レオン=リーの情報(LeonLee) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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レオン=リーの情報まとめ
レオン=リー(Leon Lee)さんの誕生日は1952年12月4日です。
引退、家族、事件、現在、映画、卒業、兄弟に関する情報もありますね。レオン=リーの現在の年齢は71歳のようです。
レオン=リーのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート レオン・リー(Leon Lee([ˈliːɔn liː])、1952年12月4日 - )は、アメリカ合衆国 カリフォルニア州ベーカーズフィールド出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督。 日本でも「レオン」の登録名でロッテオリオンズ、横浜大洋ホエールズ、ヤクルトスワローズに在籍。また、オリックス・ブルーウェーブの監督も務めた。 同時期に活躍したレロン・リーは実兄。息子はプロ野球選手のデレク・リー。 グラントユニオン高校を経て、1971年にMLBのセントルイス・カージナルスと契約。打撃センスのある捕手であったが、足が遅いためMLBに上がれず苦悩していたその折、ロッテオリオンズに入団し活躍していた兄のレロン・リー(以下レロン)に誘われ、1978年からロッテでプレー。背ネームは「LEON」となる。レロンと甲乙付け難い打棒を振るい、中軸を成した。同年は兄レロンに1厘及ばなかったが打率.316はリーグ5位。 1979年も、8月12日に球団史上最多の1試合14塁打を記録するなど、白仁天に次ぎチーム2位、リーグ4位の.333を記録する。 1980年には、兄レロンが.358で首位打者を獲得、レオンは兄に次ぐリーグ2位の.340と、チャーリー・マニエル(近鉄)に次ぐ116打点を挙げ、チームの前期優勝に貢献した。 1982年オフに斉藤巧との交換トレードで横浜大洋ホエールズへ移籍。舞台をセ・リーグへ移しても強打は相変わらずだった。 1985年オフに突如自由契約となる。「チャンスに弱い」という理由だったが、同年の成績は打率.303、本塁打31本、打点110を記録していた。8月10日対広島戦(広島市民球場)では津田恒美、北別府学、白武佳久から1試合3本塁打10打点を記録した。結局、ヤクルトスワローズに移籍した。 1987年限りで退団。 実働10年で帰国するまで、終始安定した成績を残した。打撃3部門のいずれかで好成績を残した年には他の選手が突出した成績を残すという不運もあり、タイトルには縁がなかった。通算打率.308は、首位打者を獲得していない選手の中では史上最高である。また、移籍を重ねたものの、その先々で活躍して期待に応えた稀有な選手でもある。 1980年にロッテで41本塁打、1983年に大洋で31本塁打、1986年にヤクルトで34本塁打を記録した。NPB史上で3球団で30本塁打以上を記録した数少ない選手の一人である。 1980年9月30日、川崎球場の対日本ハムファイターズ戦で、空振りしたバットが観客席に飛び込み、小学生の口に当たって歯を折損させたことがある。 引退後はしばらく日米に広がる人脈を生かして野球コンサルタント、1998年にシカゴ・カブスの極東スカウトになる。2003年にオリックス・ブルーウェーブの打撃コーチとして、16年ぶりに日本球界に復帰。同年4月に監督の石毛宏典が解任されると、後任の監督に就任。それに伴い、前監督の「守備力重視」から「打撃力重視」にチームスタイルを変更したため、チームの打撃陣は好調だった(チーム打率リーグ2位、本塁打同3位。ただし得点は同5位)。しかし、ディフェンス面をあまりに軽視しすぎた結果、守備陣は機能不全に(チーム失策数132)陥り、投手陣も次々とプロ野球ワースト新記録(チーム防御率5.95、年間最多被安打1534、最多失点927、最多自責点819など)を乱発するほどの投壊状態となった。結局、前身の阪急時代を含めて球団史上最低勝率を更新(ちなみに前年・2002年の勝率.365が球団史上最低だった)、最下位に沈んだ。当時オリックスに在籍した山﨑武司は「僕にとってオリックスでの一番の収穫は彼との出会いといっても過言ではない。そう思えるほどレオンは僕にとって重要な存在でした。日本でプレーしただけあって日本人の気持ちを理解してくれる。何とかこの人のために結果を残したい」、アメリカに帰国後もレオンは山﨑を激励し、「野球を諦めかけていた自分がもう一度奮い立つことができた背景にはレオンの親心もあった」と著書に記している。同年10月7日の対大阪近鉄バファローズ28回戦(Yahoo! BBスタジアム)終了後、小泉隆司球団社長から監督解任を通告された一方、伊原春樹新監督のもとでの一軍打撃コーチ就任を要請される。レオンは当初、球団側が自分への解任通告前に伊原に監督就任を要請していたことに不信感を顕にしたものの、19日には球団の要請を受諾することを表明。しかし、帰国中にシアトル・マリナーズなどMLBの6球団からコーチとしてオファーを受けたことや、再来日後に球団側が肩書を一・二軍巡回打撃コーチに変更していたことに不信感を覚えたことなどから、いったんは契約更改を保留した。最終的には熟考の末、11月5日に球団側の要請に応えて巡回打撃コーチとして正式契約し、翌6日からの秋季キャンプに合流していたが、2004年春季キャンプイン直前の1月22日、「家族の事情」を理由に退団を発表した。 オリックス退団後、ニューヨーク・メッツ傘下マイナーチーム(A級)のブルックリンの監督に就任した。しかし同年4月8日、フロリダ州ポートセントルーシーで性器を露出する事件を2件起こしたとして公然わいせつ容疑で逮捕され、同日付で監督を辞任した。 現在は、日米スポーツ交流のコンサルティング会社を経営している実業家である。 日本語を大変流暢に喋ることができる(兄のレロンは対照的に日本語を喋れなかった)。レオンの大洋時代に対ロッテのオープン戦でマイクロフォン搭載の帽子を被ってプレーする企画が行われ、試合中も他の選手と日本語で会話する様子が紹介された。オリックス監督時代もインタビューは日本語で、チームの不甲斐無さに「情けないよ」を連呼していた。休日には庭園や寺院を散策するなど、日本文化にも理解を示そうとしたという。また自宅にチームメイトを招いて催しをするなど社交的で活発な性格でもあったため、所属先を問わず愛された。当時大流行していたスペースインベーダーを好み、1979年シーズン前にロッテファンの会社社長から「ホームラン20本以上打ったらインベーダーの機械を買ってやる」と約束され、その年35本塁打を記録すると実際に1台30万円以上のゲームの筐体を贈られた。 中日ドラゴンズを舞台に外国人選手を主人公として描かれた映画『ミスター・ベースボール』のアドバイザーを務めた。 ハイスクール卒業後の1971年、セントルイス・カージナルス傘下のルーキー級のチーム 「ガルフ・コーストリーグ・カージナルス」で、のちにプロレスラーとして活躍することになるランディ・サベージ(本名:ランドール・ポッフォ)とチームメートだった。 各年度の太字はリーグ最高 4月23日石毛宏典監督の解任後監督に就任し4月26日から指揮。通算成績は監督就任前の20試合を含めない ベストナイン:2回 (一塁手部門:1980年 三塁手部門:1986年) 月間MVP:3回(1979年9月、1980年6月、1986年7月) 1試合10打点:1985年8月10日、対広島東洋カープ18回戦(広島市民球場)※セ・リーグタイ記録 1000試合出場:1985年10月18日(260人目) 首位打者未獲得での通算打率(4000打数以上では歴代最高) 最高長打率無しでの通算長打率(4000打数以上では歴代最高) 7 (1978年 - 1982年) 2 (1983年 - 1987年) 77 (2003年) 「ベースボール・ブギー」(兄のレロン・リーと共演、リー・ブラザース名義。作者はレオン自身) 「MUSIC ON MY MIND」(TAO「FAR EAST」収録) ^ 不運だった超一流助っ人レオン・リーが大洋時代に打ち上げた“花火”【1985年8月10日】 - 野球:週刊ベースボールONLINE ^ 2022年9月22日に山口航輝が並んだが依然として球団記録 ^ PacificleagueTVの2022年9月23日6時50分のツイート- X(旧Twitter) ^ 【クロマティד最強の兄弟助っ人”弟レオン・リー】オリックス時代の監督裏話!! - YouTube ^ 【8月10日】1985年(昭60) リー兄弟 弟3ホーマー10打点 兄のソロでサイクル本塁打 ^ 沢柳政義『野球場大事典』大空社、1990年、p.293。小学生のいた場所は報道カメラマン席の後方で、そこにはバックネットが張られていなかった。 ^ プロ野球12球団「監督」ウラ事情、宝島社、2014年、P99 ^ 山﨑武司『さらば、プロ野球 ~ジャイアンの27年』2014年、宝島社、85-86頁。 ^ 「レオン現監督に打撃コーチ就任要請」『大阪日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞西日本、2003年10月8日。オリジナルの2003年11月2日時点におけるアーカイブ。 ^ 「レオン前監督「話が違う」…肩書「1軍」から「巡回」に」『大阪日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞西日本、2003年10月31日。オリジナルの2003年11月2日時点におけるアーカイブ。 ^ 「レオン前監督「打撃コーチで残ります」」『大阪日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞西日本、2003年10月20日。オリジナルの2003年10月22日時点におけるアーカイブ。 ^ 「BWレオン前監督が打撃コーチで残留」『nikkansports.com』日刊スポーツ新聞社、2003年10月20日。オリジナルの2003年12月11日時点におけるアーカイブ。 ^ 「コーチかメジャーか迷えるレオン」『大阪日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞西日本、2003年10月28日。オリジナルの2003年12月8日時点におけるアーカイブ。 ^ 「レオン前監督は巡回打撃コーチに」『大阪日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞西日本、2003年11月6日。オリジナルの2003年12月11日時点におけるアーカイブ。 ^ 「家族の事情で???レオンコーチ不可解な退団」『大阪日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞西日本、2004年1月23日。オリジナルの2004年2月18日時点におけるアーカイブ。 ^ 「退団したレオン氏、1A監督に就任」『大阪日刊スポーツ』日刊スポーツ新聞西日本、2004年1月24日。オリジナルの2004年1月26日時点におけるアーカイブ。 ^ 「レオン監督 わいせつ事件で辞任」『スポニチアネックス』スポーツニッポン新聞社、2004年4月10日。オリジナルの2004年4月11日時点におけるアーカイブ。 ^ 「自身のバット露出でレオン前BW監督逮捕(日刊スポーツ)」『Yahoo!ニュース』ヤフー、2004年4月11日。オリジナルの2004年4月13日時点におけるアーカイブ。 ^ 【衝撃野球動画】超小型特殊マイクを選手の帽子につけて試合したプロ野球オープン戦の動画がメッチャ楽しい ^ “【9月11日】1979年(昭54) レオン、兄と本塁打連発!好調の理由はインベーダー”. スポーツニッポン (2007年9月11日). 2012年9月3日閲覧。 ^ “1971 GCL Cardinals”. 2021年10月11日閲覧。 カリフォルニア州出身の人物一覧 親子メジャーリーグ選手一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 東京ヤクルトスワローズの選手一覧 横浜DeNAベイスターズの選手一覧 兄弟スポーツ選手一覧 個人年度別成績 レオン - NPB.jp 日本野球機構 選手の各国通算成績 表 話 編 歴 三宅大輔 1936 - 1937 村上実 1937 山下実 1938 - 1939 村上実 1939 山下実 1940 井野川利春 1940 - 1942 西村正夫 1943 - 1944, 1946 - 1947 浜崎真二 1947 - 1953 西村正夫 1954 - 1956 藤本定義 1957 - 1959 戸倉勝城 1959 - 1962 西本幸雄 1963 - 1973 上田利治 1974 - 1978 梶本隆夫 1979 - 1980 上田利治 1981 - 1990 土井正三 1991 - 1993 仰木彬 1994 - 2001 石毛宏典 2002 - 2003 レオン・リー 2003 伊原春樹 2004 仰木彬 2005 中村勝広 2006 テリー・コリンズ 2007 - 2008 大石大二郎 2008 - 2009 岡田彰布 2010 - 2012 森脇浩司 2013 - 2015 福良淳一 2016 - 2018 西村徳文 2019 - 2020 中嶋聡 2021 - 2024 岸田護 2025 - 表 話 編 歴 投 木田勇 捕 梨田昌崇 一 レオン.L 二 山崎裕之 三 有藤道世 遊 高代延博 外 福本豊 / 栗橋茂 / L.リー 指 C.マニエル 表 話 編 歴 投 北別府学 捕 達川光男 一 R.バース 二 篠塚利夫 三 レオン.L 遊 高橋慶彦 外 山本浩二 / W.クロマティ / 吉村禎章 アメリカ合衆国の野球選手 セントルイス・カージナルス傘下の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の選手 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手 在日アメリカ人のスポーツ選手 シカゴ・カブス関連人物 アメリカ合衆国の野球監督 オリックス・バファローズ及びその前身球団の監督 アメリカ合衆国の実業家 アフリカ系アメリカ人の野球選手 在日外国人の野球選手 ベーカーズフィールド出身の人物 1952年生 存命人物 外部リンクがリンク切れになっている記事/2017年9月 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/20 00:41更新
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