エリック=サティの情報(ErikSatie) 作曲家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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エリック=サティ(Erik Satie)さんの誕生日は1866年5月17日です。
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年表、作風などについてまとめました。家族、現在、再婚、卒業、映画に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
エリック=サティのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Éric Alfred Leslie Satie、フランス語: [eʁik sati]、1866年5月17日 - 1925年7月1日)は、フランスの作曲家。オンフルール生まれ、オンフルールおよびパリ育ち。 「音楽界の異端児」「音楽界の変わり者」の異名で知られる。ドビュッシーやラヴェルに影響を与えた。 1866年5月17日、海運業を営むアルフレッド・サティ (Alfred Satie)、とその妻のジェーン(Jane Satie、英語発音音写ではジェイン)との子(長男)としてフランス第二帝政時のオンフルールに生まれる。 1870年、父は海運業を辞め、一家はパリに移住する。幼少期からエリックの家族はオンフルールとパリとの間を往き来していた。1872年、母が亡くなり、エリックはオンフルールにある生家で暮らす父方の祖父母に預けられた。それまでイギリス国教会の信者として育てられてきたエリックは、この時カトリックに改宗している。 パリ音楽院在学中、指導教授から才能が無いと否定され、1885年に2年半あまりで除籍になった。その間、1884年に処女作のピアノ小品『アレグロ(フランス語版)』を作曲した。そのほか、『オジーヴ(英語版)』、『ジムノペディ』、『グノシエンヌ』などを発表。 1887年からモンマルトルに居住し、1890年からコルト通り (Rue Cortot) 6番地に居住。モンマルトルのカフェ・コンセール『黒猫』に集う芸術家の1人となり、プーランク、ドビュッシー、さらにコクトーやピカソらと交流(のちにカフェ・コンセール『オーベルジュ・デュ・クル』に移る)。バレエ・リュスのために『パラード』を作曲。またカフェ・コンセールのためのいくつかの声楽曲を書く。よく知られる『ジュ・トゥ・ヴー』はこの時の作品。薔薇十字団と関係し、いくつかの小品を書く。同一音形を繰り返す手法を用いた『ヴェクサシオン』『家具の音楽』なども書いた。 なお『家具の音楽』というのは彼が自分の作品全体の傾向を称してもそう呼んだとされ、主として酒場で演奏活動をしていた彼にとって、客の邪魔にならない演奏・家具のように存在している音楽というのは重要な要素だった。そのことから彼は現在のイージーリスニングのルーツのような存在であるともいえる。また『官僚的なソナチネ』『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』『冷たい小品(英語版)』『梨の形をした3つの小品』『胎児の干物』『裸の子供たち』のように、作品に奇妙な題名をつけたことでも知られる。 1893年以降、画家シュザンヌ・ヴァラドンと近しくなる。 1898年からパリの3キロメートルほど南部近郊アルクイユに居住。フランス社会党及びフランス共産党にも党籍を置いていた(当初は社会党に入党していたが、共産党結党と同時に移籍)。 1919年になるとダダイズムのトリスタン・ツァラ等と知り合い、フランシス・ピカビア、アンドレ・ドラン、マルセル・デュシャン、マン・レイなどを紹介された。最初の出会い時にツァラからレディ・メイドを贈られた。ツァラとアンドレ・ブルトンとの紛争にもツァラ側に立って仲を取り持った。 アルコール乱用のために肝硬変を患っていたサティは、1925年7月1日、パリ14区の聖ジョゼフ病院(フランス語版)で亡くなった。 年表生涯1866年5月17日 - フランス第二帝政時代にノルマンディーはカルヴァドス地方の港町オンフルールで生まれる。聖公会で洗礼を受ける。 1870年 - 父アルフレッド・サティ (Alfred Satie) が海運業を辞め、一家はパリに移住する。 1872年 - スコットランド出身の母ジェーン(Jane Satie、英語発音音写ではジェイン)が死去。オンフルールに住む父方の祖父母に預けられ、カトリックとして再度洗礼を受ける。教会のパイプオルガンに魅せられて入り浸る。 1874年 - 祖父ジュール・サティがエリックにヴィーノのもとで音楽を学ばせる。 1878年 - 祖母ユラーリがオンフルールの浜辺で溺死体で発見される。サティは父のいるパリへ再度移住する。 1879年 - パリ音楽院に入学。父アルフレッドがピアノ教師であったユージェニ・バルネシュと再婚する。 1886年 - 音楽院が退屈すぎるとして退学する。 1887年 - シャンソン酒場のピアノ弾きになる。当時20-21歳。 1889年 - パリ万国博覧会で日本の歌謡に触れる。 