双葉山定次の情報(ふたばやまさだじ) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
双葉山 定次さんについて調べます
■名前・氏名 |
双葉山定次と関係のある人
山本照: 双葉山定次の全盛期という戦前の相撲熱狂時代を中心に、10年間ラジオ実況を担当した。 天龍三郎: 関西角力協会に対する世間の注目や好奇心も無くなっていたことも拍車をかけ、協会も天竜が批判した玉錦が全勝街道まっしぐらで大人気となり、その玉錦を必死で追い掛けていた双葉山定次の台頭もあって急速に人気を盛り返していた。 栃錦清隆: 初土俵を踏んだ1939年1月場所4日目、双葉山定次が安藝ノ海節男に敗れて連勝が69で止まった「世紀の一番」を、結びの一番を取る兄弟子の鹿嶌洋起市の世話のために花道の奥で目撃した。 東富士欽壹: しかし、緊張から鍛え上げられた力を発揮できずに前相撲を通過して番付に載るまで2年を要したが、幕下時代から双葉山定次に目をかけられ、「キン坊、来い」と呼ばれては猛稽古で鍛えられた。 大鵬幸喜: 横綱として内容は冴えないが、同場所2日目から1969年(昭和44年)3月場所初日までの間に双葉山定次(69連勝)に次ぐ45連勝を記録した。 北葉山英俊: 双葉山定次に憧れて中学校では相撲部の主将を務め、道内各地の大会で活躍していたが、卒業後は家計を助けるために3年間は富士製鉄の下請けをする管組で勤務しながら鍛冶屋へ奉公に出た。目指すは以前から憧れていた双葉山定次が親方を務める時津風部屋だったが、毎年3月は大阪場所の開催月であることから力士・親方は全員が大阪に行っており、そのことを忘れていた英俊少年が東京の時津風部屋を訪ねても、留守番をしていた鏡里喜代治の父親しかいなかった。 駒ノ里秀雄: そんな中、駒ノ里は3日目に双葉山定次との対戦が組まれた。双葉山定次は取組前日までに68連勝を達成しており、世間では「双葉山の連勝がどこまで進むのか」「双葉山に土を付ける(連勝を止める)力士は誰なのか」に大きな注目が集められていた。 緑嶌友之助: それでも1930年頃になると自前の稽古場を獲得し、その後は双葉山定次・羽黒山政司の戦前を代表する二人の横綱や、大関の名寄岩静男、関脇旭川幸之焏など数多くの名力士を育て、一代で部屋を角界屈指の名門に引き上げた。 玉ノ海梅吉: これ以降、玉ノ海は現役力士と親方業の兼務に多忙を極めることとなるが、1939年1月場所9日目には同場所4日目に連勝が69で止まったばかりの双葉山定次に勝利し、玉錦の霊前に報告したことが話題となった。 不動岩三男: 1940年1月場所において初土俵を踏み、1942年に双葉山相撲道場へ移籍してからは双葉山定次の厳しい稽古で着実に力を付けていった。1944年11月場所で新入幕を果たすと、双葉山定次の横綱土俵入りで露払いを務めるなど、取組以外でも活躍の場を広げていった。 三根山隆司: 1941年の真夏のある日、金沢の巡業で男女ノ川登三・双葉山定次・羽黒山政司・前田山英五郎から連続80番もの猛稽古を付けられ、猛暑による疲労も重なって途中から目の前が真っ暗になり、生きた心地がしなかったという。 東富士欽壹: 双葉山定次の猛稽古によって順調に力を付け、1942年1月場所で新十両昇進。 太刀山峰右衛門: 56連勝は引分や預り、休場を挟んだものとしては双葉山定次、谷風梶之助・白鵬翔(同数2位)、梅ヶ谷藤太郎 (初代)に次ぐ史上5位、43連勝は谷風・雷電爲右エ門らと並んで史上9位タイに位置する。 安念山治: その際に、春日野理事長から四股名を「双羽黒」(立浪部屋が生んだ戦前を代表する双葉山定次、戦中から戦後を代表する羽黒山政司の両横綱)と命名され、史上最強横綱誕生へ大きな期待が寄せられた。 常ノ花寛市: 出羽錦忠雄などの弟子も大半が千代の山と同様に先代からの弟子で、特に理事長時代は部屋の指導にも殆ど当たっておらず、部屋の指導に本腰を入れたのは相談役に退いてからのために、直弟子の栃錦清隆を横綱に育て、自身の没後に横綱となった栃ノ海晃嘉と大関となった栃光正之も入門時に育成した弟弟子の栃木山守也や理事長を務めながら1横綱3大関を育てた自身の後任理事長の双葉山定次と比べると部屋の師匠としての評価はあまり高くない。 和田信賢: 和田はこの場所の実況中継を初日から4日目まで担当したが、4日目(1月15日・日曜日)に70連勝を目指していた双葉山定次が、結びの一番で安藝ノ海節男に外掛けで敗れ、連勝が69で止まった。 男女ノ川登三: しかしその後は春秋園事件前に痛めた関節炎の影響で強弱の差が激しく、横綱時代は双葉山定次に全く歯が立たなかった。 新海幸藏: 次の5月場所では2勝9敗と大きく負け越して以後三役には戻れなかったが、1936年1月場所初日に双葉山定次を破った。 緑嶌友之助: なお、立浪の死去から丁度16年が経過した1968年12月16日には、弟子である双葉山定次(時津風理事長)も没している。 大倉千代子: 大倉のメインの活動時期である1930年代、当時人気の横綱だった双葉山定次と結婚の噂が存在したが、ロマンスが存在したかどうかは定かではない。 東富士欽壹: その後も1場所途中休場による負け越しがあったもののすぐ幕内上位に定着し、新関脇での1944年11月場所では東西の編成替えで初めて双葉山と敵方になり、同場所6日目にその双葉山定次を上手投げで破って恩を返した。 安藝ノ海節男: 双葉山定次の70連勝を阻止した「世紀の一番」で知られる。 照国万蔵: 大関2場所目となった1942年5月場所、番付を見た照國はそれまで双葉山定次と同じ片屋にいたが、この場所は反対側に回されていたため、本人曰く「こっち(反対側)に回ったら双葉山に勝たないと横綱になれない。 蔵間竜也: また、蔵間の引退により双葉山定次が師匠の時代に入門した時津風部屋の力士は全員引退をした。 若葉山貞雄: 2年あまりのあいだ番頭を務めていたところ、現地に双葉山定次一行が大相撲巡業に来ることになり、千載一遇のチャンスとして弟子入りを志願し入門、本土の東京へ渡り1942年1月場所で双葉山相撲道場から初土俵を踏んだ。 酒井忠正: 双葉山定次とも深い親交があり、双葉山が谷風梶之助 (2代)の連勝記録を更新したことを最初に知らせている(それまでの最多連勝記録が谷風の63連勝であることを認定したのも彼である)。 出羽錦忠雄: 下位時代は栃錦清隆と初っ切りのコンビを組んでおり、双葉山定次の引退相撲が旧・両国国技館で行われた時を最後に、栃錦との初っ切りを卒業した。 北の洋昇: 1938年の暮れのある日、自宅へ宿泊した旭川の馬飼いが緒方少年の大きな体格を見い出し、その人物が旭川幸之焏とも親しかったことで立浪部屋への入門を勧めたが、緒方少年は相撲好きだったものの「他の部屋に入って双葉山定次に勝つ相撲取りになりたい」と考えて出羽海部屋への入門を希望していた。 藤倉修一: 双葉山定次が引退した1945年6月の夏場所は非公開(招待された少数の傷痍軍人を除く)・放送なしで行われたが、藤倉はこの場所の海外向け短波放送のための実況を担当した。 玉の海正洋: 横綱在位中の勝率.867は、昭和以降では双葉山定次、白鵬翔に次ぐ第3位であり、その相撲の完成形を見ることが出来なかったのは考えられた以上に大きな損失だった。 |
双葉山定次の情報まとめ
双葉山 定次(ふたばやま さだじ)さんの誕生日は1912年2月9日です。大分出身の相撲のようです。
現在、事件、父親、母親、兄弟、脱退、引退、病気、結婚、映画、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。去年の情報もありました。1968年に亡くなられているようです。
双葉山定次のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)双葉山 定次(ふたばやま さだじ、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。第35代横綱。位階は従四位。本名は龝吉 定次(あきよし さだじ)。 現在も破られていない69連勝の大相撲記録を樹立し、太平洋戦争前の日本で国民的人気を得た。横綱在任時代に双葉山相撲道場を創立して指導者(親方)となり後進力士を育て時津風一門を形成、日本相撲協会理事長として運営の改善にも取り組んだ。 1912年2月9日に大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市下庄)で生まれる。5歳の時に吹き矢が自身の右目に直撃して負傷し、右目が半失明状態になった。後年、双葉山は著書「相撲求道録」の中でこの事件について、友達と遊んでいる最中に目を傷めたことは覚えているものの、その原因が吹き矢だったことについてははっきりとした記憶が無いと語っているが、横綱審議委員長を務めた舟橋聖一は「誰が吹き矢を拭いたのかを唯一知っていたのは定次少年の父親で、定次少年が吹き矢を吹いた人物を恨んで自身のマイナスになることと、定次自身が傷つかないようにするため、決して名前を出さなかった」と分析している。少年時代は成績優秀で普通に進学を目指していたが、父親が営む海運業が失敗して5000円(現在の2億5000万円相当)の借金を負い、兄と妹と母親も早くに亡くしている事情から、次男でありながら一家の家計を支えるべく手伝いをしながらたくましく育つ。浪曲研究家の芝清之が作成した「双葉山物語」では、この海運業の手伝いをしているときに錨の巻上げ作業で右手の小指に重傷を負ったとしているほか、定次が14歳の頃、乗船していた船が大波を受けて転覆して海に投げ出されたが、たまたま近くを通っていた船に助けられて九死に一生を得た。その後定次は別の業者に雇われることになった。 定次は、相撲の方はそれほど気持ちを入れていたわけではなかったが、初めて出場した相撲大会で畳屋の男と取組むことになった。だが、定次は相撲を取ったことがなかったため相手に食いつかれてしまい動けなくなったところ、見物人から「押せ!