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野崎真一: 「星屑のブルース」(1965年)をはじめ数多くの石原裕次郎、八代亜紀の楽曲を作曲した。 翔子: 八代亜紀 イジリー岡田: 八代亜紀 荒牧陽子: 八代亜紀 奥浜レイラ: ザ☆スター(NHK BShi・BS2、2010年5月21・22日(八代亜紀回)) - ゲスト 馬飼野俊一: 八代亜紀 ばってん荒川: 2006年10月24日に熊本市内の葬儀場で行われた葬儀・告別式には、ビートたけし、たけし軍団、北島三郎、西川きよし、市原悦子、天童よしみら東京・関西の大物芸能人や水前寺清子、八代亜紀、石川さゆり、原田悠里、コロッケ、井手らっきょら熊本県出身の有名芸能人から供花が贈られた。 福田こうへい: 八代亜紀いい歌いい話(2022年10月6日 - 、BS11)※サブMC 藤圭子: 1979年に引退する前、八代亜紀は藤から「アメリカに行って、ロックを歌うんだ」と聞かされている。 ダンディ坂野: ムーディ勝山とは色違いのタキシードを着用しているため、八代亜紀に「ムーディ」を「ダンディ」と間違えられた。 佐瀬寿一: 「恋はブーガ」(歌:八代亜紀、作詞:高田ひろお)-アニメ『とっても!ラッキーマン』エンディングテーマ 森雅樹: 幼少期は八代亜紀、石川さゆり、都はるみなどの演歌やピンク・レディーを真似して歌っていた。 水森英夫: 八代亜紀 悠木圭子: 八代亜紀の大ヒット曲『なみだ恋』、『おんなの夢』、香西かおりの大ヒット曲『浮雲』の作詞や田川寿美を見出し大歌手にまで育成したことで知られる。 青山新: 尊敬する歌手:八代亜紀、前川清、山本譲二、青江三奈 佐瀬寿一: 「ラッキーマンの歌」(歌:八代亜紀、作詞:ガモウひろし) - アニメ『とっても!ラッキーマン』オープニングテーマ 中島マリ: 八代亜紀 土田早苗: 八代亜紀・千昌夫主演「じゃぱにーずどりーむ・あした天気になーれ」(2001年、新宿コマ劇場) - 作詞家・悠木圭子 役 浜圭介: (歌: 八代亜紀、作詞: 阿久悠) 島木譲二: あれしろこれしろ八代亜紀(または、「ラッキークッキー八代亜紀」) 中納良恵: 幼少期は八代亜紀、石川さゆり、都はるみなどの演歌やピンク・レディーを真似して歌っていた。 もず唱平: 『これからがある』(平成13年3月17日)作曲:伊藤雪彦、歌:八代亜紀 所ジョージ: 八代亜紀、奥田民生、トータス松本、GO!GO!7188、ビートたけしとおぼしき声が聴こえるが、所は「最新技術を駆使して私の声を七色に変えている」と言い張っていた。 有山尚宏: ダイワハウス「D-Room・TVから八代亜紀篇」(2009年) 阿久悠: 1980年「雨の慕情」八代亜紀 ミラクルひかる: 八代亜紀 高野憲太朗: 特番 八代亜紀 PR マーティ=フリードマン: 日本のテレビ番組『ヘビメタさん』では演歌歌手の八代亜紀と共演し、マーティがヘヴィメタル調にアレンジした「雨の慕情」を披露したこともある。 マーティ=フリードマン: 丁度その頃日系の人たちが聞いていた日本の音楽に興味を持ち、特にその切っ掛けが八代亜紀であったこともあり演歌には強い影響を受ける。 森昌子: その他、八代亜紀、仲間由紀恵などものまねのレパートリーの幅は本職のモノマネ芸人よりも多いくらい幅がひろい。 |
八代亜紀
八代 亜紀(やしろ あき)さんの誕生日は1950年8月29日です。熊本出身の歌手のようです。
人物、多方面での活躍などについてまとめました。父親、卒業、姉妹、テレビ、現在、結婚、映画に関する情報もありますね。今年の情報もありました。73歳で亡くなられているようです。
八代 亜紀(やしろ あき、1950年〈昭和25年〉8月29日 - 2023年〈令和5年〉12月30日)は、日本の演歌歌手、女優、タレント、画家。熊本県八代郡金剛村(現:八代市)出身。本名は橋本 明代(はしもと あきよ)。血液型はB型。 幼少の頃から父親の歌う浪曲を子守唄代わりに聴きながら育つ。そうした影響もあり、八代は歌好きの子供になり、地元の歌唱コンクールなどにも出場していた。 八代が小学5年生の時、たまたま父親が買ってきたジュリー・ロンドンのレコードを聴き、そのハスキーボイスに魅せられる。もともと自分自身もハスキーボイスの持ち主だった八代は、その声に若干のコンプレックスがあったが、ジュリーの声質に勇気づけられ、クラブ歌手になることを意識するようになる。 八代市立第六中学校卒業後、地元熊本のバス会社九州産業交通(現:九州産業交通ホールディングス)でバスガイドとして勤務する。