平沼騏一郎の情報(ひらぬまきいちろう) 司法官僚 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
平沼 騏一郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
平沼騏一郎と関係のある人
金内喜久夫: 日本のいちばん長い日(2015年、東宝) - 平沼騏一郎 西園寺公望: また森恪内閣書記官長らは平沼騏一郎枢密院副議長による内閣を企図していたが、彼はファシスト的な革新派の一員であった。 犬養毅: この時期は武官または軍部出身者が総理になることが多く、終戦まで文官の総理は広田弘毅、近衛文麿と平沼騏一郎だけである。 桜内幸雄: 1931年(昭和6年)第2次若槻礼次郎内閣の商工相、1939年(昭和14年)平沼騏一郎内閣農相、1940年(昭和15年)米内光政内閣蔵相を歴任。 倉富勇三郎: 副議長の平沼騏一郎とともに政党政治に懐疑的な人物であり、政党内閣としばしば対立して金融恐慌の際には第1次若槻内閣の倒閣に大きな役割を果たした。 米内光政: 8月9日の御前会議で、東郷茂徳、米内光政、平沼騏一郎は、「天皇の地位の保障のみ」を条件とするポツダム宣言受諾を主張。 田中義一: 鈴木喜三郎は国粋主義者として名高い平沼騏一郎(後の大審院長・枢密院議長・首相)が寵愛する司法官僚で自由主義を敵視していた人物であり、久原房之助は田中自身の出身母体である陸軍長州閥と結んでいた政商であった。 椎名悦三郎: また、平沼騏一郎内務大臣の意を受けた検察は同じく革新官僚の拠点である企画院でも強制捜査を行い、稲葉秀三、和田博雄、勝間田清一、佐多忠隆らを治安維持法違反容疑で逮捕した(企画院事件)。 尾崎行雄: 部下には平沼騏一郎や鈴木喜三郎を置き、蔵相・若槻禮次郎、外相・加藤高明、海相・八代六郎辞職後の内閣改造で活躍する。 近衛文麿: 内務大臣となった平沼騏一郎は経済新体制確立要綱を骨抜きにさせて決着を図り、平沼らはさらに経済新体制確立要綱の原案作成者たちを共産主義者として逮捕させ、岸信介も辞職した。 朝比奈宗源: 1945年、広島に原爆が投下されるや、木戸幸一内府や平沼騏一郎らに終戦決断を迫ったとされる。 三土忠造: だが、帝人事件自体が検事総長・大審院院長を務め日本の司法を左右できるだけの実力を持った枢密院副議長平沼騏一郎の政友会に対する個人的怨恨から来たと言われている。 河合良成: いまではこの事件は斎藤実内閣倒閣を目論んだ、司法部内の平沼騏一郎系ファッショ勢力による政治的謀略だったという見方が通説になっており、結局無罪判決を勝ち取る。 岡田啓介: 在任中に天皇機関説をめぐる問題が起こり、岡田内閣は機関説支持とみられたため、岡田内閣倒閣を狙う陸軍の皇道派や、蓑田胸喜など平沼騏一郎周辺の国家主義勢力からも攻撃されることになった。 大森義夫: 日本の戦後 第8話「審判の日」(1978年、NHK) - 平沼騏一郎 塩田広重: ピストルで撃たれた平沼騏一郎の手当も行った。 馬場義続: 田原総一朗は元検事の聞き取りとして、馬場の処世術について触れ、「検察官として、極く平均的な生き方をした人間」として平沼騏一郎がおり、平沼が出世した理由として、政治家のちょっとしたスキャンダルを見つけてきては、それをフレームアップする。 近衛文麿: 近衞の後を承けたのは前枢密院議長の平沼騏一郎だったが、平沼内閣には近衞内閣から司法兼逓・文部・内務・外務・商工兼拓務・海軍・陸軍の七大臣が留任した上、枢密院に転じた近衞自身も班列としてこれに名を連ねた。 鈴木貫太郎: 若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎らは首相に鈴木を推したが、鈴木は驚いて「かねて、岡田閣下にも申したことがあるけれども、軍人が政治に身を乗り出すのは国を滅ぼすものだと考えている。 鈴木喜三郎: 鈴木は平沼騏一郎の元で司法官僚として重用され、政友会の松田正久と協力関係を構築して司法部改革を実施した。 松岡洋右: 独ソ開戦とともに三国同盟の目的が有名無実になったとして日独伊三国同盟の即時破棄を主張する閣僚(鈴木貞一、平沼騏一郎ら)もいたが、松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソビエトをドイツとともに挟撃することを閣内で主張し、南部仏印進駐に関しては閣内で強硬に反対、いわゆる北進論を主張する。この頃の松岡はそのあまりの独断専行ぶりから、かつては協力関係にあった陸軍とも対立するようになっており、また閣内でも平沼騏一郎ら反ドイツ的見解の閣僚と対立、孤立を深めていた。 嵯峨善兵: TBS開局30年記念ドラマ / そして戦争が終った(1985年、TBS) - 平沼騏一郎 白鳥敏夫: 米内海相は両大使を召還するべきだと主張したが、平沼騏一郎首相は召還しても無駄だと言うばかりであった。 岡田啓介: 若槻禮次郎、近衛文麿、米内光政、またかつては政治的に対立していた平沼騏一郎といった重臣達が岡田を中心に反東條で提携しはじめる。 東郷茂徳: 東郷は「皇室の安泰」のみを条件としてポツダム宣言受諾をすべきと主張し、米内海相と平沼騏一郎枢密院議長がこれに賛成した。 塩野季彦: 塩野らの拠って立つ「国家有用論」はいわば清濁併せ呑む融通性をもって古くは桂太郎、そして平沼騏一郎の支持を取り付け、一大派閥を形成した。 東條英機: 前年の中野正剛たちによる倒閣運動は中野への弾圧と自殺によって失敗したが、この時期になると岡田啓介、若槻礼次郎、近衛文麿、平沼騏一郎たち重臣グループが反東條で連携し始める。 斎藤実: 当初、犬養首相の後任は同立憲政友会の次期総裁から選出されるものと目されており、政友会右派の森恪らが司法官僚の平沼騏一郎を次期総裁に担ぐ動きもあったが、結果的に鈴木喜三郎(鳩山一郎の義弟)が次期総裁に選出された。 末次信正: 右翼的傾向があり、国家主義者でもあった末次は、連合艦隊司令長官の頃から政治的野心を持ち始めたといわれ、平沼騏一郎・松岡洋右・近衛文麿と交流を持ち次第に政治力を強めていった。 御厨貴: 高2の夏休みに「平沼騏一郎と国本社」の題で論文をまとめ、校友誌に発表したところ、神島二郎が朝日新聞紙にペンネームで書いていたコラムで紹介され、政治史研究者への道を強く意識した。 |
