佐野稔の情報(さのみのる) フィギュアスケート 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
佐野 稔さんについて調べます
■名前・氏名 |
佐野稔と関係のある人
羽生結弦: ベガルタ仙台の本拠地である仙台スタジアムから徒歩17分のコナミスポーツクラブ泉のリンク(現アイスリンク仙台)で1999年に佐野稔が開催した子供スケート教室に姉が通い始め、この姉の影響により羽生も4歳でスケートを始めた。 佐藤信夫: 初めて世界の表彰台に立った教え子は、都築章一郎とともに指導した佐野稔。 本田武史: なお日本男子シングル選手としては、1977年世界選手権の佐野稔以来25年ぶり2人目となる念願の銅メダルを獲得した。 荒川静香: 2002-2003シーズン、練習拠点を神宮外苑スケート場に移し佐野稔に師事、振付はニコライ・モロゾフに依頼した。 渡部絵美: 引退後は、アイスショー等で佐野稔と一時期ペアを組んだり、ジュニアの育成に力を入れていた時期もあったが、1990年代ころからタレント活動、講演も行い、活動の中心はスケート教室で東京を中心に子供たちを教えている。 松村充: 佐野稔とは親友で、ライバル関係でもある。 |
佐野稔の情報まとめ
佐野 稔(さの みのる)さんの誕生日は1955年6月3日です。山梨出身のフィギュアスケート選手のようです。
卒業、現在、引退、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。佐野稔の現在の年齢は69歳のようです。
佐野稔のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)佐野 稔(さの みのる、1955年6月3日 - )は、日本の元フィギュアスケート選手。日本大学鶴ヶ丘高等学校、日本大学卒業。1976年インスブルックオリンピック男子シングル日本代表。1977年世界選手権3位。現在は明治神宮外苑アイススケート場ヘッドコーチ、日本フィギュアインストラクター協会理事長。日本スケート連盟理事(平成24・25年度)。解説者としても活動している。 座右の銘は「無我の境地」。実娘の佐野緑もプロスケーターで、ディズニー・オン・アイスの2005年度日本公演に出演している。弁護士の菰田優元日本弁護士連合会事務総長は長年の友人。 1955年、山梨県東八代郡石和町(現在の笛吹市)に生まれる。4歳のときに精進湖で初めてスケート靴を履き、小学校に上がるころからは兄や姉とともに甲府の屋内スケート場に通うようになった。小学1年生のとき、合宿に来ていた日本大学スケート部の練習を父に連れられて見学に行き、部のキャプテンであった都築章一郎に出会う。以来、競技を引退するまで都築に師事した。 中学生のころからは国際大会に派遣されるようになった。1972年から1976年まで全日本選手権男子シングルで5連覇。当時は男子でも跳ぶ選手が少なかった3回転ルッツを武器に、1973年から1977年まで5年連続で世界選手権に出場。1975年の世界選手権では、大会の4日前に足を捻挫(後に検査で亀裂骨折とわかる)しながら10位に入り、インスブルックオリンピックの男子シングル出場枠を2つ確保した。日本大学鶴ヶ丘高等学校在学。 1976年、日本大学在学中の20歳のときに開催された1976年インスブルックオリンピックに出場。男子シングルに出場したが9位となった。 1977年、世界選手権(東京開催)で男子シングル3位となり、日本人初の銅メダルを獲得。『ブダペストの心』で滑ったフリーの評価は1位だった。この大会を最後に競技生活を引退し、プロスケーターに転向する。 1978年、日本初のアイスショー「VIVA! ICE WORLD」(現「プリンスアイスワールド」)を開催。日本にアイスショーの魅力を広めることに情熱を注いだ。アイスショーでは渡部絵美とペアを組んでいた時期もある。また、同時期には、「アイスショーの宣伝」や「ショーマンとしての肥やし」になるという考えから歌手デビュー。テレビドラマやミュージカルにも出演した。 リンクの上で後方宙返りをする事でも有名。この後方宙返りは、アイスショー「目玉」となるインパクトのある技、それもショーの理想として自身が想い描いていた「スポーツ的な迫力」を象徴するような技が欲しいという思いから習得したという。フィギュアスケート解説者としても活躍し、かつてはフジテレビ系『FNNニュースレポート6:00』のスポーツキャスターも務めたことがある。また、JOCのフィギュアスケート強化コーチとして、長年に渡り若手育成に力を注いでいる。 報道・情報番組 バラエティ番組・ドラマ