押せ!」の声が聞こえたため、定次は相手を上から押さえつけて倒し、相手はしばらく起き上がれなかったという。このことが地元の新聞に載り、この記事を見た大分県警察部長の双川喜一(のちに明治大学専務理事)の世話で立浪部屋に入門、1927年3月場所に初土俵を踏む。 四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」から命名し、入門時に世話になった双川の一字も含まれる。双川は大分県に赴任する前、立浪の出身地の富山県で学務部長を務めていて立浪とは昵懇の間柄で、かねてから全国を転勤して回る双川に新弟子を見つけたら入門の世話をするように頼んでいた。そのことから、立浪が弟子勧誘の網を全国に張り巡らせていたことが窺える。 宇佐市で双葉山を研究している市民グループ「豊の国宇佐市塾」塾長の平田崇英が語るところによると、新弟子時代の双葉山は同期入門だった大八洲晃と午前6時から開始される朝稽古に揃って早起きし、とうとう午前4時から稽古を始めたことで「早すぎて眠れない」と立浪から苦情が来たという。こうした稽古熱心さから、当時は兄弟子が双葉山に対してかわいがりを加えることも日常茶飯事だったとされており、石を盛ったバケツを持って200回の屈伸を行った後、兄弟子のぶつかり稽古の格好の標的となるといった猛稽古を課されることも珍しくなかったという。それでも入門前に海運業に従事して精神と肉体を鍛えていたこともあって、こうした苦行を力に変えていった。下積み時代の双葉山の指導係だった高浪(のち旭川幸之焏)に言わせると「相撲っぷりは平凡だった。ただ稽古熱心で、どんなにたたきつけられても、決して弱音を吐いたことがなかった」とのことであり、「まさかあんな大横綱になるとは…」とその出世ぶりに驚いている。入幕以前は目立った力士ではなかったが、成績は4勝2敗(当時の幕下以下は1場所6番)が多く、大きく勝ち越すことがない一方で3勝3敗が何度かあって負け越しは無く、春日野や常ノ花から「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されたという。1931年5月場所には19歳3ヶ月で新十両に昇進(西5枚目)、この場所で3勝8敗と初めて負け越した。 1932年1月場所は東十両6枚目で迎えるはずだったが、場所前に春秋園事件が発生した。天竜三郎ら脱退力士の主張には共感するものもあり、その勧誘には大いに迷ったが、部屋の女将の「主張は良いのだが本当に変えたいことがあるなら内部にいてやるべき」との言葉に残留を決意、再編された2月場所の番付で西前頭4枚目と繰り上げ入幕となる。入幕後しばらくは相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らなかったが、足腰は非常に強いため、攻め込まれても簡単には土俵を割らずに土俵際で逆転することが多く「うっちゃり双葉」と皮肉られていた。「相撲が雑で工夫がない」という批判も多かったが、若い頃から双葉山を可愛がっていた玉錦三右エ門だけは「あれで良いのだ。いまに力がつけば欠点が欠点でなくなる」と評価したという。 1935年1月場所には小結に昇進するが4勝6敗1分と負け越し、5月場所も4勝7敗と負け越すなど、この頃までは苦労の連続だった。 1935年に蓄膿症の手術を受けたのを機に体重が増え、それまでの相撲ぶりが一変した。取り口そのものは正攻法で変わらなかったが、それまでは力不足で土俵際まで押し込まれることが多かったのに対し、立合いから「後の先をとる」を地で行き相手より一瞬遅れて立つように見えながら先手を取り、右四つに組み止めた後に吊り出し、寄り、または左からの上手投げで相手を下すようになった。なお、この年に「未練はございません」と言って引退を決意して仙台に行ったが、この時は後援者に諭されて戻った。 1936年1月場所は初日の新海幸蔵戦で敗れて黒星発進だったが、武藏山武から初金星を奪い、清水川元吉・男女ノ川登三の両大関も破るなど2日目から4連勝、6日目に全勝の玉錦と対戦する。この玉錦戦に敗れて4勝2敗とするが(玉錦はそのまま全勝優勝)、7日目に瓊ノ浦を下すと、この白星から69連勝がスタートする。双葉山はこの場所を5連勝で終えて9勝2敗、翌場所の関脇昇進を決めた。 新関脇で迎えた同年5月場所では、9日目に玉錦を初めて破って11戦全勝で初優勝を果たし、場所後に大関へ昇進した。これ以降、双葉山は本場所で玉錦に負けることは無かったが、直後の大日本相撲選士権大会や10月の大阪大場所では玉錦に敗れている。1937年1月場所も11戦全勝で優勝したが、この場所で玉錦は初日から6連勝しながら左上腕骨骨折のために途中休場しており、双葉山の5連覇中において唯一、玉錦戦が組まれなかった場所とされている 双葉山はその後、同年5月場所も13戦全勝で連続での全勝優勝を果たし、横綱に推挙される。玉錦、武蔵山、男女ノ川と共に1918年5月場所(鳳谷五郎・西ノ海嘉治郎・大錦卯一郎・栃木山守也)以来、史上3回目の4横綱となり、系統別総当たり制で初めての4横綱総当たりの可能性も話題を呼んだが、武蔵山が休場がちだったことや玉錦の現役死もあって、1938年5月場所で一度実現しただけで終わってしまった。 新横綱で迎えた1938年1月場所9日目の両國戦では、両國を寄り倒したかに見えたが、控えの玉錦と男女ノ川から勇み足ありと物言いが付いた。検査役は両者に経過を説明したが玉錦があくまで双葉山の負けを主張して納得しなかったという。このことから後年、双葉山の連勝は48で止まっていたかもしれないとして語り継がれることになるが、これは双葉山人気への両横綱の「僻み」からの物言いではないかという声も存在しており、両國は明らかに体勢を崩して死に体だったものの、双葉山も大きく右足を踏み越してしまっており、さほど無理のある物言いでもなかった。結果、取直しとなり双葉山が吊り出しで勝利し49連勝、この場所でも13戦全勝で優勝した。 続く5月場所も千秋楽に組まれた玉錦戦との水入りの大相撲を制して13戦全勝とし、5場所連続での全勝優勝を果たす。この記録を受けて、協会から「古今に例がない」と表彰されたが、本人は「これからまだやるんですから、そんなことをしないで下さい」と言ったという。この時点で66連勝となり、谷風梶之助の63連勝を約157年ぶりに塗り替えている。なお、谷風が活躍した江戸時代には分・預・休を挟んでいるために純然たる連勝記録ではなかったが(さらに、幕下力士を相手に五人掛けを行い、5人抜きを果たして1勝に代えられた星が二つ含まれている)、逆に双葉山が江戸時代の力士であれば、両國との物言い相撲や玉錦との水入りはそれぞれ預と分にされていた可能性もあり、いずれにしても単純比較は難しい。 なお、谷風の連勝記録はそれまで一般に認知されていたわけではなかった。双葉山が谷風の連勝記録を超える63~64連勝を達成した1938年5月場所10・11日目(5月21・22日)でも、当時の朝日新聞の記事には全く話題になっていない。ただ、酒井忠正はすでに過去の記録を調査して谷風の63連勝をそれまでの最多連勝記録と認定していたが、「この事を(双葉山に)話したなら、『その為に心を乱し固くなりはせぬか…』と、ことさら秘めて独り、心を躍らせていた」と述べており、64連勝が達成された日の夜に初めて双葉山に話して成功を祝したところ、「表情の少ない彼も流石に嬉しそうだった」という。そして酒井は場所後、雑誌『相撲』に掲載した「双葉山と古今先人の比較」で、双葉山が谷風の記録を破る「未曽有の新記録」を樹立したと発表した。 それ以来、世間の注目は「双葉山の連勝がどこまで伸びるか」と「誰が双葉山の連勝を止めるか」の2点に集まり、「双葉よ敗れるな(負けるな)!双葉を敗れ(倒せ)!」という相矛盾する流行語まで生まれた。当時、武藏山は休場続きで、男女ノ川は好不調の波が激しく、衰えたとはいえかつての第一人者である玉錦が連勝を止める本命と思われたが、その玉錦が同年12月に現役のまま急死すると、もはや双葉山の連勝を止める力士はいないとの声が多くなり、なかには100連勝するとの声も出た。 1939年1月場所、この場所の双葉山は前年の満州・大連巡業でアメーバ赤痢に感染して体調を崩し、体重が激減してしまい、当初休場を考えていた。しかし、力士会長だった玉錦が前年に急死したのと、休場続きの武藏山は今場所も休場していたために横綱が男女ノ川しかいなくなるため、責任感の強い双葉山は強行出場を決意した。双葉山は調子が悪いながらも初日から3日目まで連勝を重ね、70連勝を賭けて1月場所4日目(1月15日)を迎える。 この場所で初日から4日目までの実況中継を担当した和田信賢は、「不世出の名力士・双葉、今日(15日)まで69連勝。果たして70連勝なるか?70は古希、古来稀なり!」とのアナウンスで放送を開始した。対戦相手は西前頭3枚目の安藝ノ海節男で、安藝ノ海は双葉山の連勝記録を止める「打倒双葉」を合言葉に、自身が所属する出羽海部屋とその一門総出で、作戦本部長を笠置山勝一として連日の猛稽古と研究で戦略・戦術を練っていた。笠置山は当時としては珍しい大学(早稲田大学)出身の関取で、自身が記した「横綱双葉山論」では、双葉山の右目が前述の吹き矢によって半失明状態であることを知っていたことから、対策の結論として「双葉山の右足を狙え」とした。この右足対策を十分に身に付けたまま、安藝ノ海は本番を迎えたのである。安藝ノ海は立合いから突っ張って双葉山を寄せ付けようとしなかったが、双葉山は右手で安藝ノ海の左ひじを跳ね上げて右四つに組んだ。安藝ノ海は左に回り込んで双葉山の右に食い下がり、双葉山の右掬い投げに対して左外掛けを掛けた。両者の身体が大きく傾いたが一度堪えた後、双葉山が安藝ノ海の身体を担ぎあげるようにして外掛けを外し、再度右から掬い投げにいったので、安藝ノ海の身体は右側に傾きながら双葉山と共に倒れた。双葉山の身体が先に土俵に付いていたため、双葉山の連勝は69で止まり、安藝ノ海は大金星を挙げた。 