ダリル=スペンサーの情報(DarylDeanSpencer) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


ダリル=スペンサーさんについて調べます
■名前・氏名 |
ダリル=スペンサーの情報まとめ

ダリル=スペンサー(Daryl Dean Spencer)さんの誕生日は1929年7月13日です。

事故、事件に関する情報もありますね。2017年に亡くなられているようです。
ダリル=スペンサーのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート ダリル・ディーン・スペンサー(Daryl Dean Spencer, 1928年7月13日 - 2017年1月2日)は、アメリカ合衆国カンザス州出身のプロ野球選手(内野手)・プロ野球指導者。 アメリカでのニックネームは「ビッグ・ディー (Big Dee)」。日本では阪急ブレーブスの主軸打者としてプレーし、「ドクター・ベースボール」と呼ばれた。日本野球界にサイクル安打の概念を持ち込んだ人物としても知られる。 カンザス州ウィチタで生まれ、ウィチタイースト高校(英語版)、州立ウィチタ大学(英語版)を経て、1949年にニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)と契約する。 1952年にAAAミネアポリス・ミラーズ(英語版)で、打率.294、27本塁打を記録し、同年ニューヨーク・ジャイアンツでメジャーデビュー。1953年は二塁・三塁・遊撃を守るユーティリティとして起用され、打率.208ながら20本塁打を放った。同年オフに日米野球でジャイアンツが来日した際、スペンサーも日本を訪れている。1954年から2年間は兵役でチームを離脱。1956年から復帰し、この頃から正遊撃手となった。以後は1960年にセントルイス・カージナルス、1961年シーズン途中にロサンゼルス・ドジャース、1963年シーズン途中にシンシナティ・レッズと渡り歩いた。ドジャース以降は三塁手としてプレーした。1963年7月19日にレッズを戦力外となった。 1964年に阪急ブレーブスに年俸22,500ドルで入団し来日。空港に着くと、私は阪急を優勝するために来た、私のバットと頭脳で実現させる、と語った。長く正二塁手を務めていたロベルト・バルボンに代わってレギュラーとなり、石井晶やウインディとクリーンナップを組む。打率.282(リーグ13位)、36本塁打(同2位)、94打点(同3位)と打撃3部門でチームトップの成績を挙げ、ベストナイン二塁手のタイトルを獲得した。 1965年は打撃好調で、当時パシフィック・リーグ最強打者として君臨していた野村克也(南海)と激しい三冠王争いを展開。8月15日を迎えた時点での打撃成績は、スペンサー:打率.329、33本塁打、62打点、野村:打率.335、27本塁打、80打点で、両者とも三冠を狙える位置に付けていた。しかし、8月14日から8月15日にかけては、タイトル争いとは無関係の東京オリオンズ投手陣によりスペンサーは当時の日本記録となる8打席連続で歩かされる。まず、8月14日に坂井勝二から2打席連続敬遠されると、8月15日のダブルヘッダー第1試合の先発は「精密機械」の異名を取るほどの制球力を誇る小山正明であったが、スペンサーに対しては4打席全てストレートの四球であった。第2試合も2打席連続四球(うち1度は満塁押しだし)で、しびれを切らしたスペンサーは次の打席で敬遠球を無理矢理打ち、連続四球は8打席で終わった。これについては、当時は外国人選手にタイトルを取らせるなという風潮があり、小山も「外国人にはタイトルを取らせたくない」旨の発言をしたともされる(小山自身は発言を否定)。一方で、スペンサーの次を打つ五番・戸口天従がわずか1本塁打と五番を打つには打力不足だったことから、投手が敢えてスペンサーとの勝負を避けた結果とする見方もあり、小山自身ものちに「スペンサーより次打者と勝負した方が勝算が高かった」旨の発言をしている。また、10月3日には野村克也率いる南海と対戦。このときスペンサーはバットのグリップとヘッドを逆さまに構えて打席に立つという抗議行動に出た。しかし南海は、その打席でもスペンサーを敬遠した。この頃のスペンサーはストレスが相当に溜まり、精神的にかなり参っていたという。その後、シーズン残り2週間となった10月5日にスペンサーはオートバイで交通事故に巻き込まれて右足を骨折し、閉幕までの11試合の欠場を余儀なくされた。スペンサーは最高出塁率に、2年連続となるベストナインのタイトルを獲得したものの、打率.311(リーグ2位)、38本塁打(同2位)、77打点(同4位)で、野村の打率.320、42本塁打、110打点には届かず、野村に戦後初の三冠王を許す結果となった。敬遠ラッシュを受けることを予想していたコーチの青田昇は「野村は秋になると打率が落ちる」と言って、スペンサーに首位打者を狙うように提案したが、打倒野村に熱くなっていたスペンサーには伝わらなかった。 なお、同年7月16日にはサイクル安打を記録。阪急入団後初めて記録した三塁打がこの記録に結び付いた。当時の日本ではサイクル安打という概念は無く、スペンサーはサイクル安打を達成した際、自ら記者に「なぜ自分に質問をしてこないのか。これはサイクル安打といって、とんでもない記録なんだよ」と言ったという。このスペンサーの発言をきっかけとして、日本野球機構は過去に遡ってサイクル安打達成者を調査(初代達成者は藤村富美男)、さらにサイクル安打を達成した者は連盟表彰が行われるようになり、通算150本塁打、100勝などの節目の記録と同様に記録達成者として公式に名前が残る事になった。 