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東富士欽壹の情報 (あずまふじきんいち)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月24日】今日誕生日の芸能人・有名人

東富士欽壹の情報(あずまふじきんいち) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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東富士 欽壹さんについて調べます

■名前・氏名
東富士 欽壹
(読み:あずまふじ きんいち)
■職業
相撲
■東富士欽壹の誕生日・生年月日
1921年10月28日 (年齢1973年没)
酉年(とり年)、蠍座(さそり座)
■出身地・都道府県
東京出身

東富士欽壹と同じ1921年生まれの有名人・芸能人

東富士欽壹と同じ10月28日生まれの有名人・芸能人

東富士欽壹と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


東富士欽壹と関係のある人

男女ノ川登三: その減りには極めて敏感で箱一杯の中から一個だけ無くなってもすぐに見抜いたと言われ、付き人をしていた東富士欽壹はよく「こらキン坊、一つ食っただろ!?」と怒られたという。


柏戸剛: 立ち合いをもっと研究せんと、いかんじゃないですか」と注文を付けられ、東富士欽壹からも「柏戸の稽古は、ただ攻めるだけのものだったが、やはり、受け身の場合の稽古も必要なんじゃないかと思います」と話した。


三根山隆司: 羽黒山政司:3勝6敗、安藝ノ海節男:1勝2敗、照國萬藏:8勝9敗、前田山英五郎:3勝5敗、東富士欽壹:8勝15敗、千代の山雅信:9勝16敗、鏡里喜代治:8勝18敗と、いずれも負け越していながら金星は9個奪っている。


鏡里喜代治: 東富士欽壹にはよく稽古を付けられていたが、応召中に双葉山が東冨士に敗れるのを知ると、打倒東冨士を誓った。


羽黒山政司: このまま休場かと思われたが、この場所は照國萬藏・千代の山が前日から休場(照國はそのまま引退、千代の山は終盤戦に再出場)、東富士欽壹も連敗を喫し不振だったため休むに休めず、折れた指に添え木と包帯を当て痛み止めを打ちながら土俵に上がる(添え木は土俵に上がる際に外した)など、悲愴な土俵を務めた。


北の洋昇: この結果、1950年9月場所で新入幕を果たしてからは上位陣、とりわけ朝潮太郎には滅法強くなり、他にも東富士欽壹・栃錦清隆・千代の山雅信などといった戦後間もない頃を代表する名横綱を度々苦しめ、獲得した金星10個は当時の最多記録だった。


出羽錦忠雄: 先述の通り、6人の横綱から10個の金星を獲得した他、照國萬蔵、東富士欽壹、吉葉山潤之輔の3横綱からはいずれも不戦勝を得ている。


双葉山定次: やはり後楽園球場での開催となった1944年11月場所6日目には、幕下の頃から目をかけてこの場所は関脇となっていた東富士欽壹に敗れたことで体力の限界を感じ、現役引退を決意した。


栃錦清隆: この場所は東富士欽壹・千代の山雅信・鏡里喜代治・吉葉山潤之輔の4横綱が存在していたため、栃錦が横綱昇進すると前例のない5横綱時代が実現するところであった。


不動岩三男: 特に1946年11月場所で関脇へ昇進して以降は「巨人横綱誕生も可能」と言われ、東富士欽壹・千代の山雅信・鏡里喜代治などと一時代を築くものと思われたが、勝ち味が遅くて下半身が弱いために速攻の力士に対抗できず、負傷や内臓疾患などの病の影響もあって大成できなかった。


鏡里喜代治: ある日に呼ばれて双葉山 - 東富士欽壹戦の実況放送を聞かせてくれたが、この取組で師匠となった双葉山が敗れたのを聞いて、涙を流しながら「打倒東冨士」を誓った。


鏡里喜代治: 1949年10月場所は前頭筆頭まで番付を上げ、東富士欽壹から金星を挙げて恩を返す。


東富士欽壹の情報まとめ

もしもしロボ

東富士 欽壹(あずまふじ きんいち)さんの誕生日は1921年10月28日です。東京出身の相撲のようです。

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現在、事件、引退、テレビ、兄弟に関する情報もありますね。1973年に亡くなられているようです。