和田は双葉山が70連勝を達成した場合と、連勝が止まった場合に備えて原稿や言葉はあらかじめ用意していたものの、双葉山の強さから今場所の実況最終日となった4日目に連勝が止まるとは予想しておらず、双葉山が倒れた時に、控えにいた山本照に対して「負けましたね!?確かに負けましたね!?」と確認してから「双葉敗れる!」と叫んだ(山本はこの時隣にいた記者と評論家と一緒に茶碗酒を飲んでいた)。その後も原稿や言葉は霧散し、ただマイクに向かって何度も「双葉敗れる!」を繰り返したと自著に記している。また、この一番を見ていた歌舞伎役者の澤村田之助(当時6歳)の証言によると、館内は座布団だけでなく、酒瓶、暖房用の火鉢や煙草盆などが投げられ、興奮の坩堝と化したと述べているほか、28代木村庄之助は、2000年に放送されたNHKの特別番組にゲスト出演した際に「付け人の仕事で直接見られなかったが、津波が押し寄せてくるような地鳴りのような轟音がした。すると、庄之助親方も伊之助親方もみんな口を利かない厳しい表情で戻ってきた。それで、『あ、双葉(山)関が負けたんだ』と思った。しかも当日は藪入りで超満員。あれは『事件』ですな」と回想しており、同時に「負けてなお、双葉山の偉大さを感じた」とも語っている。 この69連勝は2022年1月場所終了時点まで最多連勝記録であり、2022年1月場所終了時までにこの記録を超えた力士は現れていない。近年では2010年に白鵬翔が63連勝を挙げたがあと一歩及ばなかった。双葉山が三役に上がった頃、一場所の取組日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増したため、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となった。 双葉山は約3年ぶりとなる黒星を喫し、連勝を69で止められたにもかかわらず、悔しさや絶望感などを表情に見せることなく普段通り一礼し、東の花道を引き揚げて行った。同じ東方の支度部屋を使っており、この後の結びの一番のために土俵下で控えていた男女ノ川は、取組後に「あの男(双葉山)は勝っても負けても全く変わらないな」と語っているが、支度部屋では「あー、クソッ!」と叫んだと新聞記事に書かれている。 その日の夜、双葉山は師と仰ぐ安岡正篤に対して「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電した。また、当日は以前から約束していた大分県人会主催の激励会に出席しており、70連勝を阻止された当日の夜だったことで急遽敗戦を慰める会の雰囲気になったが、いつもと変わらない態度で現れた双葉山に列席者は感銘を受けたという。なお、双葉山自身は著書の中で、友人に宛てて打電したもので、友人が共通の師である安岡に取り次いだものと見える、と述べている。 一方の安藝ノ海は、土俵下でこの取組を見ていた後の27代木村庄之助によれば「勝ち名乗りを受けるための蹲踞をためらっているように見え、『心ここにあらず』という表情だった」という。この後、安藝ノ海は次の一番で取る鹿嶌洋起市に力水を付け、勝ち残りで控えに座り、結びの一番が終わってから支度部屋へ引き上げた。取組を終えた安藝ノ海は出羽海部屋に帰ろうとしたが、国技館を出た瞬間から双葉山を破った彼を見ようとした多くの群衆に取り囲まれ、部屋へ数分で帰れる時間を1時間以上も要し、部屋へ着いた安藝ノ海の着物はボロボロになった。部屋へ戻ってから師匠の出羽海に報告したが、出羽海は笑顔にならず「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と諭したという。これには、安藝ノ海の入門を世話した藤島(この時は中耳炎で入院中)の言葉だとの説もあるが、当時部屋の豆行司だった28代庄之助は、出羽海の付け人をしながらこの時の言葉を聞いたと証言しており、後者の藤島発言説を否定している。 連勝が止まった双葉山だが、これ以降はすぐ気持ちを入れ替えてまた新しい記録が始まるだろうと誰もが思っていた。しかし5日目に両國、6日目に鹿嶌洋と3連敗し、9日目には玉錦の跡を継いだ玉ノ海梅吉に敗れて4敗を喫した(最終的には9勝4敗)。その姿は小説家の吉屋信子に「まるで負けるのを楽しんでるみたい」と評され、当人は「動揺するまいと身構えたところに気付かぬ動揺があったのだろう」と語っている。続く1939年5月場所も、連勝が止まったショックから立ち直れないのではないかと危ぶまれたが、初めて15日制で行われた本場所で全勝で復活を遂げる。12日目での優勝決定は15日制での最速記録でもある。 1936年1月場所の玉錦からこの場所の双葉山までは、8枚の全勝額が並ぶことになった(そのうち6枚が双葉山、残り2枚は玉錦と出羽湊利吉の各1枚)。1940年1月場所も初日から連勝を続け、11日目に西前頭筆頭の五ツ嶋奈良男に叩き込みで敗れ30連勝を阻止されたが、この1敗だけの14勝1敗で連続優勝を果たした。なお、全勝でない優勝はこれが初めてだった。1940年5月場所では11日目までに4敗を喫した。病気明けだった70連勝ならずの場所のような体調面での不安要素もない中での4敗であり、周囲も驚いたが当人の苦悩はそれ以上に深く、「信念の歯車が狂った」と言って突如引退を表明し、世間を騒がせた。協会や周囲の必死の説得によって双葉山は引退を翻意し、途中休場扱いとされた間に、福岡県那珂川市にある妙音の滝に27日間滝行を行い、1941年1月場所で14勝1敗で8度目の優勝を果たした。この場所は、「前田山の張り手旋風」と呼ばれた場所で、1敗は13日目に前田山からの張り手攻勢からの吊り出しに敗れたものであるが、取組後に双葉山は「張り手も相撲の手のうち」と発言している。 このように求道者的態度で相撲道に励み、戦前を代表する大横綱の地位を守ったが、立浪との関係は必ずしも良好ではなかった。大派閥である出羽海一門に激しい対抗心を燃やす師匠と、力士会長としての立場との間で多くの葛藤があったとされている。例えば、関取は師匠を初めとした一門の親方の縁者や花柳界の者を妻にするのが一般的だった時代に、立浪から直接「お前に部屋を継承させたい」と自らの娘を紹介されても断って(その娘は弟弟子の羽黒山政司と結婚)、前述のアメーバ赤痢で入院した際に知り合ったファンの一般女性と結婚したことが挙げられる。また、1941年5月には立浪部屋から10人の内弟子を連れて独立、自ら双葉山相撲道場を開くなどもあった。 1941年5月場所は櫻錦利一と綾曻竹藏の平幕2人に黒星を喫し、羽黒山(14勝1敗)に優勝を譲ったが、この翌場所から1943年5月場所まで4連覇を果たす。1942年5月場所千秋楽の安藝ノ海戦から、1944年1月場所5日目まで36連勝を記録している(止めたのは東前頭9枚目の松ノ里直市)。69連勝序盤の頃はまだ双葉山も体が出来上がっておらず、うっちゃりに頼る相撲も何番かは見受けられた。しかし、この頃には右四つ寄り、上手投げの型の安定性は正に磐石であったという事から、むしろこの時代こそが双葉山の全盛期と見る向きも多い。なお、15日制での2場所連続全勝優勝はこれが初めてで、のちに白鵬が2010年7月場所で3場所連続を記録するまで最多記録だった(その後記録を4場所に伸ばした)。 横綱免許を授与された当時、後援者から「『双葉山』という四股名は若い力士の名だから昇進を契機として、“3代目・梅ヶ谷藤太郎”を襲名しないか」と話を持ちかけられたが、本人はこれを固辞して最後まで「双葉山」で通した。現在では双葉山の四股名は止め名になっている。 36連勝の止まった1944年1月場所では、その後11日目・12日目と増位山大志郎・汐ノ海運右エ門の若手2人に連敗を喫し、千秋楽には照國萬藏に横綱同士で初めての黒星をつけられ、11勝4敗に終わる。この場所は戦中最後の15日制での本場所になった。同年5月場所は軍部に国技館を接収されたために後楽園球場での開催となったが、またも照國に敗れて9勝1敗、全勝の羽黒山に優勝を譲った。日中戦争の開戦と相前後して69連勝を達成して頭角をあらわした双葉山だったが、太平洋戦争の戦局の悪化とともに優勝から遠ざかることになる。明治神宮例祭奉祝全日本力士選士権大会は1943年時点で3連覇であったが、この頃から土俵下まで落ちる相撲が目立ち、同年11月場所2日目の支度部屋では記者からも衰えを指摘されるようなコメントを受けた。また、1939年に患ったアメーバ赤痢(前述)の影響は長引き、夏場はひどい下痢を起こして体重が戻らない状態が続いた。 やはり後楽園球場での開催となった1944年11月場所6日目には、幕下の頃から目をかけてこの場所は関脇となっていた東富士欽壹に敗れたことで体力の限界を感じ、現役引退を決意した。翌日は増位山に不戦勝を与えて休場したが、相撲協会や関係者に慰留されてこの時は引退を撤回した。両國国技館で行われた1945年6月場所は、3月の東京大空襲によって穴が開いたために晴天日のみの興行(そのため7日間開催)かつ非公開(招待客の大半は傷痍軍人)となったが、初日は小雨で入場者は200人から300人であったと伝わる。この日に新鋭小結の相模川佶延を下し、その後を全休した。これは場所前から体調不良を理由に初日しか出場しない約束となっており、休場届を提出した後に2日目の割が組まれたことで不戦敗は付かず、成績は1勝6休で、結果的に相模川との取組が現役最後の取り組みとなった。この6月場所はラジオ放送無しで行われていたが、海外向け短波放送の為、即ちプロパガンダ用の音声が残されている。同年11月場所では番付に名を残したものの、現役を引退した。結果的にその引退は太平洋戦争での敗戦と重なり、東冨士との対戦が結果として最後の黒星、相模川との取組が最終出場となった。 引退の動機のひとつとして、16尺土俵の問題があったと言われている。GHQによる占領政策で各種武道が制約を受ける中、相撲協会は相撲の娯楽色を強めることで生き残りをはかり、その一環としてそれまでの15尺土俵から16尺へ広げようとしていた。