もしもし情報局 > 1964年 > 12月12日 > 野球選手

アロンゾ=パウエルの情報 (AlonzoSidneyPowell)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月24日】今日誕生日の芸能人・有名人

アロンゾ=パウエルの情報(AlonzoSidneyPowell) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

アロンゾ=パウエルさんについて調べます

■名前・氏名
アロンゾ=パウエル
(読み:Alonzo Sidney Powell)
■職業
野球選手
■アロンゾ=パウエルの誕生日・生年月日
1964年12月12日 (年齢59歳)
辰年(たつ年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
不明

(昭和39年)1964年生まれの人の年齢早見表

アロンゾ=パウエルと同じ1964年生まれの有名人・芸能人

アロンゾ=パウエルと同じ12月12日生まれの有名人・芸能人

アロンゾ=パウエルと同じ出身地の人


アロンゾ=パウエルの情報まとめ

もしもしロボ

アロンゾ=パウエル(Alonzo Sidney Powell)さんの誕生日は1964年12月12日です。

もしもしロボ

引退、兄弟、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。アロンゾ=パウエルの現在の年齢は59歳のようです。

アロンゾ=パウエルのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

アロンゾ・シドニー・パウエル(Alonzo Sidney Powell , 1964年12月12日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者、スコアラー。右投右打。愛称は「ゾウさん」。

日本プロ野球(NPB)時代は1992年 - 1997年にかけて、セントラル・リーグ(セ・リーグ)の中日ドラゴンズで活躍。1998年には阪神タイガースでプレーした。

中日ドラゴンズ時代(1992年 - 1997年)は、在籍6年間通算で632試合出場・打率.318・107本塁打・369打点を記録。1993年 - 1996年には4年連続でセ・リーグのベストナインに選出され、1994年 - 1996年には3年連続でセ・リーグの首位打者を獲得した。中日時代の通算安打数は765で、この記録は2021年にダヤン・ビシエドが更新するまで、同球団の外国人選手としては歴代最多だった。

NPB史上初めて、3年連続で首位打者を獲得した外国人選手である。また2023年シーズン終了時点で、セ・リーグで3年連続首位打者を獲得した打者はパウエル以外に、長嶋茂雄・王貞治の2人[ともに元読売ジャイアンツ(巨人)]のみである。

同時期にはパシフィック・リーグ(パ・リーグ)でもイチロー(オリックス・ブルーウェーブ)が3年連続で首位打者を獲得しており、2人はそれぞれ両リーグを代表する安打製造機として名を馳せた。

また、打撃時の肘充て(エルボーガード)をNPBでいち早く使用した選手でもある。

1983年にサンフランシスコ・ジャイアンツと契約してプロ入り。マイナーリーグベースボールのA級時代にはインディアナポリス国際空港で荷物の積み下ろしのアルバイト(時給7ドル)をしていた。

1987年にモントリオール・エクスポズでメジャーデビュー。

1990年以降はマイナーリーグのAAA級で打率3割を記録。

1991年はシアトル・マリナーズ傘下のAAA級カルガリー・キャノンズ (PCL) でプレーしていたが、53試合に出場して打率.375・7本塁打・43打点の成績を残した。この活躍が認められ、シーズン途中でマリナーズに昇格し、メジャーで78試合に出場した。

1992年は最終段階でロースターから外れ、AAA級カルガリーでプレーしていた。

一方、セントラル・リーグ(セ・リーグ)の中日ドラゴンズは、1992年シーズンの開幕直前になって、外野手のマーク・ライアルがアメリカに帰国してしまう事態に見舞われた。これは、ライアルが左膝半月板損傷の重傷を負っていることが判明したためである。

このため、渉外担当の足木敏郎は新外国人を獲得するため、飯田幸夫調査役とともに渡米して新外国人の調査を行った。そのような中、球団OBのケン・モッカに「今からでも獲得できる日本向けの選手はいないか?」と相談したところ、前年から注目していたパウエルを紹介された。パウエルは当時、まだ27歳と若く、メジャー再昇格を諦めていなかったが、阪神タイガースでプレーしたセシル・フィルダーら、日本球界で活躍した先輩たちから「日本に行けるならチャンスだ」と聞かされ、来日を決断した。

足木はパウエルについて調査した結果、「日本向きの打者で、本人も日本でのプレーを希望している」という情報を得たため、代理人を通してマリナーズ球団および本人と交渉し、同年4月30日に入団が決定。日米両リーグおよびコミッショナーを通じて正式に獲得手続きが行われ、同年5月14日に支配下選手登録および一軍選手登録の手続きが行われた。年俸は35万ドル(約4,550万円ないし約4,700万円)・背番号は30で、球団および高木守道監督はパウエルに対し、「クリーンアップを打てる選手」と期待を掛け、主砲・落合博満の前後を打たせることを構想していた。また、リハビリ中のライアルが復帰してからはパウエルをライアルと併用する方針だったが、ライアルの代理人がインセンティブの面などで球団にクレームをつけたため、球団側は6月1日付でライアルをウェイバー公示する手続きを取った。

入団から約3週間後の5月13日に来日すると、同月19日に広島市民球場で開催された二軍(ウエスタン・リーグ)の対広島東洋カープ(二軍)戦で2安打を打った。さらに、同月21日の対広島戦(広島市民球場)ではバックスクリーンに2本塁打を放ったが、同日は夜に一軍の中日対広島戦が同球場で開催されることもあって、その試合を観戦していた高木が一軍昇格を即決。同年23日に本拠地・ナゴヤ球場で開催された対読売ジャイアンツ(巨人)戦で一軍初出場を果たした。同年は88試合の出場で、来日当初は日本の投手の変化球に苦しんだが、最終的には規定打席不足ながら、打率.308・13本塁打・35打点を記録した。

1993年シーズン(年俸:7,000万円)は開幕当初からクリーンアップを期待され、3番打者を打ったが、4月18日に浜松球場で開催された対ヤクルトスワローズ戦の試合後、濡れた階段を踏み外す。この時、全体重が左脚の膝にかかったことで、左膝外側半月板を損傷し、6週間あまり戦線を離脱した。さらに9月下旬から10月初旬にかけ、立浪和義や落合に続いて死球で負傷欠場し、同年中に右肘・左膝を手術した。しかし、同年は97試合に出場して規定打席に到達。打率.317(セ・リーグ3位)・27本塁打・66打点と、チーム三冠王となる打撃成績を残し、長打率もリーグ1位の.579を記録した。同年9月2日、リーグ優勝を争っていたヤクルトとの試合(ナゴヤ球場)では同点で迎えた延長15回裏、無死満塁の好機で打席に入ったが、内藤尚行の前に空振り三振に打ち取られ、4番・落合、5番・彦野利勝も相次いで見逃し三振した。同年から1996年まで4年連続でセ・リーグのベストナインに選出された。同年オフ、主砲の落合がフリーエージェント (FA) で巨人に移籍した。

1994年シーズン(年俸:8,640万円)は、落合に代わり4番打者を打つこととなった。同年にはシーズン序盤に右足親指を剥離骨折し、20試合を欠場したが、2年連続で規定打席に到達し、打率.324で初のセ・リーグ首位打者を獲得した。また、本塁打・打点もそれぞれ20本塁打・76打点を記録した。同年10月8日に本拠地・ナゴヤ球場で開催されたシーズン最終戦(10.8決戦)で中日は同率首位で並んでいた巨人に敗れ、リーグ優勝を逃したが、パウエル自身はこの試合について「日本での7年間で最も悔しい経験だったけど、あの試合に出場できたのは最も素晴らしい経験だった」「日本で最も印象深い試合」と述べている。

