ルドルフ=カラツィオラの情報(RudolfCaracciola) レーシングドライバー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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ルドルフ=カラツィオラの情報まとめ
ルドルフ=カラツィオラ(Rudolf Caracciola)さんの誕生日は1901年1月30日です。
事故、引退、卒業、再婚、結婚、事件に関する情報もありますね。1959年に亡くなられているようです。
ルドルフ=カラツィオラのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)オットー・ヴィルヘルム・ルドルフ・カラツィオラ(Otto Wilhelm Rudolf Caracciola, 1901年1月30日 - 1959年9月28日)は、1920年代から1950年代にかけて活躍したドイツのレーシングドライバー。 マスメディアによっては、「カラチオラ」「カラッツィオラ」と表記する場合がある。1930年代のシルバーアロー時代のメルセデス・ベンツを代表するドライバーであり、1930年代にヨーロッパ・ドライバーズチャンピオンを3回(1935年、1937年、1938年)、ヨーロッパヒルクライムチャンピオンを3回(1930年、1931年、1932年)獲得したほか、1938年には公道における最高速度記録を樹立した。 カラツィオラは1930年代以前のドライバーの中で、タツィオ・ヌヴォラーリ、ベルント・ローゼマイヤーと並び称され、最高のドライバーの一人に数えられる人物である。レーシングドライバーとしてのキャリアのほとんどをメルセデスチーム(ダイムラー・ベンツの自社チーム)で走り、同チームの黄金期である1930年代のシルバーアロー時代のエースドライバーだったことで知られている。 1923年にダイムラー社のメルセデスチームに加入し、1926年の第1回ドイツグランプリで優勝して頭角を現し、以降はチームのエースドライバーとなっていった。しかし、1933年モナコグランプリで練習走行中の事故により重傷を負ってしまう(→#1933年の事故)。この事故により右足が5cmも短くなるほどの後遺症が残ってしまうが、翌1934年、この年から「シルバーアロー」となったメルセデスチームに復帰し、再び同チームのエースドライバーとして活躍する。 ヨーロッパのレースは第二次世界大戦が始まる1939年まで続き、それまでの間、5回設けられたヨーロッパ・ドライバーズ選手権の内、カラツィオラはヨーロッパチャンピオンの称号を3回獲得した。当時のヨーロッパチャンピオンの称号は、今日のF1ワールドチャンピオンの称号に匹敵するとされている。カラツィオラは第二次世界大戦後にレースに復帰したが、1952年にスポーツカーレースで起きた事故で再び重傷を負ったことでレーシングドライバーとしては引退し(→#最後のレース)、F1を走ることはなかった。 雨のレースにめっぽう強かったことから、「レーゲンマイスター」("Der Regenmeister")と呼ばれた。(→#レーゲンマイスター) そのドライビングスタイルについては、同時代の名手として知られるタツィオ・ヌヴォラーリのような激しいものではなかったが、優れたコーナリングテクニックと巧みなクルマのコントロールにより、悠然とリードしてしまうものであったようである。(→#ドライビングスタイル) ヒルクライムでも活躍し、AIACRヨーロッパヒルクライム選手権でチャンピオンタイトルを3回獲得した。 レース以外では、メルセデス・ベンツによる速度記録挑戦は全てのドライビングを任された。1938年1月28日にW125レコルトワーゲン(英語版)でアウトバーン上の最高速度記録に挑戦し、時速432.7kmを記録している(→#公道最高速度記録の樹立)。