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ネルソン=ピケの情報 (NelsonPiquet)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

ネルソン=ピケの情報(NelsonPiquet) レーシングドライバー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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ネルソン=ピケさんについて調べます

■名前・氏名
ネルソン=ピケ
(読み:Nelson Piquet)
■職業
レーシングドライバー
■ネルソン=ピケの誕生日・生年月日
1952年8月17日 (年齢71歳)
辰年(たつ年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
不明

(昭和27年)1952年生まれの人の年齢早見表

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ネルソン=ピケと同じ出身地の人


ネルソン=ピケの情報まとめ

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ネルソン=ピケ(Nelson Piquet)さんの誕生日は1952年8月17日です。

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経歴、スタイルなどについてまとめました。テレビ、父親、母親、引退、事故、現在に関する情報もありますね。ネルソン=ピケの現在の年齢は71歳のようです。

ネルソン=ピケのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

ネルソン・ピケ・ソウト・マイオール(Nelson Piquet Souto Maior 、1952年8月17日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ生まれの元レーシングドライバーであり、F1世界選手権で1981年・1983年・1987年と、3度のドライバーズチャンピオンに輝いた。フジテレビF1中継でのニックネームは「自由人」。

ピケとは母方の姓であり、父親に隠れてレース活動をするために名乗ったものである。日本では1985年頃まで、英語読みの「ピケット」と表記されていた。

1980年代のF1を代表するドライバーの1人であり、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、アイルトン・セナと併せて日本では纏めて「F1四天王」や「四強」と称された。

シーズン終盤の勝負強さ、効率の良いレース運びが持ち味の1つであり、3度のF1タイトルのうちブラバムでの2度は最終戦での逆転で獲得している。また年間最多勝利数は1986年の4勝(チャンピオン獲得時に限ればいずれも3勝)と、同時期のチャンピオンクラスのライバルに比べ優勝回数は多くない一方で、ランキング3位以内に入ったシーズンには、66~75%の高い入賞率を記録している。

3度のタイトル獲得は、いずれも異なるエンジンメーカーで記録した(1981年フォード・コスワース、1983年BMW、1987年ホンダ)。自身にとって最盛期といえる1980年代前半から中盤はF1におけるターボエンジンの全盛期と重なっており、獲得した3回のタイトルのうち、初タイトルである1981年にブラバム・フォード・コスワース(DFVエンジン)で獲得したものを除く2つはいずれも、ターボエンジンを搭載した車で獲得した。そのことから、ブラジル本国では「ターボ時代の王」という形容がしばしばなされる。

ドライバーとしての評価以外にも、数多くの女性の間を渡り歩く艶福家ぶり、モナコの海に漂うクルーザーを自宅とする優雅さなど、独特な面を持つ人物だった。

息子の1人のネルソン・ピケJr.(ネルソン・アンジェロ・ピケ)は父と同じレーシングドライバーの道を進み、ルノーF1のテストドライバーを務め、2008年・2009年とルノーからF1に参戦した(2009年はシーズン途中まで)。その後フォーミュラEに参戦し初代チャンピオンになっている。また、1998年に生まれた息子ペドロ・ピケもレーシングドライバーであり、2020年のFIA F2選手権にフル参戦した。

経歴

初期の経歴

父親エスターシオ・ソウト・マイオール(ポルトガル語版)は政治家で、ジョアン・グラール政権下(1961年 - 1964年)において保健相を務めた人物である。そのため、1960年のブラジリア遷都に前後して、一家は新首都ブラジリアに移り住んだ。

14歳の頃にカートを始めたが、息子がモータースポーツをすることを望まなかった父親に隠れて活動できるよう母親の旧姓(Piquet)を「Piket」と故意に誤って綴り、初期のレース活動はこの名でエントリーをした。

息子をプロテニス選手にしようと考えていた父親により、高校時代になると米国のアトランタにテニス留学をさせられ、その適性を評価された。しかしピケ本人はテニスよりも自動車レースへの情熱を持ち続けたため、結局モータースポーツに打ち込むこととなる。