しかし人前で話すのが苦手なのと、業務中に歌声を披露する機会が無かった為に3ヶ月で退職。その後は地元の「キャバレーニュー白馬」に歌手として雇われる 。ところが父の会社の従業員が客としてやってきた為に3日で発覚してしまう。そして「不良は家にいらない。」と勘当され、東京にいる従姉妹を頼りに上京した。 上京後は歌える喫茶店で学費を稼ぎながら音楽学院に通い基礎を学ぶ。数年で銀座のクラブで歌うようになり、学校へは行かなくなった。その頃は主にスタンダードジャズやポップスなどを歌っていた。同じクラブで歌っていた三谷謙(のちの五木ひろし)から芸能プロダクションを紹介される。 1971年にテイチクより「愛は死んでも」でデビュー。芸名の“八代亜紀”の姓は出身地の八代(やつしろ)市から採っており、語呂の良さから「やしろ」という読みにした。本名である明代より呼びやすい2文字アキとし、また漢字の“亜紀”としたのは「アジア(亜細亜)で何世紀も活躍できるように」との願いが込められている。 読売テレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』に出場して10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンとなったことで、徐々にレコードが売れ始める。 1973年に「なみだ恋」が120万枚とヒットした後も「しのび恋」「愛ひとすじ」「おんなの夢」「ともしび」「花水仙」「もう一度逢いたい」「おんな港町」「愛の終着駅」など、女心を歌った歌で次々とヒット曲を連発する。 1979年に新境地を開拓した初の男歌「舟唄」が大ヒットし、1980年に発表した「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞する。これら2曲は「港町絶唱」と共に阿久悠、浜圭介、竜崎孝路のコンビによる「哀憐三部作」とされ、NHK紅白歌合戦では2年連続大トリを務めた。ほどなくして“演歌の女王”と称されるようになる。 1982年、センチュリーレコードへ移籍してこの頃からヒットスターからベテラン歌手としての存在へと変わってゆく。「海猫」「ブルーレイン大阪」「日本海」「陸の船乗り -ロンサム ロード-」「恋瀬川」などを発表する。 1986年に日本コロムビアへ移籍。1987年に個人事務所設立。1990年に「花(ブーケ)束」を発表。ポップス調バラードの同曲は八代の新たな一面を引き出し、演歌主体のファン以外からも支持されてロングセラーとなった。 演歌歌手では珍しく全盛期の楽曲全てが連続ヒットし、女性演歌歌手の中では総売上枚数がトップである。オリコンのシングルチャートにおけるトップ10獲得作品数も通算7作で、2011年6月に水森かおりが8作連続シングルチャートトップ10を更新するまで、女性演歌歌手歴代1位を続けた。 アルバムにおいても、オリコンの総合アルバムチャートのトップ10に5作品があり、演歌歌手としては氷川きよし、五木ひろし、森進一に次ぐ第4位である。総合アルバムチャートトップ10獲得連続年数は1974年から1976年まで3年連続で、オリコンによれば2007年9月現在で演歌歌手として、7年連続の氷川きよし、4年連続五木ひろしに次ぐ第3位である。 2012年頃からジャズ、ブルースなどを本格的に歌うようになる(後述)。その後は、年間を通じて全国を巡るコンサートやディナーショーは、演歌・ジャズ・ブルースを構成した内容で、ジャンルレスを掲げた公演を続けていた。また、長年様々な形でのボランティア活動や故郷での地域社会貢献活動などにも積極的に関わっていた(後述)。 2023年9月12日、膠原病の一種であり指定難病である抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎と急速進行性間質性肺炎のため、年内の活動を休止することを発表した。 以降は療養を続けてきたが、同年12月30日、東京都内の病院で死去した。73歳没。葬儀は八代の遺志により、明けて2024年1月8日に事務所スタッフのみで執り行われ、訃報は翌9日に所属事務所より公表された。 2024年2月7日、熊本県は「国民に広く敬愛と感動を与えた」として「熊本県民栄誉賞」(11例目、物故者は川上哲治以来2例目)の授与を発表した。また、八代市も「名誉市民」(合併後の新・八代市としては初、旧・八代市を含めて6例目)の称号を授与する事を発表した。 2024年3月26日、八代亜紀 お別れの会 ~ありがとう…これからも~ 東京・蒲田の片柳アリーナで行われた。