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ベニート=ムッソリーニの情報 (BenitoMussolini)
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【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

ベニート=ムッソリーニの情報(BenitoMussolini) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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ベニート=ムッソリーニさんについて調べます

■名前・氏名
ベニート=ムッソリーニ
(読み:Benito Mussolini)
■職業
政治家
■ベニート=ムッソリーニの誕生日・生年月日
1883年7月29日 (年齢1945年没)
未年(ひつじ年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
不明

ベニート=ムッソリーニと同じ1883年生まれの有名人・芸能人

ベニート=ムッソリーニと同じ7月29日生まれの有名人・芸能人

ベニート=ムッソリーニと同じ出身地の人


ベニート=ムッソリーニの情報まとめ

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ベニート=ムッソリーニ(Benito Mussolini)さんの誕生日は1883年7月29日です。

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引退、現在、結婚、兄弟、卒業、事件、事故、脱退、テレビ、映画、家族に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1945年に亡くなられているようです。

ベニート=ムッソリーニのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ(イタリア語: Benito Amilcare Andrea Mussolini、1883年7月29日 - 1945年4月28日)は、イタリアの政治家、独裁者。

イタリア社会党で活躍した後に新たな政治思想ファシズムを独自に構築し、国家ファシスト党による一党独裁制を確立した。

王政後期のイタリア政界でイタリア社会党(PSI)の政治家として活躍、第一次世界大戦従軍後に同じ退役兵を集めてイタリア戦闘者ファッシおよび国家ファシスト党(PNF)を結党し、そのドゥーチェ(統領)となる。イタリアの政治学者ジョヴァンニ・アメンドラの全体主義、フランスの哲学者ジョルジュ・ソレルの革命的サンディカリスムなど複数の政治思想を習合させ、新たな政治理論としてファシズム(結束主義)を構築した。国家ファシスト党によるローマ進軍によって首相に任命され、1925年1月3日の議会演説で実質的に独裁体制を宣言し、同年12月24日に従来の首相職より権限の強い「首席宰相及び国務大臣(イタリア語版)」(イタリア語: Capo del governo primo ministro segretario di Stato)を新設し、同時に複数の大臣職を恒久的に兼務することで独裁体制を確立した。

1936年5月5日、ムッソリーニがエチオピア帝国の併合を宣言するとローマの群衆は「イタリア万歳」「ムッソリーニ万歳」の声で称えた。征服によりヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王(サヴォイア家)が帝位を兼ねると(イタリア植民地帝国)、「帝国の建国者(イタリア語: Fondatore dell'Impero、フォンダトーレ・デッリンペーロ)」という名誉称号をサヴォイア家から与えられた。サヴォイア家の指導下にあった軍の掌握にも努め、大元帥(帝国元帥首席)に国王・皇帝ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と共同就任して統帥権を獲得した。十数年にわたる長期政権を維持していたが、明暗を分けたのは第二次世界大戦に対する情勢判断であった。当初、第一次世界大戦のような塹壕戦による泥沼化を予想していたことに加え、世界恐慌による軍備の脆弱化から局外中立を維持していた。だが一か月間という短期間でフランスが降伏に追い込まれる様子から、準備不足の中で世界大戦への参加を決断した。

1943年7月25日、連合国軍の本土上陸に伴う危機感からファシスト党内でクーデターが発生して失脚し、一時幽閉の身となったが、後にナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーの命令によって救出された。胃癌により健康状態が悪化していたために一旦は政界から引退したが、ロベルト・ファリナッチと対立したヒトラーの要請によって表舞台に復帰した。以後、ドイツの衛星国として建国されたイタリア社会共和国(RSI)および共和ファシスト党(PFR)の指導者を務めるが、枢軸軍の完全な敗戦に伴い再び失脚する。1945年4月25日、連合国軍に援助されたパルチザンに拘束され、法的裏付けを持たない略式裁判によりメッツェグラ市で銃殺された。生存説を退けるために遺体はミラノ市のロレート広場に吊されたのち、無記名の墓に埋葬された。

終戦後にネオファシストや保守派による正式な埋葬を求める動きが起き、カトリック教会によって故郷のプレダッピオに改葬された。現代イタリアにおいても影響力を持ち、共和ファシスト党(PFR)を事実上の前身とするネオファシスト政党「イタリア社会運動」(MSI)、MSIが合流した国民同盟(AN)、自由の人民(PdL)、イタリアの同胞(FdI)などが国政で議席を獲得している。

1883年7月29日、ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ(Benito Amilcare Andrea Mussolini)はサヴォイア朝イタリア王国エミリア=ロマーニャ州フォルリ=チェゼーナ県の県都フォルリ近郊にあるプレダッピオ市ドヴィア地区に、鍛冶師アレッサンドロ・ムッソリーニ(英語版)と教師ローザ・ムッソリーニ(英語版)の長男として生まれた。メキシコ合衆国の初代大統領で独立の英雄のベニート・フアレスにちなんでベニート、親しい間柄にして尊敬する国際主義的な革命家であったアミルカレ・チプリアニにちなんでアミルカレ、イタリア社会党の創設者の一人であるアンドレア・コスタ(イタリア語版)にちなみアンドレーアとそれぞれ父の尊敬する人物の名前をもらっている。三人兄妹の長兄として二人の弟妹がおり、次弟はアルナルド(英語版)、長妹はエドヴィージェ(イタリア語版)という名であった。

ムッソリーニという家名はブレダッピオでよく見られるもので、現在でも同地にはムッソリーニ姓を持つ人々が複数居住している。家系については少なくとも17世紀頃にはロマーニャに農地を持つ自作農として教区資料に記録されている。父方の祖父ルイジ・ムッソリーニも小さな土地を開墾する農民であったが、若い時は教皇領の衛兵でもあった。ほかにムッソリーニ家はボローニャで織物(モスリン)を扱う商家であったとする記録も残っている。それ以前の祖先の出自については著名人の常として多様な説が提唱されているが、一番信憑性があるのは13世紀頃からボローニャからロマーニャへ落ち延びた貴族の末裔という説である。独裁者として君臨した際には権威づけのために多くの学者や側近がこの説を裏付ける努力をしたが、当のムッソリーニはそうした権威の類には興味を持たなかったようである。ムッソリーニは自身が農民や商人の子孫であり、鍛冶屋の子であることを誇りにしていた。

父アレッサンドロは熱心な社会主義者で第二インターナショナルのメンバーであり、社会主義と無政府主義と共和主義が入り混じった独特な思想を持っていた。祖父ルイジが農地を失ったために鍛冶屋へ奉公に出され、やがて一人前の鍛冶師となって生計を立てた。貧しい生まれながら独学で読み書きなど教養を身に着け、1889年にプレダッピオ市議会の議員に選出されて以来、一度の落選を挟んで1907年まで市会議員や助役を務めている。幼い時から父の助手として鍛冶仕事を手伝う生活を送ったこともあって、ムッソリーニは父から強い影響を受けて社会主義と、第一インターナショナルにも参加していたジュゼッペ・ガリバルディやジュゼッペ・マッツィーニら愛国主義的な共和主義に傾倒し、後年にもムッソリーニは王政打倒とイタリア統一の両立を目指したガリバルディたちを賞賛する発言を残している。父から受け継いだ「政治の目標は社会正義の実現である」という政治的信念は生涯変わらなかった。

母ローザはプレダッピオに小学校が建設された時に同地へ赴任した教師で、教育環境の向上を訴えて小学校建設にも協力していたアレッサンドロと知り合い、やがて結婚した。アレッサンドロは無神論者であったのに対して、ローザは敬虔なカトリック派のキリスト教徒であったので、教会と対立していた当時のイタリア王国の習慣に基づいて民事婚と教会の結婚式を二度行っている。母ローザから強制されたカトリックへの帰依はムッソリーニにとって苦痛であり、母と同じく教会に通っていた弟アルナルドに対して、むしろ父と同じ無神論を選択していた。

