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鏡里喜代治の情報 (かがみさときよじ)
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【11月23日】今日誕生日の芸能人・有名人

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鏡里 喜代治さんについて調べます

■名前・氏名
鏡里 喜代治
(読み:かがみさと きよじ)
■職業
相撲
■鏡里喜代治の誕生日・生年月日
1923年4月30日 (年齢2004年没)
亥年(いのしし年)、牡牛座(おうし座)
■出身地・都道府県
青森出身

鏡里喜代治と同じ1923年生まれの有名人・芸能人

鏡里喜代治と同じ4月30日生まれの有名人・芸能人

鏡里喜代治と同じ出身地青森県生まれの有名人・芸能人


鏡里喜代治と関係のある人

吉葉山潤之輔: しかし、関脇で2場所連続13勝が大いに評価されたことで、場所後に鏡里喜代治と共に大関へ昇進した。


蔵間龍也: 初土俵から程なく、師匠・双葉山が死去、時津風部屋は元横綱・鏡里喜代治が1場所だけ師匠を務めて、元大関・豊山勝男が師匠となり、以降は引退まで豊山を師匠として土俵を務めた。


双葉山定次: 年寄・時津風としては鏡里喜代治を横綱に育て上げ、大内山平吉・北葉山英俊・豊山勝男を大関に育てるなど、自身も経験してきた猛稽古によって多くの名力士を育成した。


北葉山英俊: この間に鏡里喜代治の猛稽古に耐えたおかげとも言える。


蔵間竜也: 初土俵から程なく、師匠・双葉山が死去、時津風部屋は元横綱・鏡里喜代治が1場所だけ師匠を務めて、元大関・豊山勝男が師匠となり、以降は引退まで豊山を師匠として土俵を務めた。


大内山平吉: 当時横綱は他に3人(鏡里喜代治、吉葉山潤之輔、栃錦清隆)いて、通常なら関脇が千秋楽の結びの一番に起用されるはずもないが、鏡里と吉葉山の両横綱にくわえてただ一人の大関である三根山隆司も途中休場、栃錦は皆勤したものの千代の山とは同門のために本場所で対戦することが出来ず、優勝争いを面白くさせるためもあってこの割が組まれることになった。


栃錦清隆: この場所は東富士欽壹・千代の山雅信・鏡里喜代治・吉葉山潤之輔の4横綱が存在していたため、栃錦が横綱昇進すると前例のない5横綱時代が実現するところであった。


三根山隆司: それでも引退せずに約4年の長きに渡って前頭に定着し、鏡里喜代治・千代の山雅信から金星を奪うなど、往年の「大物食い」の活躍を見せた。


若獅子茂憲: スポーツ推薦で東海大学付属高輪台高等学校への進学が内定していたが、急に力士を志し、母親の知人から時津風部屋所属の立田川(元横綱・鏡里喜代治)を紹介された。


不動岩三男: 特に1946年11月場所で関脇へ昇進して以降は「巨人横綱誕生も可能」と言われ、東富士欽壹・千代の山雅信・鏡里喜代治などと一時代を築くものと思われたが、勝ち味が遅くて下半身が弱いために速攻の力士に対抗できず、負傷や内臓疾患などの病の影響もあって大成できなかった。


力道山: 同世代の鏡里喜代治、栃錦清隆、吉葉山潤之輔とも互角に取っており、力士を続けていれば大関も期待できる逸材であった。


北葉山英俊: 目指すは以前から憧れていた双葉山定次が親方を務める時津風部屋だったが、毎年3月は大阪場所の開催月であることから力士・親方は全員が大阪に行っており、そのことを忘れていた英俊少年が東京の時津風部屋を訪ねても、留守番をしていた鏡里喜代治の父親しかいなかった。


栃錦清隆: 新大関として迎えた1953年1月場所は、横綱・照國萬藏が3日目から休場し14日目に現役引退を表明、残る横綱・大関も6人中3人が途中休場という大荒れの場所だったが、12日目まで1敗で優勝を争い、終盤に3連敗したものの11勝4敗、優勝の大関・鏡里喜代治(14勝1敗)と共に上位陣の面目を保った。