双葉山はこれに反対意見を持ち、「元々は何もない野原で取っ組み合っていた相撲が、土俵という領域を与えられたことで技術を洗練させてきた。土俵の拡大はその歴史を逆行させるものである」とする言を残している。それでも相撲協会は土俵を4.84m(16尺)とすることを正式決定し、11月場所から採用されたが、双葉山はこの場所の広くなった土俵には上がらず引退。自ら引退を発表した時のニュース映画は現在も残っているが、その中で双葉山は「15尺土俵上で精進を重ねて参ったのでありまして」と、暗に土俵の拡大を批判したともとれる言葉を述べており、1943年11月場所5日目の支度部屋でも「しかしまあ、大体学童には十三尺内外、一般には十五尺でもいい、というようなところじゃないかね」と記者に話していた。1945年11月の1場所だけ採用された16尺土俵は結局、「終戦直後の食糧不足の中だというのに土俵が広すぎる」という現役力士の不評を買い、肝心の進駐軍将兵への集客効果も思ったほどではなかったため、すぐに元の15尺へ戻された。 現役中からその実績を評価され、二枚鑑札同様の形で現役力士のまま弟子の育成を許されたため、1941年に立浪部屋から独立して「双葉山相撲道場」を開いていた。独立には粂川が自分の部屋をそっくり譲った。 同時に大関に昇進した双葉山と粂川は関取になる前から兄弟のような付き合いをして互いに信頼し、粂川は双葉山から「兄貴」と呼ばれていた。 その後戦況の悪化により、福岡県太宰府町に「双葉山相撲錬成道場」を設立という名目で疎開し、一般人や青少年に無料開放して専門的な指導員を置いて相撲を学ぶ場とするとともに、当時の報道には「屯田相撲」とも書かれていたようである。将来的には双葉山ら力士達も居住して、相撲道の発展に尽くすことを目指したものであった。この錬成道場の開設は、戦時色が強まっていた当時の報国の意図も含まれていた。戦時中は太宰府を拠点に勤労奉仕隊を結成、炭鉱で働くなど難局を乗り切ろうとした。 現役引退後には年寄・時津風を襲名して道場名を時津風部屋に改称する。戦後の部屋再建においては、戦前の苦労を分かち合ってきた玉ノ海梅吉から銀行からの融資の受け方など資金のやり繰りの方法を指南してもらった。錬成場の方は1948年に福岡県へ売却されて歴史を終えた。 先代の時津風を襲名していたのは小九紋竜梅吉だったが現役時代から悪評が高く、博打好きで借金を重ねて喧嘩を繰り返したり、平気で人を騙すなど不品行が目立ったほか、脱走して満州馬賊になった挙句、数年後に時津風継承問題が起こった際に平然と戻って来て、年寄時代にも脱走を起こすなどの勤務態度の悪さでも知られていた。その前の唐錦豊治郎は、東京相撲引退後に侠客として大阪相撲に舞い戻り、取締(理事長格)にまでなったというアウトサイダー的な人物であった。周囲から「そんな悪い名跡を継承することはない。『雷』の名跡こそ双葉にふさわしい」と進言したが、本人は「(年寄名跡は)どれも同じ。悪い名跡なら私が良くします」としてそのまま時津風を襲名した。 道場を創立した理由について双葉山は後に自著において「横綱として現役であるうちに『弟子の養成をしてみたい』『自分がこの身に体得した限りのものを、それが自分の体に生きている間に、若いものに伝えておきたい』と考えるようになりました。そこで、師匠(立浪)の了解も得、協会にも特に認めてもらって双葉山相撲道場を作ったわけです」と語っている。開戦直後の1941年12月24日には、安岡正篤によって揮毫された「力士規七則」が稽古場に掲げられた。これは、吉田松陰が武士の心得を記した「士規七則」に倣って作られたものであり、「一同は毎朝これを朗読して、それからいかにも清々しい気分で稽古にとりかかったものです。それは言わずかたらずのうちに、わたくしどもの心構えにふかく影響するところがあったと信じます」と綴っている。 1943年5月場所中、双葉山は「この道場は今までの相撲部屋とは全く違う。ワシは親方として、師匠として、皆を立派な力士に育て上げたい。どんな職場でも、すべて国家のお役に立たねばならない。一人でも多く、正しい本当の力士を、皆と一緒になって生み出し、これこそ真の国技だということを、まず力士同士で示したい。そして土俵を通じて、お国に恥じないご奉仕をしたい。『双葉山部屋』と言わず、『道場』と名乗った目的もここにあるのだ」と道場の師匠としての思いを語っている。 1943年5月、双葉山相撲道場は荒汐部屋、甲山部屋、二十山部屋を糾合、時津風部屋に改称後は江戸時代以来250年の伝統を持つ名門伊勢ノ海部屋と、双葉山相撲道場に預けられた後に再興した井筒部屋が合流して時津風一門が形成された。 1946年11月6日からGHQに接収されて「メモリアルホール」と名を変えた国技館で行われた本場所は不入りだったが、千秋楽の翌日に双葉山の引退相撲が行われると、この日だけは超満員だった。GHQによるメモリアルホールの使用許可は千秋楽までだったが、相撲協会が特に懇願して一日の延長を求めたものだった。現在のように引退相撲と断髪式を同時に行った最初の例とされ、結果的に旧両国国技館の土俵で断髪式を行った唯一の力士となっている。賀陽宮恒憲王、吉田茂、小笠原長生らがハサミを入れた。現在では断髪式の時に力士は土俵上に用意した椅子に座るが、双葉山断髪式の写真を見ると土俵上で正座していることが判る。 因みに、止めバサミは師匠ではなく、双川喜文が行ったとされる。 引退相撲の一か月後、1946年12月、石川県金沢市にあった新宗教の「璽宇」に出向き、教祖の璽光尊(長岡良子)と面会した。 この年の暮れには、金沢で璽光尊を中心に、信者が該当で示威行進をして、その中に双葉山が加わっていたとの報道が出た。 1947年1月半ば、双葉山は若き日の友人である早稲田大学ラグビー部出身の朝日新聞・藤井恒雄記者に「会いたい」と電話して、両国駅前のホテルで面会すると、どっしり座った双葉山は、「ご神示を受けて東京に出陣してきた。近く天変地異が起こり、地球の人口は三分の一になる。君だけは救いたい。これが新しい世に通用する紙幣だ」とはがき大の紙片を見せた。その札には、「桜」とか「梅」と書いた簡単な紙で、藤井記者は驚いた。そこへ双葉山をひいきにしていた大麻唯男が現れて、「璽宇」を離れるよう説得したが、駄目だったという。 藤井記者は「どうか親方が、一日も早く帰ってくるよう計らって下さい。」と、大宰府の双葉山相撲道場の留守を守っていた双葉山の妻から頼まれていたこともあり、何とかして双葉山を救うため、金沢に乗り込む決意をし、双葉山に切符を工面させて金沢に戻らせ、自分も後を追った。 双葉山は現役時代に蓄膿症の手術を受けた頃から熱心な日蓮宗の信者だったが、この時はなぜか璽宇に帰依していた。その理由は「日本の敗戦による虚脱感、または部屋と相撲協会の指導者の立場で悩んでいた」「璽宇の関係者だった呉清源に誘われた」「教祖の璽光尊(長岡良子)の奸計にはまった」など諸説あるが、いずれにせよ双葉山の悩みと求道的な性格に付け込んで、言葉巧みに璽宇関係者が双葉山にマインドコントロールを行って利用したものと言われている。 1947年1月21日、「璽宇」に対して、石川県警察が食糧管理法違反の容疑で取り締まりを行った。 双葉山は金沢市で警察関係者の進入を阻止したことで、璽光尊と共に逮捕された。これを璽光尊事件という。 璽光尊から「この夜、東京は天変地異で火の海になる。」と予言されていた双葉山は、「東京は火の海になる。お前は東京に帰って皇太子さまを助けるのだ。」と叫んだが、事もなかった翌日、藤井恒雄記者によって説得されて、大粒の涙で迷いを洗い流して我を取り戻すと、璽光尊に双葉山奪回を命じられて訪ねてきた呉清源の言葉は一切無視し、璽光尊を離脱した。大捕物だったにもかかわらず璽光尊事件自体は双葉山も含めて厳罰にならなかったが、これは双葉山や呉清源を、終末思想を広め信者や物資を集めようとする「邪教」から救出する意図があったからとも言われている。当時の新聞は双葉山の得意が右四つだったのにかけて、事件を「悲劇の左四つ」の見出しで報じたという。双葉山は釈放後、自身の道場に戻る。本人は「悲しいかな、私には学問がなかった」と述懐したという。藤井と同期入社で親しかった入江徳郎は、すべてを忘れたい、何かにすがりたい人が焦土に溢れた虚脱な時代、迷える求道精神に付け込まれた双葉山は被害者だと書いている。 璽光尊事件での不祥事を起こした双葉山だったが、現役時代の実績に加え、引退後も国民的人気が高いままだったこともあって、1947年10月に異例となる相撲協会理事への就任が決まった。さらに、1950年2月から相撲協会取締を3期に渡って務める。1956年1月からの理事長代理を経て、1957年5月には出羽海理事長の自殺未遂事件を受けて、出羽海の理事長退任・相談役就任と同時に日本相撲協会理事長へ就任した。 相撲人気の回復とともに、その守旧的な体質への批判が国会で取り上げられるほど高まっていた時期に理事長を務めることになり、 相撲協会構成員(年寄、行司など)の65歳定年制の実施 部屋別総当り制の実施 相撲茶屋の再編と法人化 などの改革に尽力した。協会内では秀ノ山と、後に理事長へ就任する武蔵川を腹心として重用し、外部有識者としては若き時代からの盟友である玉ノ海の意見によく耳を傾けた。年寄・時津風としては鏡里喜代治を横綱に育て上げ、大内山平吉・北葉山英俊・豊山勝男を大関に育てるなど、自身も経験してきた猛稽古によって多くの名力士を育成した。1958年には関取が最高で12人を数え、これは出身部屋の立浪部屋や二所ノ関部屋の10人を上回り、出羽海部屋、高砂部屋の15人に続いた。青ノ里盛の話では、現役引退からかなり経過した1953年にも、自ら廻しを締めて弟子に稽古をつけていたという。弟子の豊山は停年退職後のインタビューで「現役の頃、部屋付きの親方衆が『押せ』『投げろ』と力士に対してげきを飛ばしているところに、師匠の双葉山関が姿を見せると『静かにせい』と一喝していた」と指導について証言しており「師匠から具体的に『ああせい、こうせい』と言われたことはない。