もしもし情報局 > 10月3日 > 外交官

タウンゼンド=ハリスの情報 (TownsendHarris)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

タウンゼンド=ハリスの情報(TownsendHarris) 外交官 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

タウンゼンド=ハリスさんについて調べます

■名前・氏名
タウンゼンド=ハリス
(読み:Townsend Harris)
■職業
外交官
■タウンゼンド=ハリスの誕生日・生年月日
1804年10月3日 (年齢1878年没)
子年(ねずみ年)、天秤座(てんびん座)
■出身地・都道府県
不明

タウンゼンド=ハリスと同じ1804年生まれの有名人・芸能人

タウンゼンド=ハリスと同じ10月3日生まれの有名人・芸能人

タウンゼンド=ハリスと同じ出身地の人


タウンゼンド=ハリスの情報まとめ

もしもしロボ

タウンゼンド=ハリス(Townsend Harris)さんの誕生日は1804年10月3日です。

もしもしロボ

卒業、事件、現在、病気、映画、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。1878年に亡くなられているようです。

タウンゼンド=ハリスのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

タウンゼント・ハリス(英語: Townsend Harris, 1804年10月3日 - 1878年2月25日)は、アメリカ合衆国の外交官、初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使、民主党員、聖公会信徒。「タウンゼンド・ハリス」とも表記される。

江戸時代後期に訪日し、日米修好通商条約を締結したことで知られる。ニューヨーク市立大学シティ・カレッジを創設した教育者でもある。

1804年10月3日、ニューヨーク州ワシントン郡サンデーヒル(後のハドソン・フォールズ(英語版))に父ジョナサン・ハリスの六男として生まれる。家系はウェールズ系。

家が貧しかったため、小学校・中学校を卒業後はすぐ父や兄の陶磁器輸入業を助け、図書館などを利用して独学でフランス語、イタリア語、スペイン語を習得し、文学を学ぶ。その苦学時代の体験が、長じて教育活動に目を向けることとなり1846年にはニューヨーク市の教育局長となり、1847年に高等教育機関「フリーアカデミー」(現・ニューヨーク市立大学シティ・カレッジ)を創設。自らフランス語、イタリア語、スペイン語を教えるなど、貧困家庭の子女の教育向上に尽くした。そのほか、医療や消防などの公共事業に携わる。1848年に辞職。

家業の経営が悪化したため、ハリスは1849年にはサンフランシスコで貨物船の権利を購入し、貿易業を開始する。清、ニュージーランド、インド、マニラなど太平洋を中心に各地を航行して、以前から興味を抱いていた東洋に腰を落ち着ける。1853年には日本への第1次遠征を行っていたマシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が清に滞在しており、上海にいたハリスはペリーに対して日本への同乗を望むが、軍人でないために許可を得られなかった。

ハリスは国務長官など政界人の縁を頼って政府に運動し、1854年3月、台湾に関するレポート「台湾事情申言書」を提出。4月には寧波の領事に任命される。アメリカへ帰国したハリスは、同年に日本とアメリカとの間で調印された日米和親条約の11条に記された駐在領事への就任を望み、政界人の推薦状を得るなどして、1855年に大統領フランクリン・ピアースから初代駐日領事に任命される。ハリスは日本を平和的に開国させ、諸外国の専制的介入を防いでアメリカの東洋における貿易権益を確保を目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられる。また、シャムとの通商条約締結も命じられた。当時、イギリスの駐日公職者は母国政府から派遣されたエリート出身者がほとんどだったが、アメリカはハリスのような在住の商人らに兼任させることが多かった。

ハリスは通訳兼書記官としてオランダ語に通じたヘンリー・ヒュースケンを雇い、1856年に出発。ヨーロッパからインド経由で4月にはシャムへ到着、バンコクにおいて通商条約の締結に尽力する。さらに香港経由で8月21日(安政3年7月21日)に日本へ到着し、伊豆の下田へ入港する。

