大鵬幸喜の情報(たいほうこうき) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
大鵬 幸喜さんについて調べます
■名前・氏名 |
大鵬幸喜と関係のある人
三谷幸喜: 父が好きだった大相撲力士・大鵬幸喜(当時は大関、後に横綱に昇進)にちなんで「幸喜」(こうき)と命名。 栃錦清隆: また、この春日野の教えは、栃錦の談話を通して同門の千代の山雅信・北の富士勝昭・千代の富士貢へと代々受け継がれ、さらに別門の大鵬幸喜にも真摯に受け継がれた。 佐田の山晋松: 全勝優勝が一度も無かった大きな理由は大鵬幸喜との合い口の悪さで、通算5勝27敗(不戦勝・不戦敗が1回ずつ、優勝決定戦で1勝1敗)と大きく負け越しており、大鵬に本割で勝利しての幕内最高優勝も果たせなかった。 スタン=ミュージアル: ちなみに、同じくMLB殿堂入り(1996年)を果たしたアール・ウィーバーや大横綱の大鵬幸喜も同じ日に没している。 北葉山英俊: それでも横綱との対戦では健闘しており、特に大鵬幸喜との通算対戦成績は11勝24敗と、対柏戸剛戦の16勝に次ぐ勝利数を挙げ、「優勝のカギを握る男」と評された。 栃ノ海晃嘉: 1963年11月場所では大鵬幸喜・柏戸剛をなで斬りにし、14勝1敗で二度目の優勝を成し遂げた。 双羽黒光司: 横綱としてやっていけると思う」と述べ、当時の協会理事だった大鵬幸喜も「スケールの大きい素晴らしい素質。 玉錦三右衛門: 大鵬幸喜(在位58場所、金星28個)や千代の富士貢(在位59場所、金星29個)でも及ばない。 安念山治: しかし、この場所は二人揃って結果を残すことが出来ず(若羽黒が7勝8敗と負け越し、安念山も8勝止まり)、さらに大鵬幸喜との対戦では通算21戦全敗と当時の最多敗戦記録となったことも響き、結果的に大関昇進は果たすことが出来なかった。 玉ノ海梅吉: 1963年9月場所千秋楽に行われた大鵬幸喜 - 柏戸剛の全勝決戦では「柏戸に勝たせたいねぇ」と呟いたが、それが通じたのか柏戸が勝利して全勝優勝を果たした。 佐田の山晋松: この場所を含めて本割で5戦全敗だった横綱・大鵬幸喜との優勝決定戦に臨み、見事に勝利して2度目の幕内最高優勝を果たすと同時に場所後の大関昇進を確実にした。 玉の海正洋: 系統別から部屋別総当たり制となった1965年1月場所の初日には、初対戦となった同門の横綱で兄弟子だった大鵬幸喜と対戦して勝利した(この一番が部屋別総当たり制の定着を決定づけたとも言われる)。 柏戸剛: さらに22歳9ヶ月での昇進で、照國萬藏の持つ最年少記録を大鵬幸喜と共に更新した(現在は歴代5位)。 照国万蔵: 第48代横綱・大鵬幸喜の登場以前に多くの最年少記録を書き換えた名横綱である。 貴闘力忠茂: 1993年に第48代横綱・大鵬幸喜の三女と結婚し、妻の姓を選択したため納谷 忠茂(なや ただしげ)となったが、2010年に離婚したため鎌苅姓に戻った。 若羽黒朋明: 自供から立浪部屋を家宅捜索した結果、拳銃3丁が押収され、現役時代に対戦したことがある柏戸剛・大鵬幸喜までもが書類送検される角界拳銃密輸事件に発展した。 琴櫻傑將: 大鵬幸喜には初顔から18連敗と全く歯が立たなかったが、1969年7月場所の初勝利以降は4勝4敗と健闘(最終対戦成績は4勝22敗)。 出羽錦忠雄: 出羽錦が初土俵を踏んだ時にはまだこの世に誕生していなかった大鵬幸喜とは数々の名勝負があり、猫騙しをかます、立合いにいきなり万歳をしてもろ差しを狙った大鵬の両腕を抱えて極出すなど度々苦しめた。 明武谷力伸: さらに上位力士に強く、1961年9月場所では場所後に横綱へ昇進する大鵬幸喜と柏戸剛との両大関と優勝決定巴戦を行い、幕内最高優勝こそ果たせなかったものの敢闘賞を受賞する活躍を見せた。 三橋美智也: その他に野球界では荒川博・張本勲、相撲界では大鵬幸喜、プロレス界では力道山・キラー・カーン、競馬界では増沢末夫・小島太と親交があった。 石井代蔵: 『数奇な運命の星の下に 大鵬幸喜半生記』ベースボール・マガジン社 1988 安念山治: 得意とする左四つからの下手投げで栃錦清隆・千代の山雅信に強く、通算獲得金星10個のうち7個を二人から奪っているが、大鵬幸喜には通算で21戦全敗と全く歯が立たず、同じ横綱でありながら栃錦・千代の山に強くても大鵬に全く勝てない不思議な戦績が残っている。 千代の山雅信: 1965年5月、柏戸剛・大鵬幸喜・北の富士勝昭と共に拳銃をハワイから密輸入したことによりその証拠隠滅を図ろうと廃棄していたことが発覚し書類送検されたが、日本相撲協会からの処分はなかった。 加藤一二三: 名人挑戦権を獲得する少し前の1960年2月1日には、朝日新聞朝刊の新聞漫画『サザエさん』で、活躍する若者の代表として、力士の大鵬幸喜(加藤より1学年下)と共に「しょうぎの加藤八段」として言及された。 柏戸剛: 1960年1月場所は東小結で迎え、12日目にはこの場所が新入幕で初日から11連勝中の大鵬幸喜との対戦が組まれた。 大砲万右衛門: 大鵬幸喜が十両に昇進にする際、二所ノ関から「お前(の四股名)は、次の場所から『タイホウ』だ」と四股名を付けられた。 羽黒岩智一: 翌3月場所では前頭筆頭に躍進し、初めて上位陣と当たるこの場所に於いて横綱・大鵬幸喜の46連勝を阻止する大金星を挙げ、大きく脚光を浴びることとなった(後述)。 佐田の山晋松: 同年6月に蔵前国技館で行われた引退相撲では、直近の5月場所で大鵬幸喜・柏戸剛の両横綱が休場したことを受けて、露払いに同部屋の福の花孝一、太刀持ちに海乃山勇を従えて最後の横綱土俵入りを行った。 三根山隆司: 最後の取組として同場所8日目に新入幕の大鵬幸喜との対戦が組まれたが、引退届を提出して大鵬に同日の不戦勝を与えた。 若羽黒朋明: しかし時折存在感を見せる場面もあり、同年11月場所では関脇・大鵬幸喜が13勝2敗で初の幕内最高優勝を果たしたが、10日目に大鵬へ土を付け、同場所では12勝3敗と大きく勝ち越した。 |
大鵬幸喜の情報まとめ
大鵬 幸喜(たいほう こうき)さんの誕生日は1940年5月29日です。北海道出身の相撲のようです。
現在、父親、母親、再婚、事件、離婚、卒業、引退、テレビ、病気、兄弟、趣味、結婚、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。2013年に亡くなられているようです。
大鵬幸喜のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)大鵬 幸喜(たいほう こうき、1940年(昭和15年)5月29日 - 2013年(平成25年)1月19日)は、北海道川上郡弟子屈町出身(出生地は樺太敷香郡敷香町、現在のロシア極東連邦管区サハリン州ポロナイスク市)で二所ノ関部屋に所属した大相撲力士。第48代横綱。優勝32回(6連覇:2回)・45連勝などを記録した。昭和時代の大横綱。位階は正四位。本名は納谷 幸喜(なや こうき)、出生名はイヴァーン・マルキャノヴィチ・ボリシコ(Іван Маркіянович Боришко)で、ウクライナ人の父親を持つ。母親の再婚により住吉 幸喜(すみよし こうき)と名乗っていた時期もあった。 1940年(昭和15年)、ウクライナ人の元コサック騎兵将校、マルキャン・ボリシコの三男として、日本の領有下にあった南樺太の敷香町(ロシアの呼び名サハリン州ポロナイスク)に生まれた。母親は日本人の納谷キヨ。マルキャンはロシア革命後に日本に亡命した、所謂白系ロシア人であった。なお、南樺太は日本領であったため、大鵬は外国出身横綱にならない。 太平洋戦争末期、日本への米軍による原爆投下後、ソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船だった小笠原丸で北海道へ引き揚げることとなった。最初は小樽に向かう予定だったが、母親が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船した。小笠原丸はその後、留萌沖でソ連潜水艦L-12の魚雷攻撃を受けて沈没したが、大鵬親子はその前に下船していたため辛くも難を逃れた(三船殉難事件)。その点、同じく焼け跡世代でありながらも戦火とは無縁の山形の自然で伸び伸びと育った柏戸とは対照的である。 北海道での生活は母子家庭だったことから大変貧しく、母親の再婚によって住吉姓に改姓した。その再婚相手の職業が教師だったことから学校を毎年異動していたこともあり、しばらくは北海道各地を転々としていた。あまりの貧しさから大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた話は有名である。再婚相手とは大鵬が10歳の時に離婚したため、大鵬は納谷姓に戻った。中学校卒業後は一般の同世代の若者と同じ中卒金の卵として北海道弟子屈高等学校の定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていたが、1956年(昭和31年)に二所ノ関一行が訓子府町へ巡業に来た時に紹介され、高校を中途退学して入門した。入門時に母親から反対されたが、親子で相撲部屋を見学した時に所属力士の礼儀正しさを見た叔父が母親を説得した。後年、巡業で振る舞われたちゃんこに感銘を受けていたことも入門の動機として明らかになっている。相撲ライターの佐藤祥子の著書によると、入門は叔父の根回しによるもので納谷自身も薄々入門すると予期していたようである。北海道巡業へ納谷を置いて行ったことを叔父から聞いた母は戸惑ったという。また、北海道の田舎暮らしでラーメンすら食べた経験が無く、買い食いや外食を母から禁止されていた納谷にしてみれば、角界入りは美味しい物につられたようなものであった。 1956年9月場所にて初土俵を踏んだ。同期には後の大関・清國や小結・沢光、前頭の大心、玉嵐らがいる。入門当初より柏戸と共に横綱確実の大器と評されており「二所ノ関部屋のプリンス」「ゴールデンボーイ」などの愛称を与えられた。 序ノ口時代から大幅な勝ち越しで順調に番付を上げていき1958年3月場所では三段目で優勝、十両目前の西幕下2枚目まで番付を上げていた同年9月場所では3勝5敗で負け越したものの、取的時代の負け越しはこの1場所のみでそれ以外は全て6勝以上挙げている。