東富士欽壹のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

東富士 欽壹(あずまふじ きんいち、1921年10月28日 - 1973年7月31日)は、東京市下谷区(現・東京都台東区)出身で高砂部屋(入門時は富士ヶ根部屋)に所属した大相撲力士・第40代横綱・元プロレスラー・実業家。本名は井上 謹一(いのうえ きんいち)。

子供時代から巨躯・怪力で、大人に交じって家業の鉄工所を手伝っていたことから“下谷に怪童あり”と評判になる。その評判を聞きつけた富士ヶ根が勧誘して入門させ、1936年1月場所に初土俵を踏む。しかし、緊張から鍛え上げられた力を発揮できずに前相撲を通過して番付に載るまで2年を要したが、幕下時代から双葉山定次に目をかけられ、「キン坊、来い」と呼ばれては猛稽古で鍛えられた。

双葉山定次の猛稽古によって順調に力を付け、1942年1月場所で新十両昇進。1943年1月場所では十両東2枚目の地位で14勝1敗の十両優勝を果たすと、同年5月場所で新入幕を果たす。十両上位で14勝の好成績を残したことで新入幕の場所は東前頭8枚目に位置づけられ、いきなり横綱・三役陣と総当りさせられたが、照國萬藏・安藝ノ海節男の2横綱には敗れたものの、2関脇・1小結を倒して10勝5敗の好成績を残した。前頭筆頭で迎えた1944年1月場所7日目には、かつて胸を借りた双葉山の横綱土俵入りで露払いを務めた(太刀持ちは前田山英五郎)。

その後も1場所途中休場による負け越しがあったもののすぐ幕内上位に定着し、新関脇での1944年11月場所では東西の編成替えで初めて双葉山と敵方になり、同場所6日目にその双葉山定次を上手投げで破って恩を返した。この取組が、結果的に双葉山が土俵に上がっての最後の敗戦にもなった。

第二次世界大戦中の一時期は、出羽海部屋に身を寄せて巡業や稽古を共にした。そのまま移籍する話も持ち上がり、当人も出羽海側も移籍のつもりだったが、高砂一門の総帥である前田山がこれを認めなかったことで、東富士は半ば脱走するように出羽海部屋を去らなくてはならなかった。しかし、この一件が背景を知らない出羽海の力士との間に遺恨を残すことになり、これも本場所で実力を発揮しきれなかった一因と考えられている。

1945年6月場所は、戦局の悪化によって旧・両國国技館にも空襲があり、それによって天井に穴が開いた状態で開催されたことで、晴天のみ7日間興行となった。東富士はこの場所を羽黒山政司・佐賀ノ花勝巳の1横綱1大関はじめ対戦のあった三役力士はすべて破って6勝1敗の好成績を残した。この1敗は6日目、朝からの雨で中止と決めつけて昼から酒を飲み、予定通り開催と知って慌てて国技館に駆けつけて出場、平幕の十勝岩豊にうっちゃりで敗れたものである。この失態によって優勝はこの場所7戦全勝だった備州山大八郎に浚われたが、前場所の9勝1敗(優勝同点)に続く好成績だったことで関脇を2場所で通過、戦後最初の場所となった1945年11月場所で大関に昇進する。

新大関の場所は全勝の羽黒山に敗れただけの9勝1敗の星を残したが、1946年の巡業で右足に重傷を負い、直後の11月場所は平幕戦だけで3敗するなど7勝6敗。これ以降は後遺症で成績が不安定となる。1947年6月場所では9勝1敗で羽黒山と前田山、力道山とともにこの場所からはじまった優勝決定戦に出場するが、1回戦で前田山に敗れ、続く11月場所は新鋭の千代ノ山に叩き込みに敗れるなど6勝5敗に終わる。

1948年5月場所では力道山にうっちゃりに敗れただけの10勝1敗で初優勝。力道山に敗れた1番は、力道山が立ち合いから猛烈に突っ張って出て、東冨士は左を差すと一気に出て土俵際、腰を落として寄り倒そうとしたが、力道山は必死にこらえ、力を振り絞って右へうっちゃった、という流れであった。同10月場所は増位山大志郎に本割・決定戦ともに敗れて優勝同点だったもののやはり10勝1敗で、場所後に横綱免許を授与された。これは吉田司家が授与した最後の横綱免許となった(次に昇進した千代の山からは協会が授与するようになった)。