1995年シーズン(年俸:1億1,500万円)は、8月2日の対横浜ベイスターズ戦(ナゴヤ球場)で右足太腿上部(大腿直筋)を肉離れした(全治1か月の怪我)。同年は101試合の出場にとどまったが、打率.355を記録し、2年連続で首位打者を獲得。中日所属の選手が2年連続で首位打者を獲得した事例は、江藤慎一以来30年ぶりで、その活躍を評価され、同年のドラゴンズクラウン賞(第14回)を受賞した。同年は対横浜戦で打率.299にとどまったが、横浜以外の4球団との対戦ではいずれも打率3割以上を記録した。しかし、同年のチームは開幕から低迷を続け、シーズン途中(6月2日)で高木監督が休養し、その代行を務めた徳武定祐ヘッドコーチも低迷を止められず、7月以降は島野育夫二軍監督が「代行の代行」を務める有様で、リーグ5位(勝率.385 / 最下位の阪神と4ゲーム差)に低迷した。また、パウエル本人も同年に左膝を手術したが、左膝の具合はその後も芳しくなく、これが2年後の解雇の布石となった。同年オフには前年比30万ドル(当時のレートで約3,150万円)増額(125%増)となる推定年俸150万ドル(約1億5,000万円)で契約更改した。

星野仙一監督が就任した1996年は、5月から6月にかけて16試合連続安打を記録したほか、8月25日の対横浜戦(横浜スタジアム)では場外本塁打(飛距離165 m)を打った。同年は来日後初の全試合出場(130試合)を達成し、打率.340(176安打)で3年連続となる首位打者を獲得。また猛打賞15回、最多安打・最多二塁打も記録している。同年の中日はダネル・コールズが29本塁打、山崎武司が39本塁打(本塁打王)、大豊泰昭が38本塁打を記録し、パウエルも彼らとともに「強竜打線」の一員を担ったが、最終的には巨人との優勝争いに敗れ、5ゲーム差のリーグ2位でシーズンを終えた。10月5日の広島戦では佐々岡真司からナゴヤ球場最後のサヨナラヒットを放っている。

本拠地がナゴヤドームに移転した1997年は、開幕を控えて「グラウンドが広くなればヒットゾーンも広くなる」と本拠地移転を前向きに捉えていた。また、江川卓は開幕前にパウエルについて「広いドームを本拠地にすることでホームランを狙う必要がなくなり、これまで以上にヒットに徹することができるため、本拠地移転は打撃には好影響をもたらしそうだ。よほどのことがない限り(打率)3割は狙える」と評していた。しかし、2年前に手術した左膝の具合が思しくなく、ランニングもままならなかったことで下半身が細くなった。そのため、踏ん張りが効かなくなり、上半身を揺らしてタイミングを図る独特の打法から安定感が消えた。

同年4月12日の対ヤクルト戦(ナゴヤドーム)では推定飛距離160 mの大本塁打を放ったが、同年は6月頭に.315あった打率はみるみる下がり、8月29日までの時点で106試合出場・打率.253(リーグ27位)、・14本塁打・56打点と低迷。左膝の故障に加え、広いナゴヤドームでの守備力に難があることから、シーズン途中の同年8月30日には伊藤修球団代表から来季の契約を締結しない旨を通告された。同日時点で、中日にはパウエルを含め歴代32人の外国人野手が在籍したが、パウエルの在籍期間6年はその中で過去最長だった。同年9月6日の対巨人23回戦(ナゴヤドーム)終了後にはナゴヤドームのファンに別れを告げ、同月16日に帰米した。

同年の中日は広いナゴヤドームに本拠地を移したことで、本塁打が激減するなど、打撃成績が大きく落ち込み、セ・リーグ最下位(優勝したヤクルトと24ゲーム差、5位の阪神とは3ゲーム差)に沈んだ。これを機に、星野はチーム方針を投手力・守備力・走力を重視した「守り勝つ野球」に転換するため、シーズンオフに大豊と矢野輝弘を関川浩一・久慈照嘉との2対2トレードで阪神タイガースに放出するなど、大幅なチーム改革を行うこととなった。その翌年(1998年)には優勝した横浜と4ゲーム差のリーグ2位に浮上し、2年後(1999年)には11年ぶり(1988年以来)のセ・リーグ優勝を果たした。

中日退団が決まってからも引き続き日本球界でのプレー続行を希望し、1997年10月23日に阪神タイガースと契約を締結した。

1998年、春季キャンプの為に来日した際に膝の状態の悪さから走り込みができず体型が丸太のような状態で来日し周囲から不安視され、シーズンは開幕から左翼手で起用されたが、開幕3三振に始まり4月終わった時点で打率1割台と絶不調スタートだったが、5月に入ると復調し6月11日の対巨人11回戦では移籍後としては最高の打率.297まで上げたが、これ以降は成績は後退し結局前年同様不振で控えに回ることが多く、故障離脱中に新人の坪井智哉が台頭。吉田義男監督からは後半戦からの奮起を促され、8月7日からの対ヤクルト3連戦で一塁手として先発出場したが、その3連戦でも9打数無安打に終わった。同月11日には阪神球団事務所で、三好一彦球団社長からシーズン途中で解雇する意向を伝えられ、これを了承した。これで阪神の外国人選手がシーズン中に解雇されたのは、1996年のスコット・クールボーとグレン・デービス(登録名グレン)、マイク・グリーンウェル(1997年)に続き、3年連続となった。また、阪神球団も同年はセ・リーグ最下位(優勝した横浜と27ゲーム差、5位の広島と8ゲーム差)に沈んだ。

阪神退団後、1998年はトロント・ブルージェイズ傘下のマイナーAAA級シラキュース・スカイチーフス (IL) で15試合に出場した。1999年春にはニューヨーク・ヤンキースのキャンプにインバイティー(招待選手)として参加し、オープン戦で本塁打を放つなど力を見せたが、同年はメジャー復帰は叶わず、ヤンキース傘下のマイナーAAA級コロンバス (IL) でプレー。打率.315・24本塁打・90打点と好成績を残したがメジャー昇格の機会がなく、2000年春は若手選手の多いコロラド・ロッキーズの春季キャンプにインバイティーとして参加。同年はコロンバスおよびマイナーAAA級コロラドスプリングス・スカイソックス(ロッキーズ傘下 / PCL)で、2001年はアトランティックリーグ(独立リーグ)のニューアーク・ベアーズでそれぞれプレーし、2001年限りで現役を引退

引退後、2002年にシンシナティ・レッズ傘下のAA級チャタヌーガ・ルックアウツ(サザンリーグ)で打撃コーチに就任。2004年 - 2005年にはレッズ傘下のA級デイトン・ドラゴンズ(ミッドウェストリーグ)の監督を、2006年にはレッズ傘下のAAA級ルイビル・バッツの打撃コーチを務めた。

2007年に組織打撃コーチとしてマリナーズに復帰し、2008年以降はマリナーズ傘下のAAA級タコマ・レイニアーズの打撃コーチを務めていたが、2010年5月9日に打撃不振による前任者(アラン・コックレル)の解任を受け、マリナーズの打撃コーチに就任。

2011年には再びAAA級タコマの打撃コーチを務め、同年のチームは平均打率.289を記録したほか、盗塁数も球団記録 (893) を記録した。その後、サンディエゴ・パドレス(2012年 - 2015年)、ヒューストン・アストロズ(2016年- 2017年)でそれぞれ打撃コーチ補佐を歴任。この間、2012年オフには主砲を担っていたトニ・ブランコの退団を受け、その後釜となる新外国人の獲得を検討していた中日球団に対し、パドレスAAA級に在籍していたマット・クラーク(2013年に新外国人として入団)を推薦している。

2018年シーズンからヘンスリー・ミューレンスに代わり、サンフランシスコ・ジャイアンツの打撃コーチに就任し、2019年シーズンまで務めた。この間、チームには2020年から横浜DeNAベイスターズでプレーすることになるタイラー・オースティンが在籍しており、パウエルから日本プロ野球での経験について「色々と教えてもらった」と述べている。

2018年1月、前立腺がんであることを公表し、手術を受けた。

2020年シーズンから中日の巡回打撃コーチに就任することが発表された。背番号は93。2020年8月7日以降はスコアラーとしてベンチに入り、2021年シーズンから村上隆行と入れ替わりで一軍打撃コーチに配置転換されたが、シーズン終了後の10月29日に退団することが発表された。

