レオナルド熊の情報(れおなるどくま) タレント 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
レオナルド熊さんについて調べます
■名前・氏名 |
レオナルド熊と関係のある人
石井光三: コメディアン、俳優としても活躍していたレオナルド熊と共に『劇団七曜日』を立ち上げ、若手お笑い系役者の登竜門的存在になった。 石倉三郎: レンタルのニッケン (1985年、レオナルド熊と共演) 石倉三郎: 1981年(昭和56年)、レオナルド熊とコント・レオナルドを結成(事実上の再結成)。 立花伸: 解散後東京に戻って酒井くにおらと女装コントをしていた時、西賀八の紹介で熊田にげろう(後のレオナルド熊)の弟子になり、福岡ケンジの名で師匠と『コント三冠王』を組み3年間活動。 本田ゆみ子: レンタルのニッケン(レオナルド熊)共演 中務靖久: コント・レオナルド(レオナルド熊、ダヴィンチ白熊→石倉三郎)石井光三オフィス 新山武司: コント・レオナルド(レオナルド熊、ダヴィンチ白熊→石倉三郎)石井光三オフィス 西田和昭: 初代正月は美和けんじ、二代目正月はレオナルド熊門下で、コント山口君と竹田君の山口君の元相方田口(元チャゲ&飛鳥バンドのベース担当)、三代目正月は、元ミスターポテトの伊藤忠。 はらみつお: 17歳でレオナルド熊に弟子入り、1971年に三木ヒロシとのコンビ「コント笑企業」を結成し、左官屋コントなどを得意としたが、1977年に解散し、熊が副業として経営していた小料理店の板前などに起用されていた。 石倉三郎: 1979年(昭和54年)、レオナルド熊とラッキーパンチを結成するも、すぐに解散。 由利徹: また、レオナルド熊を弟分としてかわいがっていた。 ブッチー武者: 1975年、児童音楽歌劇団に所属し小・中学校で公演する中、その2年後の1977年に演出家のはかま満緒が講師を務めるNHK『お笑いオンステージ コメディー研究会』のオーディションに合格し、それと同時にコメディアンで活躍していたレオナルド熊に師事する。 久慈あさみ: ザ・サスペンス・「熊さんの警察手帖」(1984年、TBS)共演:レオナルド熊 、堤大二郎 高見知佳: サントリー ナマ樽 一般大衆篇(レオナルド熊、藤島親方(後の貴ノ花利彰)と共演。 水島敏: 師匠はレオナルド熊。 ビートきよし: 相方はレオナルド熊の弟子だったが、事情があり1か月経たずにコンビ解消。 |
レオナルド熊の情報まとめ
レオナルド熊(れおなるどくま)さんの誕生日は1935年6月27日です。北海道出身のタレントのようです。
弟子、家族などについてまとめました。病気、解散、引退、事故、テレビ、ドラマ、家族、子役に関する情報もありますね。59歳で亡くなられているようです。
レオナルド熊のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)レオナルド 熊(レオナルドくま、本名:井上 千蔵 (いのうえ せんぞう)、1935年〈昭和10年〉6月27日 - 1994年〈平成6年〉12月11日)は、日本のコメディアン・俳優。石倉三郎と組んだコントコンビ「ラッキーパンチ」「コント・レオナルド」で人気を博した。 北海道樺戸郡新十津川町の出身。地元高校を中退後、役者を志すため単身で上京する。しかし実際のところ中々芽が出ることが無く苦労し、十余年地方巡業で地道に活動した。その後浅草に定着し、ストリップ劇場で幕間コントをしながら副業で小料理店を経営していた。しかし1973年、38歳の時に持病の結核が悪化してしまい、治療に専念するためおよそ5年間にわたる長期入院をすることになった。当時の芸名は 北海の熊→ 熊田にげろうで活動していた。 熊のことを『師匠』と仰いだ弟子も少なくなかったが、本人の性格や金銭面での諸事情を抱えていた人物だった。また人間関係や見解の相違あってのコンビ解消・再結成を多く繰り返して来ており、相方は25人ほど交代した。ちなみに熊とコンビを結成して年数長く活躍したのは石倉三郎である。