平沼騏一郎の情報まとめ
平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう)さんの誕生日は1867年10月25日です。岡山出身の司法官僚のようです。
卒業、事件、解散、結婚、離婚、脱退、病気、再婚、映画に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1952年に亡くなられているようです。
平沼騏一郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日〈慶応3年9月28日〉- 1952年〈昭和27年〉8月22日)は、日本の司法官僚、検察官、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等男爵。学位は法学博士。号は機外。 大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大学総長(第2代)、大東文化学院総長(初代)、財団法人大東文化協会会頭(第3代)、司法大臣(第26代)、貴族院議員、枢密院副議長(第11代)、枢密院議長(第17・21代)、内閣総理大臣(第35代)、国務大臣、内務大臣(第62代)を歴任。 美作国津山藩士平沼家に生まれる。東京帝国大学法科卒業後、明治21年から司法省に入省し、東京控訴院検事に補せられて以降、検事畑を進み、1905年(明治38年)には大審院検事、1906年(同39年)には司法省民刑局長に就任した。明治40年にはイギリス、ドイツ、フランスへ派遣され、法学博士号を受けた。この間に日糖事件や大逆事件などを取り扱い名を上げた。1911年(明治44年)には刑事局長、1912年(大正元年)には検事総長に補され、以後約10年にわたってその職責にあり、シーメンス事件や大浦事件などで腕を振るい、1917年(大正6年)の官営八幡製鉄所事件では自ら指揮にあたり、同年には法学博士として『刑事訴訟法改正案の要旨』も著した。 1921年(大正10年)、1月1日に皇室中心主義の修養団体国本社を結成し、会誌『国本』の発行を開始した。10月には大審院長に任命された。 1923年(大正12年)には第2次山本内閣に司法大臣として入閣。社会主義の勃興や、同年末に虎の門事件が発生した衝撃により、国本社には陸海軍将官、高級司法官僚、枢密院、貴族院などの有力者が参加するようになったため、平沼は保守・右派勢力の中心人物として政界に大きな勢力を持つようになった。1924年(大正13年)に枢密顧問官に補され、大正15年には枢密院副議長に就任するとともに華族の男爵に列せられた。右派の立場から金融恐慌問題やロンドン軍縮条約問題で政府を批判したことで、保守・右派や軍からの人望を高め、1931年(昭和6年)の満州事変勃発後は平沼内閣待望論が高まるも元老の西園寺公望に忌避されてすぐには実現しなかった。1936年(昭和11年)に枢密院議長に就任した際に国本社を解散して政権担当を目指すようになった。 1939年(昭和14年)1月に第1次近衛内閣の跡を受けて第35代内閣総理大臣に就任。日独軍事同盟の成立に苦心したが、独ソ不可侵条約の締結により「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」との声明を残して総辞職したことで知られる。その後第2次近衛内閣にも国務大臣・内務大臣として入閣し、第3次近衛内閣でも国務大臣を務めたが、近衛の新体制運動に水をかけるような役割を演じた。太平洋戦争中には重臣の一人として東条内閣の倒壊工作に関与。ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議では、陸軍側の4条件案に反対して和平条件は国体護持のみに絞ることを主張した。戦後極東国際軍事裁判においてA級戦犯として終身禁錮刑に処され、昭和27年6月に釈放。 同年8月に病死。終生独身だった(養子の平沼赳夫の述べるところでは、1度結婚したが肺病に罹患したため離婚したという)。 政治以外の活動としては、慶應義塾大学法学部教授、日本大学総長、大東文化学院(のちの大東文化大学)総長、大東文化協会(大東文化大学の設立母体)会頭、皇典講究所(國學院大學の設立母体)副総裁などを務めた。また、興国同志会を前身とする国本社の創設者であり、第2代修養団団長でもある。東洋古典籍の保存・研究を行う無窮会の創立者として、相談役、第2代会長、理事などを歴任し、東洋文化学会でも第2代会長を務め、後に東洋文化研究所を創設して、初代所長を務めた。 平沼淑郎(経済学者、法学博士、早稲田大学商学部長、早稲田大学学長)の実弟、平沼赳夫(衆議院議員、運輸相、通産相、経産相)は養子である。 1867年10月25日(慶応3年9月28日)、津山城下南新座(のちの岡山県津山市)に津山藩士だった平沼晋(1832年 - 1914年)の次男として生まれる。兄に経済学者で早稲田大学学長の平沼淑郎。 藩主に絶対の忠誠を誓う武士道精神に篤い古風な家庭で育つ。藩の漢学者斎藤淡堂の下で漢学を修め、四書、孝経、詩経を学んだ。また、祖母から唐詩選を読み聞かされた。津山藩は佐幕派であり、騏一郎自身も幕府に同情的であったが、後に天皇主義に転ずる。 1872年に上京して宇田川興斎に漢学を、1875年より同郷・箕作秋坪の三叉学舎にて英語・漢文・算術を学ぶ。1877年、父・晋が亡くなり、家計が苦しくなる。1878年9月に東京大学予備門入学。大学予備門在学中に頼山陽の『日本外史』などの影響で完全な日本主義者、天皇主義者となる。また、明治十六年事件に関与する。 1884年9月、東京大学法学部入学(在学中に帝国大学法科大学に改組)。家計を支えるために司法省の給費生となり、司法省入りの義務を課せられる。東大法科では穂積陳重の講義(「法学通論」「羅馬法」「法理学」)に感銘を受け、穂積から「司法権の尊厳」を保つことを最も注意された。1888年、帝国大学法科大学英法科首席卒業。 同年、司法省入省、参事官試補任官。当時は弱小官庁であった司法省への入省は不本意であった。内務次官の白根専一から内務省に勧誘され、内務省を希望していた。