東幕下筆頭となった1959年3月場所で6勝2敗と勝ち越して十両昇進を決めた。初土俵から幕下時代までは本名の納谷で土俵に上がっていた。三段目時代、飲みに出かけた時に(当時角界では20歳未満での飲酒が珍しくなかった)両国界隈のバーで「伊勢ノ海部屋の富樫(のちの柏戸)はいい力士だ、あれは絶対横綱になる」と耳にし、それから柏戸を越すことを目指して稽古に打ち込んだ。厳しい稽古は当時10代の大鵬の体には大きな負担であり、三段目時代には既に腰椎を損傷していた。それでも大鵬は、公式発表された怪我でもない限り、稽古でも相手に気付かれないように工夫した。 1959年(昭和34年)に新十両昇進が決まると、四股名を付けてもらえることが決まった。その四股名は故郷・北海道に因んだ物を付けるのかと思っていたところ、二所ノ関から「もっといい名前がある。『タイホウ』だ」と言われた。「どんな字を書くんですか?撃つ大砲ですか?」と質問すると、「それは『オオヅツ』と読むんだ」と言われ、同時に大砲万右エ門の話をされたという。そしてこの時に「大鵬」の字とその意味も教わっている。大鵬の意味は、中国の古典「荘子 逍遥遊」にある「鯤之大不知其千里也、化而為鳥、其名為大鵬(鯤(コン、伝説上の巨大な魚)は大いに之(ゆ)き、その千里を知らずや、而して鳥に化けすと、その名は大鵬と」とあり「翼を広げると三千里、ひと飛びで九万里の天空へ飛翔する)」と言われる伝説上の巨大な鳥に由来する。漢書好きな二所ノ関にとって最も有望な弟子に付けるべく温存していたもので、その点では二所ノ関の期待以上によく育ったと言える。 1960年(昭和35年)1月場所で新入幕を果たすと、初日から11連勝。新入幕初日から11連勝は千代の山雅信の13連勝に次ぐ昭和以降2位、一場所でのものとしては昭和以降で最多となる。12日目には小結柏戸剛が「止め男」として当てられ、早晩角界を背負って立つライバルとなるだろうと目されていた両者の対戦が早くも実現することになった。解説者の神風正一は「左四つになって大鵬」と予想し、玉ノ海梅吉も「結局大鵬が寄り勝ちそう」と予想。大方の予想が大鵬六分、柏戸四分である中、師匠の伊勢ノ海は「大体柏戸は小結、負けるはずがないじゃないか。ガブリ左四つになればともかく、その他の格好だったら絶対に負けない。そして柏戸は間違っても左は差させない」と柏戸の勝ちと予想。この一番で柏戸の出し投げに屈し、幕内での初黒星。神風は「左差しにちょっとこだわり過ぎたようだ。土俵際も腰が随分高かった。柏戸は十分に腰を割っていたから投げには絶好の時だった。柏戸の勝因は右おっつけが鋭かったことだ」とこの1番を解説した。その後14日目千秋楽と連敗したものの、12勝3敗の好成績を挙げた(敢闘賞)。13日目には関脇出羽錦と、千秋楽には関脇北葉山と対戦し、この場所では計3人の三役と対戦した。しかし三役3人と対戦させられたことに対して観客からの同情は無く、むしろ「小結、関脇では相手不足で、大関・横綱と組ませても五分に戦えるのではないか」とまで言われていた。 同年3月場所で東前頭4枚目まで番付を上げるが、序盤から横綱・三役陣に連敗を喫する。2日目の朝汐戦は横綱初挑戦となったが、朝汐が立ち遅れたのを待ったかと思い一瞬力を抜いたところをつけ込まれる形で寄り切られ、物言いがついたものの行司軍配通り。4日目には前場所優勝の栃錦にいいところなく押し出され、栃錦とはこれが唯一の取組になった(栃錦は翌場所引退)。栃錦はこの時「横綱、よく大鵬に勝てましたね」とある記者から質問されたくらいであり、当時の大鵬の評価の程が窺える。後半の平幕戦で盛り返したものの13日目福田山戦できわどい相撲を落として負け越し、最終的に7勝8敗でこの場所が生涯で唯一となる皆勤負け越しとなった(それ以外の場所で、皆勤した場所ではすべて二桁勝利を記録している。なお、1965年5月場所は千秋楽に休場=不戦敗で9勝6敗だった)。またこの場所は柏鵬がともに幕内で皆勤して取組が組まれなかった唯一の場所でもある。 続く5月場所は前頭6枚目に下がって出直しとなったが、初日朝汐を破って横綱挑戦3戦目で初勝利、生涯唯一の金星を挙げるなど11勝4敗で二度目の敢闘賞。7月場所で新小結に昇進すると、この場所でも11勝4敗、9月場所では20歳3ヶ月の史上最年少(当時)で新関脇となる。11月場所では13勝2敗の成績を挙げ、これも当時の史上最年少となる20歳5ヶ月で幕内最高優勝を達成し、場所後史上最年少で大関へ昇進した。入幕した年に大関昇進を果たした力士は2019年現在でも大鵬のみ(入幕から6場所での大関昇進も、年6場所制後最短である)で、同じく入幕した1960年に年間最多勝を獲得という、賞の発足後史上唯一の記録を立てた。小結・関脇では36勝9敗という圧倒的な強さを誇り、合計3場所で通過となった。また、新入幕から6場所目での初優勝は年6場所制以降では当時の最速記録だった。この場所でTBSアナウンサーの小坂秀二が「柏鵬時代」という言葉を発したことをきっかけに、それが一気に定着するに至った。 9月場所の柏戸との対決は、読売『大相撲』昭和35年秋場所決算号に「町中この一戦の話題で持ち切りだった」という内容で伝えられ、雑誌『相撲』昭和35年秋場所決算号に至っては、柏戸と大鵬の1日の様子を盛り込んだ8ページもの大特集を組んだぐらいであった。 新大関となった1961年1月場所は10勝5敗に終わり、13勝2敗で初優勝の柏戸に主役を譲って綱取りの面でも一歩を先んじられる形になった。しかし翌3月場所からほぼ毎場所優勝争いにからみ、7月場所では柏戸と朝潮(もと朝汐)を連破して13勝2敗、大関としての初優勝を果たした。なお朝潮とはこれで対戦成績を4勝4敗と五分にし、これが最後の取組となった。9月場所では14日目に柏戸に敗れ3敗目を喫したが、柏戸と平幕の明武谷との優勝決定戦に臨み巴戦を制して2場所連続優勝。場所後協会は横綱審議委員会に大鵬・柏戸両名の横綱昇進を諮問し、両名とも満場一致で横綱に推薦された。大鵬21歳3ヶ月、柏戸22歳9ヶ月での横綱昇進は、ともにそれまでの最年少記録だった照國萬藏の23歳3ヶ月を更新するものだった。また横審が内規を定めてから、大関で2場所連続優勝を果たして横綱に昇進したのは大鵬が初めてである。昇進時の口上は「横綱の地位をけがさぬよう今後も精進します」であった。 新入幕で初めて敗れた柏戸と競い合い、終戦直後の復興から高度経済成長期の相撲黄金時代を支え、1961年(昭和36年)に揃って横綱に推挙、「柏鵬(はくほう)時代」と言われる黄金時代を築いた。後に第69代横綱となった白鵬翔の四股名は、この両横綱に由来する。新横綱の場所である1961年(昭和36年)11月場所、1962年(昭和37年)1月場所と連続優勝を果たすと、同年7月場所から1963年(昭和38年)5月場所まで最初の6連覇を達成した。ところが、「型のある相撲」と評されていた柏戸が休場を繰り返していたことで、「型のない相撲」の大鵬が一人勝ちしている状況から観客が減少気味となり、大鵬の全盛期は相撲の人気低迷期と一致した。NET(現在のテレビ朝日)は1964年5月限りで、日本テレビとTBSは1965年1月限りで大相撲中継から撤退しており、大相撲中継の勢いが落ちたのも大鵬の常勝による土俵のマンネリ化が原因であるとされている。この連覇直後から神風正一などから「(大鵬の相撲には)型がない」と盛んに批判されたが、二所ノ関は「型がないのが大鵬の型」と反論していた。大鵬自身は当時の時津風理事長が言った「『これは大鵬しかできるものがいなかった』という相撲の内容を示せばいい。後世に至ってもどの力士も真似のできないもの、それが大鵬の型である」という言葉で自分の相撲に確信を持てるようになったという。 その柏戸が再起をかけた同年9月場所では千秋楽で14勝同士の相星決戦が組まれたが、柏戸に敗れた。1964年3月場所でも同じ14勝同士による相星決戦が組まれたが、こちらは大鵬が勝利している。下記に、柏鵬両雄の主な千秋楽対戦を記す。 1964年(昭和39年)からは本態性高血圧によって幕内で初の途中休場となり、入院。退院早々二所ノ関からは龍沢寺で座禅を組むよう命じられた。さらに1965年(昭和40年)には柏戸や北の富士勝昭と共にアメリカ合衆国から拳銃を密輸入していたことが発覚して書類送検され、罰金3万円(現在の15万円に相当)の略式起訴処分。警視庁の調べに対し、大鵬は「若羽黒の件がバレ、怖くなって隅田川に捨てた」と供述していた。しかし日本相撲協会からは譴責処分に留まった。この直後の1965年5月場所は左足首関節内骨折で9勝6敗、千秋楽は休場して不戦敗となった。 再起をかけた1966年(昭和41年)3月場所からは再び6連覇を達成するが、1967年(昭和42年)には左肘を負傷し、そのケガの分を取り戻そうと稽古で無茶をしたことで左膝靭帯断裂の重傷を負い、1968年(昭和43年)3月場所から3場所連続で全休した。復帰した同年9月場所では、初日に栃東知頼と対戦して敗れたことで周囲から限界と思われたが、慎重に勝ちを求めた結果、叩きを多用する相撲に変わった。横綱として内容は冴えないが、同場所2日目から1969年(昭和44年)3月場所初日までの間に双葉山定次(69連勝)に次ぐ45連勝を記録した。この連勝記録は、同場所2日目に戸田智次郎に押し出しで敗れたため途切れたが、ビデオ画像や写真では戸田の足が先に出ていたため「世紀の大誤審」と問題になり、この翌場所からビデオ画像の導入が始まった。しかし、大鵬自身は誤審の判定を下された件について不満を述べることはせず、むしろ誤審を招くような相撲をとった自分に責任があるとして、「ああいう相撲をとった自分が悪いんです」とだけ語った。この発言は、大鵬の高潔な相撲哲学を象徴する言葉として話題を呼び、横綱としての大鵬の評判を以前にも増して高めることになった。一方、相撲記者の若林哲治によるとこの誤審に大鵬は激怒していたといい、当時の新聞にも「俺は残っていたと思った」との談話や、顔がこわばっていたとの記述がある。 大鵬は同場所5日目から肺炎で途中休場となり、さらに肺炎の影響で肺機能が低下したことですぐ息が切れるようになってしまい、激しい稽古が出来なくなったという。