鳴門海一行: 引退まで一度も三役に昇進することはなかったが、軽量ながら長く活躍し鏡里喜代治が苦手にしていたことでも知られる(金星を3個獲得しており、「鏡里キラー」とも言われた)。


吉葉山潤之輔: 若い頃から出世を争い、横綱昇進も非常に近かった鏡里喜代治との対戦は、美しさなら往年の梅ヶ谷藤太郎 (2代)・常陸山谷右エ門の対戦と対比され、特に人気を呼んだ。


三根山隆司: 羽黒山政司:3勝6敗、安藝ノ海節男:1勝2敗、照國萬藏:8勝9敗、前田山英五郎:3勝5敗、東富士欽壹:8勝15敗、千代の山雅信:9勝16敗、鏡里喜代治:8勝18敗と、いずれも負け越していながら金星は9個奪っている。


鏡里喜代治の情報まとめ

もしもしロボ

鏡里 喜代治(かがみさと きよじ)さんの誕生日は1923年4月30日です。青森出身の相撲のようです。

もしもしロボ

父親、母親、現在、家族、兄弟、引退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。2004年に亡くなられているようです。

鏡里喜代治のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

鏡里 喜代治(かがみさと きよじ、1923年4月30日 - 2004年2月29日)は、青森県三戸郡斗川村(現・三戸町)出身で時津風部屋(入門時は粂川部屋)に所属した大相撲力士。第42代横綱。本名は奥山 喜世治(おくやま きよじ)。

1923年に青森県三戸郡斗川村(現・三戸町)で農家を営む家庭の三男として生まれる。出生時は体重が8000gにもなる大変な怪童で、地元ではすぐに評判となった。早くに父親を亡くしてからは母親の家業を手伝っていたが、評判を聞いた同郷の元大関である粂川から熱心に勧誘され入門、1941年1月場所で粂川部屋から初土俵を踏んだ。鏡里の四股名は粂川の現役名「鏡岩」に由来する。入門前には粂川の使いが「東京見物へ」と旅費30円(現在の10万円に相当)を強引に渡したため、それを返済しに母と共に部屋に向かうと大いに喜んだ粂川の熱心な説得と母子への丁重なもてなしが待っており、これが入門の決め手となった。故郷には大相撲に進んだものの中途半端でやめて帰って、それで正業に就かず田舎相撲を取って暮らしていた人物が多く、それを目の当たりにしていた両親や親戚がいたため、もし奥山が相撲を取ってもそのような末路をたどるのではないかと親族から反対されていた。入門の際、家族からは「いや、喜代治が相撲になって、三日も我慢できるか」などといわれたが、中途半端なまま辞めて帰ってくると家族などに顔向けできないため必死で相撲に励もうと決意した。

新弟子検査の際、不動岩や東海の体格を見て、「これはとても駄目だ」と自信を失った。新弟子時代は部屋の弟子数が25、26人程度であったが、鏡里が入門当時の粂川部屋は「南部部屋」と言われるほど粂川親方や鏡里と同郷である南部地方出身が多かったため、兄弟子たちに可愛がられ心強かったという。

1942年に双葉山相撲道場が発足した際に、粂川が鏡里を含む弟子全員を双葉山に譲ったために粂川部屋から双葉山相撲道場へ移籍した。1943年(昭和18年)5月には、荒汐部屋、甲山部屋、二十山部屋が双葉山相撲道場に糾合されたので、一遍に弟子が50人程度になった。移籍直後の1944年9月に応召されて弘前第69連隊に入隊したが、当時の風潮があったにせよ、鏡里にとって戦地で殉死して靖国神社に祀られるのは憧れであったという。ある日に呼ばれて双葉山 - 東富士欽壹戦の実況放送を聞かせてくれたが、この取組で師匠となった双葉山が敗れたのを聞いて、涙を流しながら「打倒東冨士」を誓った。終戦後、敗戦の影響で相撲人気が低迷し、角界の存続も危ぶまれた状況であったので、一度は30人程度にまで部屋の力士の数が減っていた。1947年に弟弟子の双ツ龍が入門した当初は40人はいなかったという。1956年には既に没していた八ツ鏡という力士とは思い出があり、ある時「稽古してやるから来い」と言われて土俵に上がったら最初は負けてくれたが、いい気持ちで稽古をしているとだんだんと八ツ鏡は本気になり、その強さに鏡里は嫌になってしまったという。海州山という三段目の力士は鏡里が角界入りして初めて稽古相手をしてくれた相手であり、新弟子時代には歯が立たなかったと振り返りつつも、1956年の時点では未だに三段目に留まっていながら「自分は三段目で十数年も取っているのだぞ」と自慢している海州山の話を笑いながらしていた。付け人としては12代時津風を担当したが、関取になると大内山を付け人にした。部屋の力士が多い時期には人数的にも三番稽古を行う余裕はなかったため、飛び付き形式の申し合いで若い衆は稽古を積んでいた。入門したばかりはとにかく押すように指導された。

