栃錦清隆の情報(とちにしききよたか) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
栃錦 清隆さんについて調べます
■名前・氏名 |
栃錦清隆と関係のある人
時津山仁一: この場所は東前頭6枚目の位置でありながら、対戦相手で最も番付が上だったのは出羽錦忠雄(小結)だけで、1敗で追い掛けていた吉葉山潤之輔・栃錦清隆の両大関との対戦もなかった(この両大関は、千秋楽に対戦して吉葉山が勝利している。 栃ノ海晃嘉: 1955年(昭和30年)8月に千代ノ山雅信・栃錦清隆らの一行が青森県大鰐町を巡業で訪れた際に、既に春日野部屋へ入門していた中学時代の同級生・須藤良一に出会い、力士へ憧れる。 出羽錦忠雄: 同期である栃錦清隆とは親友で、よく一緒に稽古を行っていた。 双葉山定次: 横綱昇進時はまだ独身だったことや、その童顔もあって「童貞横綱」とも呼ばれたが、栃錦清隆が新弟子の頃に春日野の用事で料亭に双葉山を訪ねたところ、「この世にこんな綺麗な人がいるのかと思った」ほどの美女を侍らせていたと証言している。 不動岩三男: 栃錦清隆に襷反りで敗れたことがあるが、その時の写真は、双葉山定次が後楽園球場で横綱土俵入りを披露(不動岩が露払い)した時と共に何度か誌上に出ることがある。 鳴門海一行: 無類の稽古熱心で、栃錦清隆や大江戸勇二に可愛がられて良く稽古をつけられた。 栃木山守也: 一世を風靡した横綱にしては郷里・栃木県への寄贈品がとても少なく、多くは栃木山の没後に年寄・春日野の名跡を継承した栃錦清隆が名代として行ったものである。 北の洋昇: この結果、1950年9月場所で新入幕を果たしてからは上位陣、とりわけ朝潮太郎には滅法強くなり、他にも東富士欽壹・栃錦清隆・千代の山雅信などといった戦後間もない頃を代表する名横綱を度々苦しめ、獲得した金星10個は当時の最多記録だった。 佐田の山晋松: 1955年のある日、栃錦清隆・千代の山雅信一行が地元・五島に巡業に来た際に、高校教諭から千賀ノ浦を紹介されたが、郷土の英雄である五ツ嶋への憧れが強かったことから出羽海部屋へ入門、翌日からは洗面道具と下着だけを持参してそのまま巡業に参加したが、高校の卒業証書は教諭の計らいでようやくもらえた。 東富士欽壹: しかし、初優勝以来6年間は毎年1回優勝しており、羽黒山政司らとともに栃錦清隆・若乃花幹士時代(栃若時代)までの相撲界を支えた功績は大きい。 力道山: 同世代の鏡里喜代治、栃錦清隆、吉葉山潤之輔とも互角に取っており、力士を続けていれば大関も期待できる逸材であった。 小島貞二: 『栃錦清隆』ベースボール・マガジン社, 1959 千代の山雅信: 突っ張りの稽古台にされた栃錦清隆の歯が歪んだほどであるほど、非常に稽古熱心だった。 若羽黒朋明: また速攻型の栃錦清隆には3勝16敗、若乃花幹士にも3勝24敗、特に若乃花には初顔から16連敗と全く歯が立たなかった。 三根山隆司: 一方で当初は分が良かった栃錦清隆には最後に14連敗(通算10勝19敗)、若乃花幹士には10連敗(通算11勝15敗)を喫しているなど、この2人には歯が立たなかった。 羽黒山政司: この場所は新鋭・栃錦清隆と対戦したが、この取り組みが行われた日は再婚した妻の長男が誕生した日でもある。 常ノ花寛市: 出羽錦忠雄などの弟子も大半が千代の山と同様に先代からの弟子で、特に理事長時代は部屋の指導にも殆ど当たっておらず、部屋の指導に本腰を入れたのは相談役に退いてからのために、直弟子の栃錦清隆を横綱に育て、自身の没後に横綱となった栃ノ海晃嘉と大関となった栃光正之も入門時に育成した弟弟子の栃木山守也や理事長を務めながら1横綱3大関を育てた自身の後任理事長の双葉山定次と比べると部屋の師匠としての評価はあまり高くない。 安念山治: 得意とする左四つからの下手投げで栃錦清隆・千代の山雅信に強く、通算獲得金星10個のうち7個を二人から奪っているが、大鵬幸喜には通算で21戦全敗と全く歯が立たず、同じ横綱でありながら栃錦・千代の山に強くても大鵬に全く勝てない不思議な戦績が残っている。 栃ノ海晃嘉: 同年10月に春日野が亡くなると、部屋は二枚鑑札で栃錦清隆が継承した。 大内山平吉: 当時横綱は他に3人(鏡里喜代治、吉葉山潤之輔、栃錦清隆)いて、通常なら関脇が千秋楽の結びの一番に起用されるはずもないが、鏡里と吉葉山の両横綱にくわえてただ一人の大関である三根山隆司も途中休場、栃錦は皆勤したものの千代の山とは同門のために本場所で対戦することが出来ず、優勝争いを面白くさせるためもあってこの割が組まれることになった。 鏡里喜代治: それでも千代の山・吉葉山・栃錦清隆・若乃花幹士といった上位陣との対戦はいずれも勝ち越しており、実力のあるところを証明している。 北の富士勝昭: 歴代横綱の親睦会である「横綱会」に玉の海と並んで初出席した際、新横綱のしきたりとして一芸を披露することになり、玉の海のギターに合わせて北の富士が歌を歌い、栃錦清隆に「びっくりした。 栃木山守也: 没後は政府より相撲界初となる勲四等瑞宝章を追贈されたほか、年寄・春日野と春日野部屋は栃錦清隆が二枚鑑札で継承した。 出羽錦忠雄: 下位時代は栃錦清隆と初っ切りのコンビを組んでおり、双葉山定次の引退相撲が旧・両国国技館で行われた時を最後に、栃錦との初っ切りを卒業した。 |
栃錦清隆の情報まとめ
栃錦 清隆(とちにしき きよたか)さんの誕生日は1925年2月20日です。東京出身の相撲のようです。
卒業、兄弟、引退、父親、事故、テレビ、現在、事件、映画、趣味、病気に関する情報もありますね。1990年に亡くなられているようです。
栃錦清隆のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)栃錦 清隆(とちにしき きよたか、1925年2月20日 - 1990年1月10日)は、東京府南葛飾郡小岩村下小岩(現・東京都江戸川区南小岩)出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。第44代横綱。本名は大塚 清(おおつか きよし)で、のちに栃木山守也の養子となって中田 清(なかた きよし)となる。 1925年に、小岩村(現・江戸川区南小岩)で蛇の目傘の製造を営む家の二男として生まれる。少年時代から運動神経は抜群で、並外れた体力と恵まれた体格を見た近所の八百屋の勧めもあって、下小岩尋常小学校(現・江戸川区立下小岩小学校)卒業後、13歳で春日野部屋の門を叩き、1939年1月場所で初土俵を踏む。十両昇進を機に名乗った四股名の「栃錦」は、春日野の現役名である栃木山守也と、その兄弟弟子だった大錦卯一郎から付けたものであり、当時の期待ぶりが窺える。 新弟子検査では直前に白飯と水を腹一杯に詰め込み、体重計の上に飛び乗って針を大きく揺らして通過したというほどの軽量で、周囲の期待はさほど高くはなかった。ただ、春日野だけは「軽量だから三段目でさすがに厳しいかと思っていると、ちゃんと相応の相撲を取る」と評価していた。これは、有望な弟子たちを次々に兵役へ取られていく中で、春日野としては栃錦に期待するしかなかった、とも言われている。