1971年にはブラジルカート選手権においてチャンピオンとなり、翌1972年も連覇。1974年に父親を亡くすが、その後もレースを続け、1976年にジュニア・フォーミュラのフォーミュラ・Veeでチャンピオンとなる。

当時ブラジル人唯一のF1ワールドチャンピオンで、かつブラジルのフォーミュラ・Veeにおいて大きな影響力を持っていたエマーソン・フィッティパルディに目をかけられ、その助力もあって翌1977年はヨーロッパに活躍の舞台を移し、ヨーロッパF3選手権に参戦。初出場で、しかもシーズンフル参戦ではなかったがピエルカルロ・ギンザーニ、 アンデルス・オロフソンに次ぐランキング3位に入るという好結果を残した。

F1

1978年第11戦ドイツグランプリにて、エンサインからF1にデビュー。その後、第12戦オーストリアグランプリから第14戦イタリアグランプリまで、マクラーレン・M23を使用するカスタマーチーム・BSファブリケーション(英語版)から参戦、イタリアグランプリで9位初完走を果たした。

第15戦アメリカ東グランプリ(英語版)を欠場後、最終戦カナダグランプリにはブラバムにて出走(11位完走)。これは、翌1979年よりニキ・ラウダのNo.2ドライバーとしてブラバムに移籍することが決まっていたが、オーナーのバーニー・エクレストンの計らいにより、同年中からブラバムでの出走が実現したものであった。

フル参戦1年目ながら、第6戦ベルギーグランプリ(英語版)、第9戦イギリスグランプリ(英語版)で予選3位につけるなど速さを見せ、若手の有望株として注目を集めた。アルファロメオ製V型12気筒エンジンの信頼性が低く、なかなか結果には繋がらなかったが(結果的に15戦中リタイヤ9回)、第12戦オランダグランプリ(英語版)では4位に入り、初入賞を果たした。

また第14戦カナダグランプリ(英語版)のフリー走行後に、チームのエースドライバーだったニキ・ラウダが突如引退を表明。ピケはNo.1ドライバーに昇格することとなった。最終戦アメリカ東グランプリでは、予選2位とフロントローを獲得している(決勝は8位)。

この年は大きく重いアルファロメオからスタンダードなフォード・コスワース・DFVにエンジンが変更されたが、マシンの軽量化として戦闘力を大幅に向上させ、開幕戦アルゼンチングランプリ では2位初表彰台を獲得。第4戦アメリカ西グランプリでは、予選で初ポール・ポジション(以下:PP)を獲得し、決勝でも終始トップを走行し初優勝、ファステストラップ(以下:FL)もマークした。

その後も安定してポイントを積み重ね、ウィリアムズのアラン・ジョーンズとチャンピオン争いを展開、終盤には第11戦オランダグランプリ・第12戦イタリアグランプリを連勝し、ランキングトップに立った。しかし第13戦カナダグランプリではトップ走行中にエンジントラブルでリタイヤ、このレースで優勝したジョーンズに逆転を許した。続く最終戦アメリカ東グランプリも電気系トラブルでリタイヤとなり、ランキング2位に終わった(計3勝、2PP)。

チャンピオンは逃したものの、14戦中入賞10回(うち表彰台6回)と、後に持ち味となる安定感を発揮。ここから、エースとしてブラバムの第2期黄金時代を作り上げることとなる。

ジョーンズ及びカルロス・ロイテマンのウィリアムズ勢とチャンピオン争いを展開。第3戦アルゼンチングランプリにて、シーズン初優勝をポールトゥーウィンを達成すると、第4戦サンマリノグランプリも連勝。その後5戦中4度のリタイヤとやや停滞するも、第10戦ドイツグランプリでシーズン3勝目を挙げて以降は、連続入賞でランキングトップのロイテマンを猛追した。

