佐田の山晋松の情報(さだのやましんまつ) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
佐田の山 晋松さんについて調べます
■名前・氏名 |
佐田の山晋松と関係のある人
出羽錦忠雄: 佐田の山晋松の指導を担当し、「(佐田の山)晋松が綱を取ったらワシが太刀持ちをやるからそれまで引退しない」と常日頃から周囲に言っていた。 舞の海秀平: なお、師匠にあたる佐田の山晋松も日本会議の代表委員を務めている。 玉の海正洋: また、大関昇進までに栃ノ海晃嘉・佐田の山晋松から2個ずつ金星を獲得し、1966年9月場所に関脇で11勝4敗の成績を上げ、ライバルの大関北の冨士勝明(当時)より1場所遅れて大関へ昇進した。 栃ノ海晃嘉: 2017年4月27日に出羽海一門で鎬を削った佐田の山晋松(出羽海)が79歳で死去したことで横綱経験者の中では最年長者・最古参となり、戦前・戦中生まれでの横綱経験者の存命は栃ノ海と北の富士勝昭の2人だけとなった。 栃ノ海晃嘉: この場所は新大関として佐田の山晋松がいたが、新大関の在籍場所で関脇以下の優勝は、戦後の15日制下では史上2例目だった。 大鵬幸喜: 協会在籍中には理事長や執行部在任経験がなく(1期のみ審判部副部長を務めたが脳梗塞で退任し、地方場所部長の職が長かった)、先に定年退職していた理事長経験者の佐田の山晋松と豊山勝男が健在にも拘わらず館長職に就いたのは異例の抜擢と言われている。 常ノ花寛市: ただし、自身の師匠時代に入門した佐田の山晋松と北の富士勝昭は常ノ花の没後に横綱となっている。 柏戸剛: しかも同い年(学年は柏戸が1つ下)の栃ノ海晃嘉・佐田の山晋松が先に引退してしまい、自分が引退すれば横綱が大鵬一人になる事情から引退できず、肝臓・腎臓も悪化させて成績不振も多かった。 千代の山雅信: 出羽ノ花の次代の「出羽海」こそは、九重だと本人も周囲も思っていたが後に佐田の山晋松が出羽海の婿養子となり、しかも出羽海が部屋の土地・建物全てを「佐田の山」名義に書き換えていた。 出羽錦忠雄: 出羽海一門の大鵬攻略の参謀役を担い、同部屋の佐田の山晋松、一門の栃ノ海晃嘉、栃光正之ら後輩たちにアドバイスを送っていた。 |
佐田の山晋松の情報まとめ
佐田の山 晋松(さだのやま しんまつ)さんの誕生日は1938年2月18日です。長崎出身の相撲のようです。
父親、母親、卒業、現在、引退、結婚、映画、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。2017年に亡くなられているようです。
佐田の山晋松のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)佐田の山 晋松(さだのやま しんまつ、1938年2月18日 - 2017年4月27日)は、長崎県南松浦郡有川町(現・新上五島町)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第50代横綱。本名は市川(旧姓:佐々田)晋松(いちかわ しんまつ)。 南松浦郡有川町(現:長崎県南松浦郡新上五島町)で船大工を営む家に生まれる。子どもの頃から材木を運んだり、カンナをかけたりして体を作っていた。幼少期に大の相撲好きだった父親から、郷土の英雄とされている五ツ嶋奈良男の話を聞かされ、土地相撲に連れて行かれる内に相撲に憧れを抱き、角界入りを希望するが母親からは猛反対された。長崎県立上五島高等学校に進学後は相撲部に所属し、3年生で長崎県大会に参加を勧誘されて一度は辞退したものの、強引な説得に根負けして補欠選手として出場するが、いざ対戦してみるとほとんど負けなかったことから自信が付き、角界入りを強く望むようになった。1955年のある日、栃錦清隆・千代の山雅信一行が地元・五島に巡業に来た際に、高校教諭から千賀ノ浦を紹介されたが、郷土の英雄である五ツ嶋への憧れが強かったことから出羽海部屋へ入門、翌日からは洗面道具と下着だけを持参してそのまま巡業に参加したが、高校の卒業証書は教諭の計らいでようやくもらえた。 1956年1月場所で初土俵を踏むと、稽古では部屋のすぐ前に立っていた電信柱を鉄砲柱代わりとして打ちこむなど努力を重ねた。後に佐田の山は「この柱、現在はコンクリート製ですが、私が若い頃は木製でした。部屋での稽古が終わった後、この電信柱に向かって何度も何度もテッポウを繰り返しました。この電信柱が私の基礎を作ったと思っています」と振り返っている。各段優勝こそないものの負け越すことなく1960年3月場所で新十両昇進、1961年1月場所で新入幕を果たした。新入幕の場所では10勝5敗の好成績を挙げ、同年3月場所では前頭4枚目まで躍進するが、場所前の稽古で右足首を捻挫する。稽古熱心さから「『横綱、大関ってどんなだろう』と内心ワクワクしていた」というが、出羽海からは「まだ若いから無理するな。それより足首をしっかり治せ。慢性になるとまずいぞ」と言われて全休する。これによって一度は番付を下げるが、休場中に体重が急激に増加して力を増すようになった。同年5月場所では12勝3敗の好成績で、三役経験の無い力士による幕内最高優勝を果たしたが、成績もさることながら対戦した三役格力士は富士錦猛光のみ、しかもこの場所で十両優勝を果たした清ノ森政夫と対戦して敗れているため、周囲からは優勝の祝福より「最高優勝は十両(の清ノ森)ではないか」との意見まで出る始末だった。このために翌場所以降は、通常なら幕内上位や三役以上、横綱と対戦することが無い幕内下位の力士でも、成績次第で終盤に取組が組まれるよう編成するきっかけになったと言われている。 幕内最高優勝を新入幕から僅か3場所で果たした佐田の山は一気に番付を上げ、東前頭2枚目の地位で迎えた1961年7月場所は朝潮、若乃花の両横綱から金星を挙げ、11勝4敗の好成績を挙げて殊勲賞を受賞した。同年9月場所では小結を通り越して関脇に昇進し、この場所を8勝7敗と勝ち越すと、それ以降三役に定着する。1962年3月場所は初日から10連勝して、13勝2敗と前場所以上の好成績を残した。