佐賀藩出身の江藤新平が作り上げた司法部(司法省・検事局・裁判所)は肥前・土佐中心に藩閥勢力が強かったが、平沼世代の前後から司法官僚の中心は帝大(東大)出身の学士官僚に移行していた。 1890年、判事補に転官して芝区治安裁判所に勤務し、その後判事となり執達吏登用試験委員長も兼任した。1895年に東京控訴院部長、1898年に司法省参事官も兼ねて検事に転官。1900年には警察監獄学校講師。1903年には高等官二等正五位勲六等であった。 明治年間の第1次桂内閣末期、実業界の資金不足のために民間から資金を集める方法が議論され、社債の相談を持ちかけられた司法部の平沼が、社債信託法採用の意見を述べた。当時はまだ先進国でも英国のみに存在する法律であったが、曽祢荒助蔵相にじかに頼まれて、池田寅二郎試補を相手にほとんど平沼一人で社債信託法を立案し、審査を経て成立させた。 1907年3月、鈴木喜三郎とともに司法制度の取調のため欧米各国に派遣される。 1908年、刑法改正(現行刑法制定)を機に設置された犯罪者の前科を記録するための方法を検討する「犯罪人異同識別法取調会」の中心メンバーとなる。平沼の報告書に基づいて、指紋による前科登録が導入されることとなった。 1910年の幸徳事件(大逆事件)では、検事として幸徳秋水らに死刑を求刑した。この裁判は「暗黒裁判」として今日でも批判があるが、当時の左翼思想に対する危機感・恐怖感を考慮しなければならないという指摘もある。 1913年4月、法相の松室致と協力し、「裁判所廃止及名称変更ニ関スル法律」「判事及検事ノ休職並判事ノ転所ニ関スル法律」を成立させ、229人の判事・検事を一挙に休・退職とし、443人にのぼる異動を発令した。それまでの大逆事件などでの功績から、特に1910年代以降、司法部内での検察権の独立が公然と実態化し、絶対的優位化した。平沼が大審院長となった1921年には、これに伴い裁判所構成法改正で検事総長の地位が司法大臣、大審院長と同レベルに引き上げられた。また1922年改正の刑事訴訟法には起訴便宜主義が取り入れられ、検察官の権限は大幅に拡大された。1923年には法曹会会長として同会の会報『法曹記事』を改題し『法曹会雑誌』を創刊し、判例に準ずる「法曹会決議」の発表を開始した。同年の関東大震災直後には大審院長を辞任したが、その翌日には治安維持法の前身となる勅令治安維持の為にする罰則に関する件が下った、俗に、平沼 - 鈴木喜三郎 - 小山松吉 ラインが思想検事系列の礎として形容されていった。 翌1926年(大正15年)、倉富勇三郎議長のもとで枢密院副議長に就任。 政治姿勢はきわめて保守的かつ国粋主義的であり、民主主義や社会主義、またナチズムやファシズム、共産主義といった外来思想を、常に危険視していた。自身の経歴を生かして主に司法界と枢密院に大きな影響力を持ち、これに国本社を中心とした大衆的な支持を加えて、教化運動や自己の秩序観の高調を行ったが、特に国本社は「政界の惑星」を頭目とする点で、世人の注目を浴びた。 1932年春、フランスから来日した女性ジャーナリスト、アンドレ・ヴィオリスが国本社の本部を訪れ、本多熊太郎の同席のもとで、平沼騏一郎にインタビューを実施し、その模様は『1932年の大日本帝国』において描写されている。 過去、第2次若槻内閣や濱口内閣に対する攻撃、天皇機関説排撃事件などで、元老西園寺公望に嫌われており、本人の強い希望にもかかわらず首相候補に推されることがなく、また枢密院議長に就任できずに副議長に留め置かれたままであった。 なお、西園寺側は天皇機関説事件の黒幕を平沼と誤認していたが、当時平沼は枢密院議長ではなく内閣総理大臣として軍部を統制することを目指しており、平沼の陰謀とすることは難しい。辞職を希望する一木喜徳郎枢相が後任に平沼を推す一方、平沼派は一木枢相の後任に平沼でなく清浦奎吾を推していた(ただし清浦は西園寺とほぼ同世代で天皇機関説事件当時85歳)。 ただ西園寺は、1932年に首相犬養毅が武装海軍青年将校らに殺害された五・一五事件の後も、まだ政党内閣を続けるつもりであり、また、立憲政友会右派の森恪らも、総裁に鈴木喜三郎を選出し、次期首相に推していた(いわゆる「憲政の常道」では首相死去による内閣総辞職の場合は与党の後継党首への大命降下となる)。 ここで斎藤実が、シーメンス汚職事件によって海軍大臣を引責辞任したという経歴を持ちながらも、総理大臣兼外務大臣に任命された主な理由は、犬養内閣の陸軍大臣でもあった荒木貞夫が元老の西園寺に、政党内閣拒絶の意を伝えていたことと、親英米派だった昭和天皇の意向があったという。 斎藤内閣が発足した後の9月15日には、前年の陸軍関東軍による満州事変をうけ、満洲国の間で日満議定書が締結され、翌1933年には国際連盟を脱退するに至った。 平沼は1934年、西園寺と彼が育てた立憲政友会、斎藤内閣を潰すため、帝人事件を起こして司法省の検察庁に国策捜査(当時でいう「検察ファッショ」)を行わせたという説がある。 捜査の手が大蔵省に及び、政権を揺るがした為に斎藤内閣は7月、内閣総辞職した。なお、司法省の裁判官の石田和外らは1937年に起訴内容は無実無根であるとして被告ら全員に無罪判決を言い渡した。 平沼は、この事件以降は慎重を期し、高齢化した西園寺が政治の表舞台から一歩引いた後は、1936年3月に枢密院議長に就任して国本社を解散するなど、親英米派と妥協することで首相の座に就いたという。枢密院議長となって2カ月後の5月には、思想犯保護観察法が成立し、司法省(大臣林頼三郎)からはハンス・フランク『ナチスの法制及び立法綱要』を翻訳出版されている(司法省『司法資料』)。なお、この時期に郷土津山の人々が旧平沼家跡に旧邸を復元し(1937年 - 1938年)、平沼に贈呈している。この施設は知新館(旧平沼騏一郎別邸)として現存している。 なお、平沼は戦後、A級戦犯として収監された巣鴨プリズン内での重光葵との会話の中で、「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったことがあるとされ、西園寺を敵視していたことが窺える。
退陣後
A級戦犯
発言