ランキングで同率首位で迎えた第13戦イタリアグランプリでは、2位走行中の最終周にエンジントラブルでストップ(6位完走扱い)。残り2戦で3ポイントのビハインドを抱えるが、しぶとく食らいつき、1ポイントのビハインドで最終戦ラスベガスグランプリを迎えた。酷暑の中の開催となったこのレースで、ピケは失神寸前の状況に陥りながらも5位に入り、一方のロイテマンはノーポイント(8位)。第2戦ブラジルグランプリ以降、ランキングトップを守っていたロイテマンを上回り、最終戦での逆転で自身初の王座を手にした。この年、ピケがランキング単独トップとなったのは、この最終戦終了後だけであった。ブラジル人としては、エマーソン・フィッティパルディに次いで2人目のワールドチャンピオンとなった。

この年も15戦中入賞10回(うち表彰台7回)と、安定した成績を残し、予選では4度のPPも獲得した。

BMW開発のターボエンジンの完成度が低く苦戦。第2戦ブラジルグランプリでは前年のフォード・コスワースの自然吸気(NA)エンジン搭載車を引っぱり出して息を吹き返し、トップでゴールしたがレース後の車検で最低重量違反となり失格。第7戦デトロイトグランプリでは、予選落ちまでも喫した。第8戦カナダグランプリでは優勝したが、その後もシーズンを通して苦戦を強いられた。第12戦ドイツグランプリでは、シーズン2勝目のチャンスが巡ってきたが、エリセオ・サラザールを周回遅れにする際、サラザールに接触されリタイヤとなった。結局、ランキングで僚友リカルド・パトレーゼより下の11位に終わった。

開幕戦ブラジルグランプリで優勝を飾るが、以後はルノーのアラン・プロストに後塵を拝し、優勝に手の届かないレースが続いた。一方でポイントは安定して積み重ね、終盤においてもチャンピオンの可能性を残していた。

そんな中第12戦オランダグランプリでは、シーズン初のPPを獲得。決勝でもスタートからトップを走行するが、バトルの中でプロストに接触され両者リタイヤした。ピケのマシンは既にトラブルを抱えており、実はプロストはもう数周待てば難なく首位に立てる状況だったという。この接触から、シーズンの流れが大きく変わることとなる。

オランダグランプリ終了時点では、残り3戦でプロストに14ポイントのリードを許していたピケだが、第13戦イタリアグランプリ・第14戦ヨーロッパグランプリを連勝、2ポイント差にまで詰め寄り、最終戦南アフリカグランプリを迎えた。南アフリカグランプリは終始ブラバム勢のペースとなる中、プロストは早々リタイヤ。無理をする必要がなくなったピケは、パトレーゼを先行させるなど徹底的に安全策を取る走りで3位フィニッシュ、1981年同様最終戦での逆転で2度目の王座を獲得した(シーズン3勝)。この年は全15戦中入賞10回(うち表彰台8回)を記録し、安定した成績も初チャンプ獲得時と同様であった。ブラバムで2度王座に就いたドライバーはピケが初であり、結果的に唯一となった。

1984年はマクラーレン・MP4/2がラウダとプロストのコンビでシーズンを席巻。ピケは予選でこそ、当時のシーズン最多記録となる9度のPPを獲得、決勝でも3度のFLなど速さを見せたが、優勝は2度。全16戦中リタイヤが9回にのぼるなど、マシントラブルが多発したこともあり持ち味であるコンスタントなポイント獲得がならず、ランキング5位に留まった(入賞6回・うち表彰台5回)。

ブラバムの戦闘力はさらに下降気味であり、前年以上の苦戦を強いられた。 ピレリタイヤのタイヤ選択がはまった酷暑の第7戦フランスグランプリでは勝利を挙げるが、これを含め表彰台は2度、入賞自体も5度に留まり、ランキングは8位と更に下がってしまった。

1978年から所属したブラバムは完全No.1待遇の「ピケのための」チームになっており、ピケ自身は翌シーズンもブラバムに残留することを考えていた。しかし、ピケに獲得の打診を寄せたウィリアムズ・ホンダからの提示額よりもブラバムでの契約金が少なかった事への不満から、チーム能力がブラバムと同等以上となっていたウィリアムズに移籍することを決めた。