1949年10月場所は前頭筆頭まで番付を上げ、東富士欽壹から金星を挙げて恩を返す。この場所は12勝3敗の好成績で、三賞制定後初の複数受賞(殊勲賞・敢闘賞)で1950年1月場所から関脇へ昇進。1950年5月場所から翌1951年1月場所に駆けて9勝、8勝、11勝という成績を挙げ、大関へ昇進した。1950年代から1970年代にかけて一応の目安として「直前3場所合計30勝前後」という昇進基準が存在していたが、その中でも3場所合計28勝という成績での昇進は非常に幸運なケースと言える。

1953年1月場所を14勝1敗で初優勝を果たしたことで場所後の理事会および番付編成会議で横綱推薦が決まったが、このとき横綱審議委員会が開催されなかったために横綱昇進はいったん持ち越しとなった。理事会直後に協会役員が横審委員を個別に訪問して意向を伺ったが、全委員が「個人的に賛否はいえない。審議会を開いたうえで回答したい」と答えたため、「相撲史始まって以来の不手際」「審議会をナメた」と協会が批判された。理事会から2日後に開催された緊急の横審では時期尚早論が出て賛否が分かれたが、大関としての成績と横綱としての将来性を評価し、結果としては横審も鏡里の横綱昇進を認めた。

番付上、鏡里が昇進すると5横綱という非常にバランスの悪い状態となることを察知した照國萬藏が1月場所14日目に引退を表明したが、羽黒山政司・東冨士・千代の山雅信・鏡里・照國の5横綱が並んでいる写真が存在する。横綱土俵入りは双葉山直伝だが、幕下時代に膝の故障の影響もあって双葉山の完全再現とはいかなかったものの、土俵入りは「動く錦絵」と呼ばれて人気が高かった。吉葉山潤之輔との取組は、明治時代後期に「梅常陸時代」と呼ばれ、相撲黄金期を築いた梅ヶ谷藤太郎‐常陸山谷右エ門の対決を彷彿とさせた。

1955年9月場所、1956年1月場所と連覇を果たし、同年9月場所にも優勝を果たす。1956年1月場所千秋楽の鶴ヶ嶺との優勝決定戦では、右四つから頭を付け、寄り立ててきた鶴ヶ嶺に対し、鏡里は後退しながら左上手を取って反撃、上手投げから向正面へ寄り切った。4回の優勝は全て14勝1敗で、「次こそは全勝優勝を」と言っていたが最後まで果たせなかった。それでも千代の山・吉葉山・栃錦清隆・若乃花幹士といった上位陣との対戦はいずれも勝ち越しており、実力のあるところを証明している。

1958年1月場所の中日で吉葉山潤之輔が引退すると、この場所で5勝3敗と不振だった鏡里へマスコミが殺到した。鏡里は「横綱の責任を果たせなければ辞める」と発言したところ、朝日新聞の記者から「責任とは具体的にどういうことか?」と聞き返されたため、「10番勝てない時だ」とうっかり発言してしまった。鏡里は結局13日目に敗れて6敗となり、目標と語った10勝は不可能になったが、残りは勝利して9勝6敗として留まった。周囲からはまだ取れるとの声も多かったが、中日でうっかり発言した通り場所後に引退を表明し、一代年寄「鏡里」を襲名して後進の指導に当たる。その後は粂川、のちに立田川の名跡を襲名した。