これは2017年に破られるまで、80年近くに渡って公道上の最高速度記録だった。 1901年1月30日、ドイツ帝国西部に位置するライン川沿岸の小都市レマーゲンで、同地でホテルを経営していた父オットー・マクシミリアンと母マチルデの第4子として生まれた。カラツィオラ家は17世紀初めの三十年戦争の頃にナポリからラインラントに移り住んだルーツを持ち、ドイツ人だがイタリア風の姓を持っていた。レマーゲンには祖父ヨハン・アウグスト・オットー・カラツィオラの代から暮らしており、同地でホテル業を興した祖父は町の名士の一人だった。 カラツィオラは幼少期から自動車に興味を持つ少年だった。第一次世界大戦(1914年 - 1918年)中に10代半ばのカラツィオラは当時のメルセデス車(メルセデス・ナイト)を運転する機会を得たことで、レーシングドライバーになることを決心した。 第一次世界大戦の終結後、学校を卒業したカラツィオラは、地元からもほど近いドイツ西端のアーヘンに所在するファフニール自動車工場で、整備士見習いの職に就いた。 1922年、カラツィオラはアヴスのアマチュアレースで初めて自動車レースに参加し、翌月にリュッセルスハイムで行われたレースではミゼットカークラスで優勝を経験する。しかし、翌1923年3月、カラツィオラはアーヘンを占領していた連合国のベルギー軍士官たちと乱闘騒ぎを起こしたため、アーヘンを去ることになる。そして、伝手を頼ってドイツ東部ドレスデンに移り、そこでファフニールの代理店業を始めたが、この仕事は鳴かず飛ばずのものとなる(→#自動車販売)。 ドレスデンに移って早々に草レースで頭角を現したカラツィオラは、レース仲間の伝手でシュトゥットガルトのダイムラー(Daimler-Motoren-Gesellschaft, DMG)の重役に紹介され、自身をドライバーとして雇うよう売り込んだ。ダイムラーは機会を与え、当時の同社ワークスドライバーであるクリスティアン・ヴェルナーの監督の下で、カラツィオラはトライアルを行った。その走りへの評価は上々で、まずはダイムラーのドレスデン支店で自動車販売員として雇われることが決まり、1923年6月11日にダイムラーに入社した。レーシングドライバーとしての採用ではなかったためカラツィオラは不服だったが、社員となったことで同社のレーシングカーを借りてレースに出られるようになり、参戦したほとんどのレースで優勝した。 カラツィオラは小さなツーリングカーレースやスポーツカーレース、ヒルクライムで活躍し、1924年には本社のワークスチームにも補欠のリザーブドライバーとして登録され、チームへの帯同を許されるようになった。初めてリザーブドライバーとして参加したのは1924年10月のイタリアグランプリ(英語版)で、この時にカラツィオラの世話を焼いた(当時ワークスドライバーだった)アルフレート・ノイバウアーとは後に長い関係となる。 1926年6月にダイムラーとベンツが合併したことにより「ダイムラー・ベンツ」が設立され、同車の車両には「メルセデス・ベンツ」の名が付けられた。カラツィオラもまたこの年に大きな転機を迎え、ダイムラー・ベンツのワークスチーム(自動車会社が直接運営するチーム)であるメルセデスチームのエースドライバーとして台頭していくこととなる。 ダイムラー・ベンツが設立された翌月の7月に第1回ドイツグランプリが開催される予定だったが、同日にスペインでも別のレースが開催される予定があり、ダイムラー・ベンツは輸出のことを考えスペインのレースへの参加を優先する腹づもりだった。この方針を耳にしたカラツィオラは仕事を休んでダイムラー・ベンツの本社があるシュトゥットガルトに赴き、取締役のマックス・ザイラーに掛け合い、ドイツグランプリに出場するための車を供給するよう交渉を行った。 ダイムラー・ベンツはカラツィオラの要望を聞き入れ、ワークス体制のバックアップはできないのでプライベーター(個人チーム)として参戦することを条件として、グランプリ用レーシングカーのメルセデス・M218を貸与することに同意した。