ブラバムで長く同僚だったデザイナーのゴードン・マレーはピケが移籍するとは思っておらず、「1985年3月から翌年用BT55を創り始めていた。BT55はNo.1ドライバーであるピケの身体に合わせて作ったんだ。でも移籍することになったので、8月から再設計することになった。」と述べている。

前年に戦闘力を増し、ホンダエンジン搭載後初勝利を挙げていたウィリアムズに加入。ナイジェル・マンセルをチームメイトにFW11をドライブ。この年のピケの契約金が日本円にして7億円、マンセルは1億円弱だったとされ 、契約上は完全No.1待遇のはずであった。しかし開幕前にオーナーのフランク・ウィリアムズが交通事故で下半身不随になる混乱の中、イギリスのチームであるウィリアムズ内部ではイギリス人であり前年にF1初勝利を挙げたナイジェル・マンセル派と、エンジンを供給するホンダがバックアップするピケ派に二分された。

元々ピケのウィリアムズ加入はエンジンサプライヤーのホンダが強く望んだもので、ウィリアムズ側を説得するため、ピケの年俸の一部はホンダが出していた。

ピケとマンセルは、互いの情報を一切共有しようとはしなかった上、ホテルのロビーで隣同士になっても会話なく挨拶をするだけという関係であった。この年はピケが4勝、マンセルが5勝を挙げてコンストラクターズ・チャンピオンシップでは1位を獲得したが、ドライバーズチャンピオンは最終戦オーストラリアGPでマクラーレンのプロストにさらわれた(マンセルがランキング2位、ピケは3位)。最強エンジンを有し、チャンピオン最有力チームに居ながら2人ともチャンピオンを逃した理由を問われたピケは「No.1が二人いたから」と、チーム力が分散してしまったことを挙げた。

前年同様、マンセルとのコンビでウィリアムズでの2年目を迎える。第2戦サンマリノグランプリ予選中、高速コーナー・タンブレロにて激しいクラッシュに見舞われ、レースを欠場。その後は充分な睡眠を取れないなど、クラッシュの後遺症にシーズンを通して悩まされ続けることとなる。

しかし、年間6勝も挙げながら勝つかリタイヤかという波のあったマンセルに対し、ピケは体調が万全でない中、勝てない場合には2位でのフィニッシュが7回など確実にポイントを積み重ね、優勝した第8戦ドイツグランプリ以降ランキングトップの座を維持。そして第15戦日本グランプリにて、逆転王座の可能性を残すマンセルが予選中にクラッシュ。背骨を痛めて出場不可能となり、決勝を迎えずしてピケが3度目となるワールドチャンピオンに輝いた(シーズン3勝)。この年は全16戦中入賞12回(うち表彰台11回)と、チャンピオン獲得年の中でも特に安定した成績を残している。PPは4回。ピケはシーズン終了後のインタビューで「マンセルは僕よりアグレッシブで、予選も凄く速く走ったけど(第3戦の)スパではセナと絡んで簡単に9ポイント獲るチャンスを手放した。こういう事がチャンピオンシップを大きく変えるんだ。私は堅実にゴールを重ねてタイトル争いに勝った」とその喜びを語った。

同年を最後に、チーム体制がマンセル寄りに傾き、加えて当時最強エンジンであるホンダ・V6ターボを失うことが決まっていたウィリアムズを離れ、ホンダ・ターボの供給継続が決定し、なおかつピケのNo.1待遇を保証したロータスに移籍することとなった。

チーム内への不満から移籍を決意したピケだが、「レーサーとしての今までのキャリアで、ウィリアムズほど技術的に優れたチームは無かった。この事に疑いの余地は全くない。それでも来年はロータスに行くと決めた」とチームの技術面には賛辞を送りチームを離れている。