日本では通訳の不備などから、対応にあたった下田奉行・井上清直に入港を拒否されるなどのトラブルもあったが、折衝の末に正式許可を受け、下田玉泉寺に領事館を構える。ハリスは大統領親書の提出のために江戸出府を望むが、幕閣では水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対し、江戸出府は留保された。下田においては薪水給与や回比率などの問題を巡り和親条約改訂のための交渉が行われ、1857年6月17日(安政4年5月26日)には下田協定が調印される。この頃からハリスは体調を崩し幕府に看護婦を要請した。幕府はハリスの籠絡を目的として芸者の斎藤きちを送り3ヶ月だけ看病に入っている(→唐人お吉)。

ハリスはたび重ねて江戸出府を要請し続けていたが、1857年7月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れてハリスの江戸出府、江戸城への登城、将軍との謁見を許可する。ハリス、ヒュースケンらの一行は1857年10月に下田を出発し、下田の人々によって作られた手作りの星条旗を掲げ、公式の使節として200マイルの道程を江戸に向かった。移動に際して東海道は幕府によって一般の通行が規制されたが、ハリスが江戸に着く頃には多くの群集が米国総領事の到着を一目見ようと集まった。江戸では蕃書調所に滞在して登城の日取りが決められ、12月7日(旧暦10月21日)に登城し、13代将軍徳川家定に謁見して親書を読み上げている。将軍を前に、穏やかで落ち着いたハリスの態度は同席した日本人に感銘を与えた。

1858年(安政5年)には大老となった井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しでの通商条約締結に踏み切り、日米修好通商条約が締結された。ハリスは軍事力を使うことなく、自らの決断力と幕府の役人達の協力を得て、条約署名という使命を果たすことに成功したのだった。これによりハリスはブキャナン大統領より任命され初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して、1859年7月7日(安政6年6月8日)に江戸の元麻布善福寺に公使館を置く。ハリスは、日米修好通商条約に本国人の宗教の自由を認め、居留地内に教会を建てて良いとする第8条を加えたが、これによって宣教師の来日が可能となった。

1859年4月下旬にハリスは長崎を訪問しており、5月初めに、既に長崎で活動を開始していたアメリカ人商人の一人でニューヨーク出身の実業家ジョン・G・ウォルシュを長崎の米国領事に選任した。ウォルシュは最初の長崎米国領事館を広馬場の日本人居住区に設立した。 ハリスは米国聖公会の熱心な信徒であるとともに、ニューヨーク市立大学シティ・カレッジを創設した教育者でもあり、日本で米国聖公会が学校を開設することの勧告と支援を行ってきた。このハリスの長崎訪問と同時に、プロテスタント日本初となる米国聖公会宣教師のジョン・リギンズが同年5月2日に長崎に来日し、ハリスの支援のもとで、長崎奉行・岡部駿河守長常の要請から聖公会の長崎私塾(立教大学の源流)を開設し、同年6月25日に来日したチャニング・ウィリアムズとともに、英学教育を開始した。こうして、ハリスは長崎でもアメリカの活動拠点の構築、整備、ミッション支援を進め、日本とアメリカとの外交基盤を整えていった。

1860年8月1日、アメリカ国務長官ルイス・カスに対して書簡で、通商条約により再来年に控えた江戸の開市(1862年1月1日の予定)の延期を進言した。実は下田に着任した当時、ハリスへの襲撃未遂事件があり、以降も攘夷による在留外国人に対する襲撃や焼き討ちが相次ぎ、また孝明天皇からの条約勅許はいまだ幕府から出ておらず、現在の幕政下での開市は時期尚早と判断していた。10月31日(万延元年9月18日)、ハリスは老中安藤信正と会談し、急すぎる開市の延期を希望していた幕府との思惑とも一致し、また翌1861年1月14日(万延元年12月4日)にはヒュースケンが殺害される事件がおき、ハリスは確信に至ったと思われる。5月2日(文久元年3月23日)、将軍家茂名での「七年間の両都・両港の開市・開港の延期を要求する直書」が各国公使に出されると、ハリスはヒュースケン後任のアントン・ポートマンに翻訳させて5月8日(文久元年3月29日)付けでアメリカ本国へ急激なインフレが進行している旨と併せて報告した。

