ニキ=ド=サンファルの情報(NikideSaintPhalle) 画家、彫刻家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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ニキ=ド=サンファルの情報まとめ
ニキ=ド=サンファル(Niki de Saint Phalle)さんの誕生日は1930年10月29日です。
兄弟、父親、母親、姉妹、結婚、現在、家族、離婚、病気、映画に関する情報もありますね。2002年に亡くなられているようです。
ニキ=ド=サンファルのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)ニキ・ド・サン・ファル(Niki de Saint Phalle、1930年10月29日 - 2002年5月21日)は、フランスの画家、彫刻家、造形作家、映像作家。本名はカトリーヌ・マリー=アニエス・ファル・ド・サン・ファル(Catherine Marie-Agnès Fal de Saint Phalle)。 ファッション・モデルとして活躍した後、アートセラピーとして絵を描き始め、芸術表現による自己解放として射撃絵画を制作。挑発的・攻撃的な作品、特に社会における女性の役割を批判的に表現する作品(主にアサンブラージュ)から、やがて、女性性を肯定・強調する《ナナ》シリーズへと転じた。ストックホルム近代美術館の企画として制作した巨大なナナ像の《ホン》が大きな成功を収めて以来、《ナナ》やモンスター、神話・伝説に基づく鳥、蛇などをモチーフにした大規模な彫刻作品《ゴーレム》、《ノアの方舟》、《ストラヴィンスキーの泉》、《太陽神》、《守護天使》、《カリフィア女王の魔法の輪》などを次々と発表。1998年に、トスカーナ(イタリア)で20年以上かけて制作・造園した彫刻庭園《タロット・ガーデン》が完成。2000年に高松宮殿下記念世界文化賞(彫刻部門)を受賞。同年から亡くなる2002年まで、シュプレンゲル美術館(英語版)(ハノーファー、ドイツ)とニース近現代美術館(フランス語版)(フランス)に多くの作品を寄贈した。映像作品として《ダディー》、《夜より長い夢》がある。 ニキ・ド・サン・ファルは、1930年10月29日、アンドレ・マリー・ファル・ド・サン・ファル(1906-1967)とジャンヌ・ジャクリーヌ・マルグリット(旧姓ハーパー、1908-1978)の第2子カトリーヌ・マリー=アニエス・ファル・ド・サン・ファルとして、パリ近郊のヌイイ=シュル=セーヌで生まれた。父アンドレはフランスの古い貴族の血を引き、母ジャンヌはアメリカ人エリート実業家とフランス人女性の娘であった。サン・ファル家は裕福な家庭で、1930年までニューヨークに住んでいたが、1929年のウォール街大暴落の影響で、父アンドレ・マリーが兄弟とともに経営していた銀行「サン・ファル & カンパニー」が倒産し、故国フランスに戻っていた。ニキは、自分のことを「デプレシオン(Dépression)の子」と表現した。世界恐慌(Grande Dépression)のときに生まれたことと、父親が他の女性と関係を持ち、母親が鬱状態(dépression)にあったときに生まれたという二重の意味においてである。ニキは兄ジョン、妹クレール、エリザベス、弟リチャードの5人姉妹兄弟である。 両親は生活を立て直すために、翌1931年に長子ジョンとニキをニエーヴル県(ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏)の田舎に住む父方の祖父母に預けてアメリカ合衆国に戻った。1933年8月に、コネチカット州グリニッジに住む両親に呼び寄せられた。この頃(3歳か4歳の頃)、母に「ニキ」と呼ばれ、この名前を芸術家として生涯にわたって使うことになる。 1937年に一家はニューヨーク市に居を定め、ニキは「ナナ」というニックネームの乳母に育てられた。「ナナ」はニキが後に彼女の代表作である一連の豊満な女性像に付けた名前である。ただし、作品の《ナナ》は、「女の子」を意味するフランス語であり、「すべての人(everyman)」をもじった「すべての女性(everywoman)」、典型的な女性、女性一般、あるいは女性の原型を表わす。 