新横綱の1949年1月場所から高砂部屋の所属となる。この場所6日目の神風戦は相手のまぶたが切れて出血のために取組続行不能とされ痛み分けとなり、この1分があって同部屋で平幕下位の國登を半星差で追う形になったが、千秋楽國登が敗れて逆転、10勝2敗1分で双葉山(1938年1月場所)以来となる新横綱優勝を果たした。

続く5月場所は終盤横綱大関陣に5連敗を喫してやっと勝ち越しの8勝7敗に終わる。皆勤横綱の5連敗は現在でも最多タイ記録である。

1950年1月場所は左足首関節挫傷のため3日目から休場。他の2横綱も照國は4日目から、羽黒山は5日目から相次いで休場し「横綱不在」となってしまう。東富士は7日目から、羽黒山は11日目から再出場するもともに6勝に終わる。前場所1949年10月場所では前田山が「シールズ事件」で引退に追い込まれていたこともあり、横綱のあり方について批判が噴出し、相撲協会でも一度は「連続負け越しか休場で大関へ降格」とする新制度の導入を発表(のち撤回)、大関で連続優勝を果たした千代の山は時期尚早を理由に横綱を見送られることになり、横綱審議委員会の発足へつながっていく。

続く5月場所では前場所の雪辱を期すように3横綱で優勝を争い、東富士1敗-羽黒山2敗で千秋楽結びの一番となり、これに勝って14勝1敗で3度目の優勝を果たす。

1951年9月場所は場所中から急性肺炎による高熱に悩まされ、11日目から3日間土俵入りを休むなど苦難の場所となった。特に12日目の吉葉山潤之輔との一番では医師からも「こんな病身で相撲なんか取って死んでも知らんぞ」と制止されながら、「命に関わっても文句は言わぬ」と誓約書を出して出場。この日の1度目の取り組みは東冨士の怒涛の寄り倒しに軍配が上がったものの物言い。取り直しになるも熱の入った攻防の末に水が入り、再開後、吉葉山の寄りを東冨士がうっちゃり、軍配は吉葉山に上がったがまたも物言い。協議の結果、これ以上取らせるのは不可能と判断され、吉葉山の了承を得て、勝負預りとなる死闘となった。他に9日目関脇栃錦に敗れた1敗があったものの13勝1敗1預で、4度目の優勝を果たす。またこの場所は千代の山の横綱昇進で、羽黒山・照國・東富士と4横綱時代となっており、1938年5月場所以来13年ぶり史上2度目の4横綱総当りも実現したが、東富士は横綱戦3戦全勝を記録している。系統別総当り制のもとでの4横綱総当りは、不戦勝をまじえない純然たるものとしてはこれが最後で、次に実現するのは部屋別総当りとなった1965年9月場所でのことになる。場所後には力道山のオープンカーを借りて優勝パレードを個人的に行い、これが大相撲における優勝パレードの始まりで、1952年1月場所(優勝は羽黒山)以降は日本相撲協会の公式行事として行われている。

1953年9月場所、初日から13連勝で優勝を決め、今度こそ全勝なるかと思われたが、14日目吉葉山に取り直しの末敗れる。千秋楽には鏡里をくだして14勝1敗。これが最後(6度目)の優勝になった。

1954年9月場所、4勝4敗のあと9日目から休場。この場所は大関栃錦が初日黒星のあと連勝を続け優勝を争っていて、大関で連続優勝となれば横綱昇進が問題となるところであるが、このときすでに東富士と千代の山・鏡里・吉葉山の4横綱がいて、栃錦を横綱にすると前例のない5横綱時代が実現することになり、このために栃錦の昇進が見送られる可能性があった。その気配を察した東富士は14日目に引退を申し出た。東富士引退の意向を聞いた栃錦は「どうか引退しないでください」と東富士に伝え、東富士も最初は考えたが「栃錦からの申し出で、逆に気持ちが吹っ切れた」と語っている。