少年期のムッソリーニは喧嘩っ早い性格で、腕っ節の強さで村の少年たちのリーダーになっていた。しかし性格自体は寡黙で、後年もそうであったように周囲に心を開かず、仲間と群れることを嫌って一人で行動することも多かった。勉学の面では教養深い両親の間に生まれ、田舎町の生まれでありながら正確な標準イタリア語を話すことができた。長男が教会を嫌うことは敬虔な母ローザの悩みの種であったが、プレダッピオに建設された義務教育部分のみを担当する二年制学校で勉学を終わらせるのは惜しかったこともあり、ファエンツァにあるサレジオ修道会系のイスティトゥート・サレジアーノ寄宿学校で勉学を継続した。寄宿学校ではラテン語や神学などを学んだが、この時期はムッソリーニにとって最悪の時期であった。

イスティトゥート・サレジアーノ寄宿学校では学費の大小によって生徒の待遇が異なり、庶民(下層民)・平民・貴族によってクラスが分けられ、寝食など全てで差別されていた。ムッソリーニは「社会の不公平さ」を実感し、また偽りの平等を説く教会を憎んだという。教師の側もムッソリーニを警戒し、風紀委員を通じて監視下に置いていた。こうした状況から学業成績こそ「鋭敏な知性や記憶力に恵まれている」「どの科目も一読するだけで暗記している」「試験成績では他の生徒を圧倒している」と高く評価されていながら、学校から脱走し、教師にインク瓶を投げつけ、上級生をナイフで刺し、堅信礼やミサを妨害する問題児になっていった。手に負いかねた修道会は五年生の時に退校処分とし、ムッソリーニはフォルリンポーポリにあった宗教色のないジョズエ・カルドゥッチ寄宿学校に転校した。後に父アレッサンドロは修道会に学費を払うことを拒否して裁判になっている。

転校した寄宿学校はノーベル文学賞を受賞したイタリアを代表する詩人ジョズエ・カルドゥッチの名を冠した無宗教式の寄宿学校で、彼の実弟であるヴァルフレード・カルドゥッチが校長を務めていた。カルドゥッチ兄弟はムッソリーニ親子と同じく共和主義と愛国主義の両立を政治的信念としていて、またイタリア統一の障害となった教会を嫌う世俗主義者でもあった。ムッソリーニは父との会話で自身の居場所を見つけたと報告し、以前とは一転して優秀な成績を収めて卒業した。卒業後は周囲の勧めから、下層階級にとって最も身近な栄達の手段であった教員免状を取得すべく、同じカルドゥッチ一族が運営するフォルリンポーポリ師範学校の予備課程に入校した。

予備課程(師範予備学校)は三年制であり、卒業生は四年制の師範学校に編入する資格が与えられた。学費を節約するために寮には入らず、平日は町の民家に下宿して、休日はロバで父と実家に戻る生活を送っていた。師範予備学校一年生の時には第一次エチオピア戦争の敗北という衝撃的な事件が起き、学内も騒然となった。この時、ムッソリーニは社会主義者としての植民地戦争への反対よりも、愛国主義者として国家の威信が辱められたことへの憎悪が勝り、学内で行われた戦死者への追想集会では「我々が死者の復讐を果たすのだ!」と演説している。1898年、師範予備学校を修了して師範学校の正規課程に進んだ。

師範学校時代は一定の成績は維持していたものの、以前ほど抜きんでた成績を取ることはなく、教員課程より読書に没頭する日々を送った。相変わらず周囲との交流も嫌って孤独を好み、しばしば師範学校の鐘楼に登って哲学、政治学、歴史学を中心に様々な分野の書物を読んでいた。一方で政治集会が開かれる際には雄弁に持論を語り、説得力ある演説家として一目置かれていた。学内では穏健な世俗派としてイタリア共和党を支持する者が多く、彼らはそれを共和党員を示す黒いネクタイを身に着けていたが、ムッソリーニはより急進的なイタリア社会党の支持者として赤いネクタイを身に着けていた。

師範学校の最終学年では再び好成績を上げるようになり、選考を経て奨学金300リラを学校側から送られるなど優等生として扱われた。校長ヴァルフレードも兄ジョズエに自慢の生徒として紹介し、1901年1月27日にフォルリンポーポリで開かれたジュゼッペ・ヴェルディを追想する市民集会に師範学校代表として演説する機会を与えている。ここでムッソリーニは本来の予定にはなかったイタリア統一の大義と、同時にその理想を実現できない王国政府を非難する政治演説を行い、市民から喝采を浴びている。この演説は話題を集め、イタリア社会党の機関誌『アヴァンティ』にムッソリーニの名前が掲載された小さな記事が載り、最初の政治的名声を得ることになった。

1901年7月8日、ムッソリーニは師範学校を首席卒業し、政府から教員免状を付与された。

政治経歴からすぐには赴任先が決まらず苦労するが、やがてイタリア最大の川であるポー川のほとりにあり、イタリア社会党の町長が選出されているグァルティエリという町に赴任することになった。町での教師としての評判は上々で、イタリア社会党の集会でも演説役を任されている。しかしこのまま田舎町で過ごすことに嫌気が差してか、見聞を広めるべく教師を退職してスイスに移住した。スイスでは土木作業や工場労働で生計を立てる日々を送り、貧しさから橋の下や屋根裏部屋に寝泊りしたこともあった。不安定な放浪生活と引き換えに「ヨーロッパの小さなアメリカ」であるスイスで様々な人々から知遇を得ることができた。

その中で特筆されるのはウラジーミル・レーニンの秘書を務めたウクライナ人女性アンジェリカ・バラバーノフとの出会いであった。当時から難解さを知られていたマルクス主義を完全に理解できている人間は社会主義者や共産主義者の間ですら限られていた。ムッソリーニは狂信的なマルクス主義者であるバラバーノフからマルクス主義の教育を受け、社会主義理論についての知識を得た。またレーニン自身もムッソリーニの演説会に足を運んだことがあった。レーニンはムッソリーニを高く評価し、後にイタリア社会党が彼を除名した際には「これでイタリア社会党は革命を起こす能力を失った」「あの男を追放するなんて君らはバカだ」とまで叱責している。レフ・トロツキーも同時期のレーニンと同行していて、ムッソリーニと面識があったとする説もある。

放浪中の生活体験はイタリア語とともに話されているドイツ語・フランス語などの多言語能力を習得する良い機会にもなった。語学を生かして様々な文献を読み漁ってジョルジュ・ソレル、シャルル・ペギー、フリードリヒ・ニーチェ、エルネスト・ルナン、ギュスターヴ・ル・ボンらの思想を学び、ローザンヌ大学の聴講生としてヴィルフレド・パレートらの講義に出席するなど、政治学への興味と教養を高めていった。特にソレルの思想には多大な影響を受け、後に「ファシズムの精神的指導者」「私の師」「私自身はソレルに最も負っている」とまで賞賛している。ムッソリーニは本格的に政治運動へのめり込み、スイスのイタリア語圏で労働運動に加わった。ローザンヌでイタリア系移民による労働組合の書記を務め、イタリア社会党系の機関紙『ラッヴェニーレ・デル・ラヴォラトレーレ(労働者の未来)』の編纂に参加し、アメリカ合衆国内のニューヨーク党支部の機関誌『プロレタリアート』からも依頼を受けて寄稿している。

