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ミカ=ハッキネンの情報 (MikaHakkinen)
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【6月28日】今日誕生日の芸能人・有名人

ミカ=ハッキネンの情報(MikaHakkinen) レーシングドライバー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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ミカ=ハッキネンさんについて調べます

■名前・氏名
ミカ=ハッキネン
(読み:Mika Hakkinen)
■職業
レーシングドライバー
■ミカ=ハッキネンの誕生日・生年月日
1968年9月28日 (年齢55歳)
申年(さる年)、天秤座(てんびん座)
■出身地・都道府県
不明

(昭和43年)1968年生まれの人の年齢早見表

ミカ=ハッキネンと同じ1968年生まれの有名人・芸能人

ミカ=ハッキネンと同じ9月28日生まれの有名人・芸能人

ミカ=ハッキネンと同じ出身地の人


ミカ=ハッキネンの情報まとめ

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ミカ=ハッキネン(Mika Hakkinen)さんの誕生日は1968年9月28日です。

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F1、F1引退後などについてまとめました。引退、現在、家族、父親、母親、テレビ、事故に関する情報もありますね。ミカ=ハッキネンの現在の年齢は55歳のようです。

ミカ=ハッキネンのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

ミカ・パウリ・ハッキネン(Mika Pauli Häkkinen, 1968年9月28日 - )は、フィンランド出身の元レーシング・ドライバー。1998年と1999年を2年連続でF1ワールドチャンピオンになり、フライング・フィンと形容されていた。

その走りと人柄の良さで多くのファンに愛され、『AS+F』の人気投票では1992年からF1を引退する2001年まで、10年連続で1位を獲得したほどの人気があり、“北欧の貴公子”,“白夜の国の王子様”とも呼ばれていた。7度の世界チャンピオンであるミハエル・シューマッハはハッキネンを「最強の敵であり、最高に尊敬できるライバル」と認めている。

現在、メルセデス・ベンツとジョニー・ウォーカーのキャンペーン活動の他に、エーシズ・マネージメント・グループ社に加わりドライバー・マネージメント業として、若手ドライバーの発掘と養成にも携わっている。

フィンランド・ヘルシンキ市近郊のヴァンター市で、短波無線通信士の父ハリーと、秘書である母アイラの長男として生誕。家族は他に姉ニーナがいる。6歳のとき、父親が勤めるヘルシンキ・ラジオ局に行った際、近くのケイモラ・サーキット(英語版)を見学したが、そこでカートに乗りたいと言いだし、たちまち夢中になりその才能を磨いていった。ハッキネンがカートを続けていくレース資金の捻出のため、父親が本業の他にパートタイムでタクシー運転手も務め、手書きの企画書を作成しスポンサーを探した。母親も毛皮競売会社での倉庫管理とスーパーマーケットのレジ打ちを掛け持ちして行なっていた。

ハッキネンは1981年にF-ミニクラス国内チャンピオンを獲得し、1982年にはロニー・ピーターソンメモリアル選手権のチャンピオンになった。そして1983年から1986年まで、4年連続でFNクラス国内チャンピオンに輝いた。1984年にはフランスのラヴァルで開催されたカート世界選手権でミハエル・シューマッハと初対決している。ハッキネンがフィンランド国内のみで走っていたのとは対照的に、シューマッハはすでにヨーロッパ各国で走っていたのでシューマッハのほうがカート界で有名であった。シューマッハはこのレースに優勝したが、ハッキネンはスタートが悪く、燃料系のトラブルを抱えており、3番手を走行中にイタリアのロベルト・コルチアゴと接触し、スピンした。このレースにはのちにCARTでトップレーサーとして活躍するポール・トレーシーも出場していた。1986年末、それまでのハッキネンの活躍に注目したAKK(英語版)(フィンランド・モータースポーツ協会)の会長が、懇意にしており、スポーツエージェント企業「ユーロ・プロモーション」を設立していた1982年F1ワールドチャンピオンのケケ・ロズベルグに「すごく速い少年がいるから彼のことを頼む」とマネージメントを依頼した。自らの目でもハッキネンの才能を確認したロズベルグは、以後ハッキネンがF1から引退するまで長く支援した。

1987年にフィンランド・スウェーデン・スカンジナビアのフォーミュラ・フォード1600の3シリーズで全てチャンピオンを獲得すると、同年のオフにドニントン・パークで行われたマールボロ・ドライバー・オーディションで合格しマールボロからのサポートを獲得。1988年からイギリスへと活動拠点を移し、ドラゴン・モータースポーツに所属してGM・ロータス・シリーズとオペル・ロータス・ユーロシリーズでそれぞれチャンピオンを獲得した。