2024年よりロサンゼルス・エンゼルス傘下AAA級ソルトレイク・ビーズの打撃コーチに就任した。

中日入団時、渉外担当者の足木敏郎は三振の少なさに加え、「二塁打が多い選手は日本の球場なら本塁打になる」という基準から、パウエルの獲得に踏み切っていた。また、中日入団時に監督を務めていた高木守道は初めてパウエルの打撃練習を見た際、「パワーはライアルより上で、中軸を打つ力がある」と評していた。

広角に打ち分ける巧打で台頭した一方、怪我が多く、全試合出場を果たしたシーズンは1996年のみだった。また脚力がなくて守備範囲も狭く、肩も特段に強くはなかったため、江川 (1997) は「ライト(右翼手)が定位置だが、本来なら(バックホームで)肩をさほど要求されないレフト(左翼手)を守らせたい」と評していた。

また、研究熱心な性格で、現役時代はビデオを見て相手投手を研究していたほか、指導者としてもビデオ映像を活用して選手たちに研究を指導している。

現役時代は明るく真面目な性格で、チームメイトに親しまれていた。パウエル本人は引退後の2016年、『中日新聞』の記者から国際電話で取材を受けた際、日本で過ごした7年間について「素晴らしい仲間に恵まれた。立浪(和義)、山本昌、中村(武志)、郭(源治)、大豊(泰昭)。だれもがとてもよくしてくれ、通訳さんや近所の人も色々と助けてくれた。自分は、今でもドラゴンズの一員だと感じている。」と述べている。

足木は自著 (2009) でパウエルについて、「確実性の高い打撃に加え、人柄の良さが印象に残っている」と述べている。また、外国人選手たちが日本球界に適応するためには生活環境・チームの雰囲気に溶け込むことが必要とされるが、球団通訳の国光豊春は、ダネル・コールズやレオ・ゴメスといった中日の新外国人選手たちが好成績を挙げられる要因を「ゾウさん(パウエル)のおかげ」と評していた。1996年にともに在籍したコールズとは兄弟のように仲が良く、ナゴヤ球場前のラーメン店に2人でよく通っていたほか、引退後も毎週のように電話で連絡を取り合っている。

自身の中日時代の応援歌(山本リンダの『狙いうち』)は、かつて在籍していたゲーリー・レーシッチの応援歌を受け継ぎ、その後は中日のチャンステーマとして使用されていた。また、1997年に応援歌が変更され、この応援歌も同様に後々まで中日のチャンステーマとして使用された。

パウエルは8歳のころからプロ野球選手を目指していたが、彼とともにその夢を追っていた親友は麻薬に手を出し、麻薬売買の際に銃撃されて死亡した。パウエルはその経験を踏まえ、1996年3月29日に名古屋国際会議場(愛知県名古屋市熱田区)で開かれた少年非行問題をテーマにした講演会で、講演を聴講した聴衆に対し「(非行防止のためには)自分の夢をしっかり持ち続け、それに向かって努力することが大切」と話している。

また、自身のセ・リーグ3年連続首位打者と同時期(1994年 - 1996年)にパ・リーグで3年連続首位打者を獲得したイチローについては、「守備、打撃、走塁、さらに肩も良かった。世界一のプレーヤーだ」と評している。そのイチローとは1996年春に「打率の低いほうが食事をおごる」という賭けを行ったが、結果的に自身の打率は.340で、イチロー(打率.356)に敗れている。

マーティ・キーナートは2001年12月に、『MSN ジャーナル』へ寄稿した記事で「星野仙一監督の就任以降、パウエルは星野の『鉄拳制裁』と称した暴力行為に不満を持っていた。1997年のシーズン中にはシーズン途中で加入した投手が2回連続でリリーフに失敗し、星野に顔面を殴られて3針縫うほどの怪我を負わされた。これに憤慨したパウエルは翌日、星野に対し『自分がそんなに強いと思うなら、私を殴ったらどうだ。救急車で病院行きになるのはあなたのほうだぞ。これ以上、ほかの選手を殴るのはやめてくれ!』と直接抗議したが、その後は試合に出されなくなった」「パウエルは近年の中日が優勝できない理由について、『星野の暴力行為に選手たちが萎縮しているからだ』と指摘している」と述べている。

一方、パウエル本人は2016年、水次祥子(『日刊スポーツ』記者)からの取材に対し、星野との確執を否定した上で、星野については「普段は優しい人だった。いつも私やダネルに『何か必要なものはないか?』と尋ねてくれたり、『これで食事に行きなさい』とお金を渡してくれたこともある。本当に良くしてもらった」「タフガイで、何よりも勝利に対して貪欲だった。どんなことをしてでも勝ちたいという監督だったと思うし、私は好きだった」「(1996年は)本当に勝ちたかった。その思いは星野監督と同じだった」と語っている。星野は2018年1月に死去したが、パウエルは同年11月に来日した際、星野の死を悼んで彼の故郷である岡山県倉敷市を訪れている。

足木は自著 (2009) で、パウエルがエルボーガードを使用し始めた経緯について、「巨人戦で桑田真澄から左肘に死球を受け、しばらく欠場したことがきっかけで、『エルボーガードを作ってほしい』と申し出てきた。製作には約1か月かかったが、パウエルはエルボーガードを装着してから死球への恐怖がなくなり、踏み込んで打席に立つことができるようになったことで、それまで苦手にしていた外角のスライダーなどを打てるようになった」と述べている。

その後、エルボーガードはプロ野球界のみならず高校野球でも用いられるほど普及した。

各年度の太字はリーグ最高

首位打者:3回(1994年 - 1996年)※外国籍では王貞治に次ぎ、与那嶺要と並ぶ歴代2位タイ。3年連続は長嶋茂雄・王と並ぶセ・リーグ最長タイ、長嶋・落合博満と並ぶ右打者最長タイ

最多安打:1回(1996年)

ベストナイン:4回(外野手部門:1993年 - 1996年)

月間MVP:1回(野手部門:1992年7月)

愛知トヨタドラゴンズクラウン賞:1回(1995年)

初出場・初先発出場:1992年5月23日、対読売ジャイアンツ6回戦(ナゴヤ球場)、3番・右翼手として先発出場

初安打・初打点:1992年5月24日、対読売ジャイアンツ7回戦(ナゴヤ球場)、5回裏に斎藤雅樹から適時打

初本塁打:1992年5月27日、対広島東洋カープ10回戦(ナゴヤ球場)、9回裏に北別府学からソロ

100本塁打:1997年5月27日、対阪神タイガース9回戦(阪神甲子園球場)、2回表に竹内昌也からソロ ※史上191人目

同一試合で初回先頭打者本塁打とサヨナラ本塁打:1993年10月13日、対ヤクルトスワローズ(ナゴヤ球場)※史上初

オールスターゲーム出場:2回(1994年、1996年)

21(1987年)

7(1991年)

30(1992年 - 1998年、2010年 - 同年途中)

47(2010年途中 - 同年終了)

32(2012年 - 2015年)

55(2016年 - 2017年)

33(2018年 - 2019年)

93(2020年 - 2021年)

^ 「アロンゾ」の「ゾ」をもじった愛称。MLB機構の公式サイトでは「Nickname: Zo-San」と紹介されているほか、ヒューストン・アストロズ打撃コーチ補佐時代の2017年のプレイヤーズ・ウィークエンドの時にはZO-SANの背ネームになっていた。

^ 1959年 - 1961年。

^ 1968年 - 1970年。

^ パ・リーグを含めてもこの3人と、イチロー・落合博満・張本勲の計6人のみである。

^ 主に代打で111打数。

^ ライアルは来日1年目の1991年に5番打者として打率.285・24本塁打・87打点の好成績を残していたが、1992年春季キャンプ中に左膝を痛め、開幕直後から約1か月半にわたり戦線離脱していた。

^ 足木は当時、年に複数回渡米してメジャーおよび3A・2Aで日本向きの外国人選手を調査していたが、当時は開幕直後だったため、リストアップしていた選手のほとんどは進路が決まっていた。

