佐藤信夫の情報(さとうのぶお) フィギュアスケート 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
佐藤 信夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
佐藤信夫と関係のある人
佐藤久美子: 夫の佐藤信夫はフィギュアスケートコーチ、娘の有香はプロフィギュアスケーター、振付師、コーチ。 浅田真央: 9月から佐藤信夫コーチに師事し、ジャンプの矯正も続けた。 小塚崇彦: 当初、両親の指導のもとで研鑽を重ねてきたが、小学生の頃から佐藤信夫・久美子夫妻の指導を受けている。 本田真凜: 総合9位に終わったNHK杯の後、佐藤信夫コーチの元で練習を積んでいる。 川崎由紀子: 大学進学後には新横浜に拠点を移し佐藤久美子、佐藤信夫夫妻の指導を受けた。 中村佑介: 黒田節4(2015年5月2日、関西テレビ)メッセンジャー・黒田有、笛木優子、佐藤信夫、川口淳一郎 松村充: 佐藤信夫の指導を受ける。 佐藤有香: 父は佐藤信夫、母は佐藤久美子。 中野友加里: 練習拠点も横浜に移し、佐藤信夫に師事する。 佐藤久美子: 1969年に同じ関西大学出身でフィギュアスケート選手の佐藤信夫と結婚する。 佐藤久美子: 後に夫となる佐藤信夫と共に日本人初のユニバーシアード優勝、二度の冬季オリンピック出場を果たし、世界フィギュアスケート選手権5位(当時の日本人選手最高位)を記録するなど、日本のフィギュアスケートに歴史を刻んだ。 村主章枝: 1999年4月、早稲田大学教育学部社会科社会科学専修に進学し(自己推薦入学)、佐藤信夫に師事する。 本田武史: 第73回全日本選手権では2年ぶり通算6度目の優勝を飾ったものの、同回が自身最後の優勝となった(全日本選手権男子シングルで優勝6回は、佐藤信夫の優勝10回に次ぐ史上2位)。 小林宏一: 1997年から佐藤信夫の指導を受ける。 加藤雅子: コーチは1983年まで佐藤信夫。 村主章枝: 5月からシカゴに練習拠点を移し、オレグ・ワシリエフをコーチに迎えたが、指導が充分に受けられなかったため、12月からは再び新横浜プリンスホテルスケートセンターで佐藤信夫の指導を受けることになった。 本田武史: それでも、日本フィギュアスケート界において男子シングル種目の冬季五輪入賞は、本田が初めての達成者だった(それ迄は1960年スコーバレー五輪で佐藤信夫の8位が最高だったが、当時の入賞者は6位迄だった)。 安藤美姫: 2000-2001シーズンから小塚嗣彦、小塚幸子が教えるオリオンフィギュアスケートクラブに移り、週末は新横浜の佐藤信夫コーチの元にも通うようになる。 |
佐藤信夫の情報まとめ
佐藤 信夫(さとう のぶお)さんの誕生日は1942年1月3日です。大阪出身のフィギュアスケート選手のようです。
経歴、主な戦績などについてまとめました。卒業、引退、結婚、母親、退社に関する情報もありますね。佐藤信夫の現在の年齢は82歳のようです。
佐藤信夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)佐藤 信夫(さとう のぶお、1942年1月3日 - )は、日本のフィギュアスケートコーチ。1960年スコーバレー五輪、1964年インスブルック五輪の男子シングル日本代表。1965年世界選手権4位、全日本選手権通算10回(10年連続)優勝。夫人の久美子(旧姓・大川)はフィギュアスケートコーチ、娘の有香はプロフィギュアスケーター、振付師、コーチ。 大阪市出身。関西大学第一高等学校から関西大学に進む。大学卒業とともに競技を引退するつもりだったが、国土計画(現・プリンスホテル)のスケート経験者に声をかけられて入社し、スケートを続けた。尼崎にできた西武のボウリング場に勤めていたため、ボウリングが得意だという。 妻の久美子と初めて会ったのは佐藤が中学生、久美子が小学4年のころ。自身の競技引退後、1968年3月まで久美子のコーチを務めた。1969年に久美子と結婚、1973年に娘・有香が生まれた。 経歴選手時代フィギュアスケートの指導者だった母親について行ったことがこの競技との出会いだった。本格的にスケートとを始めるきっかけは小学5年のクリスマス、「大阪球場スポーツセンタースケートリンク」(難波)開場記念のエキシビションで加藤禮子と有坂隆祐の演技を見たことだった。