こうして、カラツィオラは自身初めて「グランプリ」に出場することになる。 7月の決勝レース当日、カラツィオラはスタートでエンストを起こし、ライディングメカニックのオイゲン・ザルツァー(Eugen Salzer)とともに再始動させたものの、レース開始直後にいきなり1分以上の遅れを背負ってしまった。しかし、雨が降り始めたことで濡れた路面に足をすくわれ脱落するクルマが出始め、霧と雨で視界が奪われた中でカラツィオラは完走することだけを考えて運転を続け、20周のレースを終えてチェッカーフラッグを受けた。必死で運転していたカラツィオラは自分が何位でゴールしたのか知らなかったが、実はそのレースのファステストラップを記録しながら全員を抜き去り優勝しており、そのことにカラツィオラ自身も驚くこととなる。ドイツのメディアは雨のレースでカラツィオラが示した見事な腕前から、カラツィオラを雨の名手、「レーゲンマイスター」と呼ぶようになった。 このレース以降、カラツィオラを中心に、新たに「監督」となったアルフレート・ノイバウアーを加えたメルセデスチームが形作られていくこととなる。 1927年6月、出身地近くのアイフェル山地に建設されていた全長23km近くになる巨大なサーキットである「ニュルブルクリンク」が完成した。同月、同サーキットで最初の四輪自動車レースとなる第1回アイフェルレンネン(英語版)が開催され、メルセデス・ベンツ・Sタイプ(W06)に乗ったカラツィオラがこのレースで優勝し、ニュルブルクリンク最初のレースの勝者となる。フェルディナンド・ポルシェの手になるSタイプは強力な馬力を誇り、この年にカラツィオラが収めた11回の優勝のほとんどに貢献をした。 1928年には発展型の「SS」が開発され、同年中にSSをさらに発展させた「SSK」が開発された。カラツィオラはSSで同年のドイツグランプリ(ニュルブルクリンク)を再び制し、ヒルクライムでも1930年にSSKでヨーロッパヒルクライムチャンピオンを獲得した。 1929年4月には第1回モナコグランプリにSSKで参戦し、レース序盤にウィリアム・グローバー=ウィリアムズとトップを争ったものの、ピットストップの際に給油に4分半もかかるというトラブルがあり、この後れを取り戻すことはできず、3位に終わった。8月にイギリスのベルファストで開催されたツーリスト・トロフィー(英語版)では雨のレースを制して優勝するなど、多くのレースで優勝を重ね、カラツィオラはメルセデスチームのワークスドライバーとして1930年まで活躍を続けた。 1929年のアメリカ合衆国に端を発する世界恐慌は、1930年になるとヨーロッパにも大きな影響を及ぼすようになった。ドイツもまた大きな不況に見舞われ、ダイムラー・ベンツは1930年限りでレース活動を終了することを決定した。しかし、カラツィオラがイタリアチームに移ってしまうことを懸念したノイバウアーは同社取締役会議長のヴィルヘルム・キッセルを翻意させ、カラツィオラがプライベーターとして参戦するにあたり、賞金などはダイムラー・ベンツと折半することを条件に、小規模な支援を続けさせる約束を取り付けた。 こうして、チーム・カラツィオラが結成された。ドライバーのカラツィオラ、監督のノイバウアー、整備士3名、タイムキーパー役に妻のシャルリーがいるのみという、ごく小規模なチームだった。ノイバウアーの交渉により、車両は本来はワークスチームが使う予定で準備されていた貴重なSSKLを格安で提供された。 小規模なチームながら、カラツィオラは5月のミッレミリア、7月のドイツグランプリ(英語版)(ニュルブルクリンク)、8月の第1回アヴスレンネンをはじめとしたレースで優勝を飾る。 ミッレミリアは長距離であることから本来はコ・ドライバーと交代で運転して走るレースなのだが、カラツィオラはほぼ全行程を一人で走り、コ・ドライバーのヴィルヘルム・セバスチャンはステアリングの保持が必要な時の補助に徹した。