8月1日(文久元年6月25日)付けでエイブラハム・リンカーン大統領、ウィリアム・スワード国務長官から家茂宛の書簡がハリスに届くが、内容はヒュースケン殺害の補償までは開市延期を含む一切の譲歩はしないというものだった。ハリスは幕府の正信や久世広周と交渉して補償の合意を取り付けた後、11月27日にオールコックに5年間の開市延期の自由裁量を得たことを通知、12月6日、家茂に面会してリンカーンの親書を直接手渡し、12月14日(文久元年11月13日)に幕府から補償が実行された。12月28日、正信にはイギリス以外の各国の自国民にも併せて開市の延期を通達したと書簡で報告された。これは予定されていた開市のわずか3日前だった。この後、文久遣欧使節とイギリスとの間でロンドン覚書(1861年6月6日)、パリ覚書(同年10月2日)など、各国とも開市延期に同意している。

1862年(文久2年)には病気を理由に辞任の意向を示した。幕府はハリスに大変感銘を受けたとして彼の留任を望み、米国政府に任期延長を求める書簡も送ったが、アメリカ政府の許可を得て4月に5年9か月の滞在を終えて帰国。辞任の理由に関しては、ハリスの日記にかねてからの体調不良があることや、また自分とは党派が異なる共和党のリンカーンが大統領で、南北戦争の故郷の心配があったことなども指摘されている。後任はロバート・プルインで、5月17日には着任して家茂に謁見している。

帰国後は業績を表彰され、1867年には議会はハリスに対する生活補助金の支給を可決している。特に公職には就かず、動物愛護団体の会員などになった。1876年には保養地のフロリダ州に移住し、1878年2月25日に74歳で死去。生涯独身であったため、姪が法定相続人となった。

ハリスが日本滞在中に書き残した書状や所有物等は、ニューヨーク市立大学の図書館に保存されており、その中にはハリスの日記や、公式文書、下田の総領事館に立てた米国旗もある。現在もニューヨーク市立大学と下田市の交流は続いており、過去15年間、下田市の代表団が毎年同大学を訪問している。

墓所はニューヨーク市ブルックリン区のグリーンウッド墓地。ハリスの墓には、日本の石の灯篭が建てられ、桜の木も植わっており、墓石には彼の功績と日米通商条約締結の成功を称え、「アメリカ国民だけでなく日本国民にも満足を与えた」と記されている。

1925年に下田の玉泉寺を訪れたアメリカの実業家ヘンリー・ウォルフはタウンゼント・ハリスの記念碑建立を思い立ち、渋沢栄一に協力を依頼した。渋沢はこの申し出を受けて記念碑の設計や資金集めに尽力し、1927年9月に記念碑が玉泉寺境内に建てられた。

アメリカ合衆国では、1847年設立のニューヨーク市「フリーアカデミー」(現在のニューヨーク市立大学シティカレッジ)の創設者として知られる。現在もニューヨーク市立大学シティカレッジ図書館には、ハリスが日本駐在時に作らせたとされる最初の日本製星条旗を始め、書き残した書状や所有物などが展示、保存されている。

駐日領事時代に、幕府はハリスの江戸出府を引き止めさせるため、ハリスとヒュースケンに対して侍女の手配を行う。役人はハリスを篭絡しようと芸者のお吉という名の女性を派遣した。役人の意図を見抜いたハリスは大変怒り、お吉をすぐに解雇している。ハリスが生涯独身であったことなどから後世に誤った風説が加わり、昭和初期には「唐人お吉」としての伝説が流布し、小説や映画の題材にもなった。

大の牛乳好きである。ハリスが体調を崩した際、牛乳を欲しがったがなかなか手に入らず、侍女として雇われていたお吉が八方に手を尽くし、ようやく下田在の農家から手に入れ、竹筒に入れて運んで飲ませたという記録が残っている。この記録によると、その価格は8合8分で1両3分88文と非常に高価で、当時の米俵3俵分に相当したという。牛乳を公式に売買して飲用した記録は、日本ではこれが初めてだという。これを記念して、玉泉寺には「牛乳の碑」が建てられている。

