両国梶之助の情報(りょうごくかじのすけ) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
両国 梶之助さんについて調べます
■名前・氏名 |
両国梶之助と関係のある人
佐田の山晋松: 2002年からは日本相撲協会の相談役に就任し、2003年1月場所後には直弟子である両国梶之助と名跡交換を行い、年寄・中立を襲名したのち同年2月18日に停年退職した。 |
両国梶之助の情報まとめ
両国 梶之助(りょうごく かじのすけ)さんの誕生日は1962年7月30日です。長崎出身の相撲のようです。
現在、卒業、引退、結婚、家族、テレビ、事故に関する情報もありますね。今年の情報もありました。両国梶之助の現在の年齢は62歳のようです。
両国梶之助のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)両国 梶之助(りょうごく かじのすけ、1962年7月30日 - )は、長崎県長崎市出身で出羽海部屋に所属した元大相撲力士。本名は小林 秀昭(こばやし ひであき)。出羽海部屋伝統の四股名である両國(兩國)梶之助を襲名した者は9人存在するが新字体の両国表記のみの者は当人だけである。巨腹を活かした右四つでの寄りが武器であった。現在は年寄・境川。境川部屋師匠を務めている。 1962年7月30日に長崎県長崎市で溶接工を営む家に二男として生まれる。長崎市立茂木小学校・長崎市立茂木中学校では柔道・ソフトボール・サッカーなど様々なスポーツで鳴らし、長崎県立諫早農業高等学校進学後は、高校の卒業生からの勧めで相撲を始めた。この時点で既に182cm・110kgに達していたが、巨躯に物を言わせるだけの取り口で、相撲に関する基本的な技術をほとんど知っていなかったために活躍できなかった。高校卒業時で135kgに達していたことから角界関係者からスカウトされるが、当時は大相撲の道へ進む意志がなく、日本大学へ進学して相撲部に所属した。 日本大学では主将を務め、個人戦より団体戦で力を発揮し、全国学生相撲選手権大会で準優勝に導く活躍を見せた。3年生で腰の負傷から1年近くを棒に振ったが、4年生では腰の状態も回復して調子を取り戻したため、大学卒業後に角界入りする決意を固めた。小林の元には花籠部屋と出羽海部屋からスカウトされたが、出羽海が同郷であることと、大学の先輩・出羽の花からの電話での「うちの親方は大きな人だから」という一言が決め手となり、出羽海部屋へ入門した。 1985年3月場所において、大学時代からのライバルである栃乃和歌清隆(明治大学)と共に幕下付出で初土俵を踏んだ。その後も栃乃和歌と競い合いながら精進し、1986年3月場所で新十両昇進、1987年3月場所で新入幕を果たすと同時に、四股名を「小林山」から出羽海部屋伝統の「両国」へ、下の名も1989年9月場所から「梶之助」へそれぞれ改名した。入幕から2場所連続で勝ち越したことで同年7月場所では早くも小結へ昇進し、早くも大関候補として周囲から期待されたが、何度か好機がありながら関脇には昇進できず、幕内中位に甘んじていた。 その後も小結から前頭上位を行ったり来たりしていたが、千代の富士貢を3度に渡って破るなど「千代の富士キラー」ぶりを発揮し、再度の関脇昇進を目指していた。しかし、1992年7月場所で左大腿部屈筋を挫傷する重傷を負ったため、12日目から途中休場となる。大学時代に痛めた腰の負傷によって、以降は思うような相撲が取れなくなり、同年11月場所では2勝13敗と大きく負け越して十両陥落、さらにその十両でも腰の怪我によって途中休場したことで、1993年1月場所では幕下転落が確定的になっていた。このため、1992年12月に現役引退を発表し、年寄・中立を襲名した。 現役引退後の1998年5月場所終了後、出羽海部屋から分家・独立して「中立部屋」を創設した。2003年1月場所終了後には、元師匠である境川と名跡を交換して年寄・境川を襲名、部屋名も「境川部屋」となった。出羽海部屋からの分家・独立は、昭和以降では一門から破門された九重部屋を含めると3例目だが、円満に独立した点では武蔵川部屋(現:藤島部屋)以来2例目となる。なお、先代境川から独立を拒否された場合は退職して長崎に帰郷するつもりであったという。部屋設立当初は担保がなく新たに部屋を建てたくても融資を請け合ってくれる銀行も無く、知人に借りた資材置き場を仮の稽古場とし、弟子2人を当時の自宅であった2DKマンション内で過ごさせるなど厳しい状況にあった。