北の洋昇の情報(きたのなだのぼる) 相撲 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
北の洋 昇さんについて調べます
■名前・氏名 |
北の洋昇と関係のある人
時津山仁一: 12勝以上を挙げた場所が7場所ありながら大関昇進が果たせなかったのは、その豪快な取り口が持続できなかったのが原因とも言われているが、若羽黒朋明・北の洋昇・安念山治と共に「立浪四天王」と呼ばれ、上位陣にとっては脅威の存在として戦後最強の関脇とも言われた。 羽黒山政司: 時津山・安念山・若羽黒に北の洋昇を加えた4人は「立浪四天王」と謳われたほどであるほか、吉葉山潤之輔を始めとした部屋の内外を問わず若手力士に胸を貸し、成長に貢献した点は特筆される。 若羽黒朋明: 北の洋昇は1957年に安念山と行った対談で、「(若羽黒は)ハマッ子だからね」と、育った場所による気質であると分析していた。 安念山治: それでも調子の良い時、悪い時問わず現代的な甘いマスクと筋肉質の身体は女性に人気が高く、若羽黒・安念山・北の洋昇・時津山仁一の四名は「立浪四天王」と呼ばれた。 緑嶌友之助: 晩年の弟子には後に「立浪四天王」と呼ばれる若羽黒朋明・時津山仁一・安念山治・北の洋昇がいる。 |
北の洋昇の情報まとめ
北の洋 昇(きたのなだ のぼる)さんの誕生日は1923年2月1日です。北海道出身の相撲のようです。
事故、父親、母親、引退、テレビ、映画、現在に関する情報もありますね。2002年に亡くなられているようです。
北の洋昇のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)北の洋 昇(きたのなだ のぼる、1923年2月1日 - 2002年1月8日)は、北海道網走郡網走町(現:網走市)北浜出身で立浪部屋に所属した大相撲力士。本名は緒方 昇(おがた のぼる)。最高位は西関脇。 1923年2月1日に、北海道網走郡網走町北浜(現:北海道網走市北浜)で料理屋を営む家に次男として生まれた。幼少期から地元では有名な腕白だったが、小学4年生の時に実兄が事故で没したことでショックを受け、それ以降は腕白な性格から内気な性格へ変わっていった。実家が地元で人気の料理屋だったことから、厳しい父親に毎日家の手伝いをさせられていた。当時の網走郡は網走刑務所のイメージから陰惨とした場所であると勘違いされやすかったが、本人が入幕後に語ったところによると冬の寒さは厳しいが、道立公園には6月頃から9月頃まではハマナス、エゾキスゲ、カンゾウ、スズラン、ヒオウギアヤメなど50種類程度の花が咲き誇る明るい街であったという。幼少期の緒方が育った網走では、ニシン漁がある時だけ駆り出されそれが終わると捨てられたどさんこが強く育ち、捨てられてから生き残ったどさんこがまたニシン漁に駆り出された。 1938年の暮れのある日、自宅へ宿泊した旭川の馬飼いが緒方少年の大きな体格を見い出し、その人物が旭川幸之焏とも親しかったことで立浪部屋への入門を勧めたが、緒方少年は相撲好きだったものの「他の部屋に入って双葉山定次に勝つ相撲取りになりたい」と考えて出羽海部屋への入門を希望していた。当時の双葉山は、同年に玉錦三右エ門が現役死亡したことで角界を代表する大横綱となっており、出羽海部屋では一門ぐるみで「打倒双葉」を合言葉に、どのように破るかで連日猛稽古と研究に明け暮れていた時期だった。馬飼いはこの姿勢に一度は引き上げたものの、1939年の春に再び訪ねて来て熱心に説得すると、一家の稼ぎ手を失うことを心配した母親から反対されたものの、立浪部屋への入門が決定した。 立浪部屋への入門が決まった緒方少年だったが、1939年1月場所4日目に安藝ノ海節男が双葉山の連勝を止めたことを知ると、双葉山のような強い関取になることを目標に掲げるようになった。入門時の体重は71kgだったが、入門直前の緊張から3kgも減ってしまった。これでは新弟子検査で合格しないと感じた緒方少年は、検査直前に飯や水を口にして増量を図るも1.5kg不足してしまった。検査を担当した若者頭が鳴戸に目配せして合格を頼んだが聞き入れてもらえず、さらには力士を諦めて床山になることを勧められた。当時は入門者が殺到していたので検査も厳しく、体重の目溢しなどしてもらえなかった。さらに自費養成力士制度もなかったのも緒方に対して不利に働いた。 それでも力士になる夢を諦めなかった緒方少年は、翌場所も新弟子検査を受験して合格し、1940年1月場所で初土俵を踏んだ。四股名は郷里・北海道に因んで「北ノ海」にする予定だったが、同名の者が前相撲の初日にいたことが判り、「北ノ洋」に変更した。 