引退後は年寄・錦戸を襲名したが、高砂一門での派閥争いを嫌って1954年12月に廃業した。錦戸は双見山又五郎の所有者名義だったが、それを知らずに襲名してしまったために立浪から苦情がつき、一門間での争いにも巻き込まれた。その人柄を惜しんだ時津風が角界に残れるよう便宜を図るが、現在よりさらに一門同士の隔たりが大きかった時代で、双葉山をもってしても叶わず、引退相撲も行われなかった。

断髪もしないまま今後を模索していた頃、力道山に誘われてプロレスに転向した。力道山の伝手でハワイでレスラー修業を積み、1955年4月17日にホノルルでドン・バイテルマン(ドン・カーティス)を相手にデビュー戦を行う。その1週間後には同所で力道山と組んで、ボビー・ブランズ、ラッキー・シモノビッチ組からハワイ・タッグ選手権を獲得した。1955年10月には各団体の主力が参加した「ウェート別日本選手権」のヘビー級部門で山口利夫を破って優勝する役柄を演じ、日本ヘビー級王者・力道山への挑戦権を獲得した形になったが、力道山対東富士の選手権試合は実現せず、結局は力道山に脇役として使われ、力道山がブラジル遠征を行っていた1958年11月に、プロレスラーを引退した。最後の試合は11月28日に後楽園ジムナジアムで行われたテレビマッチでのタイニー・ミルズ戦である。

プロレス引退後はアパート経営を経てフジテレビ・TBSテレビなどの相撲解説者を担当し、銀座でサラリーマン金融「ファイナンス・フジ」を設立して社長を務め、銀座を中心に名古屋・仙台・札幌・静岡に支店を出した。1973年7月31日、結腸癌のため死去した。51歳没。

「怒涛の寄り」と形容された速攻相撲の実力者だった。速攻に加え、ヒジをおっつけて全体重を乗せるようにして打つ上手出し投げは、東富士ならではの強烈なものだった。しかし、全勝も連続優勝もなく「東富士時代」と呼べる一時代は築けずに終わった。物事に執着のない性格にくわえ、師匠の高砂との不和などが、実力を発揮しきれなかった背景と考えられている。しかし、初優勝以来6年間は毎年1回優勝しており、羽黒山政司らとともに栃錦清隆・若乃花幹士時代(栃若時代)までの相撲界を支えた功績は大きい。

東富士が入門した富士ヶ根部屋では、伝統的に四股名に「富士・冨士」が付くが、通常は上に付いて「冨士東」になる予定だった。しかし、富士ヶ根の期待の大きさを表すものとして逆の四股名になっている。現在でもこの伝統は、当時の富士ヶ根部屋を吸収した高砂部屋に継承されている。2021年現在でも富士東和佳(足立区出身)が現役力士として在籍するが、これは玉ノ井部屋の「東」を継承した四股名で、東富士との関係は一切無い。

男女ノ川登三の付き人をしていた頃、男女ノ川の大好物だったジャガイモをこっそり食べた。しかし、ジャガイモの減りに敏感だった男女ノ川はすぐに見抜いて「こらキン坊、一つ食っただろ!」と怒られたという。

1947年6月場所に行われた優勝決定戦に初めて出場したが、同じ決定戦に出場した前田山英五郎とは複雑な上下関係があり、対戦相手を決める抽選では何とか当たらない様に祈ったものの一回戦で対峙し、敗退している。

横綱昇進を決めた頃、灰田勝彦(歌手)・別所毅彦(プロ野球選手)と3人で義兄弟の契りを結ぶ交友もあったという。

最初の東京出身横綱で「江戸っ子横綱」と呼ばれた。東富士の横綱土俵入りは巨体だけに迫力と貫禄に満ち、「鼻息が桟敷まで聞こえる」とも言われたという。気風の良い人柄で知られ、それにまつわるエピソードは数多い。