1903年、チェゼーナの農学校を卒業した弟アルナルドとスイスで同居するようになり、二人でイタリア語教師として働いたり記事を執筆したりしていた。同年に発生した大規模なゼネストに参加してスイス警察にマークされ、1904年4月、ローザンヌ市滞在中に書類偽造の容疑で拘束されて国外追放処分を受けるが、イタリア社会党だけでなくスイス社会党も反対運動を展開したために滞在が急遽許可された。この時に右派系の新聞から「ジュネーブにおけるイタリア社会党のドゥーチェ(統領、指導者)」と批判的に呼ばれた。程なくこの「ドゥーチェ」という綽名は好意的な意味合いで彼を指す際に用いられるようになった。徴兵義務期間を海外で過ごしたことを理由に今度はイタリアで欠席裁判による禁固刑が宣告されたが、サヴォイア家の跡継ぎとなるウンベルト2世の誕生を祝って恩赦が布告された。

1905年1月、イタリアに帰国したムッソリーニは自ら兵役に応じると申し出て、王国陸軍の第10狙撃兵(ベルサリエーリ)連隊に配属された。入隊間もない1905年2月17日、母ローザは危篤状態となり急遽プレダッピオに戻ったが、2日後の2月19日に亡くなった。軍隊では反体制派の人物としてその真意が疑われて監視を受けたが、間もなく模範兵として評価されるようになる。兵役の間も勉学を続け、ドイツロマン主義、ドイツ観念論、ベルグソン、スピノザについて研究した。1906年9月、兵役を終えて除隊し、オーストリアとの国境に近いヴェネツィア北東の小さな町トルメッツォで教師に復職した。1907年11月、中等教育課程の教員免状を取得すべくボローニャ大学で筆記試験と口頭試問を受け、合格して外国語(フランス語)の教員免状を取得した。

1908年3月、ジェノヴァ近郊のオネーリアにある寄宿学校からフランス語教師として雇用され、歴史学と国語・地理学も担当した。政治活動ではオネリア社会党支部の地方機関誌『ラ・リーマ』の編集長に抜擢され、王政支持者の新聞『リグーリア』と激しい論戦を交わす一方、愛国小説として名高い『クオーレ』の作者エドモンド・デ・アミーチスの功績を讃える記事を執筆している。兵役後から暫くは理論家(イデオローグ)としての活動が目立っていたが、やがて直接行動にも身を投じた。1908年後半に政府に自身を監視するように挑発的な文章を『ラ・リーマ』に掲載し、そのまま故郷のプレダッピオを含むロマーニャ地方での革命的サンディカリスム(急進組合主義)が扇動した農民反乱に参加した。暴動の中で脅迫や無許可の集会などを理由に三度警察に拘束されている。1909年2月、ドイツ語を話せたことからイタリアを離れてオーストリア領トレント党支部の労働会議所に派遣され、また機関紙『労働者の未来』へ編集長として復帰した。

未回収のイタリアの一角を占めながら、イタリア系住民の運動がさほど組織化されていなかったトレントでムッソリーニは政治運動を展開し、半年の間に100本以上の記事を掲載するという猛然たる勢いで反オーストリア・反カトリック・反王政を説く左派的な民族主義を喧伝し、キリスト教民主主義のイタリア語新聞『トレンティーノ』を「オーストリア政府の手先」として非難した。熱烈な扇動によって『労働者の未来』の購読者は大幅に増え、オーストリア政府から発禁処分を受けている。この時、ムッソリーニと対峙した『トレンティーノ』の編集長はイタリア共和国の初代首相となるアルチーデ・デ・ガスペリであった。1910年、トレントでの功績を引っ提げて帰国するとミラノ市の党本部からフォルリ=チェゼーナ県党支部の新しい機関誌の設立を任され、『ラ・ロッタ・ディ・クラッセ(階級の闘争)』紙を出版した。

この頃からムッソリーニは社会党の政治活動に専念するようになったが、全面的に社会党の路線を支持しているわけではなかった。元々ムッソリーニは少年期から多様な思想を学んでいたことから教条的な政治家ではなく、積極的に他の思想を取り込んでいく政治的シンクレティズムを志向する政治家となっていた。一例を挙げれば反平等主義的な選民主義を説いたフリードリヒ・ニーチェから選民主義と反キリスト思想の影響を受けている。ニーチェの選民思想は明らかに社会主義の一般的な理念から離れており、ニーチェに理解を示すムッソリーニは社会主義者にとって異端の存在であった。ムッソリーニは(社会主義の一派である)マルクス主義の決定論や社会民主主義の改良主義の挫折によって社会主義全体が道を失い始めていると感じており、ニーチェの思想による社会主義の補強を試みた。また先に述べたように、ソレル主義に代表される革命的サンディカリスムにも接近していた。

ムッソリーニは社会党指導部が掲げる社会民主主義に基づいた議会制民主主義には、特に明確な反対姿勢を持っていた。党内穏健派の下院議員レオニーダ・ヴィッソラーティ(英語版)が政権関与の代償に共和制移行を棚上げする行動に出たことでその不信は決定的となった。ムッソリーニはヴィッソラーティの解任を求める論説を『ラ・ロッタ・ディ・クラッセ』に掲載して、要求が拒否されるとフォルリ党支部の党員を率いて離党した。党指導部に急進派を切り崩されたために追随する支部は現れず、孤立する結果となってしまったムッソリーニ派を救ったのがイタリア・トルコ戦争であった。

1911年に勃発したイタリア・トルコ戦争に対しては、右派も左派も政府との協力体制を望んで植民地戦争に好意的な姿勢を採っていた。そうした中で、ムッソリーニのみが不毛な植民地戦争から腐敗した国内体制の打倒に転じさせるべきだという主張を貫き、政府との協調路線に傾斜する指導部に不満を持っていた社会党員内での再評価に繋がっていった。ムッソリーニは民族主義に肯定的だったが、今の政府は戦争を使って内政から目を逸らさせようとしているに過ぎないと見抜いていた。『ラ・ロッタ・ディ・クラッセ』における論説でナショナリストは海外ではなくまず祖国を征服すべきだと訴え、「プーリアに水を、南部に正義を、あらゆる場所に読み書きを」と主張した。政府からの監視と投獄にも臆さずに批判を続け、反政府運動と指導部批判で再び頭角を現した。

党指導部は勢い付いた反対派を抑えるべく、ムッソリーニとフォルリ党支部の党籍復帰を認めて反政府運動に舵を切った。党内での社会民主主義者や改良主義者といった穏健派は主導権を失い、急進派が党内で力を付けていった。その立役者であるムッソリーニは未だ30歳にもなっていなかったが、レッジョ・エミリアで開かれたイタリア社会党の第13回全国党大会では急進派の指導者として演説し、完全に党員の心を掌握した。周到な利害調整で中立派の幹部党員もムッソリーニ支持に動き、党大会で改良主義の追放を求める動議が多数の支持を受けて可決され、ヴィッソラーティやイヴァノエ・ボノーミら党指導部の改良主義者は立場を失って離党した。党大会後は南イタリア各地を訪問し、経済的格差に苦しむ南部の救済を重要な政治的テーマとするようになった。

1912年12月1日、ムッソリーニは刷新された党指導部から改良主義派であった下院議員クラウディオ・トレヴィス(英語版)に代わり、党中央の日刊紙であり最大の機関誌である『アヴァンティ』編集長に任命された。『アヴァンティ』編集長は党全体の政策決定について意見する権利もあり、党指導部の一員となったに等しかった。大衆運動において議会より宣伝を重んじていたムッソリーニは、編集長着任から2年足らずで『アヴァンティ』の発行部数を2万部から10万部にまで急増させた。『アヴァンティ』紙面では社会民主主義ではなく革命的サンディカリスムの論調が展開され、急進派による党の改革を推し進めていった。党を掌握した若手政治家に古参幹部の間では嫉妬や危険視する意見が上がり、改良主義派はもちろん、当初は協力していたアンジェリカ・バラバーノフら革命派からもムッソリーニを抑えようとする動きが出始めた。