春日野は死去直前、栃錦について「新十両の頃は『これが唯一の関取経験』と思ったら十両でも通用した。そう思った頃には幕内になって、それでも『上位には通用しない』と思ったら三役、『三役はつらいか』と思ったら大関になった。大関になって『流石に横綱は無理』と思ったら横綱になった。こんなことなら、栃錦に対して若い頃からもっと稽古をつけるべきだった」と後悔混じりに語っている。 栃錦は春日野から「寝る時はエビのように小さくなって寝ろ。飯を食うときは大きな体で食え」という指導を受けたことを自伝の中で明かしている。序二段で一度負け越しただけで順調な出世を遂げ、1944年5月場所で十両昇進を果たすが、第二次世界大戦の激化によって徴兵され、1945年8月15日の終戦まで軍隊生活を送る。 栃錦は、戦後最初の場所となった1945年11月場所において十両4枚目格で番付に復帰した。当時の復員力士については番付復帰後1場所は準備期間として休場しても地位が据え置かれる救済措置が取られていたが、栃錦はこれを受けずに出場し、6勝4敗と勝ち越した。1946年11月場所は東十両筆頭で迎えたが、相手力士の負傷による痛み分けとして6勝6敗1分と勝ち越せず、幕内昇進は厳しいと思われたが、安藝ノ海節男ら4力士が引退したことで、1947年6月場所で新入幕を果たす。入幕時の体重は僅か75kgしかなかった。この場所は4勝6敗と負け越したが、当時はまだ東西制が実施されていた時代で、翌場所の十両陥落を免れた。なお、東西制はこの場所限りで廃止され、翌場所から系統別総当り制が実施されたこともあり、十両陥落を免れた栃錦にとっては非常に強運だった。 入幕2場所目となる同年11月場所では西前頭16枚目で9勝2敗の好成績を挙げ、10勝1敗で幕内最高優勝の横綱・羽黒山政司に次ぐ星をあげる。この場所から三賞制度が始まり、栃錦も「何かもらえるかと思った」と話していたが、新入幕で同じ9勝の出羽錦忠雄に殊勲賞が贈られ、栃錦には何も無かった。後に彼が独占する技能賞を初めて受賞する1949年1月場所では、優勝候補の一人だった大関・佐賀ノ花勝巳に立ち合いで思い切り当たり、前褌を引いて右から強烈な出し投げを打って勝利したことが評価され、これが受賞理由となった。
1951年1月場所では前頭2枚目で初日から7連敗を喫したが、その後は8連勝して8勝7敗と勝ち越した。翌場所で小結に復帰以降は三役に定着し、大関・横綱へ駆け上がっていく。 1952年5月場所は10勝5敗で通算8回目の技能賞を獲得、協会から特別表彰を受けた。同年9月場所では場所中に高熱を発したが14勝1敗で初の幕内最高優勝を遂げ、感涙に暮れた。場所後に大関に昇進するが、この時の体重は98kgしかなかった。 新大関として迎えた1953年1月場所は、横綱・照國萬藏が3日目から休場し14日目に現役引退を表明、残る横綱・大関も6人中3人が途中休場という大荒れの場所だったが、12日目まで1敗で優勝を争い、終盤に3連敗したものの11勝4敗、優勝の大関・鏡里喜代治(14勝1敗)と共に上位陣の面目を保った。続く同年3月場所では14勝1敗で大関として初優勝を果たすと、同年5月場所でも13勝2敗で全勝の平幕・時津山仁一、14勝1敗で準優勝の大関・吉葉山潤之輔に次ぐ3位の星を挙げ、その軽量から短命大関で終わってしまうのではないかと不安視する声を一掃し、次の横綱候補と目されるようになる。しかしこの直後、巡業先で一晩ハメを外したために体調を崩し、その後の3場所を8勝、9勝、9勝と低迷、春日野からは「一晩の不摂生が半年祟る」と慢心を叱責された。 1954年5月場所において14勝1敗の好成績を挙げ、大関では2度目、通算3度目の幕内最高優勝を果たす。場所後に協会は横綱審議委員会に栃錦の横綱昇進を諮問したが、当時横審の連続優勝に関する内規が成立してなく、「強いて横綱を五人つくるほど圧倒的な成績ではない」との番付上の理由で横綱推薦は否決された。この場所は東富士欽壹・千代の山雅信・鏡里喜代治・吉葉山潤之輔の4横綱が存在していたため、栃錦が横綱昇進すると前例のない5横綱時代が実現するところであった。同年9月場所は初日黒星ながらその後は白星を順調に積み重ね、このまま連続優勝を果たすと思われたが、最悪の場合として今度も横綱昇進を見送られる可能性もあった。しかし、14日目になって東富士が突然の現役引退を申し出た。それを聞いた栃錦もすぐに付け人を使者に立てて引退しないように説得したが、東富士の意思は変わらなかった。そして、栃錦は吉葉山に勝利して14勝1敗で連続優勝を決め、場所後に第44代横綱へ昇進した。横綱昇進時の口上は「ありがたくお受けいたします」であった。また大正時代生まれ最後の横綱昇進者となった。 新横綱場所の1955年1月場所は初日にいきなり大昇充宏に小手投げで敗れ、金星を初供給してしまう。昭和以降の横綱で昇進場所初日が黒星だったのは栃錦が史上初の不名誉記録だった。その後も4日目に若瀬川泰二にうっちゃられるなど平幕戦だけで3敗を喫し、10勝5敗と不本意な成績に終わる。続く3月場所も初日に双ツ龍徳義に敗れたあと、5日目まで黒星と白星が交互するいわゆる「ヌケヌケ」の立ち上がりだったが、6日目から10連勝で盛り返し、終わってみれば12勝3敗、13勝2敗で優勝の千代の山雅信、優勝同点の大内山平吉に次ぐ3位の成績だった。横綱3場所目となる5月場所は初日から8連勝、9日目の時津山仁一に敗れたのみの14勝1敗で、横綱昇進後初となる5回目の優勝を果たす。5回の優勝はこの時点で千代の山と並び現役最多だったが、この直後の巡業中から体調を崩し、続く9月場所は7日目から初土俵以来初めての休場となる。このあとの1年弱は「土俵生活で一番辛かった時期」というほど衰弱が著しく、結局次の優勝(1957年9月)まで丸2年を要することになった。 1958年後半は不調で引退も囁かれたが、稽古不足で太った身体を逆に生かして正攻法の相撲に変え、1959年3月場所で「奇跡」と言われた復活優勝を果たし、その後は引退まで12勝を下回ることがない(昭和35年3月場所までの7場所間で95勝10敗、勝率.905)という驚異の成績を続ける。 1959年10月3日に春日野が亡くなると、前年に廃止されていた二枚鑑札が特例として認められ、年寄・春日野と春日野部屋を継承する。同年7月場所は優勝を逃したら引退と考えた上で挑み、場所前から床山に中剃を断っていた。この場所では14日目に優勝を決めたものの、その晩に祝宴に駆けつけようとした父親が交通事故死する悲運に見舞われた。この悲しみを乗り越え、翌日の千秋楽では若乃花幹士を破って全勝優勝を決め、亡父への手向けとした。千秋楽の取組では、左差し右おっつけの鋭い出足で若乃花を一気に寄り切った。この場所の優勝を決めた際、栃錦は「ワシが相撲取りじゃなかったら、親父もこんなことにはならなかった。やっぱりワシが死なせたようなもの」と喜びは無かった。最後の優勝となった1960年1月場所では、この年からエール・フランス航空が毎年、初場所の優勝力士をヨーロッパへ招待することになり、栃錦は武藏川とともに渡欧した。 