1968年12月16日に時津風が亡くなると一時的に時津風を襲名したが、翌年一月場所後に先代の遺志が先代夫人から伝えられ、引退間もない錦島が時津風を継承、自らは再び立田川に戻った。その2年後、亡き師匠の三回忌法要が自分たちに知らされないまま既に執り行われていたのを知って一門の11代井筒に相談、立田山・二十山を含む年寄4名を連れて立田川部屋を創立して独立した。最初は関取が育たずに部屋消滅の危機もあったが、停年退職直前に森乃里治重を関取に昇進させて危機を回避させた。

日本相撲協会では、引退から2年後の1960年から理事に就任、福岡場所部長等を務めていたが、後述の脳梗塞で倒れた影響で、1978年の役員改選で役員待遇に退き、そのまま停年まで務めた。

1983年4月に満60歳を迎えたが、その数年前に脳梗塞で倒れ、一命は取り留めたがその影響で暫くリハビリに専念中のため、還暦土俵入りは行われなかった。但し赤い綱は受け取っており、誕生日の当日は赤色の羽織を着用して祝った。それから5年後の1988年4月に日本相撲協会を元横綱としては初めて停年退職し、その後は両国でマンション「かがみキャッスル」を経営したほか、「鏡里一代」を著した。

2003年4月、80歳の誕生日を迎えたとき、傘寿祝いに「次の目標は?」との問いに対し「次は88歳の米寿」と答えた。三戸町では青森県初の横綱として名誉町民の表彰を受けた。横綱としては梅ヶ谷藤太郎 (初代)(83歳3ヶ月没)に次いで、当時史上第2位(2023年現在は史上第5位。史上第2位は2021年1月に死去した栃ノ海晃嘉の82歳10ヶ月、第3位は2010年9月に死去した若乃花幹士 (初代)の82歳5ヶ月、なお、初代若乃花、栃ノ海は鏡里同様に青森県出身である。存命中の北の富士勝昭にも抜かれている)の高齢で、本人は梅ヶ谷の最高齢記録更新を目指していたが、残り2年5ヶ月の2004年2月29日、80歳で死去。鏡里が亡くなったことで、大正生まれの横綱経験者は全て鬼籍に入った。

初めは突っ張って前に出て、残されれば左1本差しで寄る速攻の取り口だったが、幕下時代に不動岩三男との稽古で左膝を負傷した。再起を危ぶまれたが奇跡的に回復し、その後は右四つに組み止める取り口に変わった。東富士欽壹にはよく稽古を付けられていたが、応召中に双葉山が東冨士に敗れるのを知ると、打倒東冨士を誓った。

右四つ得意で相手を組み止めると太鼓腹を活かして技を封じるのが得意なため、当時の対戦相手だった技能力士は苦戦した。ただし大関時代に鳴門海一行との対戦で足の指を骨折(ただしこの時は勝利して休場もしていない)して以来、苦手意識から3連敗した。

1951年1月場所後に大関昇進が決定した時、自分が昇進するとは夢にも思っておらず、友人の見送りにやって来た東京駅の場内放送で「大相撲の鏡里さん、大関昇進が決定しましたので至急部屋へお戻りください」と呼び出され、慌てて時津風部屋に引き返した。部屋に戻ると伝達の使者は本人不在のまま部屋の女将さんが受けて既に帰ってしまっていた。翌日の新聞には同時昇進した吉葉山の写真が大きく掲載され、横にベタ記事で「鏡里も」と書かれていた。主役の鏡里本人が不在だったので記者はみな吉葉山の方へ行ってしまった結果だった。

1956年1月場所で優勝した際、優勝決定戦の相手が同門の弟弟子でかつて自身の付き人を務めた鶴ヶ嶺昭男であったことから、「優勝は半分ずつだ」と鶴ヶ嶺を優勝パレードの旗手に指名、さらに1晩限りで鶴ヶ嶺に優勝旗を貸し出して自らの居室に飾ることを許可した。

1956年の時点では、世論が体罰に対して厳しいので「無理偏に拳骨」は通用しないと意見を述べていた。また、戦中戦後と異なり弟子が多い一方で朝が遅いので、稽古する時間があまりないと話していた。