1913年5月、革命サンディカリスト系のイタリア労働組合連合(USI)(イタリア語版)によるゼネストを支持し、逆に社会党系の中央組合組織を紙面で非難して穏健派から反党行為で解任決議が出されたが、一般党員の激しい反発で決議は取り下げざるを得なくなった。加えて初めての男子普通選挙である1913年イタリア総選挙(英語版)で急進派が主導する社会党が躍進し、17.6%の得票を得て第三党に躍り出たことからムッソリーニの権威は党内で不動のものとなった。ムッソリーニ自身は議会政治そのものを軽視していたことから議会選挙には大して熱意を払わず、当選が確実であったミラノ選挙区の補欠選挙に出馬を請われると亡命中であった父の盟友チプリアニを代わりに推薦して実質的に拒否している。彼はあくまでも多数の合議ではなく、少数の政治的エリートが指導する体制でしか理想社会の建設はありえないという姿勢を崩さなかった。

1914年、帝国主義的な利害衝突の果てに第一次世界大戦が勃発した際、各国の社会主義者は祖国の戦争遂行に必ずしも反対しなかった。そればかりか幾つかの組織は戦争への参加を歓迎すらした。一部の社会主義者の間では愛国心や自国社会の防衛などから、他国に対する戦争に賛同する動きが展開された(社会愛国主義、社会帝国主義)。ドイツ、フランス、イギリス、ロシア、オーストリア・ハンガリーで高まる国家主義の流れに加わるこうした社会主義者たちが現れていた。イタリアでは熱狂的な民族主義者である詩人ガブリエーレ・ダンヌンツィオがイレデンティズムを掲げて参戦運動の先頭に立ち、自由主義政党のイタリア自由党がダンテ・アリギエーリ協会と共に参戦運動を行っていた。また戦争を賛美する未来派の詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティは国際行動参戦ファッショを組織したが、これは政治用語としてファッショ(結束)というスローガンが用いられた最初の例となった。

その中でイタリア社会党を中心とする社会主義系の諸派は参戦主義と平和主義に分かれて対立した状態に陥っていたが、主流派でありムッソリーニが属する社会党は開戦前夜に戦争反対を議決してゼネストと暴動を決行した(赤色の一週間)。ムッソリーニは戦争が民族意識を高めると好意的に見ていたが、国力や軍備に不足があると考えていたこともあり、党幹部として一旦はこの決定に従った。サンディカリスト、共産主義者、共和主義者、アナーキストまで全ての革新勢力が社会党に助力したこの暴動は軍によって鎮圧された。イタリア社会党には腐敗した旧体制を一変させる組織力や気概がないという懸念が証明されてしまい、ムッソリーニも暴動は混沌を生んだだけだと指摘している。

同年の夏に大戦が始まるとイタリアは局外中立を宣言した。左派内では革命的なサンディカリストの勢力が革命行動ファッショ(英語版)を結成して積極的に参戦を訴えたが、イタリア社会党は社会愛国主義の広がりによって欧州で挫折しつつあった国際主義と反戦主義を未だに主張していた。1914年10月18日、ムッソリーニは社会党の路線を見限って『アヴァンティ!』に参戦を主張する長文論説「絶対的中立から積極的効果的中立へ!」を発表、党内で持論を説き始めた。

ムッソリーニはオーストリアやハプスブルク王朝との戦いをイタリアの宿命とする国家主義・民族主義者の主張を支持し、ハプスブルク家(およびホーエンツォレルン家)を中心とする中央同盟を「反動的集団」として糾弾することで社会主義者の参戦運動を正当化した。ムッソリーニを含めたイタリアの反教権的社会主義者にとってはバチカンが親オーストリア=ハンガリー帝国であるという通念もあった。また封建的なハプスブルク家やホーエンツォレルン家、更にはオスマン帝国のスルタン制を崩壊せしめることは異国の労働者階級を解放することに繋がり、国際主義的にも社会主義を前進させられると主張した。連合国にも封建的なロシア帝国のロマノフ家が含まれているという反論には、「戦争による動員が君主制への権威を削ぎ落し、同地の社会主義革命を後押しするだろう」と返答している。

10月20日の党中央委員会で論説の否決に対して『アヴァンティ!』編集長を辞任した。11月18日、独自に社会主義日刊紙『イル・ポポロ・ディターリア(イタリア語版)』を発行して協商国側への参戦熱を高めるキャンペーンを展開した。同紙は発行部数8万部に達した。資金源には様々な噂や中傷が飛び交い、ボローニャの日刊紙イル・レスト・デル・カリーノ(イタリア語版)編集長フィリッポ・ナルディ(イタリア語版)や、ゼネラル・エレクトリック、フィアット、アンサルディといった大資本、さらにはイタリアへの参戦工作を行っていたフランス・イギリス政府からの資金援助、そして当時の外相アントニーノ・カステロ (サン・ジュリアーノ侯爵)(イタリア語版)からの援助があったと見られている。11月24日、イタリア社会党はムッソリーニに除名処分を行った。

参戦論への転向はしばしば「経済的理由」「栄達への野心」などが理由であると批判的に語られるが、実際には戦争を革命(現体制の転覆)に転化するというこれまで通りの思想のためであったと歴史家レンツォ・ディ・フェリーチェ(イタリア語版)は指摘している。そもそもムッソリーニは最初から民族主義者にして参戦論者であり、現実的な軍備や外交を見て反対していたに過ぎない。日和見主義という批判はムッソリーニの離党後の混乱に危機感を抱いた社会党指導部の中傷による部分が大きいと考えられている。事実、ムッソリーニ除名前の1914年には5万8326名が存在した社会党員はたった2年後には半数以下の2万7918名にまで急減している。これは祖国の戦争について「支持も妨害もせず」という空虚なスローガンで乗り切ろうとした社会党に不満を持っていったのはムッソリーニだけではなかったことを示している。

もしイタリア社会党が社会愛国主義を掲げて参戦論を主導すれば政権を得ていた可能性すらあった。レーニンが指摘するようにイタリア社会党は革命を起こす機会を自ら捨ててしまった。

社会党除名後もムッソリーニは基本的な政治的立場は革新主義であるという立場を維持し、先述の「革命行動ファッショ(英語版)」という「革命」という言葉を冠した組織(ファッシという言葉は社会党時代にも使っていた)に加わって参戦運動を展開した。これが戦後に設立された「イタリア戦闘者ファッシ」の土台となる。社会党指導部の誹謗中傷に対してもムッソリーニは毅然と対決姿勢を見せ、時にはフェンシングによる決闘という古風な方法で対峙したことすらあった。その一人は因縁のあるクラウヴィオ・トレヴィスで、『アヴァンティ』編集長に復帰して『イル・ポポロ・ディターリア(イタリア語版)』と激しい論戦を繰り広げた末のことだった。死人が出かねない勢いでの両者の切り合いとなり、途中で仲裁が入って引き分けとなった。

1915年5月24日、イタリアが秘密協定に基づいて連合国側で参戦すると、ムッソリーニは他の参戦論者たちの例(参戦論者の多くは持論の責任を果たすため、積極的に従軍した)に習い、徴兵を待たず陸軍へ志願入隊しようとした。政治経歴に加えて年齢が三十代前半になっていたことから入隊審査は長引いたが、この戦争が総力戦であるとの認識が広がると軍も思想や年齢を問うことはなくなり、1915年8月31日に念願の召集令状を受け取った。より年上の参戦論者ではダンヌンツィオが52歳、かつての政敵で参戦論についてはムッソリーニに同調していたヴィッソラーティが58歳という高齢でそれぞれ従軍を許可されている。師範学校出身者は士官教育を受ける権利があったが、過激な思想を警戒するアントニオ・サランドラ首相の判断で認められなかった。