新弟子時代の頃の立浪部屋を「1日、2日おきには新弟子たちがずらっと並んで、部屋には70人近くいたと思う。寝るところにも困って、稽古場、女中部屋にまであふれていた」と本人は述懐している。この頃の立浪部屋は出羽海部屋のように一門連合稽古のようなことは行わず、新弟子時代には親方衆も少なかったため自分で相撲四十八手の本を買って相手がいると思って1人で技をかける相撲版シャドーボクシングのようなことをやるなどして、当時の大抵の所属力士達が自分のコンディションを中心として調整したように北ノ洋自身も稽古を積んだ。入門後は第二次世界大戦が激化したが、幸いにも兵役に取られることが無いまま着実に昇進した。だが、1944年5月に幕下9枚目まで上がったところで結核を患ったため、以後4年以上幕下で足踏みを続けてしまい、1948年10月場所にてようやく新十両昇進を果たした。初めは軽量ながら立合いに頭で当たり、四つに組んでから投げを中心に俊敏な変化を交える半端な相撲だったが、体重が増えて着実に力を付けていくと左を差してから右で押っ付けて一気に寄り切る取り口に変わった。この結果、1950年9月場所で新入幕を果たしてからは上位陣、とりわけ朝潮太郎には滅法強くなり、他にも東富士欽壹・栃錦清隆・千代の山雅信などといった戦後間もない頃を代表する名横綱を度々苦しめ、獲得した金星10個は当時の最多記録だった。 1957年11月場所において腰痛と左足首関節を捻挫して以降は、稽古での申し合いを減らした上で、通勤ラッシュで混雑する平日朝8時頃の両国駅の階段を廻し姿で昇り降りするなど、足の鍛錬を増やしていった。本場所では負け越す回数が増えていくが、怪我をしたならば北の洋なりの回復方法を探って、少しでも長く幕内で活躍しようとする姿勢に、驚く乗客もいたが激励の声も多かった。 1962年3月場所で5勝10敗と大きく負け越し、来場所の十両陥落が決定的になったところで現役を引退し、年寄・武隈を襲名した。引退時は39歳で、両国駅での毎朝の自主トレーニングが丈夫で長持ちするということを実証した形となった。年寄・武隈としては日本相撲協会の理事や監事を歴任し、春日野理事長の体制を支える重要な役割を担った。弟弟子である安念山治(羽黒山礎丞)からも全幅の信頼をおかれ、1969年10月に先代立浪(元横綱・羽黒山)が亡くなると、年寄・追手風を襲名していた羽黒山礎丞(=安念山)が「立浪」を継承する際に「武隈親方がいれば大丈夫だ」と言われるほどだった。在職中には日本テレビの相撲放送解説を務めていた。 1987年の年末に横綱・双羽黒光司が立浪とちゃんこの味付けを巡って衝突し、女将を突き飛ばして部屋を飛び出す騒動が発生した(双羽黒廃業騒動)。武隈は双羽黒の居場所を突き止め、結果としてそのまま廃業となったことで失敗に終わったものの、双羽黒に対して部屋に戻って謝罪するように説得に当たるなど、騒動解決に奔走した。 1988年1月場所を最後に停年退職し、娘婿の元関脇・黒姫山秀男に年寄・武隈の年寄名跡を譲った。自身は本名の「緒方 昇」としてNHKの相撲解説を務めたほか、タレントとしてNHK総合テレビのクイズ番組「クイズ日本人の質問」に出羽錦忠雄と共に解答者(大相撲チーム)として準レギュラー出演していたほか、1996年には映画「スーパーの女」(伊丹十三監督)に出演したことが話題となった。 2000年1月場所を最後に勇退した後も新聞などで相撲の評論活動を行っていたが、2001年の春に脳梗塞で突然倒れて療養生活を送る。一時快方に向かったが2002年1月8日、脳梗塞のため栃木県那須郡塩原町(当時。現在は合併により那須塩原市塩原地区)の病院で死去、78歳没。墓所は旧・両國國技館が開館するまで相撲が行われていた、両国の回向院にある。 新入幕が初土俵から10年経過していたことで出世がゆっくりだったが、前述のように体重の重さと力量を生かして相手を土俵際へ追い詰める取り口で幕内に長く定着し、土俵際での逆転の網打ち・うっちゃりで物言いが付く取組も多かった。それでも左足を置いてから添えた右足を横一文字に引く颯爽とした仕切りは、相手に丁寧に合わせることから待ったをほとんどせず、土俵態度として立派だったという。 日本放送協会の相撲解説では現役時の四股名で務めるのが慣例だが(現役では北の富士勝昭・舞の海秀平)、「きたのなだ」という四股名が大変読みにくいために本名での出演になったという。 白い稲妻というあだ名は、北の洋の没後にやくみつるが描いた4コマに登場している。 双葉山に心酔しており、双葉山のことを語る時、何かと「崇高な」という形容詞を使った。