ドラゴン・モータースポーツからイギリス・フォーミュラ3選手権へステップアップし参戦。チーム(レイナード・トヨタ)の戦闘力に問題があったため、ハッキネンの1年目は決して順調ではなく、選手権7位であった。しかし、ウェストサリー・レーシング(WSR)から出走しシリーズチャンピオンになったアラン・マクニッシュが、チームスポンサーのマールボロからの褒美と、急遽F1参戦が決定したJJ・レートの代役としてパシフィック・レーシングから国際F3000最終戦に参戦する事になったために、F3チャンピオンチームであるWSRのシートに空きが生じた。ハッキネンは同じマールボロからのサポートを受けていたことから最終戦前にWSRへ移籍、初めてドライブするラルト・無限でいきなりF3初優勝を飾った。この好結果により、ハッキネンは1990年シーズンの契約をWSRと交わすこととなった。

1月24日、シルバーストーン・サーキットで初めてF1マシンを体験。ベネトンから招待されB188を走らせたハッキネンは、レギュラードライバーアレッサンドロ・ナニーニより速いタイムを叩き出し、注目された。

全17戦のイギリスF3選手権では、同国人であるミカ・サロとの激しい争いになり、"ミカ・ミカ対決"と呼ばれ、話題となった。開幕戦はハッキネンが制し、第2戦をサロと勝ち星を分け合う展開だったが、再びハッキネンが2連勝した直後にサロが3連勝。中盤からはハッキネンが5連勝と圧倒的強さで差を広げる。最終的にはハッキネンは9勝をあげ、イギリスF3チャンピオンとなった。ジャッキー・スチュワートはイギリス人が活躍しない同選手権に対して「ハッキネンとサロをイギリスから追い出してしまえ」とぼやいていた。イギリスF3のほかドイツやイタリアのF3選手権にも遠征して完勝し、実力的にF3ではほぼ敵なしの状態にあった。イギリスF3チャンピオン獲得でハッキネンは初めて明確に「たぶん、F1も手が届かないわけじゃないぞと思えた」と語っている。

11月にはF3の世界王者決定戦ともいえるマカオGPに参戦。予選ではアイルトン・セナが7年間保持していたコースレコードの2分22秒02をあっさり破り、2分20秒88でポールポジションを獲得した。予選2位にはドイツF3チャンピオンのミハエル・シューマッハが入った。

決勝レースは、第1レグと第2レグの結果を総合して順位が決まる。第1レグでは圧倒的なタイム差でハッキネンが優勝し、2位にシューマッハが入賞した。続く第2レグでハッキネンは、シューマッハにわずかながら先行される。レース中に予選より速い2分20秒81というタイムをマークしていたハッキネンは、このレースでシューマッハに次ぐ2位でも、ハッキネンは第1レグのタイム差から総合優勝できるはずであった。しかし、ハッキネンは最終ラップでトップを走るシューマッハを抜きにかかる。シューマッハはラインを変えてブロックし、両者は接触した。ハッキネンはガードレールに激突しリタイアとなったが、シューマッハはリアウィングを失いながらもそのまま走り続け、第2レグを優勝。結果、総合優勝はシューマッハが獲得した。レースの直後、シューマッハがハッキネンのガレージにやってきて「すまなかった。君が後ろにいるなんて見えなかったんだ」と謝ったが、ヨーロッパに戻ってからシューマッハはテレビ出演し、接触のことを聞かれると「ミカのことは見えていたよ。だから、ブロックしたんだ。あの状況では、僕は勝つために当然のことをしたと思うよ」と答えた。

シューマッハは翌週に富士スピードウェイで行われた「インターナショナルF3リーグ」でも優勝してマカオGPから連勝を飾る一方、ハッキネンは予選からエンジントラブルに見舞われ、選抜レースでクラッシュに巻き込まれて敗退した。

