ジョン=マケインの情報(JohnSidneyMcCainIII) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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ジョン=マケインの情報まとめ
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ジョン=マケイン(John Sidney McCain III)さんの誕生日は1936年8月29日です。
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来歴・人物、2000年アメリカ合衆国大統領選挙などについてまとめました。家族、父親、卒業、結婚、離婚、事故、事件に関する情報もありますね。81歳で亡くなられているようです。
ジョン=マケインのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)ジョン・シドニー・マケイン3世(英語: John Sidney McCain III、1936年8月29日 - 2018年8月25日)は、アメリカ合衆国の政治家。パナマ生まれである。連邦下院議員(1983年1月3日 - 1987年1月3日)・連邦上院議員(アリゾナ州選出、1987年1月3日 - 2018年8月25日)を務めた。2008年アメリカ合衆国大統領選挙での共和党の大統領候補であった。 共和党の重鎮議員だが、党派にとらわれない議会活動で知られ、しばしば maverick(一匹狼)と形容される。共和党政権への厳しい批判も辞さないことから、一部の共和党支持者からの反発を浴びる一方、全体としての支持は根強い。そのため2004年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党の大統領候補であるジョン・フォーブズ・ケリーの副大統領候補となる可能性が盛んに報じられていた。宗教はバプティストで、尊敬する政治家は同国のセオドア・ルーズベルト元大統領である。 著名な海軍提督の祖父と父を持ち、自身もアメリカ合衆国海軍航空士官としてベトナム戦争に従軍。1967年にハノイ市上空を飛行中に撃墜され、5年間に渡ってハノイ市のホアロー捕虜収容所(別名:ハノイ・ヒルトン)で、ベトナム民主共和国の捕虜となった。最初の2年は北ベトナム兵から厳しい拷問を受けながらも、拷問に耐えたエピソードで英雄視されており、その人気から2008年のアメリカ大統領選挙では共和党の大統領候補として指名を受けた。息子はアメリカ合衆国海兵隊に所属し、イラク戦争に出征している。 2017年7月、脳の血腫除去手術を受け、その際の病理組織から悪性度の高い脳腫瘍の一つである膠芽腫と診断されたことを公表した。 2018年春の叙勲で旭日大綬章を受章。同年、祖父や父が名の由来であるイージス駆逐艦のジョン・S・マケインの艦名由来に、自らの名も由来として付け加えられた。 2018年に入ると、アメリカ合衆国議会に出席することなく、自宅で療養を続けてきたが、8月24日に家族が脳腫瘍に対する治療を中止したことを公表、翌25日に死去した。81歳没。 来歴・人物生い立ち1936年8月29日に当時アメリカ領であったパナマ運河地帯にあるココ・ソロ海軍航空基地で、スコットランド・アイルランド系でアイオワ州生まれの海軍大将ジョン・S・マケイン・ジュニアと、オクラホマ州生まれのロベルタ・マケインとの間に誕生した。父・祖父もアメリカ海軍大将である。祖父のジョン・S・マケイン・シニアは航空母艦戦略のパイオニア であり、第二次世界大戦における太平洋戦域の指揮をとり、アメリカ軍をレイテ沖海戦等に導いた人物である。その功績から米海軍イージス駆逐艦の艦名の一つにもその名が採られている。2018年にはマケイン三世自身も、このイージス艦の艦名の由来に付け加えられた。 出生地のパナマ運河地帯は、当時のアメリカ非編入領域(Unincorporated territory)であり、出生地主義によるアメリカ国籍取得はできない地域であった。この地での出生は軍命に従った父の赴任によるものであり、産院もアメリカ軍基地内にあったが、後年のアメリカ合衆国大統領選挙出馬に際して、アメリカ合衆国憲法上の大統領就任資格である「生まれによるアメリカ合衆国市民」に該当しないのではないかという疑義を招くこととなった。 10歳になるまで、父親の仕事の都合でコネチカット州ニューロンドン、ハワイ州パールハーバー、その他の太平洋の基地で育った。