ニキが晩年にすでに死去した母ジャンヌ宛に書いた出紙によると、ジャンヌは厳格な女性であり、「何よりも子どもの幸せを望む他の母親と違って、子どもの成功を願っていた」という。また、後にハリー・マシューズ(英語版)と結婚したときにも、母ジャンヌは、掃除機をかけているハリーを見て、ニキの「女性としての役割」を奪うような男性として彼を嫌い、さらに、その後、パリのラ・クーポールでジャン・ティンゲリーに紹介したときにも、「私は娘の愛人と一緒に食事をしたくない。みんながやっているように、夫と別れないで、密かに愛人をつくればいいのに」と不平を漏らした。実際、母ジャンヌには複数の愛人があり、家庭では「秘密と偽善がゲームの規則」であったという。 一方、ニキは、晩年の1994年に発表した32ページの著書『私の秘密(Mon secret)』で、11歳のときに父から性的暴行を受けたことを公表した。これは、1992年に娘のローラに宛てた手紙である。父によって「人間に対する信頼を壊され」、大きな精神的痛手を受けた彼女は、精神科医に相談したが相手にされず、法に訴えることもできず、以後、何年間にもわたって孤独感に苛まれ、一方でまた、社会や法によって排除された人々との連帯感を強めることになった。 ニキは聖心会によって創設された女子初等教育機関「聖心修道院(Convent of the Sacred Heart)」に入学した。好きな科目はカリグラフィーで、絵を描いて遊んだり、劇を作ったりするのが好きだった。一種の反抗心から修道院の古典彫刻の(性器を覆う)イチジクの葉を赤く塗ったこともある。両親の不和に嫌気がさし、厳格な規律に反抗して、ニキは放校・転校を繰り返した。 17歳のときから演劇を学び、ダンス・パーティーでモデル・エージェンシーの経営者に声をかけられ、ファッション・モデルとして働き始めた。モデルの仕事は25歳まで続け、多くの雑誌に彼女の写真が掲載されたが、とりわけ『ヴォーグ』誌や『タイム』誌の表紙を飾った写真は、現在でも彼女の伝記などで目にすることが多い。 18歳のとき、幼なじみで同い年のハリー・マシューズと駆け落ちした。二人ともニューヨークの保守的な上流階級に育ちながら、そのような社会に対する反逆心を抱いていたことが共通点であったとマシューズは語っている。彼は後にフランスの詩人レーモン・ルーセルの影響を受けて作家になり、ジョルジュ・ペレックに出会って「ウリポ」に参加することになるが、当時はハーヴァード大学で音楽を専攻していた(1952年学士号取得)。二人は1949年に正式に結婚し、翌50年にマサチューセッツ州ケンブリッジに居を定めた。二人の間には1951年にボストンで生まれた娘ローラと1955年にマヨルカ島(スペイン)で生まれた息子フィリップがいる。ローラは女優ローラ・デューク・コンドミナス(フランス語版)として活躍し、娘(ニキの孫娘)のブルーム・カルデナスは、ニキの助手らとともに、彼女の没後に未完成の作品を完成させることになる。 ニキとハリーは、マッカーシズム(反共産主義・赤狩り)や人種差別がはびこる当時のアメリカ社会を批判し、芸術活動に専念するために、1952年、パリに移住した。ハリーは音楽の勉強を続けた。ニキはモデルの仕事を続けながら、女優を目指して演劇を学ぶ一方で、芸術家になる夢を抱いていた。だが、「秘密と偽善がゲームの規則」であった家庭に育った彼女は、「内気だったから、自分の気持を表現するのはすごく大変だった」し、両親から学んだ価値観、すなわち、結婚して家庭を築いて、女性の役割を担うことは、彼女が抱いた夢と相反するものであった。 1953年、神経衰弱(特に深刻な抑うつ)のためにニースの病院に入院した。統合失調症と診断された。電気ショック療法を受けたために、記憶力に影響するほどであった。治療の一環としてアートセラピー(芸術療法)を受けたとき、表現によって自分を解放することができることを知った。上述の母親宛の手紙には、母親にとっては何もかも隠さなければならないことばかりだったけれど、「私はすべてを見せる」、芸術表現によって、「仮面を被ることなく」、自分をありのままに見せることができるようになったと書いている。また、精神病院で他の患者と一緒に絵を描き始めたことについて、「狂気の暗い世界」、そしてこの世界からの「回復(癒し)」を発見し、「自分の感情、恐怖、暴力、希望、喜び」を絵画に表現することができるようになった、「絵筆や鉛筆、粘土を手にすると、強い不安が消えた」と語っている。