ヒュースケン殺傷事件など日本の攘夷派の外国人襲撃行動に対し、イギリス、フランス、プロイセン、オランダの4か国代表は江戸幕府に対し共同して厳重な抗議行動をとったが、ハリスはこれに反対し、抗議行動には加わらなかった。

下田では暇さえあれば周辺を散策していた。健康面ではあまり恵まれず吐血などの体調不良に悩まされていたが、いざ交渉の場になると精力的になり下田奉行らを悩ませた。また、道端の草花を見ながら故郷に思いをはせることもしばしばあった。

ハリスと同じ時期に日本で暮らした商人のフランシス・ホールは、その日記のなかで、いかにハリスが居留地のアメリカ人の間で嫌われていたかについて書き、下品な噂話まで記した。

アヘンについてアメリカ側から禁止にするように提案した。これはイギリスのアヘン貿易を牽制したためである。。

ハリスは日米和親条約を締結して、日本との外交を切り拓いたマシュー・ペリーに対して複数回に渡って書簡を送っており、ペリーの偉業に対しての尊敬の想いと自身が日本で経験する内容とともに日米和親条約に続く日米修好通商条約の交渉経緯を伝えた。

ハリスは江戸の蕃書調所で日本側全権の下田奉行・井上信濃守と目付・岩瀬肥後守と日米修好通商条約と貿易章程の交渉を終えて、幕府の用意した蒸気軍艦・観光丸で下田へ戻る途中に、条約文の合意までに到る経緯について想いが詰まった内容を長文でペリー宛ての書簡に綴った。しかし、この書簡についてはハリスが手紙を書いた3日前の1858年(安政5年)3月5日に、ペリーはニューヨークの自宅で亡くなって読まれることはなかったが手紙は1858年12月12日付けのニューヨーク・ヘラルド紙の第8面に掲載され、ペリーに続き日米外交を先導したハリスの想いが手記によって米国民に伝えられた。

ハリスにはペリーから、ペリーの日本遠征の記録をフランシス・M・ホークス牧師が纏めた著作である『日本遠征記』が贈られており、1857年(安政4年)10月27日に下田からペリー宛てにハリスが日本に来たいきさつと、この贈られた『日本遠征記』を読み、自分の日本観との比較や今後の日本側との交渉の行く末などにも言及した書簡を送っている。ペリーは自身の遠征に同行したジョージ・ジョーンズ(ジョージ・ジョンズ)牧師へ自身のサインが入った『日本遠征記』の初版本を送っているが、この書が金沢大学附属図書館に所蔵されている。

他にもハリスは「喜望峰以東の最も優れた民族」と好意的で、下田の町も「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい。」とそれぞれ日記に称賛気味に書いている。しかし、風呂の混浴の習慣は謹厳なハリスにとって耐えきれないもので「このような品の悪いことをするのか判断に苦しむ。」と述べている。

ハリスは、1857年(安政4年)10月26日に幕府の老中堀田正睦との会見の席で、日米国際貿易開始の意義を語った。一つ目に、この50年来、西洋世界が大きく進化した原動力に、蒸気船と電信機の発明がある点と、二つ目に、これらの発明により、世界を結ぶ距離が時間的に短くなった結果、交易が盛んとなり西洋各国が豊かになったことを説明し、日本がアメリカをはじめ各国と通商関係を結ぶことを薦めた。さらに、ハリスは、江戸とワシントン間が海底ケーブルで結ばれれば、ほんの一時間ほどで応答可能になるとも説明した。既に、1830年代に、大西洋に欧州とアメリカ間のケーブル敷設が試みられており、その後、1865年には上海にまで到達し、遣欧使節団もその恩恵に預かることとなった。江戸幕府も1867、68年(慶応3、4年)には江戸・横浜間を電信機で繋ぐことを検討したが、明治維新により断念した。次いで、1871年(明治4年)に、上海と長崎間に海底ケーブルが敷設され、ついに日本はグローバルな通信網に加わることとなったが、ハリスは既に日本の将来を見据えて、通商交渉を行い、日本にアドバイスを行った。

建国史 尊王攘夷(1927年)