なお、10月30日には翌年に備えてF3000マシンのローラ・T90/50無限ホンダをブガッティ・サーキットでのテスト走行で体験している。これは翌1991年を見据えてマールボロがメインスポンサーをしていたDAMSチームとテスト走行の契約を結び、DAMSのルネ・アルヌーとアラン・マクニッシュからのレクチャーを受けながらF3000を体験するというものだったが、ハッキネンは「ひどいマシンだった。狭くてステアリングもまともに切れない。馬鹿げていて危ないと思った」との感想を持ち、「以前にベネトン(B188)を少し走らせてF1マシンのシャープなフィーリングを知っていたし、F3000マシンの感触には失望しかなかったのでまっすぐF1に行けるならその方がいいと思えた」というハッキネンの話を聞いたロズベルグは、ハッキネンを国際F3000選手権にステップアップさせる予定を変更する。この冬に深刻な資金難に陥り、ドライバー・エンジン・チーフデザイナーという核となる要素を失い存続危機が報じられていたF1チーム・ロータスのマネージャーピーター・コリンズと接触。ロータスが参戦続行できるか不透明な時期だったが、この空きシートをロズベルグはハッキネンのために確保した。

F1

ロータス時代

1991年、ロータス・ジャッドからF1デビューを果たす。当時、予選は30台エントリーで走り、決勝26台枠に絞り込むルールであったが、ハッキネンはデビュー戦アメリカGPで予選13位に入った。決勝レースでは市街地コースの路面ギャップにより跳ねた右太ももがステアリング解除レバーに当たってしまい時速230km以上でステアリングが外れるという珍しいトラブルに見舞われたが、ピットで修復後そのまま走り続けた。60周目にオイルユニオンの破損でリタイアとなったが、ゴール後のアラン・プロストから声を掛けられ「コーナーのライン取りがなかなか良いね」と褒められたことがかなり嬉しかったと自身のコラムで記している。このシーズンのロータスは、前年までのタイトルスポンサーであるキャメルを失い、代わりのメインスポンサーはみつからず、資金難で運営していた。基本設計が2年前から変わっていない旧式のマシン「102B」にハッキネンは乗っていたが、雨のためサバイバルレースとなった第3戦サンマリノGPでは予選25位から5位入賞を果たし、F1初ポイントを獲得した。

しかし、運営資金が乏しく思うようにテスト走行が行えないロータスではシーズン中の戦闘力アップも無く、第5戦カナダGPからの新チームメイトジョニー・ハーバート(同年のル・マン24時間レース覇者)と共に予選落ちも経験するなど中団から下位でのレースが最終戦まで続いた。サンマリノGPで獲得した2ポイントによりドライバーズランキング15位となり、ティレル・ホンダの中嶋悟とブラバム・ヤマハのマーティン・ブランドルと同点であった。

後年のインタビューにて「現実はこの年のロータスで優勝なんて絶対に無理だけど、開幕戦からずっと、どうして自分はポールポジションじゃないんだろう? どうして優勝できないんだろうと真剣に悩んだ。若すぎた僕は宇宙に放り出されて迷子になった気分だった。F1が恐ろしく難しい世界だと思った」と述懐している。

1992年は、搭載エンジンがジャッドからフォードHB・V8に変わり前年に比べるとマシンの性能は大幅に向上。ハーバートとのコンビも公私共によい関係で、お互い良い成績を収めることができた。シーズン序盤はすでに3年落ちになっていた旧車102Dを駆り、第2戦メキシコGPで6位に入賞した。第5戦サンマリノGPから、開幕戦で先にポイントを獲得していたハーバートのみにニューマシンロータス・107が与えられ、ハッキネンは第6戦モナコGPから同マシンを与えられた。クリス・マーフィーがデザインした107はセミアクティブサスペンションを搭載していた。実際にはアクティブサスのスイッチは切っていることが多かったといわれるが、ハンドリングは良好であった。

特に第12戦ベルギーGPでは、エンジンパワーがトップチームより劣っているにもかかわらず、スタート直後のオー・ルージュからラディオン、ケメルストレートの高速区間でフェラーリのジャン・アレジ、ベネトンのミハエル・シューマッハなどワークスエンジン勢と横一線に並び、それぞれのマシンの底から火花が飛ぶサイドバイサイドのバトルを行った。さらにレース終盤にはマクラーレンのアイルトン・セナと5位争いの最中、ケメルストレートでセナを抑えきり、最終的にはマシンの戦闘力の差から、ファイナルラップに再びマシンの底から火花を飛ばしながらサイドバイサイドで抵抗したもののセナに抜かれ6位に終わったが、ハッキネンの評価は高まった。1992年の全16戦中6度の入賞(最高位は4位2回)を記録して11ポイントを獲得し、ドライバーズランキング8位で終了。コンストラクターランキングでもロータスを5位に浮上させた。しかし依然としてロータスの経営状態は不安定であり、マシン開発やテスト走行も満足に行えない状態が続き、ハッキネンはロータスの将来に不安を抱いていく。