アートセラピストは、このような自己表現はニキにとって、1) タブー(特に誰にも語れなかった父親による性的暴行のタブー)を破ること、2) 他人の目に自分の存在を示し、確認すること、3) 恥の意識を捨てること、4) 象徴的な償いを得ることであったと分析する。 最初は素朴派のような絵や素描を描いた。次第に、太陽、月、動物、怪物、女神などを繰り返し、正確に描くようになった。1954年にパリで活躍していたフィラデルフィア出身の画家ヒュー・ヴァイス(フランス語版)に出会った。正規の美術教育を受けていないニキは画家になることにまだためらいがあったが、ヴァイスに励まされて絵を描き続ける決意をし、彼に技法を学んだ。 1955年に一家でマヨルカ島(スペイン)に移住。同年、息子フィリップが生まれた。スペインを旅行中にアントニ・ガウディの作品に出会った。特にバルセロナのグエル公園は、ニキの後の作品に影響を与えると同時に、トスカーナ(イタリア)の彫刻庭園《タロット・ガーデン》制作・造園の最初のきっかけとなった。 1956年から58年にかけて夫ハリーと恩師ヴァイスに励まされながら油絵を描き続け、ザンクト・ガレン(スイス)で初めての個展を開いた。 1960年に家族とともにパリに戻り、スイス出身の彫刻家ジャン・ティンゲリーと彼の妻で画家のエヴァ・エプリ(フランス語版)に出会い、以後、ティンゲリーはニキの制作に協力した。パリではパウル・クレー、アンリ・マティス、パブロ・ピカソ、アンリ・ルソーらの作品のほか、パリ市立近代美術館に展示されたジャスパー・ジョーンズ、ウィレム・デ・クーニング、ジャクソン・ポロック、ロバート・ラウシェンバーグ、マーク・ロスコら抽象表現主義やポップアートのアメリカ人画家の作品に影響を受け、制作の方向性を固めることになった。 1960年、ハリーと合意の上、別居。ハリーは子どもたちとともに別のアパートに移った(翌年、正式に離婚)。ニキはアサンブラージュの作品を制作し始めた。アサンブラージュは、平面的なコラージュと異なり、立体的な要素を組み合わせた表現である。同年にパリ市立近代美術館で行われた大規模な展示会「比較 ― 絵画=彫刻」に出展した《聖セバスティアヌス、または私の恋人の肖像》は、キャンバスにピンで留められた白いシャツとネクタイの上にダーツボードがあり、入館者が作品に向かってダーツを投げるという、攻撃性の強い作品であった。攻撃性はさらに強まり、ピストル、ナイフ、手足を切断された人形、爪などを作品に取り込むようになった。 さらに、こうしたアサンブラージュから「射撃絵画(ティール)」が生まれた。これは、絵具を入れた袋を石膏でキャンバスに固定し、離れた場所からピストルやライフル銃で撃つパフォーマンスによる絵画である。キャンバスを何度も撃つことで、絵具が次々と流れ出す。ニキはこの「誰も殺さない殺害」を、「私は絵が血を流して死ぬのを見たかったから撃った」と表現した。射撃絵画は、「汚れ、染み」を意味する「タッシュ」に由来する抽象絵画のタシスムと、抽象表現主義のアクション・ペインティングを組み合わせた衝撃的なパロディーでもあり、さらに1960年代に盛んに行われたハプニングの作品でもあった。最初の射撃絵画の制作(セッション)は、ティンゲリーのアパートのあるパリ15区ネッケル地区(フランス語版)(モンパルナス)の袋小路アンパス・ロンサン(フランス語版)で、ティンゲリー、美術評論家ピエール・レスタニ(フランス語版)、写真家ハリー・シャンク(フランス語版)、造形作家ダニエル・スペーリ(フランス語版)とともに行ったが、この後、ジャスパー・ジョーンズとロバート・ラウシェンバーグも制作に協力した。一人ひとり順番に撃った。ニキは、「1枚の絵に向かって撃ち、別の作品に変貌するのを目の当たりにするのは、… 刺激的でセクシーであり、同時にまた悲劇的だった。まるで誕生と臨終に同時に立ち会うような印象だった。… 自分自身に向かって発砲することで、社会と社会の不正に向かって発砲しようとした。私自身の攻撃性に向かって発砲することで、時代の攻撃性に向かって発砲しようとした」と、美術史家ポントゥス・フルテン(フランス語版)宛の手紙に書いている。射撃絵画は2年にわたって制作されたが、この間、「病気になったのは1度だけ」であり、彼女にとってはまさに「治療」であったという。 