「外交は建国の皇謨に則り、道義を基礎として世界の平和と文化とに寄与するを第一義とし、この方針の下に対欧政策を考慮し、屡次これを闕下に奏聞し来ったのであります」(昭和14年8月28日) 「どうも日本人は西洋かぶれをしたがる。殊に地位に在る人―政治家と云はれる人、学者と云はれるやうな人がさうである。一時は民主説とか国際説とかにかぶれた。近頃は米英崇拝をやめて独逸崇拝となり、ナチスにかぶれている。そしてあんなものを作らねばならぬと言つて居るが、それは国体に反する」「これは国家社会主義で、ソ聯の赤とそんなに距たりがあるものでない。日本の国体に反する点は殆ど同様で、共々に害を流すものと思ふ」(昭和17年5月19日) 「日本は君主国であると云ふ。君主国なら西洋にもあるでないかと反問される。すると日本は万世一系であると云ふ。さう云ふことならエチオピヤが日本より古いではないかと反駁される。君主は統治権をもつとか、万世一系とか、そんな形式的なことでは国体は明らかにされない。どこに万世一系があるか、皇室と国民との関係を明らかにせねばならぬ。日本で親子の関係は自然であるから誰でも判る。日本の国体もその方面から論じなければならぬ」(昭和17年5月19日) 「非常に危機に瀕したのは維新当時である。それから我々が覚えて危機であつたのは欧洲大戦である。知識階級はデモクラシーにインターナショナルである。国家主義などは古い、国際主義でいかねばならぬ、皇室は存してもデモクラシーでいかねばならぬと立派な人でも言つてゐた。真向から之に反対したのは私だらう。その故に頭が古い奴だと言はれた。皇室はあつても置物にしやうとした。そこで私は皇室神聖を説いたので、迷信家だとか、頑迷だとか西園寺から言はれた」(昭和18年2月23日) 「社会の秩序を紊乱し国家の基礎を危殆らしむるがごとき言動に出づる者あらば、法規の命ずる所に従いて機宜の処置を為し極力その防止を期ぜざるべからず。震災後応急の処置として発布せられたる緊急勅令中には、民事又は刑事に関するもの鮮からず。これら勅令は単に震災地域の裁判所のみならず、全国各地の裁判所においても適用せらるべき場合あるをもって、各位は勅令発布の事情に鑑み、その聖旨の存する所を体認し、部下を指導してその適用を誤らざらしむるを要す。」(『法相訓示』、1923年)。 「天地の皇道は、即ち万物をしてその所を得しめることに帰着する」「東亜の新秩序建設もまた、この根本精神を基礎として、その上に工作が進められねばならぬ」「皇室を輔翼したてまつる万民輔翼の精神をもって、一切の努力をこれに傾倒すべき」「所期の目的が達成せられざる限り、事変は終結せぬ」(『第74回帝國議會施政方針演説』、1939年) 推計身長は180cm。当時としてはかなりの長身である。 西洋最先端の法学や司法行政制度を日本に導入する一方、個人主義・自由主義・社会主義・共産主義・無政府主義・ファシズムなどの西洋思想を警戒し、東洋思想・東洋道徳を重視した。平沼は幕末の津山藩で過ごした幼少期から学生時代にかけて国漢学を修め、和漢籍の素養を持っていた。 1939年(昭和14年)発表の長者番付では489円2銭という納税記録が残されている。なお、この年の最高納税額は三井高公の287万4037円である。 千葉県一宮町、静岡県の伊豆の国市(伊豆長岡温泉)、神奈川県平塚市に別荘を所有していた。 『法律教科書 債権法総則』東京専門学校出版部、1901年9月。 NCID BA30741782。全国書誌番号:40025535。 『民法総論』日本大学・有斐閣、1905年5月。全国書誌番号:40026036。
『刑事訴訟法改正案要旨』日英堂・松華堂、1917年5月。 NCID BN13042392。全国書誌番号:72013360。 『新刑事訴訟法要論』日本大学、1923年3月。全国書誌番号:43038330。
『建国の精神と修養団の使命』修養団〈愛と汗叢書 第6輯〉、1925年12月。全国書誌番号:42013587。 『建国之精神と修養団之使命』修養団〈修養団叢書 第6輯〉、1929年6月。 NCID BB25735573。 『債権法総則』日本大学出版部、1932年11月。 NCID BA38122911。全国書誌番号:46091422。 『建国の精神と融和問題』中央融和事業協会〈融和資料 第9輯〉、1927年12月。 NCID BA38313272。
『建国の精神と融和問題』(3版)中央融和事業協会〈融和資料 第6輯〉、1932年8月。全国書誌番号:44025456。 『満洲新国家と修養団』修養団、1933年6月。全国書誌番号:44032249。 『国体に関する訓辞』農村自治研究倶楽部、1935年3月。 NCID BB23515168。全国書誌番号:44019793。 『国体に関する訓辞 附・非常時の意義』修養団、1935年4月。 NCID BB25735835。全国書誌番号:44023079。 『祭祀と事業に就て』東京市下谷区、1938年11月。全国書誌番号:44026107。 『祭祀と事業』修養団、1938年4月。 NCID BN16110659。全国書誌番号:46054550。 『機外清話』修養団、1939年7月。 NCID BA30080691。全国書誌番号:46048719。 『日本精神発揚講演集』国民精神総動員中央連盟、1939年3月。 NCID BA44850593。全国書誌番号:46068694。 『我が国体と祭政一致』神祇院、1940年12月。 NCID BB08871203。全国書誌番号:20581916。 『国体と祭政一致』修養団、1941年7月。 NCID BB25735664。 『平沼騏一郎回顧録』平沼騏一郎回顧録編纂委員会、1955年8月。 NCID BN04495228。全国書誌番号:56003912。
1867年
1888年
12月4日:司法省参事官試補。 1890年
10月22日:京橋区裁判所判事。 12月25日:東京地方裁判所判事。 1892年
1893年
1895年
1898年
1899年
同月:慶應義塾大学法学部政治科教授(債権担当。明治40年(1907年)まで在任)。 1903年
1905年
1906年
1907年
6月13日:法学博士。 1909年
1911年
9月6日:第2次西園寺内閣で司法次官に就任。 1912年
1921年
1922年
1923年
11月:日本大学総長に就任(- 昭和8年(1933年)3月)。 修養団長に就任(- 昭和11年(1936年))。 1924年