カラツィオラとセバスチャンは、このレースで「外国人」が優勝した最初の例となった。 この年は体制に不利があったにもかかわらず、結果として、年間で11勝を挙げ、獲得した賞金を約束通りダイムラー・ベンツと分かち合うことで協力の恩に報いた。 ダイムラー・ベンツは1931年限りでレース活動を完全に終了し、カラツィオラへの支援も終了することになったため、カラツィオラはもしダイムラー・ベンツが復帰する時はまた戻ってくるということをノイバウアーに約束して、イタリアのアルファロメオ陣営に加わった。 アルファロメオはカラツィオラに「セミ・インディペンデント」(半独立)という中途半端な契約を提示し、全員イタリア人の他のワークスドライバーたちとカラツィオラを区別した。車両のカラーリングも当初カラツィオラが乗るアルファロメオはイタリアのナショナルカラーの赤ではなく、ドイツのナショナルカラーの白で塗られた。こうした扱いは、メルセデス・ベンツのSシリーズが大馬力を誇る代わりに1,500㎏を超える重量級の車体だったのに対して、アルファロメオは小馬力ではあるが車重は700㎏程度しかなく、車両の性格が大きく異なり、カラツィオラがその違いに対応することはできないと思われていたからだと推測されている。 4月のミッレミリアでアルファロメオ移籍初戦を迎え、カラツィオラは途中のローマまでは首位を走っていたが、レース後半、車両トラブルによりリタイアとなる。これについてカラツィオラは、ドイツ人が2年連続で優勝してしまわないようアルファロメオが故意にリタイアさせたのだと考えている。 続くモナコグランプリ(英語版)では、レース中盤で2位になって、首位を走っていたワークスドライバーのタツィオ・ヌヴォラーリとの差を急速に詰め、終盤の10周はヌヴォラーリの直後についたままオーバーテイクを仕掛けることはせず、ヌヴォラーリの真後ろでチェッカーを受けた。カラツィオラは「ワークスドライバーであれば」レース後半に同じチームのドライバーが1位と2位を走っているなら、順位は争わないものだという不文律があると考えていたためだったが、周囲から見ればチームオーダーの存在を思わせるものだっため、カラツィオラは観客たちから罵声と嘲りを受けることとなる。 翌月も非選手権のレースで活躍し、アヴスレンネンで2位、アイフェルレンネンで優勝し、アルファロメオからは正式にワークスドライバーとして認められ、車両も赤く塗装されるようになった。 6月にヨーロッパ・ドライバーズ選手権の第1戦となるイタリアグランプリ(英語版)が開催され、合わせて完成した新型車アルファロメオ・P3にはヌヴォラーリとジュゼッペ・カンパーリ(英語版)が乗ることになり、カラツィオラとバコーニン・ボルツァッキーニ(英語版)は引き続き旧型の8C-2300・モンツァに乗ることになった。カラツィオラは序盤でリタイアしたが、石に当たったボルツァッキーニと交代し、ボルツァッキーニの車両で3位フィニッシュを果たした。 7月のフランスグランプリ(英語版)からカラツィオラにもP3が供給される。P3はこの年のヨーロッパにおけるレースを席巻し、カラツィオラはフランスグランプリではヌヴォラーリとボルツァッキーニに次ぐ3位となり、続くドイツグランプリでは彼らを従えて優勝を果たした。 ヒルクライム選手権への挑戦も続け、前年までのメルセデス・ベンツのSシリーズが「スポーツカー」だったのに対して、この年に用いたアルファロメオは「レーシングカー」であり、カラツィオラは同選手権のレーシングカークラスでタイトルを勝ち取ることになった。 カラツィオラのアルファロメオへの移籍初年は上々の結果となったが、前年のダイムラー・ベンツと同様、アルファロメオもレース活動の休止を決定し、カラツィオラは再び契約を失ってしまった。