大のマスコミ嫌いで、現役最後の場所に殺到したことでますます顕著になったという。前述のようにマスコミを一言で追い返したのは最大の特徴で、引退の理由には引際を重視するように指導されたこともあったと思われる。後に協会理事を務めたがマスコミ嫌いは相変わらずで、理事会でも介入しそうな議題には徹底して反対、さらには自ら「マスコミは嫌いだ」と発言していた。引退した場所で食い下がった記者が退職後に、再就職した団体からの寄付要請を持って相撲協会を訪れた際、鏡里の猛反対で破談となったこともある。

朴訥な人柄を反映してか方言が強く、インタビュアーは鏡里の言葉を聴き取るのに苦労したと伝えられる。

孫弟子の敷島は入門前に自身と会った際に「あんな怖そうな大人は初めて見た」と思っていたという。

2019年10月25日、師匠の双葉山の郷土である宇佐市に自身のゆかりの品4点が自身の親戚によって寄贈された。

通算成績:415勝189敗28休 勝率.687

幕内成績:360勝163敗28休 勝率.688

大関成績:70勝20敗 勝率.778

横綱成績:199勝88敗28休 勝率.693

通算在位:50場所

幕内在位:38場所

横綱在位:21場所

大関在位:6場所

三役在位:4場所(関脇4場所、小結なし)

幕内最高優勝:4回(1953年1月場所、1955年9月場所、1956年1月場所・9月場所)

三段目優勝:1回(1943年1月場所)

序二段優勝:1回(1942年1月場所)

三賞:2回

    殊勲賞:1回(1949年9月場所)

    敢闘賞:1回(1949年9月場所)

    金星:2個(前田山英五郎1個、東富士欽壹1個)

    他に優勝決定戦で鶴ヶ嶺に1勝がある。

    鏡里喜代治「鏡里一代 自慢で抱えた太鼓腹」 - ベースボール・マガジン社 ISBN 4583035411

    横綱一覧

    一代年寄

    鏡里 喜代治・生涯星取表

    ^ 「時津風部屋の跡目は直弟子に相続させたい」という先代夫人の希望があり、粂川部屋からの預かり弟子であった鏡里はその条件に合致しなかったという。時津風部屋後援会「双葉山会」の笹山忠夫会長や永田雅一が、部屋の土地を買い取るために、亡き師匠の子飼いの直系弟子で31歳と若い豊山なら資金を出すが、粂川部屋から序二段で移籍した預かり弟子で、親方の平均寿命が若い時代に45歳と年齢を重ねていた鏡里が後継なら資金を出さないという意向もあった。

    ^ 西筆頭格

    ^ 急性腎臓炎により9日目から途中休場

    ^ 内痔・脱肛により8日目から途中休場

    ^ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p22

    ^ 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)46ページから47ページ

    ^ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p57

    ^ 鏡里喜代治『鏡里一代 自慢で抱えた太鼓腹』,p26,ベースボール・マガジン社

    ^ 鏡里喜代治『鏡里一代 自慢で抱えた太鼓腹』,p32,ベースボール・マガジン社

    ^ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p56

    ^ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p58

    ^ 『相撲』2012年1月号

    ^ 朝日新聞1953年1月26日付朝刊スポーツ面

    ^ 1月場所14日目に横審の例会が開かれたが、話題は引退を発表した照國のことが中心で、鏡里の横綱昇進は話題とならなかった(朝日新聞1953年1月24日付朝刊)

    ^ 朝日新聞1953年1月27日付朝刊

    ^ 朝日新聞1953年1月28日付朝刊スポーツ面

    ^ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p41

    ^ 小坂秀二「昭和の横綱」(冬青舎)

    ^ 鏡里喜代治『鏡里一代 自慢で抱えた太鼓腹』,p137,ベースボール・マガジン社

    ^ 鏡里喜代治『鏡里一代 自慢で抱えた太鼓腹』,p67,ベースボール・マガジン社

    ^ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p58-59

    ^ 相撲 双葉山の弟子、横綱・鏡里の手形など宇佐市に寄贈 /大分毎日新聞 会員限定有料記事 毎日新聞2019年10月31日 地方版 (2019年10月31日閲覧)