来日4年目の1967年に38歳となったスペンサーはなおも30本塁打を放ち、阪急のパ・リーグ初制覇の原動力となった。実はこの年の開幕前、阪急西宮球場のラッキーゾーンが3m前方に移設されていた。6月8日には対南海戦(西京極)の試合前に公式記録席の中沢記録員を訪ね、前日の南海戦(西宮)における一塁付近の飛球の取り扱い(スペンサーが飛球の処理を一塁カバーに入った投手に任せたところ投手が落球)でスペンサーに失策が記録されていることについて説明を求め、その回答を聞くや、同記録員のスコアカードを破り捨てるという事件を起こしている。この件に対して連盟からは戒告と制裁金5万円が課せられた。公式記録員に対する抗議等で公式に制裁が課せられた出来事は、これがNPBとして唯一である。巨人と日本シリーズでは、1勝3敗で迎えた第5戦の8回表に堀内恒夫から同点に追いつく2点本塁打を放ち、さらに9回に阪急が逆転したことから、舞台を再度阪急西宮球場に移した一打となった。 1968年は打率.231、18本塁打に終わって、同年限りで退団し帰国。帰国後はレストラン経営や株式投資などをやっていたが、株で大失敗し、仕事を探していたところを阪急から声をかけられ、1971年に選手兼任コーチとして復帰。しかし、昔の面影は失せ、40の坂を越したモタモタぶりだけが目立ち、1972年に再び退団する。退団にあたって、投手の癖を中心に対戦相手のデータを緻密に書き込んだ「スペンサー・メモ」を置き土産に残した。これだけのメモをチームメイトにすら教えていなかったことについて、「味方にスペンサー・メモのことを話すと、いつか必ず相手チームに伝わるからね」と笑いながら語っていたという。このスペンサー・メモは後に阪急の戦術に影響を与えた。 故郷のカンザス州ウィチタに戻ると、同州のエル・ドレードを本拠地とするNBC球団ブロンコスの監督を務め、NBCワールドシリーズ制覇に導いた。 2004年にはカンザス州スポーツ殿堂入りを果たした。2012年にドジャー・スタジアムの50周年の記念式典に出席した。そのセレモニーの終了後に取材を受け、50年前の思い出、日本の思い出について語っている。日本の野球殿堂入りの話をずっと待っているという。二宮清純はスペンサーについてブレイザーとともに殿堂入りの価値がある旨を語っている。 2017年1月2日に死去。88歳没。 190cmを越える上背で迫力があり、打撃フォームはホームベースに深く被さったクラウチングスタイルであった。打席でこの構えで睨みつけられると、投手は震え上がるほどであったという。また、「打率は期待するな。阪急で私が本塁打を打たずして他に誰が打つのか」と言って、本塁打を狙っていた。 守っても、カットプレーにおいて、位置取りが的確な上、速いモーションと正確な送球で、通常の二塁手なら微妙なタイミングでも確実に走者を刺し、何度もチームのピンチを救った。 メジャーリーグ時代からワイルドランナーとして知られており、日本でも危険な走塁を何度か試みている。小山正明に2回連続で死球を受けた際に全く怒ったそぶりを見せなかったが、次の出塁時に三塁へ滑り込むと、三塁手の山崎裕之を強烈なスライディングで3m以上もぶっ飛ばしたという。 野球博士として、阪急の野球を変え、パ・リーグの野球を高度化した一方、当時V9中であった巨人には手の内を読まれていた節があり、あまり通用しなかった。しかし、巨人側も先乗りスコアラーにスペンサー専門の係を作り、シーズン半ばから個人的にマークするなど、巨人がスペンサー一人に費やした労力も極めて大きかった。 青田昇は「ナンバーワンの外国人はスペンサー」と語っている。スペンサーは投手のクセや捕手のクセを見抜く眼力が長けていたという。またスペンサーの弟子である高井保弘によるとスペンサーは投手が投げるたびにメモを取っていたといい、それから自分も投手のクセを盗むようになったという。 西本幸雄は「ほんまの野球博士やった」と評した。守っても打者一人一人の打球の傾向を読んで、味方の内野手に対して守備位置を的確に指示していたことから、「あいつが守っている時は監督はいらんかったよ」と語っている。 野村克也は「日本のプロ野球を変えたのはスペンサーとブレイザー」と口癖のように言うという。 一方で、同僚であったロベルト・バルボンは「スペンサーは外国人選手を含む他の選手からの評判は悪かった。外国人選手同士でのかばい合いにも加わらず、プライドも高すぎるあまり、本当の友人が作れなかった」と本音を語っている。 伊東一雄の愛称「パンチョ」の名付け親である。 漫画『巨人の星』では日本シリーズで星飛雄馬と対決し、大リーグボール1号をあわやホームランという大ファウルにするが、続く投球でグリップエンドに命中させるコントロールを見せられ、打ち取られる。 各年度の太字はリーグ最高 NYG(ニューヨーク・ジャイアンツ)は、1958年にSF(サンフランシスコ・ジャイアンツ)に球団名を変更 最高出塁数:1回 (1965年) ベストナイン:2回 (1964年、1965年) 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (1967年) 日本シリーズ打撃賞:1回 (1968年) オールスターゲームMVP:1回 (1965年 第1戦) 初出場・初先発出場:1964年3月14日、対西鉄ライオンズ1回戦(小倉球場)、4番・二塁手として先発出場 初安打:1964年3月17日、対東京オリオンズ1回戦(阪急西宮球場)、3回裏に小野正一から左前安打 初打点:同上、4回裏に小野正一から左犠飛 初本塁打:1964年3月19日、対東京オリオンズ3回戦(阪急西宮球場)、7回裏に小山正明から左越ソロ 100本塁打:1967年5月17日、対西鉄ライオンズ6回戦(阪急西宮球場)、4回裏に清俊彦から左越ソロ ※史上47人目 150本塁打:1972年4月12日、対ロッテオリオンズ1回戦(阪急西宮球場)、7回裏に横山小次郎から左越2ラン ※史上31人目(外国人選手2人目) サイクルヒット:1965年7月16日、対近鉄バファローズ15回戦(西京極球場) ※史上23人目 オールスターゲーム出場:2回 (1964年、1965年) 30 (1952年) 12 (1953年) 20 (1956年 - 1961年) 7 (1961年) 20 (1962年 - 1963年) 9 (1963年) 25 (1964年 - 1968年、1971年 - 1972年) ^ “Daryl Spencer Statistics and History” (英語). Baseball Reference.com. 2017年1月5日閲覧。 ^ “【8月15日】1965年(昭40)満塁でも“故意四球” スペンサー、8打席連続四球”. スポニチSponichi Annex (2009年8月1日). 2020年11月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年11月4日閲覧。 ^ 【内田雅也の追球】ミスター・タイガースが熱望した「選手権」 さあCSを突破して、晴れ舞台へ ^ 『菊とバット』240頁 ^ 『助っ人列伝』162頁 ^ 『菊とバット』322頁 ^ 『プロ野球助っ人三国志』98-99頁 ^ 『助っ人列伝』169頁 ^ 『プロ野球助っ人三国志』101頁 ^ 『助っ人列伝』168頁 ^ 『菊とバット』261頁 ^ 週刊ベースボールONLINE 週べ60周年記念 ヤクルト・石戸四六が行方不明に?/週べ回顧 ^ 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』379頁 ^ 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』65頁 ^ “Wichita baseball legend Daryl Spencer dies”. The Wichita Eagle (2017年1月2日). 2017年1月5日閲覧。 ^ 「「日本の野球殿堂はまだか」今だ健在スペンサー(674回)」蛭間豊章記者の「Baseball inside」 2014年2月24日閲覧。 ^ 「二宮清純「日本野球近代化に貢献した2人の元メジャーリーガー」(3ページ目)」Sportsプレミア 2014年2月24日閲覧。 ^ “元阪急のスペンサー氏が死去 地元メディアが報じる 88歳”. デイリースポーツ. (2017年1月3日). https://www.daily.co.jp/baseball/2017/01/03/0009799926.shtml 2017年1月3日閲覧。 ^ 『助っ人列伝』167頁 ^ 『助っ人列伝』163-164頁 ^ 『助っ人列伝』175頁 ^ 「二宮清純「プロ野球の時間」(第1、3火曜更新) : 第440回 最も日本プロ野球に影響を与えた外国人選手、ダリル・スペンサー」二宮清純責任編集スポーツコミュニケーションズ 2014年2月24日閲覧。 ^ 『助っ人列伝』162-163頁 ^ 「二宮清純「日本野球近代化に貢献した2人の元メジャーリーガー」(1ページ目)」Sportsプレミア 2014年2月24日閲覧 ^ 『助っ人列伝』164頁 ^ CX系プロ野球ニュース「It's time for Major League Baseball」(メジャーリーグコーナー)内における伊東一雄本人談。 小川勝『プロ野球助っ人三国志』毎日新聞社、1994年 ロバート・ホワイティング著、松井みどり訳『菊とバット』文藝春秋〈文春文庫〉、1991年 『助っ人列伝-プロ野球意外史-』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1987年 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1986年 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年 メジャーリーグベースボールの選手一覧 S 北米・欧州出身の日本プロ野球外国人選手一覧#アメリカ合衆国 オリックス・バファローズの選手一覧 選手の通算成績と情報 ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register) 個人年度別成績 D.スペンサー - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1957 豊田泰光 1958 中西太 1959 杉山光平 1960 近藤和彦 1961 塩原明 1962 岩下光一 1963 王貞治 1964 K.ハドリ 1965 林俊彦 1966 長嶋茂雄 1967 D.スペンサー 1968 柴田勲 1969 足立光宏 1970 黒江透修 1971 黒江透修 1972 長嶋茂雄 1973 高田繁 1974 山崎裕之 1975 中沢伸二, 外木場義郎 1976 B.