そんな中、フランク・ウィリアムズはハッキネンを高く評価していた一人であった。1993年のシートについては夏にロズベルグがロータスとの交渉を完了させており、9月の第13戦イタリアGPで翌年のロータス残留は発表済であったが、ウィリアムズは幾度となくロータスの監督であるピーター・コリンズに契約の譲渡を持ちかけたとされる。同年のチャンピオンチームであるウィリアムズは、先に契約が発表されていたアラン・プロストのNo.2としてまだ表彰台経験がないハッキネンに白羽の矢を立て交渉をし、奥の手としてコリンズが「契約譲渡金」13億円を要求し、これを支払えばウィリアムズが獲得していいと提案。ハッキネンのマネージャー、ロズベルグが両者の折り合いをつける交渉を進めウィリアムズ移籍が内定したはずであった。ところが、フランク・ウィリアムズは1993年シーズンのエントリー締切日を失念し、過ぎてしまった為にウィリアムズが参戦するには他の全チームの再承認が必要となった。ここでハッキネンを取り戻そうと画策したピーター・コリンズはこれを認めなかった為、ウィリアムズはこの再承認と引き換えにハッキネンを諦めることとなる。こうしてロータス残留かと思われたが、この騒動の隙にマクラーレンのロン・デニスがハッキネン側と交渉。結局マクラーレンと契約した。

マクラーレン時代

1993年のマクラーレン・ドライバーのひとりは、前年のうちにアメリカからマイケル・アンドレッティの加入が決定していたが、ハッキネンがチームに加入した時点でアイルトン・セナが残留するかどうかは不確定であった。しかしセナは残留し、ハッキネンはテストドライバーとしてシーズンを過ごすこととなる。その憂さを晴らすようにF1の前座レースとして開催されていたポルシェスーパーカップにポルシェ・964カレラ2で参戦し、格の違う速さで2戦2勝した。またMP4/8のテストだけでなく、6月にマクラーレン製のアクティブサスペンションをフットワーク・無限が購入。その車に装着されたマクラーレン製品の動きを確認するため、ハッキネンがテストドライバー業務として2日間フットワーク・FA14に乗り効果点検作業をするなどの任務も担当した。

そして9月のイタリアGPを最後に、レギュラードライバーのアンドレッティが成績不振とヨーロッパのレース環境に馴染めなかったことからアメリカに帰国することとなった。後任としてハッキネンがレースシートに座ることになり、第14戦ポルトガルGPから実戦復帰した。復帰初戦にいきなりエースのセナを予選で上回り、強烈な印象を与えた。そして第15戦日本GPでは3位に入り、F1での初表彰台に立った。

1994年はセナがウィリアムズ・ルノーへ移籍し、代わってハッキネンがマクラーレンのエースとして期待されたが、前半戦でプジョーエンジンの性能や信頼性に悩まされたことが、終盤まで響いたシーズンとなった。

エンジンを前年のフォード・コスワースからワークス待遇のプジョーへと乗せ換えたMP4/9はドライバビリティが悪いマシンであった。ハッキネンはチャンピオンシップ争いを繰り広げるウィリアムズ・ベネトンや後半戦から戦闘力を上げてきたフェラーリに対して、苦戦を強いられることとなる。シーズン前半戦は、プジョーエンジンの信頼性が低く、トラブルが多発した。特に第5戦スペインGPでは完走していれば優勝の可能性もあったが、トップ走行中にエンジンブローでリタイア。第9戦ドイツGPでは、多重クラッシュを招いたとして1戦出場停止となった。第11戦ベルギーGP以降は2位1回、3位3回と4戦連続入賞し、徐々にエンジンの信頼性は向上したが、結果的にはドライバーズランキング4位で終わった。

これまでマクラーレンは、提携エンジンメーカーを1992年にホンダ、1993年にフォード・コスワースと変更し、マシンの戦闘力を上げるのに苦労してきた為、プジョーとも複数年契約を結んでいた。しかし、そのプジョーとの契約をこのシーズンのみで打ち切り、翌年はイルモアが開発するメルセデス・ベンツへと4回目のエンジン変更をすることが決まったため、ハッキネンは、また一からエンジン開発をし直していく事となった。