1941年のパールハーバーの攻撃以降、父親は長い間家族と離れることになった。当時は短気で乱暴な運転をする若者であった。 第二次世界大戦が終わった後も、父親はアメリカ海軍に残り、時々政治問題渉外担当官として働いていた。家族は北部ヴァージニアに落ち着き、1946年から1949年までアレクサンドリアの米国聖公会系の学校に通った。結局、青年時代に、父親の仕事の都合で20もの学校に通った。1951年にエピスコパル・ハイスクールに通いはじめ、レスリングで2つのレター表彰を受けた。当時のニックネーム "Punk" や "McNasty" から分かるように、激しく議論好きな気性で知られていた。 海軍士官として祖父・父にならい、1954年にアメリカ海軍兵学校に入学する。 彼は反体制的な士官候補生で、目立たない存在であった。また、教授や指導部と喧嘩することもあり、毎年100以上の罰点を受けた。彼は階級が上の人々が独断的に権力を行使することに納得せず、他人にそういった事が行われているのを見て間に入ることも時々あった。5フィート7インチ で127ポンド(170センチメートルで58キログラム)と小柄であったがライト級のボクサーとして3年間戦い、技術面で欠けていたものの、恐れを知らず「後退ギアを持たない」ことで知られていた。マケインのIQは133で、学業の面では英文学・歴史・政治といった、自分が興味のある科目では良い評価を得た が、他の成績は良くなかった。しかし、特に学校外の活動については同級生たちの間ではリーダー的な存在であった。難しい時ではあったが、父親や家族に対して自分も同じ気質を持っていることを証明したいという気持ちは揺るがなかったと後に書いている。1958年に無事卒業。成績は899人中894番目で、最下位から数えて6番目であった。 卒業後の1958年6月4日に海軍少尉へ任官し、2年半の間フロリダ州とテキサス州で A-1 のパイロットとしての訓練を受けた。当時のマケインはシボレー・コルベットを運転し、ストリップダンサーとデートをし、後に本人が語るところによると「概して健康と若さを誤用した」時期を過ごした。彼にはマニュアルを勉強する忍耐力がなく、平均より下のパイロットであった。また、テキサスでの訓練中に墜落したこともあったが、大きな怪我をせずに脱出することができた。1960年に訓練を終え、1960年11月に第65攻撃飛行隊(VA-65)へと配属となり、航空母艦イントレピッドやエンタープライズに搭載され、カリブ海や地中海において、航海を行った。1962年のキューバ危機の時期にはエンタープライズ上で警戒任務に当たっていた。飛行技術は次第に向上していったが、スペイン上空を低く飛行しすぎ、送電線に激突するも無傷だったという出来事もあった。その後ミシシッピに戻り、飛行教官となる。 1964年からペンシルベニア州出身のモデルであったキャロル・シェプ (Carol Shepp) と交際をはじめる。彼女はマケインのクラスメイトと結婚していたが後に離婚し、二人は1965年7月3日に結婚した。いわゆる「略奪婚」である。マケインは当時5歳と3歳の彼女の連れ子二人 を養子にした。また、1966年9月には娘が生まれた。 1965年秋にはヴァージニア州ノーフォーク付近を飛行中に乗っていた飛行機がまたもや墜落し、無事に脱出するという出来事があった。 やがて自分の立場に不満を持つようになり、戦闘任務に志願した。1966年12月には第46攻撃飛行隊(VA-46)のA-4のパイロットとして、空母フォレスタルに乗り組み、太平洋や大西洋において訓練航海を行った。この間、マケインの父親は1958年に海軍少将に、1963年には海軍中将に、1967年5月には在ヨーロッパアメリカ海軍最高司令官(Commander-in-Chief, U.S. Naval Forces, Europe)にまでなっていた。 ベトナム戦争1967年春に空母フォレスタルはベトナム戦争でベトナム民主共和国への爆撃作戦であるローリング・サンダー作戦へと派遣される。この作戦では特に武器貯蔵庫、工場、橋梁などのあらかじめ選ばれた基幹施設をターゲットとするものであった。 ベトナム人民軍はソ連製の高射砲で応戦してきたため、この任務は危険なものであった。最初の5回の出撃では何事も起こらなかったが、次第にマケインはパイロットとして評価されるようになっていく。しかし彼を含むパイロット達は、国防総省からのマイクロマネジメントに不満を抱くようになっていた。 彼は後にこう書いている。 その頃までに少佐となっており、1967年7月29日に起きた航空母艦上の火災事故で危うく死ぬところであった。