中村研一の情報(なかむらけんいち) 洋画家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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中村研一の情報まとめ
中村 研一(なかむら けんいち)さんの誕生日は1895年5月14日です。福岡出身の洋画家のようです。
現在、卒業に関する情報もありますね。1967年に亡くなられているようです。
中村研一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)中村 研一(なかむら けんいち、1895年(明治28年)5月14日 - 1967年(昭和42年)8月28日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。 鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長(住友本店の技術職のトップ)となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡南郷村光岡(現在の宗像市光岡)に生まれる。洋画家の中村琢二は実弟。1909年、福岡県立中学修猷館に入学。修猷館在学中に、生涯の友となる三輪寿壮、日高信六郎らと出会い、児島善三郎、中村琢二らと、絵画同好会「パレット会」を創立し、西洋絵画を勉強する。また、福岡に滞在中であった青山熊治(ドイツ語版)に指導を受けた。 1914年、修猷館を卒業し、美校受験を志すが許されず、第三高等学校の受験準備の名目で京都に出て、鹿子木孟郎の内弟子となる。1915年、画家志望に反対する父を鹿子木に説得してもらい、美校受験が許可され、上京し本郷絵画研究所に入所。同年4月、東京美術学校西洋画科に入学し、岡田三郎助の教室で学ぶ。1919年、第8回光風会展に、『お茶の水風景』を出品し初入選する。 1920年3月、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞を受賞。1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学する。ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。 1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞。1929年、『若き日』が第10回帝展で特選を連続受賞。そして、1930年、『弟妹集う』が第11回帝展で帝国美術院賞を受賞する。1931年、36歳にして帝展の審査委員となり、その後も文部省美術展覧会(新文展)、日本美術展覧会(日展)などと改名した官展の審査員を歴任。1937年、ジョージ6世戴冠記念観艦式に参加する軍艦足柄に乗艦して渡英している。 戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作することとなり、1942年、シンガポールからインドシナへの旅行中に、コタ・バルに15日間滞在し、『安南を憶う』が第5回新文展で昭和奨励賞、野間美術奨励賞を受賞。 作戦記録画『コタ・バル』(東京国立近代美術館蔵、無期限貸与作品)が第1回大東亜戦争美術展に展示され、朝日文化賞(後の朝日賞)を受賞。中村が描いたと確認できる戦争画は17点で、これは藤田嗣治の19点には及ばないもののトップクラスの点数であり、「戦争期に画業の一頂点をなした」とも言われている。 戦後、『南支某基地』を含む戦争画9点がGHQに軍事主義的であるとして没収。1970年、アメリカ合衆国から無期限貸与の形で返還され東京国立近代美術館に収蔵された。 1945年5月、東京大空襲により代々木の住居とアトリエを焼失。戦後は、小金井市中町に転居し永住。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙された。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。妻をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。 1967年8月28日、胃癌により国立癌センターにおいて死去。享年72。 翌29日、政府は従四位勲二等瑞宝章を送ることを決定した。 1989年、中村の作品を死後も守り続けてきた妻の富子が、それらを長く後世へ伝えたいと、「中村研一記念美術館」を独力で開館しており、後に小金井市へ寄贈され、改修などを経て、 2006年に「中村研一記念小金井市立はけの森美術館」として開館した。
裸婦 1928年
弟妹集ふ 1930年
コタ・バル 1942年
婦人像 1945年
自画像 1958年
緑の中 1959年
『絵画の見かた―画家と美学者との対話 』矢崎美盛との共著(岩波新書、1953年) 『中村研一画集』六藝書房、1980年 ^ 日外 2017. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員11頁 ^ 『東京美術学校一覧 従昭和14年至昭和15年』(東京美術学校、1939年) 149頁 ^ 官展歴代受賞者リスト ^ 訃報欄『朝日新聞』昭和42年8月28日夕刊、3版、9面 ^ “中村研一 南支某基地”. 独立行政法人 国立美術館. 2022年9月2日閲覧。 ^ 25年ぶり戦争絵画 報道関係者に公開『朝日新聞』昭和45年(1970年)6月16日夕刊、3版、9面 ^ 訃報欄『朝日新聞』昭和42年8月29日夕刊、3版、9面 ^ “はけの森美術館について”. はけの森美術館 (2019年). 2022年9月2日閲覧。 ^ 中村ひの 「《大雪山》と中村研一の風景 ー国立公園絵画コレクションと画家の交点ー」服部文孝ほか編集 小杉放菴記念日光美術館特別協力 『平成29・30年度市町村美術館活性化事業 第18回共同巡回展 小杉放菴記念日光美術館所蔵 絵画で国立公園めぐり ーー』 第18回共同巡回展実行委員会、2018年4月28日、第8図、pp.96-99 日外アソシエーツ編『昭和人物事典 戦前期』日外アソシエーツ、2017年。ISBN 978-4-8169-2650-1。 567頁 高山百合(福岡県立美術館学芸員)編集 『福岡県立美術館・宗像市・新居浜市美術館連携事業 没後50年 中村研一展』 福岡県立美術館 宗像市 新居浜市美術館、2018年2月3日 林倭衛 パリ時代の画家仲間 光風会 ウィキメディア・コモンズには、中村研一に関するカテゴリがあります。 中村 研一:作家別作品リスト - 青空文庫 中村研一 :: 東文研アーカイブデータベース - 東京文化財研究所 中村研一|『靖国の絵巻』|國學院大學 はけの森美術館:小金井市公式WEBへようこそ VIAF 日本 韓国 CiNii Books CiNii Research 洋画家 20世紀日本の画家 朝日賞受賞者 日本藝術院会員 従四位受位者 勲二等瑞宝章受章者 東京芸術大学出身の人物 福岡県立修猷館高等学校出身の人物 福岡県出身の人物 胃癌で亡くなった人物 1895年生 1967年没 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事
2025/01/24 19:00更新
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nakamura kenichi
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