それでも1969年(昭和44年)5月場所には30回目の優勝を飾り、この功績を讃えて1969年9月場所初日には日本相撲協会から一代年寄「大鵬」が授与された。天龍源一郎の証言によると、優勝30回に近付いていたとある場所の終盤、花道奥で当時まだ幕下で大鵬の付け人を行っていた天龍が大鵬の背中を拭いて控えに向かって行ったあとの下をパッと見たら、大鵬の足の形が床に残っていたという。天龍は「あれだけの大横綱でも緊張するのか」と、見てはいけないものを見てしまった気がしたと、後に振り返っている。 現役晩年に至っても、北の富士と玉の海正洋の両横綱に対しては最後まで壁として君臨し続けた。1971年(昭和46年)1月場所には32回目の優勝を果たしたが、千秋楽の玉の海戦では寄り切って1敗で並び、優勝決定戦ではその玉の海と水入りの大相撲。最後は玉の海の下手投げを左上手投げに打ち返して寄り切った。同年3月場所でも12勝と健在ぶりを示したが、同年5月場所で栃富士勝健に敗れた際に尻から落ちたことで体力の限界を感じ、さらに5日目には新鋭だった貴ノ花利彰に同じく尻から落ちる敗戦を喫した。貴ノ花との一番を詳細に説明すると、大鵬は左かち上げから左ハズ、右おっつけで攻め込んだが、貴ノ花が右おっつけから右上手を取って大鵬の左腰に食いつく絶好の体勢になり、掬い投げや突き押しで応戦するものの貴ノ花に体を預けられて尻から落ちて行った、という内容である。その後大鵬自身、翌6日目の福の花孝一戦を「これで自身最後の相撲としたい」と申し出たが、日本相撲協会から「死に体で土俵に上がる事は出来ない」と却下。結局福の花戦は不戦敗となり、貴ノ花との取組が現役最後の一番となった。なお、引退に関しては中々踏ん切りが付かなかったというが、当時2歳の長女に後押しされて決意が固まったという。 引退を発表した翌朝、NHKの朝のニュース番組に出演し、「最も誇れる自身の記録は何か?」と聞かれて、「6場所連続優勝2回」と答えている。 引退相撲は1971年(昭和46年)10月2日に蔵前国技館で行われ、太刀持ちに玉の海、露払いに北の富士と、両横綱を従えて最後の横綱土俵入りが披露された。しかし、それからわずか9日後の10月11日に玉の海が急死してしまい、大鵬も玉の海の訃報を聞いて相当な衝撃を受けたという。 柏鵬両雄の対戦は、1960年1月場所 - 1969年5月場所の58場所間に37回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上3位の21回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が5回(相星決戦が2回)あった。千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。 両者横綱昇進以前の対戦成績(1961年9月場所まで)は、柏戸の7勝3敗。 両者横綱同士の対戦成績(1961年11月場所以降)は、大鵬の18勝9敗だった(優勝回数も1961年11月場所以降、柏戸4回・大鵬29回)。 引退後は大鵬部屋を創立し、関脇巨砲丈士・幕内嗣子鵬慶昌たちを育成した。定年後、部屋は娘婿の貴闘力忠茂(現役時代は二子山部屋所属)に譲ったが、部屋名は「大鵬」が一代年寄であったので、もともと所有していた「大嶽」部屋とした。しかし、貴闘力は賭博問題で2010年(平成22年)7月4日に解雇となってしまい、その後は大鵬の直弟子の大竜忠博(最高位は十両)が部屋を継ぐことになった。 大鵬が入幕する前は、角界の最大派閥は出羽海一門で、非主流派とみなされる二所ノ関所属の大鵬は、親方としての出世は遅いと見られていたが、1976年(昭和51年)に35歳の若さで役員待遇・審判部副部長に就任した。ところが、1977年(昭和52年)に脳梗塞によって倒れ、左半身麻痺などその後遺症が残ったことで理事長などの重要職に就任する見込みが無くなった。引退後に年寄名を大鵬 翔己(たいほう しょうき)としていたが、この病気を患って以降は現役時代の「大鵬 幸喜」に戻している。病気自体は不屈の精神で妻・芳子の献身もあってリハビリを重ねながら回復して歩ける程度には回復し、1980年(昭和55年)には理事に就任した。地方場所(名古屋場所担当)部長、さらには相撲教習所所長などを歴任し、8期務めた後の1996年(平成8年)に役員待遇へ退いた。「巨人、大鵬、卵焼き」と称された時代の一方の雄である長嶋茂雄が脳梗塞に倒れた時には、やはり特別な感情が湧いたと語っている。その回復が実を結び、2000年(平成12年)には自身同様「昭和の大横綱」と評される北の湖敏満(太刀持ち)と九重貢(元・千代の富士、露払い)の2人を従えて、還暦土俵入りを披露した。ただし、前述の脳梗塞の後遺症から四股が踏めないため、土俵入りそのものは行えず、赤い綱を締めて土俵上で雲龍型のせり上がりの構えを取ることと、土俵中央に立って柏手を打つ(これも1回ではうまくいかなかった)という、一部の所作を披露したのみであった。 2001年(平成13年)、サハリン州で自身の父親であるマルキャン・ボリシコの生涯が明らかになり、サハリン州の日本研究家の働きかけでウクライナのハリキフ市に大鵬記念館が建設された。大鵬自身もハリキフで相撲大会を企画しており、ロシアを挟んで日本とウクライナの国際交流の主役として脚光を浴びている。その交流はロシア連邦にも及び、2002年(平成14年)には北オセチア共和国出身のボラーゾフ兄弟を日本に招き、兄のソスランを「露鵬幸生」として自分の部屋に入門させた(弟のバトラズは「白露山佑太」として二十山部屋に入門させ、後に北の湖部屋へ転籍)。大鵬はソスランの四股名に自分の「鵬」、名前にも本名の「幸」の字を入れ、期待に応えた露鵬は、2006年(平成18年)3月場所で小結まで昇進したが、2008年(平成20年)にドーピング検査で大麻の陽性反応が出たことで弟と共に日本相撲協会を解雇された。 2005年(平成17年)に65歳となって定年退職し、9年近く空席だった相撲博物館館長に就任した。協会在籍中には理事長や執行部在任経験がなく(1期のみ審判部副部長を務めたが脳梗塞で退任し、地方場所部長の職が長かった)、先に定年退職していた理事長経験者の佐田の山晋松と豊山勝男が健在にも拘わらず館長職に就いたのは異例の抜擢と言われている。 2008年(平成20年)11月16日付で、協会の理事会で体調不良を理由に相撲博物館館長を辞任することが承認された。同年12月26日、協会の仕事納めの日に相撲博物館館長職を退いたが、「たまには国技館に足を運んで(相撲を)ゆっくり見たい」と相撲への思いは変わらないと語った。 2009年(平成21年)10月27日、相撲界から初となる2009年(平成21年度)文化功労者に選出された。これを受けた大鵬は記者会見で「私一人だけの力でなく、皆さんが力添えしてくれたからこそ。大きな賞を戴けて本当に有難いことです」と喜びを語った。その中でその気持ちは二所ノ関一門の分裂、劣勢状態の責任を感じており、文化功労者選出後には8代二所ノ関や6代二所ノ関の墓前で頭を下げている 2013年(平成25年)1月19日、心室頻拍のため、東京都新宿区の慶應義塾大学病院において死去。72歳没(享年73歳)。入院中には、2012年に頸髄損傷で同じ病院に入院中だった尾車(元大関・琴風)を見舞い、尾車によれば「おーい、何やってんだ。お前、早く弟子のところに帰ってやらんか。俺も昔、この病院でリハビリやったんだ」と励ました。 大鵬の訃報を受けて、日本相撲協会は大鵬の還暦土俵入りにも参加した北の湖敏満理事長と九重貢事業部長などが哀悼の意を表す談話を発表した他、同世代の日本スポーツ界のヒーローであった長嶋茂雄、ファイティング原田、そして大鵬とは大の親友関係だった王貞治が「同じ時代に世の中に出て、光栄だった」と故人との思い出を語る談話をそれぞれ発表している。通夜は1月30日、葬儀・告別式は1月31日にいずれも青山葬儀所で営まれ、王貞治、黒柳徹子、白鵬翔らが弔辞を読んだ。 大鵬が死去するわずか16日前の1月3日には、故郷の弟子屈町で暮らす実兄が急性心筋梗塞のため79歳で死去。弟である大鵬は、体調不良のため葬儀に参列できなかったことも後に明らかになっている。また、大鵬は70歳に入ってから酸素ボンベを頻繁に使用するようになったという。 没後、1月19日付にて正四位並びに旭日重光章が追贈された。また、2月15日付で国民栄誉賞が授与され、25日、未亡人と白鵬らが出席して授与式が行われた。3月24日、3月場所千秋楽の優勝力士インタビューにおいて、白鵬の呼びかけで観客全員で1分間の黙祷が行われた。 2014年8月15日、故郷サハリンに大鵬の銅像が建立された。大鵬の母および妻が秋田県出身であった縁から(妻の生家は和菓子店であり、現在は妻の弟が社長を務めている)、制作には大潟村在住の彫刻家があたり、同県の関係者を中心に募金活動が行われた。 墓所は妙久寺(東京都江東区、納谷家の菩提寺)。戒名は『大道院殿忍受錬成日鵬大居士』。 父親がウクライナ人で母親が日本人。納谷は母方の姓で、幸喜の名は皇紀2600年に因んで名付けられた。イヴァーンというウクライナ語名も存在していたという。 ライバルとされた柏戸剛と「柏鵬(はくほう)時代」と呼ばれる相撲黄金時代を築いた。優勝32回(6連覇:2回)・45連勝などを記録したことから昭和の大横綱と称され、戦後最強の横綱と呼ばれることも多い。 現役時代は大変な美男子と評判であった。当時の子供たちの好きな物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語は、当時の大鵬の人気と知名度を象徴する有名な言葉であるが、大鵬本人は「巨人と一緒にされては困る」と語ったこともある。その理由は、大鵬自身がアンチ巨人(巨人が嫌い)だったことと、団体競技の野球と個人競技の相撲を一緒にされたくない気持ちがあったこと、そして何よりも、「大鵬の相撲には型がない」と批判されていた時期に「大人のファンは柏戸と大洋ホエールズ」などと評論家から揶揄されたことがあったためであるという。ただし、後年に出版した自伝には『巨人 大鵬 卵焼き ― 私の履歴書』という題名を付けた。