^ 1992年開幕当初、中日の背番号30は高卒新人の若林隆信(ドラフト3位)が着用していたが、若林隆はパウエルの入団を受けて背番号を00に変更した。

^ パウエルは高木の訃報(2020年1月)を受け、生前の高木について「1年目は打てなかった自分を2年目も使ってくれた」と述べ、謝意を表明している。

^ ライアルの代理人はライアルを他球団に放出するよう要請したが、中日とほか複数球団の移籍交渉はいずれも成立しなかった。

^ 通称「親子ゲーム」。

^ パウエルはそれ以前にも同じ箇所を故障したことがあり、横江清司チームドクターから「シーズンが始まったばかりなので、手術を含めて治療に専念するほうがいい」と勧められたが、本人は「歩くのにも支障はない。試合に出たい」と主張したため、20日からの巨人戦(東京ドーム)には同行した。しかし、同日の試合には出場できたものの、痛みが収まらないため帰名し、出場選手登録も抹消された。

^ 結局、同年の中日はヤクルトとの首位争いに敗れてリーグ優勝を逃したが、パウエル自身はこの打席を「中日での最も思い出の残る出来事」として挙げている。

^ 1997年の年俸も1億5,000万円。

^ 同年の130試合中、無安打に終わった試合は27試合だった。

^ 低迷の理由について「広いナゴヤドームを意識しすぎたためだろう」と述べている文献もある。

^ 同日付で出場選手登録も抹消されたが、同シーズン中は支配下選手登録を継続し、シーズン終了後に自由契約となった。

^ その後、レオ・ゴメス(1997年 - 2002年)もこの記録(在籍期間6年)に並んでいる。

^ この試合で中日は5位・巨人との直接対決に敗れ、4月13日以来の最下位に転落。そのままリーグ最下位でシーズンを終えた。

^ 1996年(ナゴヤ球場最終年)は本拠地・ナゴヤ球場で92本のチーム本塁打を記録し、チーム打率も.292を記録したが、ナゴヤドーム1年目(1997年)は本拠地でのチーム本塁打数は35本に激減し、同球場でのチーム打率も.229と低迷した。前年に39本塁打(打率.322・107打点)を打ち本塁打王を獲得した山崎は19本塁打(打率.257・54打点)、38本塁打(打率.294・89打点)を打った大豊も12本塁打(打率.240・35打点)と、それぞれ成績を急落させた。

^ 星野はパウエルを解雇した当時、「パウエル、大豊、山崎の3人は1人だけで良い」(=打つだけの選手は一塁のみ)と話しており、実際に山崎以外の2人は同年限りで中日を放出された。

^ 1998年シーズンの年俸は「1億8,000万円」とする文献、「1億円」とする文献がある。

^ その後、1999年にはマイク・ブロワーズが、2000年にはハワード・バトルがそれぞれシーズン途中で解雇されている。

^ 同月8日時点で、マリナーズはチーム打率がアメリカンリーグで最下位となる.225に低迷していた。

^ 1996年は対左投手の打率が.316、対右投手の打率は.345。

^ 1997年の開幕後、シーズン途中で中日に加入した投手は小野和義のみ。なお、小野(西武ライオンズから移籍)は8試合の登板に終わり、同年限りで現役を引退している。

^ “Alonzo Powell Stats, Fantasy & News” (英語). MLB.com. MLB. 2021年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月9日閲覧。

^ “Alonzo Powell Minor, Japanese & Independent Leagues Statistics & History” (英語). Baseball-Reference.com. Sports Reference. 2020年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月9日閲覧。

^ 『中日新聞』1992年5月23日朝刊第二運動面26頁「立浪、パウエル きょう(G戦)戦列に 昇竜へ主力まず2人 郭も再登録間近」(中日新聞社)

^ “Alonzo Powell 1991 Batting Game Logs” (英語). Baseball-Reference.com. Sports Reference (1991年). 2021年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月9日閲覧。

^ ベースボール・マガジン社 2005, p. 85.

^ “Alonzo Powell Minor, Japanese & Independent Leagues Statistics & History” (英語). Baseball-Reference.com. Sports Reference. 2021年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月9日閲覧。

^ ベースボール・マガジン社 2016, p. 76.

^ 『中日新聞』1997年8月31日朝刊第二運動面32頁「取材余話 強打で隠した繊細さ」(中日新聞社)

^ 「背中に愛称、特別仕様ユニに「無法者」「禅の達人」」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2017年8月27日。オリジナルの2018年9月25日時点におけるアーカイブ。2021年1月9日閲覧。

^ CBCテレビ特別解説委員・北辻利寿「ドラの巻【CBCドラゴンズ情報】 与田ドラゴンズに喝!かつての強力“助っ人”たちが海を渡って駆けつける!」『CBCテレビ』中部日本放送、2019年11月29日。オリジナルの2021年1月16日時点におけるアーカイブ。2021年1月16日閲覧。

^ 【補強は過去に学べ!!】史上最強は誰?!ドラ歴代助っ人を独断で語り尽くす『ドラゴンズ外国人クロニクル(前編)』でカスティーヨが蘇る第7話 - YouTube

^ 『中日新聞』1997年8月31日朝刊第一社会面39頁「中日 パウエル選手解雇 3年連続首位打者 今季不振で球団決断」(中日新聞社)

^ 「中日コーチに"3年連続首位打者"パウエルさん就任へ「選手にノウハウ伝えて」与田監督の要望で実現」『中日スポーツ』中日新聞社、2019年11月18日。オリジナルの2021年1月9日時点におけるアーカイブ。2021年1月9日閲覧。

^ 「【中日】ビシエド『パウエル超え』766安打 球団外国人単独1位 4回に中前打」『中日スポーツ』中日新聞社、2021年9月24日。オリジナルの2022年4月17日時点におけるアーカイブ。2022年4月16日閲覧。

^ 筒居一孝(スラッガー編集部)「“3年連続首位打者”アロンゾ・パウエルがコーチで復帰――中日”強竜打線”の復活なるか」『THE DIGEST』日本スポーツ企画出版社、2019年11月23日。オリジナルの2021年2月10日時点におけるアーカイブ。2021年2月10日閲覧。

^ スポーツライター 丹羽政善「イチローとパウエル セ・パ両リーグ首位打者の邂逅」『日本経済新聞』日本経済新聞社、2010年5月31日。オリジナルの2021年2月10日時点におけるアーカイブ。2021年2月10日閲覧。

^ 中日ドラゴンズ 2016, p. 221.

^ プロ野球死亡遊戯(中溝康隆)「アロンゾ・パウエル “イチローを超えるヒットマン”と称された打撃職人/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】」『週刊ベースボールONLINE』ベースボール・マガジン社、2019年2月27日。オリジナルの2021年1月9日時点におけるアーカイブ。2021年1月9日閲覧。

^ 足木敏郎 2009, p. 250.

^ 月刊ドラゴンズ & 1992.6, p. 13.

^ 月刊ドラゴンズ & 1992.7, p. 43.

^ 月刊ドラゴンズ & 1992.6, p. 12.

^ 足木敏郎 2009, p. 247.

^ 『中日新聞』2016年6月23日朝刊第一運動面27頁「CDの系譜 助っ人回顧録 インタビュー アロンゾ・パウエルさん 今でも竜の一員だと感じている。」(中日新聞社 記者:海老名徳馬)

^ 月刊ドラゴンズ & 1992.6, pp. 12–13.

^ 『中日新聞』1992年5月1日朝刊第二運動面26頁「パウエル決定 中日第3の外国人選手 23日G戦デビューか」(中日新聞社)

^ 『中日新聞』1992年5月15日朝刊第一運動面27頁「快打ボンボン 中日の新外国人 パウエル俊敏、初練習」(中日新聞社)

^ 「"10・8竜戦士"アロンゾ・パウエルが恩師の高木守道氏を悼む「1年目は打てなかったんだ。それでも…」」『中日スポーツ』中日スポーツ、2020年1月20日。オリジナルの2021年2月11日時点におけるアーカイブ。2021年2月11日閲覧。

^ 『中日新聞』1992年5月31日朝刊第一運動面25頁「ライアル移籍希望 球団側、複数チームに打診」(中日新聞社)

^ 『中日新聞』1992年6月2日朝刊第一運動面21頁「ライアルをウエーバー公示手続き」(中日新聞社)

^ 足木敏郎 2009, p. 249.