1月25日:錦鶏間祗候。 2月2日:枢密顧問官。 国本社創立。復古的日本主義を標榜。 1926年
4月23日:議定官に就任。 10月28日:男爵受爵。 1936年
4月6日:議定官に再任。 1939年
8月30日:内閣総理大臣を辞する。 1940年
12月21日:第2次近衛内閣の内務大臣に就任( - 昭和16年(1941年)7月28日)。 1945年
12月2日:連合国軍最高司令官総司令部からA級戦犯に指定される。 1946年
1948年
1952年
8月22日:死去。墓所は岡山県津山市の安国寺と東京の多磨霊園。 終生独身と言われていたが、実際には20代のころ、陸軍省法官部長などを務めた岡本隆徳の娘と結婚したことがあり、短期間で離婚して、その後再婚しなかったのだという。 祖父の織右衛門保信は能書家であり、津山藩士で祐筆を務めている。騏一郎の父晋は藩儒(儒学者)の沼織右衛門保信の子で詩書に堪能で、廃藩置県までは旧藩主松平慶倫の教育係を務めた。騏一郎はその二男で、妹もいる。祖母千鶴は、子守歌として孫たちに唐詩を唄っていたという。 なお、衆議院議員を務めた平沼赳夫は騏一郎の養子であるが、騏一郎の兄で早稲田大学学長(総長ではない)を務めた経済史学者の平沼淑郎の曾孫であり、血縁上は騏一郎の曾姪孫である。赳夫の父は大協石油勤務の中川恭四郎で、恭四郎は石川県金沢市出身の内務官僚・中川友次郎の四男であった。また、赳夫の母は淑郎の孫娘節子(東京裁判で平沼の代理として証言台に立つ)である。つまり、赳夫は平沼家とは女系繋がりとなる。当初は赳夫のみ養子にする予定だったが、結局、恭四郎一家を養子として平沼姓を名乗らせた。 平沼家 1891年(明治24年)12月23日 - 従七位 1892年(明治25年)12月23日 - 正七位 1895年(明治28年)11月26日 - 従六位 1898年(明治31年)9月20日 - 正六位 1900年(明治33年)11月10日 - 従五位 1902年(明治35年)12月17日 - 正五位 1907年(明治40年)12月27日 - 従四位 1913年(大正2年)1月30日 - 正四位 1916年(大正5年)5月30日 - 従三位 1921年(大正10年)6月10日 - 正三位 1927年(昭和2年)12月15日 - 従二位 1934年(昭和9年)12月28日 - 正二位 1901年(明治34年)12月27日 - 勲六等瑞宝章 1903年(明治36年)6月26日 - 勲五等瑞宝章 1904年(明治37年)12月27日 - 勲四等瑞宝章 1906年(明治39年)4月1日 - 勲三等瑞宝章 1913年(大正2年)
12月27日 - 勲二等旭日重光章 1914年(大正3年)4月13日 - 金杯一組 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章 1916年(大正5年)1月19日 - 勲一等瑞宝章 1918年(大正7年)9月23日 - 金杯一個 1919年(大正8年)
9月29日 - 勲一等旭日大綬章 1921年(大正10年)5月30日 - 金杯一組 1926年(大正15年)10月28日 - 男爵 1927年(昭和2年)4月16日 - 金杯一個 1928年(昭和3年)
12月28日 - 金杯一個 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章 1934年(昭和9年)4月29日 - 金杯一組 1936年(昭和11年)1月15日 - 御紋付銀盃 1938年(昭和13年)9月15日 - 銀杯一個 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 1912年(大正元年)10月9日 - ロシア帝国:神聖アンナ第一等勲章 1919年(大正8年)4月8日 - 支那共和国:一等大綬嘉禾章 1938年(昭和13年)7月9日 - 満州帝国:勲一位龍光大綬章 1938年(昭和13年)10月31日 - イタリア王国:聖マウリッツィオ・ラザロ大十字騎士勲章 1939年(昭和14年)12月27日 - ドイツ国:ドイツ鷲大十字勲章 1940年(昭和15年)9月6日 - ハンガリー王国:メリット・オングロアーズ勲章プルミエール 1943年(昭和18年)9月11日 - 中華民国政府:特級同光勲章 『日本のいちばん長い日』東宝、1967年 - 演:明石潮 『激動の昭和史 軍閥』東宝、1970年 - 演:野村清一郎 『プライド・運命の瞬間』東映、1998年 - 演:宮城幸生 『太陽』スローラーナー、2006年 - 演:伊藤幸純 『日本のいちばん長い日』松竹、2015年 - 演:金内喜久夫 『金子文子と朴烈(パクヨル)』メガボックス・太秦、2017年( 韓国)・2019年( 日本) - 演:佐藤正行 『日本の戦後 第8集 審判の日 極東国際軍事裁判』NHK、1977年 - 演:大森義夫 『そして戦争が終った』TBS、1985年 - 演:嵯峨善兵
修養団 ヒラヌマ ^ この改正案が成立した結果、当時の刑事訴訟法には起訴便宜主義が導入され、また、裁判所の略式起訴命令に対する検察官による異議申立が不可能になった。 ^ 他方、ラルフ・ドライヤーによれば、ドイツ(プロイセン王国 - ヴァイマル共和政)でナチス法制を容認した法哲学者ユリウス・ビンダー(英語版)(ハンス・ヴェルツェルの師)は、エアランゲン大学、ヴュルツブルク大学およびゲッティンゲン大学の学長、エアランゲン大学哲学部およびソフィア大学法学部名誉博士、ゲッティンゲン学術会議とドイツ法学術会議の委員、ドイツ哲学会、ドイツ国家学会および国際ヘーゲル連盟の創設者の一人であった(Ralf Dreier『ユリウス・ビンダー(1870 - 1939年) — 帝国とナチスの間の法哲学者』)。 ^ 司法省は同年の機関紙でプロイセン州司法大臣ハンス・ケル『ナチスの刑法』を翻訳出版している。 ^ 「欧州情勢は複雑怪奇」、「欧州の情勢は複雑怪奇」、「欧州政治は複雑怪奇なり」「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」など、総辞職時のこの発言は諸説ある。 ^ 枢密院は条約の批准権を持っていたため、条約の一種と見なされたポツダム宣言受諾は平沼の同意がなければ正式決定できなかった。 ^ 駿府は今の静岡市。 ^ 享保は江戸時代、中御門天皇・桜町天皇の時代。西暦1716年から1735年までの期間。 ^ 平沼騏一郎 | 近代日本人の肖像 ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 418. ^ 朝日日本歴史人物事典『平沼騏一郎』 - コトバンク ^ 法律新聞「九州の大疑獄事件 : 九管、製鉄所、鉱務署の贈収賄」。1917年3月10日。神戸大学経営研究所『新聞記事文庫』。 ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『平沼騏一郎』 - コトバンク ^ INC, SANKEI DIGITAL (2014年9月4日). “【昭和の首相】平沼赳夫氏が「平沼騏一郎」を語る 大切にしたのは「国体」「右翼の総帥」は右翼や軍部ににらまれた(4/7ページ)”. 産経ニュース. 2024年2月25日閲覧。 ^ 萩原2021、3-4頁 ^ 『平沼騏一郎回顧録』p.339 ^ “平沼 騏一郎”. 岡山県立図書館. 2012年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年5月10日閲覧。 ^ 萩原2021、7頁 ^ 萩原2021、7-8頁 ^ 萩原2021、16頁 ^ 日本力行会出版部『現今日本名家列伝』、1903年。 ^ 国立公文書館蔵「司法省民刑局長兼検事平沼騏一郎外一名欧米各国ヘ被差遣ノ件」任B00464100 ^ 幸徳事件 Archived 2009年6月6日, at the Wayback Machine. ^ 『いわゆるA級戦犯』(小林よしのり、幻冬舎、2006年6月) P144 ^ なお、この法案が提出された2月7日には、憲法の番人であった枢密院の議長は空席であった ^ 『思想検事』(荻野富士夫、岩波新書、2000年9月) P13~P14 ^ 一般には宇垣一成を指すことが多い。 ^ アンドレ・ヴィオリス著『1932年の大日本帝国』、大橋尚泰訳、草思社、2020年、pp.157-160 ^ 斎藤実は、その後の朝鮮総督の時期に子爵となっていた。 ^ [1] 津山瓦版 - 知新館(旧平沼騏一郎別邸) ^ 『巣鴨日記』(「文藝春秋」昭和27年(1952年)8月号掲載)より。 ^ 世界大百科事典,百科事典マイペディア, 改訂新版. “有田=クレーギー会談(ありたクレーギーかいだん)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年2月25日閲覧。 ^ 事変はどう片付くか,小林一三,実業之日本社 1939年7月発行 pp.4 ^ “公事結社(コウジケッシャ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 『精選版 日本国語大辞典 』. 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DIGITALIO. 2024年10月15日閲覧。 ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 戸澤純子「日本における総理大臣の身長と好ましさの関係」(川村学園女子大学研究紀要 第32巻 第2号 91頁 - 103頁 2021 年) ^ 横綱は三井高公、映画では入江たか子『大阪毎日新聞』(昭和15年10月23日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p480 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 『官報』第3427号、大正13年1月29日。 ^ 萩原淳『平沼騏一郎』中央公論新社、2021年8月25日。 ^ 法廷証第107号: [平沼騏一郎關スル人事局履歴書] ^ 『官報』第2547号「叙任及辞令」1891年12月24日。 ^ 『官報』第2850号「叙任及辞令」1892年12月26日。 ^ 『官報』第3725号「叙任及辞令」1895年11月27日。 ^ 『官報』第4570号「叙任及辞令」1898年9月21日。 ^ 『官報』第5210号「叙任及辞令」1900年11月12日。 ^ 『官報』第5839号「叙任及辞令」1902年12月18日。 ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。 ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。 ^ 『官報』第1148号「叙任及辞令」1916年5月31日。 ^ 『官報』第658号「叙任及辞令」1921年6月11日。 ^ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。 ^ 『官報』第2399号「叙任及辞令」1934年12月29日。 ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。 ^ 『官報』第5995号「叙任及辞令」1903年6月27日。 ^ 『官報』第6450号「叙任及辞令」1904年12月28日。 ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。 ^ 『官報』第510号「叙任及辞令」1914年4月14日。 ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。 ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。 ^ 『官報』第90号「叙任及辞令」1927年4月20日。 ^ 『官報』第393号「叙任及辞令」1928年4月23日。 ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。 ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。 ^ 『官報』第3457号「叙任及辞令」1938年7月13日。 ^ 『官報』1938年11月4日「叙任及辞令」。 ^ 『官報』第3899号「叙任及辞令」1940年1月9日。 ^ 『官報』第4106号「叙任及辞令」1940年9月11日。 ^ 「谷正之外二十五名」 アジア歴史資料センター Ref.A10113476800 慶應義塾編『慶應義塾百年史 別巻 大学編』 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719。 岩崎栄『平沼騏一郎伝 伝記・平沼騏一郎』大空社「伝記叢書」、1997年。復刻版 萩原淳『平沼騏一郎と近代日本 官僚の国家主義と太平洋戦争への道』京都大学学術出版会、2016年 萩原淳『平沼騏一郎 検事総長、首相からA級戦犯へ』中央公論新社〈中公新書〉、2021年 藤野豊「国本社における水平運動観―平沼騏一郎,中央融和事業協会会長就任の背景」、『部落問題研究』通号84、1985年8月 加藤陽子「昭和一四年の対米工作と平沼騏一郎」、『史学雑誌』第94編11号、1985年11月 滝口剛「満州事変期の平沼騏一郎―枢密院を中心に―」、『阪大法学』通号151、1989年8月 滝口剛「平沼騏一郎と太平洋戦争―対外態度における2重性を中心に」、『阪大法学』通号159、1991年7月 高橋勝浩「首相平沼騏一郎と「道義外交」―防共協定強化問題と「支那事変」処理―」、『国史学』通号164、1998年2月 高橋勝浩「重臣としての平沼騏一郎―終戦と国体護持へむけて」、『軍事史学』通号142、2000年9月 鈴木望「平沼騏一郎博士と神習文庫―帝室制度審議委員会との関連に就きて―」、『東洋文化』復刊第100號(通巻第332號)、平成20年4月 柴田紳一「平沼騏一郎の枢相再任と御前会議参列」、『栃木史学』第二十六号、2012年3月 平沼騏一郎 | 近代日本人の肖像 平沼赳夫オフィシャルホームページ「平沼は語る」 - ウェイバックマシン(2016年3月8日アーカイブ分)(平沼騏一郎に関するエッセイあり) 平沼騏一郎(おかやま人物往来) - 岡山県立図書館 平沼騏一郎関係文書 | 国立国会図書館 憲政資料室 平沼騏一郎 内閣 第74回帝国議会(通常会)における施政方針演説 平沼騏一郎 内閣 第74回帝国議会(通常会)における国務大臣の演説 墓所(多磨霊園) - ウェイバックマシン(2021年12月15日アーカイブ分) 墓所(安国寺) - ウェイバックマシン(2011年10月26日アーカイブ分) 『平沼騏一郎』 - コトバンク 第二代総長 平沼 騏一郎 | 日本大学の歴史 表 話 編 歴 大久保利通 木戸孝允 大久保利通 伊藤博文 大久保利通 伊藤博文 松方正義 山田顕義 山県有朋 山県有朋 西郷従道 品川弥二郎 副島種臣 松方正義 河野敏鎌 井上馨 野村靖 芳川顕正 板垣退助 樺山資紀 芳川顕正 板垣退助 西郷従道 末松謙澄 大隈重信 内海忠勝 児玉源太郎 桂太郎 芳川顕正 清浦奎吾 原敬 平田東助 原敬 大浦兼武 原敬 大隈重信 大浦兼武 大隈重信 一木喜徳郎 後藤新平 水野錬太郎 床次竹二郎 水野錬太郎 後藤新平 水野錬太郎 若槻礼次郎 浜口雄幸 鈴木喜三郎 田中義一 望月圭介 安達謙蔵 中橋徳五郎 犬養毅 鈴木喜三郎 山本達雄 後藤文夫 潮恵之輔 河原田稼吉 馬場鍈一 末次信正 木戸幸一 小原直 児玉秀雄 安井英二 平沼騏一郎 田辺治通 東條英機 湯沢三千男 安藤紀三郎 大達茂雄 安倍源基 山崎巌 堀切善次郎 三土忠造 大村清一 植原悦二郎 片山哲 (臨代) 木村小左衛門 廃止 内事局長官・(内事局官房自治課長・官房職制課長) - 国務大臣地方財政委員会委員長・全国選挙管理委員会委員長・(総理庁官房自治課長) - 国務大臣地方自治庁長官 - 国務大臣自治庁長官 - 自治大臣 - 総務大臣 内事局長官・(内事局第一局長) - 国家公安委員会委員長・(国家地方警察本部長官) - 国務大臣国家公安委員会委員長・(警察庁長官) 建設院総裁 - 建設大臣 - 国土交通大臣 厚生大臣 - 厚生大臣・労働大臣 - 厚生労働大臣 内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁特別審査局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府特別審査局長) - 法務大臣・(公安調査庁長官) 文部大臣・(文部省社会教育局文化課長) - 文部大臣・(文部省社会教育局著作権課長)- 文部大臣・(文部省文化局長) - 文部大臣・(文化庁長官)- 文部科学大臣・(文化庁長官) 神社本庁総長(宗教法人化) 内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁民事局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府民事局長) - 法務大臣・(法務省民事局長) 外務大臣・(入国管理部長) - 外務大臣・(出入国管理庁長官) - 外務大臣・(入国管理庁長官) - 法務大臣・(法務省入国管理局長)- 法務大臣・(出入国在留管理庁長官) 内閣総理大臣・(終戦連絡中央事務局長官) - 内閣総理大臣・(連絡調整中央事務局長官) - 外務大臣・(外務省連絡局長) - 外務大臣・(外務省国際協力局長) 表 話 編 歴 伊藤博文 黑田淸隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護煕 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 金子堅太郎 1889-1893 松岡康毅 1893-1903 松岡康毅 1903-1920 松岡康毅 1920-1923 平沼騏一郎 1923-1933 事務取扱/総長 山岡万之助 1933/1933-1946 呉文炳 1946-1958 永田菊四郎 1958-1969 鈴木勝 1969-1984 高梨公之 1984-1990 木下茂徳 1990-1993 瀬在良男 1993-1996 瀬在幸安 1996-2005 小嶋勝衛 2005-2008 酒井健夫 2008-2011 大塚吉兵衛 2011-2020 加藤直人 2020-2022 酒井健夫 2022-2024 大貫進一郎 2024- カテゴリ メディア 日本大学 学校法人 人物 表 話 編 歴 平沼騏一郎 