1915年9月3日、かつての兵役時代と同じくベルサリエリ兵として第11狙撃兵連隊第33大隊に配属され、厳寒のアルプスで塹壕戦や山岳戦を経験した。1915年11月15日、パラチフスを患ってベルガモの軍事病院へ後送されたが、翌月には前線へ戻った。ムッソリーニは絶え間なく続く戦闘と砲撃の中で過ごし、前線の山岳戦闘や塹壕戦で勇敢な戦いぶりを示した。1916年3月、伍長に昇進してイソンヅォ戦線の南部に移動して斥候部隊に異動し、砲撃や機関銃の銃火を掻い潜りながら敵部隊の偵察任務に従事した。1917年2月、軍曹に昇進。上官の推薦状において「彼の昇進を推薦する理由は軍における手本とするべき行動――勇敢な戦い、落ち着き払った態度、苦痛に対する我慢強さ、軍務に対する熱意と秩序ある行動を見せたことによる」と称賛されている。過酷な塹壕戦が各国の兵士たちに連帯感を持たせ、思想や立場を超えて愛国心や民族主義が高まりを見せた。イタリアでは退役兵たちが全体主義を牽引した「塹壕貴族」(トリンチェロ・クラツィーア)の母体となった。

1917年2月23日、ムッソリーニは塹壕内で起きた榴散弾の爆発事故で重傷を負った。周りにいた兵士が死亡していることを考えれば奇跡的な生存であったが、ムッソリーニの全身には摘出できない40の砲弾の破片が残り、後遺症の神経痛に悩まされることになった。負傷中の病院には国王ヴィットーリオ・エマヌエーレが訪問しており、これが後の主君と宰相の最初の出会いとなった。共和主義者であるムッソリーニと不愛想で知られていた国王の会話は当初淡々としたものであった。見かねた軍医が間に入って治療の際にムッソリーニが麻酔を拒否して痛みに耐えたというエピソードを教えると、初めて国王は柔らかい笑みを浮かべて「健康になることを祈っている。イタリアには君のような人物が必要だ」とねぎらい、ムッソリーニも「有難うございます」と素直に答えている。退院後は前線復帰を望んだものの、片足に障害が残ったことから一年間の傷病休暇を命じられた。

傷病兵としてミラノに滞在している間は『イル・ポポロ・ディターリア(イタリア語版)』の運営に戻り、チェコ軍団についての記事を執筆している。

60万名以上の戦死者を出す熾烈な戦いの末、イタリア王国は戦勝国の地位とトレンティーノ、南チロル(アルト・アーディジェ)、ヴェネツィア・ジュリア、イストリア半島の併合を勝ち取った。しかし国民はスラブ系とイタリア系住民が混淆したダルマチアの併合が民族自決論の前に阻まれたことを「骨抜きにされた勝利(イタリア語版)」と感じ、自国政府や旧協商国への批判を強めていた。また英仏のような賠償金を獲得できず、大戦による戦費の浪費によって訪れた不況は労働者の間で社会主義の台頭を後押しした。ムッソリーニは戦勝で民族主義が高まる一方、社会不安が広がる情勢に危機感を抱いていた。1917年、ムッソリーニは参戦運動以来の繋がりがあったイギリス政府から初代テンプルウッド子爵サミュエル・ホーア(英語版)を通じ、政界進出に向けた資金援助を受け始めた。政治活動においてムッソリーニは「祖国に栄光を与える、精力的で断固たる態度を持った人物」の登場が必要だと説いた。

ムッソリーニは主流派の社会主義に幻滅しており、後に「思想としての社会主義は既に死に絶え、悪意としての社会主義のみが残っていた」と回想している。大戦後のイタリア社会党は国内情勢の不安定化やロシア革命の影響などから旧来の議会主義を軽視して、農村地帯での地主や資産家に対する暴動や略奪を指導したり、社会党系の労働組合に参加しない者を集団で排斥するなど政治的に先鋭化して反対勢力と武力衝突を繰り返していた。それでいて旧来の議会民主主義と改良主義を掲げる穏健派の離党を防ぐために革命や抜本的改革への意欲自体は乏しいという優柔不断な組織になっていた。後に社会党急進派から分派してイタリア共産党を結党するパルミーロ・トリアッティが「新しい社会への一歩ではなく、ただの無意味な暴力行使だと人々に受け取られている」と厳しい指摘を行っている。

1919年3月23日、自身と同じ復員軍人や旧参戦論者を中心とする新たな政党「イタリア戦闘者ファッシ」(Fasci italiani di combattimento、FIC)を設立し、200名が参加した(300名との説もある)。創設メンバーは左翼的色彩が強かったが、支持基盤は先の農村地帯で社会党と対峙していた小地主(自作農)の保守派だった。中流階級である小地主たちは大戦に応召された時に下士官や将校などを勤めていた場合が多く、大戦中に率いていた退役兵たちを呼び寄せて自発的な自衛組織を作っていた。やがて退役兵でも特に勇猛を知られていたアルディーティ兵たちの黒シャツの軍服が共通の服装とされた。こうした農村部における自衛組織は「行動隊(イタリア語版)」として戦闘者ファッシに組み込まれ、運動の実力行使を担う準軍事組織として影響力を持った。

同年、FICを通じて開始されたファシズム運動の説明として、ファシスト・マニフェスト(ファシストについての宣言)を出版した。この宣言が出された初期段階のファシズムは国家サンディカリズム(国家組合主義)とフューチャリズム(未来派)の強い影響を受け、社会問題の解決を階級闘争ではなく階級協調に求める部分に特徴があった。幻滅を感じつつあった社会主義の「良い点」を取り込む姿勢もあり、ヴィルフレド・パレートの影響を受けるなど習合的な政治運動であった。ほかにアルディーティ兵のアナキスト的な価値観も行動隊(イタリア語版)を中心に継承されている。共和主義的な観点からは王権の縮小、上院の廃止、女性参政権、政教分離などを主張した。古典思想ではプラトンの「国家」が挙げられ、一党独裁による寡頭支配についての理論的根拠となった。

こうした諸思想の中で最も多大な影響を与えたのは革命的なサンディカリストであったジョルジュ・ソレルの思想である。ムッソリーニはソレルを「ファシズムの精神的な父」と呼び、ソヴィエト連邦のヨシフ・スターリンと共に哀悼の意を表明している。

対外的な主張としては旧来のイレデンティズムを拡張した、生存圏理論の一種として地中海沿岸部の統合を目指す不可欠の領域(イタリア語版)が唱えられた。ムッソリーニは資源に乏しいイタリアが不完全な大国から完全な大国となり、また膨大な失業者を救うには新規領土の獲得以外に方法はないと考えていた。イタリア民族にとっての父祖となるラテン人が作り上げた「ローマ帝国」を引き合いに出し、ヴェネツィア・ジュリアを筆頭とした地中海世界を今日の帝国(イタリア植民地帝国)が再統合する大義名分とした。「不可欠の領域(イタリア語版)」に基づいた同化政策は政権獲得直後の1920年代、新規編入されたイストリアのスロベニア系住民と南チロルのオーストリア系住民に対して最初期にイタリア化(英語版)政策として実施された。

ムッソリーニによるファシズム運動は革新的であり、保守的でもあった。こうした古典的な分類に収まらない政治運動を右派・左派ではなく第三の道(今日的な意味での第三の道とは異なる)と呼称する動きが存在した。