1960年3月場所には若乃花と史上初となる「14戦全勝同士で千秋楽に対決」したが敗れた。若乃花との通算対戦成績は栃錦の19勝15敗。 若乃花幹士とは1951年5月場所の初顔合わせからいきなり激しい攻防の大熱戦を演じ(若乃花が勝利した)、これ以降常に熱戦・好勝負を演じ続けてきた。1953年3月場所にはあまりの大勝負に栃錦の水引が切れて髷がほどけ、しばらくそのまま取組を続けたが、動きが止まったところで行司が待ったをかけ、土俵下でとりあえずの髷を結って勝負再開、大熱戦の末に栃錦が外掛けで勝った。「栃若」の対戦となれば水入りは当たり前、激しい技の打ち合いとしのぎ合いの連続は観衆だけでなく、当時日本に登場したばかりのテレビを通して全国の相撲ファンを熱狂させた。小さい体で大兵肥満の力士を次々になぎ倒す二人の姿は、第二次世界大戦の敗戦から戦後の復興に向けて立ち上がる日本の姿を、そして自らを投影した人々はとても多かったとされる。土俵狭しと目まぐるしく動き回る二人の攻防が、テレビ時代の到来に相応しいものであったとも言える。この二人の対決と、それを取り巻く数多の個性的な力士の活躍により相撲人気は一気に高まり、今なお戦後最高と呼ばれる黄金時代となっていった。1950年代のこの黄金期を世に「栃若時代」という。 両者の対戦は、1951年5月場所から1960年3月場所の40場所間で34回実現(栃錦の1不戦勝を含む)し、千秋楽において両者優勝圏内の対戦が5回(相星決戦が2回)あった。また両者の相撲は水入りになることが多かった。千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。 若乃花横綱昇進前まで(1958年1月場所まで)の対戦成績は、栃錦の15勝9敗。 両者横綱同士の対戦成績(1958年3月場所以降)は、若乃花の6勝4敗。 1960年5月場所は初日から2連敗すると、「衰えてから辞めるのは本意ではない」という師匠の教えを忠実に守るかのように、潔く引退を表明した。こうして栃若時代が終焉した直後には柏鵬時代に移り変わっており、その様子は世相が安保闘争から高度経済成長へと移行したタイミングと一致している。後年、NHK解説委員会でもこの点について話題が挙がっている。幕内通算513勝は当時の最多勝記録だったが、1年2ヶ月後の1961年7月場所で若乃花幹士によって更新された。現在の記録は白鵬翔の1093勝。 引退後は二枚鑑札(1958年に廃止されていたが特例で認められていた)で襲名していた年寄・春日野として、先代から引き継いだ栃ノ海晃嘉を横綱へ、栃光正之を大関まで育て、それ以外にも直弟子最初の関取だった栃東知頼を栃ノ海に続く自身が師匠となってからの2人目の優勝力士に導き、他にも舛田山靖仁、栃赤城雅男、栃司哲史、現春日野である栃乃和歌清隆等数多くの関取を育てた。 さらに春日野は「力士とは『力の紳士』と書く。ただの相撲取りであってはいけない」との思想を基にした厳しい指導を行なった。他に審判部長・事業部長などを歴任し、審判部長としては1969年3月場所2日目、戸田智次郎 - 大鵬幸喜戦、1972年1月場所8日目の貴ノ花満 - 北の富士勝昭戦といった、判定を巡る歴史的な大事件に関わった。 1974年1月場所後の役員改選で武蔵川の後任として日本相撲協会理事長に就任した。名横綱かつ協会の要職を歴任したことで本命視されていたが、この改選では反出羽海一門が伊勢ヶ濱を理事長候補に擁立して結集し、一時は「三-七で(春日野が)不利」とまでされた。春日野は「激動の時代にこれまで協会の運営に直接あたった経験のない人には危なくて任せられない」と主張して運営審議会や後援会も巻き込んで徹底的な多数派工作を展開した結果、ついに伊勢ヶ濱を立候補辞退に追い込んだ。 理事長就任後は、 新しい両国国技館への移転 国技館を無借金で建設する(理事長就任時、武蔵川から「新(両国)国技館を建てるのは君しかいない」とメッセージを託されている) 椅子席観覧客の待遇を改善 相撲茶屋制度を改革 するなど、1990年代の若貴人気につながる相撲人気の復興のための数々の改革を、大鵬・鏡山・出羽海、時津風などの若手親方を協会の要職に起用しながら推進し、現役時代を髣髴とさせる多彩な技と、大きく素早い動きを見せて7期14年の長期安定政権を維持した。 派閥に関係なく能力次第で協会の要職に登用するなどして争いは沈静化し、「すぐに『理事長に一任します』と言われて拍子抜けするんだ」と本人が述べるほど、スムーズな協会運営が可能となった。就任当初はかつてのライバルの若乃花幹士 (初代)の師匠である花籠をナンバー2の事業部長に起用して、1980年に花籠が自身の定年の絡みで理事を退任すると、まだ理事就任3期目の二子山を後任の事業部長に起用して、以降栃若コンビによる協会運営となる。理事経験が浅く一門の底辺の部屋の師匠だった二子山の事業部長就任はそれまでの一門の力関係だけでの幹部の就任を打破する事になった。その後、糖尿病などの影響で一時は歩行困難になるなど体調が悪化するがこれを克服し、1985年5月7日には落成したばかりの両国国技館で「春日野親方の都民文化栄誉章受章・NHK放送文化賞受賞・還暦を祝う会」が開催され、露払いに出羽海・太刀持ちに二子山を従えて還暦土俵入りを披露した。また横綱・双羽黒光司に対してもかなり理解ある立場を取っていたことで知られ、双羽黒が横綱時代に発生させた付け人脱走事件や不祥事による廃業については、立浪の指導方針や部屋経営に問題があるという主張を展開していた。 1988年1月場所をもって理事長職を二子山に譲って勇退し、自らは相撲協会の相談役に就任した。1989年11月場所の初日直前に脳梗塞で倒れ、福岡市の病院へ緊急入院。絶対安静の状態だったが顔を洗いに起き上がり再び倒れた。その後予断を許さない状況が続く中、1990年1月場所4日目だった1月10日に脳梗塞による肺炎のため福岡大学病院で死去、64歳没。65歳の停年退職を迎える僅か約1ヶ月前だった。現役時代のライバルだった二子山理事長は、栃錦の訃報に関する記者会見に臨むも言葉に詰まり、「ちょっと席を外させてもらえるかな…」と数分間会見の席を立ち去った。その後会見場に戻ってからの二子山は動揺を抑えきれずに「昔の思い出がキューッと込み上げて、気持ちを落ち着かせたいんだけど…」と大粒の涙を拭いつつ、共に土俵を盛り上げた最大のライバルの死を悼んだ。その日、日本相撲協会は黙祷を行うことも検討したが、公私の区別に厳しかった故人の考えに基づき、葬儀を協会葬で行う以外の弔意を表す特別な行事は控えられた。墓所は江戸川区万福寺。 没後の1990年12月25日、相撲界における多大な功績を讃えられ、故郷・江戸川区南小岩にあるJR総武線・小岩駅の改札前に、横綱当時の土俵入りの姿をかたどった栃錦の銅像が建てられた。栃錦像は現在も小岩駅のシンボルとして、待ち合わせ場所の目印になっている。 また、相撲界としては初めて従四位・勲二等瑞宝章を追贈された。 入門直後は兄弟子の栃ノ峯などから押し相撲を教わったが、取的時代に春日野の付き人になってからは春日野の燗番をしている時に廻しの切り方や四十八手の難しそうな技を手取り足取り教わり、これが後の技巧につながった。