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安藝ノ海節男の情報 (あきのうみせつお)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

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安藝ノ海 節男さんについて調べます

■名前・氏名
安藝ノ海 節男
(読み:あきのうみ せつお)
■職業
相撲
■安藝ノ海節男の誕生日・生年月日
1914年5月30日 (年齢1979年没)
寅年(とら年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
広島出身

安藝ノ海節男と同じ1914年生まれの有名人・芸能人

安藝ノ海節男と同じ5月30日生まれの有名人・芸能人

安藝ノ海節男と同じ出身地広島県生まれの有名人・芸能人


安藝ノ海節男と関係のある人

栃錦清隆: 1946年11月場所は東十両筆頭で迎えたが、相手力士の負傷による痛み分けとして6勝6敗1分と勝ち越せず、幕内昇進は厳しいと思われたが、安藝ノ海節男ら4力士が引退したことで、1947年6月場所で新入幕を果たす。


三根山隆司: 羽黒山政司:3勝6敗、安藝ノ海節男:1勝2敗、照國萬藏:8勝9敗、前田山英五郎:3勝5敗、東富士欽壹:8勝15敗、千代の山雅信:9勝16敗、鏡里喜代治:8勝18敗と、いずれも負け越していながら金星は9個奪っている。


栃錦清隆: 初土俵を踏んだ1939年1月場所4日目、双葉山定次が安藝ノ海節男に敗れて連勝が69で止まった「世紀の一番」を、結びの一番を取る兄弟子の鹿嶌洋起市の世話のために花道の奥で目撃した。


前田山英五郎: 昇進後しばらくは大関として可も不可もなしという成績が続き、下から急成長して来た羽黒山政司・安藝ノ海節男・照國萬藏らに横綱を先取りされ、彼らの後塵を拝することが多くなった。


双葉山定次: 対戦相手は西前頭3枚目の安藝ノ海節男で、安藝ノ海は双葉山の連勝記録を止める「打倒双葉」を合言葉に、自身が所属する出羽海部屋とその一門総出で、作戦本部長を笠置山勝一として連日の猛稽古と研究で戦略・戦術を練っていた。


照国万蔵: 結局、この場所の優勝は正大関である安藝ノ海節男(1敗)と双葉山(2敗)の対戦で決まることになり、双葉山が勝利して両者とも13勝2敗、番付上位優勝制度によって双葉山が優勝した。


三根山隆司: 1944年1月場所に新入幕を果たすとこの場所を11勝4敗の好成績を挙げ、同年5月場所は照國萬藏・安藝ノ海節男から1つずつ金星を奪うなど、「大物食い」として評判になった。


和田信賢: 和田はこの場所の実況中継を初日から4日目まで担当したが、4日目(1月15日・日曜日)に70連勝を目指していた双葉山定次が、結びの一番で安藝ノ海節男に外掛けで敗れ、連勝が69で止まった。


若葉山貞雄: 幼少期に生き別れた両親を探そうと本土行きを思い立つが、それを実現させるには力士になるのが一番手っとり早いと考え、1939年に安藝ノ海節男の元へ入門を志願するも断られる。


東富士欽壹: 十両上位で14勝の好成績を残したことで新入幕の場所は東前頭8枚目に位置づけられ、いきなり横綱・三役陣と総当りさせられたが、照國萬藏・安藝ノ海節男の2横綱には敗れたものの、2関脇・1小結を倒して10勝5敗の好成績を残した。


笠置山勝一: この説は、1939年1月場所4日目に自らが授けた作戦(双葉山の右目が失明状態であることから、双葉山の右足を狙って掬い投げ、または外掛けで倒す)によって安藝ノ海節男が連勝を止めたことで実証された。


常ノ花寛市: 孫は宝塚歌劇団52期生の常花代(父は横綱安藝ノ海節男)。


玉ノ海梅吉: 同場所11日目、前頭17枚目で全勝を続ける出羽湊利吉にいわゆる「連勝止め男」として対戦が組まれるが、安藝ノ海節男が双葉山の連勝を止めたことに乗じて「天皇賜杯奪回」の悲願を果たしたい出羽海一門から、敗退行為を打診され、これを受けた。


北の洋昇: 立浪部屋への入門が決まった緒方少年だったが、1939年1月場所4日目に安藝ノ海節男が双葉山の連勝を止めたことを知ると、双葉山のような強い関取になることを目標に掲げるようになった。


