈黙したままだった」「ぜひ停戦のメッセージを世界に向けて発信してほしいとお願いしたが、スーチーは会議室で私と目を合わそうとしなかった」「世界21カ国に移住しているカチン族からも同様の手紙をスーチーに送ったが、スーチーからの反応はなかった」のだという。ヒューマン・ライツ・ウォッチは2013年の年次報告で「NLDは(何も発言しないことで)カチン州の国軍による戦争犯罪を推進している」「スーチーは少数民族のために立ち上がらず、失望させた」と厳しく批判している。 NLDが政権を獲った2015年の総選挙において、8888民主化運動をともに戦い、2015年の時点でも国民的人気の高かった88年世代と言われる人々をNLDは一切公認しなかった。そのうちの1人、コーコージーは「2015年の前回総選挙で、NLDは私たち元学生活動家に立候補を打診しながら、説明もなく切り捨てた。スーチー氏とはその後、行事に同席した際などを除き一度しか会っていない」と述べている。またコーコージーは、かつてスーチーから「88世代は森を切り開いた木こりで、その役割は終わった。私は皆さんの切り開いた道を歩む」と言われたのだという 2015年総選挙の前に、ワシントン・ポストの記者に「(自身が大統領の上に立つというのなら)首脳会談はどうするのか?」と問われ、「彼(大統領)は私の隣に座ることができます」と答えた。 2015年総選挙勝利後、組閣前にNLD報道官ニャンウィンが国会議長の人事をメディアにリークすると、スーチーは激怒。NLDの声明として「情報漏洩は許さない。ドー・アウンサンスーチーだけが(政策や政権移行についてメディアに)語る権利がある」と発表した。 旧軍事政権との繋がりの深い政商から、NLDが金を受け取っていたことが判明している。彼ら政商は軍事政権の取り巻きの立場を利用して富を築いており、国内でも悪評が高い。内訳は教育・医療対策のために実業家テー・ザTay Zaから8万2,353ドル、チョー・ウィンから15万8,824ドルである。テー・ザは武器密輸の疑い、チョー・ウィンは南部カレン州で起きた強制土地収用に関係している。同じくNLDに献金していたゾー・ゾーが所有する財閥マックス・ミャンマーは、2013年1月現在も欧米からの制裁を受けている。イラワジ誌によれば、NLDの行動を擁護し、「軍事政権の取り巻きだったとされる人々は、NLDなどの社会活動を支援してきた。そのどこが悪いのか?目的もなく金を使う代わりに、彼らは支援するべきことを支援した。それはいいことだ」と語った。 国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(本部ニューヨーク)は2013年版の年次報告において、アウンサンスーチーについて「少数民族の人権保護に消極的で、失望している」との批判を掲載した。アラブ系メディアのアルジャジーラも2015年、イスラム系少数民族のロヒンギャの難民問題について、多数派である仏教徒の支持を得るために迫害を黙殺しているとの報道を行っている。 2013年にBBCのパキスタン系英国人キャスターからロヒンギャ問題について見解を問われ、「イスラム教徒と仏教徒の両サイドがお互いに恐怖心を持っていることに起因している。恐怖心はイスラム教徒だけが抱いているわけではない」「軍事政権によって暴力にさらされ、国を追われてきたのはイスラム教徒だけではない。それよりもより多くの仏教徒も暴力にさらされ、国を追われている」と答えた。2017年にBBCのインタビューで、ロヒンギャ問題について見解を問われ、「それについてはすでに2013年に同じ質問を受けて回答している。質問に答えたのに何も答えなかったかのように言われるのは、単に人々が求めているような、どちらかの陣営を強く非難するようなコメントをしなかったからだ。しかし、私はマーガレット・サッチャーでもなければ、マザー・テレサでもない。政治家だ」と答えた。2013年のBBCインタビュアーはパキスタン系の英国人キャスターであったが、アウンサンスーチーは「よりによってイスラム教徒なんかからあれこれつつかれるなんて、誰からも聞かされていなかったわ」と周囲に当たり散らしたとされ、この事実は2016年に出版されたピーター・ポッパムの評伝『”レディ”と将軍たち』において明らかにされた。2016年にスーチーのこれらの差別的な発言をめぐり、「ノーベル平和賞取り消し」を求める署名キャンペーンがChange.orgで行われ、5万人以上の署名が行われた。ロヒンギャ問題に関しては、2017年にも「ノーベル平和賞取り消し」を求める署名活動が行われており、さらに多くの36万もの署名を集めている。 2017年9月にラカイン州のロヒンギャの武装勢力と治安維持部隊の衝突について、ロヒンギャ勢力に対し残忍な方法で鎮圧を図っているとして国際的な非難が集まっている点について、トルコのエルドアン大統領との電話会談中の発言の引用として、「政府はすでに取りうる最善の方法でラカイン州の人々を保護している。非難はテロリストのばらまいたフェイクニュースに基づいており、それらは氷山の一角に過ぎない。政府に対する非難はテロリストを利するものだ」と声明を出した(ミャンマー政府は軍事政権時代から、ロヒンギャを「ベンガル人」と呼び、バングラデシュからの不法移民であるとして自国民として取り扱っておらず、「ラカイン州の人々」にロヒンギャが含まれることについては疑問がある)。一方、13万人近いともされるロヒンギャ難民、彼らが政府が国境地帯に急きょ敷設したとされる地雷で負傷していることについては完全に沈黙した。しかし国民からの支持が強く、国連など様々な団体から支援を受けるためのロヒンギャの嘘であると主張しているが、そう報道していると思われる。ミャンマー人の国民性として、話を美化したり知っている振りをするため、真実は分からない。 