前年からの残留となった中嶋悟をNo.2ドライバーとし、ピケは完全なるNo.1ドライバーとしてロータス・ホンダに迎え入れられた。新車ロータス・100Tはライバルチームより早く2月には完成しシェイクダウンテストを行ったが、シャーシ剛性に問題があり、コーナリング性能に劣っていた。開幕戦ブラジルグランプリ・第2戦サンマリノグランプリではエンジンパワーが重要なコースだったこともあり連続3位表彰台を記録するが、このサンマリノGPでは同じホンダ・RA168Eエンジンを搭載しているマクラーレン勢2台に周回遅れにされ、シャーシ性能の差を思い知らされる。さらにNAエンジンのベネトン・B188を駆るアレッサンドロ・ナニーニと同等のバトルを繰り広げる羽目となる。シーズンが進むごとに100Tの戦闘力はNAエンジン勢のベネトンやレイトンハウス・マーチ881の高いコーナリング性能に敵わなくなり、移籍当初はドライバーズ・チャンピオンを争う野望を持っていたピケのモチベーションは下降。チームメイトの中嶋にフリー走行のタイムで敗れることもあった。ピケ曰く「第6戦デトロイトGPの時、チームはシャーシーセッティングの方向性が全く分からなくなってしまった。そこでは新しくロング・ホイールベース仕様のシャーシを投入したが、重量配分がさらに悪化していてもう悪夢だった」という苦戦状況に陥っていた。終盤戦の第15戦日本GPで予選5位、最終戦オーストラリアGPではマクラーレンのプロスト、セナに次ぐ3位で表彰台に立ちホンダV6ターボエンジンの最終レースを1-2-3フィニッシュで花を添えるなど復調を見せたが、同年の最高位は3度の3位に留まり、入賞は7回。ドライバーズ・ランキングは6位に終わった。期待外れの戦闘力だった100Tだが、ピケはホンダエンジンには不満を述べること無く、「いつもホンダエンジンのパワーは強力だった」とコメントを残し失望のシーズンを終えた。

ロータスは前年限りでホンダエンジンを失い、非力なジャッド製V型8気筒エンジンを搭載したロータス・101をドライブ。戦闘力が前年以上に落ちたこともあり、成績は入賞4回で表彰台なし、ランキング8位と更に下降。第11戦ベルギーGPでは、中嶋と共に予選落ちを喫した。名門ロータスが2台揃って予選落ちを喫したのはこれがその歴史上初であった。同年についてピケ自身が総括したインタビューでは、「これは忘れられがちなんだけど、トップ集団で争うより、経験の浅い若手が多い中団での戦いの方が大変なんだよ。馬鹿馬鹿しい接触や衝突に巻き込まれないよう神経を使うからね。その代わり、トップ集団にいた時には気付けなかった若い才能を間近に見る機会は増えた。ピエルルイジ・マルティニやジャン・アレジに秘められた新しい力に私が気付いたのは、回りで見ている他の連中(ジャーナリスト)よりも早かったはずだ。それはおもしろい部分ではあったね。」と述べている。

結局、ロータスでの2年間は1勝も挙げられなかった。

ベネトンに移籍し、アレッサンドロ・ナニーニとコンビを組んだ。ギャラを完全出来高制(1ポイント獲得につき10万ドル)にする異例の契約の中、開幕から堅実に入賞を重ね存在をアピール。そして第15戦日本グランプリでは、ナニーニの代役・ロベルト・モレノを従え、3年ぶりの優勝をチーム初の1-2フィニッシュで遂げる。続く最終戦オーストラリアグランプリでも優勝し、2連勝でシーズンをしめくくり評価を取り戻した(このグランプリは、F1創設から通算500戦目のメモリアルレースでもあった)。最終的に16戦中12度の入賞(うち表彰台4回)を記録し、ランキング3位に食い込んだ。