射撃絵画シリーズは、翌1961年にピエール・レスタニがJ画廊で企画した個展「思う存分撃つ(Feu à volonté)」に展示され、ニキの名を世に知らしめることになった。射撃絵画・彫刻シリーズには、以下に見るように、政治・社会批判としての《キングコング》、《ケネディ-フルシチョフ》や、宗教・家父長制批判としての《祭壇》シリーズなどがある。 1960年、レスタニの提唱により、ティンゲリー、スペーリ、アルマン、レイモン・アンス(フランス語版)、ジャック・ヴィルグレ(フランス語版)、フランソワ・デュフレーヌ(フランス語版)、マルシャル・レイス(フランス語版)の8人の彫刻家、画家、造形作家が「ヌーヴォー・レアリスム」宣言を発表した。大量生産品や既製品、廃品のアサンブラージュを制作した彼らは、これこそが、これらのモノに溢れた工業化社会に生きる現代人の「現実」であるとして、これを「ヌーヴォー・レアリスム」と名付けた。ニキは1961年にこの運動(またはグループ)に参加した。彼女のヌーヴォー・レアリスムの代表作は1965年頃に制作された高さ2メートル以上の大作《磔刑》である。これは、腕を切断され、恍惚とした表情の女性像であり、頭髪のカーラー、上半身に接着された多数の小さい玩具類、下半身のパッチワークの半ズボン、ガーターベルト、黒い陰毛など「母」、「娼婦」、「老女」の特徴を併せ持ち、女性が置かれた状況を表わすものと解釈される。 1961年10月4日から11月12日まで、ニューヨーク近代美術館 (MoMA) でウィリアム・C・サイツによる企画「アサンブラージュの芸術」展が開催され、ニキの作品《あなたは私》も展示された。これを機に、1962年2月にニキとティンゲリーはカリフォルニアを旅行し、ロサンゼルスでサイモン・ロディアのワッツ・タワー(英語版)を訪れた。この作品もまた、彫刻庭園を造ろうというニキの気持ちを強めることになった。カリフォルニアからネヴァダ、メキシコへと旅を続け、展示会やハプニングに参加。1963年に二人はパリの南40キロほどのところ(エソンヌ県)にあるソワジー=シュル=エコール(フランス語版)(ソワジー=シュレコール)にアトリエを構えた。 同年制作の《花嫁》も《磔刑》と同様に2メートル以上の大きな作品で、ウェディングドレスを着てブーケを持った白い女性像の上体には、胎児のような人形やその切断された手足、靴、自動車、飛行機、性器、花、蛇、鳥などの奇妙な生物をかたどった小さいオブジェが多数接着されている。「(結婚した女性としての)義務の重荷を負って、絶望の叫びをあげているかのような」女性像である。ニキは1963年から64年にかけて、この他にも《馬と花嫁》、《樹下の花嫁》など苦しみと悲しみを湛えた《花嫁》シリーズを発表した。社会規範や不平等、タブーに挑むニキの反逆を表わし、「男性支配の終焉を告げる」作品群とされる。娘のローラは、これらの作品は「激しく拒否されたけれど」、ニキは「一切気にかけなかった。彼女は規則を破り、挑発することを楽しんでいたから」と語っている。《花嫁》シリーズにもすでに社会において女性が担う複数の役割が表象されていたが、これは、この後、妊婦、娼婦などのより多様な女性像を生むことになり、やがて代表作《ナナ》シリーズへとつながっていく。 女性の多様な表象のほか、扱う題材も広がり、アサンブラージュとして怪獣や怪物(モンスター)、ドラゴンを創り始めた。1963年制作の射撃作品《キングコング》では、中央に大きな怪獣、右手に爆撃された高層ビル群、怪獣の左側にはフィデル・カストロ、エイブラハム・リンカーン、シャルル・ド・ゴール、ジョージ・ワシントン、ジョン・F・ケネディ、ニキータ・フルシチョフらのデスマスクが並んでいる。これは、「冷戦期の共存の必要性と束の間の緊張緩和」を表わす作品と解釈される。 怪獣シリーズには、ほぼ同じ頃に制作された《ベルリンのドラゴン》、《グレムリン》、そして1966年頃に制作された重さ約300キロの作品《ソワジーのモンスター》がある。同年にはまた、ダンサー・振付師のローラン・プティのバレエ『痴愚神礼讃』(エラスムスの同名作品の翻案)の舞台芸術と衣装を担当し、《権力の座に就いた女性》として巨大なドラゴンを制作した。 1965年に豊満な女性像《ナナ》シリーズの最初の作品が発表された。ニキとティンゲリーが個人的にも親しくしていたアメリカ生まれの画家・彫刻家のラリー・リヴァース(英語版)とは、晩年に《破裂した絵画》(絵に近づくと、光センサーによってモーターが動き出し、絵のモチーフがばらばらになる動く絵画)のシリーズを共同制作することになるが、彼の妻クラリスは当時ニキと最も親しく、ニキの制作を手伝っていた。《ナナ》はクラリスの妊娠に触発されて制作された作品である。上述のように、《ナナ》はニキにとって「すべての女性」、女性の原型であり、社会における女性の役割を批判的に表現した《花嫁》シリーズとは対照的に、踊るような軽やかな動き、鮮やかな色彩で表現された開放的な女性像である。
