倉富勇三郎の情報(くらとみゆうざぶろう) 司法官僚 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
倉富 勇三郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
倉富勇三郎と関係のある人
佐野眞一: 『枢密院議長の日記』(2007年、講談社現代新書)- 昭和初期の枢密院議長であった倉富勇三郎が残した膨大な日記を読み解く。 西園寺公望: 西園寺は牧野内大臣ら、高橋臨時首相代理や若槻民政党総裁といった政治家、陸海軍の元帥、平沼に親しい倉富勇三郎枢密院議長とも面談した上で、5月23日に海軍大将の斎藤実元海軍大臣を推薦した。 平沼騏一郎: 翌1926年(大正15年)、倉富勇三郎議長のもとで枢密院副議長に就任。 小原直: 当時の上司倉富勇三郎から見込まれ、千葉地方裁判所検事として赴任。 徳川家達: 倉富勇三郎が牧野から聞いたところによると、家達の同性愛指向は華族間では知る者も多く、貴族院議員・松浦厚はこれに基づき家達の学習院総裁就任の話を潰したことがあるという。 東久邇宮稔彦王: 帰国直後、宮家顧問の倉富勇三郎枢密院議長に「自分らのように皇室との『続柄疎遠』なる者が皇族としているのは条理においても、実際においても良くない」(『倉富日記』1927年4月1日条)と話している。 皇太后良子: 宗秩寮御用掛倉富勇三郎や同総裁徳川頼倫は困惑し、西園寺八郎式部次長は激しく非難した。 徳川家達: 家達に近しい法制官僚・岡野敬次郎が宮内大臣・波多野敬直に柳田を宮内省図書頭に異動させることを依頼するようになり(波多野は難色を示している)、家達と柳田の不和の話を聞いた宮内省官僚・倉富勇三郎が柳田に話を聞いたところ、柳田は家達との不仲や岡野が自分を転任させようと画策していることを認め、自分にも辞職の決意はあるが、しばらくは辞表を出さずに家達を困惑させると告げた。 |
倉富勇三郎の情報まとめ
倉富 勇三郎(くらとみ ゆうざぶろう)さんの誕生日は1853年8月20日です。福岡出身の司法官僚のようです。
卒業、事件、病気に関する情報もありますね。1948年に亡くなられているようです。
倉富勇三郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)倉富 勇三郎(くらとみ ゆうざぶろう、嘉永6年7月16日(1853年8月20日) - 昭和23年(1948年)1月26日)は、明治から昭和にかけての司法、宮内官僚。学位は、法学博士。男爵。 法制局長官、貴族院勅選議員、枢密院議長。法典調査会刑法起草委員。作家広津柳浪は夫人の兄に当たる。 筑後国竹野郡(現、福岡県田主丸町を経て久留米市)の儒学者、倉富胤厚の3男。倉富家は、戦国大名の龍造寺氏の末裔。 父は儒学で知られて久留米藩に仕えた人物であり、幼い頃より父から厳しく漢学を伝授され、咸宜園でも学んだ。1879年(明治12年)に司法省法学校を卒業後司法省に入省し、民刑局長をへて1904年(明治37年)に東京控訴院検事長に就任して、1907年(明治40年)には法学博士を授与されるが、先に発生した日比谷焼打事件で河野広中らを起訴した事が世論の反感を買い、後にその責任を取らされて韓国法部次官(司法次官、当時第三次日韓協約によって各省次官には日本人がつくことになっていた)に左遷された。 1910年(明治43年)の日韓併合によって朝鮮総督府司法部長官に転じ、朝鮮植民地法制の基礎を築いた。その功労によって1914年(大正3年)の第1次山本内閣では、法制局長官に就任。同年3月31日に貴族院議員に任じられた。同内閣の総辞職後は宮内省に移る。1915年(大正4年)6月22日、錦鶏間祗候となる。1916年10月21日、貴族院議員を辞任。1920年(大正9年)に枢密顧問官になると、 大正14年(1925年)に枢密院副議長、翌1926年(大正15年)に枢密院議長に就任するなどして男爵を授けられた。副議長の平沼騏一郎とともに政党政治に懐疑的な人物であり、政党内閣としばしば対立して金融恐慌の際には第1次若槻内閣の倒閣に大きな役割を果たした。 1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約の批准問題では、条約反対を唱えて濱口内閣倒閣を図るが、元老西園寺公望や内大臣牧野伸顕、更に昭和天皇までが内閣擁護の姿勢を見せたためにその圧力に屈した。その後も政党内閣や国際協調には否定的で、満州事変や五・一五事件などの軍部の暴走に対しても軍部に同情的な姿勢を見せた。だが、昭和天皇の信任が揺らいだ事で自信を失い、1934年(昭和9年)に眼病を理由に、平沼を後継に推して議長を辞任した。