羽黒山に関しては戦時中の角界で苦楽を共にした間柄であるため「ジャングイ」("大将"の意。日本軍の将校になぞらえた呼び方)と呼んでいたが、一方で「ケチ」などという見方をしていた。黒姫山が「ずっと同じ部屋で近くに接してきているから、『ケチ』などという見方も出てくる」「双葉山さんだって間近で接すれば、"崇高な"なんていう言葉は出てこないかもしれませんよ」というと北の洋は「この野郎!」と怒った。 曾孫は境川部屋に所属する現役大相撲力士の黒姫山虎之介。 通算成績:494勝473敗29休 勝率.511 幕内成績:368勝388敗24休 勝率.487 現役在位:77場所 幕内在位:52場所 三役在位:8場所(関脇2場所、小結6場所) 三賞:10回
敢闘賞:1回(1954年5月場所) 技能賞:5回(1953年5月場所、1954年5月場所、1957年3月場所、1958年1月場所、1960年3月場所) 金星:10個(東富士:1個、吉葉山:2個、栃錦:2個、千代の山:1個、若乃花:1個、朝潮:3個) 1957年11月場所で関脇昇進を果たしたが、34歳8ヵ月(※番付発表時)での新関脇は、三賞制定以後では当時の最年長記録であった(その後、2014年9月場所で豪風が更新している)。 緒方よし子(妻) ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p23 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p56-59 ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p10-12 ^ 読売新聞2002年1月9日朝刊31面より ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p50 ^ 左膝関節捻挫により6日目から途中休場、11日目から再出場 ^ 右肘関節捻挫により4日目から途中休場、12日目から再出場 ^ 左第 3肋骨亀裂骨折により6日目から途中休場 ^ 腰痛・左足首関節捻挫により14日目から途中休場 ^ 扁桃腺炎により12日目から途中休場 関脇一覧 北尾光司 立浪部屋 安念山治 表 話 編 歴 源武山源右エ門1927年1月-1932年3月 能代潟錦作1932年5月-1936年5月 綾川五郎次1937年1月-1937年5月 海光山大五郎1938年1月-1939年1月 大潮清治郎1939年5月-1941年5月 藤ノ里栄藏1942年1月-1943年1月 大和錦幸男1943年5月 肥州山栄1944年1月-1945年6月 若港三郎1945年11月 大平山圭四郎1946年11月-1947年11月 九ヶ錦坦平1948年5月-1949年1月 若潮芳雄1949年5月-1949年10月 名寄岩静男1950年1月-1954年9月 廣瀬川惣吉1955年1月-1959年5月 三根山隆司1959年7月-1960年1月 小野錦喜三郎1960年3月 若葉山貞雄1960年5月-1961年1月 北の洋昇1961年3月-1962年3月 出羽錦忠雄1962年5月-1964年9月 鶴ヶ嶺昭男1964年11月-1967年7月 青ノ里盛1967年9月-1969年3月 若ノ國豪夫1969年5月-1969年9月 相内範雄1969年11月-1973年7月 福の花孝一1973年9月-1975年11月 牧本英輔1976年1月-1982年11月 高見山大五郎1983年1月-1984年5月 大潮憲司1984年7月-1988年1月 舛田山靖仁1988年3月-1989年7月 蔵間竜也1989年9月 玉龍大蔵1989年11月-1992年1月 亀山弘章1992年3月-1993年7月 大乃浦哲也1993年9月-1995年1月 霧島一博1995年3月-1996年3月 大竜忠博1996年5月-1997年7月 一ノ矢充1997年9月-2007年11月 栃天晃正嵩2008年1月-2011年5月 華吹大作2011年7月-2022年1月 翔傑喜昭2022年3月- 北海道出身の大相撲力士 立浪部屋 元大相撲力士のタレント 1923年生 2002年没 北海道出身の人物 日本相撲協会の役員 相撲解説者 2024/11/21 05:55更新
|
kitanonada noboru
北の洋昇と同じ誕生日2月1日生まれ、同じ北海道出身の人
TOPニュース
北の洋昇と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「北の洋昇」を素材として二次利用しています。