親方がそこにいるのが教えだった。私の成績が悪い時には、師匠自らまわしを締めることもあった。得意の右四つ左上手に組んでくれてね。肌で伝えてやろうということだったのだろう。『もっと真剣に気合を入れろ』と」と振り返っている。武蔵川の『回顧録』によると「全く寡黙の人」だったといい、「向かい合って話を始めても、話がつまると30分でも1時間でも黙って座っている」ほどだという。半面、一度部下に任せた仕事については一切口出しをしないタイプなので、武蔵川にとっては馬が合う上司だったようである。 1960年に行われた日本相撲協会の財団法人化35周年記念式典の際、相撲協会理事長として挨拶状を読み上げることになった。しかし、当日になって挨拶状を渡す役だった秀ノ山が挨拶状を忘れてしまい、慌てて取りに戻っている間、時津風は土俵上で直立不動で待ち続け、当初は失笑が洩れていた館内はやがて静まり、挨拶状を受け取る頃には拍手の渦となった。1962年には相撲界で初めて紫綬褒章を受章した。 ′ 相撲協会理事長としての長期にわたる活躍を期待され、なかには還暦土俵入りを期待した者もいたが、晩年は肝炎によって体調を崩す日々が続き、入退院を繰り返した。1968年11月場所では優勝した大鵬(45連勝中の最中)に賜杯を授与したが、その直後の同年12月2日に、あたかも死に装束を模したかの様な白のスーツ姿で東京大学医学部附属病院へ再入院し、同年12月16日に劇症肝炎のため、死去。56歳没。蔵前国技館で日本相撲協会葬が執り行われた。墓所は荒川区善性寺。戒名は「霊山院殿法篤日定大居士」。没後、従四位勲三等旭日中綬章を追贈された。時津風の没後に開かれた座談会では男女ノ川が「理事長、思いがけなかったねえ。ぼくより10歳も若いのに…(中略)ぼく自身は55か56で逝っちゃうだろうと予想していたんだが」とコメントを残している。 没後、時津風部屋は元横綱鏡里の立田川が継承(13代時津風)したが、のちに夫人から「部屋は豊山に継がせたい」という生前の言葉が明かされた。正式の遺言状はなくその証言に疑義も呈されたが、結局鏡里が身を引く形で元豊山の錦島が14代時津風を襲名した。時津風部屋後援会「双葉山会」の笹山忠夫会長や永田雅一が、部屋の土地を買い取るために、亡き師匠の子飼いの直系弟子で31歳と若い豊山なら資金を出すが、粂川部屋から序二段で移籍した預かり弟子で、親方の平均寿命が短い時代に45歳だった鏡里なら資金を出さない意向だった背景もあった。親友の玉の海梅吉は「これからの時代は、大学を出て、先を見る能力のある男でないと協会運営はできない。ゆくゆくは豊山を時津風にしたい。」ということを生前聞いていたという。 右手と右目にハンデがあったためもあるが、左上手投げの強さは常識を超えており、上手は通常なら深く取るにもかかわらず、対戦相手を軽々と放り投げた。引退から5年経って参加した花相撲においても、若瀬川泰二を豪快な上手投げで破った。全盛期の形は右四つから左上手を取るという完成された形だった。 斉藤茂太が随筆に記しているところでは、双葉山の場合は左上手からの引きつけが凄まじく強烈なため、相手は利き手である右下手の力をその上から被さる左上手に完全に殺され、何も出来ない状態のまま強烈な上手投げを食らったという。琉球大学で物理学を専攻した経験と、トレーニング理論に関する著書を多数出版している高砂部屋の三段目力士だった一ノ矢充は、「(双葉山は)腕力を使って相手を投げるのではなく、肩甲骨で相手を押さえて投げる。自分の身体をスパナとして使うから、上手が深いほど相手は浮き上がる。物理学的に考えると納得いく」と、その特殊な技術を分析している。 横綱審議委員長を務めたことのある舟橋聖一は双葉山の追悼特集で「何と云っても彼の特色は、立上がると同時に左の上手をしっかり取って引きつけ、ほとんど同時に右を差すか、その手をブランとさせる『外四つ』の体型で、これが彼独特のテクニックであった。(中略)『よし』と見るや、左から上手投げをうちながら、今まで自由にしていた右の差し手を相手の前褌近い部分に持っていくなり、同時に右下手捻りを複合させるのである。相手はほとんど残せなかった。この投げは遠くへは飛ばず、双葉の足の下へくずれるように倒れるのが特徴である」と、その取り口を評していた。同時に「彼は必ずしも膂力に秀でてはいなかった。腕相撲をやれば、同じ部屋の羽黒山にも名寄岩にも負けた。しかし、土俵へ上がると彼の力は十倍にも二十倍にも活性を加えて作用した」とも書き残している。 双葉山は立合いに相手を良く見るが、攻撃はほとんど相手に先行する。武道のやり方としては「後の先」と言われる作法で、現役時代に「うっちゃり双葉」と呼ばれていた頃も右四つからの上手投げなどの正攻法の相撲を仕掛けていたが、当時は通用せずに結果的にそのようになってしまった。稽古場での強さも群を抜いており、大関以下を相次いで相手にして相当の番数をこなしても、息が上がることがほとんど無かったという。 どんな相手に対しても同じような態度で臨んだ。力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、一回の仕切りでさえ受けて立った(一回の仕切りで立った取組でも勝利している)。後述のように双葉山が土俵上での短い仕切り時間に無駄な動作を嫌って極限まで集中力を高めたためだが、こうした土俵態度も今日まで力士の模範とされている。相撲態度に関しては文句が無かった一方で、横綱土俵入りに関しては男女ノ川と同様に腕を廻して柏手を行ったため、酷評されたことがある。後年にはそういうことは無くなったが、当初は土俵入りの際の力みも目立った。 幕内成績は、31場所で276勝68敗1分33休(勝率.820)。春秋園事件での繰上げ入幕のため、通算勝率では他の横綱に一歩譲るが、横綱昇進後は17場所・180勝24敗22休で(勝率.882)と跳ね上がる。他に優勝12回(年2場所制での最多、そのうち全勝8回)、5場所連続全勝(年2場所制で最多)、関脇1場所、大関2場所は全て全勝で通過(明治以降唯一)、69連勝(相撲の記録が残る1757年以降で最長記録)など、不滅の足跡を残しており、「大横綱」と称される事も少なくない。 実力・実績は申し分ない反面、強力なライバルが不在だった面も指摘される。玉錦が全盛期を過ぎており、復活の無いまま最終的には1938年に現役死したこと、戦時中から戦後直後にかけての大相撲を支えた羽黒山とは同部屋のため対戦が無かったこと、さらに、入幕後は一度も双葉山に負けたことが無かった沖ツ海、現役時代に双葉山から金星を2個獲得した豊嶌といった大関獲りを期待された「双葉キラー」の両者がそれぞれフグ中毒、東京大空襲で現役死するなど、強敵と戦う機会をかなり避けることが出来たのも事実である。戦時中の正横綱だった照國が唯一ライバルと言える場合もあるが、台頭が双葉山の現役後半で、双葉山と年齢的に近い(3歳差)武藏山も右肘の故障で低迷、さらに安藝ノ海・鹿嶌洋がその孤高を慰める健闘を見せた以外、この点ではまったく恵まれなかった。 昭和以降に大関以上まで昇進した者で、大関時代の成績が全勝(無敗)なのは双葉山のみである。また、昭和以降に横綱に昇進した者の中で大関を最短所要場所数で通過したのも双葉山である(所要2場所)。 年2場所制であった戦前の大相撲では、大阪や名古屋で「準場所」と呼ばれる場所を開催していた。準場所での成績を含めた場合、1937年6月の大阪関目国技館場所5日目から、1938年6月に西宮球場で行われた準場所3日目に九州山義雄に敗れるまで、87連勝を記録している。当然ながら公式記録では無いものの、双葉山の強さを物語る記録である。 「大相撲この一番〜“通”が選ぶ思い出の名勝負集」によれば、双葉山の70連勝が阻止された際、国技館には座布団だけではなく火鉢まで宙を舞ったと伝えられている。この作の中で宮脇俊三(取組を父親の宮脇長吉と見ていた)は、宙を舞った火鉢のことを「火の粉をまき散らしながら飛ぶ」という表現で事を書き記し、舞った火鉢を「焼夷弾」とまで表現している。また、歌舞伎俳優で後に横綱審議委員となった六代目澤村田之助も六代目尾上菊五郎に連れられて初めて相撲観戦に行って双葉山の敗戦を目撃している。 横綱昇進後に喫した24敗(うち不戦敗が2つ)は、安藝ノ海に69連勝を止められた一番を含めて、大半が右側から攻められたものである。 右目の状態は、入門から入幕の頃にかけては霞んだり物が二重に見えていたが、やがてほとんど見えなくなったといい、疲れたりするとこの右目の影響で、左目までものが二重に映ったりすることもあったという。それでも、本人はなまじ見えるよりその方が都合が良かったと語っている。対戦力士側にも、「あの人(双葉山)は目の前の相手と違うものを見て相撲を取っている」といった証言が多く残る。実際、双葉山の右目はやや白濁しており、さらに白い星があった。そのことから相手は神眼だといって恐れたという。 右目が失明状態だったことは公表されておらず、 1941年のある日に身延山久遠寺に詣で、望月日顕法主の車椅子を押していて、「横綱、右目が悪いのだね」と言われた(日顕は、車椅子を押す力が右に偏ることから気付いたという)のが、他人から右目のことを指摘された最初だったという。また、櫻錦戦で敗れた時に「飛び違い」という決まり手だったことから、「もしかして双葉山は目が悪いのではないか」という噂が広がったという。なお、小坂秀二の著書に引かれた笠置山の談話によると「私たちはみんな知っていました。ですから作戦を立てる場合、その目のことは計算に入れていました」という。 土俵入りでは右目が悪い事から右半身が沈み込むように傾く癖があった。当時右目については公然の秘密として周知されていた可能性があったためか、この癖については特段の批判はなかったが、北の湖がこの癖を真似た際は「双葉山の真似をしているかもしれないが、双葉山は右目が悪いからああなったのであって、正式な土俵入りの型ではない」と注文が付くなどした。 妻の穐吉澄子(2005年死去)は極端なマスコミ嫌いだったため、双葉山についてのインタビューを拒み続けた。そのため、双葉山の特集を組んだ番組や著書において、澄子の証言は双葉山死去直後に相撲雑誌に書いた手記を除くほか確認できるものは無い。 双葉山と澄子の間には長男・経治(1944年生)と長女・博子(1948年生)がいたが、博子は高校時代に病死、経治は双葉山が1965年に福岡県に建てた日蓮宗の妙音教会という寺の住職になったが、1988年に44歳の若さで死去した。 孫娘には元宝塚歌劇団宙組娘役の双葉美樹と舞台女優の穐吉次代がいる。 花柳界においても人気は高く、新橋・柳橋の芸者は“双葉関の貞操を守ろう”と「さわらぬ連盟」なるものを作り、互いに牽制し合っていたといわれる。横綱昇進時はまだ独身だったことや、その童顔もあって「童貞横綱」とも呼ばれたが、栃錦清隆が新弟子の頃に春日野の用事で料亭に双葉山を訪ねたところ、「この世にこんな綺麗な人がいるのかと思った」ほどの美女を侍らせていたと証言している。 双葉山の人気を物語るものとして、現在は禁止されている支度部屋への一般人の出入りによって差し入れが届けられたことがある。1943年11月場所のある日、相撲観戦に訪れていた老婆がふぐちりらしき物を差し入れた。数日後には魚屋からスッポンが差し入れられるなど、戦時中ではあったものの、国民的人気のある横綱の食生活は豪華なものだったという。