この場所を含めて本割で5戦全敗だった横綱・大鵬幸喜との優勝決定戦に臨み、見事に勝利して2度目の幕内最高優勝を果たすと同時に場所後の大関昇進を確実にした。快進撃を続ける佐田の山に対し、部屋の大先輩である出羽錦忠雄は佐田の山を厳しく熱心に指導し、「晋松(佐田の山)が綱を取ったらワシが太刀を持つからそれまでは引退しない」と言い、佐田の山の横綱昇進を心待ちにしていたが、1964年9月場所を最後に現役を引退し、太刀持ちは叶わなかった。大先輩の引退を受けてより早期の昇進を目指す佐田の山は一層稽古に励み、同年9月場所から3場所連続で13勝2敗の好成績を挙げ、1965年1月場所には3度目の幕内最高優勝を果たして横綱に推挙された。長年にわたり、「平幕優勝した力士は横綱や大関に昇進できない」というジンクスが存在していたが、佐田の山によって見事に打ち砕かれた。昇進時の口上は「ありがたくお受けいたします」のみであった。 出羽錦忠雄が待ち望んでいた横綱昇進をようやく叶えた佐田の山は、横綱2場所目の1965年5月場所で14勝1敗の成績を残し、4度目の幕内最高優勝を果たした。しかしこれ以降は持病の高血圧に加え、胃腸炎も患い2年以上に渡って優勝から遠のいた。それでも直向きに土俵に立ち続け、1967年11月場所では12勝3敗、1968年1月場所では13勝2敗の成績を挙げて自身初の連覇を達成した。佐田の山はこれが最後の華となり、同年3月場所で序盤に3敗を喫すると、あっさり現役引退を表明した。まだ30歳になったばかりで悲願だった連覇を果たし、周囲からはさらに優勝回数を重ねるだろうと思われていた矢先の現役引退は角界に衝撃が走り、「高見山大五郎に金星を献上したことが悔しかったのではないか」という憶測まで流れたが、佐田の山自身は「弟弟子である北の富士勝昭に敗れて初優勝を許した時点(1967年3月場所)で考えていた」という。戦前に活躍した栃木山守也、常ノ花寛市のように出羽海一門の横綱の「引き際の潔さ」という伝統を受け継いだとも言われたが、この引退には、「晩年の柏戸、大鵬を追いて自分だけ先に引退とは身勝手だ。功利的だ。」という意見も飛び交ったが、時津風理事長は「いさぎよい引退だ。引退することで横綱の権威を高めてくれた。」と述べた。 同年6月に蔵前国技館で行われた引退相撲では、直近の5月場所で大鵬幸喜・柏戸剛の両横綱が休場したことを受けて、露払いに同部屋の福の花孝一、太刀持ちに海乃山勇を従えて最後の横綱土俵入りを行った。引退相撲における横綱土俵入りは現役横綱が露払い・太刀持ちを務めることが通例だった当時としては異例の組み合わせだが、2003年の貴乃花光司以降は、大関以下の現役力士が務める場合も増えた。 引退後は、大関時代に出羽海の娘と結婚して市川家の婿養子となっていたために、既に横綱昇進の時点で部屋の土地および建物が佐田の山名義となっていた。このことから佐田の山が出羽海部屋の次期継承者であることは誰が見ても明白だったが、出羽海は佐田の山の引退を受けて即座に部屋を継承させ、自身は過去に襲名していた「武蔵川」に戻った。これには佐田の山も「引退して少しは楽になるかと思ったらとんでもない。ますます大変になった。こんなことならもう少し現役を続ければ良かった」と発言していたという。1969年12月の時津風(14代)との対談においても「実際、現役の時には苦しいこともあったけれども、相撲をとって自分本位に一生懸命働いていれば自分のためになると同時に部屋のためになる。それを若い者も見習ってくれるし、非常に良かったんだけれでも今度は反対ですからね。人のことでも世話していかなきゃならんし、指導せんといかんしね」と苦労を語っている。出羽海部屋継承の時点では自身を含めて11名の年寄が在籍していたが、全員が先輩格ばかりだったために部屋を継承しても名実が伴わない面が多かったと話していた。 出羽海部屋では常陸山谷右衛門が一門を創設して以来、「不許分家独立」の不文律が存在し、当時の大坂相撲から一門へ加入後に消滅した部屋の再興を除いて独立が無かった(武隈・九重は一門を破門された)が、現役時代から可愛がっていた三重ノ海剛司が独立の意思を持っていることを知るとこれを許可し、1919年の栃木山守也(春日野部屋を創設)以来となる円満独立となった。出羽海は独立について「私は不文律にはこだわらない。優秀な親方であればどんどん弟子を養成させたい。協会運営も部屋運営もこれからますます複雑になってくるから、活発に動き回らないとダメなんです」と話している。その後も出羽海一門では1980年代まで分家独立が相次ぎ、2019年9月時点では出羽海一門が最も所属部屋数の多い一門となった。 稽古の厳しさも有名で、朝5時には稽古場に下りて土俵に鋭い視線を送り続けた出羽海について、小城ノ花昭和は「師匠(佐田の山)が入って来ると稽古場がピリッと引き締まった。少しでも気を抜くと怒られ、出稽古に来る他の部屋の力士からも『出羽海部屋は入りにくい』と言われた」と語るほどだった。また、幕下以下の力士は部屋にいると何もすることがなく、フラフラし出すことから午後は四股を踏ませ、特に相撲を知らない序二段の力士は無暗に稽古土俵に上げてぶつかり稽古をやらせても稽古にならないため、当番的に幕下または三段目の胸を貸すのが上手い力士を土俵に上げ、入門1年未満の新弟子をぶつからせた。このように弟子の指導には非常に厳しい一方で、弟子の龍興山一人が1990年2月に急逝した際には通常なら番付から名前が消されるところを、3月場所が龍興山の地元・大阪で開催されることから「名前だけでも凱旋させてあげたい」と尽力し、龍興山の自己最高位となった東前頭5枚目に名前を記載した。 師匠・出羽海としては、先代から引き継いだ三重ノ海剛司を横綱へ昇進させたほか、関脇・出羽の花義貴、小結・大錦一徹、佐田の海鴻嗣、舞の海秀平などの多くの幕内力士を育成した。 三重ノ海の横綱昇進披露宴の時には、普通は大関・横綱昇進で集まったご祝儀の3割を師匠が取る仕来たりとされているのに対して、出羽海は披露宴で集まった莫大なご祝儀全額をそっくりそのまま三重ノ海に渡して、金銭にきれいな姿勢を見せて人々を驚かせた。