また、巨人の選手の中でも、自身と同じ1940年(昭和15年)5月生まれであり、なにより自分と同じ努力家として知られた王貞治とは大変親しく、若い頃にはよく一緒に酒を飲んでいたという。この「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉は、1960年代前半の高度経済成長期に、通産官僚であった堺屋太一が、当時若手官僚の間で時代の象徴として冗談で言い合っていたこのフレーズを、記者会見の中で「日本の高度成長が国民に支持されるのは、子供が巨人、大鵬、卵焼きを好きなのと一緒だ」と答えて紹介したことがきっかけで広まったとされている。 若い頃はもろ差しを使用して柏戸など突進力のある相手に対する守りを固める相撲を得意としていた。入幕したばかりの頃は立合いの当たりや突っ張りがそれほど強くも鋭くもなかったものの、これらは差し身によく繋がった。自分より差し身の良い相手には突っ張ってから差し、自分より差し身の劣る相手にはいきなり差しに行く相撲を取った。 非常に手堅く、胸を合わせずに前屈みになって腰を引く「逆・くの字」の体勢で相手の攻めを防ぎ、横へ回りながら自分有利の体勢に持ち込み、投げで崩すか寄り切る。差すと必ず差し手を返し、一度掬って相手の出足を止め、その後は腰を落として寄っていくが、左四つの場合は出ておいての右上手投げで決めた。体勢、とりわけ懐の深さに加え、真綿やスポンジに例えられるほど身体が柔らかく、どんな当たりをも受け止めても崩れない相撲を可能にした。立合いも上手く、最晩年の1971年(昭和46年)3月場所では初挑戦の大雪嶺登が奇襲として一度目の仕切りで立った際も難なく捕まえて勝利している。 大兵にもかかわらず、前捌きや回りこみが巧みで冷静・緻密な相撲を取った。投げ技の中では上手投げも強かったが、特に左差し手を十分に返してから放たれる掬い投げの上手さが際立っており、伝家の宝刀と称された。前傾姿勢で腰を引く構えによって相手に廻しを取りにくくさせたが、自分も廻しが遠くなるため、掬い投げを多用した。1970年(昭和45年)5月場所の千秋楽では北の富士の上手投げを掬い投げで打ち返して全勝を阻止したが、北の富士は「柔らかさ負けしたよ」と嘆いた。通常、廻しを取らずに下手から投げる掬い投げは上手投げより効果が薄いとされるが、大鵬の場合、懐の深さに加えて柔軟な長身で上体の大きなひねりが可能だったことが、掬い投げを非常に有効にさせていた。突っ張りも強く、突っ張ってからの叩き込みも懐の深さ故によく決まった。結果的に決まり手が「叩き込み」となったものの、相手が突っ張りの威力に耐えられず足に来てそのまま倒れたもののような相撲も多かった。だが、左膝を痛めた1968年(昭和43年)以後は叩き込みなどの引き技に頼る相撲が目立つようになって批判を浴びている。 ライバルの柏戸にも言えることだが、それまでの大型力士は巨人症気味の傾向があったが、運動神経の発達した普通の大柄な若者というところが特筆される。 一方で大鵬には反り腰がなく、上体が反ると残すことができなかった。この腰の脆さが弱点で、普段は「逆くの字」の体勢、身体の柔らかさ、懐の深さで弱点を補っていたが、胸を合わせてがっぷり四つになるとなかなか勝負に出られず、立合いから上体を起されて押されると一方的に攻められることもしばしばあった。そのような弱点を露呈させることが多かったのは、対戦経験の少ない平幕や押し相撲が相手のとき、彼らとの取り組みが多い序盤戦で、「序盤・平幕・押し相撲」が大鵬の鬼門と言われた。押し相撲に苦戦していたことは引退後に自身も認めており、「『押されてはいけない』という先入観にとらわれ、差し身にこだわりすぎて、狙っていくところをいなされ、アワを食っているうちに、押し出されるというケースが多かった」と語っている。「引っ張り込んで動きを止めてから料理する」という大鵬なりの押し相撲対策が確立したのは「横綱になって2年目あたり」だったという。 基本的には左四つに組みとめての寄りと投げが主体のスタイルだが、押し相撲や右四つでも相撲が取れた。良く言えばオールラウンダーで、悪く言えば絶対的な型がなかった。この点は右四つの完成された型を持った双葉山定次とは対照的で、大鵬以前はこういった相撲は小兵のやることで横綱・大関には相応しくないとみられていた。また「逆・くの字」の体勢を「へっぴり腰」と揶揄されることもあり、腰の力で相手の攻めを受け止めて取る相撲を本格的とする立場の評論家(小坂秀二など)から「小さな相撲」と批判されたこともある。ただ、相手次第で取り口を変える柔軟性を持っていたという点では今でも非常に評価が高く、二所ノ関は「型のないのが大鵬の型」「名人に型なし」と批判に反駁した。大鵬が勝ち続けて昭和の大横綱へと成長すると、「型のない」大鵬の相撲は、状況に応じて相撲を変える「自然体」とも評価されるようになった。一方で、玉ノ海梅吉は大鵬がどれほど結果を残しても批判を止めなかった。玉ノ海は概して柏戸などのような速攻相撲の力士を好み、攻めの遅い大鵬は玉ノ海の趣向に反したようである。攻めが遅いことは自覚していたようで、口に水を含みながら相撲を取ることで短い相撲を取らざるを得なくなるように稽古場で工夫した。 その強さと出世の早さ故か、相撲の天才と呼ばれることも多かったが、本人は「人より努力をしたから強くなった」としてこれを嫌った。大鵬の素質に惚れ込んだ二所ノ関の徹底的指導によって鍛え上げられたが、その指導内容は四股500回、鉄砲2000回、瀧見山延雄による激しいぶつかり稽古というスパルタぶりだった。全盛期は1時間ものぶつかり稽古をこなすほどの持久力であり、稽古をさせるほど強くなると見込んでいた二所ノ関は大鵬に雑用やちゃんこ番をやらせなかった。本人は弟弟子の大麒麟將能の方が天才と呼ぶにふさわしいと発言している。大鵬の取り口を批判している玉ノ海にしても土俵に上がった大鵬を見て「これはね、大鵬の体は稽古をして大きくなった体ですからな」と褒め「ただ大飯を食らったんじゃない」と表現するなど稽古で素養を開花したことについては評価している。1966年頃の取材ではバーベルやエキスパンダーなどを使用した科学的トレーニングを取り入れていることが明らかになり、相撲の稽古だけにこだわらない一面もあった。 入幕から横綱昇進までは柏戸に3勝7敗と相性が悪かった。1961年(昭和36年)3月場所では前場所に優勝してヨーロッパ旅行に行っていた柏戸に敗れ、「こんなに稽古しても、ヨーロッパに行ってろくに稽古してない柏戸関に勝てないのか」と泣いて悔しがったという。ゲンをかついで、かしわ(鶏)肉ばかり食べていた時期もあったという。横綱昇進後は両者の力関係が逆転して大鵬が18勝9敗と大きく勝ち越し、通算でも大鵬の21勝16敗となったものの、大鵬自身は引退後も「柏戸さんの出足は最後まで脅威だった」と語り、「生まれ変わったら、今度は柏戸さんのような相撲取りになりたい」とこぼしたことがあった。 大鵬が東幕下4枚目だった1959年1月場所に、大鵬と同年生まれで同学年の琴櫻が高校を繰り上げ卒業して佐渡ヶ嶽部屋から初土俵を踏んだ。同じ二所ノ関一門に属する両者の初顔合わせは部屋別総当たり制が導入された後の1965年(昭和40年)3月場所、大鵬が東横綱で琴櫻が西小結の時で、初日に琴櫻を下し最終的に16回目の優勝を果たした大鵬が両者の対戦でもここから18連勝したが、琴櫻が大関在位11場所目となった1969年(昭和44年)7月で初黒星を喫すると、この対戦から引退までは4勝4敗と拮抗した(通算では大鵬の22勝4敗)。この中には1971年1月場所、大鵬が最後の優勝を果たした中で唯一の黒星となった東張出大関琴櫻との一番が含まれる。琴櫻は大鵬の引退から10場所経った1973年1月場所の後に横綱昇進を決めた。 現役時代、廻しに付けていた下がりの本数が19本であった。 大鵬はどこへ行くにも必ず付け人への土産を買い忘れることがなかったといい、ある時は沢山食べて体が大きくなるようにと付け人たちへ寿司折りを買ってきたという。 現役時代には野球と麻雀を趣味としていた。入幕したばかりの頃は、部屋で草野球が行われれば出場する程度であまり野球に興味はなかったというが、1966年頃になると稽古の合間にキャッチボールをするようになり、野球の腕前はなかなかであったという。麻雀は下手の横好きであり、4人麻雀で1人負けしたこともある。 新入幕の翌年に横綱に昇進した力士は大鵬以前にはなく、2018年(平成30年)現在でも大鵬が唯一である。大鵬の三賞受賞数が3回と少ないのは、あまりにも早く大関・横綱へ昇進したためである。しかし、横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、体力が衰えて横綱の地位に見合った好成績を出せなくなれば早期引退以外に道はない。このことを大鵬自身はよく認識しており、横綱昇進が決定した時にも喜びの気持ちは全くなく、むしろ引退する時のことを意識せずにはいられなかったという。 横綱土俵入りは、肘を少し曲げ伸ばししながら掌を返すことが特徴だった。非常にテンポの遅い土俵入りを行っていたことでも知られており、大抵2分余り、現役最終盤の時期にあたる1970年から1971年に至っては3分を超えるまでになった。しかし1963年3月場所後に行われた二子山の談話で概して「せり上がりに区切りが無く、中段が早すぎる。柏手を打つときに首を振る癖がある。内側に向けて四股を踏むのも良くない」と立て続けに駄目出しされるなど、少なくとも横綱初期においては土俵入りが下手という評判であった。 土俵入りについては、横綱昇進直後の静岡県島田市での巡業の際に東から土俵に上がったにもかかわらず、左足で四股を踏んだ後、帰る段に引く足を間違えて逆の西方を向いてしまうという失態を演じており、これも影響して、以後しばらくは土俵入りには相当神経を使い、土俵入りを終えた後は毎回汗びっしょりになっていたという。また、横綱昇進直後の土俵入りは1分10秒程度で終わっており、親しい新聞記者から「早すぎて締まりがない」と指摘されて、以後間合いを持たせるように留意した。その後、土俵入りの時間は次第に長くなっていったが、それでも本人は「引退までギクシャクした感じがあった」と語っている。 