だが、西園寺は倉富・平沼が軍部に心理的なバックアップを与えているとして反感を抱いており、後任に一木喜徳郎を推挙して任命にこぎつけた。 これに憤慨し倉富は、前官待遇を受けたにも拘らず、故郷に引き籠もって隠居生活に入る。太平洋戦争敗戦後は病気勝ちとなり、それも理由となり戦争犯罪容疑の追及は免れたものの、失意のうちに94歳で病死した。 国立国会図書館「憲政資料室」に、詳細で膨大な『倉富勇三郎日記』が所蔵されている。 1882年(明治15年)2月21日 - 正八位 1883年(明治16年)2月13日 - 従七位 1885年(明治18年)10月8日 - 正七位 1891年(明治24年)12月23日 - 従六位 1892年(明治25年)12月12日 - 正六位 1897年(明治30年)5月31日 - 従五位 1898年(明治31年)8月4日 - 正五位 1903年(明治36年)9月30日 - 従四位 1908年(明治41年)8月20日 - 正四位 1913年(大正2年)9月30日 - 従三位 1914年(大正3年)4月30日 - 正三位 1923年(大正12年)11月20日 - 従二位 1928年(昭和3年)12月1日 - 正二位 1893年(明治26年)6月29日 - 勲六等瑞宝章 1897年(明治30年)12月28日 - 勲五等瑞宝章 1898年(明治31年)6月29日 - 双光旭日章・銀杯一個 1899年(明治32年)6月20日 - 勲四等瑞宝章 1903年(明治36年)
6月26日 - 勲三等瑞宝章 1907年(明治40年)6月13日 - 法学博士学位記 1909年(明治42年)4月18日 - 皇太子渡韓記念章 1910年(明治43年)6月24日 - 勲二等瑞宝章 1911年(明治44年)6月13日 - 旭日重光章 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章 1913年(大正2年)12月27日 - 金杯一組 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正) 1919年(大正8年)9月29日 - 勲一等瑞宝章 1926年(大正15年)
10月28日 - 男爵 1927年(昭和2年)3月15日 - 御紋付銀杯 1928年(昭和3年)
11月10日 - 大礼記念章(昭和) 12月28日 - 旭日桐花大綬章 1931年(昭和6年)3月20日 - 帝都復興記念章 1932年(昭和7年)1月14日 - 御紋付銀杯 1934年(昭和9年)4月29日 - 金杯一組 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 1942年(昭和17年)1月15日 - 御紋付木杯 1909年(明治42年)10月26日 - 大韓帝国:勲一等太極章 1910年(明治43年)
8月28日 - 大韓帝国:李花大勲章 1932年(昭和9年)
5月9日 - 満州帝国:勲一位竜光大綬章 1933年(昭和10年)9月21日 - 満州帝国:満州帝国皇帝訪日記念章 倉富胤厚 - 父。儒学者、政治家(福岡県会議員)。 倉富恒二郎 - 兄。政治家(福岡県会議員)、新聞経営者。 倉富鈞 - 長男、貴族院男爵議員。 荒井賢太郎 - 政治家。長男の岳父。 広津和郎 - 作家。柳浪の息子。 ^ 『官報』第501号、大正3年4月2日。 ^ 『官報』第867号、大正4年6月23日。 ^ 『官報』第1269号、大正5年10月23日。 ^ 「岡野副議長の後任に倉富勇三郎」『時事新報』1925年12月29日夕刊(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.319 毎日コミュニケーションズ 1994年) ^ 「倉富勇三郎」 アジア歴史資料センター Ref.A06051178500 ^ 『官報』第684号「叙任及辞令」1885年10月9日。 ^ 『官報』第2547号「叙任及辞令」1891年12月24日。 ^ 『官報』第2839号「叙任及辞令」1892年12月13日。 ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。 ^ 『官報』第4530号「叙任及辞令」1898年8月5日。 ^ 『官報』第6076号「叙任及辞令」1903年10月1日。 ^ 『官報』第7547号「叙任及辞令」1908年8月21日。 ^ 『官報』第353号「叙任及辞令」1913年10月1日。 ^ 『官報』第525号「叙任及辞令」1914年5月1日。 ^ 『官報』第3378号「叙任及辞令」1923年11月26日。 ^ 『官報』第580号「叙任及辞令」1928年12月3日。 ^ 『官報』第3000号「叙任及辞令」1893年6月30日。 ^ 『官報』第4350号「叙任及辞令」1898年1月4日。 ^ 『官報』第4501号「叙任及辞令」1898年7月2日。 ^ 『官報』第4501号「彙報 - 官庁事項 - 褒章 - 金杯銀杯下賜」1898年7月2日。 ^ 『官報』第4792号「叙任及辞令」1899年6月23日。 ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。 ^ 『官報』第5995号「叙任及辞令」1903年6月27日。 ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。 ^ 『官報』第8105号「叙任及辞令」1910年6月29日。 ^ 『官報』第8392号「叙任及辞令」1911年6月14日。 ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。 ^ 『官報』第427号「叙任及辞令」1913年12月29日。 ^ 『官報』第1311号・付録「辞令」1916年12月14日。 ^ 『官報』第2147号「叙任及辞令」1919年9月30日。 ^ 『官報』第4241号「叙任及辞令」1926年10月12日。 ^ 『官報』第4255号「授爵・叙任及辞令」1926年10月29日。 ^ 『官報』第602号「叙任及辞令」1928年12月29日。 ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。 ^ 『官報』第1510号「宮廷録事-恩賜」1932年1月15日。 ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。 ^ 『官報』第4504号「宮廷録事 - 恩賜」1942年1月16日。 ^ 『官報』第7906号「叙任及辞令」1909年10月29日。 ^ 『官報』第8107号「叙任及辞令」1910年7月1日。 ^ 『官報』第8380号「叙任及辞令」1911年5月31日。 ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、552頁。 『倉富勇三郎日記』(全9巻)、国書刊行会、2010年(平成22年)11月より巻順に刊 佐野眞一『枢密院議長の日記』、講談社現代新書、2007年10月 -「倉富日記」を用いた伝記。 浅野豊美『帝国日本の植民地法制 法域統合と帝国秩序』名古屋大学出版会、2008年。ISBN 4815805857 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。 国立国会図書館 憲政資料室 倉富勇三郎関係文書 倉富勇三郎日記研究京都大学文学研究科現代文化学専攻現代史学専修永井ゼミ
表 話 編 歴 山尾庸三 井上毅 尾崎三良 末松謙澄 神鞭知常 梅謙次郎 神鞭知常 平田東助 奥田義人 一木喜徳郎 岡野敬次郎 安広伴一郎 岡野敬次郎 一木喜徳郎 岡野敬次郎 倉富勇三郎 高橋作衛 有松英義 横田千之助 馬場鍈一 松本烝治 佐竹三吾 塚本清治 山川端夫 前田米蔵 川崎卓吉 武内作平 斎藤隆夫 島田俊雄 堀切善次郎 黒崎定三 金森徳次郎 大橋八郎 次田大三郎 川越丈雄 瀧正雄 船田中 黒崎定三 唐沢俊樹 広瀬久忠 村瀬直養 森山鋭一 三浦一雄 村瀬直養 楢橋渡 石黒武重 入江俊郎 佐藤達夫 佐藤達夫 佐藤達夫 佐藤達夫 林修三 林修三 高辻正己 吉國一郎 真田秀夫 角田礼次郎 茂串俊 味村治 工藤敦夫 大出峻郎 大森政輔 津野修 秋山收 阪田雅裕 宮﨑礼壹 梶田信一郎 山本庸幸 小松一郎 横畠裕介 近藤正春 岩尾信行 FAST ISNI VIAF WorldCat アメリカ 日本 日本の枢密顧問官 貴族院勅選議員 大正時代の貴族院議員 錦鶏間祗候 日本の宮内省関係者 法制局長官 朝鮮総督府の人物 統監府の人物 戦前日本の司法官僚 日本の検察官 司法省法学校出身の人物 日本の男爵 咸宜園の塾生 勲一等旭日桐花大綬章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 勲二等旭日重光章受章者 勲四等旭日小綬章受章者 勲五等双光旭日章受章者 勲一等瑞宝章受章者 勲二等瑞宝章受章者 勲三等瑞宝章受章者 勲四等瑞宝章受章者 勲五等瑞宝章受章者 勲六等瑞宝章受章者 太極章受章者 龍造寺氏 福岡県出身の人物 1853年生 1948年没 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/13 17:24更新
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