半ば部屋運営を諦めていた頃、これで最後というつもりで訪ねた銀行の支店長が、学生相撲のファンであり、自身のことをよく知っていたので、支店長の厚意により融資を受けることが可能になった。 境川部屋からは大関・豪栄道豪太郎、関脇・妙義龍泰成、小結・岩木山竜太、前頭・豊響隆太、前頭・寶智山幸観などを育て上げ、親方としての手腕を発揮した。 部屋の師匠としては場所が終了した直後に次の場所に向けた稽古をさせ、番付発表後に稽古のペースを落とす方針。稽古は厳しいが体調不良の力士には無理をさせず、目配り・気配りを欠かさない。 一方で2010年に問題となった大相撲野球賭博問題に関しては、豪栄道・豊響が関与していた責任を取る形で、同年7月場所において謹慎処分を受けた。後年貴闘力は野球賭博で大負けした力士の借金を肩代わりした男気エピソードについて触れつつも「境川さんはギャンブルだけは嫌い!」と野球賭博問題は境川の体質によるものではないと断りを入れていた。 中立を襲名していた時から審判委員を務めていたが、2012年2月25日には、同月13日に急逝した同門の田子ノ浦の後任として、巡業部から審判部に異動した(事実上の再任)。田子ノ浦とは大学、部屋において先輩・後輩の関係でもあった。 2016年1月29日の日本相撲協会理事選挙に立候補し初当選、3月30日の職務分掌で九州場所部長に就任した。 また理事就任以降、審判部長代理を4度務めている。1度目は2018年3月場所で、これは前年10月に現職の審判部長である二所ノ関が病で倒れ、部長代理を11月場所は伊勢ケ濱が、さらに翌年1月場所は出羽海がそれぞれ1場所ずつ務めていた流れで、臨時担当することになったものである。この3月場所では、千秋楽結びの一番である鶴竜力三郎-髙安晃戦での微妙な判定に物言いをつけ、取り直しの決定を下すなど審判部長として存在感を示した。2度目は2019年7月場所で、やはり現職であった阿武松が高血圧の治療に専念すべくこの場所を休場することになったためである。審判部長の不在はこの翌年3月まで続き、境川は2020年1月場所・3月場所にも代理を務めた。 2020年1月30日の役員候補選は定員を超過しなかったため2008年以来6期12年ぶりに無投票となり、境川を含む理事候補10人、副理事候補3人が全員当選。同年3月23日の評議員会で正式に理事として選任された。 2024年1月26日の役員候補選は定員を超過しなかったため3期連続で無投票となり、境川を含む理事候補10人、副理事候補3人が全員当選。同年3月25日の評議員会で理事就任が正式に承認された。 大学と部屋の後輩だった舞の海秀平が1997年9月27日に新高輪プリンスホテルで結婚披露宴を催した際には媒酌人を務め、堂々とした挨拶ぶりで話題となった。 2014年7月30日、豪栄道の大関昇進の使者を愛知県扶桑町の境川部屋宿舎に迎えた日は、奇しくも境川の52歳の誕生日と重なり、「めでたい日が巡り合わせで同じ日になって縁を感じます」と嬉しそうに話した。 弟子に現役時代の番付を抜かれても「ラーメン1杯、コーヒー1杯ごちそうにならねえよ。えらそうなことが言えなくなるからな」と話した。豪栄道が大関昇進伝達式を迎えた日は前述の通り境川の52歳の誕生日でもあったが、関係者が境川のために誕生日ケーキを用意すると、豪栄道の出世を祝うことを優先して「いらん、やめろ!きょうは豪太郎の日や」と固辞した。このように、部屋の師匠として信念を持っている人物である。 「先人を敬う気持ち」を大切にする人物でもある。部屋の旅行で訪れたサイパン島バンザイクリフでガムや落書きで汚されている慰霊碑を見たとたん、頭に血が上り「これを見て、日本人は誰も怒らないのか」と急遽旅行の日程を変更し、洗剤とブラシを買い込んで弟子と一緒に汗だくになりながら、きれいに磨き上げた経験がある。ロサンゼルス巡業で担当親方として米国に先乗りした際、土俵はまだできていないのに現地作業員がまともに働かずさっさと引き揚げようとしたときに全員を集めて「お前ら、日本は戦争には負けたけど、魂や精神まで負けた訳じゃないんだぞ」と怒鳴りつけ、さらに通訳にその内容を直訳するように求めるなどして猛抗議に徹した。他にも出撃していく特攻隊員が家族に宛てた手紙を、厳しい稽古が終わった後で弟子たちに聞かせることが何度もあった。 2018年1月場所3日目、横綱審議委員会が苦言を呈していた白鵬の張り手・かち上げについて「白鵬は張って相手の顔を止めて、そこでヒジを狙っていくでしょ。だから批判される。これは本来のカチ上げではない。