^ 「'93プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第17巻第4号、日本スポーツ出版社、1993年3月31日、189頁。  - 通巻:第174号(1993年3月号増刊)。

^ ホームラン 1994, p. 48.

^ 月刊ドラゴンズ 1993, p. 21.

^ 月刊ドラゴンズ 1993, p. 80.

^ 『中日新聞』1993年4月20日朝刊第一運動面17頁「パウエル 左ひざ痛 全治1ヵ月 巨人戦出場は微妙」(中日新聞社)

^ 『中日新聞』1993年4月23日朝刊第一運動面27頁「パウエル帰国手術へ」(中日新聞社)

^ 『中日ドラゴンズ '94ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1994年3月16日、26頁。ISBN 978-4806202714。 

^ 中日ドラゴンズ 2016, p. 138.

^ ホームラン 1994, p. 211.

^ 『中日新聞』1994年4月7日朝刊第二運動面26頁「魅せる(上) 打撃陣 パワーに技 パウエル変身」(中日新聞社 記者:末次秀行)

^ 『中日ドラゴンズ '95ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1995年3月11日、28頁。ISBN 978-4806202912。 

^ ホームラン 1995, p. 48.

^ 樋口浩一「あの外国人選手いま、何をしてる?元助っ人たちのセカンドキャリア パウエル(元中日ほか・外野手) はいま、何をしてる?」『週刊ベースボールONLINE』ベースボール・マガジン社、2017年5月29日。オリジナルの2021年1月9日時点におけるアーカイブ。2021年1月9日閲覧。

^ 『中日新聞』1995年8月4日朝刊第一運動面23頁「横浜4-3 粘竜 延長10回、佐藤が誤算」(中日新聞社)

^ 『中日ドラゴンズ '96ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1996年3月13日、38頁。ISBN 978-4806203131。 

^ 『中日新聞』1995年10月6日朝刊第一運動面37頁「パウエルにクラウン賞」(中日新聞社)

^ ホームラン 1996, p. 91.

^ 中日ドラゴンズ 2016, p. 140.

^ “年度別成績 1995年 セントラル・リーグ”. NPB.jp. 日本野球機構 (1995年). 2021年2月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月10日閲覧。

^ ホームラン 1997, p. 47.

^ 『中日新聞』1996年1月6日朝刊第一運動面23頁「プロ野球契約更改 【中日】パウエル1億5千万」(中日新聞社)

^ “年度別成績 1996年 セントラル・リーグ”. NPB.jp. 日本野球機構 (1996年). 2021年2月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月10日閲覧。

^ 「平成ナゴヤ球場の逆転劇」ドラゴンズ・サヨナラ男列伝!CBC

^ 『中日ドラゴンズ '97ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1997年3月18日、42頁。ISBN 978-4806203360。 

^ 江川卓 & 二宮清純 1997, p. 57.

^ 『中日新聞』1997年8月31日朝刊第二運動面32頁「ひざ回復せず成績ダウン 解雇のパウエル 打法の安定感欠く」(中日新聞社 記者:栗田秀之)

^ 『東京新聞』1997年8月31日朝刊第一運動面23頁「セ・リーグ 【中日】パウエル、今季で退団」(中日新聞東京本社)

^ 「中日、ビシエドと3年総額10億円超合意 契約全うなら球団助っ人最長タイ」『Sponichi Annex』スポーツニッポン新聞社、2018年12月10日。オリジナルの2021年2月10日時点におけるアーカイブ。2021年2月10日閲覧。

^ 『中日新聞』1997年9月7日朝刊第一運動面37頁「セリーグ 第23節 6日 竜、屈辱の最下位 G2カ月ぶり5位 巨人6-2中日」(中日新聞社)

^ 『中日新聞』1997年9月17日朝刊第一運動面29頁「プロ野球短信 【中日】パウエルが帰米」(中日新聞社)

^ 中日スポーツ・加藤宏幸「優勝中日ドラゴンズ '99Vの軌跡 1999 Central's Championship」『月刊ドラゴンズ』1999年10月臨時増刊号、中日新聞社、1999年10月1日、76-77頁。 (※協力:中日スポーツ)

^ 江川卓 & 二宮清純 1998, p. 192.

^ 江川卓 & 二宮清純 1998, p. 160.

^ “年度別成績 1997年 セントラル・リーグ”. NPB.jp. 日本野球機構 (1997年). 2021年2月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月10日閲覧。

^ 戸部良也 2000, pp. 149–150.

^ “年度別成績 1998年 セントラル・リーグ”. NPB.jp. 日本野球機構 (1998年). 2021年2月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月10日閲覧。

^ 戸部良也 2000, p. 222.

^ 江川卓 & 二宮清純 1998, p. 163.

^ 「'98プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第22巻第4号、日本スポーツ出版社、1998年3月31日、89頁。  - 通巻:第236号(1998年3月号)。

^ 『中日新聞』1997年10月24日朝刊第二運動面28頁「プロ野球短信 【阪神】パウエルと正式契約」(中日新聞社)

^ 『東京新聞』1998年8月11日朝刊第二運動面16頁「【阪神】パウエル登録抹消 途中退団の可能性も」(中日新聞東京本社)

^ スポーツコミュニケーションズ「[虎四ミーティング~限界への挑戦記~] 坪井智哉(プロ野球コーチ)<後編>「振り子打法、イチローとの秘話」」『現代ビジネス』講談社、2014年12月26日、4面。オリジナルの2021年2月10日時点におけるアーカイブ。2021年2月10日閲覧。

^ 『東京新聞』1998年8月12日朝刊第一運動面19頁「【阪神】パウエルを解雇」(中日新聞東京本社)

^ 『中日新聞』1998年8月12日朝刊第二運動面18頁「パウエル解雇 阪神 中日時代、3年連続首位打者の栄光残し」(中日新聞社)

^ 『東京新聞』2000年2月28日夕刊三面3頁「US SPORTS ONLINE 最後はメジャーで」(中日新聞東京本社 記者:樋口浩一 スポーツライター=在ロサンゼルス)

^ Wayne Graczyk (2010年5月16日). “Three-time CL batting king Powell relishing chance to coach Mariners” (英語). The Japan Times (株式会社ジャパンタイムズ). オリジナルの2021年2月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210210133806/https://www.japantimes.co.jp/sports/2010/05/16/baseball/three-time-cl-batting-king-powell-relishing-chance-to-coach-mariners/ 2021年2月10日閲覧。 

^ “Bats Announce Coaching Staff for 2006” (英語). MiLB.com. MLB機構. 2021年2月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月10日閲覧。

^ 『中日新聞』2010年5月10日夕刊スポーツ面7頁「【シアトル=樋口浩一】大リーグ マリナーズ 元中日パウエル 打撃コーチ昇格」(中日新聞社)

^ Brian McTaggart (2015年12月7日). “Powell is Astros' new assistant hitting coach” (英語). MLB機構. オリジナルの2021年1月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210210135014/https://www.mlb.com/news/alonzo-powell-joins-astros-coaching-staff/c-159065358 2021年2月10日閲覧。 

^ Chris Haft (2017年11月2日). “Giants poised to hire Astros' Powell” (英語). MLB機構. オリジナルの2021年1月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210210133429/https://www.mlb.com/news/giants-to-hire-astros-coach-alonzo-powell-c260461858 2021年2月10日閲覧。 

^ 『中日新聞』2013年1月11日朝刊第一運動面25頁「中日 クラーク獲得発表」(中日新聞社)

^ 「元中日のパウエル氏がジャイアンツ打撃コーチへ」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2017年11月3日。オリジナルの2021年1月9日時点におけるアーカイブ。2021年1月9日閲覧。

^ “To My BayStars Family”. ザ・プレーヤーズ・トリビューン. 2023年6月4日閲覧。

^ 「元阪神パウエル氏、がんで手術もキャンプ参加へ」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2018年1月29日。オリジナルの2021年1月9日時点におけるアーカイブ。2021年1月9日閲覧。