前年の日本グランプリでの2位を評価されての正式加入となった同胞モレノをチームメイトに迎え、可愛がっていた後輩とのタッグとなった。第3戦サンマリノグランプリからジョン・バーナードが手掛けた期待の新車ベネトン・B191が導入されると、第5戦カナダグランプリでは、スタートから終始トップを走っていたマンセルが最終ラップにストップし、土壇場で逆転勝利を収めた。これはピレリタイヤにとって5年ぶりの勝利で、ピケのF1での最後の優勝となった。

第11戦ベルギーグランプリで3位入賞、これがF1最後の表彰台となる。続く第12戦イタリアグランプリでは、F1通算200戦目を記録、決勝では6位に入賞し自ら記録に華を添えた。だが、チームはレース直前にモレノとの契約を一方的に解除し、メルセデスのバックアップを持つ新人ミハエル・シューマッハを、ジョーダンから引き抜き加入させた。このことでチームに不信感を抱いた事と、同年途中からベネトン内をマネージメントしドライバー選択などの実権を握ったトム・ウォーキンショーが、モレノだけでなくピケをも1991シーズン終了を待たずに放出し、自らとつながりの深いマーティン・ブランドルのベネトン加入を希望していることを知ったピケは移籍を決意し、翌年に向けてリジェと交渉したが契約金の額で折り合いがつかず、引退宣言などをすることも無くこの年限りでF1を去ることになった。結果的に最後のF1レースとなった、1991年オーストラリアグランプリは決勝4位(豪雨のため14周で打ち切られた)で終えたが、この最終グランプリでは予選タイム・決勝ラップチャートで終始同じマシンのミハエル・シューマッハを上回っていた。全16戦中入賞8回・うち表彰台3回の成績で、ランキング6位。

F1での通算出走数204は、2011年現在歴代9位である。

F1後

1992年、チーム・メナード(英語版)のローラ・T93/00(英語版)・ビュイック(英語版)(27号車)でインディ500へ初参戦。しかし予選前の練習走行中に高速でスピンを喫し、コンクリートウォールにノーズから突っ込む大クラッシュを起こし両足を複雑骨折してしまう。踵の骨が粉砕されているなど、足の切断も検討される状態だったが、その後懸命のリハビリテーションで回復。同年12月にはリハビリの一環としてブラジルでF3マシンに乗り、事故以来7か月ぶりのサーキット走行を行い、「レーシングカーの運転がまたできてとてもうれしい、インディ500にはまたいつかチャレンジしたい」とコメントを残した。その言葉通り翌1993年に再びチーム・メナードからローラ・ビュイック(77号車)でインディ500に参戦。予選を13位で通過したが、決勝の500マイルレースでは序盤38ラップ目にエンジントラブルでリタイア(33台中32位)と不完全燃焼で終わり、「ここで勝つまでは、何度でも来る」と翌年への意欲を見せていたが、それは叶わずこの年が唯一のインディ500決勝参戦となった。

以後、スパ・フランコルシャン24時間レース(1995年、1997年)、ル・マン24時間耐久レース(1996年、1997年)、南米F3(英語版)(1998年)などに出場した後、レーシングドライバーとしてのキャリアを終えた。

2000年に国際モータースポーツ殿堂入りした。

実業家としての側面

ドライバーとして引退した後はブラジリアを拠点に各種事業を展開している。主なものだけでも、レースチーム「ピケ・スポーツ(英語版)」のようなモータースポーツ関連の活動以外に、ブラジル内陸の貨物輸送がトラック輸送に依存しているという点に着目し、GPSを用いた監視業務を行う会社Autotrac社[1]を創業している。