1995年は、メルセデスエンジンと試行錯誤しながらマシンを仕上げるシーズンとなった。

チームメイトにベテランのマーク・ブランデルとかつてのワールドチャンピオンナイジェル・マンセルを迎えたが、予選でハッキネンはどちらに対しても上回る速さをみせた。しかし、エンジンとのマッチングに苦労していたMP4/10は、MP4/10B、MP4/10Cとモディファイされるほど、改善に追われたマシンであった。その為、メカニカルトラブルが続き、ようやく第12戦イタリアGPで2位入賞したが、これは同シーズン3回目の完走及び入賞であった。第15戦パシフィックGPでは虫垂炎のため、欠場。復帰した第16戦日本GPでは2位入賞を果たした。

しかし、最終戦オーストラリアGPの予選で、タイヤのパンクが原因でコンクリートウォールに激突。衝撃で舌を噛み切ってしまうなど選手生命を左右する瀕死の重傷を負い、ハッキネンは1か月半の入院。辛いシーズンを最悪の形で終えることとなる。

前年のモナコGP予選で頭部に深刻なダメージを負ったカール・ヴェンドリンガーに続くこの事故を受け、当時ザウバーが自主的に採用するに留まっていたコクピットのサイドプロテクターを義務化するレギュレーションが、翌シーズンから導入された。

1996年は、選手生命を危ぶんだ周囲に対し、自らの実力を示すことで復帰への杞憂を見事に払拭した。

1月のテストをウィリアムズから移籍してきたデビッド・クルサードと、前年末からアドバイザー兼テストドライバーになっていたアラン・プロストが進めていた。ハッキネンは2月に戻ってきて3か月半ぶりにドライブし、いきなりフェラーリのミハエル・シューマッハを凌ぐタイムを叩き出した。前半戦はMP4/11のハンドリングに悩まされたが、第6戦モナコGPで使用したツイスティなサーキット専用のショートホイールベース仕様のMP4/11Bのハンドリングが良かったことから第10戦イギリスGP以降、MP4/11Bで走り始めた。メルセデスエンジンの信頼性も向上し、成績もそれまで以上に安定し、シーズン終了時には完走13回、表彰台4回、予選でもクルサードに対して12勝4敗と上回った。

このシーズンをもってマクラーレンは、23年間メインスポンサーだったマールボロとの関係が終了。この訣別により、同シーズンで契約を終了するハッキネンがマールボロの後押しでフェラーリへ、代わりにウィリアムズを離脱することが決まっていたデイモン・ヒルがマクラーレンに加入するという移籍話も出ていたが、結局第15戦ポルトガルGPでマクラーレンはハッキネンの残留を発表した。

1997年は、チームがインペリアル・タバコグループのレームツマ社と契約して、ドイツ向けたばこブランドであるウェスト(West)をタイトルスポンサーとして新たな出発をしたが、ハッキネンはMP4-12の信頼性に苦しめられた。

トップ走行中の第9戦イギリスGPでは残り7周でエンジンブロー。第13戦イタリアGPでは参戦92戦目で初のファステストラップ(FL)を獲得して、続く第14戦オーストリアGPではフロントローからスタートしてトップを奪ったが、わずか1周でエンジントラブル。次の第15戦ルクセンブルクGPでも初のポールポジション(PP)を獲得し、スタートからトップを走行したものの、再びエンジントラブルでリタイア。ハッキネンは度重なる優勝の機会を失ってきた。しかし、最終戦ヨーロッパGPで最終ラップでこの年の王者となるジャック・ヴィルヌーヴを交わし念願の初優勝を果たし、シーズンラストレースを有終の美で飾った。F1参戦99戦目(出走95戦目)での初優勝はティエリー・ブーツェンの参戦96戦(出走95戦)を上回る、当時としては最遅の初優勝記録であった。

ポイントランキングではチームメイトのデビッド・クルサードに及ばなかったが、予選では17戦中11戦でクルサードを上回った。今宮純は「純粋なドライビング・パフォーマンスではハッキネンのほうがクルサードより上」と評価し、川井一仁は自身が選ぶ「'97 BEST 10 DRIVERS.」でフェラーリのミハエル・シューマッハを1位、ハッキネンを「幾度なく勝利を落としながらも『また次があるさ』と気持ちの切り換えができたのは、自分の速さを疑っていなかったのだろう。シーズン中盤以降の予選順位の平均は3.5番手までという抜群の速さがあり、本来なら3~4勝あげてもおかしくなかった」という理由で2位、ワールドチャンピオンになったウィリアムズのジャック・ヴィルヌーヴを3位とした。