アルファロメオからは同社の車両を引き継いで参戦する予定のスクーデリア・フェラーリに入ることを勧められたが、親友のルイ・シロンも同時期にブガッティのシートを失っていたことから、彼と組んで「スクーデリア・CC」を結成し、1933年はプライベーターとしてレースへの参戦を続けることにした。チームは3台のアルファロメオ・8C-2300・モンツァを購入し、それを輸送するためのトラックはダイムラー・ベンツが提供してくれた。 新チームは4月のモナコグランプリ(英語版)から参戦を開始した。4月21日、練習走行でカラツィオラとシロンはともにコースレコードに匹敵するタイムを叩き出したが、それをさらに更新しようとアタックしたカラツィオラは、海沿いのタバココーナーの進入時に挙動が不安定になり、車が横滑りを始めた。ブレーキは利かず事故はもはや避け難い状況で、海に飛び込むことになるよりはまだましだとカラツィオラがとっさに判断したこともあって、横滑りした車はコース右側面の石壁に衝突した。時速110㎞でコーナーに進入した車が壁にぶつかった衝撃により車のボディは潰れ、この時の衝撃でカラツィオラは右足の大腿骨と脛骨を複雑骨折し、球窩関節(英語版)も片方を割る重傷を負った。モナコの病院では足を切り落とすしかないと言われたため、ボローニャの高名な外科医ヴィットリオ・プッティ(イタリア語版)を頼る。手術の結果、足を切断することこそ免れたが、右足の長さは事故以前より5㎝も短くなり、痛みも残るという後遺症が残った。 松葉杖で歩くこととなったカラツィオラは妻シャルリーの献身的な助けに支えられ、スイスのルガーノ、次いでアローザに別荘を借りて療養生活を送った。同じ頃、ダイムラー・ベンツは翌年からのレース復帰を目指して準備を進めており、ノイバウアーは見舞いの名目でドライバー候補のカラツィオラの別荘を訪ねた。ノイバウアーはカラツィオラの様子を観察してみて、レースにはとても耐えられそうにないと考えたが、カラツィオラは自身を売り込み契約を求めた。そうして、ノイバウアーの温情により、「テスト走行の結果次第」という条件付きながら、ダイムラー・ベンツはカラツィオラを1934年のドライバーとして起用する契約を結んだ。 事故の翌年1月にダイムラー・ベンツと契約を交わし、復帰への道筋がついたのも束の間、その翌月、カラツィオラは更なる悲劇に見舞われる。シャルリーがスキー好きであることを知っていたカラツィオラは、事故以来ずっと彼に付きっきりで世話をしていた妻に息抜きに新鮮な空気を吸いに行くことを勧めた。それに従った彼女は友人と日帰りでスキーに出かけたが、そこで雪崩にあうという不幸に見舞われ、死去してしまう。立て続けの不幸に打ちのめされたカラツィオラは、アローザの別荘に閉じこもった。シロンはカラツィオラを立ち直らせるために尽力し、カラツィオラはシロンに押し切られる形で1934年4月のモナコグランプリ(英語版)にゲストとして招かれた。前年事故を起こしたコースでデモ走行を行い、そこで自分でも意外に思うほどレーシングドライバーとしての自覚が沸き上がり、再びレースに戻ることを決意する。 他人より2~3秒速く走るためには生命を賭ける男のことを考えて、微笑み肩をすくめる連中もいよう。私にとって唯一の幸福とは、車の中に座りウインドシールドの陰に身をかがめ、スターターが旗を振り下ろすのを待って、他の連中より何分の1秒か速く走り出すことなのだ。それから路上を走る何時間かだ。風はうなって吹き、エンジンは吠え、自分の内にうなりを生ずるのだ。もはや脚の悪い沈んだ男ではなく、300あるいは400馬力以上を意のままに支配する男だからだ。鋼鉄の生き物をコントロールする意思なのだ。 —ルドルフ・カラツィオラ(1934年モナコグランプリ) 第一次世界大戦の終結(ドイツの敗戦)、そして世界恐慌の影響で、ダイムラー・ベンツは長期に渡って経済的な苦境に立たされ続けていたが、1933年1月にアドルフ・ヒトラーを指導者とする国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権を奪取したことで同社を取り巻く情勢は一変した。