イタリア戦闘者ファッシによるファシズム運動が開始されたが、当初ムッソリーニは創設者ながら積極的に組織運営に関与せず、部下に実務を任せていた。1919年11月16日、設立年の年末に1919年イタリア総選挙(英語版)が実施されたが、この時点ではまだ農村部の運動を十分に取り込んでおらず支持者は北イタリア、それもミラノなど都市部に限られていた。同年の選挙ではイタリア社会党とキリスト教民主主義を掲げて結党されたイタリア人民党の競り合いに注目が集まり、「戦闘者ファッシ」は特に存在感を示せず、当選者は現れなかった。集まった創設メンバーの90%が2、3年で脱退し、党内の左派勢力が退潮していった。ムッソリーニ自身も党内右派の主張に舵を切り、政治主張から反教権主義を取り下げるなどの修正を加えた。ただし後述するように、ムッソリーニ個人は社会主義者時代から晩年まで一貫してキリスト教を蔑視していた。また党内左派の主張を完全に捨てたわけではなかった。農村地帯の小作人による農地占拠に続いて都市部でも「工場占拠闘争」が始まると、ストライキより過激なこの労働運動に条件付きながら協力を表明している。

また選挙の結果は全てムッソリーニとファシズム運動にとって不利な訳ではなかった。保守派と革新派という違いはあっても人民主義を掲げ、サヴォイア家によるリソルジメントを否定する二つの党の躍進は、伝統的に政治を主導してきた自由主義右派・左派に著しい危機感を覚えさせた。このことはサヴォイア家や長老政治家たちがファシスト運動に力を貸そうとする動きを作り出した。第一党となった社会党は反教権主義からカトリック教会を後ろ盾とする人民党と連立が組めず、自由主義右派・左派とも妥協できずに最大政党ながら議会内で孤立して政権を獲得できなかった。また穏健派中心の議会勢力が拡大したことに急進派の反発も強まり、最大綱領派と呼ばれる最左翼勢力が離党してイタリア共産党を結成、パルミーロ・トリアッティ、アントニオ・グラムシ、ニコラ・ボムバッチらが参加した。残された社会党の穏健派(改良主義者)でも資本家と労働者の協力を説いたジャコモ・マッテオッティら最右派勢力が第三インターナショナルの批判を受けて除名され、統一社会党を結党して独自活動を始めた。こうして社会主義の大同団結から始まった旧イタリア社会党はマルクス・レーニン主義、社会民主主義、改良主義、ファシズムの潮流に分かれて衰退した。

1919年9月、国政の混乱に乗じてガブリエーレ・ダンヌンツィオがフィウーメ自治政府(現リエカ)での伊仏両軍の武力衝突を背景に自治政府を転覆させる事件を起こした(カルナーロ=イタリア執政府)。ダンヌンツィオが本国政府を動かすべく首都ローマへ執政府軍を進軍する動きを見せると、ムッソリーニは反乱を支持して戦闘者ファッシを戦力提供する密約を結び、『イル・ポポロ・ディターリア(イタリア語版)』で呼び掛けて集めた義捐金300万リラを提供した。しかしダンヌンツィオはムッソリーニとカリスマ的な民族主義の指導者という点では似通っていたが微妙に思想上の信念が異なり、盟友というより政敵という側面の方が強かった。政務面でも「政治は芸術である」を持論とするダンヌンツィオは長期的視野を全く持たず、その反乱は勢いを失えば無力であることをムッソリーニは知っており、ダンヌンツィオから催促の手紙が届くまでフィウーメでの会談には応じなかった。

1920年6月、長老政治家の筆頭であるジョヴァンニ・ジョリッティ元首相が再び政府首班となると、富裕層攻撃の政策や社会党への懐柔工作によって農民や工場労働者の占拠闘争を終焉させた。続いて国際社会との関係改善に乗り出すべくユーゴスラビアとイタリアの間でフィウーメ自由都市化を定めたラパッロ条約を締結したが、この際にムッソリーニ率いるイタリア戦闘者ファッシは条約締結を一転して支持し、ダンヌンツィオ派を裏切る形となった。これ以外にも執政府内で条約を巡って対立が相次ぎ、足並みが揃わない状況を好機と見たジョリッティは軍による強制排除に乗り出し、12月24日の総攻撃でカルナーロ=イタリア執政府は崩壊した。ムッソリーニは最初からジョリッティ政権と内通しており、ジョリッティとの協力を通じてダンヌンツィオ派を国粋運動から排除しつつ、政府内への人脈を得るというマキャベリズム的な権謀術数であった。以降、ダンヌンツィオ派の国粋運動はファシズム運動の一翼という形で吸収されて消滅し、権威を失ったダンヌンツィオは二度と政界の主導権を握れなかった。

都市部の組織が政権との結びつきを深める一方、農村部では先述の自作農による民兵組織をイタリア戦闘者ファッシの行動隊(イタリア語版)として取り込み、組織立った形で社会党や小作人の農地改革を求める動きに対抗させていった。大規模農業が中心であり、故に小作人の支持を得る社会党が地盤としていたエミリア・ロマーニャ州などポー川流域では特に激しい衝突が繰り返された。行動隊による「懲罰遠征」と称したテロが繰り返され、徐々に社会党組織の党勢は退潮していった。1920年11月、州都ロマーニャで社会党から選出された市長の就任式に銃で武装した行動隊が突入し、多数の死者が発生している。仲裁する立場にある警察は社会党の反警察活動が仇となり行動隊を支持してむしろ協力する姿勢を見せていた。ポー川流域での勢力拡大を受けて、他の地域でもファシズム運動を支持する動きが広がり、ムッソリーニの政治的権威は益々高まっていった。

「我々と共に勝つか、共に死ぬか以外の救いは存在しないことをドゥーチェは完璧に理解している」(ヨーゼフ・ゲッベルス、東部戦線についての独伊首脳会談を見て)

「不服従によって彼に対する忠誠を示すこともあり、それが彼(ムッソリーニ)の美点をさらに大きくする。私は自分の忠誠を常にそう考えていた。」(ディーノ・グランディ、戦後の回想録において)

「別れの挨拶は丁寧なものだった。そのことで私は非常に満足していた。というのは私はムッソリーニが好きだった、大好きだったからで、彼と会えなくなるのは非常に辛い事だと思ったからだ」(ガレアッツォ・チャーノ、日記に書かれた最後の記述より)

(イタリア社会党がムッソリーニを除名した際)「これでイタリア社会党は革命を起こす能力を失った」「あの男を追放するなんて君らはバカだ」(ウラジーミル・レーニン)

「多くの人々がそうであったように、私はあれほどの危険や重荷を背負いながら、彼の礼儀正しく飾り気のない物腰や、落ち着いていて冷静な態度に魅了されずにはいられなかった」(ウィンストン・チャーチル)

「祖国の発展を望む、私欲のない政治家である」(マハトマ・ガンディー)。

「ムッソリーニによってローマの歴史は今も継続されている」(文学者フランソワ・モーリアック)。

「ナポレオンほどの威信はないが、フランスのためにナポレオンが行ったことをイタリアのためにやっている」(文学者ジョージ・バーナード・ショー)

聖アヌンツィアータ勲章

聖マウリッツィオ・ラザロ勲章大十字騎士章

サヴォイア軍事勲章大十字騎士章

イタリア王冠勲章大十字騎士章(英語版)

イタリア植民勲章大十字騎士章(英語版)

ローマ・アクィラ勲章大十字騎士章(英語版)

サント・パトローニ・ディタリア勲章(イタリア語版)

スカンデルベグ勲章大十字騎士章(英語版)

ベサ勲章大十字騎士章(英語版)

グエーラ・メリット十字章(イタリア語版)

協商国軍戦勝メダル(イタリア語版)