大鵬の死から7年後、自身もルーツを持つウクライナ出身の獅司大が入間川部屋に入門している。 現役時代より慈善活動にも熱心で、「大鵬慈善ゆかた」などを販売して、その収益は、1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)まで老人ホーム・養護施設へテレビを寄贈、翌1969年(昭和44年)から2009年(平成21年)まで、日本赤十字社に「大鵬号」と命名した血液運搬車を贈った。テレビはNHK文化事業団に36台贈呈。血液運搬車の寄贈台数は1969年(昭和44年)から1976年(昭和51年)までと1979年(昭和54年)から2001年(平成13年)まで毎年2台ずつ、2002年(平成14年)から2009年(平成21年)まで毎年1台ずつで、2009年(平成21年)9月に70台目(自身の年齢と同数)の贈呈を終えたところで活動も終えた。 若い頃は大変な酒豪で、一日の酒量が一斗(18リットル)に達し、ビールを一升瓶で20本(36リットル)飲んだこともあったという。6連覇をかけていた時期の雑誌『相撲』の記事では「大鵬の兄弟子、熊ヶ谷親方(元幕内大天龍)はかつて7升の酒を飲み干したと伝えられるが、本格的に腰を据えて飲めば、大鵬の最高記録は7升程度のものではなかろうか」と、大鵬の酒量に関する主張は典拠によって異なる。塩辛い物も好きであり、酒のつまみに大ぶりの明太子を2腹も3腹も食べながら飲んだと伝わる。現役時代には同い年の親友(誕生日が9日違い)である王貞治と夜通し飲み明かしたこともあり、酔い潰れた王が一眠りして起きると大鵬が変わらないペースで飲んでいたという。場所の終盤、明け方まで飲んでいて付け人が「横綱、きょうは大関戦ですが」と心配すると「どうしておれが大関とやるのに寝なきゃいけないんだ」と豪語したという。しかしその飲酒量の多さが後に脳卒中などの病気で、健康を害した大きな原因と言われている。 色白の美男だったためか、若い頃の人気は非常に高かった。男性相撲ファンに絶大な支持を誇った柏戸と比べて大鵬は女性・子供からの絶大な支持を誇った。大鵬の取組の時だけは銭湯の女湯ががら空きになったという。全盛期には大鵬にあやかって「幸喜」と命名された男児が多くいた。俳優・劇作家・脚本家である三谷幸喜もその一人である。 同じ1940年(昭和15年)生まれで同学年、かつ同門の琴櫻とは仲が良く、下記のフランス旅行に一緒に行ったこともある。 上記の通り、1961年(昭和36年)3月場所ではヨーロッパ旅行帰りの柏戸に敗れて悔しがった。柏戸は同年1月場所で優勝しており、1月場所限定の幕内最高優勝賞品としてエールフランスから授与されたフランス旅行招待に応じたものだったが、続く1962年(昭和37年)から1964年(昭和39年)にかけては大鵬が1月場所で三連覇し、今度は大鵬自身がフランスを旅行した。1964年6月のフランス旅行には同じ二所ノ関一門である11代花籠親方(大ノ海)や琴櫻が同行し、パリでは現地滞在中の加賀まりこと並んだ記念写真が残されている。 上記のフランス旅行をした際、パリの新聞で「グランドフェニックス・タイホー」ともてはやされた。トニー・カーティスからファンレターを貰ったこともある。 二所ノ関部屋後援会員であったマダムがオーナーを務めていた飯倉の「レストラン竜」で提供されていたサーロインステーキを好んで食した。本人曰く「パリやスペインではこんな肉を食べさせるところはないよ。牛の質が違うのか知らんが、うまくないねえ。まるで靴の裏底を噛んでるようなものもあったぜ。(中略)一口この肉を食べてみると、ああ日本だなと感じるね、ウッフフ」「でもねえ、外国じゃ注文してから出来上がってくるまで遅いこと遅いこと」とのこと。 横綱時代の歌のレパートリーはサンタ・ルチア、オー・ソレ・ミオ、エルビス・プレスリー、ボビー・ダーリンなど。 大鵬が現役を務めていた頃の二所ノ関部屋は大鵬自身のネームバリューのおかげで隆盛していたのであって、大鵬がいなくなった部屋には魅力がなかったということであろう、と天龍源一郎は衰退に向かって行った二所ノ関部屋を後に振り返ったという。天龍はこれについて「もし大鵬さんが戻ってくれば、弟子の数も大部屋時代に戻り、本流の出羽海にさらに対抗し、大鵬理事長が誕生して一門みんなが潤ったかもしれない。結局、佐賀ノ花さんがたたき上げ、大横綱大鵬さんを生んであれだけ大きくなった部屋を、その大鵬さんが継ぐことができなかった。そこに"悲劇"があったということですよ」と2017年のムックで感想を述べている。 国民栄誉賞を授与した当時より首相を務めている安倍晋三は、2013年1月31日に大鵬への国民栄誉賞授与が検討されていることについて、スポーツニッポン本紙などに「圧倒的な存在感で立ち居振る舞いが美しい力士だった。当然、国民栄誉賞に値すると思っている」と述べた。
1982年(昭和57年)、人格者として知られていた大鵬は、「世界人道者賞」を受賞した。この賞は日本では余り知られていないが、ローマ法王などが受賞した世界的に重要な賞である。 大鵬部屋創設から日が浅かった頃、大鵬はベンツでちゃんこの材料の仕入れを行っていた。 露鵬の大麻問題では同じく渦中に巻き込まれた北の湖理事長と対応を協議する事態となっていた。最終的には、自分の後継者で娘婿でもある大嶽が責任を問われて相撲協会の委員から平年寄への2階級降格処分を受け、北の湖親方も理事長辞任となった。自身もそれと前後して相撲博物館館長を辞職している。 かつては第68代横綱・朝青龍明徳のよき相談役として知られ、相手次第で取り口を変える自身のような万能型の大横綱の道を歩みつつある朝青龍を厳しく、かつ温かく見守っていた。朝青龍の謹慎問題などで批判されがちの角界で、OBとして発言力を持つ一人でもあった。しかし朝青龍は、2005年(平成17年)に7場所連続優勝・年6場所完全制覇・年間最多勝の更新(84勝)の新記録を達成した辺りから、大鵬の元へ相談に来ることが無くなったという。そして結局、朝青龍は度重なるトラブルに責任を取る形で、2010年(平成22年)1月場所後に現役引退せざるを得なくなってしまった。大鵬は引退会見を見て「会見で謝罪なく腹立たしい」と憤慨していた。
2004年、大鵬部屋は三女の夫であった貴闘力(16代大嶽)が継承し、大嶽部屋と改称したが、部屋の運営は一緒にやっていたようなものであったため、よくぶつかっていたという。 貴乃花が二所ノ関一門の反対を押し切って強行出馬し初当選を果たしたいわゆる「貴の乱」では、大きな役割を果たした。「二所ノ関一門が(貴乃花親方を)破門にすると言ってきた。私に言わせれば『何を言ってるんだ』と。自分のことだけを考えてやるのはダメなんだ。協会の将来とか全体を、いろんなことを考えていかないといけない」として出馬に「GOサイン」を出した。理事選の夜、貴乃花は自らのグループの親方を率いて大鵬宅を訪れ、当選を報告した 。 亡くなるまで日刊スポーツの相撲担当評論家を務め、本場所開催中(奇数日目)は同誌に解説「土評」を連載していた(偶数日目は高砂浦五郎の「大ちゃん 大分析」)。 二所ノ関部屋消滅問題では「時代の流れでは致し方無いだろうが、今一度部屋再興を望みたい」と談話を発表した。 少年時代を過ごした北海道弟子屈町の川湯温泉の温泉街には、1984年(昭和59年)に開館した大鵬相撲記念館(設立当初の名称は弟子屈町川湯相撲記念館)があり、大鵬が実際に使用した化粧廻しや優勝トロフィーなどのゆかりの資料が展示されている。この他、名勝負・名場面などの栄光の記録と生い立ちから最晩年に至るまでの歩みを綴ったドキュメンタリー映像を上映するコーナーもある。記念館の前には、大鵬の銅像も建っている。 北海道出身のためかスズランの花が好きであり、自身の元に贈られてきたスズランの花は、花の寿命が来るまで可愛がった。また、自身の化粧回しにもスズランの花がデザインされていた。 大鵬が新横綱だった1961年11月場所から北勝海が引退した1992年5月場所(場所前に引退)まで北海道出身の横綱が番付から途絶えることはなかった。 横綱昇進の2年後あたりから、自身や部屋の後援会の関係者から頻繁に見合い話を持ちかけられていたが、本人は「まだまだやらねばならぬことや勉強がいくらもある」という理由で、結婚は昇進から5年後の26歳の誕生日を迎えてからと考えていた。実際に挙式は27歳の誕生日の翌日に行われた。 なお、この過程で師匠・二所ノ関からも縁談を持ち掛けられ、しかもその際に「結婚を承諾するなら将来は二所ノ関部屋の後継者として考えてもよい」と暗に漏らされていながら、断ったということを著書で明かしている。後年、二所ノ関の死去後に後継を巡る争いが起きた際に大鵬も名乗りを上げながら、結局実現しなかったのはこのことも影響していると言える。 1994年に三女と貴闘力が結婚している。
大鵬は貴闘力に離縁を申し渡し、三女と貴闘力は離婚。その時「お前は何も悪くない。堂々としてなさい」と三女に言い、以降も度々言い聞かせた。三女は父親を裏切った罪悪感から大鵬と離れて暮らすようになったが、その後も大鵬は二人を心配し「いつでも帰っておいで」と言っており、三女が最期に受け取った言葉は「ずっと心配していたんだ」であったという。貴闘力は2013年の大鵬の最期に立ち会っているが、葬儀への参列を許されなかった。 4人の息子を全て力士にする方針で長男に相撲を強制した貴闘力とは違い、大鵬は「そんな風にさせなくていいから。好きなことをさせればいい」と常々言っていた。自分の意志で、長男はプロレスラーの道に、次男・三男・四男は相撲の道に進んでいる。大鵬が死去した際に次男(納谷幸林)は中学生で、大鵬が孫たちに相撲を指導する機会は無かった。 2005年6月22日、本人により「大鵬」の商標登録の出願がなされ、登録となった。大鵬の遺族は有限会社大鵬企画という会社を通じ、現在も大鵬の公式サイトの運営・大鵬のオリジナルグッズ販売や各種イベント、大嶽部屋のサポートを行っている。 通算成績:872勝182敗136休 勝率.827
大関成績:58勝17敗 勝率.773 通算在位:87場所