裏でウジウジ他人を中傷したり、チクチク弱いものいじめをするようなケチ根性が全くない、肚を割って話した人はすごく気持ちがいい人物と一様に話す、人間的にスカッとした親方だったという。 「蔵前の天皇」と言われた武蔵川の娘婿で、角界の保守本流・出羽海一門の本家である出羽海部屋を継承したことから、将来の理事長候補としてみなされており、師匠であり岳父の武蔵川は、出羽海王国を築き上げた角聖・ 常陸山の話や、「相撲を昔ながらの伝統として存続させながら、同時に時代にあった姿に変えていかねばならない。それには世界の情勢、日本経済の動向、時代の流れを見抜く頭脳が必要だ。不景気の時に相撲が反映したのは江戸時代の話で、世の中が不景気なら相撲も不景気になる。」という考えを基に帝王学を授けた。武蔵川は出羽海を現役時代のライバルだった 時津風(14代)と仕事で組ませたが、それは時津風が出羽海同様に引退間もなく若くして一門の総帥部屋である名門を継承した境遇であるのと、当時の角界では珍しかった大学卒であり、引退後に政財界と付き合うために大学卒の思考を学ばせるためだった。佐田の山は引退後、武蔵川の教えの通りに膨大な読書をした。 1970年の日本相撲協会役員改選では、出羽海一門の親方衆は長らく役員を務めた秀ノ山と交代して、若き総帥・出羽海を監事に据える決定をしたが、「自分はまだ早い、先輩の秀ノ山さんが引き続き監事をやってください。」と自ら先輩に譲り出羽海一門の親方衆を茫然とさせた。秀ノ山親方が逝去した後の1972年に監事・審判部副部長に主任(1972年から1期)、1974年から理事を務め、名古屋場所担当部長、指導普及部長、巡業部長、事業部長を歴任する。 1980年には相撲協会ナンバー3(当時)のポストである巡業部長に就任した時は、最初の地方巡業で事務役や土俵作りを担当する黒子の行司、呼び出し一同を集め、「なんでもいい、言いたいこと、筋の立たない話があれば申し出てみろ。もっともな話は取り上げ、改善しようじゃないか。」と切り出して、行司や呼び出しを驚かせる。意見を具申すると、理にかなった意見は取り上げられて改善されたので、これまで下積みの働きにただ我慢するしかなかった行司、呼び出しからの深い尊敬を集めた。 出羽海巡業部長の登場は、二期四年続いた”土俵の鬼”二子山巡業部長の後任だったため関取衆もはじめ好奇の眼で迎えたが、地方巡業先の稽古土俵に座った出羽海は、土俵の鬼同様の厳しさ、怖さが滲み出て、相撲記者から「いま関取全員を有無言わさずに稽古に引っ張っていける双璧が二子山と出羽海だ」と言われ、関取衆は地方巡業の稽古土俵で気が抜けないと言われた。 1982年の役員人事で時津風(14代)と共に協会執行部である在京常勤役員に抜擢され、両国国技館建設に邁進する春日野理事長・二子山理事長代行兼事業部長体制を支える要の位置に就き、業務遂行の随所で「斬れ者」ぶりを発揮した。 1988年に二子山理事長が誕生すると、協会ナンバー2の事業部長に就任、次期理事長見習として協会運営を遂行した。 1992年からは二子山理事長の勇退によって日本相撲協会理事長に就任する。 時津風(14代)をナンバー2の事業部長、同門の親友である春日野(14代)をナンバー3の巡業部長に、役員待遇で放駒(17代)を在京常勤・執行部に起用する。 1996年には境川と名跡を交換し、出羽海 智敬から「境川 尚」となった。3期6年に渡る理事長時代には、 外国人力士の入門規制(1992年) 新規入門力士の年齢制限(1992年) 幕下付出の基準設定(1992年) 巡業の勧進元興行から協会自主興行への変更(1995年) しかし、1996年9月に年寄名跡の協会帰属・売買禁止という改革私案を打ち出すと、私案に反対する親方が続出し、1997年5月には私案の廃案に追い込まれた。当初、マスコミは反主流派を「守旧派」として批判したが、実際には当時の年寄株の取得相場が数億円単位で推移しており、株取得によって多額の負債を抱えている親方にとって売買禁止は死活問題だった。その一方では以下のような境川個人の立場に対する批判も噴出していた。 年寄名跡の「協会による一括管理」という厳格な方針を打ち出しながら、出羽海の後継者を名跡変更で指名していること 相撲茶屋の利権を握る先代の婿養子で、退職後の生活も保障済みという既得権益を得る立場にあること こうした批判の中、反主流派の代表格として間垣・高田川が1998年1月の役員改選で理事に立候補し、1968年の機構改革以来で初めてとなる「理事選挙」が実施された。結果として2名とも理事に当選したため、境川は混乱の責任を取る形で4期目の理事長続投を断念した。この直後に還暦を迎えるが、一連の騒動によって還暦土俵入りを辞退し、使用予定だった赤い綱を受け取るだけとなった。 また、理事長時代の1992年9月場所初日の協会挨拶では、結びの日付で「平成4年」と言うべきところを誤って「昭和4年」と言ってしまい、その直後に場内アナウンスで訂正される場面もあった。 一連の騒動によって4期目を断念したものの理事職には留まり、1998年からは相撲教習所の所長、2000年からは勝負審判の審判部長を歴任する。理事長経験者による現場復帰は異例で、自身も1976年以来24年ぶりの審判部長着任だった。この時代には大関昇進目安を満たしていた琴光喜啓司の昇進を見送ったことで話題となった。 2002年からは日本相撲協会の相談役に就任し、2003年1月場所後には直弟子である両国梶之助と名跡交換を行い、年寄・中立を襲名したのち同年2月18日に停年退職した。退職後はスポーツ報知専属の相撲評論家を務め、年間最優秀力士賞選考委員も務めた。 舞の海秀平のコラムによると、佐田の山は亡くなる10年ほど前に地元・五島列島で開催された少年相撲大会に顔を見せたのが生涯最後の帰郷となった。舞の海は佐田の山の死後、「この時から病を患っていたのかもしれない」と当時を推測していた。元新聞記者の室雄二のブログによると70歳を過ぎた頃より認知症が悪化したといい、2009年の報知年間最優秀力士賞の選考会が行われた際には、会場には到着したものの記帳時に自分の名前を書くことが出来なかったという。後日、「これ以上皆様にご迷惑を掛けたくないので、選考委員を辞退させて頂きたい」という連絡が報知新聞社の関係者へ来ており、記者が佐田の山に会ったのはこれが最後だった。 2010年9月1日の若乃花幹士死去以降、元横綱の最年長だったが、2017年4月27日午前3時15分、肺炎により死去していたことが同年5月1日に公表された。79歳没。故人の遺志により、葬儀は親族のみで執り行われた。2017年に入ってからは心筋梗塞で入退院を繰り返していたという。