また持病の結核が中々完治せず、仕事を休むことになるなど健康面でも不安を抱えていた。 1979年、病気療養中にホープの紹介もあって、俳優出身であり、どつき漫才を売りに活動していた「チャップリンズ」を解散したばかりの石倉三郎と「ラッキーパンチ」を結成し初デビューを果たした。しかし初めは売れていたものの、体調不良気味の熊が寝込み、舞台に続けて穴をあける事態となった。それが要因で仕事が減り、コンビ仲も悪くなり1年弱で解散する。この熊とのコンビ解消を機に石倉は一旦、芸能界から引退した。 石倉との「ラッキーパンチ」を解散した直後から弟子であるブッチー武者と「熊田うつぞう・にげろう」を経て初代「コント・レオナルド」を結成する。同時に自身の芸名を「レオナルド熊」に改名した。しかし、命名者であるポール牧に事前許可もなく無断で改名した為、破門された。 コンビ・芸名を変えて新たに活動を始めたが、弟子である武者とのコンビ仲は良くなかった。武者が師匠・熊からの執拗ないじめが元でノイローゼ(神経症)になる深刻な状況の中『花王名人劇場』に出演する直前、コント中の舞台で転倒事故が発生。武者はこの事故で骨折・負傷して休演せざるを得なくなり、ホープと澤田隆治が仲裁に入る形でコンビは解消となった。代わりに芸能界を引退して千葉県富津市にあるマザー牧場で勤務していた石倉を呼び戻し、1981年より二代目「コント・レオナルド」を再結成させた。 若手が中心だった漫才ブームの中で、比較的年輩である熊が政治・経済・時事問題を不条理コントで茶化すスタイルは当時異色の存在となり、これが受けて人気を得た。 1983年に出演したサントリービール「ナマ樽」のテレビコマーシャルで、熊が発した「いかにも一般大衆が喜びそうな」は、この年の流行語にもなり、広く知られた顔にもなった。 コメディアンとして人気を得たのと共に俳優としても活躍し、テレビドラマ『江戸川乱歩の美女シリーズ・人間椅子』(1984年、テレビ朝日)では、美女が座る椅子を愛する職人・黒川純一を演じており、怪優としての側面も見せていた。 しかし、石倉とのコンビ仲は以前の「ラッキーパンチ」と同様に良くなかった。自ら脚本・演出を手掛ける熊にとって『コント・レオナルド』は、最初から「自分の名を冠した自身の持ち物」という意識を常に持ち続けており、強いこだわりとプライドがあった。石倉はその熊に対して我慢が出来ずに愛想を尽かし、熊も石倉の酒癖の悪さを批判した。 コンビとしての人気は安定していたが、喧嘩別れをする形で1985年10月に再びコンビを解消・絶縁してしまう。ちなみに二代目「コント・レオナルド」としての活動期間は4年間であった。 その後は石井光三と「劇団七曜日」を立ち上げ、若手お笑い系役者の登竜門となる。またピン活動の傍ら、その場で若手を相方にコンビを組んで地道に芸能活動を続けたが、肝心である芸の切れ味が鈍ってしまったこともあり、次第に芸能界から距離を置く様になる。 1994年の10月に、末期の膀胱癌と診断される。後にホープ・マギー司郎など「田端グループ」の仲間達による「癌祝いの会」が開かれた。 その約2か月後の12月11日、家族と共に焼肉を外食し終えた直後に容体が急変し、搬送先の国立第二病院で急性心不全により死去した。59歳没。葬儀にはコンビ解消以来、顔を合わせることがなかった石倉も参列した。墓所は東京都杉並区永福の築地本願寺和田堀廟所。 弟子ゆーとぴあ・ホープ 森はじめ ブッチー武者 はらみつお たんごしん 水島びん すず風にゃん子 ほか 家族最後の妻は元女優の中川加奈。息子はレオナルド小熊名義で子役出演の後、ギタリスト井上"KB"幸法として活動。長女は一般人。 2024/06/18 10:54更新
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reonarudokuma
レオナルド熊と同じ誕生日6月27日生まれ、同じ北海道出身の人
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