1923-1925 井上哲次郎 1925-1926 事務取扱 大島健一 1926-1927 事務取扱 鵜沢総明 1927-1928 大津淳一郎 1928-1932 事務取扱/総長 加藤政之助 1932-1935/1935-1938 松平頼寿 1938-1940 鵜沢総明 1940-1943 松平頼寿 1943 酒井忠正 1943-1944 酒井忠正 1944-1945 鵜沢総明 1946-1948 藤塚鄰 1948 土屋久泰 1949 初代 土屋久泰 1949-1951 初代 土屋久泰 1951-1953 初代 土屋久泰 1953-1958 第2代 平島敏夫 1958-1962 第3代 南条徳男 1962-1969 第4代 佐伯梅友 1969-1975 第5代 池田末利 1975-1983 第6代 清原道壽 1983-1984 第7代 香坂順一 1984-1987 第8代 杉本良吉 1987-1990 第9代 穂積重行 1990-1993 第10代 佐藤定幸 1993-1996 第11代 諏訪義英 1996-1999 第12代 須藤敏昭 1999-2005 第13代 和田守 2005-2008 第14代 渡部茂 2008-2010 職務代理 岡田良徳 2010 第15代 太田政男 2010-2017 第16代 門脇廣文 2017- カテゴリ メディア 大東文化大学 学校法人 人物 表 話 編 歴 江藤新平 大木喬任 田中不二麿 大木喬任 山田顕義 山田顕義 田中不二麿 河野敏鎌 山縣有朋 芳川顕正 清浦奎吾 曾禰荒助 大東義徹 清浦奎吾 金子堅太郎 清浦奎吾 波多野敬直 松田正久 千家尊福 岡部長職 松田正久 松室致 松田正久 奥田義人 尾崎行雄 松室致 原敬 大木遠吉 岡野敬次郎 田健治郎 平沼騏一郎 鈴木喜三郎 横田千之助 小川平吉 江木翼 原嘉道 渡邊千冬 鈴木喜三郎 川村竹治 小山松吉 小原直 林頼三郎 塩野季彦 宮城長五郎 木村尚達 風見章 柳川平助 近衛文麿 岩村通世 松阪広政 岩田宙造 木村篤太郎 鈴木義男 表 話 編 歴 玉乃世履 代理 1875-1878 玉乃世履1878-1879 岸良兼養1879-1881 玉乃世履1881-1886 尾崎忠治1886-1890 西成度1890-1891 南部甕男 心得 1891 児島惟謙1891-1892 名村泰蔵 心得 1892-1893 三好退蔵1893-1896 南部甕男1896-1906 横田国臣1906-1921 富谷鉎太郎1921 平沼騏一郎1921-1923 横田秀雄1923-1927 牧野菊之助1927-1931 和仁貞吉1931-1935 林頼三郎1935-1936 池田寅二郎1936-1939 泉二新熊1939-1941 長島毅1941-1944 霜山精一1944-1946 細野長良1946-1947 表 話 編 歴 岸良兼養 鶴田皓 渡辺驥 名村泰蔵 三好退蔵 三好退蔵 松岡康毅 春木義彰 横田国臣 野崎啓造 横田国臣 松室致 平沼騏一郎 鈴木喜三郎 小山松吉 林頼三郎 光行次郎 泉二新熊 木村尚達 岩村通世 松阪広政 中野並助 木村篤太郎 福井盛太 福井盛太 佐藤藤佐 花井忠 清原邦一 馬場義続 井本臺吉 竹内壽平 大澤一郎 布施健 神谷尚男 辻辰三郎 安原美穗 江幡修三 伊藤栄樹 前田宏 筧栄一 岡村泰孝 吉永祐介 土肥孝治 北島敬介 原田明夫 松尾邦弘 但木敬一 樋渡利秋 大林宏 笠間治雄 小津博司 大野恒太郎 西川克行 稲田伸夫 林眞琴 甲斐行夫 畝本直美 カテゴリ 表 話 編 歴 大東文化大学 大東文化大学第一高等学校 大東文化大学附属青桐幼稚園 大東文化大学盈進高等学校 大東医学技術専門学校 財団法人大東文化協会 | 財団法人東方文化協会 | 学校法人文政大学 硬式野球部 | ラグビー部 | テコンドー部 | ベアーズ (バスケットボール部) ビアトリクス・ポター資料館 大東文化大学の人物一覧 | 木下成太郎 | 平沼騏一郎 | 大木遠吉 表 話 編 歴 板垣征四郎 木村兵太郎 土肥原賢二 東條英機 広田弘毅 武藤章 松井石根 荒木貞夫 梅津美治郎 大島浩 岡敬純 賀屋興宣 木戸幸一 小磯國昭 佐藤賢了 嶋田繁太郎 白鳥敏夫 鈴木貞一 橋本欣五郎 畑俊六 平沼騏一郎 星野直樹 南次郎 重光葵(7年) 東郷茂徳(20年) 松岡洋右:裁判中の1946年(昭和21年)6月27日に病死のため公訴棄却 永野修身:裁判中の1947年(昭和22年)01月5日に病死のため公訴棄却 大川周明:裁判中の1947年(昭和22年)04月9日に梅毒による精神障害が認められ訴追免除 FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ アメリカ 日本 韓国 CiNii Books CiNii Research 平沼騏一郎 津山平沼家 第二次世界大戦期の政治家 日本の内閣総理大臣 20世紀アジアの統治者 大正時代の閣僚 昭和時代戦前の閣僚 日本の内務大臣 日本の司法大臣 貴族院勅選議員 大正時代の貴族院議員 日本の枢密顧問官 錦鶏間祗候 戦前日本の司法官僚 日本の大審院長 日本の検事総長 日本の学校法人の理事長 慶應義塾大学の教員 日本大学学長 大東文化大学学長 日本大学の教員 A級戦犯 日本の男爵 法学博士取得者 法学士取得者 日本の反共主義者 日本の保守主義者 日本のナショナリスト 幸徳事件の人物 シーメンス事件の人物 日中戦争の人物 三叉学舎の塾生 旧制第一高等学校出身の人物 東京大学出身の人物 美作国の人物 岡山県出身の人物 幕末津山藩の人物 19世紀日本の人物 20世紀日本の政治家 正二位受位者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 勲一等瑞宝章受章者 聖アンナ勲章受章者 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者 ドイツ鷲勲章受章者 1867年生 1952年没 多磨霊園に埋葬されている人物 Webarchiveテンプレートのウェイバックリンク プロジェクト人物伝項目 2024/11/23 07:51更新
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