    当時は二所ノ関一門と高砂一門で合同巡業を打つことが多く、若乃花幹士を可愛がった。若乃花によれば「巡業中に自分(東富士)を倒したら一番ごとに1万円やる」と発破をかけられたというが、当時の1万円は大変な高額で、東富士がそれを自分の身銭から出す懐の大きさに打たれ、若乃花は横綱昇進後も東富士の態度を手本にした。

    1953年9月場所で羽黒山政司が引退したことで最古参の横綱となったために力士会の会長に就任した東富士は、協会幹部が相手でも物怖じせず交渉にあたることで人望を集めたが、若い頃から稽古をつけられた時津風にだけは弱く、「キン坊、どうした?」と言われるとたちまち大人しくなったという。

    角界において、「良い生活を送りたかったら稽古しなさい」という意味でお馴染みの叱咤激励の言葉である「土俵に宝(銭)が埋まっている」というたとえ話を聞いた際、実際に夜中に鍬で土俵を掘り起こし、真ん中に土の山を作って兄弟子たちを驚愕させたという。

    角界経験者がプロレスへ転向するケースは力道山を筆頭に数多く存在するが、東富士は初めて横綱経験者としてプロレスへ転向した人物である。横綱のプロレス転向は後に輪島大士、双羽黒光司、曙太郎の3人が続いている。

    通算成績:335勝137敗1分1預54休 勝率.710

    幕内成績:261勝104敗1分1預54休 勝率.715

    大関成績:51勝15敗 勝率.773

    横綱成績:172勝74敗1分1預50休 勝率.699

    幕内在位:31場所

    横綱在位:20場所

    大関在位:6場所

    三役在位:2場所(関脇2場所、小結なし)

    金星:なし

    幕内最高優勝:6回(1947年5月場所、1948年1月場所、1950年5月場所、1951年9月場所、1952年5月場所、1953年9月場所)

    十両優勝:1回(1943年1月場所)

    幕下優勝:1回(1941年5月場所)

    ※1949年1月場所は、引き分けが1。また1951年9月場所は、預かりが1あり。

    他に優勝決定戦で前田山と増位山に各1敗がある。

    ※さらに、神風に1引分、吉葉山と1預かりがある。

    ^ 当時は東西制で、15日制なら平幕10枚目前後までが横綱との対戦圏内だった。

    ^ 同場所の番付では西方に大関不在(照國が横綱大関だった)。

    ^ 羽黒山の他新入幕の千代ノ山が10戦全勝の優勝同点(優勝決定戦制度なし)で、東富士は照國と並んで3位の成績。

    ^ この前場所で栃錦は優勝したが、場所後の横綱審議委員会では「番付上の理由」で栃錦の横綱昇進を否決していた。

    ^ 例として富士錦猛光、富士櫻栄守がいる。なお、両者は富士山がある山梨県出身である。

    ^ 腰痛により11日目から途中休場

    ^ 優勝同点

    ^ 羽黒山、前田山、力道山と優勝決定戦

    ^ 増位山と優勝決定戦

    ^ 左足首関節挫傷により3日目から途中休場、7日目から再出場

    ^ 急性肺臓炎・扁桃腺周囲炎により8日目から途中休場、13日目から再出場

    ^ 左足首関節捻挫により9日目から途中休場、11日目から再出場

    ^ 左手中指薬指関節脱臼により7日目から途中休場

    ^ 右股関節捻挫により5日目から途中休場、11日目から再出場

    ^ 右肩関節打撲傷・腰椎捻挫・左第二肋骨軟骨亀裂骨折により8日目から途中休場

    ^ 左肘関節捻挫・右腰部神経挫傷により8日目から途中休場

    ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p17

    ^ 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)38ページから39ページ

    ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p48

    ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p40

    ^ 大相撲クイズ(26)東富士の驚きの行動とは? ベースボールマガジン社 2018-11-26(分冊百科大相撲名力士風雲録第26号「東富士 千代の山 鏡里 吉葉山」掲載より、2020年1月7日閲覧)

    横綱一覧

    東富士 欽壹 - 相撲レファレンス

    高見山酉之助

    常陸山谷右エ門

    太刀山峯右エ門

    鳳谷五郎

    両國勇治郎

    西ノ海嘉治郎 (2代)