対オーストリア従軍メダル(イタリア語版)

リソルジメント記念メダル(イタリア語版)

ローマ進軍記念メダル(イタリア語版)

国家義勇軍記念メダル(イタリア語版)

ダイヤモンド付ドイツ金鷲大十字勲章(ナチスドイツ)

大勲位菊花大綬章(日本)

バス勲章大十字騎士章(イギリス)

聖墳墓騎士団勲章大十字騎士章(英語版)(ヴァチカン)

ピウス9世勲章(ヴァチカン)

マルタ騎士団勲章(マルタ騎士団)

白鷹勲章(英語版)(ポーランド)

熾天使勲章(英語版)(スウェーデン)

塔と剣の騎士団勲章(英語版)(ポルトガル)

ラーチュプレーシス勲章(英語版)(ラトビア)

南十字星勲章(ブラジル)

ルーマニア星勲章(英語版)(ルーマニア)

ソロモン勲章(エチオピア)

『永遠の都(英語版)』(1923年) - 本人の映像が使用されている。

『独裁者』(ジャック・オーキー演。チャールズ・チャップリン監督、1940年) - オーキー演じるベンツィーニ・ナパロニはムッソリーニがモデル。

『ブラック・シャツ/独裁者ムッソリーニを狙え!』(ロッド・スタイガー演。カルロ・リッツァーニ監督、1974年)

『砂漠のライオン』(ロッド・スタイガー演。ムスタファ・アッカド監督、1981年)

『ムッソリーニと私』(ボブ・ホスキンス演。アルベルト・ネグリン監督、テレビ映画、1983年)

『クラレッタ・ペタッチの伝説』(Fernando Briamo演。パスクァーレ・スキティエリ監督、1984年)

『ムッソリーニ/愛と闘争の日々』(ジョージ・C・スコット演。ウィリアム・A・グレアム監督、テレビ映画、1985年)

『ムッソリーニとお茶を』(クラウディオ・スパダロ演。フランコ・ゼフィレッリ監督、1998年)

『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』(フィリッポ・ティーミ演。マルコ・ベロッキオ監督、2009年)

『帰ってきたムッソリーニ』(マッシモ・ポポリツィオ演。ルカ・ミニエロ(イタリア語版)監督、2018年)

『ギレルモ・デル・トロのピノッキオ』(トム・ケニー演。ギレルモ・デル・トロ、マーク・グスタフソン監督、アニメ映画、2022年)

『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(ディノ・スピネラ演。NHK、2019年)

出典:『"ファシスト"ムッソリーニは日本で如何に描かれたか : 表現文化における政治的「英雄」像』

『戯曲 ムツソリーニ』(前田河慶一郎作、『改造』1928年新年号(新年号創作特別附録))

『レヴュウ イタリヤーナ』(岸田辰禰作・演出及振付、白井鐵造振付補、竹内平吉作曲、宝塚少女歌劇宝塚大劇場雪組公演、1928年)

『現代劇世界の偉傑 ムッソリーニ』(坪内士行作・演出監督、宝塚少女歌劇中劇場公演、1928年)

『ムソリーニ』(沼田蔵六作、京都座公演、1928年)

『ムツソリニ』(小山内薫作、市川左團次(2代目)主演、明治座公演、1928年)

^ 独裁開始はムッソリーニが同職を創設・就任した上で、ムッソリーニ内閣で複数の大臣職(空軍大臣・植民地大臣・内務大臣等)を兼務する体制を確立した1925年12月24日以降とみなされている。

^ 正確には「大臣による会議(内閣)の議長」を意味する閣僚評議会議長(President of the Council of Ministers)を便宜的に「首相」としている。

^ ドゥーチェと同じく日本語における定訳はない。英語では「head of government , prime minister and secretary of state」とされ、直訳すれば「政府の長たる首席の大臣及び国務長官」といった形になる。ただしイタリアでは伝統的に「prime minister」(首相、首席の宰相)という訳語に当てはまる役職自体は存在しない。

^ 修道会は小学四年生から五年生への進級は認めず退学処分を決定するが、母ローザの懇願と学年が終わりに近いことから、「五年生への進級は認めるが来年度以降の当校への入学を認めない」とした。

^ ムッソリーニはオーストリア・ハンガリー軍400万名のうち、70万名も投入すれば敵側は持久戦に持ち込めるだろうと考えていた。これは参戦後のアルプス山脈での山岳戦を踏まえればある程度は正確な判断といえた。

^ 社会党は都市部のプロレタリアートを、人民党は農村部の農民を支持基盤としていた。どちらも貴族や資本家など既得権益を攻撃する人民主義的なイデオロギーを掲げて支持を得ていた。

^ 社会党は貴族主導の統一戦争を、階級制度を肯定する封建主義の欺瞞とした。人民党はローマ教皇を頂点としたカトリック教会が結党に協力しており、実質的にローマ教皇庁の政治部門であった。教皇領廃止を認めないカトリック教会はイタリア統一を成し遂げたヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を破門とし、その統一国家の王位も認めないなど対決姿勢を続けていた。

^ イタリア社会党は労働者に対して、警察官の家族に商品を売らないように指導したり、警察官の妻や母を「売春婦」などと機関紙で中傷するなどの行為を繰り返していた。

^ 1925年、国家統領職を新設。

^ 1922年、財務大臣と統合。

^ 1923年廃止。

^ 1924年廃止。

^ ファシスト党員による突発的犯行説のほか、マッテオッティはムッソリーニと同じくマフィア批判でも知られ、マフィア暗殺説も指摘されている。

^ この立てこもりに対する貴族 (パトリキ) と平民 (プレブス) の妥協として、護民官の官職が新設された。

^ イタリア王国の国父・ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は王妃マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナを通じてハプスブルク=ロートリンゲン家と親族関係にあった。最後のオーストリア皇妃ツィタ・フォン・ブルボン=パルマも旧パルマ公爵家の出身でイタリアとの縁は深く、その弟ルイジ・ディ・ボルボーネ=パルマはサヴォイア家の王女マリーア・フランチェスカ・ディ・サヴォイアと婚姻していた。

^ ダンヌンツィオも散々にイーデンを扱き下ろし、イーデンがファッションに拘りのあったことを皮肉って「仕立て屋と帽子屋に作られた新米大臣」「偽善が服を纏っている」と嘲笑している。

^ ビーヴァーはヨアヒム・フォン・リッベントロップを通じてヒトラー側は連絡しており、チャーノ外相が報告を怠ったとしている。

^ ヒトラーはイタリア王国軍の緒戦における軍事的挫折を批判する周囲に対して、「ラインラント進駐、オーストリア併合、チェコスロバキア分割を我々が行えたのは彼ら(イタリア)に負っている。」「イタリアはフランス侵攻でもアルプスに敵戦力を分散させ、今イギリス海軍の矢面に立っているのも彼らだ」「イタリアとムッソリーニを支援し、守るために余はあらゆる手段を尽くすつもりだ」と語っている。

^ 正確には黒色のサファリジャケットと半ズボン

^ イーデンに外相職を譲った後は駐西大使に転じていた

^ イタリアに約100万名、アルバニアとユーゴスラビアに約60万名、ギリシャや南仏などに約28万名

^ ケファロニア島に駐屯していた第33歩兵師団『アックイ』が制空権・制海権を失った状態でドイツ軍と戦うことを選び、独第1山岳師団に300~1200名の戦死者が発生したことへの報復として、ヒトラーの特別命令に基づいてアントニオ・ガンディン師団長を含めた5000名の捕虜を処刑した事件。戦後にドイツ側の責任者であったフーベルト・ランツ将軍が戦争犯罪で起訴され、有罪とされた。この事件を描いたのが「コレリ大尉のマンドリン」である