1943年11月場所7日目の支度部屋では、部屋制度について「例えば同系統のものはひとつにして、大きな部屋別というようなものにして、東西対抗にもう少し精彩を与えるというような方法は…」と記者から意見された。これに対して「自分の弟子だからこそ熱心に面倒も見るし指導も思い切ってできる。これが単に協会の若い者、というようなことになれば、こうした師弟関係というものはどうしても熱を失いやしないかと思う」と部屋制度の維持が妥当と訴えた。記事には、双葉山が自身で創設した相撲部屋を「道場」と呼称した理由について「勧進相撲以降、相撲が専門力士の間に飲み残されてきた傾向にあったので、やむを得なかったとはいえ、このように相撲は日本民族とは切っても切れる関係にありながら、『近代に至って国民とのつながりは果たしてどうであったか』とかえりみるとき、専門力士の間に保存されているのみであって、広く国民の相撲としての存在からははるかに遠いものとなっていたことは否み得ない事実であった」としており、太平洋戦争の影響下で軍事意識高揚のために相撲が草の根にまで浸透したことに関しては「相撲がようやく、日本民族のものとしても本来の姿を取り戻したとものとして、私は喜びを禁じ得ないものである」と喜んでいた。ただし、これは太平洋戦争の最中の談話として双葉山自身が相応しい内容を選んだ結果のものであると留意されたい。 少なくとも太平洋戦争の終盤の時期は支度部屋では煙草を吸わない(当時相撲の支度部屋は喫煙可)人物であり、1943年11月場所2日目の支度部屋でのそうした様子を報道する記事もあった。 1958年に若乃花幹士 (初代)が横綱へ昇進した際、当時は弱小一門だった二所ノ関一門としては玉錦以来の新横綱誕生、かつ二所ノ関一門関係者の中で玉錦の現役時代を詳しく知っている者がいなかったため、双葉山自らが横綱土俵入りの指導を行った。また、明治神宮での横綱推挙式と奉納土俵入りに関しても、玉錦が生前使用していた化粧回しが戦災で焼失して現存していなかったために用意できなかった。そこで、自ら現役時代に使用して戦火を免れた三つ揃いの化粧回しを、若乃花が所属していた花籠部屋へ貸し出して間に合わせたという。 2018年9月1日、直弟子の14代時津風の内田勝男が、双葉山が親方時代に愛用していた真鍮製火鉢を寄贈し、双葉山の史料を展示する観光交流施設「双葉の里」で御披露目式が開かれた。 明治時代生まれ最後の横綱である(1912年(明治45年)2月生まれ。約5か月後、明治天皇崩御により大正に改元)。 「二葉山」を名乗った時期があるように書かれることもあるが、これは下位力士だった時代に誤記されたものである。なお双葉山生家付近に「二葉山神社(ふたばやまじんじゃ)」という神社があり、四股名「双葉山」の由来ともされているが、これは地元に江戸時代以前から存在していた神社である。 現在の大相撲で力士は力水を最初に一度しかつけないが、これは双葉山から始まっている。双葉山以前の時代は仕切り直しのたびに力水を付ける者も多かったが、新弟子の頃に「武士にとっての水盃だ」と兄弟子から教えられ、死を覚悟しての水盃なら一度付ければ十分だと考えたという話が広く流布しているが、双葉山自身は「ただ土俵上であまり無駄なことはするまいと思っただけ」と否定している。文献によっては「目を疲れさせてはいけないから」という意図があったともされている。 故郷の宇佐市の名産で、体長約5mmほどの「アミ」と呼ばれる小さなエビを醤油と砂糖で煮詰め、混ぜご飯にした「あみめし」で作ったおむすびが好物で、普段は気前の良かった双葉山も「あみめし」のことになると部屋の衆に分けることをためらうとうすけ(相撲界でいう「ケチ」のこと)ぶりを発揮した。 板垣退助先生顕彰会創立発起人兼顧問であった。 通算成績:348勝116敗33休1分 勝率.750 幕内成績:276勝68敗33休1分 勝率.802 横綱成績:180勝24敗22休 勝率.882 現役在位:51場所 幕内在位:31場所 横綱在位:17場所 大関在位:2場所 三役在位:2場所(関脇1場所、小結1場所) 双葉山の最多連勝記録は、史上最長の69連勝である(1936年1月場所7日目‐1939年1月場所3日目)。下記に、双葉山のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。 上記の通り、20連勝以上4回、30連勝以上2回記録している。 幕内最高優勝:12回(1936年5月場所、1937年1月場所、同年5月場所、1938年1月場所、同年5月場所、1939年5月場所、1940年1月場所、1941年1月場所、1942年1月場所、同年5月場所、1943年1月場所、同年5月場所)
連覇:5連覇(1936年5月場所‐1938年5月場所、全て全勝優勝)※当時年2場所制 1932年1月番付(春秋園事件で興行中止)では十両東6枚目。 ※他に武藏山と引分が1つある。 『相撲求道録』 黎明書房(1956年) 『横綱の品格』 ベースボール・マガジン社新書006 ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-10075-3 『新版 横綱の品格』 ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-11145-2 工藤美代子『一人さみしき双葉山』ちくま文庫、1991年3月。ISBN 978-4-480-02516-6。 双葉山生誕100年記念事業実行委員会・大分県宇佐市編、シナリオ山口かつみ、マンガ屋代尚宣『宇佐学マンガシリーズ①相撲の神様 双葉山』梓書房、2011年11月。 『双葉山』(唄:細川たかし 作詞:高橋直人 作曲:あらい玉英) - 1998年8月22日 ^ 「双」は「雙」の略字だが、番付では初土俵のときの誤記とおぼしき「二葉山」以外は全て「双葉山」と表記されていた。 ^ 1933年5月場所などは4勝のうち3勝がうっちゃりによるものだった。 ^ この場所中に祖母が死去したこともあり、悲しみを乗り越えるために猛稽古に取り組んだ成果とも取れる。 ^ ただし、玉錦は前々場所(1935年5月場所)4日目から双葉山に敗れるまで27連勝(うち不戦勝1回)、その連勝の1勝目が双葉山だった。玉錦の最後の優勝と双葉山の初優勝を跨いで二度以上優勝した力士はおらず、1938年12月に玉錦が急死したこともあるが、明確な覇者交代の一番として現在まで語り継がれている。 ^ 先場所に双葉山が初めて玉錦を破ったものの地力では玉錦の方が上で、玉錦から見ればこの場所が双葉山に土を付ける最後のチャンスだったのではないかという見方もある。 ^ 昭和以降に大関へ昇進した力士で大関在位期間が全勝だったのは双葉山のみである。なお、大正時代には栃木山守也が2場所20戦を19勝1預で横綱に昇進している。 ^ なお、江戸時代の記録は「どの場所を本場所とするか」「分・預・無勝負・休をどのように扱うか」によって大きく変わるが、酒井は「江戸場所のみが本場所、京阪場所は除外」「分・預・無勝負・休があっても連勝は継続」と解釈した上で、過去の最多連勝記録を谷風の63連勝と認定したのである。 ^ これが遠目には安藝ノ海が右外掛けを掛けたかのように見えたため、翌日の各新聞は「安藝ノ海の右外掛け」と誤って報じた。ニュース映画を見て誤報であることは明確になったが、当時ベテラン記者だった彦山光三は「レンズと言えども正確とは言えんよ」と言って自説を譲らなかったという。 ^ 12日目に2敗力士がいなくなり、番付上位者優勝制度のために東正横綱の双葉山の優勝が確定したものである。優勝決定戦がある現行制度に照らせば13日目での優勝決定だったことになる。 ^ 現在でも年寄名跡継承などの点から親方の娘との結婚が見られる。 ^ 白鵬が連続全勝優勝の記録を更新するまで大鵬幸喜(3回)、千代の富士貢・貴乃花光司・朝青龍明徳も2場所連続全勝優勝を記録した。 ^ 屋外での開催となるため、翌年1月場所を前倒しで開催したものである。 ^ 正確には幕下までは13尺土俵で取っている。 ^ ちなみに時津風部屋は、現在でも「双葉山相撲道場」の看板を正式な部屋名と共に掲げている。北葉山英俊が入門する際、「時津風部屋はどこですか?」と聞いても誰も知らず、「(双葉山)『道場』ならそこだよ」と教えられたという。 ^ のちに天龍源一郎も土俵上ではなかったが日大講堂となった旧国技館で断髪式を行っている。 ^ 璽光尊こと長岡良子も逮捕後の精神鑑定の結果、「誇大妄想性痴呆症」と診断されて食糧管理法違反も違法なしと判断、不起訴となった。 ^ 取り直し制度導入以降の最高勝率。ただし、白鵬は2007年7月場所から2020年3月場所現在までの横綱在位76場所で872勝125敗143休(勝率.875)で、双葉山の勝率に現在のところ迫っている。 ^ 全勝8回は当時の最多記録。年6場所制となってからは大鵬と並んで歴代2位タイ、2020年3月場所現在の最多は白鵬の15回。 ^ 1999年に読売新聞が『20世紀スポーツ列伝-世界に挑んだ日本人』を連載し、双葉山を取り上げたが、取材した記者は「近親者の話が聞けなかった」ことを心残りとしている。この時点で澄子が双葉山の唯一の近親者だったが、取材申し入れに対し、澄子は「話したくない」と断った(『20世紀スポーツ列伝-世界に挑んだ日本人』、40頁)。 ^ 博子が生まれる前の1942年に女児(名前不明)が生まれたが、間もなく亡くなった(『宇佐学マンガシリーズ①相撲の神様 双葉山』、156頁)。また、子供は「二男一女」とする資料もあり、経治は二男で、長男(生年、名前ともに不明)は「幼くして亡くなり」と書かれてあり(『20世紀スポーツ列伝-世界に挑んだ日本人』、40頁)、経治と博子は戸籍上はそれぞれ二男と二女になる。 ^ 1936年5月場所〜1937年1月場所は11戦全勝、1937年5月場所〜1938年5月場所は13戦全勝。 ^ 1939年1月場所は13日制。 ^ 蓄膿症により全休 ^ 脇腹疼痛により12日目から途中休場 ^ アメーバ赤痢により7日目から途中休場 ^ 面疔により2日目から途中休場 ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p22 ^ 『相撲』2012年8月号83頁の記事では、当時を知る写真館の店主である工藤明が「双葉山関も写真が大好きで、ウチへはそれこそありとあらゆる写真を撮りに来て下さった。」と証言している。 ^ 「双葉山 定次」『20世紀日本人名事典』。https://kotobank.jp/word/%E5%8F%8C%E8%91%89%E5%B1%B1%20%E5%AE%9A%E6%AC%A1。コトバンクより2023年1月16日閲覧。 ^ 「双葉山定次」『日本大百科全書(ニッポニカ)』。https://kotobank.jp/word/%E5%8F%8C%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%AE%9A%E6%AC%A1。コトバンクより2023年1月16日閲覧。 ^ 【大相撲豪傑列伝】(11)69連勝のかげに身体障害あり 双葉山定次 産経新聞 2008.12.6 16:29 ^ 『相撲』21ページ ^ 石井代蔵『巨人の素顔〜双葉山と力道山〜』(講談社) ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p18-19 ^ 『私の履歴書 最強の横綱』 ^ 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)15ページから17ページ ^ 『双葉山の世界』豊の国宇佐市塾 ^ 『相撲』34ページ ^ 『相撲』25ページ ^ 『相撲』35ページ ^ 『相撲』22ページ ^ 朝日新聞縮刷版. 朝日新聞社 ^ 酒井忠正『相撲随筆』. ベースボール・マガジン社. (1995年5月) ^ 酒井忠正 双葉山と古今先人の比較 相撲 4(1) 1939年1月 日本大相撲協会 ^ 『大相撲中継』2017年5月27日号16-17頁 ^ Vol.61 双葉山70連勝ならず 隻眼の大横綱、初顔に屈す 昭和14年1月15日 (1/2)‐昭和史再訪セレクション‐地球発‐[どらく 2010年11月6日朝日新聞夕刊紙面 1頁。]2023年8月1日閲覧。 ^ 『相撲』28ページ ^ Vol.61 双葉山70連勝ならず 隻眼の大横綱、初顔に屈す 昭和14年1月15日 (2/2)‐昭和史再訪セレクション‐地球発‐[どらく 2010年11月6日朝日新聞夕刊紙面 2頁。]2023年7月2日閲覧。 ^ 27代木村庄之助『ハッケヨイ 残った』1994年 東京新聞 48ページ。 ^ 『相撲』36ページ ^ 歴史ポケットスポーツ新聞 相撲 p.41 双葉結婚!巻き返し誓う 大空出版 ^ 双葉関の想い出(インタビュー) 工藤誠一さんに聞く ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p51 ^ 突然引退表明、年寄時津風部屋を州名 昭和20年11月26日 毎日新聞(東京)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p715 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 【私の“奇跡の一枚” 連載100】相撲界劇的復活の原点! 歴史的“非公開”場所の風景 BBM Sports 2021-02-02 (2021年2月5日閲覧) ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p53 ^ 佐藤垢石著『耳舌談:随筆』76頁「力士と人間」,桜井書店,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション ^ 沓掛享治郎 著『決戦驀ら』,駸々堂,昭和18. 国立国会図書館デジタルコレクション ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p10-11 ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p9 ^ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』. ベースボール・マガジン社. (2018年1月22日) ^ 入江徳郎 著『戦後昭和史うらおもて』,p20-27,ミリオン書房,1986.3 ^ 入江徳郎 著『戦後昭和史うらおもて』,p20-27,ミリオン書房,1986.3 ^ 風化させるな 大相撲事件史(15/15ページ) JIJI.COM 2022年07月12日18時00分 (2022年8月10日閲覧) ^ 入江徳郎 著『戦後昭和史うらおもて』,p20-27,ミリオン書房,1986.3 ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p12 ^ 「自分本位では成り立たぬ」 元時津風理事長の内田勝男氏(78)(2/4ページ) 産経ニュース 2016.1.2 22:19 ^ 「自分本位では成り立たぬ」 元時津風理事長の内田勝男氏(78) (3/4ページ) 2016.1.2 22:19 ^ 「国技」大相撲が戦前から批判されてきた大きな矛盾 大相撲へ愛をこめて叱咤激励(4/5ページ) JBpress 2020.1.24(金)(2020年10月12日閲覧) ^ 「八幡宮・石碑めぐり」『社報 富ケ岡』第31号、富岡八幡宮、2003年4月20日、2022年4月3日閲覧。 ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p36-39 ^ スポーツ・グラフィックナンバー『熱血!名力士列伝 怪力・異能・土俵の鬼』〈文春文庫〉(原著1993-2-10)。ISBN 4-16-810821-X。 ^ 『相撲』33ページ ^ 『プレジデント = President』1983年2月号,角界ニューリーダーが修業した「親方道」とは / 石井代蔵/p139,プレジデント社,1983-02 ^ 石井代蔵 著『土俵の修羅』p288「双葉山の審判‐時津風部屋騒動」,新潮社,1985.11 ^ 『股関節を動かして一生元気な体をつくる』刊行記念鼎談 内田樹(合気道)×元・一ノ矢(相撲)×安田登(能楽)――伝統文化の身体を語る 実業之日本社 2013.07.18 ^ 『相撲』19ページ ^ 佐藤堅司 著『神武の精神』横綱双葉山の場合,弘学社,昭和19.国立国会図書館デジタルコレクション ^ [宮崎敏明 著『細目式児童・青年相撲指導の新体系』力士の典型 双葉山定次,明治図書,昭14. 国立国会図書館デジタルコレクション] ^ 小坂秀二『わが回想の双葉山定次』(1991年9月 読売新聞社)304頁。なお、当時少年だった小坂も双葉山の右目の白い星や、彼の動き方などから右目が悪いことに気づいていたというので、実際は公然の秘密として広く知られていた可能性がある。 ^ 『相撲』62ページから64ページ、「きちょう面で信念に徹した人」。 ^ 工藤美代子は双葉山に関する取材を澄子に試みようと何回か手紙を出したが返事が無く、止む無く断念したという経緯を明かしている(工藤(1991)、183頁)。 ^ 『相撲』2018年1月号126ページ ^ 池田雅雄の証言では、結婚するまで童貞だったという意味ではなく、一度も八百長をしなかったからそう呼ばれたのだという(工藤(1991)、166頁)。 ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p52 ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p54 ^ 【若乃花の目】ファンに最も厳しく見られる「1年最後」の九州場所 注目は貴景勝の綱とり 日刊スポーツ 2023年11月12日5時0分 (2023年11月12日閲覧) ^ 『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p19-21 ^ 双葉山愛用の火鉢寄贈 弟子の内田元相撲協会理事長 宇佐の施設でお披露目式 [大分県] 西日本新聞 2018年09月02日 06時00分(西日本新聞社、2018年9月3日閲覧) ^ 佐藤祥子『相撲部屋ちゃんこ百景 とっておきの話15』 pp.128-129 河出文庫 2016年 ISBN 978-4309414515 ^ “『板垣精神 -明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念-』”. 