ステージ復帰を熱望していた故人の思いに応える形で、生バンドの演奏に本人の歌声を重ねたコンサート形式で開催。歌手仲間や関係者、ファンら合わせて3000人が見守った。 「昨年暮れ、残念でしたが長い歌手人生に終止符を打ちました。苦しい時も、楽しい時も心の支えになったのは皆さんからの声援でした。感謝の気持ちでいっぱいです」 この日のメッセージ部分は全て最新AI音声。本人が2020年、声を音源データに残すことを希望し生前とかわらない包み込むような、やさしい温かい声が出席者を出迎えた。 中央の遺影は、鮮やかなピンクのドレスをまとった故人がほほえみ、スポットライトの先には生前着用していた青いドレス。ステージセットと祭壇には胡蝶蘭や、バラ、カーネーションが盛大に並べられた。 会場には、フランスの由緒ある公募展ル・サロンに入選した絵画や熊本県民栄誉賞や八代市名誉市民の賞状など、ゆかりの品々が展示され、アトリエを再現したコーナーも設けられた。 発表された戒名は、「艶唱院釋信譽明煌清大姉(えんしょういんしゃくしんよみょうこうせいだいし)」。 貴重なコンサート映像や写真などで足跡を振り返り、「舟唄」からはじまり「雨の慕情」「なみだ恋」など全20曲が流され、"演歌の女王"として歌謡界、芸能界に貢献してきた故人に別れを告げるため、多数の歌手仲間、出席者らが思い思いの祈りをささげ献花した。 最後に、「皆さん、八代亜紀は幸せでした。幸せでしたよ」。そして「ありがとうね。バイバイ!!」の声とともにステージの幕を下ろした。 人物父は浪曲など歌が非常に上手だった。また、父親は若い頃画家志望だったこともあり、八代は幼い頃から絵画教室に通った。当時は休日に母が作ってくれた弁当を持って父と一緒に写生に出かけ、休憩がてら父のギターによる弾き語りを聞いていたという。 元々父と母は19歳と20歳の若さで駆け落ち同然に結婚し、懸命に共働きをして八代を育ててきた。普通の会社員だった父は八代が小学2年生の頃に運送会社を起業したが、会社経営の難しさから生活が困窮するようになる。 その生活状況に加え、会社経営に苦悩する父の姿を見続けたことから、子供ながらに「早く大人になって働いて、家計を助けるんだ」と決意する。12歳で先述の通りクラブ歌手を目指し始めるが、その理由は「一流の歌手はクラブで歌うもの」と勘違いしたことも一因。 将来クラブ歌手になることを念頭に置き、その前段階として中学卒業後15歳でバスガイドになった。しかし当時はまだ人前で話すことが恥ずかしくて上手く喋れず、そうこうしている内に観光名所を通り過ぎるなど失敗が多かった。そんな中、友達の勧めで市内のキャバレー「キャバレー ニュー白馬」(2015年時点で現存)の歌のオーディションに年齢を誤魔化して参加し、店の専属歌手として採用される。 両親に内緒でバスガイドを辞めてキャバレーで歌い始めるが、3日後父の友人がたまたま来店したことで両親にバレた。父から「いつからそんな不良になったんだ。出ていけ!」と勘当されて上京した。そのためここで歌ったのは3日間だけだったが、本人は「歌手としての自信を持った大事な場所。ここが歌手・八代亜紀の原点」と位置づけている。 東京の親族の家で下宿させてもらいながら音楽学院に通い、学費と生活費を稼ぐため新宿の歌える喫茶店でバイトを始める。 18歳の頃銀座のクラブで歌うようになると、ホステスたちから「あきちゃんの歌には哀愁がある」と好評を得た。後日ホステスたちから「レコードを出した方がいい」と背中を押され、その後レコードデビューへと繋がった。 そして1971年に歌手デビューした夜は嬉しさのあまり、デビュー曲「愛は死んでも」のシングルレコードを抱いて眠った。同曲はヒットしなかったが、これまで応援してくれた人の気持ちに答えるためにも何とか売ることを決意、八代はトランクに同曲のレコードをたくさん詰めて地方のキャバレー周りをほぼ毎日繰り返して売り歩いた。 「歌手としては表現者というより、それぞれの歌が持つ心を伝える代弁者でありたい」との考えを持っている。 本人は、先述の15歳で八代市の「キャバレー ニュー白馬」で歌ったことが、「歌手・八代亜紀の原点」と位置づけている。 学生時代に音楽の授業で歌ったところ、教師から「そんな声出しちゃいけない」などと言われ、ハスキーな声にコンプレックスを感じていた。しかし銀座のクラブで歌うようになってからホステスや客たちから歌声を褒められたことで、「自分の声はいい声だったんだ」と気づき、好きになったとのこと。 