1998年は、シーズン序盤からMP4-13で順調にポイントを重ねていった。

開幕戦オーストラリアGP、第2戦ブラジルGP、第5戦スペインGP、第6戦モナコGPの4勝はPP,FLも獲得したハットトリックの完璧な勝利であった。一方、フェラーリのミハエル・シューマッハは、F300とグッドイヤータイヤの進化、エディ・アーバインのサポート、そしてロス・ブラウンの卓越した戦略を結集させ、ハッキネンと争っていく。こうした後押しがシューマッハを、第9戦イギリスGP終了時点でハッキネンに対し、2ポイントの差まで近づけた。

だが、ハッキネンは第10戦オーストリアGPでシューマッハとのバトルを制し、第11戦ドイツGPと連勝した。シューマッハも負けじと第12戦ハンガリーGPと第14戦イタリアGPで勝ち、ふたりは一進一退の激しいチャンピオン争いを繰り広げる。そして、イタリアGP終了時点でハッキネンとシューマッハが同ポイントで並ぶ展開となる。続く第15戦ルクセンブルクGPではシューマッハにポールポジションを奪われるも、フェラーリ陣営のお株を奪う作戦で逆転勝利、チャンピオン争いの主導権を奪い返した。

その勢いを保持したまま、最終戦日本GPでも完璧な走りを見せ、見事に初のワールドチャンピオンを獲得した。グッドイヤータイヤを装着するフェラーリと、ブリヂストンタイヤを装着するマクラーレンが熾烈な争いを繰り広げたが、ブリヂストンにとって初のドライバーズタイトルとコンストラクターズタイトルを獲得した年でもあった。

1999年は、予選ではPP11回と速さをみせたが、決勝では5勝にとどまった。MP4-14の信頼性不足と、チーム戦略・作業のミスに苦しめられたシーズンであった。

MP4-14のメカニカルトラブルは、開幕戦オーストラリアGPでスロットルリンケージの異常によるリタイア、第4戦モナコGPではステアリング異常でコースアウトし順位を落とし、第8戦イギリスGPでは左リアホイール脱落と第10戦ドイツGPでは給油リグの故障とタイヤバーストで、共にリタイアと足を引っ張られた。第2戦ブラジルGPは勝利したものの、4周目で突然ギアが4速に入らなくなるトラブルも発生している。

またフェラーリがイギリスGP迄はミハエル・シューマッハ(シューマッハはこのレースの事故で足を骨折し、チャンピオン争いから脱落)、第9戦オーストリアGPからエディ・アーバインと、明確な序列を設けていたのに対し、マクラーレンではハッキネンとクルサードに対して第14戦ヨーロッパGPまでは特にチームオーダーを出さない姿勢であった。結果的にオーストリアGPと第12戦ベルギーGPで両者接触を招き、アーバインにポイントを献上することとなった。

ハッキネンも第3戦サンマリノGPと第13戦イタリアGPでリタイアしたが、サンマリノGPではトップ走行中の18周目に入る直前、右回りの最終コーナーで、前後の左側タイヤを縁石に乗せた瞬間、アウト側(左側)にスピンし、MP4-14の左前方からコンクリートウォールにクラッシュした。当初ハッキネンは「自分のミス」と答えていたが、後日ビデオを見て「スピン状態に入るときには、コーナーのイン側に巻き込む形でスピンするのが通常なのに、イモラの場合はアウト側へスピンした。芝生にタイヤを落としたわけではないのに理解しがたい」と発言し、このリタイアはデファレンシャルのトラブルとも報じられた。また、イタリアGPはトップ走行中の33周目、1コーナー進入時にハーフスピンしてグラベルに填まったが、原因はミッショントラブルと伝えられている。リタイア後、泣き崩れる姿が上空から撮影されている。

最終戦日本GP直前のインタビューでシーズンを振り返り「今年のベストレースは、カナダGP(第6戦)とフランスGP(第7戦)ぐらいだ」と答えている。カナダGPでは荒れたレースを制してポイントで首位に立ち、フランスGPは14位スタートから、他マシンを次々とオーバーテイクし、2位に入賞したレースであった。

最終戦日本GPではアーバインに4ポイント差を付けられていたが、逆転優勝して2年連続でドライバーズタイトルを獲得した。連続タイトル獲得はアルベルト・アスカリ、ファン・マヌエル・ファンジオ、ジャック・ブラバム、アラン・プロスト、アイルトン・セナ、シューマッハに続いて史上7人目のことであった。