安藝ノ海節男の情報まとめ

もしもしロボ

安藝ノ海 節男(あきのうみ せつお)さんの誕生日は1914年5月30日です。広島出身の相撲のようです。

もしもしロボ

卒業、映画、家族、引退、結婚、離婚、母親、現在に関する情報もありますね。1979年に亡くなられているようです。

安藝ノ海節男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

安藝ノ海 節男(あきのうみ せつお、1914年5月30日 - 1979年3月25日)は、広島県広島市宇品町(現・広島市南区宇品御幸)出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第37代横綱。本名は永田 節男(ながた たかお)。

双葉山定次の70連勝を阻止した「世紀の一番」で知られる。四股名は「せつお」だが、本名は「たかお」と読む。

食料品商の家に生まれ、宇品尋常高等小学校を卒業後は家業を手伝う。1931年に市内で開催された関西中学校相撲選手権を観戦したところ、藤嶌にスカウトされて角界入り。1932年2月場所に出羽海部屋から“永田”の四股名で初土俵を踏む。序二段で「安藝ノ海」と改名すると、順調に昇進して1936年1月場所に新十両、1938年1月場所では、23歳で新入幕を果たした。

当時の出羽海部屋では、「打倒双葉」を目指して場所ごとに作戦会議を開いたという。その中から「どうやら双葉山は右に食い付かれるのを嫌がる」「無理な投げを打って体勢を崩すこともあるので、そこを掬うか足を掛けるかしてはどうか」という作戦が笠置山勝一を中心に生まれた。笠置山は当時としては非常に珍しい大卒(早稲田大学卒業)の「インテリ力士」で、笠置山自身が著した「横綱双葉山論」でも取り上げられた。また、それまで何度も双葉山と対戦したことのある力士では弱点も知られていることもあり、入幕して初の上位挑戦であり、かつ前年の満州巡業時に双葉山から稽古相手に指名されながらも体調不良で断り、その夜のうちに入院(盲腸炎だと伝わる)して、結果的に稽古でも取り組んだことのない安藝ノ海が「打倒双葉」の期待を担うことになった。

1939年1月場所4日目(1939年1月15日)、軍配が返るや突っかけた安藝ノ海は頭を下げながら突っ張った。双葉山も小刻みに突っ張り返して応戦し、得意の右差しに持ち込み右を覗かせてきた。左差しで食い下がろうと考えていた安藝ノ海は目論見が外れたが、逆に右前褌を取って食い下がる型に入った。両廻しを取れない双葉山は強引に右から掬ったが、逆に腰が伸びた。

土俵下力士溜まりの笠置山は心中、「今だ、今だ!」と絶叫したという。なかなか安藝ノ海の脚が飛ばず、後年「あれだけ入念に作戦を練って、まさにその通りになってもなかなか思い通りに行かないから相撲は判らない。あの安藝ノ海をしてそうなのだから…」と述懐したが、ついにその左外掛けで双葉山の牙城を崩し、二回目の掬い投げを打とうと双葉山が右足を踏み込んだ瞬間、安藝ノ海の左足が飛んだ。ぐらついた双葉山が掛けられた足を振り払って起死回生の右下手投げを打つが、安藝ノ海は右足一本でこらえて体を浴びせ、遂に双葉山が土俵中央に倒れた。

世紀の一瞬に、両國國技館は大鉄傘が大歓声によって震えたという。この取組のラジオ実況を担当していた和田信賢は、後ろの席に控えていた山本照に「双葉は確かに負けましたね?」と繰り返し確認した後、「双葉敗る!双葉敗る!双葉敗る!時に昭和14年1月15日。旭日昇天まさに69連勝、70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭・安藝ノ海に屈す!双葉、70連勝ならず!まさに70、古来やはり稀なり!」と絶叫した。

かくて安藝ノ海は双葉山の70連勝を阻止し、一躍英雄となる。一番の後、行司部屋で紋付に着替えて、ニュース映画用のインタビューを受けて國技館を出たが、部屋まで通常は徒歩5分のところ、この日は双葉山を倒した英雄を一目見ようと詰めかけた大観衆にもまれたことで部屋まで30分もかかり、到着時に足元を見ると雪駄が片方消えていたという。故郷の広島には「オカアサンカツタ」の電報を打ち、実家には直接電話をして勝利を報告した(実家ではラジオで勝利の報を聞いた家族が、全員で万歳している写真が新聞に載った)。この時、出羽海や、入門の時世話になった藤嶌からは、「勝って褒められるより、負けて騒がれるようになれ」と諭された。出羽海部屋の前では安藝ノ海見たさの観衆が夜遅くまで立ち止まっていたため、安藝ノ海は部屋の2階から観衆の声に何度も手を振った。