^ 「元中日パウエル氏がんの手術成功、妻「とても順調」」『日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞社、2018年1月31日。オリジナルの2021年1月9日時点におけるアーカイブ。2021年1月9日閲覧。

^ “ドラゴンズニュース ★アロンゾ・パウエル氏が打撃巡回コーチに”. 中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト (2019年11月19日). 2020年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月15日閲覧。

^ “ドラゴンズニュース ★来季コーチングスタッフのお知らせ”. 中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト (2019年11月23日). 2020年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年12月15日閲覧。

^ 「中日・パウエル新コーチの背番号は「93」栗原コーチは「73」仁村2軍監督は「72」 2020年のコーチングスタッフ発表」『中日スポーツ』中日新聞社、2019年11月23日。オリジナルの2021年1月9日時点におけるアーカイブ。2021年1月9日閲覧。

^ 「中日のパウエル巡回打撃コーチが今季初めてベンチ入り…てこ入れ成功で巨人に大勝 与田監督「私にとっても心強い」」『中日スポーツ・東京中日スポーツ』中日新聞社、2020年8月7日。オリジナルの2021年1月9日時点におけるアーカイブ。2021年1月9日閲覧。

^ “ドラゴンズニュース ★コーチングスタッフ決定のお知らせ”. 中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト (2020年12月15日). 2020年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月9日閲覧。

^ 【中日】パウエル打撃コーチ、中村武志バッテリーコーチらの退団発表 - 中日スポーツ

^ “Coaching Staff Set For 2024 Season”. MiLB.com (2024年2月16日). 2024年3月21日閲覧。

^ 江川卓 & 二宮清純 1997, p. 56.

^ 『中日新聞』1992年5月16日朝刊第二運動面「高木監督、パウエルに“一目ぼれ” 19日の広島戦 3番右翼デビュー 練習見て判断、可能性を買う」(中日新聞社)

^ 足木敏郎 2009, p. 251.

^ 『日刊スポーツ』2016年8月31日第8版野球面4頁「野球の国から 毎週火〜土曜掲載 2016 シリーズ(34) あの助っ人たち パート2(2)今でも仲良し元CDコンビ パウエル(アストロズ打撃コーチ)&コールズ(ブルワーズ打撃コーチ)」(日刊スポーツ新聞社 記者:水次祥子)

^ 『中日新聞』1996年3月30日朝刊市民総合版21頁「【愛知県】悲しいとき…つらいとき… 夢忘れないで パウエル&ジョン非行防止トーク 熱田区の国際会議場に200人 体験もとに熱っぽく」(中日新聞社)

^ ベースボール・マガジン社 2016, p. 130.

^ ベースボール・マガジン社 2005, p. 136.

^ マーティ・キーナート「「燃える男」の2つの顔:鉄拳制裁は認められるべきか」『MSN ジャーナル』MSN、2001年12月20日。オリジナルの2001年12月30日時点におけるアーカイブ。2001年12月20日閲覧。

^ 『中日新聞』2018年12月11日朝刊第一運動面25頁「パウエルさん ナゴヤ球場に 96年以来「感動」」(中日新聞社)

^ 足木敏郎 2009, pp. 253–254.

^ 中日ドラゴンズ 2016, p. 32.

^ “日本ハム万波がプロ野球史上2人目の快挙!1試合で先頭打者弾とサヨナラ弾 93年の中日パウエル以来”. スポニチアネックス. (2023年9月16日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/09/16/kiji/20230916s00001173568000c.html 2023年9月17日閲覧。 

「クリーンアップ期待 パウエル獲得 年俸4700万円、背番号30 強肩、強打に快足 “高木野球”にピッタリ 昨年3Aで3割7分5厘、7発、43打点 メジャーにも78試合出場」『月刊ドラゴンズ』第110号、中日新聞本社、1992年6月1日、12-14頁。  - 1992年6月号

「なんでも情報」『月刊ドラゴンズ』第111号、中日新聞本社、1992年7月1日、42-43頁。  - 1992年7月号

『月刊ドラゴンズ』第122号、中日新聞本社、1992年7月1日。  - 1993年6月号

「'94プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第18巻第5号、日本スポーツ出版社、1994年3月31日。  - 通巻:第191号(1994年3月号増刊)。

「'95プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第19巻第3号、日本スポーツ出版社、1995年3月15日。  - 通巻:第202号(1995年3月号増刊)。

「'96プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第20巻第4号、日本スポーツ出版社、1996年3月31日。  - 通巻:第213号(1996年3月号増刊)。

(解説)江川卓、(制作)二宮清純 著、(編集)株式会社デポルテ、(編集担当)飯田健之、小関, 順二 編『プロ野球スカウティングレポート'97』ザ・マサダ〈第1刷発行〉、1997年3月5日。ISBN 978-4915977398。国立国会図書館書誌ID:000002553097。 

「'97プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第21巻第4号、日本スポーツ出版社、1997年3月31日。  - 通巻:第225号(1997年3月号増刊)。

(解説)江川卓、(制作)二宮清純 著、(編集)株式会社デポルテ、(編集担当)飯田健之・松本恵、(編集協力)北原悦子 編『江川卓・スカウティングレポート'98』ザ・マサダ〈第1刷発行〉、1998年3月25日、286-287頁。ISBN 978-4915977572。 

戸部良也『熱将 星野仙一』(初版第1刷発行)KTC中央出版、2000年4月27日。ISBN 978-4877581718。 

池田哲雄 編『中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡』ベースボール・マガジン社〈スポーツシリーズNo.234〉、2005年6月1日、47頁。ISBN 978-4583613246。  - 『B・B MOOK』350

足木敏郎『ドラゴンズ裏方人生57年』(初版第1刷発行)中日新聞社、2009年12月6日、246-254頁。ISBN 978-4806206040。 

池田哲雄(編集兼発行人) 編『中日ドラゴンズ80年史 シリーズ1 1974-1999』ベースボール・マガジン社、2016年3月16日。ISBN 978-4583624235。  - 『B・B MOOK』1289

中日ドラゴンズ、中日スポーツ(企画協力) 編『中日ドラゴンズ80年史』(初版第1刷)中日新聞社(発行者:白井文吾)、2016年3月18日。ISBN 978-4806207009。 

メジャーリーグベースボールの選手一覧 P

北米・欧州出身の日本プロ野球外国人選手一覧

中日ドラゴンズの選手一覧

阪神タイガースの選手一覧

カリフォルニア州出身の人物一覧

個人年度別成績 A.パウエル - NPB.jp 日本野球機構

選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)