ドラマ『ある日突然?!スパゲティ・ママの青春白書』(1980年9月25日 - 12月4日、テレビ朝日) 上杉正之 役 ドラマ『池中玄太80キロ 第2シリーズ』 第4話「この眼で見たんだ!」(1981年4月25日、日本テレビ) 本人 役 ドラマ『胸さわぐ苺たち』(1983年10月13日 - 1984年1月12日、TBSテレビ、毎週木曜日) フィギュアスケートコーチ 役
CM
ハウス食品「ジョリエール2」
他多数。 佐野稔・渡辺しのぶ「君がいるから」/(B面 佐野稔「星空のバラード」)(1978年、東芝EMI TP-10368) 『氷上より愛をこめて 愛・夢・スケーター』 1982年4月、講談社 ^ 【羽生結弦へ…恩師の想い】佐野稔氏「日本のフィギュアスケートの歴史を全て書き換え、世界の歴史も書き換えた」 - サンケイスポーツ(2022年7月20日)2022年9月20日閲覧。 ^ 明治神宮外苑アイススケート場公式サイト - インストラクター紹介 ^ 日本フィギュアスケーティングインストラクター協会公式サイト - 役員リスト ^ 「ディズニー・オン・アイス」公演 日本女性3人が好演 ^ ゴルフ交遊抄#144 佐野稔(元フィギュアスケート選手)&菰田優(弁護士)(2)字幕放送 BSテレ東4KBSテレ東4K 2018年12月30日(日) 07時30分~08時00分テレビ東京 ^ 「伝説のスケーター file.1 佐野稔」 ^ 日本のメダリストのコーチたち~都築章一郎編(1) ^ 日本のメダリストのコーチたち~都築章一郎編(3) ^ 男子シングルでは佐藤信夫の10連覇に次ぐ歴代2位の記録 ^ 他の出場者は日本代表は松村充、渡部絵美 ^ 日本の選手としては1989年大会における伊藤みどりの金メダル獲得、日本男子に限れば2007年大会における髙橋大輔の銀メダル獲得まで、長らく最高位の記録を保ち続けた(2002年大会では本田武史が銅メダルで並んでいる)。 「伝説のスケーター file.1 佐野稔」『フィギュアスケートDays vol.1』DAI-X出版、2006年11月、pp.78-79 アイスリンク仙台 明治神宮外苑 佐野稔 - Olympedia(英語) 表 話 編 歴 1929: 久保信 1930: 老松一吉 1931: 佐藤金吾 1932-1934: 片山敏一 1935: 北川静二 1936-1937: 片山敏一 1938: 神田博 1939-1940: 有坂隆祐 1946-1947: 有坂隆祐 1949: 酒井克己 1950: 有坂隆祐 1952: Jack.B.Johnston 1953: 小林正水 1954: 大橋和夫 1955: 杉田秀男 1956-1965: 佐藤信夫 1966-1968: 小塚嗣彦 1969-1971: 樋口豊 1972-1976: 佐野稔 1977: 五十嵐文男 1978: 松村充 1979-1981: 五十嵐文男 1982: 染矢慎二 1983-1986: 小川勝 1987-1988: 加納誠 1989: 藤井辰哉 1990-1992: 鍵山正和 1993: 及川史弘 1994: 天野真 1995-1996: 本田武史 1997: 田村岳斗 1998: 竹内洋輔 1999-2000: 本田武史 2001: 竹内洋輔 2002: 本田武史 2003: 田村岳斗 2004: 本田武史 2005-2007: 髙橋大輔 2008: 織田信成 2009: 髙橋大輔 2010: 小塚崇彦 2011: 髙橋大輔 2012-2015: 羽生結弦 2016-2019: 宇野昌磨 2020-2021: 羽生結弦 2022-2023: 宇野昌磨 ※ 開催年は年度 1929-65年度は翌年1-4月、1966-81年度は同年11-12月、1982-96年度は翌年1月、1997年度以降は同年12月に開催された。 男子シングル 女子シングル ペア アイスダンス ジュニア男子シングル ジュニア女子シングル VIAF 日本 人物の画像提供依頼 日本の男子シングルスケーティング選手 オリンピックフィギュアスケート日本代表選手 世界フィギュアスケート選手権日本代表選手 プロフィギュアスケーター フィギュアスケート解説者 日本のフィギュアスケートコーチ 日本大学鶴ヶ丘高等学校出身の人物 日本大学出身の人物 山梨県出身の人物 1955年生 存命人物 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/19 18:36更新
|
sano minoru
佐野稔と同じ誕生日6月3日生まれ、同じ山梨出身の人
TOPニュース
佐野稔と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「佐野稔」を素材として二次利用しています。