大関在位:5場所 三役在位:3場所(関脇2場所、小結1場所) 対横綱戦勝利:43勝(若乃花幹士 (初代)と並び歴代1位タイ、勝率も6割を超えている) 年間最多勝:6回(白鵬翔の10回、北の湖敏満の7回に次いで歴代3位。1960年 - 1964年の5年連続最多勝も白鵬翔の9年連続に次いで歴代2位タイ)
連続6場所勝利:84勝(1966年3月場所-1967年1月場所、1966年5月場所-1967年3月場所、1966年7月場所-1967年5月場所) 通算(幕内)連続勝ち越し記録:25場所(歴代10位タイ・1960年5月場所-1964年5月場所) 幕内連続2桁勝利記録:25場所(白鵬51場所・北の湖37場所に次いで歴代3位・1960年5月場所-1964年5月場所) 幕内連続12勝以上勝利:11場所(歴代5位・1962年7月場所-1964年3月場所) 幕内最高優勝32回は、白鵬に次ぐ歴代2位の記録だが、引退当時は最多優勝記録であった。様々な金字塔を打ち立てたが、特に入幕(1960年)から引退(1971年)までの12年間、毎年必ず最低1回は優勝した記録は「一番破られにくい記録」と言われた(現在は白鵬の16年連続に次ぐ歴代2位だが白鵬も「入幕年の優勝」は達成していない)。 大鵬の最多連勝記録は、45連勝である。(1968年9月場所2日目-1969年3月場所初日。1926年の東西相撲合併以降、歴代4位) 下記に、大鵬のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。 上記の通り、20連勝以上9回、30連勝以上4回記録している。 幕内最高優勝:32回(引退当時歴代1位、死去当時歴代1位、現在歴代2位) (1960年11月場所 1961年 7月場所、9月場所、11月場所 1962年 1月場所、7月場所、9月場所、11月場所 1963年 1月場所、3月場所、5月場所 1964年 1月場所、3月場所、9月場所、11月場所 1965年 3月場所、7月場所、11月場所 1966年 3月場所、5月場所、7月場所、9月場所、11月場所 1967年 1月場所、5月場所、9月場所 1968年 9月場所、11月場所 1969年 1月場所、5月場所 1970年 3月場所 1971年 1月場所) 十両優勝:1回(1959年11月場所) 三段目優勝:1回(1958年3月場所) 三賞:3回
技能賞:1回(1960年9月場所) 雷電賞:3回(1960年1月場所、1960年9月場所、1960年11月場所) 金星:1個(朝潮1個) 他に優勝決定戦で柏戸に2勝、明武谷に1勝、佐田の山・玉の海に各1勝1敗がある。 納谷 幸喜(なや こうき)1956年9月場所-1959年3月場所 大鵬 幸喜(たいほう -)1959年5月場所-1971年5月場所 大鵬 幸喜(たいほう こうき)1971年5月-2005年5月(退職)(一代年寄) 『大鵬自伝』ベースボールマガジン社, 1972 (ほるぷ自伝選集. スポーツに生きる 趣味と生活, 1981.6 『巨人、大鵬、卵焼き 私の履歴書』日本経済新聞社, 2001.2 『一流とは何か』 (男のVシリーズ) ロングセラーズ, 2008.3 『大きなヒーロー』川上哲治 (読売ぶっくれっと 時代の証言者 読売新聞東京本社, 2005.3 『最強の横綱 私の履歴書』時津風定次,二子山勝治共著 (日経ビジネス人文庫) 日本経済新聞社, 2006.11 『相撲道とは何か』監修. ロングセラーズ, 2007.11 ^ 大鵬自身は現役引退直後に刊行された「大鵬自伝」(ベースボールマガジン社版)で父親について「幼い時に亡くなった」、「朧ろにかすんだ霧の中にかくれていて、その輪郭はつかみようもない」、「牧場を経営していた」、「正直に言って父と呼ぶべき人を知らないのです」(いずれもP40)と述べており、1981年に再版されたほるぶ新書版でも、同じ記述になっている。 ^ 北海道へ引き上げる際に稚内で途中下船したのは、大鵬が記した「私の履歴書」によると母親の事情ではなく、当時子供だった大鵬が「降りたい、降りたい」と愚図ったために仕方なく下船し、鉄道で目的地に向かったと述べている。大鵬自身も「小樽まで乗船していたら今の自分はなかった」と語っている。 ^ 大鵬は引退後、「おおづつ」と読ませる巨砲丈士を育てることになる。 ^ 2019年現在の最年少記録は関脇・大関・初優勝とも貴乃花光司が保持。 ^ 後に佐田の山晋松が3場所目で12勝3敗の成績で初優勝を記録し、2019年現在も単独で保持しているが、対戦内容から問題になった。 ^ 2019年現在の記録は北の湖敏満の21歳2ヶ月。 ^ 「大相撲」(読売新聞社刊)1968年7月号では「幕内全力士が考える大相撲再建案」が特集され、力士たちが「相撲人気が落ち目になっていると思うが、力士としてどのようにしたらいいと考えているか」という質問に答えている。 ^ もともと左肘は1965年(昭和40年)11月場所5日目の栃王山裕規戦で痛めていたが、この年に2度にわたって左肘を負傷したことが致命傷となり、本人は「肘が『く』の字に曲がったまま、伸ばすことも折り曲げることもできなくなり、相撲に工夫が必要になった」と語っている。(「大鵬自伝」P194-198) ^ 取り直し制度導入後では2位(当時)。この後に千代の富士貢が53連勝、白鵬翔が63連勝を記録して2012年(平成24年)11月現在では歴代4位。 ^ しかしこの場所は大鵬以外の横綱・大関陣が全員8勝あるいは9勝に留まっており、場所後の『読売大相撲』には「史上最低の落第場所」「なんとかしてください」という総評が寄せられる始末であった。 ^ 北の富士・玉の海が横綱に昇進して以降の対戦成績は共に大鵬の4勝2敗で勝ち越している。 ^ 福の花は柏戸の現役引退当日(1969年7月場所4日目)の対戦相手にもなっている。 ^ 当時、玉の海は虫垂炎にかかっていたが、責任感の強い玉の海は大鵬の引退相撲の式が終了するまで入院を拒んでいたため症状が悪化し、手遅れの状態になってしまったと言われる。そのため、結果として大鵬の引退相撲が玉の海の生命を縮める一因になってしまったとも言える。 ^ これによって車椅子移動が基本となったために勝負審判が務められず、挨拶で土俵に上がるのにも支障が生じる。大鵬の同世代では佐田の山と豊山勝男が理事長を務めている。 ^ リハビリは廊下を這うことから始め、それを見た者達から好奇や憐みの視線を向けられたという。:大鵬さん 引退後は不遇 脳梗塞、大麻事件、娘婿解雇 幕内優勝力士出せず Sponichi Annex 2013年1月20日 06:00 ^ この退任により同じ二所ノ関一門の枠で理事職を引き継いだのは、自身の現役最後の対戦相手でもあり、当時部屋の全盛を誇っていた11代二子山だった。 ^ 大鵬がアンチ巨人だったにもかかわらず王と親しかったのは、誕生日が近いだけでなく、王が巨人の選手の中でも並外れた努力家で大鵬と共通するスポーツ精神の持ち主であったこと、また父親が外国人という共通点があった(王の父は中国人であった)ことも理由として挙げられる。ちなみに、王も大鵬と同じく若い頃はかなりの酒豪であった。 ^ 両腕を交差して相手の片腕を挟むように差すといった比較的珍しい方のもろ差し。 ^ 全盛期の琴櫻傑將が放ったぶちかましを稽古場で受けられるのは大鵬ただ一人だったと言われており、他の力士は琴櫻のぶちかましを恐れて胸を出すのを皆避けたという。これは大鵬の特異体質を表わす逸話である。 ^ 大鵬よりも以前、栃錦清隆が横綱昇進を決めた日に師匠の栃木山守也から「今日からは毎日、辞める時のことを考えて過ごせ」と言い渡された話があり、大鵬もこの話を聞いて深く感じ入る所があったと言える。また、栃錦のライバルであった若乃花幹士も、大関以下の力士は負け越してもその時の実力に見合った番付で比較的長く現役を続けることができるが、横綱が負け越せば引退以外に道はないため、横綱昇進が決まった時には推挙を受けるべきかどうか、かなり悩んだという。 ^ 大鵬の土俵入りの指導は二子山(初代若乃花、大鵬の昇進当時は現役)が行った。 ^ 同様のエピソードに、ラジオドラマ「君の名は」がある。 ^ その世代の有名人の名を子供につけるという例は多く、全国高等学校野球選手権大会で人気を博した荒木大輔(ヤクルトスワローズ)に因んで名づけられた松坂大輔(ボストン・レッドソックス)などの例がある。 ^ 当時の琴櫻は新三役の小結で迎えた1月場所で受けた右足首骨折の影響が残り、幕尻の東前頭15枚目で迎えた復帰場所の5月場所で負け越し、翌7月場所での十両陥落が確実になっていた。当時は「系統別総当たり制」のため、大鵬と琴櫻は本場所では対戦していなかった。 ^ 安本はその後に柔道フランス代表チームのコーチを務めた。 ^ 柏戸・明武谷と優勝決定戦 ^ 佐田の山と優勝決定戦 ^ 本態性高血圧により5日目から途中休場 ^ 左足首関節内骨折により千秋楽不戦敗 ^ 柏戸と優勝決定戦 ^ 左肘関節挫傷・左上腕筋肘頭附着部離断により3日目から途中休場 ^ 左肘関節剥離骨折により13日目から途中休場 ^ インフルエンザ性気管支炎・本態性高血圧により4日目から途中休場 ^ 急性気管支炎・扁桃腺炎により5日目から途中休場 ^ 左膝側副靱帯損傷により10日目から途中休場 ^ 右足首関節捻挫により4日目から途中休場 ^ 玉の海と優勝決定戦 ^ 『相撲』別冊菊花号 p32-35 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p14-19 ^ なお、「恐らく近代以降の(そして戦後に限れば間違いなく)最も偉大な力士」と評されている(ジャパンタイムズの記事Whether crisis or not, sumo's show must go on) ^ “元横綱・大鵬の納谷幸喜さんが死去 72歳”. 日本経済新聞. (2013年1月19日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1902A_Z10C13A1000000/ 2020年2月11日閲覧。 ^ 『相撲』別冊菊花号 19p ^ 大相撲巡業で弁当の改善が課題に nikkansports.com 2014年8月18日9時56分 紙面から ^ 佐藤祥子『相撲部屋ちゃんこ百景 とっておきの話15』pp.214-215 河出文庫 2016年 ISBN 978-4309414515 ^ 視点・論点「大鵬の時代」NHK解説委員会 2013年02月06日(水) ^ 大鵬は巡業で大関5人を相手に稽古「口の中に水を含めば長い相撲が取れない」(2/2ページ) 日刊ゲンダイDIGITAL 2022/08/26 06:00 (2022年8月26日閲覧) ^ 『相撲』別冊菊花号 20p ^ 『相撲』別冊菊花号 21p ^ 佐藤祥子 pp.33-34 ^ 『大相撲ジャーナル』2024年10・11月合併号 71ページ ^ 朝日新聞1961年9月27日付朝刊社会面 ^ Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p62 ^ 『大相撲中継』2017年5月27日号18頁 ^ 「大鵬自伝」P170-171 ^ ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』22ページから23ページ ^ 日刊スポーツ 2017年11月22日 ^ 2007年8月2日、毎日新聞東京朝刊 ^ “世紀の誤審”で大鵬が発した「あんな相撲を取った俺が一番悪い」の意味 日刊ゲンダイDIGITAL 2022/05/27 06:00 (2022年7月8日閲覧) ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p44 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p50 ^ 『大相撲ジャーナル』2017年6月号45頁 ^ 月刊『相撲』平成23年9月号掲載 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p63 ^ ベースボールマガジン社発行、月刊「相撲」2008年12月号71ページ閲覧 ^ 元横綱大鵬が最後の喝 スポーツ報知 2008年12月26日付 ^ 元横綱大鵬の納谷幸喜さん-文化功労者 時事通信 2009年10月27日閲覧 ^ “大相撲の元横綱大鵬、納谷幸喜さんが死去”. 産経新聞. 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Vin株式会社. 2024年5月14日閲覧。 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p45-46 ^ 実はアンチ大鵬だった…安倍首相も「国民栄誉賞に値する」 Sponichi Annex 2013年2月1日 06:00 ^ 大鵬さん「会見で謝罪なく腹立たしい」 日刊スポーツ 2010年2月5日9時6分 紙面から (2021年1月14日閲覧) ^ 大鵬が朝青龍を見捨てた日 東スポWeb 2013年01月26日 10時00分 (2021年1月14日閲覧) ^ 元横綱・大鵬が娘に遺した言葉「お前は何も悪くない。堂々としてなさい」(1/2ページ) NEWSポストセブン 2021.08.03 16:00 (週刊ポスト2021年8月13日号より、2021年8月7日閲覧) ^ 「貴の乱」を援護した大鵬 東スポweb 2013年01月25日 ^ 大鵬「再興を」二所ノ関部屋消滅に「わびしいし、さみしい」 スポーツ報知 2013年1月10日閲覧。なお、二所ノ関部屋は大鵬の死後、2014年12月1日付で再興された。 ^ 「大鵬自伝」P178-179 ^ 「大鵬自伝」P185 ^ 「大鵬自伝」P179 ^ 元横綱・大鵬が娘に遺した言葉「お前は何も悪くない。堂々としてなさい」(2/2ページ) NEWSポストセブン 2021.08.03 16:00 (週刊ポスト2021年8月13日号より、2021年8月7日閲覧) ^ “大鵬の娘が語る、父の教えで乗り切った「シングルマザーの子育て」 | 女性自身”. 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大鵬幸喜『巨人、大鵬、卵焼き 私の履歴書』(日本経済新聞社、2001年2月) - ISBN 4-532-16377-3
大鵬『一流とは何か』(KKロングセラーズ、2008年) 大鵬監修『相撲道とは何か』(ロング新書・KKロングセラーズ 2007年) 『大鵬物語』弟子屈町教育委員会が2014年に刊行した地域副読本。弟子屈町の全小中高校に配布。 雑誌『相撲』別冊菊花号 創業70周年特別企画シリーズ(3)柏鵬時代 柔の大鵬 剛の柏戸――大型横綱たちの君臨(ベースボールマガジン社、2016年) 横綱一覧 大相撲優勝力士一覧 マルキャン・ボリシコ - 大鵬の父親 巨人・大鵬・卵焼き 角界拳銃密輸事件 納谷幸男、納谷幸林、王鵬幸之介、夢道鵬幸成 - 大鵬の孫 第四十八代横綱 大鵬 オフィシャルサイト 大鵬 幸喜 - goo 大相撲 昭和35年 大鵬-栃錦戦(栃錦との対戦はこの一度限り) 大鵬 幸喜・生涯星取表 ジャパン・スポーツ・マーケティング 大鵬幸喜 - NHK人物録 表 話 編 歴 1977年(昭和52年):王貞治 1978年(昭和53年):古賀政男 1984年(昭和59年):長谷川一夫 1984年(昭和59年):植村直己 1984年(昭和59年):山下泰裕 1987年(昭和62年):衣笠祥雄 1989年(平成元年):美空ひばり 1989年(平成元年):千代の富士貢 1992年(平成4年):藤山一郎 1992年(平成4年):長谷川町子 1993年(平成5年):服部良一 1996年(平成8年):渥美清 1998年(平成10年):吉田正 1998年(平成10年):黒澤明 2000年(平成12年):高橋尚子 2009年(平成21年):遠藤実 2009年(平成21年):森光子 2009年(平成21年):森繁久彌 2012年(平成24年):吉田沙保里 2013年(平成25年):大鵬幸喜 2013年(平成25年):長嶋茂雄 2013年(平成25年):松井秀喜 2016年(平成28年):伊調馨 2018年(平成30年):羽生善治 2018年(平成30年):井山裕太 2018年(平成30年):羽生結弦 2023年(令和5年):国枝慎吾 2011年(平成23年):ワールドカップ日本女子代表 表 話 編 歴 高見山酉之助 常陸山谷右エ門 太刀山峯右エ門 鳳谷五郎 両國勇治郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦卯一郎 栃木山守也 常ノ花寛市 鶴ヶ濱増太郎 西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代) 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝 一覧 年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。 表 話 編 歴 1958 若乃花幹士 1959 栃錦清隆 1960 若乃花幹士(※) 1961 大鵬幸喜 1962 大鵬幸喜 1963 大鵬幸喜 1964 大鵬幸喜 1965 佐田の山晋松 1966 大鵬幸喜(※) 1967 大鵬幸喜 1968 玉乃島正夫 1969 大鵬幸喜(※) 1970 北の富士勝昭 1971 玉の海正洋(※) 1972 貴ノ花満(※) 1973 輪島大士 1974 北の湖敏満 1975 三重ノ海五郎(※) 1976 輪島大士 1977 輪島大士(※) 1978 北の湖敏満 1979 北の湖敏満 1980 北の湖敏満 1981 千代の富士貢(※) 1982 千代の富士貢 1983 隆の里俊英 1984 若嶋津六夫 1985 千代の富士貢 1986 千代の富士貢 1987 千代の富士貢(※) 1988 千代の富士貢(※) 1989 千代の富士貢(※) 1990 旭富士正也 1991 小錦八十吉(※) 1992 貴花田光司 1993 曙太郎 1994 貴乃花光司 1995 貴乃花光司 1996 貴乃花光司 1997 貴乃花光司 1998 若乃花勝 1999 武蔵丸光洋 2000 曙太郎 2001 武蔵丸光洋 2002 朝青龍明徳 2003 朝青龍明徳 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 朝青龍明徳 2007 白鵬翔 2008 白鵬翔 2009 白鵬翔 2010 白鵬翔 2011 白鵬翔 2012 白鵬翔 2013 白鵬翔 2014 白鵬翔 2015 白鵬翔 2016 日馬富士公平(※) 2017 受賞者なし 2018 栃ノ心剛史 2019 白鵬翔(※) 2020 貴景勝光信 2021 照ノ富士春雄 2022 若隆景渥 2023 霧島鉄力 表 話 編 歴 1957 栃錦清隆 1958 若乃花幹士 1959 栃錦清隆 1960 大鵬幸喜 1961 大鵬幸喜 1962 大鵬幸喜 1963 大鵬幸喜 1964 大鵬幸喜 1965 佐田の山晋松 1966 柏戸剛 1967 大鵬幸喜 / 柏戸剛 1968 玉乃島正夫 1969 北の富士勝昭 1970 北の富士勝昭 / 玉の海正洋 1971 北の富士勝昭 1972 輪島大士 1973 輪島大士 1974 北の湖敏満 1975 北の湖敏満 1976 輪島大士 1977 北の湖敏満 1978 北の湖敏満 1979 北の湖敏満 1980 北の湖敏満 1981 北の湖敏満 1982 千代の富士貢 1983 隆の里俊英 1984 若嶋津六夫 1985 千代の富士貢 1986 千代の富士貢 1987 北勝海信芳 1988 旭富士正也 1989 北勝海信芳 1990 旭富士正也 1991 霧島一博 1992 貴花田光司 1993 曙太郎 1994 貴乃花光司 1995 貴乃花光司 1996 貴乃花光司 1997 貴乃花光司 1998 若乃花勝 1999 武蔵丸光洋 2000 曙太郎 2001 武蔵丸光洋 2002 朝青龍明徳 2003 朝青龍明徳 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 朝青龍明徳 2007 白鵬翔 2008 白鵬翔 2009 白鵬翔 2010 白鵬翔 2011 白鵬翔 