この「世紀の一番」は大相撲史上で最初の号外として伝えられたと言われているが、この号外の紙面は現存しない。

「双葉山に勝った自分がみっともない相撲は取れない」と稽古に励み、1940年1月場所で関脇に昇進。同年5月場所、14勝1敗で初優勝した(優勝はこの1回だけ)。場所後、同部屋の五ツ嶋と同時に大関に昇進した。

1942年5月場所後、番付編成会議は全会一致をもって照國と同時に横綱に推薦。同年6月8日に横綱仮免許授与式、新横綱として初の土俵入りが行われた。昇進直後「横綱になれたのは、あの一番があったからです」と述懐した一方で、何とかもう一度と挑んだ双葉山には、その後9連敗と二度と勝てなかった。現役を通して唯一の金星は双葉山を倒した一番だった。また横綱時代には一度も優勝できておらず、実質の最終場所になった1945年11月場所には鳳、宮城山、男女ノ川に続いて史上4人目となる横綱としての皆勤負け越しという不名誉な記録を残すなど、横綱としては大成しなかったが、幕内在位18場所で皆勤して負け越したのはこの1945年11月場所と双葉山を倒した1939年1月場所だけだった。次の1946年11月場所は全休し、この場所限りで現役を引退した。

引退後は藤嶌の娘と結婚し、年寄・不知火を襲名(後に藤嶋を継承)して、相撲協会の理事に就任した。当然、次期出羽海の有力候補だったが、1953年に自身が経営していた「ちゃんこ安藝」の地下にキャバレーを出店させて出羽海の怒りを買ったことが致命的になり、その後自身の離婚問題により平年寄に降格されると1954年をもって廃業した。問題となった「ちゃんこ安藝」は程無くして泣く泣く手放さざるを得なくなった。

廃業後は東京・八重洲で相撲料理店、東中野でアパート、北鎌倉で洋品店を経営し、大相撲中継のゲスト解説に度々登場した。1974年に還暦を迎えたが、還暦土俵入りは行われず、使用する予定だった赤い綱の所持も不明である。1979年3月25日、うっ血性心不全のため鎌倉市の病院で死去した。64歳没。

双葉山には連勝ストップの一番後、二度と勝てなかったが常に善戦し、玉錦三右エ門の現役死から照國の台頭まで、双葉山の全盛期が完全なライバル不在になってしまうことを防いだ。本人曰く「双葉(山)関は相手が誰でも変わらぬ相撲を取った人だが、自分に対してだけは特別な感情があるように感じた」と言い、後々までこれを誇りにしていた。

左四つを得意とし、前褌を取って食い下がり右をおっつけながら攻める速攻相撲。突っ張りや出し投げもあり一番相撲の名人とも呼ばれた。非力だったが「相手はみんなウジ虫だと思って土俵に上った」と後年自身が語るほど負けん気の強い人物でもあった。

出羽錦の著書では「ある年の岡山巡業で飛付五人抜きを行った際に参加していた土着のヤクザが何度負かされてもしぶとく挑戦を続けるため泉州山久義が手厳しく土俵に叩き付けたが、これが原因となって見物席の仲間が怒り出し大乱闘になった。乱闘が収まってからヤクザが七、八人で安藝ノ海の支度部屋に『いちばん先に問題をおこした若い者を引き渡せ』と詰め寄ったが、安藝ノ海は『若い者は渡すことはできない。だが呼んであやまらすだけでいいならそうしよう。しかし指一本ふれたら承知しないぞ』と返答し、押し問答のすえ向こうが折れて謝ることで話がついた」という逸話が取り扱われている。安藝ノ海の気の強さを表す逸話である。

作家の小島貞二は、力士時代に安藝ノ海の付き人を務めていた。安藝ノ海には風呂上がりの際、体の拭き方が悪いといきなり殴られたことなどがあり、人間的には心酔できない部分があったという。また、出羽海部屋に歴代の横綱の額が並ぶ中で、廃業後の安藝ノ海の額だけが、その不行跡に立腹した出羽海の指示で外されていたことも証言している。さらに、晩年の不遇の中で、現役時代の双葉山戦に関する座談会やインタビューには必ず出席し、生き生きと目を輝かせてその模様を語り、追憶の世界に生きる安藝ノ海の姿に対しては「何とも形容しがたかった」と振り返っている。