経営環境が安定したことで、ダイムラー・ベンツはレースへの復帰が可能となり、メルセデスチームの活動も再開された。メルセデスチームがヨーロッパ中のレースを席巻した「シルバーアロー」時代の始まりである。復帰したカラツィオラは同チームのエースドライバーとなり、キャリアの最盛期を迎えることとなった。 5月末、アヴスレンネンが開催され、このレースで復帰するため、メルセデスチームはこの年から施行された「750㎏フォーミュラ」規定に合わせて開発した新型車「W25」を持ち込み、練習走行を始めた。これを利用してカラツィオラが復帰可能か判断するためのテストが行われ、ここでカラツィオラはすでにレギュラーに選ばれていたマンフレート・フォン・ブラウヒッチュとルイジ・ファジオーリのタイムを上回ったことで、再起用が決定した。これにカラツィオラは大いに安堵することとなった。 アヴスレンネンには結局チームが参戦を取りやめ、翌週、6月初めのアイフェルレンネンに臨むことになるが、実質的に2つしかコーナーが存在しないアヴスならともかく、172のコーナーを持つニュルブルクリンクで500㎞のレースを走り切ることは困難と判断し、カラツィオラはこのレースへの参加を辞退した。カラツィオラの復帰レースは7月のフランスグランプリ(英語版)になったが、このレースでは車のほうがトラブルを起こしてリタイアとなる。ある意味でカラツィオラにとっては幸いなことに、完成して間もないW25は初期トラブルが多く、レースの全距離を走り切る機会はなかなか訪れなかった。8月にはクラウゼンパス・ヒルクライム(ドイツ語版)で優勝するが、これは22㎞の短距離で競われたものであり、長距離のレースを走り切れるのか、というカラツィオラ本人と周囲が抱いていた疑問はぬぐえないままとなる。 9月のイタリアグランプリ(英語版)では、足の激痛に耐えつつ60周を走って首位を奪うが、痛みに耐えきれずファジオーリに車を譲り、結果としてファジオーリがチェッカーまで車を運び、116周(約500㎞)のレースを制して優勝を記録した。自力で完走できなかったことはカラツィオラを落胆させたが、同月のスペイングランプリ(英語版)(約519㎞)では、チームオーダーを無視したファジオーリに抜かれて2位になるという出来事はあったものの、ようやく完走することに成功した。 : 1932年イタリアグランプリ(英語版)では、リタイアした後、バコーニン・ボルツァッキーニ(英語版)の車両を引き継いで3番手でゴールしている。ボルツァッキーニには3位としてのポイントが配分されたが、カラツィオラには3位としてのポイントが配分されなかった。 1933年と1934年はヨーロピアン・ドライバーズ選手権が設けられていなかった。 1939年のヨーロピアン・ドライバーズ選手権は8月に開催されたスイスGPを最後に中止されたため、統括団体のAIACRは正式なランキングを発表していない。前年と同じルールでポイント換算した場合の順位とポイントを( )内に示した。 カラツィオラのドライビングスタイルは非常に落ち着いたもので、車体のコントロールも完璧に近く、その走りは模範的なことで定評があった。その一方で、必要とあらば「狂ったように」攻撃的な走りをすることもでき、状況に応じて両者を使い分けることが可能だった。レース運びとしては、ノイバウアーが考えたレース戦略の指示には忠実であり、加えて、定められたレース戦略の範囲で個々の局面では冷静な状況判断に基づいてレースを組み立てることが可能だった。 自伝によれば、最も好きなサーキットとして、難コース中の難コースであるニュルブルクリンク(北コースを含む旧コース)を挙げている。カラツィオラはドイツグランプリで歴代最多(2021年時点)の6勝を挙げているが、その内の5勝はニュルブルクリンクで開催された際のものである。