本来のカチ上げは立派な立ち合い。そこは勘違いされたくない」と明確に話した。 日大の3年後輩の久島海とは彼が大学に入学した頃から親しくしていた。久島海が入部して間もない頃は、まるでボディーガード隊長のように記者から彼を守った。久島海が平幕止まりで現役を終えた事に対して「三役にも上げられなかったことが一番悔しい」と話していた。 2020年6月10日早朝、境川部屋付近を流れる毛長川で女性が橋から転落し、一緒にいた女性が近くにある境川部屋へ救援を求めた。境川は力士約20人に救助に向かわせ、岸辺に流された女性を彼らが引き上げて救助した。なお、助けた女性を気遣って境川本人は多くを語っていない。 2021年5月場所4日目(12日)にNHK大相撲中継のラジオ解説に入り、3月場所の取組中に土俵上で頭部を強打して病院に搬送され、4月28日に急性呼吸不全で死去した弟子の三段目力士・響龍の闘病生活について初めて語った。「(幕下以下の力士は1場所の取組が7番であるため)3勝3敗で何が何でも勝ちたいという思いだった。一ヶ月の闘病だったが、つらい結果になってしまった」「最期は呼吸が自力でできなくなり、喉に穴を開けて機械を通しました。寝たきりで動かないと血栓ができるので、血液をサラサラにする薬を入れなければいけないけど、そうすると出血が止まらなくなる」と述べている。医療スタッフはあの手この手を尽くしてくれたが、亡くなった日に容態が急変してしまったという。 部屋の師匠としては安易なテーピングを良しとしない方針で、2024年11月場所2日目のNHKテレビ中継の解説では腕をテーピングでグルグル巻きにした弟子の平戸海について「自分だけ痛いとかかゆいとかってみっともないですよ」と苦言を呈した。 通算成績:316勝313敗27休 勝率.502 幕内成績:217勝252敗11休 勝率.463 現役在位:48場所 幕内在位:32場所 三役在位:4場所(小結4場所) 三賞:2回
敢闘賞:1回(1990年3月場所) 金星:3個(千代の富士3個) 各段優勝:十両優勝1回(1991年1月場所) 小林山 秀昭(こばやしやま ひであき):1985年3月場所 - 1987年1月場所 両国 秀昭(りょうごく - ):1987年3月場所 - 1989年7月場所 両国 梶之助( - かじのすけ):1989年9月場所 - 1993年1月場所(引退) 中立 梶之助(なかだち かじのすけ):1992年12月 - 1993年2月 中立 秀昭( - ひであき):1993年2月 - 2001年12月 中立 嗣人( - ひでと):2001年12月 - 2003年2月 境川 豪章(さかいがわ ひであき):2003年2月 - ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p27 ^ 角界関係者からのスカウト以外にも日本大学相撲部の田中英壽監督から熱心にスカウトされたこともあって、日本大学進学を決意したという。 ^ 小林は団体戦で活躍していたが、個人戦でも数回優勝の経験がある。 ^ 男気と大和魂 MSN産経ニュース 2014.8.21 14:01 (1/2ページ) ^ 佐藤祥子『相撲部屋ちゃんこ百景 とっておきの話15』 pp.143-144、149 河出文庫 2016年 ISBN 978-4309414515 ^ 【理事選】安芸乃島が新理事に!次の理事長は誰に? 貴闘力部屋 2024/02/13 (2024年2月23日閲覧) ^ “貴乃花親方は巡業部長 協会常勤の執行部から外れる” (2016年3月30日). 2018年3月5日閲覧。 ^ “頭部手術で療養中二所ノ関審判部長代理に境川親方” (2018年3月4日). 2018年3月5日閲覧。 ^ それぞれ代理として着任した時点では伊勢ヶ濱が大阪場所部長、出羽海が名古屋場所部長、境川が九州場所部長の職にあり、いずれも自身の担当場所でない時期に審判部長代理を担当している。なおこの3人による3場所間の代理職を経て、2018年3月場所後の改選では阿武松が審判部長に就任した。 ^ “休場の阿武松審判部長に代わり境川親方が審判長” (2018年6月29日). 2018年8月21日閲覧。 ^ 2019年9月場所・11月場所は九州場所部長としての職務がある都合から、審判部長代理は担当していない。この2場所は大阪場所部長である高島が務めている。 ^ 審判部長代理4場所の千秋楽表彰式では、最初の2回で鶴竜、続いて德勝龍誠、白鵬翔に優勝旗を授与している。 ^ 12年ぶり無投票で理事決定 相撲協会の役員候補選 日刊スポーツ 2020年1月30日12時18分(2020年1月30日閲覧) ^ 「親方の理事10人選任 日本相撲協会評議員会」『産経新聞』2020年3月23日。2020年3月23日閲覧。 ^ 「日本相撲協会、3期連続の無投票で理事候補と副理事候補決定 八角理事長続投なら実質5期目」『日刊スポーツ』2024年1月26日。2024年3月25日閲覧。 ^ 「日本相撲協会の八角理事長が続投決定、実質5期目 暴力問題の撲滅などを誓う」『日刊スポーツ』2024年3月25日。2024年3月25日閲覧。 ^ 豪栄道「もっと恩返し」師弟愛で初V&綱取りへ スポーツ報知 2014年7月30日 ^ 熱血漢の境川親方、大関の師匠に MSN産経ニュース 2014.7.30 18:29 ^ 豪栄道 師匠との絆でつかんだ大関 「大和魂」で初Vへ、横綱へ ― スポニチ Sponichi Annex 相撲 ^ 男気と大和魂 MSN産経ニュース 2014.8.21 14:01 (2/2ページ) ^ 『相撲』2018年3月号 p.46-47 ^ 人命救助も納得 境川親方は人望あるおとこ気の塊 日刊スポーツ 2020年6月18日10時1分(2020年6月19日閲覧) ^ “境川部屋力士20人、川に転落の女性救助 警視庁竹の塚署、感謝状贈呈へ”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2020年6月11日). https://mainichi.jp/articles/20200611/k00/00m/040/139000c 2020年6月11日閲覧。 ^ “境川部屋力士20人、橋から転落女性を救助 親方「当たり前のことしただけ」”. SANSPO.COM. (2020年6月12日). https://www.sanspo.com/article/20200612-INTM3TPT6BM7PD246DXOTLFB2M/ 2020年6月12日閲覧。 ^ “響龍さんの師匠、境川親方が初めて心境 取組事故で死去「何が何でも勝ちたいという思い。つらい結果になってしまった」”. zakzak (2021年5月13日). 2021年5月16日閲覧。 ^ 境川親方、平戸海はみっともない「腕にぐるぐるテープ巻いて土俵に上がって…」/九州場所 サンスポ 2024/11/12 06:00 (2024年11月12日閲覧) ^ 右股関節及び内転筋挫傷により4日目から途中休場、8日目から再出場 ^ 左大腿部屈筋挫傷により初日から休場、5日目から出場 ^ 腰痛により11日目から途中休場 大相撲力士一覧 小結一覧 現役年寄一覧 両国 梶之助 - 日本相撲協会 表 話 編 歴 出羽海 中立 高崎 境川 関ノ戸 山科 振分 立田川 武隈 春日野 富士ヶ根 二十山 竹縄 三保ヶ関 清見潟 岩友 玉ノ井 雷 入間川(停年後再雇用) 藤島 大鳴戸 山分 待乳山 錦島 武蔵川 二子山 山響 小野川 木村瀬平(木瀬) 若藤 稲川 井筒 千田川 尾上 千賀ノ浦 北陣 式守秀五郎(式秀) 立浪 二所ノ関 中村 佐渡ヶ嶽 粂川 白玉 浜風 荒磯 尾車 押尾川 鳴戸 秀ノ山 片男波 熊ヶ谷 田子ノ浦 西岩 放駒 松ヶ根 芝田山 峰崎(停年後再雇用) 高田川 花籠(停年後再雇用) 大嶽 阿武松 不知火 常盤山 湊川 湊 錣山 時津風 中川 枝川 荒汐 浦風 伊勢ノ海 勝ノ浦 甲山 立川 春日山 鏡山(停年後再雇用) 音羽山 陸奥(停年後再雇用) 追手風 立田山(停年後再雇用) 高島(停年後再雇用) 高砂 若松 錦戸 九重 谷川 佐ノ山 大山 八角 陣幕 東関 君ヶ濱 伊勢ヶ濱 楯山 宮城野 間垣 安治川 大島 玉垣 浅香山 友綱 朝日山 桐山 出来山 表 話 編 歴 境川 関ノ戸 山科 振分 立田川 平戸海 佐田の海 黒姫山 西ノ龍 豊翔 阿蘇ノ山 對馬洋 佐田ノ輝 謙信 清水海 克乃富士 大錦龍 瑞天龍 房州山 佐田ノ国 米沢龍 肥州山 佐田の城 勝誠 雄志 床隆 床輝 出羽海部屋 中立部屋 長崎県出身の大相撲力士 日本大学出身の大相撲力士 長崎県立諫早農業高等学校出身の大相撲力士 1962年生 存命人物 長崎県出身の人物 日本相撲協会の役員 ISBNマジックリンクを使用しているページ ウィキデータにある日本相撲協会識別子
2024/11/20 23:58更新
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