1950 藤村富美男

1951 川上哲治

1952 西沢道夫

1953 川上哲治

1954 与那嶺要

1955 川上哲治

1956 与那嶺要

1957 与那嶺要

1958 田宮謙次郎

1959 長嶋茂雄

1960 長嶋茂雄

1961 長嶋茂雄

1962 森永勝治

1963 長嶋茂雄

1964 江藤慎一

1965 江藤慎一

1966 長嶋茂雄

1967 中暁生

1968 王貞治

1969 王貞治

1970 王貞治

1971 長嶋茂雄

1972 若松勉

1973 王貞治

1974 王貞治

1975 山本浩二

1976 谷沢健一

1977 若松勉

1978 水谷実雄

1979 F.ミヤーン

1980 谷沢健一

1981 藤田平

1982 長崎啓二

1983 真弓明信

1984 篠塚利夫

1985 R.バース

1986 R.バース

1987 篠塚利夫, 正田耕三

1988 正田耕三

1989 W.クロマティ

1990 J.パチョレック

1991 古田敦也

1992 J.ハウエル

1993 T.オマリー

1994 A.パウエル

1995 A.パウエル

1996 A.パウエル

1997 鈴木尚典

1998 鈴木尚典

1999 R.ローズ

2000 金城龍彦

2001 松井秀喜

2002 福留孝介

2003 今岡誠

2004 嶋重宣

2005 青木宣親

2006 福留孝介

2007 青木宣親

2008 内川聖一

2009 A.ラミレス

2010 青木宣親

2011 長野久義

2012 阿部慎之助

2013 T.ブランコ

2014 M.マートン

2015 川端慎吾

2016 坂本勇人

2017 宮﨑敏郎

2018 D.ビシエド

2019 鈴木誠也

2020 佐野恵太

2021 鈴木誠也

2022 村上宗隆

2023 宮﨑敏郎

2024 T.オースティン

1994 野村謙二郎

1995 野村謙二郎

1996 A.パウエル

1997 L.ロペス

1998 石井琢朗

1999 R.ローズ

2000 R.ローズ

2001 石井琢朗

2002 清水隆行

2003 A.ラミレス

2004 嶋重宣

2005 青木宣親

2006 青木宣親

2007 A.ラミレス

2008 内川聖一

2009 A.ラミレス

2010 M.マートン

2011 M.マートン

2012 坂本勇人, 長野久義

2013 M.マートン

2014 山田哲人

2015 川端慎吾

2016 菊池涼介

2017 丸佳浩, J.ロペス

2018 D.ビシエド

2019 大島洋平

2020 大島洋平

2021 近本光司

2022 佐野恵太, 岡林勇希

2023 牧秀悟, 中野拓夢

2024 長岡秀樹

1950 青田昇, 岩本義行, 小鶴誠

1951 青田昇, 岩本義行, 金田正泰

1952 杉山悟, 南村不可止, 与那嶺要

1953 金田正泰, 南村不可止, 与那嶺要

1954 杉山悟, 与那嶺要, 渡辺博之

1955 町田行彦, 与那嶺要, 渡辺博之

1956 青田昇, 田宮謙次郎, 与那嶺要

1957 青田昇, 田宮謙次郎, 与那嶺要

1958 田宮謙次郎, 森徹, 与那嶺要

1959 大和田明, 坂崎一彦, 森徹

1960 中利夫, 並木輝男, 森徹

1961 江藤慎一, 近藤和彦, 森永勝治

1962 近藤和彦, 並木輝男, 森永勝治

1963 江藤慎一, 近藤和彦, 藤井栄治

1964 江藤慎一, 近藤和彦, 重松省三

1965 江藤慎一, 近藤和彦, 中暁生

1966 江藤慎一, 中暁生, 山本一義

1967 近藤和彦, 柴田勲, 中暁生

1968 江藤慎一, D.ロバーツ, 山内一弘

1969 高田繁, D.ロバーツ, 山本一義

1970 江尻亮, 高田繁, 中暁生

1971 柴田勲, 高田繁, 水谷実雄

1972 柴田勲, 高田繁, 若松勉

1973 江尻亮, 柴田勲, 若松勉

1974 G.マーチン, 末次利光, 若松勉

1975 井上弘昭, 山本浩二, ロジャー

1976 張本勲, 谷沢健一, 若松勉

1977 張本勲, 山本浩二, 若松勉

1978 C.マニエル, 山本浩二, 若松勉

1979 M.ラインバック, 山本浩二, 若松勉

1980 杉浦亨, 山本浩二, 若松勉

1981 J.ライトル, 田尾安志, 山本浩二

1982 田尾安志, 長崎啓二, 山本浩二

1983 田尾安志, 松本匡史, 山本浩二

1984 山崎隆造, 山本浩二, 若松勉

1985 杉浦享, 真弓明信, 山崎隆造

1986 W.クロマティ, 山本浩二, 吉村禎章

1987 W.クロマティ, C.ポンセ, 吉村禎章

1988 C.ポンセ, J.パチョレック, 広沢克己

1989 W.クロマティ, 彦野利勝, 山崎賢一

1990 J.パチョレック, 原辰徳, 広沢克己

1991 R.J.レイノルズ, 原辰徳, 広沢克己

1992 飯田哲也, 前田智徳, L.シーツ

1993 A.パウエル, 新庄剛志, 前田智徳

1994 A.パウエル, G.ブラッグス, 前田智徳

1995 A.パウエル, 金本知憲, 松井秀喜

1996 A.パウエル, 松井秀喜, 山崎武司

1997 鈴木尚典, D.ホージー, 松井秀喜

1998 鈴木尚典, 前田智徳, 松井秀喜

1999 関川浩一, 高橋由伸, 松井秀喜

2000 金本知憲, 新庄剛志, 松井秀喜

2001 稲葉篤紀, 金本知憲, 松井秀喜

2002 清水隆行, 福留孝介, 松井秀喜

2003 赤星憲広, A.ラミレス, 福留孝介

2004 金本知憲, 嶋重宣, T.ローズ

2005 青木宣親, 赤星憲広, 金本知憲

2006 青木宣親, 金本知憲, 福留孝介

2007 青木宣親, A.ラミレス, 高橋由伸

2008 A.ラミレス, 青木宣親, 金本知憲

2009 A.ラミレス, 青木宣親, 内川聖一

2010 M.マートン, 青木宣親, 和田一浩

2011 長野久義, M.マートン, 青木宣親

2012 長野久義, 大島洋平, W.バレンティン

2013 W.バレンティン, M.マートン, 長野久義

2014 M.マートン, 丸佳浩, 雄平

2015 筒香嘉智, 福留孝介, 平田良介

2016 鈴木誠也, 筒香嘉智, 丸佳浩

2017 丸佳浩, 鈴木誠也, 筒香嘉智

2018 丸佳浩, 鈴木誠也, N.ソト

2019 丸佳浩, 鈴木誠也, N.ソト

2020 佐野恵太, 丸佳浩, 鈴木誠也

2021 鈴木誠也, 近本光司, 塩見泰隆

2022 近本光司, 佐野恵太, 岡林勇希

2023 近本光司, 西川龍馬, 岡林勇希

選手 01 カルロス・コレア 02 アレックス・ブレグマン 03 キャメロン・メイビン 04 ジョージ・スプリンガー(シリーズMVP) 09 マーウィン・ゴンザレス 10 ユリ・グリエル 11 エバン・ガティス 15 カルロス・ベルトラン 16 ブライアン・マッキャン 21 デレク・フィッシャー 22 ジョシュ・レディック 27 ホセ・アルトゥーベ

30 フアン・センテノ 31 コリン・マクヒュー 35 ジャスティン・バーランダー 36 ウィル・ハリス 41 ブラッド・ピーコック 43 ランス・マッカラーズ・ジュニア 44 ルーク・グレガーソン 46 フランシスコ・リリアーノ 47 クリス・デベンスキー 50 チャーリー・モートン 53 ケン・ジャイルズ 59 ジョー・マスグローブ 60 ダラス・カイケル

監督 14 A.J.ヒンチ コーチ 08 ゲイリー・ペティス(三塁) 26 アレックス・コーラ(ベンチ) 39 デーブ・ハジェンス(打撃) 48 リッチ・ダウアー(一塁) 52 クレイグ・ビョルンソン(ブルペン) 55 アロンゾ・パウエル(打撃補佐) 56 ブレント・ストローム(投手)

アメリカ合衆国の野球選手

アフリカ系アメリカ人の野球選手

サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の選手

モントリオール・エクスポズの選手

ミネソタ・ツインズ傘下の選手

シアトル・マリナーズ傘下の選手

シアトル・マリナーズの選手

中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手

トロント・ブルージェイズ傘下の選手

阪神タイガース及びその前身球団の選手

ニューヨーク・ヤンキース傘下の選手

コロラド・ロッキーズ傘下の選手

サンディエゴ・パドレス関連人物

ヒューストン・アストロズ関連人物

首位打者 (NPB)

NPBオールスターゲーム選出選手

アメリカ合衆国の野球指導者

サンフランシスコ出身の人物

1964年生

存命人物

野球に関する記事

プロジェクト人物伝項目

ウィキデータにある日本野球機構選手識別子

2024/11/21 20:29更新

Alonzo Sidney Powell


アロンゾ=パウエルと同じ誕生日12月12日生まれの人

加茂 正五(かも しょうご)
1916年12月12日生まれの有名人 静岡出身

加茂 正五(かも しょうご、1916年12月12日 - 1977年9月14日)は、静岡県浜松市出身のサッカー選手。ポジションはFW(左ウイング)。 静岡県立浜松第一中学校(現・静岡県立浜松北高等学校…