その日、クルー達が離陸の準備をしていたところ、F-4から1発のズーニー・ロケット弾が誤って発射されてしまった。出発準備を整えていたA-4にロケット弾が直撃し、燃料タンクの破裂を引き起こした。 事が起こってから90秒後に、彼の機の下についていた爆弾が爆発したが、その前に間一髪で機から逃げ出すことが出来た。爆弾の金属片で足や胸に怪我を負ったが、この事故で132名が死亡、62名が負傷、少なくとも20機の航空機が破壊され、事態が沈静化するまでに24時間を要するという大惨事となった。 この事件の2日ほど後に、ニューヨーク・タイムズのレポーターにこう語っている。 しかし辞めることは考えず、 とも語った。 フォレスタルの修理に伴い、オリスカニーへ移る。1967年10月までには22回の爆撃任務を遂行していた。 1967年10月26日、ハノイ市の火力発電所の攻撃に参加した。搭乗したA-4はS-75によって撃ち落とされた。 その時両腕を骨折し、航空機から脱出の際に足にも怪我を負った。パラシュートで脱出したものの、チュックバック湖に落ち、あやうく溺れるところであった。意識を取り戻すと暴徒が集まっており、彼を叩いたり蹴ったり、服を引きちぎったりしていた。またライフルの台尻で肩を砕かれたり、銃剣で左足や腹部を突かれるなどした。 その後ハノイの捕虜収容所に搬送された。重傷を負っていたにも関わらず、ベトナム民主共和国側は彼を病院に連れて行かず、いずれにしろすぐに死ぬだろうと考えていた。ベトナム民主共和国側はマケインを殴打し尋問したが、彼は自分の名前、階級、認識番号、生年月日しか明かさなかった。 その後、ベトナム民主共和国側は、父親が海軍大将であることを知り、彼に医療処置を施し、マケイン捕縛を公表した。撃ち落とされて2日後、この出来事はニューヨークタイムズ紙のトップ記事となった。 6週間の間病院で最低限の治療を受け、またヴォー・グエン・ザップを始めとする多くのベトナム人の監視の下、CBSのリポーターからインタビューを受けた。多くのベトナム民主共和国の人々は、マケインは政治的・軍事的・経済的なエリートであると思っていた。 その時点で50ポンドも体重が減り、ギプス姿で髪の毛も白くなっていた。1967年にハノイの戦争捕虜キャンプに送られ、他の2人のアメリカ人捕虜(そのうちの一人は後に名誉勲章を受けるバド・デイ(英語版)であった)と共に監房に入れられた。二人はマケインが1週間持つとは思っていなかったが看病し、なんとか生き延びた。1968年3月には独房に監禁され、そこで2年間耐えた。 1968年7月、マケインの父親はアメリカ太平洋軍の司令長官となり、ベトナム戦域全てを指揮する立場となった。それに伴いすぐに釈放されるチャンスを与えられた。ベトナム民主共和国側はそれによって、自分たちの部隊は人道的であるというプロパガンダを世界に広めたいと考えていた。 しかし彼は、アメリカ軍の行動規範 "first in, first out" にしたがってこれを拒否し、自分より早く捕縛されているものが釈放されるなら、釈放を受け入れるとの態度を示した。マケインの釈放拒否は、パリ協定の話し合いの場で、アメリカ側の大使W・アヴェレル・ハリマンに伝えられた。 1968年8月、マケインに対する拷問が行われた。痛みを伴う姿勢で縛られたり、2時間ごとに殴打されるなどし、更に赤痢にもかかってしまい、辛さ故に自殺を図るも看守に止められた。 4日間の拷問の後、自分は "black criminal" で "air pirate" であると書かれた反アメリカプロパガンダの”告白”に署名させられた。しかし彼は形式ばった共産主義の専門用語を使ったり、英文法を無視して書くなどして、これは強制されたものであることが分かるように書いた。 彼は後にこう語っている。 この時に受けた傷が元で、彼の腕は肩より上に上がらなくなってしまった。ベトナム民主共和国側はもう1つの文書にも署名させようとしたが、マケインはこれを拒否し、その結果殴打が続くことになった。他のアメリカ兵にも同じような拷問が行われた。ある時、戦隊のメンバーの名前を言うように強要された時、グリーンベイ・パッカーズの選手の名前を告げた。 1969年10月、戦争捕虜に対する扱いが突然改善された。同年夏、殴打されるなどして弱っていた捕虜たちが釈放され、世界の報道機関が、これに対して声を上げ、北ベトナムを非難し始めたためであった。 1969年12月、Hoa Loa Prison に移送された。彼は引き続き反戦団体やベトナム民主共和国に同調するジャーナリスト達との面会を拒否し、面会者の一人に対して、自分のしたことに後悔は無く、同じ事をする機会があれば行うだろうと語った。