    大錦卯一郎

    栃木山守也

    常ノ花寛市

    鶴ヶ濱増太郎

    西ノ海嘉治郎 (3代)

    大蛇山酉之助

    宮城山福松

    常陸岩英太郎

    能代潟錦作

    玉錦三右エ門

    豊國福馬

    山錦善治郎

    武藏山武

    綾櫻由太郎

    清水川元吉

    沖ツ海福雄

    男女ノ川登三

    双葉山定次

    出羽湊利吉

    安藝ノ海節男

    羽黒山政司

    佐賀ノ花勝巳

    前田山英五郎

    備州山大八郎

    東富士欽壹

    増位山大志郎

    千代の山雅信

    照國萬藏

    栃錦清隆

    鏡里喜代治

    時津山仁一

    吉葉山潤之輔

    三根山隆司

    朝潮太郎 (3代)

    若乃花幹士 (初代)

    安念山治

    玉乃海太三郎

    若羽黒朋明

    若三杉彰晃

    大鵬幸喜

    柏戸剛

    佐田の山晋松

    栃ノ海晃嘉

    北葉山英俊

    富士錦猛光

    北の富士勝昭

    若浪順

    玉の海正洋

    琴櫻傑將

    清國勝雄

    栃東知頼

    長谷川勝敏

    輪島大士

    高見山大五郎

    北の湖敏満

    魁傑將晃

    貴ノ花健士

    金剛正裕

    三重ノ海剛司

    若乃花幹士 (2代)

    千代の富士貢

    琴風豪規

    隆の里俊英

    北天佑勝彦

    若嶋津六夫

    多賀竜昇司

    朝潮太郎 (4代)

    北勝海信芳

    大乃国康

    旭富士正也

    小錦八十吉

    霧島一博

    琴富士孝也

    琴錦功宗

    貴乃花光司

    曙太郎

    水戸泉政人

    若乃花勝

    武蔵丸光洋

    貴ノ浪貞博

    千代大海龍二

    出島武春

    武双山正士

    貴闘力忠茂

    魁皇博之

    琴光喜啓司

    栃東大裕

    朝青龍明徳

    白鵬翔

    琴欧洲勝紀

    日馬富士公平

    把瑠都凱斗

    旭天鵬勝

    鶴竜力三郎

    照ノ富士春雄

    琴奨菊和弘

    豪栄道豪太郎

    稀勢の里寛

    栃ノ心剛史

    御嶽海久司

    貴景勝貴信

    玉鷲一朗

    朝乃山英樹

    德勝龍誠

    正代直也

    大栄翔勇人

    若隆景渥

    逸ノ城駿

    阿炎政虎

    霧島鐵力

    豊昇龍智勝

    尊富士弥輝也

    大の里泰輝

    一覧

    年代は初優勝、しこ名は最後の優勝時。

    初代明石志賀之助

    2代綾川五郎次

    3代丸山権太左衛門

    4代谷風梶之助

    5代小野川喜三郎

    6代阿武松緑之助

    7代稲妻雷五郎

    8代不知火諾右衛門

    9代秀ノ山雷五郎

    10代雲龍久吉

    11代不知火光右衛門

    12代陣幕久五郎

    13代鬼面山谷五郎

    14代境川浪右衛門

    15代梅ヶ谷藤太郎(初代)

    16代西ノ海嘉治郎(初代)

    17代小錦八十吉

    18代大砲万右エ門

    19代常陸山谷右エ門

    20代梅ヶ谷藤太郎(2代)

    21代若嶌權四郎

    22代太刀山峯右エ門

    23代大木戸森右エ門

    24代鳳谷五郎

    25代西ノ海嘉治郎(2代)

    26代大錦卯一郎

    27代栃木山守也

    28代大錦大五郎

    29代宮城山福松

    30代西ノ海嘉治郎(3代)

    31代常ノ花寛市

    32代玉錦三右エ門

    33代武藏山武

    34代男女ノ川登三

    35代双葉山定次

    36代羽黒山政司

    37代安藝ノ海節男

    38代照國萬藏

    39代前田山英五郎

    40代東富士欽壹

    41代千代の山雅信

    42代鏡里喜代治

    43代吉葉山潤之輔

    44代栃錦清隆

    45代若乃花幹士(初代)