小学6年の夏休みに難波の永井康三のもとで本格的に習い始めた。 1954年から大阪・朝日アリーナのクラブに入り片山敏一と稲田悦子の指導を受けた。1956年末に山下艶子がコーチに転向すると知って難波に戻り、翌年4月の全日本選手権で初優勝。この大会で日本人として初めて2回転ルッツに成功した。以来、山下のもとで全日本選手権10連覇を達成。全日本選手権10連覇と優勝回数10回の記録は今でも破られていない。後に娘の有香も全日本選手権を制し、父娘で全日本選手権制覇という唯一の記録を持つこととなった。 1960年スコーバレーオリンピック14位。佐藤にとってはこの大会が初めての国際競技会だった。プログラムはスッペの「詩人と農夫」。5分ほどある曲を編集せずに使い、山下艶子が振付けたこのプログラムを、佐藤は8年間滑り続けた。衣装は蝶ネクタイをつけたモーニング風のもので、肩に日の丸をつけ、ズボンは競技用に特注されたものではないごくふつうのものだった。 1962年世界選手権で初めてのヨーロッパの土を踏む(10位)。後にスケーティングの指導で知られることになる佐藤だが、このときはローザンヌでヨーロッパ人の指導者から「フラットエッジで滑っている」と指摘されていた。1963年世界選手権は日本スケート連盟の資金難に加え、日本男子の有力選手が佐藤しかいないため翌年のオリンピック出場枠を取りに行く必要もなかったことから自費参加を申し渡された。一度は出場を諦めたものの、在籍する関西大学が寄付金を集め、また兄が外務省と交渉するなどして出場することができた。1964年インスブルックオリンピックは8位。プログラムや衣装は4年前のスコーバレーオリンピックと同じだが、このころは衣装に伸びる生地が使用されるようになり、ズボンが改良されていた。 1965年世界選手権で日本人初の3回転サルコウを決め、フリー3位、総合4位入賞。国際スケート連盟(ISU)のエキシビションツアーに日本人として初参加。福原美和、大川久美子も一緒に参加した。日本選手団は全日本選手権のためツアー途中で離脱し、これをきっかけに翌翌年度から全日本選手権の開催時期が早くなった。1966年ユニバーシアード(トリノ)優勝。 サルコウとループを好み、試合で見せることはなかったが3回転ループも跳ぶことができた。トウループは、そのような跳び方があると知った時期が遅く、既に感覚がつかめなくなっていた。 コーチとして競技引退後は国土計画の秘書課に勤めていたが、間もなく大川久美子のコーチとして全日本選手権にカムバック。1968年グルノーブルオリンピックでは小塚嗣彦のコーチを務めた。1972年札幌オリンピックに向けて体育協会から日本チーム専任コーチの依頼を受け、国土計画を退社。1968年5月から品川プリンスホテルスケートセンターを拠点として本格的にコーチ業を始めた。 指導者としてアメリカのサマースクールで学び、スイスのアーノルド・ゲルシュイラーとも交流を持つ。アメリカで学んだことをリンク運営にもつぎ込み、品川プリンスに当時の日本としては先進的なリンク貸出システムを導入してリンクの発展に寄与した。日本で否定されていたエッジの機械研ぎを導入したのも佐藤である。1991年に品川プリンスのリンクが閉鎖された後は、生徒を連れて新横浜プリンスホテルスケートセンターに拠点を移している。 初めて世界の表彰台に立った教え子は、都築章一郎とともに指導した佐野稔。以来、松村充、加藤雅子、佐藤有香、荒川静香、安藤美姫、村主章枝、中野友加里、小塚崇彦、浅田真央らを指導してきた。2010年に世界フィギュアスケート殿堂入り。 同じリンクでコーチを務める妻・久美子とはスケーティングを大事に指導する点で共通するが、基本的に夫婦共同で生徒を教えることはしない。掌を上に向けるだけでも怒られる時代に競技生活を送ったため表現面の指導には苦手意識があり、表現やプログラム作り、海外の振付師への依頼は久美子が担当している。 主な戦績
2024/06/15 01:20更新
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satou nobuo
佐藤信夫と同じ誕生日1月3日生まれ、同じ大阪出身の人
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