捕虜達はあちこちのキャンプに移されたが、以前の扱いに比べると改善されたものであった。 結局、彼はベトナム民主共和国の捕虜として、5年半を過ごしたことになる。1973年1月27日にパリ協定が結ばれ、アメリカ軍のベトナム戦争への関与は終わったが、捕虜たちに対する救出作戦(Operation Homecoming)はその後も続いた。マケイン自身は1973年3月15日に釈放された。 一方、1969年12月、マケインが北ベトナムで捕虜となっている間、妻キャロルが交通事故に遭い、瀕死の重傷を負っていた。 政界へ1973年3月15日に北ベトナムより解放されたものの、キャロルは重度の障害者となっていた。マケイン自身も解放後、数ヶ月の高度の理学療法を要した。治療後、同年、アメリカ国防大学に入学し、翌年の1974年に卒業した。1976年にフロリダにある練習艦隊の部隊指揮官となった。 この間に他の女性と関係を持ち、家庭環境は崩壊を始めていた。1979年4月に現夫人のシンディ・ヘンスリーと勤務地のハワイで出会ったマケインはシンディとの交際を深め、1980年2月に交通事故療養中のキャロルとの離婚を申し立てた。離婚にあたり、マケインは二軒の家の譲渡とキャロルの医療費の負担を条件に同年4月に離婚が成立した。翌月の5月17日、シンディと2度目の結婚をした。結婚式には前妻との子供達の出席はなかった。シンディはアンハイザー・ブッシュ社の独占販売権を持つHensley & Co.の創業者を父親に持つ大富豪の娘であった。 この結婚を期にマケインは1981年4月1日に海軍を大佐の階級で退役した。なお、父親は前月の3月22日に死去している。祖父や父親と同様に提督への昇進の可能性はあったものの、マケイン自身は次の転身を決めていた。海軍を退役後、シンディの実家の家業に従事するためアリゾナ州に転居した。 1982年に義父の支援でアリゾナ州選出の連邦下院議員選挙に共和党から立候補し当選した。その後、1984年の連邦下院議員選挙で連続当選を果たし、1986年11月にアリゾナ州選出の連邦上院に立候補し、当選した。この間、妻シンディとの間に1984年10月、最初の子である長女メガン、1986年5月に長男のジョン、1988年5月には次男のジェームスが誕生している。 2000年アメリカ合衆国大統領選挙2000年アメリカ合衆国大統領選挙では、テキサス州のジョージ・W・ブッシュ州知事(後の大統領)と共和党の指名を争った。大きな基盤と資金・知名度を持つブッシュが圧倒的に優位と見られていたが、選挙運動を集中的に行っていたニューハンプシャー州の予備選挙でマケインが20ポイント近い大差で勝利し、ブッシュ陣営を驚かせた。この影響で党内の穏健派がマケイン支持にまわり、アリゾナ州やミシガン州でもマケインが勝利、マケイン旋風という言葉が生まれた。しかしジム・ギルモア州知事(当時)などが全面的にブッシュ支持で固まったことにより2月29日のバージニア州など3州での予備選で大差で敗北すると形勢は完全にブッシュペースに転ずる。また、ブッシュ陣営による中傷を含むネガティブ・キャンペーンにより、3月7日の「スーパーチューズデー」で、大票田であるカリフォルニア州やニューヨーク州を含む各州での敗北後、選挙戦からの撤退を表明。共和党候補を断念した。 同予備選ではヘンリー・キッシンジャー元国務長官やゲイリー・バウアー牧師などがマケインを支持していた。なお、選挙戦において、ベトナムに行く代わりに州軍に入ったブッシュが「彼は(ベトナムでの)長い捕虜生活で頭がおかしくなっている」と侮蔑し問題となったが、共和党員がより問題視したのは、サウスカロライナ州の予備選の際に、マケインがブッシュをクリントンと同一視するかのような発言に対してである。この間、ブッシュ陣営の「黒い肌の隠し子がいる(パキスタン系の養子がいることを捏造した)」、「妻は薬物中毒(傷病によるもの)」と彼に対するネガティブキャンペーンが続いた。 また、キリスト教右派の代表格であるパット・ロバートソンとジェリー・ファルウェルからの攻撃を受け、これに対してマケインは2人を労働者を従属させるために宗教を利用した「不寛容の斡旋人」「帝国の創始者」であるとして応酬した結果、キリスト教福音派からの支持を失った。 2024/07/01 17:11更新
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John Sidney McCain III
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