神風正一は安藝ノ海の横綱時代、取組後に館内で入浴した時に「横綱より先に風呂に入った」として殴られたという。安藝ノ海は手の早いタイプであったことは確かである。

相撲評論家の杉山桂四郎は、晩年の安藝ノ海への取材を3回行っていた。親方時代から始めた料理店経営でやり手ぶり発揮していた安藝ノ海へのインタビューは「頭の回転が速く、話をしていて気持ちがよかった」とする反面、「才人でやり手すぎて、相撲社会の水と合わなかったのではないか」とも分析している。この点について杉山は、岳父・出羽海との確執が、自身の離婚問題だけでなく、親方たちの労働組合に当たる「明朗会」という組織を運営していた為に良い印象を持たれなかったということも指摘している。なおこの「明朗会」は非公認組合で、日本相撲協会には創立以来公認労働組合が存在していた時期が無い。

優勝は1回だが、これは関脇時代の1940年5月場所、14勝1敗で記録したものだった。なお、この場所は双葉山が11日目までに4敗し、「信念の歯車が狂った」と引退を表明(のち撤回)した場所である。他にも大関時代の1942年5月場所は14日目まで13勝1敗で優勝争いの首位にいたが、千秋楽に2敗の双葉山に敗れ、当時の上位優勝制度のために優勝は双葉山にさらわれた。

どういう理由なのかは不明だが、1944年以降は引退まで逆に縒った綱を締めていた。

安藝ノ海の実家は、広島市の海岸沿い、宇品港の近くにあった。戦時中、大日本帝国陸軍の兵隊は全てこの港から外地へ送られた。実家では母親が長らく駄菓子屋を営み、近所の子供達の溜まり場となっていたが、広島高速3号線の建設による立ち退きで取り壊された。

双葉山の69連勝中、漫画家の近藤日出造は新聞で「今日の双葉山に挑む者」との連載を持っていて、場所中は双葉山と対戦する力士に取材していた。1939年1月場所の初日、双葉山の対戦相手だった五ツ嶋が近藤の取材に答えて「オレなんかダメだが、うちの安藝ノ海は面白いよ」と語ったことは、後に「世紀の予言」と語り草になった。

双葉山の連勝を止めた当時のフィーバーぶりについて、「ひいきの人が、貸し家が二軒ついた家をほうびにくれたよ」と語っていた。

1975年11月場所で横綱昇進がかかっていた貴ノ花利彰については「まずダメだね。横綱になったら1場所か2場所で引退ですよ。ならん方がいいと思う。人気のあるいい大関でいた方がいい、そう思うがね」と評しており、結果として大関在位50場所の名大関として名を遺した貴ノ花の未来を予言していた。

出羽海一門の後輩でもある北の湖敏満が巻き替え相撲を多用することに『横綱の相撲としてはいかがなものか』とした批判があった中で、「巻き替えがあるから安定している。優勝もできる。あれでいいんですよ」としきりに評価していたという。

第二次世界大戦終戦以前に横綱に昇進した元力士としては最後の存命者であった。

娘は元宝塚歌劇団52期生の常花代(現在は相撲茶屋「白豊」の女将)。

通算成績:209勝101敗38休 勝率.674

幕内成績:142勝59敗38休 勝率.706

横綱成績:38勝19敗38休 勝率.667

現役在位:32場所

幕内在位:18場所

横綱在位:8場所

大関在位:4場所

三役在位:2場所(関脇2場所、小結なし)

金星:1個(双葉山1個)

各段優勝

    幕内最高優勝:1回(1940年1月場所)

    序ノ口優勝:1回(1932年10月場所)

    ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』(2017年、B・B・MOOK)p22

    ^ 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)28ページから29ページ

    ^ 『相撲』別冊夏季号 36ページ 2016年

    ^ 両横綱、初の土俵入り(昭和17年6月8日朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p6 毎日コミュニケーションズ刊 1994年

