今村明恒の情報(いまむらあきつね) 地震学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
今村 明恒さんについて調べます
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今村明恒と関係のある人
大森房吉: 1905年に同じ講座の助教授であった今村明恒が、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を雑誌『太陽』に寄稿した。 北村有起哉: MEGAQUAKE 巨大地震 III(2013年4月14日、NHK総合)- 語り、再現ドラマ(今村明恒役) 飯田汲事: 今村明恒とともに設定した津波等級は現在でも広く使われている。 上山明博: 「大森房吉と今村明恒─二人の地震学者が成そうとしたこと」(『歴史街道:関東大震災100周年特集』PHP研究所,2023年10月・通巻426号所載) 上山明博: 『関東大震災を予知した二人の男─大森房吉と今村明恒』産経新聞出版,2013年,ISBN 978-4-819-11224-6 内藤多仲: 【耐震建築五訓】地震学者の今村明恒の言葉を基に内藤が作った耐震建築についての教え 三松正夫: 11月上旬、現地調査に訪れた火山学者・大森房吉、今村明恒、田中館秀三らの案内役を務め火山学への造詣を深めた。 |
今村明恒の情報まとめ
今村 明恒(いまむら あきつね)さんの誕生日は1870年6月14日です。鹿児島出身の地震学者のようです。
現在、卒業、解散、趣味に関する情報もありますね。1948年に亡くなられているようです。
今村明恒のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)今村 明恒(今村 明恆、いまむら あきつね、1870年6月14日〉明治3年5月16日〉 - 1948年〈昭和23年〉1月1日)は、日本の地震学者。東京帝国大学教授、日本地震学会会長。学位は理学博士(1905年・文部大臣)。 1870年(明治2年)、現在の鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士・今村明清の三男として生まれる。 鹿児島高等中学造士館予科、第一高等中学校卒業。1891年(明治24年)、帝国大学理科大学物理学科入学。帝国大学大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となる。1896年(明治29年)からは陸軍教授を兼任し、陸軍参謀本部陸地測量部で数学を教えた。明治三陸地震発生を期に、1899年(明治32年)に津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した。現在では広く受け入れられている説であるが、発表当時はほとんど受け入れられなかった。1905年(明治38年)4月10日、文部大臣から理学博士の学位を授与される。 明恒は、震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録(歴史地震)から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想。1905年(明治38年)に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、震災対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を雑誌『太陽』に寄稿した。この記事は新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。そして上司であった大森房吉らから世情を動揺させる浮説として攻撃され、「ホラ吹きの今村」と中傷された(大森・今村論争)。 しかし1923年(大正12年)9月1日に関東大震災(関東地震)が発生し、明恒の警告が現実のものとなった。その後、関東大震災の地震を予知した研究者として「地震の神様」と讃えられるようになった。翌月には、摂政宮を務めていた皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)に震災について進講し、当時の最先端理論であった地震は地球の地殻のせめぎ合いで起きることや大陸漂流説のほか、今回の震源が相模湾と推測されること、江戸時代に比べて近代化に伴い可燃性の石油など市中に増えたにもかかわらず消防能力が「殆ど皆無」に低下していたことを指摘。地震自体の防止は不可能だが、火災の防止は可能であるとして防災の大切さを訴えた。この時の手書き原稿『一般地震と関東大地震との就いて』は遺品の一つとして現存しており、1929年(昭和4年)1月には学会誌にほぼ同内容で掲載された。 