また、ピレリタイヤのブラジルにおける販売権の一部を有し、一方でBMWの輸入代行業も手がけるなど、さまざまな事業活動を行っている。

スタイル

ピケのレーシングスタイルは、爆発的な速さよりも確実性を優先させたもので、これは新人時代のブラバム加入時にエースドライバーとして君臨していたニキ・ラウダの影響を受けており、レースペースをコントロールして戦うタイプだった。また、チャンピオンシップも無闇に勝利を狙うのではなく、地道にポイントを集めて戦うことが多かった。ピケは自らのスタイルについて「そのレース中に優勝はできないとわかった場合は、すぐプランを変更して少しでも多くのポイント獲得ができるよう戦略変更する。見込みのないマシンで無茶をしてヒーローになろうなどとは考えない」、「5位から4位に上がるためのバトルと、優勝が掛かっている時の走り方は違う。そのレースに勝つ見込みが僅かでもあると感じて狙っている時は、4位で3ポイント得るためよりも上手く走る。」と発言している。3度のドライバーズタイトルのうち、ブラバム時代の2回はどちらも最終戦での逆転チャンピオンで、シーズン中1度もポイントリーダーになっていなかった。また、通算勝利数も同じ3度ドライバーズタイトルを獲得したアイルトン・セナの約半分であった。

他の多くのチャンピオン同様、チームには常に自らのナンバー・ワン体制を求めた。ブラバム時代はピケの性格を理解していたチームオーナーのバーニー・エクレストンのもと完全なピケ優遇チームが構築され、シャシー、エンジン、タイヤなどあらゆる面において優遇され、ピケの意見は常に聞き入れられてマシン開発に積極的に取り入れられた。1982年はチャンピオン争いのためにピケ専用の予選専用マシンが開発されるなど、完全なNo.1体制が徹底された。

ウイング・カー全盛期でドライバーの体力消耗が激しかったとはいえ、ジル・ヴィルヌーヴなど一部からは「体力不足」と批判されていた。レース終盤に体力の消耗度が激しくストレートで蛇行してしまうこともままあった。

堅実な走りのイメージが強かったが、一発の速さやここ一番の勝負勘も優秀で、1984年は9回ものポールポジションを獲得、1986年にはハンガリーグランプリでアイルトン・セナとのバトルの際、第1コーナーでアウトからドリフトで仕掛け、そのままカウンターを当てて抜くと荒業を成功させ、チャンピオンが掛かっていた最終戦オーストラリアグランプリでは、最終周にファステストラップをたたき出す攻めのレースを見せた。

メディアへの対応時は強気な発言のキャラクターが知られているが、ベネトンでピケと共に仕事をした経験のある津川哲夫は「裏側を見ると実はビビっていて、一生懸命虚勢を張っていた」「自分が犯した失敗やタイムが出なかったことに対して、頭を抱えてすごく悩んでいた。だけど、次にハンドルを握るときまでには、ちゃんと立ち上がってくる」と語り、非常に繊細な一面もあったことを明らかにしている。

テクニック

ピケのドライビングテクニックとして、マニュアルトランスミッション(MT)での滑らかなシフトワークがある。ギアを飛ばすことなく、一段一段早く正確にギアシフトを行い、メカニックがレース後にトランスミッションを開くと、他のドライバーではすり減ってほとんど無くなってしまうドッグリングがまるで新品同様のような状態を保っていたと、日本のTV番組に出演した津川哲夫(ベネトンでピケのメカニックを担当)が述べている。特にシフトダウン操作が非常に上手かったと言われ、ホンダエンジンのプロジェクトマネージャーを務めた河本道郎も「シフトダウンに関してはピケとセナは同じように、エンジンにとってはオーバーレブさせない優しいドライビングしていまして、エンジンを造るときの限界の基準にしてました。なのでシフトダウンが上手くはないゲルハルト・ベルガーが後からホンダ陣営となったときに、オーバーレブが多くトラブルが多発してちょっと困りましたね(笑)」と証言している。

ホンダの総監督として上記の四強全員と組んだ経験を持つ桜井淑敏は、「シフトワークのピケ、ステアリングワークのマンセル、タイヤ使いのプロスト、アクセルワークのセナ」とそれぞれを称している。

F1での最終キャリアとなった1991年時点で、セミオートマチックトランスミッション(セミAT)を採用したチームはフェラーリとウィリアムズの2チームだけであり、トップカテゴリのF1においては、セミATによる技術革新とは縁がなかった。