    ^ 1940年代に活躍した春日野部屋の元西十両2枚目。引退後一時期年寄千田川を襲名した。

    ^ 元出羽錦・田子ノ浦忠雄の名義『土俵の砂が知っている~涙と笑い・二十五年の生活記録~』一水社

    ^ 工藤美代子『一人さみしき双葉山』1991年、ちくま文庫、175-177頁。

    ^ 『古今横綱大事典』1986年、読売新聞社、120頁。

    横綱一覧

    双葉山定次

    駒ノ里秀雄

    大相撲 双葉山 対 安藝ノ海 - NHK放送史

    高見山酉之助

    常陸山谷右エ門

    太刀山峯右エ門

    鳳谷五郎

    両國勇治郎

    西ノ海嘉治郎 (2代)

    大錦卯一郎

    栃木山守也

    常ノ花寛市

    鶴ヶ濱増太郎

    西ノ海嘉治郎 (3代)

    大蛇山酉之助

    宮城山福松

    常陸岩英太郎

    能代潟錦作

    玉錦三右エ門

    豊國福馬

    山錦善治郎

    武藏山武

    綾櫻由太郎

    清水川元吉

    沖ツ海福雄

    男女ノ川登三

    双葉山定次

    出羽湊利吉

    安藝ノ海節男

    羽黒山政司

    佐賀ノ花勝巳

    前田山英五郎

    備州山大八郎

    東富士欽壹

    増位山大志郎

    千代の山雅信

    照國萬藏

    栃錦清隆

    鏡里喜代治

    時津山仁一

    吉葉山潤之輔

    三根山隆司

    朝潮太郎 (3代)

    若乃花幹士 (初代)

    安念山治

    玉乃海太三郎

    若羽黒朋明

    若三杉彰晃

    大鵬幸喜

    柏戸剛

    佐田の山晋松

    栃ノ海晃嘉

    北葉山英俊

    富士錦猛光

    北の富士勝昭

    若浪順

    玉の海正洋

    琴櫻傑將

    清國勝雄

    栃東知頼

    長谷川勝敏

    輪島大士

    高見山大五郎

    北の湖敏満

    魁傑將晃

    貴ノ花健士

    金剛正裕

    三重ノ海剛司

    若乃花幹士 (2代)

    千代の富士貢

    琴風豪規

    隆の里俊英

    北天佑勝彦

    若嶋津六夫

    多賀竜昇司

    朝潮太郎 (4代)

    北勝海信芳

    大乃国康

    旭富士正也

    小錦八十吉

    霧島一博

    琴富士孝也

    琴錦功宗

    貴乃花光司

    曙太郎

    水戸泉政人

    若乃花勝

    武蔵丸光洋

    貴ノ浪貞博

    千代大海龍二

    出島武春

    武双山正士

    貴闘力忠茂

    魁皇博之

    琴光喜啓司

    栃東大裕

    朝青龍明徳

    白鵬翔

    琴欧洲勝紀

    日馬富士公平

    把瑠都凱斗

    旭天鵬勝

    鶴竜力三郎

    照ノ富士春雄

    琴奨菊和弘

    豪栄道豪太郎

    稀勢の里寛

    栃ノ心剛史

    御嶽海久司

    貴景勝貴信

    玉鷲一朗

    朝乃山英樹

    德勝龍誠

    正代直也

    大栄翔勇人

    若隆景渥

    逸ノ城駿

    阿炎政虎

    霧島鐵力

    豊昇龍智勝

    尊富士弥輝也

    大の里泰輝

    一覧

    年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。

    初代明石志賀之助

    2代綾川五郎次

    3代丸山権太左衛門

    4代谷風梶之助

    5代小野川喜三郎

    6代阿武松緑之助

    7代稲妻雷五郎

    8代不知火諾右衛門

    9代秀ノ山雷五郎

    10代雲龍久吉

    11代不知火光右衛門

    12代陣幕久五郎

    13代鬼面山谷五郎

    14代境川浪右衛門

    15代梅ヶ谷藤太郎(初代)

    16代西ノ海嘉治郎(初代)

    17代小錦八十吉

    18代大砲万右エ門

    19代常陸山谷右エ門

    20代梅ヶ谷藤太郎(2代)

    21代若嶌權四郎

    22代太刀山峯右エ門

    23代大木戸森右エ門

    24代鳳谷五郎

    25代西ノ海嘉治郎(2代)

    26代大錦卯一郎

    27代栃木山守也

    28代大錦大五郎

    29代宮城山福松

    30代西ノ海嘉治郎(3代)