先立つ1911年(明治44年)には今村式強震計を開発した。 1923年(大正12年)に亡くなった大森の後を継いで地震学講座の教授に昇進する。1925年(大正14年)に北但馬地震、1927年(昭和2年)に北丹後地震が発生し、次の大地震は南海地震と考えた明恒は、これを監視するために1928年(昭和3年)に南海地動研究所(現・東京大学地震研究所和歌山地震観測所)を私費で設立した。明恒の予想通り1944年(昭和19年)に東南海地震、1946年(昭和21年)に南海地震が発生した。東南海地震後には南海地震の発生を警告したものの、被害が軽減できなかったことを悔やんだと言われる。 1929年(昭和4年)、1892年(明治25年)に解散していた日本地震学会を再設立し、その会長となった。専門誌『地震』の編集にも携わった。1931年(昭和6年)に東大を定年退官したが、その後も私財を投じて地震の研究を続けた。1933年(昭和8年)に三陸沖地震が発生した際には、その復興の際に津波被害を防ぐための住民の高所移転を提案した。また、津波被害を防ぐには小学校時代からの教育が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書への収載を訴えた。それが実現した後、1940年(昭和15年)に『『稲むらの火』の教え方について』を著して、その教え方についても詳しく指導している。 1944年(昭和19年)12月7日に前述の東南海地震が発生した際には、陸地測量部が掛川-御前崎の水準測量を行っていた。この測量は今村の強い働きかけによるものであった。この測量の時、地震前日から御前崎が隆起する動きが確認できた。これが現在の東海地震の発生直前の地震予知が可能であるという根拠とされている。墓所は多磨霊園。 浄瑠璃語りを趣味とし、宴会で披露していたという。 上京時に方言で苦労した自らの体験から、1915年に地方出身者のための東京弁の指導書である『東京辯』を著している。 妻・ヨシ ‐ 薩摩藩士・上村慶介の二女。姉の夫・長崎剛十郎は長崎省吾の甥。 二男・今村久 ‐ 地震学者。 弟・今村明光 ‐ 医学者。岳父に平井政遒。 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章 1931年(昭和6年)4月15日 - 従三位 『地震学』(大日本図書、1905年) 『地震講話』(岩波書店、1924年) 『『稲むらの火』の教え方について』(1940年) 『鯰のざれごと』(三省堂、1941年) 『地震の国』(文藝春秋、1949年) 『大地震の前兆に関する資料』(古今書院、1977年) 『星と雲・火山と地震』(アルス〈日本児童文庫 〉、1930年) 「東京に於ける地震波三角観測の結果に就て」Tokyo Sugaku-Butsurigakukwai Kiji-Gaiyo Vol.2 (1903-1906) No.13 pp.151-153, doi:10.11429/subutsugaiyo1903.2.151 「東京ニ於ケル地震波三角觀測ノ結果ニ就テ」Tokyo Sugaku-Butsurigakkwai Hokoku Vol.2 (1903) No.14 pp.151-153, doi:10.11429/subutsuhokoku1901.2.14_151 「明治四十四年ノ喜界島地震」『震災豫防調査會報告』第77號(1913年10月)pp.88-102 大正十一年島原地震ニ關聯セル地盤垂直變動調査報告『震災豫防調査會報告』第99號(1925年3月)pp. 12-15 「關東大地震ニ因レル各地方火災」『震災豫防調査會報告』第100號(戌), 1925年3月 pp.271-280 「南海道大地震に關する貴重な史料」『地震』第1輯 Vol.2 (1930) No.5 pp.326-328, doi:10.14834/zisin1929.2.326 「地震と火災」『地震』第1輯 Vol.6 (1934) No.12 pp.675-676, doi:10.14834/zisin1929.6.675 「元祿7年及寶永元年兩度の能代地震に伴へる陸地變形に就て」『地震』第1輯 Vol.8 (1936) No.2 pp.51-56_1, doi:10.14834/zisin1929.8.51 「[1]」『地震』第1輯 Vol.10 (1938) No.9 P394-404, doi:10.14834/zisin1929.10.394 「ヂアナ艦の津浪遭難記」『地震』第1輯 Vol.11 (1939) No.12 pp.588-598, doi:10.14834/zisin1929.11.588 「濃尾大地震の前徴に就いて」『地震』第1輯 Vol.15 (1943) No.12 