    高見山酉之助

    常陸山谷右エ門

    太刀山峯右エ門

    鳳谷五郎

    両國勇治郎

    西ノ海嘉治郎 (2代)

    大錦卯一郎

    栃木山守也

    常ノ花寛市

    鶴ヶ濱増太郎

    西ノ海嘉治郎 (3代)

    大蛇山酉之助

    宮城山福松

    常陸岩英太郎

    能代潟錦作

    玉錦三右エ門

    豊國福馬

    山錦善治郎

    武藏山武

    綾櫻由太郎

    清水川元吉

    沖ツ海福雄

    男女ノ川登三

    双葉山定次

    出羽湊利吉

    安藝ノ海節男

    羽黒山政司

    佐賀ノ花勝巳

    前田山英五郎

    備州山大八郎

    東富士欽壹

    増位山大志郎

    千代の山雅信

    照國萬藏

    栃錦清隆

    鏡里喜代治

    時津山仁一

    吉葉山潤之輔

    三根山隆司

    朝潮太郎 (3代)

    若乃花幹士 (初代)

    安念山治

    玉乃海太三郎

    若羽黒朋明

    若三杉彰晃

    大鵬幸喜

    柏戸剛

    佐田の山晋松

    栃ノ海晃嘉

    北葉山英俊

    富士錦猛光

    北の富士勝昭

    若浪順

    玉の海正洋

    琴櫻傑將

    清國勝雄

    栃東知頼

    長谷川勝敏

    輪島大士

    高見山大五郎

    北の湖敏満

    魁傑將晃

    貴ノ花健士

    金剛正裕

    三重ノ海剛司

    若乃花幹士 (2代)

    千代の富士貢

    琴風豪規

    隆の里俊英

    北天佑勝彦

    若嶋津六夫

    多賀竜昇司

    朝潮太郎 (4代)

    北勝海信芳

    大乃国康

    旭富士正也

    小錦八十吉

    霧島一博

    琴富士孝也

    琴錦功宗

    貴乃花光司

    曙太郎

    水戸泉政人

    若乃花勝

    武蔵丸光洋

    貴ノ浪貞博

    千代大海龍二

    出島武春

    武双山正士

    貴闘力忠茂

    魁皇博之

    琴光喜啓司

    栃東大裕

    朝青龍明徳

    白鵬翔

    琴欧洲勝紀

    日馬富士公平

    把瑠都凱斗

    旭天鵬勝

    鶴竜力三郎

    照ノ富士春雄

    琴奨菊和弘

    豪栄道豪太郎

    稀勢の里寛

    栃ノ心剛史

    御嶽海久司

    貴景勝貴信

    玉鷲一朗

    朝乃山英樹

    德勝龍誠

    正代直也

    大栄翔勇人

    若隆景渥

    逸ノ城駿

    阿炎政虎

    霧島鐵力

    豊昇龍智勝

    尊富士弥輝也

    大の里泰輝

    一覧

    年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。

    初代明石志賀之助

    2代綾川五郎次

    3代丸山権太左衛門

    4代谷風梶之助

    5代小野川喜三郎

    6代阿武松緑之助

    7代稲妻雷五郎

    8代不知火諾右衛門

    9代秀ノ山雷五郎

    10代雲龍久吉

    11代不知火光右衛門

    12代陣幕久五郎

    13代鬼面山谷五郎

    14代境川浪右衛門

    15代梅ヶ谷藤太郎(初代)

    16代西ノ海嘉治郎(初代)

    17代小錦八十吉

    18代大砲万右エ門

    19代常陸山谷右エ門

    20代梅ヶ谷藤太郎(2代)

    21代若嶌權四郎

    22代太刀山峯右エ門

    23代大木戸森右エ門

    24代鳳谷五郎

    25代西ノ海嘉治郎(2代)

    26代大錦卯一郎

    27代栃木山守也

    28代大錦大五郎

    29代宮城山福松

    30代西ノ海嘉治郎(3代)

    31代常ノ花寛市

    32代玉錦三右エ門

    33代武藏山武

    34代男女ノ川登三

    35代双葉山定次

    36代羽黒山政司

    37代安藝ノ海節男

    38代照國萬藏

    39代前田山英五郎

    40代東富士欽壹

    41代千代の山雅信

    42代鏡里喜代治

    43代吉葉山潤之輔

    44代栃錦清隆

    45代若乃花幹士(初代)