ハノーファーの《ナナ》(ドイツ)
ハノーファーの《ナナ》(ドイツ)
ストックホルム近代美術館前の《ナナ》(スウェーデン)
ティンゲリー美術館のナナ《グウェンドリン》
ニキは最初の《ナナ》展示会のためにアーティスト・ブックを出版し、これを機に、ナナを描いた招待状、ポスターなどを多数制作した。さらに、1966年、ストックホルム近代美術館の企画として、同美術館の学芸員であったフルテンからの依頼により、スウェーデン語で「彼女」を意味する《ホン》を制作。ティンゲリーと同地で活動していたフィンランド出身の彫刻家パー・オロフ・ウルトヴェット(フランス語版)が協力した(ティンゲリーは動く機械、ウルトヴェットはアサンブラージュをそれぞれ制作)。ウルトヴェットとはすでに1962年にアムステルダム市立美術館で開催されたインスタレーションアートの展覧会「ダイラビー(Dylaby)」(「ダイナミック」と「ラビリンス(迷宮)」をつなげた造語)で一緒に仕事をしていた。ダイラビー展にはティンゲリーのほか、スペーリ、ラウシェンバーグも参加していた。全長約27メートル、幅約9メートル、重さ6トンの巨大な《ホン》の内部には偽物の絵を展示した画廊、音楽室、映画館、水族館などがあり、右の乳房は「ミルクバー」、左はプラネタリウム、そして膣が入口になっている。この意味で、ニキは、何千人もの人々が入った《ホン》は「世界最大の娼婦」であり、オスを食うカマキリであり、「子宮への回帰」であり、同時にまた、彼女にとっての「神殿、聖堂、教会」であるという。本作品は3か月間の展示が終わると取り壊された。 ニキは、この後、彫刻作品《むさぼり食う母親たち》を発表している。ニキによると、《ナナ》が母性のポジティブな側面を表わすのに対して、《むさぼり食う母親たち》はネガティブな側面、「いてほしくない母親」を表わし、《ナナ》のアンチテーゼである。娘のローラによると、ニキは「強い悪意」を込めて《むさぼり食う母親たち》を表現したという。 1967年のモントリオール万国博覧会のフランス・パビリオンのためにティンゲリーと共同で彫刻作品群《パラディ・ファンタスティック》(幻想的な楽園)を制作。ニキの《ナナ》やティンゲリーの動く機械など計21点の彫刻によって構成される作品である。 1968年、ニューヨーク近代美術館で大規模な「ダダ、シュルレアリスム、およびその遺産」展が開催された。出展した女性芸術家は、ニキを含む4人だけであった。 1970年にミラノで開催された最後のヌーヴォー・レアリスム展では再び射撃セッションを行い、アサンブラージュによって制作した高さ3メートルの祭壇の磔刑像や聖母に向かって発砲した。 1968年、長年、彫刻制作に使用していたポリエステル樹脂の燃焼による煙や埃の影響で肺疾患を患い、入院した。希少疾患であり、この後、何度か入院を繰り返すことになった。1974年に、スイスのサン=モリッツで保養していたとき、1950年代にニューヨークで出会ったイタリア貴族で美術品蒐集家のマレッラ・アニェッリ(イタリア語版)に再会した。マレッラに、ガウディのグエル公園を見て以来いつか実現したいと思っていた「彫刻と自然の対話となる庭園、夢を見る場所、喜びと想像の庭園」を造営する夢、後に《タロット・ガーデン》として実現することになる夢について語ったところ、彼女の兄弟カルロ・カラッチョロとニコラ・カラッチョロがトスカーナ、ガラヴィッキオの土地を提供することになった。ニキは、マルセイユ版タロットの22の大アルカナの寓意を彼女なりに解釈し、これを彫刻作品に表現するという構想を抱き始めた。だが、行政上の問題のほか、経済的にも技術的にも困難に直面し、また、彼女自身の健康上の問題もあった。彼女は資金調達のために、これまで制作した作品、特に《ナナ》のミニチュアを制作し、販売した。