黒船(1958年)演:ジョン・ウェイン

花の生涯(1963年)演:久米明

花の生涯(1974年)演:ジェームス・キャロル

必殺仕事人ワイド 大老殺し(1987年)演:大月ウルフ

花の生涯 井伊大老と桜田門(1988年)演:ジョン・ワード

新選組!(2004年)演:マーティ・キーナート

花燃ゆ(2015年)演:リー・ロングショー

西郷どん (NHK大河ドラマ)(2018年)演:ブレイク・クロフォード

陽だまりの樹

ギャグマンガ日和「ハリスインパクト」

妖魔伝説 第四、五巻(妖貴妃 2023年 つむぎ書房)

『妖魔伝説 第6巻』(妖貴妃、2023年 TEMMA BOOKS)ISBN 9784911105047

『妖魔伝説 第7巻』(妖貴妃、2023年 TEMMA BOOKS)ISBN 9784911105115

『妖魔伝説 第8巻』(妖貴妃、2023年 TEMMA BOOKS)ISBN 9784911105139

『妖魔伝説 第9巻』(楊貴妃、2024年 TEMMA BOOKS)ISBN 9784911105146

^ "Japan's Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013

^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4d57ba83d5e41aac42e5017f84dc3147e53dc0ff 2020年12月3日閲覧。 

^ 在NY日本国総領事館 『米国初代公使ハリスとNY市立大学』

^ 川崎(2012) p.40

^ 富田鐵之助「幕末維新のアメリカ留学と富田鐵之助―「海舟日記」に見る「忘れられた元日銀總裁」富田鐵之助(5)―」『東北学院大学経済学論集』第186号、東北学院大学学術研究会、2016年3月、1-91頁、ISSN 1880-3431。 

^ 米国議会はまだ長崎の領事を任命しておらず、ハリスのウォルシュの選任は必要に迫られてのことだった。ウォルシュは実際には、商人の代理領事といった立場で、無給で領事として務める傍ら、個人の商業を営むことも許されていた。彼の主な職務は領事裁判官としての任務と、アメリカ政府の様々な公文書を管理することであった。

^ 在日米国大使館と領事館『長崎アメリカ領事館の歴史』2022年4月4日

^ Welch, Ian Hamilton (2013), “The Protestant Episcopal Church of the United States of America, in China and Japan, 1835-1870. 美國聖公會 With references to Anglican and Protestant Missions”, ANU Research Publications (College of Asia and the Pacific Australian National University), https://hdl.handle.net/1885/11074 

^ 長崎・横浜は開港済み。1月に開港していた新潟は港湾状態や立地条件から重要視されていなかった。

^ ただし、当時アメリカでは選挙直後の混乱期にあたり進言への返信はなかったとされる。

^ 前年の金量目を変更した万延小判発行による。

^ これは幕府から示された7年間よりも短い期間であり、後のロンドンやパリの覚書でもこれを踏襲している。

^ タウンゼンド・ハリス記念碑建設 渋沢栄一伝記資料 第38巻 pp.323-431。2019年12月29日閲覧

^ ハリス顕彰記念碑 瑞龍山玉泉寺 2019年12月29日閲覧

^ The Aftermath of Perry's Visit (or Cutting a Journal Down to Size)Humanities & Social Sciences Online, 2001

^ 石井『日本開国史』p.261-265

^ 日米交流 Japan-US Encounters Website 『タウンゼント・ハリスからペリー提督への手紙』

^ 金沢大学附属図書館 『ペリー提督自筆署名入り『日本遠征記』』

^ 横須賀市自然・人文博物館 『学芸員自然と歴史のたより「黒船と電信機が予見した未来」』

『ハリス 日本滞在記』 坂田精一訳、岩波文庫(上中下)、1953-54年、復刊2003年ほか。旧字表記

    グーテンベルク21(電子書籍 上下、2024年)で再刊。現行かな表記

    川崎晴朗「研究ノート : 明治時代の東京にあった外国公館(2)」『外務省調査月報』第(1)巻2012年度、外務省第一国際情報官室、2012年8月30日、ISSN 0447-3523。 

    坂田精一『ハリス』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1961年6月、新版1987年、オンデマンド版2021年。ISBN 4642750843