1890年 - 薔薇十字団の創始者であるジョセファン・ペラダンと出会う。 1891年 - 聖杯の薔薇十字団聖歌隊長に任命される。 1893年 - 画家シュザンヌ・ヴァラドンと交際を始め、彼女に300通を超える手紙を書く。しかし、6か月後に絶交している。 1904年 - スコラ・カントルムに入学。 1905年 - シュヴィヤール演奏会の会場で雨傘で決闘し、警察に留置される。当時38-39歳。 1908年 - スコラ・カントルムを卒業。パリ郊外アルクイユの急進社会主義委員会に入党する。 1914年 - 詩人ジャン・コクトーと知り合う。 1919年 - パリで活動するダダイスムの芸術家たちと交流し、自身もメンバーとなる。当時52-53歳。 1925年7月1日 - アルコール乱用のために肝硬変を患っていたが、聖ジョゼフ病院(フランス語版)にて59歳で死去した。その後間もなくしてアルクイユの共同墓地 (Cemetery) に埋葬された。 没後
作風それまでの調性音楽のあり方が膨張していた時代に、彼は様々な西洋音楽の伝統に問題意識を持って作曲し続け、革新的な技法を盛り込んでいった。たとえば、若い頃に教会に入り浸っていた影響もあり、教会旋法を自作品に採り込んだのは、彼の業績の一つである。そこでは調性は放棄され、和声進行の伝統も無視され、並行音程・並行和音などの対位法における違反進行もが書かれた。 後にドビュッシーやラヴェルも、旋法を扱うことによって、既存の音楽にはなかった新しい雰囲気を醸し出すことに成功しているが、この大きな潮流は、サティに発するものである。 生涯サティへの敬意について公言し続けたラヴェルは、ドビュッシーこそが並行和音を多く用いた作曲家だと世間が見なしたことに不満を呈しており、その処女作『グロテスクなセレナード』において既にドビュッシーよりも自分が先に並行和音を駆使したと述べ、それがサティから影響を受けた技法であることにも触れている。 また、彼の音楽は厳密な調性からはずれた自由な作風のため、調号の表記も後に捨てられた。したがって、臨時記号は1音符ごとに有効なものとして振られることになった。拍子についても自由に書き、拍子記号・小節線・縦線・終止線も後に廃止された。調号を書かずとも、もしそこの音の中に調性があればそれが現実であり、拍子記号や小節線などを書かずとも、もしそこの音の中に拍子感があればそれが現実であるとみなしていたため、実際には、それらが書かれていないからといって、調性や拍子が必ずしも完全に存在しないわけではなかった。散文的に、拍節が気紛れに変動するような作品も多く存在し、調性とはほど遠い楽句や作品も多く生み出されている。これらは、どんな場合にも完全に放棄されたわけでなく、最晩年の『ノクターン』や『家具の音楽』のように、読譜上の便宜面からの配慮によって、拍子記号・調性記号・小節線を採用した作品がまれにある。 拍子のあり方についての新しい形は、特にストラヴィンスキーがそれを受け継ぎ、大きく発展させ、後のメシアンへと続くことになった革新の発端と見なされている。また、記譜法についての問題提起は、後の現代音楽における多くの試みの発端とされ、図形楽譜などにまでつながる潮流の源流になっている。 調性崩壊のひとつの現象として、トリスタン和音が西洋音楽史上の記念碑と見なされているが、それが依然として3度集積による和声だったのに対し、サティは3度集積でない自由で複雑な和音を彼の耳によって組み込んだ。これは、解決されないアッチャカトゥーラや3度集積によらない和音を書いたドメニコ・スカルラッティ以降はじめての和声的な革新とされている。この影響によって、印象主義からの音楽においては、自由な和声法による広い表現が探求されることになった。 また、音楽美学的見地においても彼は多くのあり方を導入したとされ、鑑賞するだけの芸術作品ではない音楽のあり方をも示した。『家具の音楽』に縮約されているように、ただそこにあるだけの音楽という新しいあり方は、ブライアン・イーノやジョン・ケージたちによる環境音楽に影響を与えた。また、『ヴェクサシオン』における840回の繰り返し・『古い金貨と古い鎧』第3曲結尾部における267回の繰り返し・『スポーツと気晴らし』第16曲「タンゴ」や映画『幕間』のための音楽における永遠の繰り返しは、スティーヴ・ライヒたちによるミニマル・ミュージックの先駆けとされている。 サティが始めた多くの革新は、過去の音楽や、他の民族音楽などの中に全くないものではなかったものの、ほとんどが彼独自のアイデアにもとづいたものであるため、現代音楽の祖として評価は高く、多くの作曲家がサティによる開眼を公言している。 最後の作品となったバレエ『本日休演』では、幕間に上映された映画『幕間』のための音楽も担当した。またその映画の中でフランシス・ピカビアと共にカメオ出演もしており、最晩年の姿を見ることができる。 2024/06/22 15:57更新
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Erik Satie
エリック=サティと同じ誕生日5月17日生まれの人
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