中でも出し投げの技術は弟子たちにも伝えられた。平幕から三役にかけては、「相撲の技は全て使った」と言われる業師ぶりを発揮した(その相撲ぶりを技の展覧会と評されたりもした)。現在でも反り技など滅多に出ないものが決まり手の中に残されているのは、最初に協会発表の公式の決まり手が制定された当時、栃錦が現役でいたからだといわれている。5場所連続で技能賞を受賞するなど、「技能賞は栃錦のためにある」とまで言われた。その一方で「無駄な動きが多すぎる」といった批判もあったが、横綱昇進のころ(106kg)から見違えるように体重も増え140キロにもなるほどになり、無駄を排した寄り押し相撲中心の取り口に変わった。この頃のような相撲を取れた背景には新弟子時代に押し相撲を仕込まれたことがある。一人の力士がその土俵人生でこれほど明らかに取り口が変化し、そして大成した例は少ない。 大関から横綱にかけての相撲についての評価が高いが、当人は終生、「身体の小さいものでも努力次第であれだけ取れた」と平幕時分の相撲の方を重視していた。後に理事長となってから、新弟子検査の審査基準の撤廃に最後まで反対したが、「小さいものが生き残るのは大変な世界だから」という言葉は実感であっただろう。 相撲っぷりだけでなく、土俵上の立ち居振る舞いも栃錦の人気の源であった。両の歯を食いしばり気迫に満ちた仕切りを重ねる毎に肌が朱に染まっていき、立合いの時には足の親指が土俵にめり込むかのようにじりじりと腰を割り、一気に立ち上がるという栃錦の姿はファンを虜にした。その一方で小兵のハンディをカバーするため早く立ち合おうとする余り両手をつかずに立ち上がるようになり、それが後年の力士の立合いの乱れにつながったと指摘する人は多い。彼が戦後の時代における相撲界の大功労者であることは間違いのない事実だが、立合いだけは唯一の汚点であるとされ、栃木山は滅多に栃錦の相撲を批判することはなかったが、立合いについては「下ろさないと損だ」と注意していたという。しかし師匠に敬服していた栃錦もそれだけは譲らず、どんな先輩や識者の言う事も聞かなかったという。これについては自著『栃錦一代』の中で、関脇までは自分の呼吸で立てば良かったものが大関横綱となると相手の呼吸にあわせて立つことが求められるようになり、軽量ゆえに一瞬の立ち遅れが致命的になるのでどうしても性急な立合いになってしまったという趣旨の弁明をしている。現役時は注意されてばかりだったが、理事長時代は逆に手を下ろす事を皆に勧め、現在のように一般化させた。 初土俵を踏んだ1939年1月場所4日目、双葉山定次が安藝ノ海節男に敗れて連勝が69で止まった「世紀の一番」を、結びの一番を取る兄弟子の鹿嶌洋起市の世話のために花道の奥で目撃した。「あの相撲をこの目で見られたことは、土俵人生を通じての財産だった」と後年まで語った。 新弟子時代、相模川佶延を贔屓にしていた尾上菊五郎に気に入られていた。後に菊五郎は「春日野部屋にいた『マムシ』はどうしてる?」と聞き、幕内にいる栃錦がそうだと教えられて驚いたという。 兄弟子の付き人に付いていた時、年端もいかないうちからこき使われるのを見かねた春日野が、栃錦を自分付きにした。その食事の世話をしながら様々な訓話を聞かされた。栃錦の十両昇進が決まった時に春日野の指示で靴磨きをしていたが、関取にしか着用を許されないドテラを着ていることに気がついた春日野から一度は叱責されたものの、直後に「おお、すまん。お前(栃錦)はもう関取だったな」と言われたことがあった。 同門で自分より若い千代の山雅信に出世で追い越され、一時期は千代の山との稽古を嫌っていた。しかし春日野から「そういう力士と稽古しないでどうやって追い越すんだ?」と言われてからは、千代の山との猛稽古を展開した。後に千代の山の息子が歯科医になった時には、千代の山自慢の突っ張りを何発も顔に当てた影響で早く歯を失ったため、「ワシは昔、千代の山との稽古で歯をやられたから、ワシだけは安く診てもらわないとな」と笑っていた。千代の山が引退して九重を襲名後、一門から九重が破門されても決して険悪にならず、栃錦が理事長として役員待遇を新設した際には九重を指名した。 同郷で仲が良かった大江戸勇二と江戸時代の大関・両國梶之助を描いた映画を見に行ったとき、映画の中のセリフを真似て「俺は天下第一の力士になる」と言うと、「大塚さん(栃錦)が天下第一の力士になったら東京中を逆立ちして歩いてやる」と笑われた。栃錦が大関に昇進した時、大江戸に「おい、何か忘れてないか?」と聞くと、大江戸は頭を抱えて「降参、降参!勘弁して下さい」と苦笑したという。 「自分にとって栃木山と双葉山は神様です」と語っていた。幕下時代、双葉山が春日野部屋の幕下力士全員を呼んで稽古をつけた時、栃錦はちゃんこ番だったにもかかわらず志願して参加した。しかし、直前までちゃんこに入れる魚を調理してから手も洗わずに参加したため、双葉山と組んだ瞬間に「お前、魚臭いな」と冗談交じりに言われて放り投げられた。また、春日野の用事で料亭にいる双葉山を訪ねた時、その場にいた芸妓の美しさと、美女をはべらせて悠然としている双葉山の姿に胸を打たれ、強くならなくてはと誓った逸話を、後に明かしている。 兵役にとられた時すでに十両だったが、最初は力士とは思ってもらえなかった。上官との草相撲で手心を加えることなく連戦連勝し、それでようやく本職だと知ってもらえたが、やはり軽量のため「三段目くらいか?」「幕下か?」と言われ、なかなか関取だとは思ってもらえなかった。 蔵前仮設国技館での最初の場所となった1950年1月場所で新小結、土俵から四本柱の取り除かれた1952年9月場所で初優勝して大関昇進、国技館が正式に落成した1954年9月場所で横綱昇進と、当人も「相撲場で何か変化のあった場所はゲンが良い」と言っていた。 横綱昇進が決定した日の夜、喜び勇んでいた栃錦は、春日野から「今日からは毎日、辞める時のことを考えて過ごせ」と言い渡された。横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、体力が衰えて横綱の地位に見合った好成績を出せなくなれば引退するほか道が無いため、昇進が決定した日から常に「引退」の覚悟を持ち続けなければならないという意味の説教だった。横綱に昇進したその日に早くも引退の話を切り出されて驚いたが、春日野自身も3場所連続優勝という絶頂期に「力が衰えてから辞めるのは本意ではない」と言いつつ周囲の反対を押し切って現役を退いた過去を持つ人物だったため、この説教を言い渡された栃錦はそれまで浮ついていた気持ちが一気に引き締まったと後年語っていた。また、この春日野の教えは、栃錦の談話を通して同門の千代の山雅信・北の富士勝昭・千代の富士貢へと代々受け継がれ、さらに別門の大鵬幸喜にも真摯に受け継がれた。弟子の栃ノ海晃嘉が横綱に昇進した時にも「もう、後は引退だけだよ。ダメなら、すぐ辞めなきゃいけないんだよ」と言い渡していて、栃ノ海は引導を渡されたように感じたと後年話している。 土俵入りは春日野直伝の「雲龍型」だったが、当人によれば出羽一門伝統の「常陸山型」と呼ぶべきものだったという。テンポの速い土俵入りで、「要所要所でのタメがなく忙しない」などの批判もあったが、現役時代から取口も土俵入りも早いことで有名だった春日野から「体の小さい者が大型力士のようにゆったり演じても格好がつかない」と指導されたのと、新横綱の場所に初日から黒星を喫してから序盤で黒星が付く負け癖が付き、観客の野次が気になって土俵入りを早く終わらせたいと思っているうち、それが癖になってしまったという。 1959年7月18日の名古屋場所14日目で、栃錦は9度目の幕内最高優勝を決定させた。この日の祝賀会に向かっていた父の大塚夏五郎が、東京都江戸川区小岩の千葉街道でオート3輪に轢かれる交通事故に遭い、脳底骨折で翌日に73歳で死亡した。自分の優勝が結果として父親の死亡に結びついたことに栃錦は沈痛な気持ちとなり、弔い合戦となった千秋楽は見事勝利して全勝優勝を決めた。 1959年5月場所と1960年3月場所の二度、初日から14連勝しながら優勝を逃している。同様のケースは2021年7月場所の照ノ富士春雄まで9例あるが、一人で二度記録したのは栃錦だけで、しかも「千秋楽に本割・決定戦と連敗して逆転を許す」と「全勝対決に敗れて優勝次点」という二つのパターン両方を経験している。どちらも優勝したのは若乃花幹士だった。 1959年7月場所初日から翌9月場所9日目までの24連勝は、この時点で双葉山、羽黒山らの記録についで昭和以降6位、年6場所制での記録としては、3年後に大鵬に抜かれるまで最多だった。 春日野から相撲を誉められたのはただ一番、1955年5月場所千秋楽の大内山平吉戦だけだったという。大内山の猛突っ張りを受けながら乾坤一擲の首投げで破った死闘だったが、春日野からは「優勝が決まったあとの千秋楽(前日14日目に栃錦の優勝が決まっていた)によくあれだけの相撲を取った」と誉められたという。 栃錦自身は徴兵経験があるが、栃錦曰く「相撲部屋は軍隊の訓練より厳しい」というのが持論だった。 最後の優勝となった1960年1月場所は初土俵から21年目で、これは昭和以降最長記録。のちに千代の富士と旭天鵬がともに初土俵から122場所目での優勝を達成しているが、年数で見ると20年2ヶ月目となる。また、これは大正生まれの力士の最後の幕内優勝にもなった。 1978年頃のある日、天覧相撲の席で昭和天皇に取組を解説していた時、前頭上位で成長著しい蔵間龍也を取り上げて「蔵間は大関になります」と胸を張った。しかし当の蔵間は大関どころか三役に定着することすら出来ず、天皇は「蔵間、大関にならないね」と漏らした。春日野は「私は陛下に嘘を申し上げてしまいました」と謝罪し、その直後に蔵間を理事長室へ呼んで叱責したという。 両国国技館建設の折り、鹿島建設が当初出した工事の見積もりは161億5千万円だったが、二子山と二人で鹿島建設の石川六郎社長に会い、端数の11億5千万円を値引きさせて150億円に負けてもらった。社長には「相撲取りは相手を負かすのが仕事です。今日は負かしに来ました。相撲には横綱五人掛かりがあるが、社長には栃若二人掛かりです」と言ったという。それでも150億円もの建設費は武蔵川理事長の時代から続く徹底した経費節約があって初めて完全に用意できるものであった。さらに両国の土地所有者である日本国有鉄道が大赤字であり蔵前が両国より土地の値段の高い時期を狙ったことで、蔵前の土地を売って両国の土地に買い替えつつ差額で建設費の一部を手に入れることもできた。なお石川はこの縁により1987年5月より運営審議委員会委員を務めている。 趣味はゴルフで、自慢は「角界第一号のホールインワン」。ある時のラウンドで大叩きするが、バンカーショットは上手いので一緒に回っていたプロに皮肉られると「こちとらは土俵の砂の上で散々苦労してきましたからね…」とやり返した。 別格の話好きで、取材に来た報道陣を捕まえては面白おかしく聞かせる話上手だった。晩年の代表作は幕内最高優勝者に送られる「全農賞」の副賞である米30俵についてで、「オレが頭を下げてもらってきたのに、ウチの部屋には一度も来ない。いつも九重部屋に持っていかれるんだから情けない。九重部屋では米を買ったことがないっていうじゃないか」と発言したこともある。 親方としては珍しく実子がおらず、ある時は「部屋の若衆が子供のようなものだ」と述べたことがある。北の湖敏満を養子に迎える意向を持っていたともいわれ、北の湖夫妻の仲人を務めている。北の湖の横綱昇進時には多忙な理事長職の合間を縫って、自ら土俵入りの指導も行った。 また、師匠栃木山の死後、未亡人の夫婦養子となり、「中田」姓となったが、養家の中田家も栃錦夫妻まで四代続いて、実子がなく夫婦養子で相撲茶屋「大和屋」を経営していたが、現在の経営者は栃木山の親族で、栃錦共々養子となっている。また、現在、春日野部屋所属の三役格行司・15代木村庄太郎は夫人が栃錦の養女(夫人の姪)に当たる。 栃錦が死去した時の喪主は夫人に先立たれており、また実子もいなかった為、春日野部屋を継承した栃ノ海晃嘉が喪主を務めた。 弟子である舛田山靖仁は栃錦が死去してから、千賀ノ浦部屋(現・常盤山部屋)を創設しているが、舛田山が停年を迎えてから部屋を継承したのは栃錦のライバル若乃花の弟子である隆三杉太一であり、舛田山の師匠時代から在籍している弟子は栃若両方の孫弟子という珍しい師弟関係となった。 ジョン・フォードの大ファンでもあって、1954年に淀川長治が編集長の雑誌「映画の友」のインタビューを受けて、「西部劇の魅力」について存分に語ったことがある。 にわのまことの漫画「THE MOMOTAROH」に“カス日野理事長”という名のパロディで登場している。役職は河童族の伝統的な神事である「河童相撲」の理事長。 尻がおできやその痕で汚いと言われており、「尻が汚いときの栃錦は好調だ」というあまりありがたくない言われ方もされていた。 栃ノ海や部屋の床山床松によると大の砂糖好きであったという。味噌炊きやソップ炊きの鍋でもとにかく砂糖を大量に入れて食べ、部屋の他の衆は食べられたものではなかったという。 逆鉾や2代目増位山は「ここがダメなら春日野部屋に行く!」と部屋持ちである実父に直訴し、実父の部屋に入門した。このことから、彼が部屋持ちを務めていた頃は当時角界が身近である層にとっても如何に相撲部屋としてメジャーであったかが窺える。 通算成績:578勝245敗1分1預44休 勝率.702 幕内成績:513勝203敗1分32休 勝率.716 大関成績:92勝28敗 勝率.767 横綱成績:292勝84敗32休 勝率.777 現役在位:66場所 幕内在位:52場所 横綱在位:28場所 大関在位:8場所 三役在位:7場所(関脇4場所、小結3場所) 連勝記録:24(1959年7月場所初日 - 1959年9月場所9日目) ※初代若乃花と同様 年間最多勝(1957年設立):1957年(59勝16敗・当時年5場所制)、1959年(77勝13敗) 連続6場所勝利:81勝(1959年3月場所 - 1960年1月場所、1959年5月場所 - 1960年3月場所) 通算幕内連続勝ち越し記録:18場所(1950年9月場所 - 1955年5月場所) 幕内連続2桁勝利記録:10場所(1956年9月場所 - 1958年7月場所) 幕内12勝以上連続勝利記録:7場所(当時1位・現在歴代7位タイ、1959年3月場所 - 1960年3月場所) 幕内最高優勝:10回(全勝1回)(1952年9月場所、1953年3月場所、1954年5月場所・9月場所、1955年5月場所、1957年9月場所、1958年5月場所、1959年3月場所・7月場所、1960年1月場所) ※初代若乃花と同じ優勝回数、全勝回数 三賞:10回