取り口最大の障壁、大鵬「技のデパート」舞の海
1991年3月場所開催中のある日、舞の海は交通渋滞によって土俵入りに参加出来なかった。このことについて翌日、師匠から雷を落とされるか、破門されるかと恐れていたところ、出羽海からは「昨日どうして勝ったかわかるか?土俵入りに遅れたから緊張しないで相撲が取れたのだ。今日も遅刻してみろ」と豪快に笑い、お咎め無しで済んだという。 部屋での稽古中、舞の海は相手力士の歯を折ってしまったことがある。差し歯には高額な費用が必要だったために持ち合わせが無く、意を決して出羽海に事情を話して借金した。後日返済に行くと「何のことだ?お前に貸した覚えはない。そんなことより相撲を頑張れ」と突っぱねられたという。 舞の海が引退した時は、既に部屋を10代出羽海(元関脇・鷲羽山)に譲渡して境川親方となり、理事長も退いていたが、舞の海が引退挨拶に訪れて協会には残らず外から相撲界を支える事を告げられた佐田の山は「外から支える人も大切だ、頑張れ」と舞の海に伝えて送り出した。その後、現在まで佐田の山の弟弟子である北の富士勝昭と共に舞の海はNHKの専属解説者として活躍している。 2024年9月場所2日目のNHK大相撲中継ラジオ解説で、実況の髙木優吾アナウンサーが新入幕の白熊が初日に手にした懸賞について、師匠の二所ノ関(元横綱・稀勢の里)に手渡したことを紹介すると、舞の海は「私は渡したことないですね。付け人と一緒に食事にいったりとかですね。たぶん、私の師匠の佐田の山さんは持っていっても受け取らないしょうね。自分のために使えと。そういう親方でしたね」と明かしていた。 理事長時代に行った施策についてのその後の評価は様々である。 外国人力士の入門規制については、2002年1月に次代の時津風理事長が従来の総数40名から「1部屋1人まで」とする方針に変更しており、後に放駒理事長によって2011年1月から帰化者も含む外国出身力士の制限に強化された。また、幕下付出の基準設定は時津風理事長によって基準が強化されたが、北の湖理事長が「三段目付出制度」を創設(2015年5月)して、強化された基準の一部を緩めている。さらに、新規入門力士の年齢制限は2016年9月に八角理事長によって、付出基準に満たなくても各種競技で実績のある者に限り25歳未満となり、従来の一律23歳未満から緩和されている。 理事長としての失脚の原因となった年寄名跡の問題は、時津風理事長の下で改めて審議され、1998年5月に以下のような施策が実施された。 第1に「大関経験者の時限付き年寄襲名の許可」と「準年寄制度の創設」である。引退時に年寄名跡を習得していない場合、現役時代の四股名をそのまま時限付き(大関は3年、関脇以下は2年)で年寄名として名乗ることを認めるものである。従来までは横綱のみ5年間の「一代年寄」として名乗ることが許されていた制度を門戸開放する意味があった。第2は「年寄名跡の複数所有、貸借禁止」で、これは高額取引されている年寄名跡を取得することが出来ない者が、本来の所有者から借り受けて襲名する不透明さが慣習化していたため、これを解消する狙いがあった。 その後、「大関経験者の時限付き年寄襲名許可」は定着し、栃東大裕(2007年5月)と琴欧洲勝紀(2014年3月)に適用された。また「年寄名跡の複数所有禁止」は定着したものの、貸借については禁止措置後も表面上の名義のみ変更して貸借する例が後を絶たず、有名無実化したことでこの措置は2002年9月に解除された。さらに準年寄制度も短い任期(創設時は2年、2002年9月以降は1年)で年寄名跡を取得することが困難であり、むしろ任期切れを境に年寄名跡を借りて襲名する例が多くなったことで制度としての意義を失い、2007年11月に廃止された。 理事長として1996年9月に打ち出した「年寄名跡の協会帰属、売買禁止」私案は、公益法人の評議員資格の高額売買問題にメスを入れるというドラスティックな改革案だった。しかし、1990年代の相撲人気の余波もあって改革の機運には程遠く、同時に親方衆の反発と理事長自身への批判を生んだことで最終的には撤回に追い込まれた。一方で、2010年代の公益財団法人認定をめぐる議論では、名跡の取得に絡む金銭授受の禁止や罰則規定案が盛り込まれ、その意味でこの私案はこれらを先取りするものだった。その後、公益財団法人移行に伴い2013年12月に年寄名跡証書の協会への返還、管理が実現し、ここでようやく年寄名跡の襲名に際しての金銭授受が禁止された。しかし、協会の名跡買い取りが困難な上に、親方衆の高額負債問題が解決しないこともあり、年寄株保有者の後継者任命権や、継承者からの「顧問料・指導料」受け取りは認められている。そのため、従来の売買との違いが不明確という指摘がある。 四股名は7代出羽海が本名から取って適当に付けたものであったが、佐田の山本人は四股名で験を担ぐタイプではないと割り切っており、一時期のみ「佐田乃山」と改名したがすぐに元に戻し、そのまま引退まで改名しなかった いわゆる「海の男」であったため酒や船に強かった。現役時代のある時、巡業のため船で沖縄に向かった際、他の力士は鹿児島で名物料理を鱈腹食べて乗船後、強烈な船酔いに襲われて嘔吐する力士が続出した中で、佐田の山はもがき苦しむ仲間を尻目に、黙々と一升瓶で飲み続けたという。 1966年7月場所後に弟弟子の北の冨士勝昭が大関昇進した際には、自身の岳父でもある師匠の8代出羽海及びその夫人が不在だったことから異例のことながら師匠代理という形で北の冨士の大関昇進伝達式の立会人を務めた。 