    46代朝潮太郎

    47代柏戸剛

    48代大鵬幸喜

    49代栃ノ海晃嘉

    50代佐田の山晋松

    51代玉の海正洋

    52代北の富士勝昭

    53代琴櫻傑將

    54代輪島大士

    55代北の湖敏満

    56代若乃花幹士(2代)

    57代三重ノ海剛司

    58代千代の富士貢

    59代隆の里俊英

    60代双羽黒光司

    61代北勝海信芳

    62代大乃国康

    63代旭富士正也

    64代曙太郎

    65代貴乃花光司

    66代若乃花勝

    67代武蔵丸光洋

    68代朝青龍明徳

    69代白鵬翔

    70代日馬富士公平

    71代鶴竜力三郎

    72代稀勢の里寛

    73代照ノ富士春雄

    雷電爲右エ門

    161代 能代潟錦作

    162代 常陸岩英太郎

    163代 豊國福馬

    164代 玉錦三右エ門

    165代 武藏山武

    166代 清水川元吉

    167代 男女ノ川登三

    168代 双葉山定次

    169代 鏡岩善四郎

    170代 前田山英五郎

    171代 羽黒山政司

    172代 安藝ノ海節男

    173代 五ツ嶋奈良男

    174代 照國万蔵

    175代 名寄岩静男

    176代 佐賀ノ花勝巳

    177代 東冨士謹一

    178代 汐ノ海運右衛門

    179代 増位山大志郎

    180代 千代ノ山雅信

    181代 吉葉山潤之輔

    182代 鏡里喜代治

    183代栃錦清隆

    184代 三根山隆司

    185代 大内山平吉

    186代 松登晟郎

    187代 若乃花勝治

    188代 朝汐太郎

    189代 琴ヶ濱貞雄

    190代 若羽黒朋明

    191代 柏戸剛

    192代 大鵬幸喜

    193代 北葉山英俊

    194代 佐田の山晋松

    195代 栃ノ海晃嘉

    196代 栃光正之

    197代 豊山勝男

    198代 北の富士勝昭

    199代 玉乃島正夫

    200代 琴櫻傑將

    201代 清國勝雄

    202代 前の山太郎

    203代 大麒麟將能

    204代 輪島大士

    205代 貴ノ花利彰

    206代 大受久晃

    207代 北の湖敏満

    208代 魁傑將晃

    209代 三重ノ海剛司

    210代 旭國斗雄

    211代 若三杉壽人

    212代 増位山太志郎

    213代 千代の富士貢

    214代 琴風豪規

    215代 隆の里俊英

    216代 若嶋津六夫

    217代 朝潮太郎

    218代 北天佑勝彦

    219代 大乃国康

    220代 北尾光司

    221代 北勝海信芳

    222代 小錦八十吉

    223代 旭富士正也

    224代 霧島一博

    225代 曙太郎

    226代 貴ノ花光司

    227代 若ノ花勝

    228代 貴ノ浪貞博

    229代 武蔵丸光洋

    230代 千代大海龍二

    231代 出島武春

    232代 武双山正士

    233代 雅山哲士

    234代 魁皇博之

    235代 栃東大裕

    236代 朝青龍明徳

    237代 琴欧洲勝紀

    238代 白鵬翔

    239代 琴光喜啓司

    240代 日馬富士公平

    241代 把瑠都凱斗

    242代 琴奨菊和弘

    243代 稀勢の里寛

    244代 鶴竜力三郎

    245代 豪栄道豪太郎

    246代 照ノ富士春雄

    247代 髙安晃

    248代 栃ノ心剛史

    249代 貴景勝貴信

    250代 朝乃山英樹

    251代 正代直也

    252代 御嶽海久司

    253代 霧島鐵力

    254代 豊昇龍智勝

    255代 琴櫻将傑

    256代 大の里泰輝

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    日本

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    青森県出身の大相撲力士

    粂川部屋

    時津風部屋

    1923年生

    2004年没

    青森県出身の人物

    日本相撲協会の役員

    横綱

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2024/11/20 02:16更新

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