pp.336-341, doi:10.14834/zisin1929.15.336 田中館秀三、三松正夫、今村明恒「有珠山の噴火状況」『地震』第1輯 Vol.16 (1944) No.10 pp.280-287, doi:10.14834/zisin1929.16.280 『関東大震災を予知した二人の男─大森房吉と今村明恒』上山明博著、産経新聞出版、2013年(関東大震災から90年目に刊行) 『関東大震災』吉村昭著、文藝春秋、1973年(関東大震災から50年目に刊行) 西澤修「日本の地震予知研究史―先駆者今村明恒と当時の地震学― (PDF) 」『地質ニュース』494号(1995年10月)pp.43-59 島村英紀「地震予知の語り部・今村明恒の悲劇」『武蔵野学院大学日本総合研究所研究紀要』第7輯(2010年3月発行)pp.101-111, NAID 40018744771 山下文男『君子未然に防ぐ―地震予知の先駆者今村明恒の生涯』東北大学出版会、2002年。ISBN 978-4925085571 ^ 『367日命日大事典』日外アソシエーツ、2008年9月25日、3頁。ISBN 978-4-8169-2133-9。 ^ 今村明恒『鯰のざれごと』三省堂、1941年 ^ 『今村明恒』 - 国立国会図書館デジタルコレクション 『官報』第6530号(明治38年4月11日)414頁 ^ 『太陽』第11巻第12号(1905年9月1日)162-171頁 ^ 今村明恒(歴史が眠る多磨霊園) ^ 今村明恒 Archived 2008年5月5日, at the Wayback Machine.(田中舘愛橘記念科学館) ^ 「地震博士」直筆の進講原稿 昭和天皇に関東大震災の翌月『産経新聞』朝刊2023年5月1日(社会面)2023年5月6日閲覧 ^ 「今村式2倍強震計の構造図」『地震』第2輯 Vol.41 (1988) No.2 pp.283-285, doi:10.4294/zisin1948.41.2_283 ^ 水準測量データの再検討による 1944 年東南海地震プレスリップ 木股文昭・鷺谷 威、2005年2月、地震予知連絡会トピックス, NAID 10020293966 ^ 今村明恒(田中舘愛橘記念科学館) ^ 今村明恒『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年 ^ 『帝国大学出身人名辞典 第1巻』(日本図書センター、2003年)232頁(イ(ヰ) 一四四) ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日 ^ 『官報』第1317号「叙任及辞令」1931年5月23日 寺田寅彦 佐野利器 内田祥三 後藤新平 地球科学者 大日本帝国陸軍文官一覧 災害記念碑 山下文男 『関東大震災を予知した二人の男 ─大森房吉と今村明恒』鼎談書評「文藝春秋」第91巻第13号(2013年12月発行)411-413頁 「主要参考文献」上山明博『関東大震災を予知した二人の男─大森房吉と今村明恒』産経新聞出版、2013年、262-263頁 「今村明恒」 - 田中舘愛橘記念科学館 「今村明恒」作家別作品リスト(青空文庫) 「地震博士の進講原稿発見 100年前、昭和天皇に 関東大震災で緊急説明」(産経新聞2023年4月30日) 島村英紀のホームページ
今村明恒の関東地震後から二ヶ月の日記 関東大震災100年、地震防災の先駆者・今村明恒が残した教訓とは? (読売新聞2023年7月22日) FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ イスラエル アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research Trove(オーストラリア)
IdRef 今村明恒 日本の地震学者 日本の地球科学者 帝国学士院会員 日本学士院会員 東京大学の教員 大日本帝国陸軍文官 従三位受位者 東京大学地震研究所の人物 東京大学出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 中学造士館出身の人物 鹿児島県出身の人物 1870年生 1948年没 多磨霊園に埋葬されている人物 Webarchiveテンプレートのウェイバックリンク FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 Trove識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2025/01/27 08:02更新
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