1967年には映画・007シリーズ第5作「007は二度死ぬ」に本人役(蔵前国技館の支度部屋を訪問したジェームス・ボンドに升席の券を渡す役)でカメオ出演し、ボンド役のショーン・コネリーと共演を果たしている。 1969年12月に時津風と対談した際に、弟子集めに苦労していることを明かした。「自分の若手時代は弟子など勧誘しなくとも自分から志願して来てくれたもので、自ら弟子集めのために足を使った親方などほとんどいなかった」と話し、時津風も「以前の相撲部屋は将来性など考えずにどんどん弟子を採用したが、現在では見込みのない力士に苦労させても仕方がないと考えて、自分の方から断るケースもある」と返していた。元来大相撲というのは意地悪されても負けん気を発揮して向かって行くぐらいの強さがないと大成しない世界であって、近頃の若者は楽をすることばかり考えていて自分に甘いと苦言を呈しつつも、脅かすように頭ごなしに叱るだけでは弟子が付いて行かないと苦慮するところを語っている。そんな中でもやる気のない力士には部屋を去ってもらって結構だという考えの下で、褌担ぎにもある程度厳しい稽古を課していた。 理事長時代にはテレビのインタビューであるにも関わらず、公然と一人称を「オレ」と称して答えたこともあるなど、組織のリーダーとして疑問を持たれるような言動も見られた。 相撲協会では、「引退」という呼び方は現役力士が引退して親方として協会に残る時のみで、「退職」という呼び方も行司や呼出、床山を含み停年で退職した場合のみで、現役力士が協会に残らず引退した場合や、親方、行司、呼出、床山等が停年前に協会を退職した場合は全て「廃業」だった。しかし、自身の理事長時代に旭道山和泰が衆議院議員選挙に立候補した為に廃業届を提出、廃業届はすぐ受理はせず、旭道山の当選後に受理したが、その際に「廃業という言い方は切り捨てるようで、良くない」という理由で、現役力士は協会に残る残らない関係無しに「引退」、親方、行司、呼出、床山等も停年前に退職しても「退職」と呼び方を変更して、「廃業」という呼び方は廃止された。 理事長時代は、実力で昇進基準を満たせる大関がいなければたとえ番付に横綱が0人であっても補充はしない方針を明確にしていた。 通算成績:591勝251敗52休 勝率.702
大関成績:176勝66敗13休 勝率.727 現役在位:71場所
大関在位:17場所 三役在位:4場所(関脇4場所、小結なし) 連勝記録:25(1965年5月場所2日目 - 1965年7月場所11日目) 年間最多勝:1965年(74勝16敗) 連続6場所勝利:77勝(1964年9月場所 - 1965年7月場所) 通算連続勝ち越し記録:16場所(1963年5月場所 - 1965年11月場所) 幕内連続2桁勝利記録:8場所(1964年9月場所 - 1965年11月場所) 幕内連続12勝以上勝利記録:7場所(当時2位タイ・現在歴代7位タイ、1964年9月場所 - 1965年9月場所) 幕内最高優勝:6回(1961年5月場所、1962年3月場所、1965年1月場所、1965年5月場所、1967年11月場所、1968年1月場所) 三賞:3回
敢闘賞:1回(1961年5月場所) 技能賞:1回(1962年3月場所) 雷電賞:2回(1961年5月場所、1962年3月場所) 金星:2個(若乃花1個、朝潮1個) 他に優勝決定戦で柏戸に1敗、北葉山に1敗、大鵬に1勝1敗がある。 佐々田 晋松(ささだ しんまつ):1956年1月場所 - 1959年3月場所 佐田ノ山 晋松(さだのやま - ):1959年5月場所 佐田の山 晋松(さだのやま - ):1959年7月場所 - 1963年3月場所 佐田乃山 照也(さだのやま てるや):1963年5月場所 - 1963年11月場所 佐田の山 晋松(さだのやま しんまつ):1964年1月場所 - 1968年3月場所 出羽海 晋松(でわのうみ しんまつ):1968年3月 - 1968年5月 出羽海 智敬(でわのうみ ともたか):1968年5月 - 1996年1月 境川 尚(さかいがわ しょう):1996年1月 - 2003年1月 中立 尚(なかだち しょう):2003年1月 - 2003年2月17日 ^ 歴史的に九州は裕福な商人の多い地域で、口減らしの風習が無かった。また相撲を職業にするという考えも当時根付いておらず、力士になるのは、特別に能力のある人に限られていた。 ^ その後、三役未経験者による幕内最高優勝は朝乃山英樹(2019年5月場所)まで途絶えた。 ^ 2023年11月場所現在まで幕内最高優勝力士がその場所で十両力士に敗れた唯一の記録である。 ^ ただし、この場所の佐田の山以降も、富士錦の他に若浪順が横綱・大関との対戦がない中で平幕優勝を果たしている。 ^ 佐田の山以降に平幕で幕内最高優勝を果たした力士のうち、琴光喜啓司・栃ノ心剛史が大関へ、貴乃花光司が横綱に昇進したほか、魁傑將晃・照ノ富士春雄は大関陥落後に平幕優勝を果たしたことで大関に返り咲いた(照ノ富士はその後横綱に昇進)。 ^ 当時、高見山は高砂部屋に所属する幕内通算2場所目の新鋭で、この佐田の山からの金星が自身の初金星でもあった。 ^ 境川が婿に入った市川家は相撲茶屋で最大規模の「四ツ万」のオーナー。 ^ 1968年の機構改革以降、同年の監事(現在の副理事)選挙を除いて役員改選はずっと無投票当選が続き、10人の理事枠にしても改選前に5つの一門がそれぞれ候補者を2人に絞ることが慣習化していた。 ^ 現役晩年期の相撲誌には「連覇を成し遂げたことで柏戸を越えた」など書かれた記事もあり、当時としては柏戸より評価が高かった。 ^ この時点での相撲部屋数は53であり、総数としては拡充されている。その後の部屋数も常に40を上回る数で推移している。 ^ 右足首関節捻挫により初日から全休 ^ 大鵬と優勝決定戦。 ^ 腰部捻挫により5日目から途中休場 ^ 北葉山と優勝決定戦 ^ 胸部剣状突起軟骨骨折により12日目から途中休場 ^ 柏戸・明武谷と優勝決定戦 ^ アレルギー性胃腸症・本態性高血圧・感冒により11日目から途中休場 ^ アレルギー性胃腸症により10日目から途中休場 ^ アレルギー性胃腸症により初日から全休 ^ “第50代横綱・佐田の山、肺炎のため死去 79歳”. スポーツ報知. (2017年5月1日12時14分). https://web.archive.org/web/20170501090855/http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20170501-OHT1T50142.html 2017年5月1日閲覧。 ^ 「正代」は熊本出身で58年ぶりの大関昇進 横綱や大関になぜ九州出身者が少ない? デイリー新潮 2020年10月12日掲載 (2020年10月12日閲覧) ^ 部屋前の電柱逸話や酒豪伝説と「フルーツパフェ」注文のギャップ…元横綱・佐田の山悼む 2017年5月2日5時45分 スポーツ報知 ^ 『大相撲ジャーナル』2017年7月号 p94-96 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p22 ^ Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p63 ^ ぶれなかった潔さ(2/3) 産経ニュース 2017.6.1 14:46 ^ 『プレジデント = President』1983年2月号,角界ニューリーダーが修業した「親方道」とは――大相撲新時代を担う若き総帥・出羽海は、師匠武蔵川から常陸山の教えを受けた / 石井代蔵/p136,プレジデント社,1983-02 ^ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p60-63 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK) p11 ^ 「死去の弟子を番付で凱旋させた/元横綱佐田の山悼む」2017年5月2日日刊スポーツ ^ 『プレジデント = President』1983年2月号,角界ニューリーダーが修業した「親方道」とは――大相撲新時代を担う若き総帥・出羽海は、師匠武蔵川から常陸山の教えを受けた / 石井代蔵/p134,プレジデント社,1983-02 ^ 『週刊現代』1992年2月8日号「渦中の人(第42回)--出羽海智敬大相撲新理事長に期待と二つの弱点」p188~192 ^ 『プレジデント = President』1983年2月号,角界ニューリーダーが修業した「親方道」とは――大相撲新時代を担う若き総帥・出羽海は、師匠武蔵川から常陸山の教えを受けた / 石井代蔵/p140,プレジデント社,1983-02 ^ “柏鵬、若貴…大相撲花の時代を生きた佐田の山 - こちら噂の情報局”. 柏鵬、若貴…大相撲花の時代を生きた佐田の山 - こちら噂の情報局. 2021年6月28日閲覧。 ^ “第50代横綱の佐田の山が死去 優勝6回、79歳”. 日刊スポーツ (2017年5月1日). 2020年11月17日閲覧。 ^ “「元横綱・佐田の山の市川晋松さん死去「柏鵬時代」に6度優勝”. スポーツ報知. (2017年5月2日6時0分). https://web.archive.org/web/20170502095518/http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20170502-OHT1T50058.html 2017年5月2日閲覧。 ^ “「007は二度死ぬ」でショーン・コネリーと共演した佐田の山、その真相は”. スポーツ報知. (2017年5月2日5時0分). https://web.archive.org/web/20170502095215/http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20170502-OHT1T50066.html 2017年5月2日閲覧。 ^ 相撲人名鑑(佐田の山 晋松) ^ Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p77 ^ 『大鵬自伝』(大鵬幸喜著、ベースボールマガジン社刊、1971年)P132-135 ^ 『大鵬自伝』、P199 ^ NHKビデオ「大相撲大全集・昭和の名力士」 ^ ぶれなかった潔さ(1/3) 産経ニュース 2017.6.1 14:46 ^ 舞の海氏「私の師匠の佐田の山さんは持っていっても受け取らない」 サンスポ 2024/09/09 18:58 (2024年9月10日閲覧) ^ “第50代横綱・佐田の山死去 理事長時代に改革案次々”. スポニチアネックス. (2017年5月2日5時30分). https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2017/05/02/kiji/20170502s00005000021000c.html 2017年5月2日閲覧。 ^ 元関脇・逆鉾死去で注目 年寄株「井筒」の継承者は?(NEWSポストセブン) ^ "3場所28勝しかしていないのに「北関、大関昇進です!」突然の使者にさあ大変…【北の富士コラム】". 中日スポーツ. 中日新聞社. 30 May 2020. 2020年6月7日閲覧。 ^ 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』 ^ 朝日新聞1992年5月9日付朝刊スポーツ面 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p84-85 横綱一覧 大相撲優勝力士一覧 日本相撲協会 en:List of James Bond allies in You Only Live Twice(英語、肖像画像入りで紹介) 佐田の山 晋松 - 相撲レファレンス 表 話 編 歴 1958 若乃花幹士 1959 栃錦清隆 1960 若乃花幹士(※) 1961 大鵬幸喜 1962 大鵬幸喜 1963 大鵬幸喜 1964 大鵬幸喜 1965 佐田の山晋松 1966 大鵬幸喜(※) 1967 大鵬幸喜 1968 玉乃島正夫 1969 大鵬幸喜(※) 1970 北の富士勝昭 1971 玉の海正洋(※) 1972 貴ノ花満(※) 1973 輪島大士 1974 北の湖敏満 1975 三重ノ海五郎(※) 1976 輪島大士 1977 輪島大士(※) 1978 北の湖敏満 1979 北の湖敏満 1980 北の湖敏満 1981 千代の富士貢(※) 1982 千代の富士貢 1983 隆の里俊英 1984 若嶋津六夫 1985 千代の富士貢 1986 千代の富士貢 1987 千代の富士貢(※) 1988 千代の富士貢(※) 1989 千代の富士貢(※) 1990 旭富士正也 1991 小錦八十吉(※) 1992 貴花田光司 1993 曙太郎 1994 貴乃花光司 1995 貴乃花光司 1996 貴乃花光司 1997 貴乃花光司 1998 若乃花勝 1999 武蔵丸光洋 2000 曙太郎 2001 武蔵丸光洋 2002 朝青龍明徳 2003 朝青龍明徳 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 朝青龍明徳 2007 白鵬翔 2008 白鵬翔 2009 白鵬翔 2010 白鵬翔 2011 白鵬翔 2012 白鵬翔 2013 白鵬翔 2014 白鵬翔 2015 白鵬翔 2016 日馬富士公平(※) 2017 受賞者なし 2018 栃ノ心剛史 2019 白鵬翔(※) 2020 貴景勝光信 2021 照ノ富士春雄 2022 若隆景渥 2023 霧島鉄力 表 話 編 歴 1957 栃錦清隆 1958 若乃花幹士 1959 栃錦清隆 1960 大鵬幸喜 1961 大鵬幸喜 1962 大鵬幸喜 1963 大鵬幸喜 1964 大鵬幸喜 1965 佐田の山晋松 1966 柏戸剛 1967 大鵬幸喜 / 柏戸剛 1968 玉乃島正夫 1969 北の富士勝昭 1970 北の富士勝昭 / 玉の海正洋 1971 北の富士勝昭 1972 輪島大士 1973 輪島大士 1974 北の湖敏満 1975 北の湖敏満 1976 輪島大士 1977 北の湖敏満 1978 北の湖敏満 1979 北の湖敏満 1980 北の湖敏満 1981 北の湖敏満 1982 千代の富士貢 1983 隆の里俊英 1984 若嶋津六夫 1985 千代の富士貢 1986 千代の富士貢 1987 北勝海信芳 1988 旭富士正也 1989 北勝海信芳 1990 旭富士正也 1991 霧島一博 1992 貴花田光司 1993 曙太郎 1994 貴乃花光司 1995 貴乃花光司 1996 貴乃花光司 1997 貴乃花光司 1998 若乃花勝 1999 武蔵丸光洋 2000 曙太郎 2001 武蔵丸光洋 2002 朝青龍明徳 2003 朝青龍明徳 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 朝青龍明徳 2007 白鵬翔 2008 白鵬翔 2009 白鵬翔 2010 白鵬翔 2011 白鵬翔 2012 白鵬翔 2013 白鵬翔 2014 白鵬翔 2015 白鵬翔 2016 稀勢の里寛 2017 白鵬翔 2018 栃ノ心剛史 2019 朝乃山英樹 2020 貴景勝光信 2021 照ノ富士春雄 2022 若隆景渥 2023 霧島鐵力 表 話 編 歴 廣瀬正徳 1928 - 1938 出羽海秀光 1944 - 1957 時津風定次 1957 - 1968 武蔵川喜偉 1968 - 1974 春日野清隆 1974 - 1988 二子山勝治 1988 - 1992 境川尚 1992 - 1998 時津風勝男 1998 - 2002 北の湖敏満 2002 - 2008 武蔵川晃偉 2008 - 2010 村山弘義(代行) 2010 放駒輝門 2010 - 2012 北の湖敏満 2012 - 2015 八角信芳 2015 - 現在 表 話 編 歴 高見山酉之助 常陸山谷右エ門 太刀山峯右エ門 鳳谷五郎 両國勇治郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦卯一郎 栃木山守也 常ノ花寛市 鶴ヶ濱増太郎 西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代) 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝 一覧 年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。 表 話 編 歴 初代明石志賀之助 2代綾川五郎次 3代丸山権太左衛門 4代谷風梶之助 5代小野川喜三郎 6代阿武松緑之助 7代稲妻雷五郎 8代不知火諾右衛門 9代秀ノ山雷五郎 10代雲龍久吉 11代不知火光右衛門 12代陣幕久五郎 13代鬼面山谷五郎 14代境川浪右衛門 15代梅ヶ谷藤太郎(初代) 16代西ノ海嘉治郎(初代) 17代小錦八十吉 18代大砲万右エ門 19代常陸山谷右エ門 20代梅ヶ谷藤太郎(2代) 21代若嶌權四郎 22代太刀山峯右エ門 23代大木戸森右エ門 24代鳳谷五郎 25代西ノ海嘉治郎(2代) 26代大錦卯一郎 27代栃木山守也 28代大錦大五郎 29代宮城山福松 30代西ノ海嘉治郎(3代) 31代常ノ花寛市 32代玉錦三右エ門 33代武藏山武 34代男女ノ川登三 35代双葉山定次 36代羽黒山政司 37代安藝ノ海節男 38代照國萬藏 39代前田山英五郎 40代東富士欽壹 41代千代の山雅信 42代鏡里喜代治 43代吉葉山潤之輔 44代栃錦清隆 45代若乃花幹士(初代) 46代朝潮太郎 47代柏戸剛 48代大鵬幸喜 49代栃ノ海晃嘉 50代佐田の山晋松 51代玉の海正洋 52代北の富士勝昭 53代琴櫻傑將 54代輪島大士 55代北の湖敏満 56代若乃花幹士(2代) 57代三重ノ海剛司 58代千代の富士貢 59代隆の里俊英 60代双羽黒光司 61代北勝海信芳 62代大乃国康 63代旭富士正也 64代曙太郎 65代貴乃花光司 66代若乃花勝 67代武蔵丸光洋 68代朝青龍明徳 69代白鵬翔 70代日馬富士公平 71代鶴竜力三郎 