デビュー当時から、「レコーディングでは、歌っている時の自分の顔を誰にも見せない」ということを決めている。理由は、「私は辛い人や悲しい人、苦しい人の代弁者のつもりで歌ってきました。歌入れの時はそういう人の表情になっているはずで、それを見られるのは恥ずかしいから」とのこと。また「レコーディングは何回も録らない」との考えを持っている。これはスタジオで曲のイントロを聴き、最初に浮かんだイメージでそのまま歌うことを大事にしているため。これまでのレコーディングでは一曲につき、基本的に通しで3回までしか歌わないとのこと。 2021年のインタビューで、今後歌ってみたい歌として「歌詞が徹底的なまでに短くて、ギター一本でも成立するようなシンプルな作りで、“どん底の悲しみ”を表現するような歌を歌いたい」との目標を持っている。 2012年、日本コロムビアに所属しながら同社了承の下で、小西康陽プロデュースによるジャズアルバム『夜のアルバム』をユニバーサルミュージックから発売して世界75か国で同時配信され、歌手活動42年目で世界デビューする。マレーシアのiTunes Storeジャズチャートで1位、シンガポール2位、台湾4位、香港7位、オリコン・アルバムチャートのデイリーチャートで最高9位、週間チャートで最高20位を記録し、ヒット作となった。オリコン・アルバムチャートTOP20入りは34年ぶりである。11月9日にジャズ歌手としてブルーノート東京のステージに立った。 2013年3月27日にニューヨークの名門ジャズクラブ・バードランドでライブを開催し、八代が憧憬するヘレン・メリルをゲストに招き初共演した。また4月29日には、そのライブの模様がNHK総合テレビでドキュメンタリー番組『演歌の女王 ジャズを歌う〜八代亜紀・ニューヨークでの挑戦〜』として放送される。同番組が反響を呼んで8月21日に当日のライブを収録したアルバム『夢の夜〜ライヴ・イン・ニューヨーク』が発売された。さらに9月7日に開催されたジャズ・フェスティバル「第12回 東京JAZZ」に出演するなど、現在は演歌のコンサートと並行しジャズライブも積極的に実施している。 2015年10月、寺岡呼人プロデュースによる初のブルース・アルバム『哀歌 -aiuta-』を発表。同アルバム発売を記念して11月には、3年ぶりにブルーノート東京で『AKI YASHIRO "aiuta" Special Night』を開催。同じく12月には、東京国際フォーラムにて『八代亜紀 "哀歌" クリスマスコンサート』も開催。 2017年10月、ジャズアルバム第2弾となる『夜のつづき』を発売し、前作『夜のアルバム』に続いてiTunesジャズチャートで1位を獲得する。同作品の発売を記念して11月にブルーノート東京、12月にビルボードライブ大阪、2018年1月にブルーノート名古屋でジャズライブを開催。 2022年10月21日・22日の2日間にわたり、フランス・パリ日本文化会館で公演を開催した。公演は2020年の八代亜紀デビュー50周年に開催予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で延期。2年越しの開催を迎えた。絵画の世界において、伝統と格式のあるル・サロンから、永久会員の称号を授与されたフランスは、画家としても活動する八代にとって縁の深い地。パリ公演は2日間ともに完売。超満員で幕を開けたパリ公演で、1部では公演のためにあつらえた着物を着用。2部では装いを新たにドレスで登場。オープニングの「雨の慕情」からエンディングの「舟唄」まで、全編を通して"八代演歌"で客席のパリジャンからスタンディングオベーションが起こった。 歌手活動だけに留まらず、画家としても活躍している。元画家志望だった父親の影響により、小学生の頃は将来画家になるつもりだった。また父親も実は、娘には歌手ではなく画家になってもらいたかったという。 子供の頃から長年水彩画を描いていたが、40歳頃に油絵の質感に惚れ込んで市川元晴に師事。それ以来、写実的な油絵を描くことにハマっているという。その後フランスの由緒ある「ル・サロン」展に1998年から5年連続入選し、日本の芸能人として初の正会員(永久会員)になるなど活躍している。 歌と絵について本人は、「歌うことも絵を描くこともエネルギーがいるけど、私の場合は歌という肉体労働で酷使した自分を、絵を描くことでマッサージしている感じ」と評している。 優しく面倒見の良い両親の影響もあり、若い頃から色々とボランティア活動をしている。 その一環として、1981年より長年女子刑務所の慰問公演を続けている。