《膨らむナナ(ナナ風船)》も制作し、米国で製造販売された。さらに、造園が始まってからも香水を制作し、大々的に宣伝した。《タロット・ガーデン》や各作品についても完成前から写真や模型を展示する展覧会を行い、収益を造園・作品制作の費用に充てた。 健康上の問題では、肺疾患に加えて、変形性関節症を発症した。一時は手関節が変形して制作を続けることができなくなり、歩行すら困難になった。だが、ニキは、「どんなことがあっても、中止するわけにはいかなかった。芸術は、才能より、むしろ強迫観念に関わるものだから」と語っている。 技術的には、ティンゲリーをはじめとする彫刻家仲間のほか、フランスやイタリアの各分野の専門家、職人、造園家、地元の住民など多くの人々から協力を得た。ニキは《タロット・ガーデン》の巨大な彫刻作品《女帝》を住居兼アトリエにして、ここで8年以上制作に専念したが、その一方で、世界各国から様々な建築・彫刻プロジェクトの依頼があった。 最初の建築プロジェクトは、南仏に夏の休暇のための住宅を建てたいというある個人からの依頼であった。また、1971年にはエルサレム市長テディ・コレックからの依頼で、ラビノビッチ公園に子ども用の建築物《ゴーレム》を設計した。ヘブライ語で「形なきもの」、ユダヤ教経典『タルムード』では「胎児」を表わす「ゴーレム」を、ニキは滑稽なモンスターとして表現した。3本の赤い舌が滑り台になっている。 1973年から75年にかけて、ベルギー・ウェスト=フランデレン州クノック=ヘイストの一地区クノックに《クノックのドラゴン》を建設した。これはクノック=ヘイスト在住の美術品蒐集家で画家・版画家でもあるロジェ・ネレンスからの依頼で、ティンゲリー、リコ・ウェーバー(フランス語版)、そしてネレンス自身も制作に協力した。後にキース・ヘリングがクノックを訪れたときに、内部の階段の手すりにフレスコ画を描いた。 1974年、大規模な《ナナ》を3体制作した。白い身体の踊るようなナナ、臀部を強調した色鮮やかなナナ、逆立ちする緑のナナで、ハノーファー(ドイツ)の市庁舎近くに設置された。ハノーファーの歴史上重要な女性(ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの妃ゾフィー・フォン・デア・プファルツ、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』のロッテのモデルとなったシャルロッテ・ブッフ、天文学者カロライン・ハーシェル)の名前に因んで《ゾフィー》、《シャルロッテ》、《カロライン》と名付けられ、当初は抗議運動が起こったが、激論の末、公共の場における芸術作品のあり方について見直す機会となり、ニキはハノーファー市の名誉市民の称号を与えられた。 1974年、ニキは映画監督のピーター・ホワイトヘッド(英語版)と共同で制作した映画『ダディー』を発表し、物議を醸した。父親から受けた性的暴行に触れていたからであり、娘ローラ宛の告白の手紙はまだ公開されていなかった。ニキは、この「ブラック・ユーモアの映画」のなかで「私は父を象徴的に17回殺した。家族全員がひどく憤慨して、父の思い出を汚したと私を非難した。私を守ってくれたのは母だけだった」と語り、再び、鬱状態に陥った。この映画を評価したのは、ごくわずかの評論家と精神分析家ジャック・ラカンだけであった。 翌1975年には次の映画『夜より長い夢』の制作に取りかかった。ニキの自伝と作品世界が入り混じった作品で、ティンゲリー、スペーリなどの芸術家仲間のほか、作家レジーヌ・デフォルジュ、女優の娘ローラ・デューク・コンドミナスらの協力を得て制作された。 1978年から《タロット・ガーデン》の基礎工事が始まり、基礎ができると、ニキは、現場で制作を開始したため、1980年代はもっぱら《タロット・ガーデン》の巨大彫刻を含む20以上の作品の制作に専念した。1979年から、新たな試みとして、フレームによって構成された《スキニー》シリーズを制作。肺疾患の経験から、作品に「呼吸できる空隙」を作って風通しの良い作品に仕上げ、これを糸で吊るすことで、「空間に線を描く彫刻・絵画」という発想であった。 1980年にポンピドゥー・センターで初めての大規模な回顧展が行われた。「自分の過去20年の作品を見るのはとても刺激的だけれど、同時にまた恐ろしくて苦しい。