マモル=マヌーの情報(まもるまぬー) ミュージシャン 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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マモル=マヌーさんについて調べます
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マモル=マヌーの情報まとめ
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マモル=マヌー(まもる まぬー)さんの誕生日は1949年6月3日です。山口出身のミュージシャンのようです。
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エピソード、ディスコグラフィなどについてまとめました。ドラマ、脱退に関する情報もありますね。71歳で亡くなられているようです。
マモル=マヌーのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)マモル・マヌー(Mamoru Manu、1949年6月3日 - 2020年9月1日)は、日本のドラマー、ボーカリスト。本名は三枝 守(さえぐさ まもる)。山口県出身、横浜育ち。 1949年6月3日、山口県で誕生し、すぐに横浜に移る。 子供の頃から米軍キャンプに出入りし、バンドのボーカリストとして活動を始める。 デイヴ平尾の誘いにより、「平尾時宗とグループ・アンド・アイ(後のザ・ゴールデン・カップス)」を結成、1967年6月、「いとしのジザベル」でデビュー。3枚目のシングル「長い髪の少女」で初めてソロ・パートを担当して以降、その凛々しく甘いルックスでアイドル的な人気を博し、ゴールデン・カップスの活動を支えた。 1969年12月31日を以ってゴールデン・カップスを脱退。かねてから作曲家・鈴木邦彦に熱望され、1970年9月、ソロ・シンガーとして「雨の街」でデビュー。その後は三枝マモル、ゆうき剛名義でシングルを9枚とアルバムを2枚発売するものの成功へは至らなかった。 1975年以降は宝石鑑定師の資格を取得しサンフランシスコと蒲田で宝石に携わる仕事を続けていた。 1988年、ミッキー吉野、デイヴ平尾、アイ高野らと共に、「タイガース・メモリアル・クラブバンド」に参加。 2003年、ザ・ゴールデン・カップス再結成。主にボーカルを担当し、音楽番組への出演やライブハウスでの活動を続けていた。 2020年9月1日、心筋梗塞のために逝去した。71歳没。 エピソードゴールデン・カップスが「メンバー全員がハーフ」という架空の設定で売り出されたため、ハワイ出身の叔父の姓「マヌー」を拝借して「マモル・マヌー」と名乗った。 ディスコグラフィ全てリバティ・レコード(東芝音楽工業 → 東芝EMI)からリリース。 シングル1〜4:マモル・マヌー名義、5・6:三枝マモル名義、7〜9:ゆうき剛名義。
1971年6月25日発売のシングル「サンゴ礁の娘」は、同1971年に尾崎紀世彦のアルバム『尾崎紀世彦アルバムNo.4』、1972年に坂本スミ子のアルバム『ゴールデン・アルバム 女と言う名の汽車』、1975年に郷ひろみのアルバム『ひろみの旅』、同1975年には城みちるのシングルとしてカバーされている。 アルバムSIDE A 雨の街
今日でお別れ
流れ川ブルース
希望
今は二人
明日は明日の風が吹く
SIDE B 愛と死の世界
ガラスの部屋
雪が降る
霧の摩周湖
燃えつきた涙
もう一度人生を
SIDE A 長い髪の少女
黒い海
水の流れのように
夜明けのハイウェイ
サンゴ礁の娘
もう一度人生を
SIDE B 赤い傘
雨の街
一人
昨日の街ヨコハマ
心の扉
心がさむい
長い髪の少女〜ソロ・コレクション 1970-1974(2020年11月25日/GRCL-6082) 2024/06/13 18:34更新
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mamoru manu
マモル=マヌーと同じ誕生日6月3日生まれ、同じ山口出身の人
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