技能賞:9回(1949年1月場所・9月場所、1950年1月場所・9月場所、1951年5月場所・9月場所、1952年1月場所・5月場所・9月場所) 金星:1個(東富士1個) 他に優勝決定戦で若乃花に1敗がある。 ※他に大ノ海に引分が1つある。 大塚 清(おおつか きよたか):1939年1月場所-1944年1月場所 栃錦 清隆(とちにしき きよたか):1944年5月場所-1960年5月場所 秀ノ山勝一『名人横綱栃錦物語』ベースボールマガジン社、1955 小島貞二『栃錦清隆 : 近代土俵の華』ベースボールマガジン社、1959 石井代蔵『土俵の修羅』新潮文庫、1985 小坂秀二『栃若時代 : 二人の名力士に見る大相撲戦後昭和史 』光人社、1988 川端要寿『春日野清隆と昭和大相撲』河出書房新社、1990 石井代蔵『大相撲親方列伝』文春文庫、1993 小坂秀二『大相撲ちょっといい話』、文春文庫、1995 『相撲 : 栃若時代名人・栃錦異能・若乃花-近代相撲の先駆者たち』 ベースボールマガジン社、2016 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋』 ベースボールマガジン社、2017 『栃錦一代』中央公論社 1961 『栃錦・春日野自伝 』ベースボール・マガジン社 1990 『名人栃錦絶妙の技 : 相撲技七十手 』ベースボール・マガジン社 1991 ^ 太平洋戦争以前は「力士の体格に合う既成の軍服がない」などの理由から徴兵される力士は稀で、たとえ徴兵されても力士と知られれば即日帰郷を許されることが常であった。実際、2021年12月にサンケイスポーツWeb版は「力自慢の大相撲の力士は、軍隊で貴重な戦力となりそうだが、大きすぎて体に合う軍服や軍靴がなく、徴兵検査では丙種合格(最低基準)も多かったという」と報じていた【ベテラン記者コラム(233)】真珠湾攻撃から80年 元横綱から聞いた硫黄島に伝わる〝忠告〟 サンスポ 2021/12/23 17:00 (2021年12月24日閲覧) 。それが太平洋戦争末期になると十両以下は漏れなく徴兵され、細身の力士は太平洋戦争でキャリアを潰されることがままあった。 ^ 現在の選考基準に照らすと敢闘賞が相応しいが、同場所が新小結で1横綱3大関を倒し、7勝4敗の輝昇勝彦に敢闘賞が贈られるなど、当時はまだ各賞の選考基準が明確に定まっていなかった。 ^ 当人によれば、「上(位力士)に負けて下(位力士)に勝っただけ」だが、もう後が無い状態からの復活は恐るべき集中力と言えるだろう。 ^ 千秋楽は吉葉山と1敗同士で対戦し、時津山の結果次第で勝った方が優勝決定戦出場を争う一番になるところだったが、結局時津山が全勝のまま優勝を決めた。 ^ 結果的に東富士の引退と栃錦の横綱昇進は重なることになり、「一瞬の5横綱時代」とされている。番付面で5横綱が並ぶことは現在まで無いが、断髪式を迎える前の東富士を交えて、5人の横綱が勢揃いした写真が数枚残されている。 ^ 戦時中の徴兵によるものを除く。 ^ 優勝決定戦を含むなら19勝16敗で、うち一回は1956年9月場所における栃錦の不戦勝。この場所は、直前に長男を事故で亡くした若乃花が初日から12連勝したが、病気で無念の休場となった。 ^ 式守伊之助と共に大鵬の勝ちと主張したが、春日野以外の審判は戸田の勝ちを支持し、行司差し違えで「戸田の勝利、大鵬46連勝ならず」となるが、これは誤審であることが判明した。当時は相撲の勝敗判定にビデオ判定を導入する用意は行なわれていたが、この相撲が前倒し導入のきっかけとなった。 ^ 北の富士のつき手かかばい手かを巡って大物言いとなる。木村庄之助は「付き手」として貴ノ花に軍配を上げたが、春日野は「『かばい手』=貴ノ花は死に体」と主張し、行司差し違えで北の富士の勝ちとなり、木村庄之助引退の原因となった。 ^ 「反出羽海一門」の中心は立浪一門及び最古参理事の二所ノ関。これらが時津風一門や高砂一門にも働きかけていた。 ^ 理事長選で花籠は二所ノ関一門でありながら、二所ノ関の意向に反して春日野支持を早くから示していた。 ^ エラの張った顔で眼光鋭く、一度食いついたら離さない相撲ぶりからそう渾名された。 ^ 千代の山は栃錦より1歳年下で、(学年は栃錦が早生まれなので2学年下)初土俵は栃錦より3年後輩だった。 ^ 自著『栃錦一代』の中で「(昭和では)双葉関六十九連勝、羽黒関の三十二連勝につぐもの」(p.198)と書いているが、双葉山には他に36連勝と29連勝が、玉錦三右エ門にも27連勝があって、これは誤り。 ^ 資金調達のために力士や親方の給与を抑えており、後年、八角理事長(元横綱・北勝海信芳)は自身が1983年に新十両に昇進した際の給料について「月給28万円だった。ずいぶん抑えられていたよね」と笑ってコメントしたことがある。:国技館、無借金で再建の訳 2人の名横綱が「寄り切り」 朝日新聞DIGITAL 2017年1月26日10時59分 ^ 場所後兵役 ^ 亜急性中心性肺臓炎により7日目から途中休場 ^ 内痔核により10日目から途中休場 ^ 慢性腎臓炎・右アキレス腱炎・腓腹筋リューマチにより11日目から途中休場 ^ 慢性腎臓炎・右アキレス腱炎・腓腹筋リューマチにより全休 ^ 若乃花と優勝決定戦 ^ “横綱栃錦”. 江戸川区郷土資料室. 2019年12月閲覧。 ^ ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』20ページ ^ 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)51ページから56ページ ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p39 ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p28 ^ 朝日新聞1953年1月23日付社会面 ^ 朝日新聞1954年5月25日付朝刊 ^ Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p62 ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p46 ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p51 ^ 『大相撲ジャーナル』2018年3月号 p.58-59 ^ 視点・論点「大鵬の時代」NHK解説委員会 2013年02月06日(水)東京工業大学名誉教授・芳賀綏の記述 ^ 朝日新聞1974年1月17日付朝刊スポーツ面 ^ 朝日新聞1974年1月19日付朝刊スポーツ面 ^ 『人間の記録39 栃錦清隆 栃錦一代』内容構成日本図書センター ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p17 ^ “大相撲コラム集(キモはここなのだ!)