2000年も、1999年と同様にシーズン序盤からつまずく展開となった。

ハッキネンのMP4-15は、開幕戦オーストラリアGPはエンジンのニューマチックバルブが壊れ、第2戦ブラジルGPではエンジンの油圧トラブルで連続リタイアに見舞われた。両レース共にトップ走行中の出来事であった。第3戦サンマリノGPでは2位入賞したものの、走行中に一瞬エンジンストールが発生するトラブルに悩まされながらであった。一方、フェラーリのミハエル・シューマッハは順調にポイントを重ね、第8戦カナダGP終了時にはハッキネンに対して、24ポイントの差をつけていた。しかし、ハッキネンは勝ちに行けない時には2位を、それを狙えないピンチに追い込まれれば、第7戦モナコGP6位、第8戦カナダGP4位が証明するようにFLを樹立しながら、1ポイントでも取ろうと疾走を重ね、サンマリノGPから第14戦イタリアGPまで12戦連続入賞して、シューマッハを追い上げた。

第6戦ヨーロッパGPではチームの戦略とピット作業ミスに足を引っ張られ、グリッドが重要なモナコGPでは予選のアタック全てに黄旗が振られるという不運に見舞われ、5番グリッドからのスタート後、ブレーキやギヤボックスにトラブルを抱えた苦しいレースを耐えて完走した。カナダGPから使用されたリアディフューザーがハッキネンのドライビングにマッチせず、第9戦フランスGP終了後、エイドリアン・ニューウェイらと対策を講じていた。そして、レースの合間に行なうテストやプロモーション活動はハッキネンを疲れさせていた。ロン・デニスが「もっと早く対処すべきだった」と認め、ようやく第10戦オーストリアGP前に1週間の休暇を取った。

その効果もあり、オーストリアGPはポールトゥーウィン。第12戦ハンガリーGPで逆転を果たし、ポイントリーダーとなった。第13戦ベルギーGPでもシューマッハと熾烈な争いを繰り広げ、ケメルストレートエンドにて「20世紀最高のオーバーテイク」とも評される追い抜きで逆転し連勝した。2ポイントリードで迎えた第15戦アメリカGPでは、序盤こそシューマッハに16秒差をつけられていたが、ハッキネンは10周の間にシューマッハとの差を4秒までに縮める追い上げをした。しかし、26周目にエンジンブローでリタイア。シューマッハはこのレースで勝ち、ハッキネンは逆に8ポイントリードされることになった。

メルセデス・ベンツエンジンを製作するイルモアのマリオ・イリエンは「私たちは鈴鹿ではなく、インディアナポリスでタイトルを失ったといえるだろう。保証するが、ハッキネンは本当に最強だ」と語るほど、残り2戦でこのポイント差は大きかった。ハッキネンはあきらめずに挑戦し続けたが、ファン・マヌエル・ファンジオ以来の3年連続ワールドチャンピオンへの夢は潰えた。シーズン中は何度も引退の噂がささやかれ、タイトルを獲得したら引退するつもりであったことも告白している。なお、年間のファステストラップ回数で、当時では最多の9回を記録した。

2001年は、度重なるMP4-16のトラブルでリタイアを重ね、チャンピオンシップ争いから脱落するシーズンとなった。

開幕戦オーストラリアGPでは2位走行中の25周目に右フロントサスペンションアームが突然折れてタイヤバリアに激しくクラッシュした。ロン・デニスは「作戦上、ハッキネンが勝てたレース」と語っているが、後にハッキネンはこの事故引退について再び考えたと吐露している。開幕戦を3年連続リタイアで始まり、第7戦モナコGPでは15周目にトランスミッションの破損で離脱。第3戦ブラジルGPでクラッチ、第6戦オーストリアGPでローンチコントロール、第10戦フランスGPでギアボックスと、この3つのグランプリは決勝スタート直後に1周も走れずにリタイアした。そして第5戦スペインGPは2位に大差をつけながら最終ラップでリタイヤし、悔やんでも悔やみきれないものとなった。

第10戦フランスGP終了時には、2戦に1戦の割合をマシントラブルでリタイアしていたが、これでは信頼性の高いF2001に乗るフェラーリのミハエル・シューマッハに対抗するのが困難となり、ハッキネンのモチベーション低下も顕著になっていた。また、レースウィークの合間に世界中を飛び回るプロモーション活動にも疲れを感じていた。これらの原因がハッキネンに引退の意思を固めさせていたといわれるが、デニスの説得もあり、第15戦イタリアGPで2002年シーズンを休養することを発表。空いたシートに新人キミ・ライコネンが大抜擢されることとなった。