私の作品は自伝的なものだから、裸にされたような気がする。いろいろな問題があって、芸術は、私にとって治療であったから」と、22歳のときの神経衰弱や精神病院での体験に触れ、以後、立ち止まって「振り返る(回顧する)ことなく生きてきたから」と説明している。 1983年、ポンピドゥー・センター隣のイーゴリ・ストラヴィンスキー広場(フランス語版)の池に設置された彫刻作品群《ストラヴィンスキーの泉》をティンゲリーと共同で制作。ストラヴィンスキーへのオマージュとして制作されたこの彫刻群には、アステカ神話やアメリカ原住民の神話から発想を得た鳥のモチーフによる《太陽神》が含まれる。同じ年にカリフォルニア大学サンディエゴ校のキャンパスでより大規模な《太陽神》を制作した。 同じく1983年に、ロサンゼルス現代美術館(MOCA)の「テンポラリー・コンテンポラリー」(現「ゲフィン現代美術館」)の建設を支援して、絵文字による手紙を作品として発表した。これは、エイズ防止のための教育・意識啓発活動の一環であり、80年代にニキはエイズのために多くの友人を失った。1989年には、《タロット・ガーデン》制作・造園の最初の助手リカルド・ムノンがエイズで亡くなり、ニキは彼のために猫の像を制作した。これは《タロット・ガーデン》内にあるが、同じものがモンパルナス墓地の彼の墓石として置かれ、墓石の前には「あまりにも早く亡くなった、美しく若い、我々の愛する友リカルドへ」と書かれた銘板が添えられている。エイズ防止のための活動としては、この後1990年に息子フィリップと動画を制作し、1994年にはスイスで "Stop AIDS" と書かれた切手をデザインした。 1987年、フランソワ・ミッテラン大統領からの依頼により、彼が22年にわたって市長を務めたシャトー=シノンでティンゲリーとともに《シャトー=シノンの泉》を制作。《ニキ・ド・サン・ファルの泉》として親しまれている。翌1988年にミッテラン大統領により除幕式が行われた。 1991年8月30日、ティンゲリーがベルン(スイス)で死去した。ニキは彼と1971年に正式に結婚し、このときにスイス国籍を取得していたが、私生活で意見が合わなくなって別居し、ティンゲリーはスイスで、ニキは主にフランスとイタリアで暮らしていた。とはいえ、芸術活動では、特に《タロット・ガーデン》にはティンゲリーの作品が数点置かれるほか、彼と彼の彫刻家仲間が作品の土台の溶接を行うなど共同制作を続け、《タロット・ガーデン》にある礼拝堂は、ニキが心臓の手術を受けたティンゲリーのために設計・制作したものである。さらに、ティンゲリーが亡くなった後も、ニキは病気を押して、《タロット・ガーデン》の造園と平行して、バーゼルにティンゲリー美術館(フランス語版)を設立するために尽力した(1996年開館)。 1994年、Yoko増田静江によって栃木県の那須高原にニキ美術館が設立された(2011年8月31日閉館)。ニキによるこの美術館の建築デザインは、その奇抜な造形のために国立公園法による厳しい規制に触れて実現しなかった。 2000年に高松宮殿下記念世界文化賞(彫刻部門)を受賞した。 同年、ニキは健康上の理由から、カリフォルニア州サンディエゴ市のラホヤに居を定め、ここにアトリエを建設して制作を続けた。2001年にヘレンハウゼン王宮庭園(ドイツ)のグロッテ(洞窟)の3つの部屋を修復した。もともと貝殻、水晶、鉱物で飾られていたが18世紀に取り除かれていたため、ニキがこれをナナ像やガラスのモザイクで再設計した。 最後の大規模な作品は、エスコンディード(カリフォルニア州サンディエゴ郡)の《カリフィア女王の魔法の輪》で、カリフォルニアの歴史、神話、伝説、アメリカ先住民、メソアメリカ文化、原生植物・動物の調査に基づく彫刻作品群(彫刻庭園)である。だが、ヘレンハウゼン王宮庭園のグロッテ(洞窟)も《カリフィア女王の魔法の輪》も完成を見ることなく、2002年5月21日にラホヤで死去。享年71歳。孫娘のブルーム・カルデナスが、長年ニキの助手を務めた芸術家らとともにこれらを完成させた。 ニキはアートセラピーとして絵を描き始め、表現による自己解放を目指すようになった。ここから生まれた作品が射撃絵画・彫刻(ティール:Tir)である。