出し投げはアゴを使え!(第44代横綱・栃錦)”. 2004年9月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月10日閲覧。 ^ 高永武敏・原田宏共著「激動の相撲昭和史」ベースボール・マガジン社、1990年2月25日発行、p.332 ^ 1995年7月24日付日刊スポーツ ^ 佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』(清流出版) ^ 佐藤祥子『相撲部屋ちゃんこ百景 とっておきの話15』pp.34 河出文庫 2016年 ISBN 978-4309414515 ^ 「相撲豪傑伝」p.252~253 ^ 『相撲』2013年11月号78頁 横綱一覧 栃錦清隆 - NHK人物録 第44代横綱 栃錦 清隆 (とちにしき きよたか) - 相撲レファレンス 表 話 編 歴 高見山酉之助 常陸山谷右エ門 太刀山峯右エ門 鳳谷五郎 両國勇治郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦卯一郎 栃木山守也 常ノ花寛市 鶴ヶ濱増太郎 西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代) 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝 一覧 年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。 表 話 編 歴 1958 若乃花幹士 1959 栃錦清隆 1960 若乃花幹士(※) 1961 大鵬幸喜 1962 大鵬幸喜 1963 大鵬幸喜 1964 大鵬幸喜 1965 佐田の山晋松 1966 大鵬幸喜(※) 1967 大鵬幸喜 1968 玉乃島正夫 1969 大鵬幸喜(※) 1970 北の富士勝昭 1971 玉の海正洋(※) 1972 貴ノ花満(※) 1973 輪島大士 1974 北の湖敏満 1975 三重ノ海五郎(※) 1976 輪島大士 1977 輪島大士(※) 1978 北の湖敏満 1979 北の湖敏満 1980 北の湖敏満 1981 千代の富士貢(※) 1982 千代の富士貢 1983 隆の里俊英 1984 若嶋津六夫 1985 千代の富士貢 1986 千代の富士貢 1987 千代の富士貢(※) 1988 千代の富士貢(※) 1989 千代の富士貢(※) 1990 旭富士正也 1991 小錦八十吉(※) 1992 貴花田光司 1993 曙太郎 1994 貴乃花光司 1995 貴乃花光司 1996 貴乃花光司 1997 貴乃花光司 1998 若乃花勝 1999 武蔵丸光洋 2000 曙太郎 2001 武蔵丸光洋 2002 朝青龍明徳 2003 朝青龍明徳 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 朝青龍明徳 2007 白鵬翔 2008 白鵬翔 2009 白鵬翔 2010 白鵬翔 2011 白鵬翔 2012 白鵬翔 2013 白鵬翔 2014 白鵬翔 2015 白鵬翔 2016 日馬富士公平(※) 2017 受賞者なし 2018 栃ノ心剛史 2019 白鵬翔(※) 2020 貴景勝光信 2021 照ノ富士春雄 2022 若隆景渥 2023 霧島鉄力 表 話 編 歴 1957 栃錦清隆 1958 若乃花幹士 1959 栃錦清隆 1960 大鵬幸喜 1961 大鵬幸喜 1962 大鵬幸喜 1963 大鵬幸喜 1964 大鵬幸喜 1965 佐田の山晋松 1966 柏戸剛 1967 大鵬幸喜 / 柏戸剛 1968 玉乃島正夫 1969 北の富士勝昭 1970 北の富士勝昭 / 玉の海正洋 1971 北の富士勝昭 1972 輪島大士 1973 輪島大士 1974 北の湖敏満 1975 北の湖敏満 1976 輪島大士 1977 北の湖敏満 1978 北の湖敏満 1979 北の湖敏満 1980 北の湖敏満 1981 北の湖敏満 1982 千代の富士貢 1983 隆の里俊英 1984 若嶋津六夫 1985 千代の富士貢 1986 千代の富士貢 1987 北勝海信芳 1988 旭富士正也 1989 北勝海信芳 1990 旭富士正也 1991 霧島一博 1992 貴花田光司 1993 曙太郎 1994 貴乃花光司 1995 貴乃花光司 1996 貴乃花光司 1997 貴乃花光司 1998 若乃花勝 1999 武蔵丸光洋 2000 曙太郎 2001 武蔵丸光洋 2002 朝青龍明徳 2003 朝青龍明徳 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 朝青龍明徳 2007 白鵬翔 2008 白鵬翔 2009 白鵬翔 2010 白鵬翔 2011 白鵬翔 2012 白鵬翔 2013 白鵬翔 2014 白鵬翔 2015 白鵬翔 2016 稀勢の里寛 2017 白鵬翔 2018 栃ノ心剛史 2019 朝乃山英樹 2020 貴景勝光信 2021 照ノ富士春雄 2022 若隆景渥 2023 霧島鐵力 表 話 編 歴 廣瀬正徳 1928 - 1938 出羽海秀光 1944 - 1957 時津風定次 1957 - 1968 武蔵川喜偉 1968 - 1974 春日野清隆 1974 - 1988 二子山勝治 1988 - 1992 境川尚 1992 - 1998 時津風勝男 1998 - 2002 北の湖敏満 2002 - 2008 武蔵川晃偉 2008 - 2010 村山弘義(代行) 2010 放駒輝門 2010 - 2012 北の湖敏満 2012 - 2015 八角信芳 2015 - 現在 表 話 編 歴 初代明石志賀之助 2代綾川五郎次 3代丸山権太左衛門 4代谷風梶之助 5代小野川喜三郎 6代阿武松緑之助 7代稲妻雷五郎 8代不知火諾右衛門 9代秀ノ山雷五郎 10代雲龍久吉 11代不知火光右衛門 12代陣幕久五郎 13代鬼面山谷五郎 14代境川浪右衛門 15代梅ヶ谷藤太郎(初代) 16代西ノ海嘉治郎(初代) 17代小錦八十吉 18代大砲万右エ門 19代常陸山谷右エ門 20代梅ヶ谷藤太郎(2代) 21代若嶌權四郎 22代太刀山峯右エ門 23代大木戸森右エ門 24代鳳谷五郎 25代西ノ海嘉治郎(2代) 26代大錦卯一郎 27代栃木山守也 28代大錦大五郎 29代宮城山福松 30代西ノ海嘉治郎(3代) 31代常ノ花寛市 32代玉錦三右エ門 33代武藏山武 34代男女ノ川登三 35代双葉山定次 36代羽黒山政司 37代安藝ノ海節男 38代照國萬藏 39代前田山英五郎 40代東富士欽壹 41代千代の山雅信 42代鏡里喜代治 43代吉葉山潤之輔 