2024/06/23 10:16更新

Nelson Piquet


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ネルソン=ピケと近い名前の人

イーライ=マニング(Elisha Nelson “Eli” Manning)
1981年1月3日生まれの有名人 出身

イライシャ・ネルソン・マニング4世(Elisha Nelson "Eli" Manning IV, 1981年1月3日 - )は、アメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズ出身の元アメリカンフットボー…

ブライアン=ネルソン(Bryant Nelson)
1974年1月27日生まれの有名人 出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート ブライアン・ローレンス・ネルソン(Bryant Lawrence Nelson , 1974年1月27日 - )は、アメリカ合衆国アー…

バイロン=ネルソン(John Byron Nelson)
1912年2月4日生まれの有名人 出身

バイロン・ネルソン(Byron Nelson, 1912年2月4日 - 2006年9月26日)は、アメリカ・テキサス州ワクサハチー出身のプロゴルファーである。フルネームは John Byron Nel…

ロバート=R=ウィリアムズ(Robert Runnels Williams)
1886年2月16日生まれの有名人 出身

2月16日生まれwiki情報なし(2024/06/26 19:12時点)

アユチャンネル(あゆちゃんねる)
1996年4月2日生まれの有名人 愛知出身

アユチャンネル(1996年4月2日 - )は、日本のお笑いタレント。愛知県名古屋市出身。ワタナベエンターテインメント所属。本名は吉田 あゆ美(よしだ あゆみ)。 椙山女学園大学在学中の2016年、…

パーネル=ウィテカー(Pernell Whitaker)
1964年1月2日生まれの有名人 出身

パーネル・"スイートピー"・ウィテカー(Pernell Whitaker、1964年1月2日 - 2019年7月14日)は、アフリカ系アメリカ人の男性元プロボクサー。バージニア州ノーフォーク出身。元W…

ライオネル=ニューマン(Lionel Newman)
1916年1月4日生まれの有名人 出身

ライオネル・ニューマン(Lionel Newman, 1916年1月4日 - 1989年2月3日)は、アメリカ合衆国の映画音楽の作曲家、指揮者、ピアニスト。コネチカット州ニューヘイブン生まれ。 アルフ…

エズラ=コーネル(Ezra Cornell)
1807年1月11日生まれの有名人 出身

1月11日生まれwiki情報なし(2024/06/26 07:53時点)

ズーイー=デシャネル(Zooey Deschanel)
1980年1月17日生まれの有名人 出身

ズーイー・デシャネル(Zooey Deschanel, 1980年1月17日 - )は、アメリカ合衆国の女優、歌手。 「ゾーイ・デシャネル」とも表記される。彼女自身の発音もゾウイー(/ˈzoʊi/)…

スティーブン=キャネル(Stephen Joseph Cannell)
1941年2月5日生まれの有名人 出身

2月5日生まれwiki情報なし(2024/06/20 20:17時点)

ノーラン=ブッシュネル(Nolan Bushnell)
1943年2月5日生まれの有名人 出身

ノーラン・ブッシュネル(Nolan Bushnell, 1943年2月5日 - )は、アメリカ合衆国の元実業家・ゲームデザイナー・技術者で、アタリ社の創業者。20社以上創業しており、「ビデオゲーム産業…

ジェリー=オコネル(Jerry O'Connell)
1974年2月17日生まれの有名人 出身

ジェリー・オコンネル(Jerry O'Connell, 1974年2月17日 - )はアメリカ合衆国ニューヨーク市出身の俳優である。ジェリー・オコネルとも表記される。弟のチャーリー・オコンネルも俳優。…

クリスティーナ=キルチネル(Cristina Fernandez de Kirchner)
1953年2月19日生まれの有名人 出身

クリスティーナ・エリザベット・フェルナンデス・デ・キルチネル(スペイン語: Cristina Elisabet Fernández de Kirchner、1953年2月19日 − )は、アル…

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ネルソン=ピケ
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