2017年のロヒンギャ危機の際は、スーチーは国際社会の激しい非難に晒された。スーチーに捧げる『ウォーク・オン』という曲でグラミー賞を受賞し、日に陰にスーチーを応援し続けていたU2のボノは「マーティン・ルーサー・キングが言ったように、“最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である”」「スーチー氏の沈黙が同意のように見え始めている」と述べて、絶交宣言をした。ボブ・ゲルドフは「彼女はダブリン市民を裏切った。アイルランドの期待を裏切った。彼女に騙された」と、デズモンド・ツツは「ミャンマーの最高地位に就いた代償が沈黙だとすれば、その代償はあまりにも高くついた」と批判した。 2017年のロヒンギャ危機の際、ロイター通信のミャンマー人記者が2人、国家機密法違反で懲役7年の刑に処せられた。事件の経緯からみれば警察にはめられたのは明らかで、国内外で批判が高まり、結局、2人は2019年5月に恩赦で釈放されたが、これに対するスーチーの態度は「判決は表現の自由とはまったく関係がなく、国家機密法に関係したものだ」「法の支配にもとづくならば、記者らには控訴し、判決の誤りを指摘する権利がある」と木で鼻をくくった態度に終始。アメリカ国連大使・ニッキー・ヘイリーは「治安部隊によるロヒンギャへの迫害に目をそむけているかと思えば、今度は迫害を取材したロイターの記者2人の実刑を正当化している。信じられない」と激しく非難した。 2018年1月、ラカイン州諮問委員会の提言に助言を与える委員会で、ロイター通信のミャンマー人記者2名が逮捕された件について、アメリカの元国連大使・ビル・リチャードソンが問題提起したところ、スーチーは「それはあなたの仕事じゃない」と発言。リチャードソンは委員を辞任した。 『アンダー30』という人気ウェブ・トーク番組の司会を務めるティンザーシュンレイイは「活動家や若者の多くは『次は何か』『何が起きるか』『私たちに何ができるか』と考えている。現段階では、スーチー女史は好き放題で、誰も干渉できない。市民団体の声に耳を傾けることもない」「スーチー氏が自ら訴えていた民主主義の本質と違うことを行う以上、応援してきた私は批判者にならざるを得なかった」「不満はあっても『もし彼女がいなくなったら国がダメになる』とみんな思っている」と批判している。 2018年5月、丸山市郎がミャンマー大使として赴任した際に、スーチーは丸山に「自分の思いどおりに動く人がやっと大使になった」と発言したのだという。 2018年に来日した際、NHKのインタビューを受けたが、その後、スーチーは日本政府に対して「なぜロヒンギャに関する質問ばかりするのか」「なぜ国営メディアなのに批判的な質問ばかりするのか」と不満をぶつけたのだという。 2018年8月ヤンゴン大学の学生と教師1000人の前で行ったディスカッションで、スーチーが選んだテーマは、経済でも和平プロセスでも民主主義でもなく、オックスフォード大学で学んだ文学で、小説において重用なのは筋か、あるいは登場人物かというものだった。 2019年9月、ヤンゴンのホテルで行われた、アウンサン将軍の生涯を描く映画の制作発表会に出席したスーチーに、何者かが緑のレーザー光線を当てるという事件があった。ミャンマー人記者によると、「(1948年の)独立以来、政府と紛争が続く少数民族との和平交渉が進まず、スーチー政権になってむしろ状況が悪化していることへの不満」の表れなのだという。 2019年12月11日にロヒンギャ問題、オランダ・ハーグの国際司法裁判所の法廷に国家顧問兼外務大臣として出廷した際には、西部ラカイン州でロヒンギャの武装集団が政府施設を襲撃したため、軍が掃討作戦を行ったと説明し「一部で不相応な力を行使した」として、無関係の民間人が死傷した可能性を認めたがジェノサイドではないとし、国内の司法問題として国際司法裁判所が審理する問題ではないと主張した。 『ラングーンを越えて』(1995)- 映画の冒頭、ヤンゴンで8888民主化運動の騒動に巻き込まれた、パトリシア・アークエット演じる主人公の女性が、スーチー率いるデモ隊と邂逅する。しかし、実際は8888民主化運動の際はスーチーはデモ行進を行っていないので、これは創作である。 『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』(2011年)- リュック・ベッソン監督、ミシェル・ヨー主演。8888民主化運動から1990年代に軍政から弾圧を受けていた日々にかけてのスーチーを描いている。スーチーがシュエダゴン・パゴダで初めて演説するシーンでは、ミシェル・ヨーは全編ミャンマー語で演じている。 『ロングインタビュー』 - 1998年にリリースされた井上陽水のアルバムに『九段』収録。スーチーをモチーフにした曲。歌詞に「ビルマのハープバラードのコードオイルカンパニー」というフレーズがある。 『ウォーク・オン』- U2の2000年のアルバム『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』収録。スーチーに捧げられている。2002年グラミー賞最優秀レコード賞。 『ビルマからの手紙』 アウンサンスーチー 著、土佐桂子・永井浩 共訳、毎日新聞社、1996年12月 ISBN 978-4-620-31147-0 (毎日新聞・Mainichi Daily Newsでの連載を単行本化) 『アウンサンスーチー演説集』 アウンサンスーチー 著、伊野憲治 編訳、みすず書房 ^ 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2024/11/18 10:33更新
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