    46代朝潮太郎

    47代柏戸剛

    48代大鵬幸喜

    49代栃ノ海晃嘉

    50代佐田の山晋松

    51代玉の海正洋

    52代北の富士勝昭

    53代琴櫻傑將

    54代輪島大士

    55代北の湖敏満

    56代若乃花幹士(2代)

    57代三重ノ海剛司

    58代千代の富士貢

    59代隆の里俊英

    60代双羽黒光司

    61代北勝海信芳

    62代大乃国康

    63代旭富士正也

    64代曙太郎

    65代貴乃花光司

    66代若乃花勝

    67代武蔵丸光洋

    68代朝青龍明徳

    69代白鵬翔

    70代日馬富士公平

    71代鶴竜力三郎

    72代稀勢の里寛

    73代照ノ富士春雄

    雷電爲右エ門

    161代 能代潟錦作

    162代 常陸岩英太郎

    163代 豊國福馬

    164代 玉錦三右エ門

    165代 武藏山武

    166代 清水川元吉

    167代 男女ノ川登三

    168代 双葉山定次

    169代 鏡岩善四郎

    170代 前田山英五郎

    171代 羽黒山政司

    172代 安藝ノ海節男

    173代 五ツ嶋奈良男

    174代 照國万蔵

    175代 名寄岩静男

    176代 佐賀ノ花勝巳

    177代 東冨士謹一

    178代 汐ノ海運右衛門

    179代 増位山大志郎

    180代 千代ノ山雅信

    181代 吉葉山潤之輔

    182代 鏡里喜代治

    183代栃錦清隆

    184代 三根山隆司

    185代 大内山平吉

    186代 松登晟郎

    187代 若乃花勝治

    188代 朝汐太郎

    189代 琴ヶ濱貞雄

    190代 若羽黒朋明

    191代 柏戸剛

    192代 大鵬幸喜

    193代 北葉山英俊

    194代 佐田の山晋松

    195代 栃ノ海晃嘉

    196代 栃光正之

    197代 豊山勝男

    198代 北の富士勝昭

    199代 玉乃島正夫

    200代 琴櫻傑將

    201代 清國勝雄

    202代 前の山太郎

    203代 大麒麟將能

    204代 輪島大士

    205代 貴ノ花利彰

    206代 大受久晃

    207代 北の湖敏満

    208代 魁傑將晃

    209代 三重ノ海剛司

    210代 旭國斗雄

    211代 若三杉壽人

    212代 増位山太志郎

    213代 千代の富士貢

    214代 琴風豪規

    215代 隆の里俊英

    216代 若嶋津六夫

    217代 朝潮太郎

    218代 北天佑勝彦

    219代 大乃国康

    220代 北尾光司

    221代 北勝海信芳

    222代 小錦八十吉

    223代 旭富士正也

    224代 霧島一博

    225代 曙太郎

    226代 貴ノ花光司

    227代 若ノ花勝

    228代 貴ノ浪貞博

    229代 武蔵丸光洋

    230代 千代大海龍二

    231代 出島武春

    232代 武双山正士

    233代 雅山哲士

    234代 魁皇博之

    235代 栃東大裕

    236代 朝青龍明徳

    237代 琴欧洲勝紀

    238代 白鵬翔

    239代 琴光喜啓司

    240代 日馬富士公平

    241代 把瑠都凱斗

    242代 琴奨菊和弘

    243代 稀勢の里寛

    244代 鶴竜力三郎

    245代 豪栄道豪太郎

    246代 照ノ富士春雄

    247代 髙安晃

    248代 栃ノ心剛史

    249代 貴景勝貴信

    250代 朝乃山英樹

    251代 正代直也

    252代 御嶽海久司

    253代 霧島鐵力

    254代 豊昇龍智勝

    255代 琴櫻将傑

    256代 大の里泰輝

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    富士ヶ根部屋

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    力道山

    相撲解説者

    横綱

    東京都区部出身の人物

    1921年生

    1973年没

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    ウィキデータにある相撲レファレンス識別子

2024/11/17 21:03更新

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