美術史家のサラ・ウィルソンは、フランス語の「ティール」には英語の「裂く」を表わす tear(テアー)と「涙」を表わす tear(ティアー)の両方の意味が込められており、さらに前者を男性的な「攻撃、破壊、政治批判」、後者を女性的な「嘆き、喪、精神の破壊」に関連付けることで、ニキの「ティール」は両者の止揚であるという弁証法的な解釈を試みている。 《花嫁》シリーズに代表されるように、社会における女性の役割を批判的に表現する作品から、やがて、女性性を肯定・強調する《ナナ》シリーズへと転じた。俵万智は、2015年に国立新美術館で「ニキ・ド・サンファル展」が開催されたとき、「世界の全否定から全肯定まで。ニキの作品に触れることは、自分の『生きる』を確認することだ」と評した。 ニキは主にフランスの画家(またはフランスで活躍した画家)パウル・クレー、フェルナン・レジェ、アンリ・ルソー、パブロ・ピカソ、ジャン・フォートリエ、ジャン・デュビュッフェのほか、同時代のアメリカの画家ウィレム・デ・クーニング、ジャクソン・ポロック、ヴォルス、ジャン=ポール・リオペル、ジョアン・ミッチェル(英語版)、ロバート・ラウシェンバーグらの抽象表現主義の影響を受けている。一方、アントニ・ガウディのグエル公園(バルセロナ)とフェルディナン・シュヴァルの理想宮(南仏ドローム県オートリーヴ(フランス語版))は、彫刻庭園《タロット・ガーデン》造園・制作の夢を抱かせた重要な作品である。さらに、ピエトロ・ロレンツェッティ (1280-1348)、シモーネ・マルティーニ (1284-1344)、アンブロージョ・ロレンツェッティ (1290-1348)、バルトロ・ディ・フレディ(イタリア語版) (1330-1410)、サセッタ (1392-1450) らイタリア・ルネサンス期のシエナ派の影響も大きい。 流派・運動としては、既製品、廃品のアサンブラージュを制作した「ヌーヴォー・レアリスム」運動(またはグループ)に参加した。孫娘のブルーム・カルデナスは、ニキのアトリエには玩具などのがらくたが入った段ボールがたくさんあり、触れると、「遊ぶための玩具ではない。彫刻作品を踏みつけるなんて!」と、叱られたという。 晩年には多くの公共彫刻を制作した。エルサレムの《ゴーレム》や《ノアの方舟》、ポンピドゥー・センター隣の広場の《ストラヴィンスキーの泉》、カリフォルニア大学サンディエゴ校の《太陽神》、チューリッヒ中央駅の《守護天使》、ヘレンハウゼン王宮庭園のグロッテ(洞窟)、カリフォルニア州エスコンディードの《カリフィア女王の魔法の輪》などである。これらの作品にも登場する、ニキのモチーフとして重要な奇妙な鳥などの造形は、アメリカ先住民やメソアメリカの文化、歴史、神話・伝説の影響によるものである。 《ナナ》シリーズ以降は色鮮やかな作品、特に造形後に鏡やガラスの破片のモザイクを接着した輝く作品を制作した。 以下の作品一覧は、ニキ・ド・サン・ファル公式ウェブサイト、2014年7月17日から2015年2月2日までグラン・パレで開催された「ニキ・ド・サン・ファル展」の展示作品一覧を含む関連資料、2015年9月18日から12月14日まで国立新美術館で開催された「ニキ・ド・サンファル展」の展示作品一覧、ポンピドゥー・センター(国立近代美術館)の所蔵作品一覧に基づくものである。太字は、多くの参考資料で言及される代表作、大規模な作品、公共彫刻である。 ニキ・チャリタブル・アート財団(Niki Charitable Art Foundation)は、ニキが生前に設立し、没後に活動を開始した。彫刻作品1,000点以上、絵画、素描等5,000点以上、資料等を多数保存し、これらの知的財産権を有する団体である。2000年から亡くなる2002年まで、ニキはシュプレンゲル美術館(ハノーファー、ドイツ)とニース近現代美術館(フランス)に多くの作品を寄贈した。 日本には、Yoko増田静江コレクション(立体作品約60点、平面作品約200点)のほか、ベネッセハウス(香川県香川郡直島町)にも屋外作品として《会話》、《らくだ》、《猫》、《腰掛》などの作品がある。 ^ “Qui est Niki de Saint Phalle ?” (フランス語). www.grandpalais.fr. 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2024/11/21 19:21更新
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