    R・オールコック『大君の都』 山口光朔訳、岩波文庫(上中下)、1962年。ISBN 4003342410、ISBN 4003342429、ISBN 4003342437

    カール・クロウ『ハリス伝 日本の扉を開いた男』 田坂長次郎訳、平凡社〈東洋文庫〉、1966年、オンデマンド版2003年

    アルフレッド・タマリン『日本開国 ペリーとハリスの交渉』 浜屋雅軌訳、高文堂出版社、1986年

    宮永孝『開国の使者 ハリスとヒュースケン』雄松堂出版〈東西交流叢書〉、1986年、オンデマンド版2007年

    佐藤雅美『大君の通貨』文藝春秋、のち文春文庫(歴史小説、新版2003年3月)。ISBN 4167627078

    日米修好通商条約

    唐人お吉(斎藤きち)

    ハリス(菓子メーカー)

    Townsend Harris: America's First Consul to Japan - 在ニューヨーク日本国総領事館による伝記(英語)

    牛乳の碑

    創設

    タウンゼント・ハリス1859-1862

    ロバート・H・プリュイン1862-1865

    アントン・ポートマン代理公使1865-1866

    ロバート・B・ファン・ファルケンブルグ1866-1869

    チャールズ・デロング1869-1872

    特命全権公使に昇格

    チャールズ・デロング1872-1873

    ジョン・ビンガム1873-1885

    リチャード・ハバード1885-1889

    ジョン・スウィフト1889-1891

    フランク・クームズ1892-1893

    エドウィン・ダン1893-1897

    アルフレッド・バック1898-1902

    ロイド・グリスカム1903-1905

    ルーク・ライト1906-1907

    トーマス・オブライエン1907-1911

    チャールズ・ブライアン1911-1912

    ラーズ・アンダーソン1913

    ジョージ・ガスリー1913-1917

    ローランド・モリス1917-1920

    チャールズ・ウォレン1921-1922

    サイラス・ウッズ1923-1924

    エドガー・バンクロフト1924-1925

    チャールズ・マクヴィー1925-1928

    ウィリアム・キャッスル1930

    W・キャメロン・フォーブス1930-1932

    ジョセフ・グルー1932-1941

    国交断絶

    国交回復

    ロバート・マーフィー1952-1953

    ジョン・アリソン1953-1957

    ダグラス・マッカーサー 2世1957-1961

    エドウィン・ライシャワー1961-1966

    U・アレクシス・ジョンソン1966-1969

    アーミン・マイヤー1969-1972

    ロバート・インガソル1972-1973

    ジェイムズ・ホッジソン1974-1977

    マイケル・マンスフィールド1977-1988

    マイケル・アマコスト1989-1993

    ウォルター・モンデール1993-1996

    トーマス・フォーリー1998-2001

    ハワード・ベーカー2001-2005

    ジョン・シーファー2005-2009

    ジョン・ルース2009-2013

    キャロライン・ケネディ2013-2017

    ウィリアム・F・ハガティ2017-2019

    ラーム・エマニュエル2021-

    FAST

    ISNI

    VIAF

    WorldCat

    フランス

    BnF data

    ドイツ

    イスラエル

    ベルギー

    アメリカ

    日本

    オランダ

    ポーランド

    CiNii Books

    CiNii Research

    Trove(オーストラリア)

      1

      公文書館(アメリカ)