ウイリアムス 1977 福本豊 1978 若松勉 1979 水谷実雄 1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰 1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正 1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義 1983 田淵幸一, テリー, 中畑清 1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊 1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二 1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実 1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己 1988 清原和博, 森山良二, 郭源治 1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸 1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤 1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎 1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也 1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也 1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦 1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾 1996 大島公一, 鈴木平, イチロー 1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛 1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広 1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司 2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成 2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満 2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之 2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎 2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信 2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁 2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲 2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博 2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広 2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一 2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平 2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩 2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー 2013 田中将大, 銀次, 内海哲也 2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太 2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太 2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔 2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大 2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃 2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩 2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐 2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎 2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆 2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸 2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ 表 話 編 歴 1952 与那嶺要 1953 川上哲治 1954 日比野武 1955 飯田徳治 1956 豊田泰光 1957 大下弘 1958 豊田泰光 1959 寺田陽介 1960 金光秀憲 1961 宮本敏雄 1962 吉田義男 1963 城戸則文 1964 山内一弘 1965 森昌彦 1966 柴田勲 1967 森本潔 1968 D.スペンサー 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 末次民夫 1972 王貞治 1973 末次民夫 1974 有藤通世 1975 大橋穣 1976 福本豊, 柴田勲 1977 張本勲 1978 島谷金二 1979 高橋慶彦 表 話 編 歴 1951 川上哲治, 野口明, 林義一 1952 飯島滋弥 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男 1954 中西太, 山内和弘 1955 山内和弘, 西沢道夫 1956 森下正夫, 吉田義男 1957 大下弘, 宮本敏雄 1958 宮本敏雄, 中西太 1959 山内和弘, 中利夫 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎 1962 ブルーム, 張本勲 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司 1969 土井正博, 船田和英 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三 1989 村田兆治, 彦野利勝 1990 R.ブライアント, 清原和博 1991 古田敦也, 広沢克己 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広 1993 清原和博, T.オマリー 1994 秋山幸二, G.ブラッグス 1995 落合博満, 松井秀喜 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲 1997 松井稼頭央, 清原和博 1998 川上憲伸, 松井秀喜 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋 2002 G.アリアス, 的山哲也 2003 高橋由伸, 金本知憲 2004 松坂大輔, SHINJO 2005 金城龍彦, 前田智徳 2006 青木宣親, 藤本敦士 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助 2008 山﨑武司, 荒木雅博 2009 青木宣親, 松中信彦 2010 阿部慎之助, 片岡易之 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼 2016 筒香嘉智, 大谷翔平 2017 内川聖一, A.デスパイネ 2018 森友哉, 源田壮亮 2019 森友哉, 近本光司 2020 (中止) 2021 菊池涼介, 島内宏明 2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐 2023 柳田悠岐, 万波中正 2024 牧秀悟,佐藤都志也 表 話 編 歴 1962 張本勲 1963 ブルーム 1964 張本勲 1965 D.スペンサー 1966 榎本喜八 1967 張本勲 1968 張本勲 1969 張本勲 1970 張本勲 1971 江藤慎一 1972 張本勲 1973 張本勲 1974 張本勲 1975 小川亨 1976 加藤秀司 1977 加藤秀司 1978 佐々木恭介 1979 加藤英司 1980 栗橋茂 1981 門田博光 1982 落合博満 1983 スティーブ 1984 スティーブ 1985 落合博満 1986 落合博満 1987 門田博光 1988 門田博光 1989 松永浩美 1990 清原和博 1991 白井一幸 1992 清原和博 1993 辻発彦 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 イチロー 1997 鈴木健 1998 片岡篤史 1999 イチロー 2000 イチロー 2001 中村紀洋 2002 A.カブレラ 2003 小笠原道大 2004 松中信彦 2005 松中信彦 2006 松中信彦 2007 T.ローズ 2008 中島裕之 2009 中島裕之 2010 A.カブレラ 2011 糸井嘉男 2012 糸井嘉男 2013 E.ヘルマン 2014 糸井嘉男 2015 柳田悠岐 2016 柳田悠岐 2017 柳田悠岐 2018 柳田悠岐 2019 近藤健介 2020 近藤健介 2021 吉田正尚 2022 吉田正尚 2023 近藤健介 2024 近藤健介 表 話 編 歴 投 J.スタンカ 捕 野村克也 一 榎本喜八 二 D.スペンサー 三 小玉明利 遊 小池兼司 外 張本勲 / 広瀬叔功 / 高倉照幸 表 話 編 歴 投 尾崎行雄 捕 野村克也 一 高木喬 二 D.スペンサー 三 小玉明利 遊 小池兼司 外 張本勲 / 広瀬叔功 / 堀込基明 アメリカ合衆国の野球選手 ウィチタ州立大学出身の野球選手 サンフランシスコ・ジャイアンツの選手 セントルイス・カージナルスの選手 ロサンゼルス・ドジャースの選手 シンシナティ・レッズの選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 NPBオールスターゲームMVP カリビアンシリーズ選手 アメリカ合衆国の野球指導者 ウィチタ出身の人物 1928年生 2017年没 最高出塁率 (NPB) 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2025/04/06 14:37更新
|
Daryl Dean Spencer
ダリル=スペンサーと同じ誕生日7月13日生まれの人


TOPニュース
ダリル=スペンサーと近い名前の人



話題のアホネイター

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「ダリル=スペンサー」を素材として二次利用しています。