かつてニュルブルクリンクで開催されていたアイフェルレンネン(英語版)においても、1927年の第1回大会の優勝を含む4勝を挙げている。 カラツィオラと関係が近すぎることを考慮する必要はあるが、アルフレート・ノイバウアーは「ヌヴォラーリ、ローゼマイヤー、ラング、モス、ファンジオと比べても、カラツィオラが最高のドライバーだった」としている。 カラツィオラは雨のレースでは無類の強さを誇り、「レーゲンマイスター」("Der Regenmeister"。雨天の名手)の異名を付けられ讃えられた。この異名は雨の1926年ドイツグランプリを制してグランプリ初優勝を挙げたことでそう呼ばれ始めるようになったものである。この異名はカラツィオラの活躍によって生まれた造語であり、英語では「レイン・マスター」("Rain master")に相当するものだが、英語圏でも外来語として「Regenmeister」の異名が用いられた。 雨のレースの強さはカラツィオラの特殊な視力によるところが大きいとされており、雨の中でも物がよく見え、「その視力は視界が悪くなるほど鋭くなる」であるとか、「あざらしの目」を持つ、などと言われた。加えて、雨でタイヤのグリップが最低になった時の運転技術ではカラツィオラに並ぶ者がなかった。事実として、小規模なプライベーターとして参戦した1931年や、車両開発が失敗した1936年のような年であっても、雨のレースではそうした不利を覆して優勝を収めている。 カラツィオラがニュルブルクリンクのカルッセルの「溝」を初めて使ったのは1931年7月のドイツグランプリ(英語版)だとされ、ノイバウアーはこの時の逸話を自伝に記している。 元々の「カルッセル」はバンクなどない平坦なヘアピンコーナーで、どんなに高度なテクニックを持っているドライバーでも時速50㎞ほどまで速度を落とさないとクリアできない区間だった。1931年当時、カラツィオラのコ・ドライバーを務めることもあったヴィルヘルム・セバスチャンは、コーナー内側にある幅の広い排水溝を利用することで、より素早いコーナリングが可能なのではないかと思いついた。レースの数日前、セバスチャンはチーム・カラツィオラの整備士であるヴィリー・ツィンマーを伴って同コーナーで実験をしてみて、溝を使って走ることで時速60㎞で走行できることを発見した。 この年のSSKLは晴天のレースではライバルのブガッティ・タイプ51(英語版)に太刀打ちすることは難しかったが、このレースは雨となったこともあり、カラツィオラは大差で優勝した。このレース中にカラツィオラが排水溝を利用する新しいテクニックを見せたことで、同レース中に他のドライバーたちもそれを真似するようになった。この排水溝は翌年までにはコンクリートで埋められ、同サーキットでよく知られる「カルッセル」になっていった。 カラツィオラが活躍した1930年代はレーシングカーの技術に新規なものも多く登場したが、カラツィオラ本人は、当時としては一般的な、保守的かつ古典的ドライバーであった。 ある年のモンツァでのシーズン前テストで、メルセデスチームとアウトウニオンはカラツィオラとローゼマイヤーに互いの練習用の車両を交換させるという試みをしたことがある。その時にカラツィオラはアウトウニオンのエンジンを絶賛し、両者は「メルセデスのシャシーにアウトウニオンのエンジンを積んだ車こそ理想的なレーシングカーだ」という点は意見が一致した。しかし、カラツィオラは「フロントエンジン」であることが条件だとした。 レースごとの車両の調整はエンジニアやメカニックに任せており、この点でも、ウーレンハウトやメカニックたちと話し合って進める異色なラングや、正確な技術的フィードバックを行うことも可能だったシーマンのような、若いチームメイトたちとは異なっていた。 ルイ・シロン ベルント・ローゼマイヤー
2025/01/29 14:57更新
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