      SNAC

      IdRef

      駐日アメリカ合衆国公使

      駐日外交団長

      アメリカ合衆国の教育者

      幕末の日米関係

      ウェールズ系アメリカ人

      ニューヨーク州ワシントン郡出身の人物

      米国聖公会の信者

      日本の聖公会の信者

      立教大学の歴史

      1804年生

      1878年没

      外部リンクがリンク切れになっている記事/2024年9月

      FAST識別子が指定されている記事

      ISNI識別子が指定されている記事

      VIAF識別子が指定されている記事

      WorldCat Entities識別子が指定されている記事

      BNF識別子が指定されている記事

      BNFdata識別子が指定されている記事

      GND識別子が指定されている記事

      J9U識別子が指定されている記事

      KBR識別子が指定されている記事

      LCCN識別子が指定されている記事

      NDL識別子が指定されている記事

      NTA識別子が指定されている記事

      PLWABN識別子が指定されている記事

      CINII識別子が指定されている記事

      CRID識別子が指定されている記事

      Trove識別子が指定されている記事

      NARA識別子が指定されている記事

      SNAC-ID識別子が指定されている記事

      SUDOC識別子が指定されている記事

      ISBNマジックリンクを使用しているページ

2024/11/19 09:11更新

Townsend Harris


タウンゼンド=ハリスと同じ誕生日10月3日生まれの人

矢野 健太郎_(漫画家)(やの けんたろう)
1957年10月3日生まれの有名人 大阪出身

矢野 健太郎(やの けんたろう、1957年〈昭和32年〉10月3日 - )は、日本の漫画家。主な作品に『ネコじゃないモン!』などがある。大阪芸術大学の漫画アニメーション研究会グループ「CAS」の創設者…

ジェームズ=ブキャナン_(経済学者)(James McGill Buchanan)
1919年10月3日生まれの有名人 出身

10月3日生まれwiki情報なし(2024/11/09 14:18時点)

MEG_(歌手・ファッションデザイナー)(めぐ)
1980年10月3日生まれの有名人 広島出身

MEG(メグ、1980年10月3日 - )は、日本の女性ミュージシャン、ファッションモデル、デザイナー、英国ロンドンMATCHADO創業者。現在は、英国ロンドン在住。所属事務所はアソビシステム。200…

渡辺 省三_(漫画家)(わたなべ しょうぞう)
1940年10月3日生まれの有名人 群馬出身

10月3日生まれwiki情報なし(2024/11/15 04:05時点)

近藤 直也(こんどう なおや)
1983年10月3日生まれの有名人 栃木出身

近藤 直也(こんどう なおや、1983年10月3日 - )は、栃木県宇都宮市出身の元プロサッカー選手。元日本代表。現役時代のポジションはディフェンダー(CB)。 栃木県宇都宮市出身。父は大学教授、兄…


武田 広(たけだ ひろし)
1949年10月3日生まれの有名人 大阪出身

武田 広(たけだ ひろし、1949年10月3日 - )は、日本の男性ナレーター、シニアスタッフ。元ラジオ局アナウンサー。大阪府出身。 実家は寺で跡取りの長男として生まれるが、自分の将来に思い悩む。「…

松浦 大悟(まつうら だいご)
1969年10月3日生まれの有名人 広島出身

松浦 大悟(まつうら だいご、1969年10月3日 - )は、日本の政治家、元秋田放送アナウンサー。参議院議員(1期)、民主党・民進党秋田県連代表を務めた。 広島県広島市出身。広島市立基町高等学校、…

杉山 真也(すぎやま しんや)
1983年10月3日生まれの有名人 東京出身

杉山 真也(すぎやま しんや、1983年10月3日 - )は、TBSテレビのアナウンサー。 東京都出身。お茶の水女子大学附属小学校・中学校、東京都立小石川高等学校、早稲田大学第一文学部卒業。 大学…

廣瀬 智美(ひろせ ともみ)
1981年10月3日生まれの有名人 大分出身

廣瀬 智美(ひろせ ともみ、1981年10月3日 - )は、NHKのアナウンサー。 大分県大分市出身。大分県立大分上野丘高等学校、津田塾大学学芸学部卒業後、2004年(平成16年)に入局。 九州出…

山之内 すず(やまのうち すず)
2001年10月3日生まれの有名人 兵庫出身

山之内 すず(やまのうち すず、2001年(平成13年)10月3日 - )は、日本のタレント、女優、ファッションモデル。 INCUBATION(インキュベーション)所属。 兵庫県神戸市須磨区出身。本…


牧野 美千子(まきの みちこ)
1964年10月3日生まれの有名人 東京出身

牧野 美千子(まきの みちこ、1964年10月3日 - )は、日本のタレント。本名 (旧姓)、芸名と同じ。 埼玉県浦和市(現・さいたま市)出身。実践女子大学卒業。既婚。 中学生時代の部活は陸上部で…


TOPニュース

動画を見るだけで10万円稼げる!?