元々1973年に少年院の慰問を始めたのがきっかけで、その後老人ホームや福祉施設、女子刑務所へ行くようになった。2000年、日本全国すべての女子刑務所を訪問した。 ペルー元大統領アルベルト・フジモリの両親が熊本県出身ということで、以前からフジモリを支援しつつ、ペルーに対するボランティア活動も行っていた。1994年には、ペルー共和国のラ・メルセにヤシロアキ工業技術学校を設立。また、1999年にはペルーで開催されたNHK『NHKのど自慢』にゲスト出演している。 2011年の東日本大震災の後、何度か被災地に訪れて様々な支援活動を行っている。また、体育館で避難所暮らしをする被災者のために、当時の八代市市長や市内の畳業者の協力を得て数千枚の畳を宮城県石巻市や東松島市などに届けた。 2016年4月に故郷で起きた熊本地震の後、被災地での無料コンサートへの参加や義援金を渡すなどの支援活動を行った。 2002年に八代市の商工会議所などを中心とした「八代亜紀と共に明日の八代をつくる会」が発足し、八代市の活性化を考える会合などに参加している。この会をきっかけとして、八代はそれ以降熊本や八代市での社会貢献活動が増える。 八代市で毎年5月に開かれるウォーキングイベント「九州国際スリーデーマーチ」に、2002年から毎年ゲスト出演しており、会場で絵画展やトーク&ミニライブを行っている。また、2017年の大会では八代にちなんだ「八代亜紀絵画コース」(10km)というコースもあった。 2003年から八代地域の活性化と地域づくりを目的とした「八代亜紀絵画コンクール」の名誉会長を務めている。同コンクールには、八代自らが選ぶ「八代亜紀大賞」、「八代亜紀賞」などの賞がある。 2004年に熊本県の観光や物産をPRする「くまもと誘友(ゆうゆう)大使」の名誉大使の第1号に就任。また、八代市をPRする「八代よかとこ大使」としても活動している。さらに2009年10月から熊本市親善大使に就任。 2012年に熊本県の文化に振興する活動を行った功績を讃えられ、「第22回くまもと県民文化賞」の特別賞を受賞。また、2015年には八代市から市民栄誉賞を受賞された。 2019年11月、熊本で開かれた世界女子ハンドボール選手権の大会特別サポーターに就任し、同大会テーマソング「Hand in Hand~つなぐ想い~」の歌唱も担当した。 多方面での活躍1973年に「なみだ恋」が大ヒットした後、トラック運転手から“トラック野郎の女神”として絶大な支持を得るようになり、「八代観音」と呼ばれる、八代の顔を模した観音の絵が描かれたトラックが出現した。これがきっかけとなり、1977年に当時大ヒットを飛ばしていた東映映画『トラック野郎・度胸一番星』に女ダンプ運転手「紅弁天」役で出演し、八代の曲「恋歌」が挿入歌として使用された。配給収入も10億9000万円を記録した。当時の「夜のヒットスタジオ」出演時、実際に運転して撮影したと話している。 1994年、少年漫画『とっても!ラッキーマン』で「ラッキー・クッキー・八代亜紀」というギャグが使われている。同作がアニメ化した際に本人がオープニングとエンディングを担当し、「ラッキー・クッキー・八代亜紀」と歌い上げた。 2005年から2006年に放送された朝日放送(ABC)『トリハダ 〜感じるボロ〜ン〜』では、バラエティ番組のレギュラー司会を初めて担当した。 2012年に故郷である熊本県八代市に新設された熊本県立八代清流高等学校の新校歌制作を依頼され、「故郷の若者がふるさとを思い、愛する気持ちを持ってもらえれば」と快諾し、自ら作詞・作曲した新校歌を八代清流高校に贈った。 2013年10月20日、日本のヘヴィメタルフェス『LOUD PARK13』にて鉄色クローンXのライブに飛び入り参加した。 2020年、前年より猛威を振るっている新型コロナウイルスによる感染拡大の状況を受け、来場者の健康・安全を最優先と判断し、クラスターを発生させないため、公演の多くが延期もしくは中止を余儀なくされた。コンサート再開に於いては、会場本来の収容人数よりも大きく座席数を減らし、客席間もいわゆるソーシャルディスタンスに準じて十分に間隔を取るなど細心の注意を払っている。2020年秋より、介護施設向けにオンラインライブを開始した。 2024/05/16 12:03更新
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yashiro aki
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