44代栃錦清隆 45代若乃花幹士(初代) 46代朝潮太郎 47代柏戸剛 48代大鵬幸喜 49代栃ノ海晃嘉 50代佐田の山晋松 51代玉の海正洋 52代北の富士勝昭 53代琴櫻傑將 54代輪島大士 55代北の湖敏満 56代若乃花幹士(2代) 57代三重ノ海剛司 58代千代の富士貢 59代隆の里俊英 60代双羽黒光司 61代北勝海信芳 62代大乃国康 63代旭富士正也 64代曙太郎 65代貴乃花光司 66代若乃花勝 67代武蔵丸光洋 68代朝青龍明徳 69代白鵬翔 70代日馬富士公平 71代鶴竜力三郎 72代稀勢の里寛 73代照ノ富士春雄 雷電爲右エ門 表 話 編 歴 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川竜男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田知子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田川由紀子 佐藤太圭子 山田三智穂 大谷豊二 高橋優子 貴ノ花利彰 赤塚洋文 平内義幸 富岡雅寛 平賀輝子 中川時子 加藤稔 池内淳子 中原誠 森英恵 小林桂樹 中村汀女 井上ひさし 中野貴代 神田好武 真木洋子 輪島大士 高橋洋子 生沼スミエ 棟方志功 村上元三 京マチ子 サトウサンペイ 高田ユリ 尾上菊五郎 寺島純子 北の湖敏満 根本良夫 橋本明治 杉村春子 尾上松緑 栗原小巻 堀江謙一 檀ふみ 魁傑將晃 新垣留美子 根本良夫 尾上梅幸 高橋展子 吉永小百合 加藤剛 三林京子 大竹しのぶ 古葉竹識 三重ノ海五郎 池田彌三郎 浅丘ルリ子 中村梅之助 小野清子 村上隆 堤加蓉子 カロリーナ・ピレス・ド・リオ 若三杉壽人 川上哲治 川口幹夫 市川染五郎 上田利治 旭國斗雄 水島新司 川橋幸子 橋田壽賀子 新井春美 竹下景子 川口幹夫 北の湖敏満 岩下志麻 植村直己 八千草薫 安奈淳 森和人 森下洋子 山本浩二 加藤好雄 若山富三郎 ミヤコ蝶々 菅原文太 大原麗子 松本零士 重兼芳子 古葉竹識 多岐川裕美 加藤好雄 松本幸四郎 陳舜臣 佐久間良子 木田勇 向田邦子 島田陽子 鈴木喜久子 角田好雄 渡辺一雄 石毛宏典 古手川祐子 緒形拳 花井幸子 倉本昌弘 森光子 坂田栄男 高橋洋子 秋竜山 澤地久枝 香川宏 生沼スミエ 玉の海梅吉 森英恵 山藤章二 池上季実子 広岡達朗 村松友視 真野響子 滝田栄 橋田壽賀子 前橋汀子 市川猿之助 香川宏 三船敏郎 松本幸四郎 大原麗子 田淵幸一 樋口久子 松坂慶子 田中裕子 隆の里俊英 谷川浩司 林真理子 胡桃沢耕史 宮尾登美子 山口小夜子 役所広司 菊池綜一 江上由美 釜本邦茂 名取裕子 風間杜夫 石井幹子 連城三紀彦 里中満智子 衣笠祥雄 松坂慶子 市川海老蔵 遠藤利男 三田佳子 中村吉右衛門 高野悦子 小池一夫 武原はん ジェームス三木 山口洋子 吉田義男 大地真央 北尾光司 中野正之 森光子 清原和博 森下洋子 雁屋哲 黒柳朝 加藤芳郎 山崎洋子 渡辺謙 加納みゆき 千代の富士貢 吉岡利夫 若尾文子 中井貴一 森瑤子 江藤俊哉 俵万智 逢坂剛 森口祐子 近藤真一 若村麻由美 北勝海信芳 今西陽一郎 三田佳子 片岡孝夫 伊藤京子 森祇晶 浅野温子 安野光雅 伊勢桃代 新井満 山口智子 千代の富士貢 沖清司 千代の富士貢 いしだあゆみ ねじめ正一 小林浩美 中村勘九郎 村崎芙蓉子 西田敏行 石岡瑛子 斎藤雅樹 渡辺梓 沖清司 山本陽子 中村鴈治郎 諏訪内晶子 野田秀樹 コシノジュンコ 渡辺久信 森口祐子 松岡修造 沢口靖子 真田広之 小林由紀子 増井光子 山崎豊子 秋山幸二 芦原すなお 荻野アンナ 若花田勝 貴花田光司 緒形直人 鷲尾いさ子 田中好子 内林達夫 有森裕子 曙太郎 古賀稔彦 富司純子 中田久美 野茂英雄 村上弘明 伊藤みどり 森光子 高橋克彦 松尾武 三田佳子 米長邦雄 市川團十郎 細川直美 筒井道隆 つみきみほ 松原敏春 平瀬真由美 宮尾登美子 川淵三郎 内館牧子 田村亮子 植木等 野村克也 中丸三千繪 古田敦也 ミヤコ蝶々 曙太郎 古橋廣之進 大林素子 松尾武 イチロー 赤井英和 奥野史子 岩下志麻 羽生善治 南井克巳 賀来千香子 川本ゆかり 市川崑 森光子 上田洋一 古田敦也 田村亮子 天海祐希 竹中直人 原辰徳 水谷八重子 中村紘子 ジョージ川口 柳家小さん 大石芳野 上田洋一 有森裕子 川口能活 江角マキコ 仰木彬 清水市代 中村橋之助 森英恵 桂米朝 大石静 周防正行 大橋晴夫 井原正巳 吉永小百合 片岡仁左衛門 伊藤みどり 佐々木主浩 佐藤夕美子 本木雅弘 篠田節子 谷川浩司 吉行あぐり 大橋晴夫 清水宏保 藤原紀香 琴錦功宗 中村玉緒 松平健 俵万智 ジェームス三木 服部道子 熊川哲也 浅利純子 伊東律子 出島武春 松嶋菜々子 内館牧子 野村萬斎 田村亮子 津川雅彦 草笛光子 阿久悠 福嶋晃子 乙武洋匡 伊東律子 田村亮子 長嶋茂雄 高橋尚子 渡辺謙 池内淳子 佐々木主浩 岡本綾 井上康生 木村佳乃 内藤國雄 出田幸彦 栃東大裕 川原亜矢子 室伏広治 竹田恆和 松岡佑子 唐沢寿明 平良とみ 天海祐希 藤田宜永 森下洋子 出田幸彦 朝青龍明徳 米倉涼子 市川新之助 阿川佐和子 宮本恒靖 仲間由紀恵 高橋由伸 恩田美栄 岩合光昭 岸惠子 中村季恵 浅野ゆう子 五木寛之 優香 三谷幸喜 村山由佳 末續慎吾 村主章枝 武田真治 有馬稲子 星野仙一 中村季恵 野口みずき 野村忠宏 橋田壽賀子 中村勘九郎 荒川静香 滝沢秀明 高島礼子 和田一浩 森光子 日野原重明 琴欧州勝紀 薬師丸ひろ子 野口聡一 長澤まさみ 山田洋次 森光子 上川隆也 眞鍋かをり 林家正蔵 栗原はるみ 渡辺謙 阿木燿子 リリー・フランキー 藤山直美 内野聖陽 横峯さくら 田口壮 吉田都 鎌田實 瀬戸内寂聴 宮﨑あおい 上田桃子 岡島秀樹 青木功 中村勘三郎 新垣結衣 茂木健一郎 坂東眞理子 陣内智則 藤原紀香 本木雅弘 吉田沙保里 太田雄貴 高橋尚子 松本幸四郎 松坂慶子 姜尚中 堀北真希 妻夫木聡 上野由岐子 白鵬翔 草刈民代 阿部寛 深田恭子 原辰徳 勝間和代 城田優 杉山愛 西田敏行 森光子 野口聡一 湊かなえ 岩崎夏海 寺島しのぶ 髙橋大輔 上野樹里 伊勢谷友介 仲間由紀恵 北大路欣也 武良布枝 大竹しのぶ 田中将大 コシノジュンコ 三谷幸喜 鈴木京香 佐々木則夫 鈴木明子 松山ケンイチ 松井冬子 琴奨菊和弘 綾瀬はるか 尾木直樹 澤穂希 中村勘九郎 樹木希林 桂文枝 吉田沙保里 入江陵介 菅野よう子 日馬富士公平 田中将大 滝川クリステル 宮藤官九郎 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2024/11/05 19:03更新
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栃錦清隆と同じ誕生日2月20日生まれ、同じ東京出身の人
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