2012 白鵬翔 2013 白鵬翔 2014 白鵬翔 2015 白鵬翔 2016 稀勢の里寛 2017 白鵬翔 2018 栃ノ心剛史 2019 朝乃山英樹 2020 貴景勝光信 2021 照ノ富士春雄 2022 若隆景渥 2023 霧島鐵力 表 話 編 歴 初代明石志賀之助 2代綾川五郎次 3代丸山権太左衛門 4代谷風梶之助 5代小野川喜三郎 6代阿武松緑之助 7代稲妻雷五郎 8代不知火諾右衛門 9代秀ノ山雷五郎 10代雲龍久吉 11代不知火光右衛門 12代陣幕久五郎 13代鬼面山谷五郎 14代境川浪右衛門 15代梅ヶ谷藤太郎(初代) 16代西ノ海嘉治郎(初代) 17代小錦八十吉 18代大砲万右エ門 19代常陸山谷右エ門 20代梅ヶ谷藤太郎(2代) 21代若嶌權四郎 22代太刀山峯右エ門 23代大木戸森右エ門 24代鳳谷五郎 25代西ノ海嘉治郎(2代) 26代大錦卯一郎 27代栃木山守也 28代大錦大五郎 29代宮城山福松 30代西ノ海嘉治郎(3代) 31代常ノ花寛市 32代玉錦三右エ門 33代武藏山武 34代男女ノ川登三 35代双葉山定次 36代羽黒山政司 37代安藝ノ海節男 38代照國萬藏 39代前田山英五郎 40代東富士欽壹 41代千代の山雅信 42代鏡里喜代治 43代吉葉山潤之輔 44代栃錦清隆 45代若乃花幹士(初代) 46代朝潮太郎 47代柏戸剛 48代大鵬幸喜 49代栃ノ海晃嘉 50代佐田の山晋松 51代玉の海正洋 52代北の富士勝昭 53代琴櫻傑將 54代輪島大士 55代北の湖敏満 56代若乃花幹士(2代) 57代三重ノ海剛司 58代千代の富士貢 59代隆の里俊英 60代双羽黒光司 61代北勝海信芳 62代大乃国康 63代旭富士正也 64代曙太郎 65代貴乃花光司 66代若乃花勝 67代武蔵丸光洋 68代朝青龍明徳 69代白鵬翔 70代日馬富士公平 71代鶴竜力三郎 72代稀勢の里寛 73代照ノ富士春雄 雷電爲右エ門 表 話 編 歴 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝 表 話 編 歴 1968 西城正三 1969 読売ジャイアンツ 1970 大鵬幸喜 1971 長嶋茂雄 1972 松本勝明 1973 沢村忠 1974 王貞治 1975 広島東洋カープ 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 ヤクルトスワローズ 1979 具志堅用高 1980 具志堅用高 1981 中野浩一 1982 落合博満 1983 広岡達朗 1984 衣笠祥雄 1985 ランディ・バース 1986 落合博満 1987 岡本綾子 1988 千代の富士貢 1989 千代の富士貢 1990 野茂英雄 1991 辰吉丈一郎 1992 貴花田光司 1993 三浦知良 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 尾崎将司 1997 中田英寿 1998 佐々木主浩 1999 松坂大輔 2000 松井秀喜 2001 イチロー 2002 FIFAワールドカップ日本代表 2003 松井秀喜 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 2007 浦和レッドダイヤモンズ 2008 石川遼 2009 石川遼 2010 白鵬翔 2011 FIFA女子ワールドカップ日本女子代表 2012 阿部慎之助 2013 田中将大 2014 錦織圭 2015 ラグビー日本代表 2016 大谷翔平 2017 福岡ソフトバンクホークス 2018 大谷翔平 2022 井上尚弥 2023 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川竜男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田知子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田川由紀子 佐藤太圭子 山田三智穂 大谷豊二 高橋優子 貴ノ花利彰 赤塚洋文 平内義幸 富岡雅寛 平賀輝子 中川時子 加藤稔 池内淳子 中原誠 森英恵 小林桂樹 中村汀女 井上ひさし 中野貴代 神田好武 真木洋子 輪島大士 高橋洋子 生沼スミエ 棟方志功 村上元三 京マチ子 サトウサンペイ 高田ユリ 尾上菊五郎 寺島純子 北の湖敏満 根本良夫 橋本明治 杉村春子 尾上松緑 栗原小巻 堀江謙一 檀ふみ 魁傑將晃 新垣留美子 根本良夫 尾上梅幸 高橋展子 吉永小百合 加藤剛 三林京子 大竹しのぶ 古葉竹識 三重ノ海五郎 池田彌三郎 浅丘ルリ子 中村梅之助 小野清子 村上隆 堤加蓉子 カロリーナ・ピレス・ド・リオ 若三杉壽人 川上哲治 川口幹夫 市川染五郎 上田利治 旭國斗雄 水島新司 川橋幸子 橋田壽賀子 新井春美 竹下景子 川口幹夫 北の湖敏満 岩下志麻 植村直己 八千草薫 安奈淳 森和人 森下洋子 山本浩二 加藤好雄 若山富三郎 ミヤコ蝶々 菅原文太 大原麗子 松本零士 重兼芳子 古葉竹識 多岐川裕美 加藤好雄 松本幸四郎 陳舜臣 佐久間良子 木田勇 向田邦子 島田陽子 鈴木喜久子 角田好雄 渡辺一雄 石毛宏典 古手川祐子 緒形拳 花井幸子 倉本昌弘 森光子 坂田栄男 高橋洋子 秋竜山 澤地久枝 香川宏 生沼スミエ 玉の海梅吉 森英恵 山藤章二 池上季実子 広岡達朗 村松友視 真野響子 滝田栄 橋田壽賀子 前橋汀子 市川猿之助 香川宏 三船敏郎 松本幸四郎 大原麗子 田淵幸一 樋口久子 松坂慶子 田中裕子 隆の里俊英 谷川浩司 林真理子 胡桃沢耕史 宮尾登美子 山口小夜子 役所広司 菊池綜一 江上由美 釜本邦茂 名取裕子 風間杜夫 石井幹子 連城三紀彦 里中満智子 衣笠祥雄 松坂慶子 市川海老蔵 遠藤利男 三田佳子 中村吉右衛門 高野悦子 小池一夫 武原はん ジェームス三木 山口洋子 吉田義男 大地真央 北尾光司 中野正之 森光子 清原和博 森下洋子 雁屋哲 黒柳朝 加藤芳郎 山崎洋子 渡辺謙 加納みゆき 千代の富士貢 吉岡利夫 若尾文子 中井貴一 森瑤子 江藤俊哉 俵万智 逢坂剛 森口祐子 近藤真一 若村麻由美 北勝海信芳 今西陽一郎 三田佳子 片岡孝夫 伊藤京子 森祇晶 浅野温子 安野光雅 伊勢桃代 新井満 山口智子 千代の富士貢 沖清司 千代の富士貢 いしだあゆみ ねじめ正一 小林浩美 中村勘九郎 村崎芙蓉子 西田敏行 石岡瑛子 斎藤雅樹 渡辺梓 沖清司 山本陽子 中村鴈治郎 諏訪内晶子 野田秀樹 コシノジュンコ 渡辺久信 森口祐子 松岡修造 沢口靖子 真田広之 小林由紀子 増井光子 山崎豊子 秋山幸二 芦原すなお 荻野アンナ 若花田勝 貴花田光司 緒形直人 鷲尾いさ子 田中好子 内林達夫 有森裕子 曙太郎 古賀稔彦 富司純子 中田久美 野茂英雄 村上弘明 伊藤みどり 森光子 高橋克彦 松尾武 三田佳子 米長邦雄 市川團十郎 細川直美 筒井道隆 つみきみほ 松原敏春 平瀬真由美 宮尾登美子 川淵三郎 内館牧子 田村亮子 植木等 野村克也 中丸三千繪 古田敦也 ミヤコ蝶々 曙太郎 古橋廣之進 大林素子 松尾武 イチロー 赤井英和 奥野史子 岩下志麻 羽生善治 南井克巳 賀来千香子 川本ゆかり 市川崑 森光子 上田洋一 古田敦也 田村亮子 天海祐希 竹中直人 原辰徳 水谷八重子 中村紘子 ジョージ川口 柳家小さん 大石芳野 上田洋一 有森裕子 川口能活 江角マキコ 仰木彬 清水市代 中村橋之助 森英恵 桂米朝 大石静 周防正行 大橋晴夫 井原正巳 吉永小百合 片岡仁左衛門 伊藤みどり 佐々木主浩 佐藤夕美子 本木雅弘 篠田節子 谷川浩司 吉行あぐり 大橋晴夫 清水宏保 藤原紀香 琴錦功宗 中村玉緒 松平健 俵万智 ジェームス三木 服部道子 熊川哲也 浅利純子 伊東律子 出島武春 松嶋菜々子 内館牧子 野村萬斎 田村亮子 津川雅彦 草笛光子 阿久悠 福嶋晃子 乙武洋匡 伊東律子 田村亮子 長嶋茂雄 高橋尚子 渡辺謙 池内淳子 佐々木主浩 岡本綾 井上康生 木村佳乃 内藤國雄 出田幸彦 栃東大裕 川原亜矢子 室伏広治 竹田恆和 松岡佑子 唐沢寿明 平良とみ 天海祐希 藤田宜永 森下洋子 出田幸彦 朝青龍明徳 米倉涼子 市川新之助 阿川佐和子 宮本恒靖 仲間由紀恵 高橋由伸 恩田美栄 岩合光昭 岸惠子 中村季恵 浅野ゆう子 五木寛之 優香 三谷幸喜 村山由佳 末續慎吾 村主章枝 武田真治 有馬稲子 星野仙一 中村季恵 野口みずき 野村忠宏 橋田壽賀子 中村勘九郎 荒川静香 滝沢秀明 高島礼子 和田一浩 森光子 日野原重明 琴欧州勝紀 薬師丸ひろ子 野口聡一 長澤まさみ 山田洋次 森光子 上川隆也 眞鍋かをり 林家正蔵 栗原はるみ 渡辺謙 阿木燿子 リリー・フランキー 藤山直美 内野聖陽 横峯さくら 田口壮 吉田都 鎌田實 瀬戸内寂聴 宮﨑あおい 上田桃子 岡島秀樹 青木功 中村勘三郎 新垣結衣 茂木健一郎 坂東眞理子 陣内智則 藤原紀香 本木雅弘 吉田沙保里 太田雄貴 高橋尚子 松本幸四郎 松坂慶子 姜尚中 堀北真希 妻夫木聡 上野由岐子 白鵬翔 草刈民代 阿部寛 深田恭子 原辰徳 勝間和代 城田優 杉山愛 西田敏行 森光子 野口聡一 湊かなえ 岩崎夏海 寺島しのぶ 髙橋大輔 上野樹里 伊勢谷友介 仲間由紀恵 北大路欣也 武良布枝 大竹しのぶ 田中将大 コシノジュンコ 三谷幸喜 鈴木京香 佐々木則夫 鈴木明子 松山ケンイチ 松井冬子 琴奨菊和弘 綾瀬はるか 尾木直樹 澤穂希 中村勘九郎 樹木希林 桂文枝 吉田沙保里 入江陵介 菅野よう子 日馬富士公平 田中将大 滝川クリステル 宮藤官九郎 宮本信子 杉良太郎 風吹ジュン 岡田准一 杏 片岡愛之助 阿川佐和子 中園ミホ 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2024/11/20 14:25更新
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taihou kouki
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