72代稀勢の里寛 73代照ノ富士春雄 雷電爲右エ門 表 話 編 歴 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川竜男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田知子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田川由紀子 佐藤太圭子 山田三智穂 大谷豊二 高橋優子 貴ノ花利彰 赤塚洋文 平内義幸 富岡雅寛 平賀輝子 中川時子 加藤稔 池内淳子 中原誠 森英恵 小林桂樹 中村汀女 井上ひさし 中野貴代 神田好武 真木洋子 輪島大士 高橋洋子 生沼スミエ 棟方志功 村上元三 京マチ子 サトウサンペイ 高田ユリ 尾上菊五郎 寺島純子 北の湖敏満 根本良夫 橋本明治 杉村春子 尾上松緑 栗原小巻 堀江謙一 檀ふみ 魁傑將晃 新垣留美子 根本良夫 尾上梅幸 高橋展子 吉永小百合 加藤剛 三林京子 大竹しのぶ 古葉竹識 三重ノ海五郎 池田彌三郎 浅丘ルリ子 中村梅之助 小野清子 村上隆 堤加蓉子 カロリーナ・ピレス・ド・リオ 若三杉壽人 川上哲治 川口幹夫 市川染五郎 上田利治 旭國斗雄 水島新司 川橋幸子 橋田壽賀子 新井春美 竹下景子 川口幹夫 北の湖敏満 岩下志麻 植村直己 八千草薫 安奈淳 森和人 森下洋子 山本浩二 加藤好雄 若山富三郎 ミヤコ蝶々 菅原文太 大原麗子 松本零士 重兼芳子 古葉竹識 多岐川裕美 加藤好雄 松本幸四郎 陳舜臣 佐久間良子 木田勇 向田邦子 島田陽子 鈴木喜久子 角田好雄 渡辺一雄 石毛宏典 古手川祐子 緒形拳 花井幸子 倉本昌弘 森光子 坂田栄男 高橋洋子 秋竜山 澤地久枝 香川宏 生沼スミエ 玉の海梅吉 森英恵 山藤章二 池上季実子 広岡達朗 村松友視 真野響子 滝田栄 橋田壽賀子 前橋汀子 市川猿之助 香川宏 三船敏郎 松本幸四郎 大原麗子 田淵幸一 樋口久子 松坂慶子 田中裕子 隆の里俊英 谷川浩司 林真理子 胡桃沢耕史 宮尾登美子 山口小夜子 役所広司 菊池綜一 江上由美 釜本邦茂 名取裕子 風間杜夫 石井幹子 連城三紀彦 里中満智子 衣笠祥雄 松坂慶子 市川海老蔵 遠藤利男 三田佳子 中村吉右衛門 高野悦子 小池一夫 武原はん ジェームス三木 山口洋子 吉田義男 大地真央 北尾光司 中野正之 森光子 清原和博 森下洋子 雁屋哲 黒柳朝 加藤芳郎 山崎洋子 渡辺謙 加納みゆき 千代の富士貢 吉岡利夫 若尾文子 中井貴一 森瑤子 江藤俊哉 俵万智 逢坂剛 森口祐子 近藤真一 若村麻由美 北勝海信芳 今西陽一郎 三田佳子 片岡孝夫 伊藤京子 森祇晶 浅野温子 安野光雅 伊勢桃代 新井満 山口智子 千代の富士貢 沖清司 千代の富士貢 いしだあゆみ ねじめ正一 小林浩美 中村勘九郎 村崎芙蓉子 西田敏行 石岡瑛子 斎藤雅樹 渡辺梓 沖清司 山本陽子 中村鴈治郎 諏訪内晶子 野田秀樹 コシノジュンコ 渡辺久信 森口祐子 松岡修造 沢口靖子 真田広之 小林由紀子 増井光子 山崎豊子 秋山幸二 芦原すなお 荻野アンナ 若花田勝 貴花田光司 緒形直人 鷲尾いさ子 田中好子 内林達夫 有森裕子 曙太郎 古賀稔彦 富司純子 中田久美 野茂英雄 村上弘明 伊藤みどり 森光子 高橋克彦 松尾武 三田佳子 米長邦雄 市川團十郎 細川直美 筒井道隆 つみきみほ 松原敏春 平瀬真由美 宮尾登美子 川淵三郎 内館牧子 田村亮子 植木等 野村克也 中丸三千繪 古田敦也 ミヤコ蝶々 曙太郎 古橋廣之進 大林素子 松尾武 イチロー 赤井英和 奥野史子 岩下志麻 羽生善治 南井克巳 賀来千香子 川本ゆかり 市川崑 森光子 上田洋一 古田敦也 田村亮子 天海祐希 竹中直人 原辰徳 水谷八重子 中村紘子 ジョージ川口 柳家小さん 大石芳野 上田洋一 有森裕子 川口能活 江角マキコ 仰木彬 清水市代 中村橋之助 森英恵 桂米朝 大石静 周防正行 大橋晴夫 井原正巳 吉永小百合 片岡仁左衛門 伊藤みどり 佐々木主浩 佐藤夕美子 本木雅弘 篠田節子 谷川浩司 吉行あぐり 大橋晴夫 清水宏保 藤原紀香 琴錦功宗 中村玉緒 松平健 俵万智 ジェームス三木 服部道子 熊川哲也 浅利純子 伊東律子 出島武春 松嶋菜々子 内館牧子 野村萬斎 田村亮子 津川雅彦 草笛光子 阿久悠 福嶋晃子 乙武洋匡 伊東律子 田村亮子 長嶋茂雄 高橋尚子 渡辺謙 池内淳子 佐々木主浩 岡本綾 井上康生 木村佳乃 内藤國雄 出田幸彦 栃東大裕 川原亜矢子 室伏広治 竹田恆和 松岡佑子 唐沢寿明 平良とみ 天海祐希 藤田宜永 森下洋子 出田幸彦 朝青龍明徳 米倉涼子 市川新之助 阿川佐和子 宮本恒靖 仲間由紀恵 高橋由伸 恩田美栄 岩合光昭 岸惠子 中村季恵 浅野ゆう子 五木寛之 優香 三谷幸喜 村山由佳 末續慎吾 村主章枝 武田真治 有馬稲子 星野仙一 中村季恵 野口みずき 野村忠宏 橋田壽賀子 中村勘九郎 荒川静香 滝沢秀明 高島礼子 和田一浩 森光子 日野原重明 琴欧州勝紀 薬師丸ひろ子 野口聡一 長澤まさみ 山田洋次 森光子 上川隆也 眞鍋かをり 林家正蔵 栗原はるみ 渡辺謙 阿木燿子 リリー・フランキー 藤山直美 内野聖陽 横峯さくら 田口壮 吉田都 鎌田實 瀬戸内寂聴 宮﨑あおい 上田桃子 岡島秀樹 青木功 中村勘三郎 新垣結衣 茂木健一郎 坂東眞理子 陣内智則 藤原紀香 本木雅弘 吉田沙保里 太田雄貴 高橋尚子 松本幸四郎 松坂慶子 姜尚中 堀北真希 妻夫木聡 上野由岐子 白鵬翔 草刈民代 阿部寛 深田恭子 原辰徳 勝間和代 城田優 杉山愛 西田敏行 森光子 野口聡一 湊かなえ 岩崎夏海 寺島しのぶ 髙橋大輔 上野樹里 伊勢谷友介 仲間由紀恵 北大路欣也 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sadanoyama shinmatsu
佐田の山晋松と同じ誕生日2月18日生まれ、同じ長崎出身の人
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