小島 宏美(こじま ひろみ)
1977年12月12日生まれの有名人 福岡出身

小島 宏美(こじま ひろみ、1977年12月12日 - )は福岡県直方市出身の元サッカー選手である。ポジションはFW、MF(トップ下、ボランチ)。 高校時代は東福岡高校で山下芳輝とのコンビで活躍し、…

広瀬 伸一(ひろせ しんいち)
1957年12月12日生まれの有名人 神奈川出身

広瀬 伸一(ひろせ しんいち、1957年12月12日 - 2007年9月26日)は、元アナウンサー。ラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)アナウンサーを経て、フリーアナウンサーとして中央競馬の実況を中…

大木 優紀(おおき ゆうき)
1980年12月12日生まれの有名人 東京出身

大木 優紀(おおき ゆうき、1980年12月12日 - )は、テレビ朝日元アナウンサー。身長158cm、射手座。お笑いタレントのビビる大木とは、再従兄にあたる。(父親同士が従兄弟同士である) 東京都…

山根 千佳(やまね ちか)
1995年12月12日生まれの有名人 鳥取出身

ホリプロ公式プロフィール 山根 千佳(やまね ちか、1995年12月12日 - )は、日本の女性タレント。ホリプロ所属。鳥取県米子市出身。 鳥取県立米子高等学校在学中の2012年に「37thホリプ…


美山 加恋(みやま かれん)
1996年12月12日生まれの有名人 東京出身

美山 加恋(みやま かれん、1996年(平成8年)12月12日 - )は、日本の女優、声優。東京都東村山市出身。ホリプロ所属。 2002年に行われた舞台『てるてる坊主の照子さん』で、子役としてデビュ…

平 愛梨(たいら あいり)
1984年12月12日生まれの有名人 兵庫出身

平 愛梨(たいら あいり、1984年12月12日 - )は、日本のタレント、女優。本名は長友 愛梨(ながとも あいり、旧姓:平)。兵庫県神戸市生まれ、兵庫県明石市出身。ライジングプロダクション所属。愛…

伽代子(かよこ)
12月12日生まれの有名人 神奈川出身

伽代子(かよこ、12月12日 - )は、日本の女優、タレント。本名、坂井 香代子(さかい かよこ)。佐藤企画所属。 神奈川県出身。血液型はO型。 欽ちゃん劇団2期生。 1999年、日本テレビのバ…

鹿沼 亜美(かぬま あみ)
1999年12月12日生まれの有名人 埼玉出身

鹿沼 亜美(かぬま あみ、1999年〈平成11年〉12月12日 - )は、日本の女性タレント。ボーカル&ダンスユニットOnePixcelの元メンバー。 埼玉県出身。 歌って踊れるアーティストに憧れ…

片瀬 まひろ(かたせ まひろ)
1978年12月12日生まれの有名人 東京出身

片瀬 まひろ(かたせ まひろ、1978年12月12日 - )は、日本の女優、タレントである。東京都出身で、スターヒルに所属している。 2003年-2004年TOYOTA TEAM CERUMO・au…


小野 あつこ(おの あつこ)
1991年12月12日生まれの有名人 東京出身

小野 あつこ(おの あつこ、1991年〈平成3年〉12月12日 - )は、日本の歌手、タレント。NHKの番組『おかあさんといっしょ』にて、第21代目うたのおねえさんを務めた。 東京都出身(出身は東京…


TOPニュース

動画を見るだけで10万円稼げる!?

闇バイトに引っかからない方法

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去


アロンゾ=パウエルと近い名前の人

ドロシー=マローン(Dorothy Malone)
1925年1月30日生まれの有名人 出身

ドロシー・マローン(Dorothy Malone, 1924年1月30日 - 2018年1月19日)は、アメリカ合衆国の女優。1956年の『風と共に散る』でアカデミー助演女優賞を受賞した。 シカゴ生…

アロンゾ=モーニング(Alonzo Mourning)
1970年2月8日生まれの有名人 出身

アロンゾ・ハーディング・モーニング・ジュニア(Alonzo Harding Mourning, Jr., 1970年2月8日 - ) はアメリカ合衆国バージニア州チェサピーク出身の元プロバスケットボー…

ジョン=マローン(John C. Malone)
1941年3月7日生まれの有名人 出身

ジョン・マローン(John C. Malone、1941年3月7日 - )は、アメリカ合衆国のメディア関連企業・リバティメディア会長。リバティ・グローバル、ディレクTVグループの会長も兼務する。また、…

エヴァ=ロンゴリア(Eva Longoria)
1975年3月15日生まれの有名人 出身

エヴァ・ロンゴリア(Eva Longoria、1975年3月15日 - )は、アメリカ合衆国の女優。 アメリカの人気海外ドラマ『デスパレートな妻たち』にて、チャーミングでわがままな主婦ガブリエル・ソ…


ヒガアロハ(2月10日[1] - )
2月10日生まれの有名人 京都出身

ヒガアロハ(2月10日 - )は、日本の女性漫画家。京都府出身。 2006年に『月刊フラワーズ』(小学館)同年4月号に掲載された『しろくまカフェ』で第22回コミックオーディション銀の花賞を受賞し、デ…

ダニエル=アロミア=ロブレス(Daniel Alomia Robles)
1871年1月3日生まれの有名人 出身

ダニエル・アロミア・ロブレス(スペイン語: Daniel Alomía Robles、1871年1月3日 - 1942年6月18日)はペルーのオペラとサルスエラの作曲家、音楽学者。フォルクロー…

トニー=コニグリアロ(Tony Conigliaro)
1945年1月7日生まれの有名人 出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート アンソニー・リチャード・コニグリアロ(Anthony Richard "Tony" Conigliaro、1945年1月7日 - 19…

ロベルト=アロマー(Roberto Alomar Velazquez)
1968年2月5日生まれの有名人 出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート ロベルト・アロマー・ベラスケス(Roberto Alomar Velázquez, 1968年2月5日 - )は、プエルトリコ出身の元…

ニケシュ=アローラ(Nikesh Arora)
1968年2月9日生まれの有名人 出身

ニケシュ・アローラ(Nikesh Arora、1968年2月9日 - )はアメリカ合衆国の実業家。 パロアルトネットワークス最高経営責任者(CEO)。元ソフトバンクグループ代表取締役副社長兼ヤフー取…


ダーレン=アロノフスキー(Darren Aronofsky)
1969年2月12日生まれの有名人 出身

ダーレン・アロノフスキー(Darren Aronofsky、1969年2月12日 - )は、アメリカ合衆国の映画監督・脚本家。 ニューヨーク・ブルックリンのロシア系ユダヤ人の家系に生まれ、ハーバード…

アロルディス=チャップマン(Aroldis Chapman)
1988年2月28日生まれの有名人 出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート アルベルティン・アロルディス・チャップマン・デラクルス(Albertin Aroldis Chapman de la Cruz, 19…

くるみんアロマ(くるみん あろま)
1990年5月2日生まれの有名人 出身

5月2日生まれwiki情報なし(2024/11/23 02:49時点)

モーゼス=マローン(Moses Eugene Malone)
1955年3月23日生まれの有名人 出身

NBA時代 NBAチャンピオン (1983) NBAファイナルMVP (1983) 3× NBAシーズンMVP (1979, 1982, 1983) 12× NBAオールスター (1978-1989…

グロリア=マカパガル=アロヨ(Gloria Macapagal Arroyo)
1947年4月5日生まれの有名人 出身

グロリア・マカレイグ・マカパガル=アロヨ(英語: María Gloria Macaraeg Macapagal-Arroyo、マリア・グロリア・マカラエグ・マカパガル=アロヨ、1947年4月…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
アロンゾ=パウエル
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

こっちのけんと 斎藤元彦 松島かのん 澤繁実 小野寺紘毅 桜井誠_(活動家) 安野貴博 ジャンボ松田 後藤輝樹 石丸幸人

グループ

X21 さくら学院 Snow Man まなみのりさ フェアリーズ カスタマイZ A.B.C-Z D☆DATE ココリコ 猿岩石 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「アロンゾ=パウエル」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました