ロビン=ウィリアムスの情報(RobinMcLaurinWilliams) 俳優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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ロビン=ウィリアムスの情報まとめ
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ロビン=ウィリアムス(Robin McLaurin Williams)さんの誕生日は1952年7月21日です。
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キャリア、芸風と影響などについてまとめました。映画、ドラマ、テレビ、家族、卒業、兄弟に関する情報もありますね。ロビン=ウィリアムスの現在の年齢は71歳のようです。
ロビン=ウィリアムスのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)ウィリアムズは1970年代半ばにサンフランシスコ・ロサンゼルスでスタンダップコメディを始め、その後複数枚のコメディ・アルバムをリリースした。ABCのシットコム『モーク&ミンディ(英語版)』(1978年 – 1982年)で演じたエイリアンのモーク役で人気を得た。最初の主演映画は1980年の『ポパイ』である。 『ガープの世界』(1982年)、『ハドソン河のモスコー』(1984年)、『レナードの朝』(1990年)、『インソムニア』(2002年)、『ストーカー』(2002年)、『ディア・ダディ 嘘つき父さんの秘密』(2009年)などのドラマ映画に出演して高い評価を得た。またコメディ作品・ファミリー作品では『フック』(1991年)、『トイズ』(1992年)、『ミセス・ダウト』(1993年)、『ジュマンジ』(1995年)、『ジャック』・『バードケージ』(1996年)、『フラバー』(1997年)、『パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー』(1998年)、『RV』(2006年)、『ナイト ミュージアム』シリーズ(2006年〜2014年)に出演している。声優としては、『アラジン』のジーニー役(1992年)、『ロボッツ』(2005年)、『ハッピー フィート』シリーズ(2006年・2011年)などへ出演している。 ウィリアムズはキャリアを通して薬物乱用とうつ病に苦しんだ。2014年8月には自宅で死亡している状態で発見され、状況的に自殺と判断された。未亡人となったスーザン・シュナイダーからは、パーキンソン病の診断を受けており、うつ症状・不安障害・パラノイアを経験していたと発表されたが、剖検では「びまん性レビー小体病」("diffuse Lewy body disease") が指摘され、同じレビー小体病理であるレビー小体型認知症の症状でウィリアムズの症状が説明できるとの専門的意見もある。 ウィリアムズはイリノイ州シカゴの聖ルカ病院(英語版)で、1951年7月21日に生まれた。生年に関しては1952年とするものもあるが、2007年7月4日発表のインタビューでは「55歳」と述べており、2008年にファンサイトで行われたインタビューでも1951年生まれと明言している。父ロバート・フィッツジェラルド・ウィリアムズ(英: Robert Fitzgerald Williams、1906年 – 1987年)はフォード・モーターのリンカーン=マーキュリー部門の上級役員であった。母ローリー・マクローリン(英: Laurie McLaurin、1922年 – 2001年)はミシシッピ州ジャクソンでモデル業をしており、母の高祖父はミシシッピ州選の上院議員・州知事(英語版)を務めたアンセルム・J・マクローリン(英語版)であった。ウィリアムズには異母兄のロバート(愛称トッド)と、異父兄のマクローリンがいる。母はクリスチャン・サイエンスの信者だったが、ウィリアムズは父方の信仰である米国聖公会に従って育てられた。2001年にテレビ番組『アクターズ・スタジオ・インタビュー』で行われたインタビューでウィリアムズは、自分のユーモアへ最初に大きな影響を与えたのは母で、母の気を惹くために彼女を笑わせようとしていたことを明かしている。 ウィリアムズはイリノイ州レイクフォレストの公立小学校(ゴートン小学校、英: Gorton Elementary School)、同じ学区の公立中学校ディア・パス中学校(英: Deer Path Junior High School)に通った。高校で演劇部に入るまで、内気な性格を乗り越えられない静かな子どもだったと自ら振り返っている。一方で友人たちからはとても面白い人物だったと言われている。1963年遅く、ウィリアムズが12歳の時に、父がデトロイトへ転勤することになった。家族はミシガン州ブルームフィールドヒルズ郊外に引っ越して、20エーカー (8 ha)の敷地に40部屋もあるファームハウスに住み、ウィリアムズ自身も私立のデトロイト・カントリー・デイ・スクール(英語版)に通った。学業は優秀で、学校のレスリング部に入り、級長にも選ばれた。 両親共働きだったため、メイドがウィリアムズの養育を手伝い、このメイドは彼の1番の仲間にもなった。16歳で父が早期退職したため、一家はカリフォルニア州ティブロン(英語版)に移った。転居に伴い、ウィリアムズはラークスパー近郊のレッドウッド高校(英語版)に転校した。1969年の卒業時、彼は同級生の投票で「1番成功しそうにない人」("Most Likely Not to Succeed") と「1番面白い人」("Funniest") に選ばれたという。高校卒業後はクレアモントのクレアモント・マッケナ大学に進んで政治学を専攻したが、演技の道を追い求めて中退した。その後はケントフィールド(英語版)のコミュニティ・カレッジ、カレッジ・オブ・マリン(英語版)で演劇を3年学んだ。カレッジ・オブ・マリンの演劇学教授であるジェイムズ・ダンは、ミュージカル『オリバー!』で演じたフェイギン役で、ウィリアムズの役者としての素質はすぐ明らかになったと回顧している。ウィリアムズは芝居中にしばしば即興劇を繰り出し、他のキャストが笑いを堪えられなくなることも多かったという。ある日リハーサルが遅くまで続いた後、妻に電話したダンはウィリアムズが「何か特別なものになるだろう」と述べた。 1973年、ウィリアムズはニューヨーク・ジュリアード音楽院の全額支給奨学金を得た(グループ6、1973 – 1976年)。入学同期は20人で、この年ジョン・ハウスマンが教鞭を執るアドバンス・プログラムに合格したのはウィリアムズとクリストファー・リーヴの2人きりだった。ウィリアム・ハート、マンディ・パティンキンもウィリアムズの同期である。伝記作家のジーン・ドーシンヴィルによれば、ジュリアードではフランクリン・シールズ(英語版)とルームメイトだった。リーヴはジュリアードの新入生として会ったウィリアムズの第一印象として、次のように述べている。 ウィリアムズとリーヴはイーディス・スキナー(英: Edith Skinner)が教える方言のクラスに通った(リーヴはスキナーの発声・スピーチ指導は世界有数と述べている)。リーヴによれば、スキナーはウィリアムズ本人と、瞬時に異なるアクセントをいくつも披露できる彼の能力に当惑していたという。彼らの最初の演技教官はマイケル・カーン(英語版)で、カーンもまた「この人間ダイナモに等しく困惑していた」("equally baffled by this human dynamo")。周囲は既にウィリアムズを面白い人物と評価していたが、カーンは彼のふざけた行為をただのスタンダップコメディだと批判した。後にウィリアムズはテネシー・ウィリアムズの『イグアナの夜(英語版)』で老人を演じ、批評家たちを黙らせた。リーヴはこの時に関して、「彼はただ老人『だった』。彼の仕事に驚嘆し、運命が我々を一緒にしてくれたことに大きな喜びを感じた」("He simply was the old man. I was astonished by his work and very grateful that fate had thrown us together.") と述べている。ふたりはリーヴが2004年に亡くなるまで親友であり続け、ウィリアムズの息子ザックもふたりの友情は「別々の母から生まれた兄弟」("brothers from another mother") のようだったと語っている。 1974年から1976年の夏、ウィリアムズはサウサリートのレストラン「ザ・トライデント(英語版)」の給仕助手として働いた。ウィリアムズは3年生になった1976年、ハウスマンの勧めでジュリアードを去ることになるが、これはジュリアードでウィリアムズに教えるものは最早ないというハウスマンの判断によるものだった。ジュリアードで教えたジェラルド・フリードマン(英語版)は、ウィリアムズは「天才」("genius") であり、学校の保守的・古典的な指導方法は彼に合っていなかったので、彼の退学に驚いた人はいなかったと述べている。 キャリア1976〜1983年:スタンダップコメディと『モーク&ミンディ』1976年、ウィリアムズはサンフランシスコ・ベイエリアでスタンダップコメディを始めた。最初のパフォーマンスはサンフランシスコのコメディ・クラブ「ホーリー・シティ・ズー(英語版)」で行い、彼はバーテンダーから少しずつ出世した。1960年代、サンフランシスコはロック・ミュージック、ヒッピー、ドラッグ使用、性革命の中心地であったが、批評家のジェラルド・ナックマン(英語版)は、1970年代遅くにウィリアムズが「コメディのルネサンス」("comedy renaissance") を牽引したと述べている。ウィリアムズはこの時期に「ドラッグと喜び」("drugs and happiness") を見出したと話しており、「自分史上最高の脳がめちゃくちゃになる」("the best brains of my time turned to mud") のを目の当たりにした。その後はロサンゼルスに移り、ザ・コメディ・ストア(英語版)をはじめとしたクラブでのスタンダップコメディを続けた。1977年、彼はロサンゼルスでテレビプロデューサーのジョージ・シュラッター(英語版)と出会い、シュラッターが手掛けた番組『ラフ・イン(英語版)』のリバイバルに出演しないかと持ちかけられる。番組は1977年遅くに放送され、これがウィリアムズのテレビデビュー作となった。この年、ウィリアムズはHBOのために、L.A.インプロヴ(英語版)でのショーに出演している。『ラフ・イン』のリバイバルは失敗したが、ウィリアムズはこれを機にテレビ番組のキャリアに足を踏み入れ、同時にロクシー・シアター(英語版)などのコメディクラブでスタンダップコメディを披露しながら、即興劇のスキルを磨き続けた。彼はイングランドのザ・ファイティング・コックス(英語版)でも公演した。 ウィリアムズと40年来の仲であったデイヴィッド・レターマンは、ザ・コメディ・ストアで行われた最初の公演を観た時を思い返し、「[ウィリアムズ]はハリケーンのように現れた」("He came in like a hurricane")と評した上で、このクラブで自分もスタンダップコメディをやっていたことから、「なんてこった、自分にもショービジネスのチャンスが来るぞ」("Holy crap, there goes my chance in show business.")と考えたという。ウィリアムズが初めてクレジットされた映画は、1977年の低予算コメディ『キャン・アイ・ドゥ・イット……ティル・アイ・ニード・グラスィズ?(英語版)』(原題)での端役だった。最初の主演作は1980年の映画『ポパイ』でのタイトルロールで、テレビ番組で見せていた演技力を存分に活かした(映画自体は興行的に失敗した)。 『ラフ・イン』のリバイバルとNBCの『リチャード・プライアー・ショー(英語版)』に出演した後、ウィリアムズはゲイリー・マーシャルの手掛けるテレビシリーズ『ハッピーデイズ』で、異星人モーク役を演じることになった(1978年、シーズン5エピソード22 (My Favorite Orkan) )。俳優の急な降板で急遽役を得ることになったウィリアムズだったが、オーディションで椅子に掛けるよう勧められたのにまくし立て、その風変わりなユーモアセンスはプロデューサーの印象に強く残った。モーク役では語りやフィジカル・コメディ(英語版)の大半を即興で行い、高く鼻に掛かった声で話し、脚本のほとんどを自分で手掛けた。キャストやスタッフたち、テレビ会社の重役までも、彼の演技に深く感銘を受けたという。重役たちが演技を観た4日後には、競合他社を寄せ付けないためにウィリアムズと契約が結ばれたほどだった。 モークの視聴者人気から、パム・ドーバーを相手役にしたスピンオフ・シットコム『モーク&ミンディ』が放送されることになり(1978 – 1982年)、この番組でも喋り・身動きといったウィリアムズの即興力が遺憾なく発揮された。『ハッピーデイズ』でも同じキャラクターを演じていたが、舞台は1950年代後半のミルウォーキーから、放送時分のボールダー(コロラド州)に変更された。『モーク&ミンディ』は、最盛期には週6000万人が視聴し、ウィリアムズを「スーパースター」に仕立て上げた。 モークの人気を受けて、ポスター、塗り絵本、弁当箱など様々なグッズが販売された。第1シーズンの大成功から、1979年3月12日にはウィリアムズが『タイム』誌の表紙を飾るほどになった。マイケル・ドレスラーが撮影した表紙写真は、ウィリアムズの死後すぐにスミソニアン博物館の国立肖像画美術館に展示され、追悼の場となった。また1979年8月23日には『ローリング・ストーン』誌の表紙を飾り、この時の写真はリチャード・アヴェドンが撮影した。 番組の大成功からウィリアムズはスタンダップコメディをより多くの観衆に届けられるようになり、1970年代終わりから1980年代を通して、HBOのコメディ特番 "Off The Wall"(1978年)、"An Evening with Robin Williams"(1983年)、『ア・ナイト・アット・ザ・メット(英語版)』(1986年、メトロポリタン歌劇場)などに出演している。また、1979年にニューヨークのナイトクラブ「コパカバーナ(英語版)」で行ったライブショーを収録したアルバム "Reality ... What a Concept" で、グラミー賞コメディ・アルバム賞(英語版)を獲得している。 1982〜1999年:映画スターダムへ1982年の映画『ガープの世界』で主役を演じたウィリアムズは、作品に関して「スクリーン上ではある種の狂気が欠けていたかもしれないが、重要な核を持っていた」と考えた。映画批評家のロジャー・イーバートは彼の演技を評して、「ロビン・ウィリアムズはガープ役を比較的もっともらしく、時に平凡な人物として演じたが、映画は彼の陽気な向こう見ずさと、彼を取り巻く無秩序状態の不調和な対比には邪魔されなかったようだ」と書いている。1983年には『ロビン・ウィリアムズの大混戦サバイバル特訓(英語版)』、1986年には『クラブ・パラダイス(英語版)』など、この後も非主役でいくつかの映画に出演したが、キャリアを底上げするほどにはならなかった。 1986年、ウィリアムズはアラン・アルダ、ジェーン・フォンダと共に第58回アカデミー賞の司会を務めた。翌1987年にはスケッチ・コメディ特番『キャロル、カール、ウーピー・アンド・ロビン(英語版)』(原題)に出演し、キャロル・バーネット、カール・ライナー、ウーピー・ゴールドバーグと共演した。また、様々なトークショーで引っ張りだことなり、『ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジョニー・カーソン(英語版)』や、『レイト・ナイト・ウィズ・デイヴィッド・レターマン(英語版)』に出演し、中でも後者には50回も出演した。主演作で最初に大ヒットしたのは1987年の『グッドモーニング, ベトナム』(バリー・レヴィンソン監督作品)で、アカデミー主演男優賞ノミネート、またゴールデングローブ賞 映画部門 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門)受賞という栄誉を勝ち取った。作品の舞台はベトナム戦争中の1965年で、ウィリアムズは、兵士たちをコメディと皮肉で元気づけていた実在のラジオDJエイドリアン・クロンナウア(英語版)を演じた。彼には脚本なしに演じる許可が出ており、実際その台詞の大半は即興劇であったという。作中ウィリアムズは、ウォルター・クロンカイト、ゴーマー・パイル(英語版)、エルヴィス・プレスリー、ミスター・エド、リチャード・ニクソンなど、様々な人物の物真似を披露した。製作を務めたマーク・ジョンソンは「僕らはただカメラを回すだけだった」("We just let the cameras roll.") と振り返り、ウィリアムズは「どのテイクでも何か新しいものをひねり出していた」("managed to create something new for every single take".) と述べている。 次いで1988年にはオフ=ブロードウェイのリンカーン・センターで上演された『ゴドーを待ちながら』でスティーヴ・マーティンと共演した。『ミセス・ダウト』(1993年)や『パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー』(1998年)など、哀愁とコメディを共存させた作品が彼の役の多くを占めるようになる。没後の追悼記事ではウィリアムズが演じた役の幅広さ・多様性に多大なる衝撃を受けたとの言説もあった。1989年、『いまを生きる』では私立学校の英語教師を演じたが、終盤の感情的シーンに関しては「一世代の心を強く動かし」、ポップカルチャーの一角になったとまで評された。心理学者役を演じた『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1997年)では、実際の心理学者たちに多大な影響を与えたとも指摘されている。1990年の映画『レナードの朝』では、原作本を書いた医師オリバー・サックスがモデルの医師を演じた。後にサックスは、ウィリアムズの演技に対する姿勢は「ある種の天才」("form of genius") だったと語っている。1991年には、『フック』で大人になったピーター・パン役を演じ、このために25ポンド (11 kg)も減量した。『フック』の製作を務めたマイク・メダヴォイは、ダスティン・ホフマンとウィリアムズが互いに共演したがっていると聞いていて、意図的にこのふたりを組ませるようスティーヴン・スピルバーグ監督に進言していた(ウィリアムズもスピルバーグ作品に出られることに喜んでいた)。『バロン』(1988年)と『フィッシャー・キング』(1991年)でウィリアムズを起用したテリー・ギリアムは、ウィリアムズは「躁状態から狂気、さらに優しく傷付きやすい状態へ移り変わる」能力を持っており、「宇宙で最も独創的な精神を持っていた。彼のような人はどこにもいない」と評している。 ウィリアムズは複数のアニメ映画で声優業もこなしているが、中でも1992年のディズニー映画『アラジン』で演じたジーニー役は彼のために書かれた役だった。監督陣はこの役を書くことにはリスクもあったと認めている。当初ウィリアムズはディズニー映画であるので、として役を固辞したが、その理由は映画関連商品の販売でスタジオを儲けさせたくないというものだった。彼は次のような条件を付けて役を引き受けた。 ウィリアムズの台詞の大半はまたしても即興劇で、録音は約30時間分のテープとなり、その中でエド・サリヴァン、ジャック・ニコルソン、ロバート・デ・ニーロ、グルーチョ・マルクス、ロドニー・デンジャーフィールド、ウィリアム・バックリー・ジュニア、ピーター・ローレ、アーノルド・シュワルツェネッガー、アーセニオ・ホールなど多くの著名人を物真似した。映画は1992年の最高興収を記録し、ウィリアムズのジーニー役も本人にとって最も認知され愛された役のひとつになった。ジーニー役では第50回ゴールデングローブ賞の特別功労賞を含め、多くの映画賞に輝いている。ウィリアムズの演技はアニメーション作品にスター俳優が配役される機会を増やした。またウィリアムズ本人も、2009年にジーニー役でディズニー・レジェンドへ数えられている。1994年には続編映画『アラジン ジャファーの逆襲』が製作されたが、ディズニー社が『アラジン』宣伝でのジーニーの使用に関してウィリアムズと結んでいた合意を反故にしたため、ウィリアムズは続投を拒否した(代わりにダン・カステラネタがジーニー役を演じた)。ウォルト・ディズニー・スタジオのトップがジェフリー・カッツェンバーグからジョー・ロスに代わった後、ロスはウィリアムズへ公式に謝罪した。その後1996年に製作された映画第3作『アラジン完結編 盗賊王の伝説』ではジーニー役に復帰している。同時期には『不思議の森の妖精たち』(1992年)でも声優を務めている。 この時期、ウィリアムズは『ハドソン河のモスコー』(1984年)、『奇蹟の輝き』(1998年)、『アンドリューNDR114』(1999年)などに出演している。1997年には、コメディアンビリー・クリスタルと共に、『フレンズ』第3シーズンへ台本なしのカメオ出演した。同じ年にはクリスタルと共にウディ・アレン監督作品『地球は女で回ってる』(1997年)に出演したが、これはウィリアムズとクリスタルが舞台でよく共演していたことを知っていたアレンによる采配だった。 『いまを生きる』と『フィッシャー・キング』で更に2度アカデミー主演男優賞にノミネートされた後、ウィリアムズは『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』でアカデミー助演男優賞(1998年)を獲得した。 2000〜2014年:こども向け映画とテレビ番組への回帰2000年4月、ウィリアムズはAudible限定配信のトークショーでホスト(司会)を務めることになった。同年の第72回アカデミー賞授賞式では、直前に死去したメアリー・ケイ・バーグマンに代わり、主題歌賞にノミネートされていた「ブレイム・カナダ」(『サウスパーク/無修正映画版』)を歌唱した。映画界に進出した後もウィリアムズはスタンダップコメディの仕事を綿々と続けており、2002年7月にはワンマンショー『ロビン・ウィリアムズ:ライヴ・オン・ブロードウェイ』(原題、"Robin Williams: Live on Broadway")を開催し、後にDVD化した。2004年には、コメディ・セントラルが発表した「史上最高のスタンダップ100人」において13位に選出された。2006年にはニコロデオン・キッズ・チョイス・アワードにサプライズゲストとして登場し、同年1月30日に放送された『エクストリーム・メイクオーバー:ホーム・エディション(英語版)』にも出演した。2002年のワンマンショーから6年の休止を経て、2008年8月には26都市ツアー「ウェポンズ・オブ・セルフ=デストラクション」(原題、"Weapons of Self-Destruction")の実施を発表した。ツアーは2009年9月末から12月3日のニューヨーク公演まで約3ヶ月にわたるもので、同年12月8日にはこの様子がHBOスペシャルで放送された。 2000年代はじめにかけては、それまでのキャリアよりダークな役に好んで挑戦した。2002年の映画『インソムニア』において、ウィリアムズはアル・パチーノ演じるロサンゼルス警察の刑事に追い回される殺人者を演じた。同年には心理スリラー(英語版)『ストーカー』に出演し、店へ現像しにくる家族に長年執着する写真技師を演じてサターン主演男優賞を受賞した。2004年にはSF・心理スリラー映画『ファイナル・カット』に出演した。テレビ番組では『フーズ・ライン・イズ・イット・エニウェイ?(英語版)』の第3シーズン第9話、『LAW & ORDER:性犯罪特捜班』のエピソードゲストとしても出演している。2006年には5本の映画に出演し、『ロビン・ウィリアムズのもしも私が大統領だったら…』では政治風刺に取り組み、心理スリラー映画『ザ・ナイト・リスナー(英語版)』(原題、日本未公開)では、友情を育んでいたこどもが実在しないかもしれないことに気付いたラジオ番組司会を演じた。 ウィリアムズは映画『ハリー・ポッター』シリーズでルビウス・ハグリッド役を演じたがっていたが、第1作の監督クリス・コロンバスがキャストを「イギリス人限定」にするという方針だったため、断られた。アニメ映画声優としての出演も続け、『ロボッツ』(2005年)、『ハッピー フィート』シリーズ(第1作は2006年、第2作は2011年製作)、『エブリワンズ・ヒーロー』(2006年、ノンクレジット)などに出演している。2001年の実写映画『A.I.』ではホログラフのDr.ノウに声を当てた。また、ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート(マジック・キングダム)にかつてあったアトラクション「ザ・タイムキーパー(英語版)」では、時を駆けるロボット・タイムキーパーの声を演じた。 2010年、ウィリアムズはロバート・デ・ニーロと共に「サタデー・ナイト・ライブ」のスケッチに出演し、2012年にはFXのテレビシリーズ『ルイー(英語版)』と『ウィルフレッド(英語版)』にそれぞれ本人役で出演した。2011年にはラジヴ・ジョゼフ(英語版)の『バグダッド動物園のベンガルタイガー(英語版)』で、演劇でのブロードウェイデビューを飾った(作品は2011年3月31日にリチャード・ロジャース劇場(英語版)で幕開け)。この演技でドラマ・リーグ賞(英語版)の俳優部門にノミネートされている。2013年5月にはCBSで主演新シリーズ『クレイジーワン ぶっ飛び広告代理店』が始まったが、1シーズンで打ち切られた。生前最後に封切られた映画は『余命90分の男』(2014年)で、余命告知を受けた男が人生を変えようともがくコメディ作品だった。没後、『ナイト ミュージアム/エジプト王の秘密』(同シリーズ第3作)、『ロビン・ウィリアムズのクリスマスの奇跡(英語版)』、『シークレット・ロード』、『ミラクル・ニール!』(声のみの出演)の4作が遺作として公開された。 芸風と影響芸風、創作に関与したものウィリアムズは、スタンダップコメディを演じるストレスも相まって、キャリア初期から薬物乱用や飲酒に逃れていた。ステージ上では飲酒も薬物使用もしなかったが、二日酔いで舞台に上がったことはあると認めている。コカインを使用していた時期には、舞台上で偏執病(パラノイア)を起こしたこともあった。このような赤裸々な独白を受けて、映画評論家のヴィンセント・キャンビーのように、ウィリアムズの「創作的過程が完全な崩壊に繋がらないか」心配する者もいた。 一方のウィリアムズは、世界情勢の絶え間ない変化により、芸のアイデアは尽きないという安心感を持っていた。ショーの競争的な性質からか、ウィリアムズが強く否定しても、彼に自分のジョークを盗まれたと主張するコメディアンは何人もいた。デイヴィッド・ブレナー(英語版)は、ウィリアムズの代理人と対峙して、ウィリアムズが自分のジョークを使っているのを1回でも聞いたら身体的危害を加えると脅迫していた、と記している。ウーピー・ゴールドバーグはウィリアムズを擁護する側で、コメディアンが同業他者の内容を使わずにいるのは難しく、同じようなことは今までずっと行われてきたと述べた。ウィリアムズはこうした批判を避けるため、他のコメディアンのパフォーマンスを観に行くのは止めてしまった。 1992年に『プレイボーイ』誌で行われたインタビューで、ウィリアムズは仕事と人生のバランスを損なう恐怖に襲われたことはないか問われ、こう答えた。この段落では創作力や切れ味を失うのではと恐れて、直前に自殺していたジャージ・コジンスキーに触れ、自分ならそういうリスクは乗り越えられるだろうと話している。これに関し、自分にとっての重要事項を話すことを厭うなという父の教えが、自信を高める糧だった、と述べていた。 影響を受けた人物ウィリアムズは自身が影響を受けたコメディアンとしてジョナサン・ウィンタース、ピーター・セラーズ、ニコルズ&メイ(英語版)、レニー・ブルースなどの名前を挙げ、高いウィットのレベルで、より知的な聴衆を惹き付けることになった彼らの能力を賞賛していた。またジェイ・レノのアドリブを織り交ぜた速攻力や、シド・シーザーもお気に入りで、彼らの演技は「貴重だ」"precious" と述べている。 中でもジョナサン・ウィンタースは、8歳時にテレビで初めて観た頃から特別な存在であり、キャリアを通じてインタビューの度に彼への敬意を示していた。ふたりはウィリアムズの出世作『モーク&ミンディ(英語版)』でも共演している。「何でも可能になって、何でも面白くなる」ウィンタースの創意工夫に刺激を受け、「自由な形でよくて、物事の中と外に出入りするのは本当に簡単なのだ、というアイデアを教えてくれた」と回想している。 また、リチャード・プライヤーが薬物乱用やアルコール依存の問題も含め、自身の人生を舞台上で赤裸々に話す様子に影響を受けているとも語り、自分のパフォーマンスにも同様の内容を取り入れているとした。個人的な内容をコメディの形に落とし込むのは「セラピーよりも安上がり」("cheaper than therapy") で、鬱積したエネルギーや感情を解き放つ手段なのだと述べている。 2024/06/28 17:44更新
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Robin McLaurin Williams
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