    31代常ノ花寛市

    32代玉錦三右エ門

    33代武藏山武

    34代男女ノ川登三

    35代双葉山定次

    36代羽黒山政司

    37代安藝ノ海節男

    38代照國萬藏

    39代前田山英五郎

    40代東富士欽壹

    41代千代の山雅信

    42代鏡里喜代治

    43代吉葉山潤之輔

    44代栃錦清隆

    45代若乃花幹士(初代)

    46代朝潮太郎

    47代柏戸剛

    48代大鵬幸喜

    49代栃ノ海晃嘉

    50代佐田の山晋松

    51代玉の海正洋

    52代北の富士勝昭

    53代琴櫻傑將

    54代輪島大士

    55代北の湖敏満

    56代若乃花幹士(2代)

    57代三重ノ海剛司

    58代千代の富士貢

    59代隆の里俊英

    60代双羽黒光司

    61代北勝海信芳

    62代大乃国康

    63代旭富士正也

    64代曙太郎

    65代貴乃花光司

    66代若乃花勝

    67代武蔵丸光洋

    68代朝青龍明徳

    69代白鵬翔

    70代日馬富士公平

    71代鶴竜力三郎

    72代稀勢の里寛

    73代照ノ富士春雄

    雷電爲右エ門

    161代 能代潟錦作

    162代 常陸岩英太郎

    163代 豊國福馬

    164代 玉錦三右エ門

    165代 武藏山武

    166代 清水川元吉

    167代 男女ノ川登三

    168代 双葉山定次

    169代 鏡岩善四郎

    170代 前田山英五郎

    171代 羽黒山政司

    172代 安藝ノ海節男

    173代 五ツ嶋奈良男

    174代 照國万蔵

    175代 名寄岩静男

    176代 佐賀ノ花勝巳

    177代 東冨士謹一

    178代 汐ノ海運右衛門

    179代 増位山大志郎

    180代 千代ノ山雅信

    181代 吉葉山潤之輔

    182代 鏡里喜代治

    183代栃錦清隆

    184代 三根山隆司

    185代 大内山平吉

    186代 松登晟郎

    187代 若乃花勝治

    188代 朝汐太郎

    189代 琴ヶ濱貞雄

    190代 若羽黒朋明

    191代 柏戸剛

    192代 大鵬幸喜

    193代 北葉山英俊

    194代 佐田の山晋松

    195代 栃ノ海晃嘉

    196代 栃光正之

    197代 豊山勝男

    198代 北の富士勝昭

    199代 玉乃島正夫

    200代 琴櫻傑將

    201代 清國勝雄

    202代 前の山太郎

    203代 大麒麟將能

    204代 輪島大士

    205代 貴ノ花利彰

    206代 大受久晃

    207代 北の湖敏満

    208代 魁傑將晃

    209代 三重ノ海剛司

    210代 旭國斗雄

    211代 若三杉壽人

    212代 増位山太志郎

    213代 千代の富士貢

    214代 琴風豪規

    215代 隆の里俊英

    216代 若嶋津六夫

    217代 朝潮太郎

    218代 北天佑勝彦

    219代 大乃国康

    220代 北尾光司

    221代 北勝海信芳

    222代 小錦八十吉

    223代 旭富士正也

    224代 霧島一博

    225代 曙太郎

    226代 貴ノ花光司

    227代 若ノ花勝

    228代 貴ノ浪貞博

    229代 武蔵丸光洋

    230代 千代大海龍二

    231代 出島武春

    232代 武双山正士

    233代 雅山哲士

    234代 魁皇博之

    235代 栃東大裕

    236代 朝青龍明徳

    237代 琴欧洲勝紀

    238代 白鵬翔

    239代 琴光喜啓司

    240代 日馬富士公平

    241代 把瑠都凱斗

    242代 琴奨菊和弘

    243代 稀勢の里寛

    244代 鶴竜力三郎

    245代 豪栄道豪太郎

    246代 照ノ富士春雄

    247代 髙安晃

    248代 栃ノ心剛史

    249代 貴景勝貴信

    250代 朝乃山英樹

    251代 正代直也

    252代 御嶽海久司

    253代 霧島鐵力

    254代 豊昇龍智勝

    255代 琴櫻将傑

    256代 大の里泰輝

    1914年生

    1979年没

    広島市出身の人物

    広島県出身の大相撲力士

    出羽海部屋

    日本相撲協会の役員

    横綱

2024/11/21 20:17更新

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