^ 当初ヒトラーはファシズムを大きく掲げた「イタリア・ファシスト共和国」(Repubblica Fascista Italiana、RFI)という国名を提案したが、「社会」(Sociale ソチアーレ)という名称を入れたいというムッソリーニの意見で変更された

^ 対照的に妻ラケーレはヒトラーと同じく敵に容赦がなかった。妻の家族を裏切ったチャーノについて娘エッダを突き放し、夫にも躊躇う必要はないと助言している。

^ ドイツのティムール・ヴェルメシュが書いた風刺小説「帰ってきたヒトラー」(原題:Er ist wieder da)を元に製作された。

^ “【連日配信・田中康夫&浅田彰の2022国際情勢回顧】ヨーロッパ「現実主義」から「ファシズム」への転換という絶望《憂国呆談 第6回 Part4》(田中康夫×浅田 彰) @gendai_biz”. 現代ビジネス (2022年12月29日). 2024年1月19日閲覧。 “ファッシってのは束、ファシズムはいわば結束主義で、国民共同体の一致結束を目指す。”

^ ムッソリーニ首相、エチオピア併合宣言『東京朝日新聞』昭和11年5月7日夕刊

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木村裕主『ムッソリーニ ファシズム序説』 清水書院〈人と思想〉、新装版2015年。新書版

木村裕主『ムッソリーニを逮捕せよ』、『ムッソリーニの処刑』、講談社文庫で再刊、1993‐95年。

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ジョルジュ・ソレル『暴力論 (上・下)』 今村仁司、塚原史訳、岩波文庫(新訳版)、2007年 (上巻)ISBN 978-4003413814、(下巻)ISBN 978-4003413821

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山崎充彦「15. "ファシスト"ムッソリーニは日本で如何に描かれたか : 表現文化における政治的「英雄」」『龍谷大学国際センター研究年報』第15巻、龍谷大学、2006年、201-226頁、NAID 110005859311。 

桐生尚武「ファシズムの危機(一九二三年-二四年)」『明治大学教養論集』第15巻、明治大学教養論集刊行会、1982年、1-36頁。 

光富省吾「ヘミングウェイとムッソリーニ(1)」『福岡大學人文論叢』第35巻第4号、福岡大學、2004年、1659-1680頁、NAID 110000327692。 

村上信一郎「ムッソリーニの転向と反教権主義」『イタリア学会誌』第25巻、イタリア学会、1977年、88-104頁、NAID 110002959142。 

岡倉登志、北川勝彦「第2章 日本とエチオピア」『日本 - アフリカ交流史――明治期から第二次世界大戦まで』(初版発行)同文館、東京、1993年10月15日、29-61頁。ISBN 4-495-85911-0。 

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古川哲史 著「第44章 「第二の満洲事変」をめぐって――第二次イタリア-エチオピア戦争」、岡倉登志 編『エチオピアを知るための50章』(初版第1刷)明石書店、東京〈エリア・スタディーズ68〉、2007年12月25日、307-312頁。ISBN 978-4-7503-2682-5。 

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There is an essay on "The Doctrine of Fascism" written by Benito Mussolini that appeared in the 1932 edition of the Enciclopedia Italiana, and excerpts can be read at Doctrine of Fascism. There are also links to the complete text.

La Mia Vita ("My Life"), Mussolini's autobiography written upon request of the American Ambassador in Rome (Child). Mussolini, at first not interested, decided to dictate the story of his life to Arnaldo Mussolini, his brother. The story covers the period up to 1929, includes Mussolini's personal thoughts on Italian politics and the reasons that motivated his new revolutionary idea. It covers the march on Rome and the beginning of the dictatorship and includes some of his most famous speeches in the Italian Parliament (Oct 1924, Jan 1925).

Vita di Arnaldo (Life of Arnaldo), Milano, Il Popolo d'Italia, 1932.

Scritti e discorsi di Benito Mussolini (Writings and Discourses of Mussolini), 12 volumes, Milano, Hoepli, 1934?1940.

Parlo con Bruno (Talks with Bruno), Milano, Il Popolo d'Italia, 1941.

Storia di un anno. Il tempo del bastone e della carota (History of a Year), Milano, Mondadori, 1944.

From 1951 to 1962, Edoardo and Duilio Susmel worked for the publisher "La Fenice" to produce Opera Omnia (the complete works) of Mussolini in 35 volumes.

    ムッソリーニ内閣

    ベニート・ムッソリーニの死

    エウル

    フォロ・イタリコ

    チネチッタ

    ジョルジュ・ソレル

    ガブリエーレ・ダンヌンツィオ

    『ムッソリーニ』 - コトバンク

    ドゥーチェ

    ファシスト・マニフェスト

    イタリア・ファシズム

    不可欠の領域(英語版)

    経済政策(英語版)

    人種政策(英語版)

    ファシスト・プロパガンダ(英語版)

    男らしさのモデル(英語版)

    鋼鉄協約

    ローマ進軍

    ムッソリーニ政権

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    帝国の創設

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    イタリア内戦(英語版)

    1924年総選挙(英語版)

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    1934年総選挙(英語版)

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    イタリア戦闘者ファッシ (1919-1921)

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    イーダ・ダルセル (妻)

    マルゲリータ・サルファッティ(英語版) (愛人)

    エッダ・ムッソリーニ (娘)

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    ブルーノ・ムッソリーニ(英語版) (息子)

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    ロマーノ・フロリアーニ・ムッソリーニ (曾孫)

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Benito Mussolini


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高木 美保(たかぎ みほ)
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高木 美保(たかぎ みほ、1962年7月29日 - )は、日本の女優、コメンテーター、エッセイスト、農業従事者、タレント。東京都葛飾区出身、千葉県松戸市育ち。和洋女子大学中退。 1983年、新聞で芸…

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ベニー=ゴルソン(Benny Golson)
1929年1月25日生まれの有名人 出身

ベニー・ゴルソン(Benny Golson、1929年1月25日 - 2024年9月21日)は、アメリカのジャズ・サクソフォーン奏者ならびに作曲家・編曲家である。作曲した代表曲に「ファイヴ・スポット・…

カール=マリア=ケルトベニー(Karl Maria Kertbeny)
1824年2月28日生まれの有名人 出身

2月28日生まれwiki情報なし(2024/11/19 05:56時点)

チェスター=ベニントン(Chester Bennington)
1976年3月20日生まれの有名人 出身

2017年7月20日(2017-07-20)(41歳没) チェスター・ベニントン(Chester Bennington、1976年3月20日 - 2017年7月20日)は、アメリカ合衆国の歌手。 …


ベニ=モントレゾール(Beni Montresor)
1926年3月31日生まれの有名人 出身

ベニ・モントレゾール(Beni Montresor, 1926年3月31日 - 2001年10月11日)は、多方面に活躍したイタリアの芸術家で、オペラ演出家、映画監督、舞台美術家、美術デザイナー、衣裳…

アネット=ベニング(Annette Bening)
1958年5月29日生まれの有名人 出身

アネット・ベニング(英: Annette Bening, 本名: Annette Carol Bening, 1958年5月29日 - )は、アメリカ合衆国の女優。5度のアカデミー賞ノミネート…

ベニー=グッドマン(Benny Goodman)
1909年5月30日生まれの有名人 出身

ベニー・グッドマン(Benny Goodman、本名:ベンジャミン・デイヴィッド・グッドマン(Benjamin David Goodman)、1909年5月30日 - 1986年6月13日)は、アメリ…

レオ=フロベニウス(Leo Viktor Frobenius)
1873年6月29日生まれの有名人 出身

6月29日生まれwiki情報なし(2024/11/16 02:41時点)

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ベニート=ムッソリーニ
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