ここ4年で最低なシーズンであったが、シューマッハとバトルした第11戦イギリスGPと、フリープラクティス中のペナルティで2位から4位にスタートが繰り下がったがタイヤを労わり他のドライバーよりピットストップを遅くしたワンストップ作戦の第16戦アメリカGPでそれぞれ勝利をあげ、リタイアしたスペインGPも含め、速さを示した。そして最終戦日本GPでは3位を走行していたが、ドライバーズランキング2位をチームメイトのデビッド・クルサードとフェラーリのルーベンス・バリチェロが争っていた。ハッキネンは4位にいたクルサードを自分の前に先行させ、クルサードは3位入賞を果たし、ランキング2位を獲得することができた。

結果的にこれがハッキネンのF1グランプリのラストランとなった。

ハッキネンはメルセデス・ベンツの地元であるドイツGPで正式にF1引退を発表した。その後、コメンテーターとしてF1に関わることになり、母国フィンランドのF1デジタルTVと契約を締結。アメリカGPから新たなキャリアをスタートさせた。

F1引退

2003年

ハッキネンはヨーロッパラリー選手権のイベントのひとつである北極圏ラリー(Arctic Lapland Rally)に三菱ランサーエボリューションVII(WRC2)でスポット出場。わずかな期間をテスト走行しただけで出場するも見事9位。引退直後からラリー転向の噂があったが、あくまで昔からの夢を叶えたかっただけだと否定した。

2004 - 2005年

2004年は、ジェンソン・バトンが抜けると云われていたB・A・Rとマーク・ウェバーのチームメイトを探していたウィリアムズからオファーがあり、“いよいよF1復帰か?!”とストーブリーグの話題となった。一方でメルセデス・ベンツがハッキネンをDTMに誘っていた。結局『AMG-メルセデスCクラス』からDTMへ参戦することを決め、これにより2005年以降、F1復帰する可能性は消滅した。ハッキネンは「DTMのテストに参加し、F1とは違う面白さを味わった」と参戦理由を語っている。年が開け、DTMが開幕。第2戦ユーロスピードウェイでファステストラップ(FL)を叩き出し、第3戦スパ・フランコルシャンでは初ポールポジション(PP)を獲得。決勝でもFLで初優勝を果たした。

2006 - 2007年

2006年11月30日にはバルセロナ合同テストで、2001年以来のフォーミュラ1カーをドライビングした。また、この年からDTM参戦の他、マクラーレンのスポンサーであるジョニー・ウォーカーのF1プログラム大使にも任命された。

2007年もDTMに参戦し続け人気を博し、2勝あげた。第6戦ムジェロではハッキネンは予選15番手となり、苦しいレース展開が予想されていた。決勝でも1回目のピットストップを終えた時点で、ポイント獲得も厳しい状況に追い込まれた。しかし形勢逆転のため、誰よりも早く2回目のピットインを済ませるギャンブルに出た。直後にアウディのアレックス・マルガリティスが単独クラッシュをして、事故処理によりセーフティカーが入る。この時点で規定の2回のルーティン・ピット・ストップを終えていたのはハッキネンだけだった。隊列の最後尾15位につけたが、前方のマシン14台全てが一斉にピットインしたためトップに立ち、度重なるアクシデントで走行ラインが限られていくコースの中で、追いすがるマティアス・エクストロームを僅差で振り切り、DTM通算3勝目、そしてレース人生最後の勝利を挙げた。

同年11月にドイツ・シュトゥットガルトで行われたメルセデス・ベンツの “ STARS & CARS ” 記念イベントで、2007年のシーズン終了をもってレーシングドライバーとしての全てのキャリアを終える事を正式に発表した。このイベントでは、ハッキネンがF1において自身初のドライバーズチャンピオンを獲得したMP4-13がメルセデス・ベンツ・モータースポーツからサプライズで提供され、これを駆ってパレードラップを行った。

2019年

2019年4月9日に、同年8月に開催される鈴鹿10時間耐久レースに参戦することが発表された。参戦マシンはマクラーレン・720SGT3、チームメイトは石浦宏明、久保田克昭。鈴鹿サーキットでのレースは2001年日本グランプリ以来18年ぶりとなる。レースではアクシデントに巻き込まれることなく22位で完走。「本当に素晴らしい経験になった」と語った。

2024/06/22 17:51更新

Mika Hakkinen


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