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2020年9月1日閲覧。 ^ 1分 ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ①(別冊夏季号)(2016年) ベースボールマガジン社刊『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』(2017年) ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』(2018年) 横綱一覧 連勝記録 (大相撲) 古今十傑 時津風部屋 玉錦三右エ門 羽黒山政司 スポーツ無敗記録一覧 大邱山高祥 - 双葉山と仲の良かった力士で、二人で「大鉄傘下の花形力士二人」と称された。 垣添徹 - テレビドラマで少年時代の双葉山を演じた経験のある力士 昭和の大横綱『双葉山』〜生誕100年記念〜オフィシャルサイト 双葉の里(双葉山生家) 第一部 四代目立浪弥右衛門時代 - 立浪部屋の歴史 孫娘の穐吉美羽(舞台女優) 双葉山定次 - NHK人物録 第35代横綱 双葉山 定次 (ふたばやま さだじ)|相撲レファレンス 大相撲 双葉山 対 安藝ノ海 - NHK放送史 ここに鐘は鳴る 時津風定次 - NHK放送史 表 話 編 歴 廣瀬正徳 1928 - 1938 出羽海秀光 1944 - 1957 時津風定次 1957 - 1968 武蔵川喜偉 1968 - 1974 春日野清隆 1974 - 1988 二子山勝治 1988 - 1992 境川尚 1992 - 1998 時津風勝男 1998 - 2002 北の湖敏満 2002 - 2008 武蔵川晃偉 2008 - 2010 村山弘義(代行) 2010 放駒輝門 2010 - 2012 北の湖敏満 2012 - 2015 八角信芳 2015 - 現在 表 話 編 歴 高見山酉之助 常陸山谷右エ門 太刀山峯右エ門 鳳谷五郎 両國勇治郎 西ノ海嘉治郎 (2代) 大錦卯一郎 栃木山守也 常ノ花寛市 鶴ヶ濱増太郎 西ノ海嘉治郎 (3代) 大蛇山酉之助 宮城山福松 常陸岩英太郎 能代潟錦作 玉錦三右エ門 豊國福馬 山錦善治郎 武藏山武 綾櫻由太郎 清水川元吉 沖ツ海福雄 男女ノ川登三 双葉山定次 出羽湊利吉 安藝ノ海節男 羽黒山政司 佐賀ノ花勝巳 前田山英五郎 備州山大八郎 東富士欽壹 増位山大志郎 千代の山雅信 照國萬藏 栃錦清隆 鏡里喜代治 時津山仁一 吉葉山潤之輔 三根山隆司 朝潮太郎 (3代) 若乃花幹士 (初代) 安念山治 玉乃海太三郎 若羽黒朋明 若三杉彰晃 大鵬幸喜 柏戸剛 佐田の山晋松 栃ノ海晃嘉 北葉山英俊 富士錦猛光 北の富士勝昭 若浪順 玉の海正洋 琴櫻傑將 清國勝雄 栃東知頼 長谷川勝敏 輪島大士 高見山大五郎 北の湖敏満 魁傑將晃 貴ノ花健士 金剛正裕 三重ノ海剛司 若乃花幹士 (2代) 千代の富士貢 琴風豪規 隆の里俊英 北天佑勝彦 若嶋津六夫 多賀竜昇司 朝潮太郎 (4代) 北勝海信芳 大乃国康 旭富士正也 小錦八十吉 霧島一博 琴富士孝也 琴錦功宗 貴乃花光司 曙太郎 水戸泉政人 若乃花勝 武蔵丸光洋 貴ノ浪貞博 千代大海龍二 出島武春 武双山正士 貴闘力忠茂 魁皇博之 琴光喜啓司 栃東大裕 朝青龍明徳 白鵬翔 琴欧洲勝紀 日馬富士公平 把瑠都凱斗 旭天鵬勝 鶴竜力三郎 照ノ富士春雄 琴奨菊和弘 豪栄道豪太郎 稀勢の里寛 栃ノ心剛史 御嶽海久司 貴景勝貴信 玉鷲一朗 朝乃山英樹 德勝龍誠 正代直也 大栄翔勇人 若隆景渥 逸ノ城駿 阿炎政虎 霧島鐵力 豊昇龍智勝 尊富士弥輝也 大の里泰輝 一覧 年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。 表 話 編 歴 初代明石志賀之助 2代綾川五郎次 3代丸山権太左衛門 4代谷風梶之助 5代小野川喜三郎 6代阿武松緑之助 7代稲妻雷五郎 8代不知火諾右衛門 9代秀ノ山雷五郎 10代雲龍久吉 11代不知火光右衛門 12代陣幕久五郎 13代鬼面山谷五郎 14代境川浪右衛門 15代梅ヶ谷藤太郎(初代) 16代西ノ海嘉治郎(初代) 17代小錦八十吉 18代大砲万右エ門 19代常陸山谷右エ門 20代梅ヶ谷藤太郎(2代) 21代若嶌權四郎 22代太刀山峯右エ門 23代大木戸森右エ門 24代鳳谷五郎 25代西ノ海嘉治郎(2代) 26代大錦卯一郎 27代栃木山守也 28代大錦大五郎 29代宮城山福松 30代西ノ海嘉治郎(3代) 31代常ノ花寛市 32代玉錦三右エ門 33代武藏山武 34代男女ノ川登三 35代双葉山定次 36代羽黒山政司 37代安藝ノ海節男 38代照國萬藏 39代前田山英五郎 40代東富士欽壹 41代千代の山雅信 42代鏡里喜代治 43代吉葉山潤之輔 44代栃錦清隆 45代若乃花幹士(初代) 46代朝潮太郎 47代柏戸剛 48代大鵬幸喜 49代栃ノ海晃嘉 50代佐田の山晋松 51代玉の海正洋 52代北の富士勝昭 53代琴櫻傑將 54代輪島大士 55代北の湖敏満 56代若乃花幹士(2代) 57代三重ノ海剛司 58代千代の富士貢 59代隆の里俊英 60代双羽黒光司 61代北勝海信芳 62代大乃国康 63代旭富士正也 64代曙太郎 65代貴乃花光司 66代若乃花勝 67代武蔵丸光洋 68代朝青龍明徳 69代白鵬翔 70代日馬富士公平 71代鶴竜力三郎 72代稀勢の里寛 73代照ノ富士春雄 雷電爲右エ門 表 話 編 歴 161代 能代潟錦作 162代 常陸岩英太郎 163代 豊國福馬 164代 玉錦三右エ門 165代 武藏山武 166代 清水川元吉 167代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎 170代 前田山英五郎 171代 羽黒山政司 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男 174代 照國万蔵 175代 名寄岩静男 176代 佐賀ノ花勝巳 177代 東冨士謹一 178代 汐ノ海運右衛門 179代 増位山大志郎 180代 千代ノ山雅信 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治 183代栃錦清隆 184代 三根山隆司 185代 大内山平吉 186代 松登晟郎 187代 若乃花勝治 188代 朝汐太郎 189代 琴ヶ濱貞雄 190代 若羽黒朋明 191代 柏戸剛 192代 大鵬幸喜 193代 北葉山英俊 194代 佐田の山晋松 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之 197代 豊山勝男 198代 北の富士勝昭 199代 玉乃島正夫 200代 琴櫻傑將 201代 清國勝雄 202代 前の山太郎 203代 大麒麟將能 204代 輪島大士 205代 貴ノ花利彰 206代 大受久晃 207代 北の湖敏満 208代 魁傑將晃 209代 三重ノ海剛司 210代 旭國斗雄 211代 若三杉壽人 212代 増位山太志郎 213代 千代の富士貢 214代 琴風豪規 215代 隆の里俊英 216代 若嶋津六夫 217代 朝潮太郎 218代 北天佑勝彦 219代 大乃国康 220代 北尾光司 221代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 223代 旭富士正也 224代 霧島一博 225代 曙太郎 226代 貴ノ花光司 227代 若ノ花勝 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋 230代 千代大海龍二 231代 出島武春 232代 武双山正士 233代 雅山哲士 234代 魁皇博之 235代 栃東大裕 236代 朝青龍明徳 237代 琴欧洲勝紀 238代 白鵬翔 239代 琴光喜啓司 240代 日馬富士公平 241代 把瑠都凱斗 242代 琴奨菊和弘 243代 稀勢の里寛 244代 鶴竜力三郎 245代 豪栄道豪太郎 246代 照ノ富士春雄 247代 髙安晃 248代 栃ノ心剛史 249代 貴景勝貴信 250代 朝乃山英樹 251代 正代直也 252代 御嶽海久司 253代 霧島鐵力 254代 豊昇龍智勝 255代 琴櫻将傑 256代 大の里泰輝 FAST ISNI VIAF
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CiNii Books CiNii Research 双葉山定次 横綱 日本相撲協会理事長 大分県出身の大相撲力士 立浪部屋 時津風部屋 紫綬褒章受章者 勲三等旭日中綬章受章者 従四位受位者 障害を持つスポーツ選手 視覚障害を持つ人物 劇症肝炎に罹患した人物 私の履歴書の登場人物 大分県出身の人物 1912年生 1968年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ ウィキデータと異なるNHK人物録ID FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事
2024/11/20 14:22更新
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futabayama sadaji
双葉山定次と同じ誕生日2月9日生まれ、同じ大分出身の人
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