闇バイトに引っかからない方法

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去


タウンゼンド=ハリスと近い名前の人

ジョン=ウィリアムズ_(作曲家)(John Towner Williams)
1932年2月8日生まれの有名人 出身

ジョン・タウナー・ウィリアムズ(John Towner Williams、1932年2月8日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク出身の作曲家、編曲家、指揮者、ピアニスト。これまでにグラミー賞25回…

フォレスト=タウンズ(Robert Forrest Towns)
1914年2月6日生まれの有名人 出身

フォレスト・タウンズ(Robert Forrest "Spec" Towns、1914年2月6日- 1991年4月4日)は、アメリカ合衆国の陸上競技選手。110mハードルの元世界記録保持者。1936年…

バーサ=タウンゼント(Bertha Louise Townsend Toulmin)
1869年3月7日生まれの有名人 出身

バーサ・タウンゼント(Bertha Townsend, 1869年3月7日 - 1909年5月12日)は、アメリカ・ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の女子テニス選手。1887年から始まった「全米女…

ピート=タウンゼント(Pete Townshend)
1945年5月19日生まれの有名人 出身

ピート・タウンゼント(Pete Townshend、本名:Peter Dennis Blandford Townshend、1945年5月19日 - )は、イングランドのロック・ミュージシャン、小説家…


ジョセフ=ギタウ(Joseph Gitau)
1988年1月3日生まれの有名人 出身

ジョセフ・ギタウ(Joseph Gitau、1988年1月3日 - )は、日本国内で活躍しているケニア出身の男子陸上競技選手(長距離種目)。身長167cm、体重49kg。血液型AB型。 ケニア中央州…

イメルダ=スタウントン(Imelda Staunton)
1956年1月9日生まれの有名人 出身

イメルダ・メリー・フィロメナ・バーナデット・ストーントン CBE(Imelda Mary Philomena Bernadette Staunton CBE, 1956年1月9日 - )は、イギリスの…

ノーマン=タウログ(Norman Taurog)
1899年2月23日生まれの有名人 出身

ノーマン・タウログ(Norman Taurog, 1899年2月23日 - 1981年4月7日)は、アメリカ合衆国の映画監督。 『スキピイ』により第4回アカデミー監督賞を受賞した。 イリノイ州シカ…

ジョゼ=ビタウ(Jose Reginalclo Vital)
1976年2月29日生まれの有名人 出身

2月29日生まれwiki情報なし(2024/11/20 16:54時点)

ヘルマン=シュタウディンガー(Hermann Staudinger)
1881年3月23日生まれの有名人 出身

ヘルマン・シュタウディンガー(Hermann Staudinger, 1881年3月23日 - 1965年9月8日)はドイツの化学者。専門は有機化学および高分子化学。多岐にわたる高分子研究の業績により…


ラスティ=スタウブ(Daniel Joseph “Rusty” Staub)
1944年4月1日生まれの有名人 出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート ダニエル・ジョゼフ・スタウブ(Daniel Joseph Staub, 1944年4月1日 - 2018年3月29日 )は、アメリカ合…

ブルーノ=タウト(Bruno Julius Florian Taut)
1880年5月4日生まれの有名人 出身

ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut、1880年5月4日 - 1938年12月24日)は、東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家。鉄の記念塔(1913…

ウルリケ=タウバー(Ulrike Tauber)
1958年6月16日生まれの有名人 出身

6月16日生まれwiki情報なし(2024/11/20 05:27時点)

タウファハウ=ツポウ4世(Taufa'ahau Tupou IV)
1918年7月4日生まれの有名人 出身

7月4日生まれwiki情報なし(2024/11/19 09:11時点)

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
タウンゼンド=ハリス
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

こっちのけんと 斎藤元彦 松島かのん 澤繁実 小野寺紘毅 桜井誠_(活動家) 安野貴博 ジャンボ松田 後藤輝樹 石丸幸人

グループ

MAZZEL 三四郎 BMK_(音楽グループ) M!LK SOLIDEMO さくらしめじ WATWING 原因は自分にある。 10神ACTOR PRIZMAX 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「タウンゼンド=ハリス」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました