近衛文麿の情報(このえふみまろ) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
近衛 文麿さんについて調べます
■名前・氏名 |
近衛文麿と関係のある人
柴田敬: その後、経済ブレインとして、近衛文麿の経済体制革新運動や天皇による早期終戦工作等に関わるようになったが、戦後になるとGHQにより公職追放となる。 松本重治: 坊ちゃん気質で、会った人間の人柄で惚れる(反面、嫌う癖もある)為に、戦前は近衛文麿に協力している。 今東光: 沼田に囲まれた河内八尾の鄙びた小庵への入山であったが、春日大社宮司・水谷川忠麿(近衛文麿・近衛秀麿の弟、夭折した近衛直麿の兄)、四天王寺管長・出口常順の列座、雅楽伶人による雅楽の演奏、職衆による声明という古式による入山の儀に村人は度肝を抜かれ、「オイ。 杉森久英: 1986年『近衛文麿』で第41回毎日出版文化賞 宇垣一成: 近衛文麿首相は事変初期段階での収拾に失敗し、いわゆる近衛声明(「爾後国民政府ヲ対手トセズ」)を発するに及んで泥沼化が懸念されていた。 神山繁: 激動の昭和史 軍閥(1970年)- 近衛文麿 役 大来佐武郎: 同年、鉄鋼生産力の低下から敗戦が不可避であり、戦争終結の必要があることを風見章を通して近衛文麿に伝える。 吉田茂: 大命を拝辞した盟友の近衛文麿から広田への使者を任されて広田内閣で組閣参謀となり、外務大臣・内閣書記官長を予定したが、寺内寿一ら陸軍の反対で叶わなかった。 立野信之: 『公爵近衛文麿』大日本雄弁会講談社 1950 植芝盛平: 初代会長・竹下勇、副会長・陸軍中将林桂、理事に公爵・近衛文麿、陸軍中将前田利為、東京帝国大学医学部教授二木謙三ら。 橋本欣五郎: 予備役中の1936年に大日本青年党(のち大日本赤誠会に改称)を組織しファシズム運動を展開、近衛文麿首相が掲げる新体制運動にも積極的に協力した。 安倍能成: その一方で軍部が進める高等学校の年限短縮に反対したり、近衛文麿に早期和平の進言をしたために、憲兵隊から監視対象になったとされている。 中川小十郎: また「二・二六事件」後、石原廣一郎から後継首班には「近衛公ヲ措イテ人ガ無」く、「是非老公ニ御推薦願ヒ度イ」と依頼されるとこれを西園寺に伝え、近衛文麿への大命降下に一役買っている。 平田満: 落日燃ゆ(2009年) - 近衛文麿 松岡洋右: ついには昭和天皇までもが松岡の解任を主張するようになり、近衛文麿首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。 徳川家達: 1927年(昭和2年)11月、研究会に愛想をつかした近衛文麿が一条実孝や四条隆愛、広幡忠隆、中御門経恭、中山輔親らとともに研究会を離脱し、各派に分散していた公侯爵議員を集める会派作りに着手した。 伊沢多喜男: 近衛文麿を貴族院副議長とする運動を実施。 細川護煕: 関ヶ原の戦いなどで活躍した戦国大名・細川忠興の直系子孫で、旧熊本藩細川家第17代当主・細川護貞と、五摂家筆頭近衛家の第30代当主で昭和初期に貴族院議長や内閣総理大臣を歴任した近衛文麿の次女・温子との間の長男として、東京府東京市(現在の東京都千代田区)に生まれる(ただし本籍地は熊本県熊本市に置いている)。 松重豊: 日本独立(2020年12月18日公開、 伊藤俊也監督) - 近衛文麿 役 徳川家達: 家達の英国滞在中、日本では天璋院が義弟(天璋院は徳川家定に嫁ぐ前に近衛家の養女になっていた)にあたる近衛忠房の長女・泰子(近衛篤麿の妹・近衛文麿の叔母)と家達の縁組をまとめていた。 高田稔: 太平洋の鷲(1953年、東宝) - 近衛文麿 役 風見章: 長男の風見博太郎によると、風見は近衛文麿、山本五十六、米内光政と数多くの手紙のやり取りをしており、終戦後すぐにすべてを焼却した。 三木武夫: 元老西園寺公望や重臣らは、陸軍にも議会各派にも受け入れ可能な近衛文麿を総理とすることとし、1937年(昭和12年)6月4日、挙国一致内閣を標榜する第1次近衛内閣が成立する。 笠信太郎: 和平工作時、スイスから和平締結を求める東郷茂徳外相宛て電報を緒方竹虎(当時内閣顧問)に送付(結果的には未達)したことで、緒方や近衛文麿など、政権中枢とのコネクションを有しているものと米国側に把握されていた。 加藤和夫: ヒロシマ 原爆投下までの4か月(1996年8月、NHK) - 近衛文麿 徳川圀順: また、「軽井沢ゴルフ倶楽部」創設の際には、近衛文麿とともにその発起人を務めた。 結城豊太郎: だが林内閣はわずか4ヶ月で崩壊し、続く近衛文麿内閣でも蔵相留任を要請されたが断っている。 山下奉文: その中心となったのは東條内閣倒閣工作にも関与していた近衛文麿であったという。 風見章: 近衛文麿、木戸幸一、有馬頼寧の3名が5月26日付で「新党樹立に関する覚書」を作成した際には、既成政党を全て抹消するよう進言している。 西尾末広: 1938年(昭和13年)3月16日、衆議院本会議における国家総動員法案の審議に際し、同法案を支持する立場から、近衛文麿首相に対し「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、確信に満ちた指導者たれ」と激励する。 |
近衛文麿の情報まとめ
近衛 文麿(このえ ふみまろ)さんの誕生日は1891年10月12日です。東京出身の政治家のようです。
事件、卒業、結婚、解散、病気、兄弟、家族、現在、テレビ、ドラマ、映画に関する情報もありますね。1945年に亡くなられているようです。
近衛文麿のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)近衛 文麿(このえ ふみまろ、正体字:近󠄁衞 文󠄁麿󠄁、1891年〈明治24年〉10月12日 - 1945年〈昭和20年〉12月16日)は、日本の政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。爵位は公爵。 貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、枢密院議長(第18代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣(第57代)、拓務大臣(第13代)、班列、農林大臣(第17代)、司法大臣(第43代)、国務大臣、麝香間祗候、大政翼賛会総裁(初代)、東亜同文書院院長(第5代)、日本放送協会総裁(第2代)などを歴任した。 五摂家の近衞家の第30代当主。祖父は明治新政府で神祇事務総督、議定、刑法事務局督、神祇官知事、神祇大副を歴任した近衛忠房。父の近衞篤麿は第7代学習院院長や第3代貴族院議長を務める傍らアジア主義の盟主であり、東亜同文会を興すなど活発な政治活動を行うも、文麿が成人する前に病没した。父の没後に近衞家の家督として公爵を襲爵、のちに貴族院議員、東亜同文会会長となる。当初は研究会に所属するが火曜会を結成し、貴族院副議長、貴族院議長などの要職を歴任した。 3度にわたり内閣総理大臣に任命され、第1次近衞内閣、第2次近衞内閣、第3次近衞内閣を組織した。その際に、外務大臣、拓務大臣、農林大臣、司法大臣などを一時兼務した。また、平沼内閣では、班列として入閣した。第1次近衞内閣では、盧溝橋事件に端を発した日中戦争が発生し、北支派兵声明、近衛声明や東亜新秩序などで対応、戦時体制に向けた国家総動員法の施行などを行った。また、新体制運動を唱え大日本党の結党を試みるものの、この新党問題が拡大し総辞職した。その後も国内の全体主義化と独裁政党の確立を目指して第2次・第3次近衞内閣では自ら設立した大政翼賛会の総裁となり、外交政策では八紘一宇と大東亜共栄圏建設を掲げて日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約を締結した。 太平洋戦争中、吉田茂などとヨハンセングループとして昭和天皇に対して「近衛上奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えた。また、戦争末期には、独自の終戦工作も展開していた。太平洋戦争終結後、東久邇宮内閣にて国務大臣として入閣した。大日本帝国憲法改正に意欲を見せたものの、A級戦犯に指定され服毒自殺した。 指揮者・作曲家で貴族院議員を務めた近衞秀麿は異母弟、大山柏は妹婿、徳川家正は従兄にあたる。また、第45・46代熊本県知事や第79代内閣総理大臣を務めた細川護煕と、日本赤十字社社長や国際赤十字赤新月社連盟会長を務めた近衞忠煇、島津家第32代当主・島津修久は外孫に当たる。 1891年(明治24年)10月12日、公爵・近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵・前田慶寧の五女・衍子の間の長男として、東京市麹町区(現:千代田区)で生まれた。命名は長命であった曾祖父忠煕に依り、読みは「あやまろ」では語呂が悪いため「ふみまろ」とされた。皇別摂家の家系で後陽成天皇の男系子孫にあたる。母の衍子は加賀前田家の出身で、文麿が幼い頃に病没、父の篤麿は衍子の異母妹・貞を後妻に迎えるが、文麿はこの叔母にあたる継母とはうまくいかなかった。貞が「文麿がいなければ私の産んだ息子の誰かが近衛家の後継者となれた」と公言していたのが理由とされる。文麿は成人するまで貞を実母と思い、事実を知った衝撃は大きく、以後「この世のことはすべて嘘だと思うようになった」。このことが文麿の人格形成に与えた影響は大きかった。1904年(明治37年)に父の篤麿は41歳で死去、文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになった。文麿の、どことなく陰がある反抗的な気質はこの頃に形成された、と後に本人が述懐している。 泰明尋常小学校を経て学習院中等科で学んだ。一学年上には後に「宮中革新派」となる木戸幸一や原田熊雄などがいる。 1909年(明治42年)、第一高等学校入学。当時華族の子弟は学習院高等科への進学が通例だったが、一高校長であった新渡戸稲造に感化され同校を選択した。同級生には菊池寛や、後に近衛内閣のブレーンとなる後藤隆之助や山本有三などがいる。1912年に卒業。 続いて哲学者を志し東京帝国大学文科大学哲学科に進んだが飽き足らず、マルクス経済学の造詣が深い経済学者で共産主義者であった河上肇や被差別部落出身の社会学者・米田庄太郎に学ぶため、京都帝国大学法科大学に転学した。 河上との交流は1年間に及び、彼の自宅を頻繁に訪ね、社会主義思想の要点を学び、深く共鳴している。これがのちに政権担当時の配給制などに結びつく。ジョン・スパルゴー(英語版)の『カール・マルクスの生涯』とトリノ大学教授ロリア(Achille Loria)の『コンテンポラリー・ソーシャル・プロブレムズ』の2著をもらっている。 京都では木戸幸一、原田熊雄、織田信恒、赤松小寅などと友人になった。大卒者の初任給が50円程度であった当時に毎月150円の仕送りを受け取っていた。下鴨で一年間を過ごしたのち、毛利高範の次女・千代子と結婚し宗忠神社近くの呉服店別荘を借り移り住んだ。首相を辞職した西園寺公望が1913年(大正2年)に京都に移ると、清風荘を訪問し西園寺に面会した。近衛家と西園寺家は共に堂上家であるが縁が薄く、2人が顔を合わせたのはこれが初めてであった。60歳を越す元老の西園寺であったが、同じ堂上家でも格上の摂家の当主である学生の近衞を「閣下」と持ち上げ、近衞は馬鹿にされているのかと気を悪くしている。 在学中の1914年(大正3年)には、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」との表題で第三次『新思潮』大正三年五月号、六月号に発表したが、『新思潮』五月号は発禁処分となった。近衞の翻訳文が原因であるとするのが通説となっているが、異論も存在する。 1916年(大正5年)10月12日、満25歳に達したことにより公爵として世襲である貴族院議員になる。 1918年(大正7年)に、雑誌『日本及日本人』で論文「英米本位の平和主義を排す」を発表した。 1919年(大正8年)のパリ講和会議では全権・西園寺公望に随行するも、自らも提案に加わった人種的差別撤廃提案が否決されたことで白人への強い恨みを抱くようになったとされる。 1926年(大正15年)には華族や有位者の資格審査をする宮内省宗秩寮審議会の審議員も兼ねた。 1927年(昭和2年)には旧態依然とした所属会派の研究会から離脱して木戸幸一、徳川家達らとともに火曜会を結成して貴族院内に政治的な地盤を作り、次第に西園寺から離れて院内革新勢力の中心人物となっていった。 また五摂家筆頭という家柄に加えて、一高から二つの帝大に入った高学歴や、180cmを超す高い身の丈で貴公子然とした端正な風貌と、タカ派な主張で、大衆的な人気も高く、早くから将来の首相候補に擬せられた。1933年(昭和8年)貴族院議長に就任。 1933年(昭和8年)には近衞を中心とした政策研究団体として後藤隆之助らにより昭和研究会が創設された。この研究会には暉峻義等、三木清、平貞蔵、笠信太郎、東畑精一、矢部貞治、また企画院事件で逮捕される稲葉秀三、勝間田清一、正木千冬、和田耕作らが参加している。後にゾルゲ事件において絞首刑に処せられる尾崎秀実もメンバーの一人であった。 1934年(昭和9年)5月に横浜を発ってアメリカを訪問し、大統領フランクリン・ルーズベルトおよび国務長官コーデル・ハルと会見した。帰国後記者会見の席上で、「ルーズベルトとハルは、極東についてまったく無知だ」と語っている。 1936年(昭和11年)3月4日、宮内省で西園寺公望と会談した際、二・二六事件後に辞職した岡田啓介の後継として西園寺から推薦され大命降下もあったが、表向きは健康問題を理由に辞退した。真因は、近衞が親近感をもっていた皇道派が陸軍内において粛清されることに不安と不満があったからである。一木喜徳郎が広田弘毅を推薦すると西園寺はすぐに賛成し、近衞を介して吉田茂に広田の説得を任せ、3月5日に広田に組閣の大命が下ったが、吉田ら自由主義者を外務大臣にする広田の組閣案に対して寺内寿一大将などの陸軍首脳部の干渉があり、粛軍と引き替えに大幅に軍に譲歩した形で3月9日に広田内閣が成立した。第一次内閣1937年(昭和12年)1938年(昭和13年)新体制の模索第二次内閣第三次内閣事件">ゾルゲ事件和平工作終戦工作終戦後自殺人物戦争責任についてしばしば、言われるのが、旧憲法では『第十一条 天皇は陸海軍を統帥す 第十二条 天皇は陸海軍の編制および常備兵額を定む』しかなく、政府はこれにタッチできない、という前提で『統帥権の問題は政府には全然発言権がなく』と近衛は言っている。果たしてそうだろうか。
明治憲法には『統帥権』という言葉はない。統帥とは、元来は軍の指揮権であり、いずれの国であれ、これは独立した一機関が持っている。簡単に言えば、首相は勝手に軍を動かすことは出来ない。しかし軍も勝手に動くことは出来ない。というのは少なくとも近代社会では、軍隊を動かすには予算が必要だが、これの決定権を軍は持っていないからである。
具体的に言えば、参謀本部が作戦を立案するのに政府は介入できない。しかしその作戦を実施に移そうとするなら、政府が軍事費を支出しないかぎり不可能である。動員するにも、兵員を輸送するにも、軍需品を調達するにも、すべて予算を内閣が承認し、これを議会が審議して可決しない以上、不可能である。
日華事変で近衛は『不拡大方針』を宣言した。しかしその一方で、拡大作戦が可能な臨時軍事費を閣議で決定して帝国議会でこれを可決させている。このことを彼自身、どう考えていたのか。政府は予算を通じて統帥部を制御できるし、そうする権限と義務があるとは考えなかったのであろうか。
チャーチルは『戦争責任は戦費を支出した者にある』という意味のことを言ったそうだが、卓見であろう。もちろんこのことは、この権限を持つ政府と議会の責任ということである(中略)。
近衛が本当に不拡大方針を貫くなら、拡大作戦が出来ないように臨時軍事費を予算案から削れば、それで目的が達せられる。彼にはそれだけのことを行う勇気がなかった。というより軍に同調してナチスばりの政権を樹立したい意向があった。園遊会で彼はヒトラーの仮装をしているが、翼賛会をつくりナチス授権法のような形で権力を握って『革新政治』を行いたいのが彼の本心であったろう。 — 山本七平『裕仁天皇の昭和史―平成への遺訓-そのとき、なぜそう動いたのか』祥伝社、2004年。
事件との関わり">ゾルゲ事件との関わり逸話人物評
海軍大将・井上成美は、近衞文麿については終始辛口だった。 木戸幸一は近衞のことを「激動期をなんでも相談した仲」とした上で、晩年次にように回想している。 東郷茂徳は近衞の自殺を聞いて、次のようなメモを書き残している。 一方、ノーマンは近衛を尋問した際の覚書の中で、近衛について「淫蕩なくせに陰気くさく、人民を恐れ軽蔑さえしながら世間からやんやの喝采を浴びることをむやみに欲しがる近衛は、病的に自己中心的で虚栄心が強い。彼が一貫して仕えてきた大義は己自身の野心にほかならない」と述べている。ノーマンの近衛に対する心証は、家族ぐるみの極めて親しいつきあいをしていた風見章と、ハーバード大学時代の共産主義同志で義理の伯父に木戸幸一内大臣をもつ都留重人からの詳細な情報提供によって形成されたのではないかと指摘されている。なお、ノーマンはこの時が近衛と初対面であった。 東京都荻窪にある近衛文麿旧宅「荻外荘(てきがいそう)」は、国指定史跡となっている。また京都宇多野にあった別荘「虎山荘」は、歴史資料保存施設「陽明文庫」として、京都嵐山にあった別荘「松籟庵」は、料亭として現在でも使用されている。長野県軽井沢町にあった2つの別荘のうち、一方のあめりか屋設計の別荘は近衛と親交のあった市村今朝蔵に譲られ、現在は「市村記念館」として公開されている。もう一方の別荘「草亭」があった跡地に面する通りは、現在「近衛レーン」と呼ばれている。そのほか湯河原、箱根、鎌倉山、小田原、我孫子などにも別荘を建てており、近衛は無類の別荘好きであった。これらのゆかりの地のなかでも、文化サロンや「第二の官邸」のような機能を持った自邸「荻外荘」の存在は、広く知られていた。また、軽井沢における避暑客との社交にも華々しいものがあり、ゴルフやパーティーなど、典型的な上流階級らしい生活ぶりは有名であった。軽井沢には1938年、来日したヒトラーユーゲントを招待したこともあった。 1911年(明治44年)10月20日 - 従五位 1913年(大正2年)11月1日 - 正五位 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正) 1916年(大正5年)
11月20日 - 従四位 1920年(大正9年)
11月30日 - 正四位 1925年(大正14年)12月15日 - 従三位 1928年(昭和3年)
12月28日 - 勲二等旭日重光章 1931年(昭和6年)
12月28日 - 正三位 1934年(昭和9年)4月29日 - 勲一等瑞宝章 1939年(昭和14年)
5月19日 - 旭日大綬章 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 1927年(昭和2年)4月19日 - 千九百二十五年聖年祭記念布教博覧会功労章(ローマ法王庁) 1929年(昭和4年)9月28日 - イタリア王国:王冠勲章(英語版)グランクロア 1934年(昭和9年)3月1日 - 満州帝国:大満洲国建国功労章 1935年(昭和10年)9月21日 - 満州帝国:満州帝国皇帝訪日記念章 1938年(昭和13年)
11月4日 - イタリア王国:聖マウリッツィオ・ラザロ大十字騎士勲章 12月6日 - ドイツ国:ドイツ鷲大十字勲章 1939年(昭和14年)12月27日 - タイ王国:白象勲一等大十字騎士章 1940年(昭和15年)9月6日 - ハンガリー王国:メリット・オングロアーズ勲章プルミエール 1944年(昭和19年)7月20日 - 満州国国勢調査紀念章 妻の千代子とは、公爵という身分には珍しい恋愛結婚だった。しかし相手も華族で、釣り合いが取れないわけではなかった。華族女学校で一番の美女だったという千代子を一高の学生だった文麿が電車の中で見初めた一方的な一目惚れだったという。挙式は京都・宗忠神社。結婚当時は京都帝大在学中だったが、その生活は「学生結婚」という言葉にはそぐわないほど豪勢なものだった。 結婚生活は円満だったが、弟の秀麿と同様に当時の大身の例にもれず数人の妾を囲い、隠し子もいた。流行歌手だった市丸が近衞の愛人だったことは有名である。千代子は気丈な女性で、文麿の服毒自殺に際しても、決して取り乱すことはなかった。 次女の温子(よしこ)は1937年(昭和12年) 4月、当時まだ京都帝大在学中だった細川護貞と結婚した。その直後の同年6月に父は総理となり、夫は総理秘書官となる。3年後の1940年(昭和15年)8月、父が総理に返り咲いて間もなく、温子は腹膜炎をこじらせて小石川の細川邸で死去した。享年23、夫と父に看取られての最期だった。この温子と護貞の短い結婚生活の中で恵まれたのが、後の1993年に総理となる長男の護熙と、近衛家の養子となった次男の忠煇である。 不仲だった継母の貞は戦時中京都の別邸(現・陽明文庫所在地)に単独で疎開。1945年(昭和20年)8月15日に同地で死去した。 父:篤麿(貴族院議長) 母:衍子(旧加賀藩主・前田慶寧侯爵の五女)
継母:貞子(前田慶寧の六女、実の叔母に当たる)
異母弟:秀麿(指揮者・作曲家) 異母弟:直麿(雅楽研究者) 異母弟:忠麿(→水谷川家を継ぐ、春日大社宮司) 妻:千代子(旧豊後佐伯藩主・毛利高範子爵の次女)
長女:昭子(島津公爵家・島津忠秀に嫁ぐが、整体師・野口晴哉と駆け落ちして後に結婚) 次女:温子(細川侯爵家・細川護貞に嫁ぐ)
嫡孫:忠煇(出生時の名は細川護輝。後に近衛家の養子となる。日本赤十字社社長) 次男:通隆(東京大学教授。1935年10月12日、文麿の異母弟の近衛秀麿夫妻の養子となる) 愛人:山本ヌイ(別名、縫子。新橋の芸者)
愛人:市丸(芸者、歌手) 藤原忠通の子基実を始祖とする五摂家の一つ。江戸時代初期に嗣子を欠いたため、後陽成天皇の第四皇子が母方の叔父・信尹の養子となり信尋として近衛家を継いだ。文麿はその直系十一世孫に当たり、その血統は当時は大勢いた皇族よりもずっと皇室に近かった。 近衛が開設した陽明文庫には近衛の関連資料が所蔵されている。 『戰後歐米見聞録 : 全』外交時報社、1920年。 NCID BN15654017。
今井時郎、日本社會學院調査部[編輯]「革命及宣傳」『現代社會問題研究』第10巻、冬夏社、1921年、NCID BN10670446。 佐久間秀雄 [編輯]「上院と政治」『日本読書協会会報』臨時號、日本讀書協會、1924年、NCID BA60872010。 『國際平和の根本問題』([増補])近衞文麿、1930s。 NCID BB06448836。 『國際平和の根本問題』[出版者不明]、1935年。 NCID BA45750878。 伊藤武 [編]『近衛文麿清談録』千倉書房、1936年。 NCID BN03251057。 馬場鍈一、安井英二、有馬頼寧、松井春生『日本に呼びかける』今日の問題社、1937年。 NCID BA54609553。 岡部長景『日支両国の識者に望む ― 遍く東亜の同志に愬ふ』東亜同文会、1937年。 NCID BB02825167。 『農業増産報國推進隊員諸君に愬ふ』[第39輯]、農林省 : 農業報國聯盟〈農業増産報國推進隊訓練講演要旨〉、1940年。 NCID BA76794233。 新政治研究会『戦時下の国民におくる近衛首相演説集』東晃社、1940年。 NCID BA67610613。 迫水久常、孫識齊『日本投降内幕』[私製]、1947年。 NCID BB14338855。 昭和戦争文学全集編集委員会 [編]『知られざる記録』別巻、集英社〈昭和戦争文学全集〉、1965年。 NCID BN10352495。 亀井俊介、福沢諭吉、久米邦武、内村鑑三、井上円了、片山潜、永井荷風、近衛文麿『日本人のアメリカ論』23号、新渡戸稲造; 厨川白村; 池崎忠孝; 鶴見祐輔; 島崎藤村; 和辻哲郎; 高木八尺、研究社出版〈アメリカ古典文庫〉、1977年。 NCID BN00390115。 『近衛公の手記 : 日米開戦の実相』第一東光社、1946年。 NCID BA90599045。 朝日新聞社 [編]『失はれし政治 : 近衞文麿公の手記』朝日新聞社、1946年。 NCID BN03251319。
『最後の御前会議 : 近衛文麿公手記』 19巻、2号、時局月報社〈自由國民〉、1946年。 NCID BN14832812。 『平和への努力 : 近衞文麿手記』日本電報通信社、1946年。 NCID BN0603167X。 共同通信社「近衛日記」編集委員会『近衛日記』共同通信社開発局、1968年。 NCID BN01951499。 松田道雄、橋川文三『近衛上奏文』35-36号、筑摩書房〈近代日本思想大系〉、1974年。 NCID BN01195374。 『大統領への証言』毎日ワンズ、2008年12月1日。ISBN 9784901622363。 ― 『近衛手記』『近衛日記』を底本とし、『近衛文麿「六月終戦」のシナリオ』を大幅に改訂、改題。 『最後の御前会議 戦後欧米見聞録―近衛文麿手記集成』中央公論新社〈中公文庫プレミアム [こ-19-2]〉、2015年7月23日。ISBN 9784122061460。 ― 手記6篇(『最後の御前会議』、『平和への努力』、『近衛上奏文』『世界の現状を改善せよ』『戦後欧米見聞録』『英米本位の平和主義を排す』)を集成。 Wilde, Oscar『Thew soul of man under socialism』新思潮社、1914年。 NCID BA88951215。 『近衛文麿』 上・下、矢部貞治代表・近衛文麿伝記編纂刊行会、弘文堂、1952年。
矢部貞治『近衛文麿』時事通信社〈三代宰相列伝〉、1958年。 新版1986年
岡義武『近衛文麿―「運命」の政治家』岩波書店〈岩波新書〉、2003年3月(原著1972年6月24日)。ISBN 9784004131335。 - 「著作集」(岩波書店)に収録 伊藤隆『近衛新体制―大政翼賛会への道』中央公論社〈中公新書〉、1983年11月。ISBN 9784121007094。
杉森久英『近衛文麿』河出書房新社、1986年。
工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇』中央公論新社〈中公文庫〉、2009年7月(原著2006年7月1日)。ISBN 9784122051782。 (単行版 日本経済新聞出版社 ISBN 9784532165635) 鳥居民『近衛文麿「黙」して死す―すりかえられた戦争責任』草思社、2007年3月。ISBN 9784794215758。 草思社文庫、2014年12月 筒井清忠『近衛文麿―教養主義的ポピュリストの悲劇』岩波現代文庫、2009年5月。ISBN 9784006002183。 古川隆久『近衛文麿』吉川弘文館〈人物叢書〉、2015年9月。 林千勝『近衛文麿 野望と挫折』ワック、2017年11月。ISBN 9784898314654。 升味準之輔『戦後政治』 上、東京大学出版会、1983年5月10日。ISBN 9784130330213。 平泉澄『日本の悲劇と理想』(普及版)錦正社、1994年12月1日(原著1977年3月)。ISBN 9784764602403。 (原著 原書房 NCID BN11924710 ) 平泉澄『悲劇縦走』皇學館大学出版部、1980年9月。ISBN 9784876440313。 早川隆『日本の上流社会と閨閥』角川書店、1983年、8-14頁。ISBN 9784048200011。 瀬島龍三『大東亜戦争の実相』PHP研究所〈PHP文庫〉、2000年7月3日(原著1998年7月1日)。ISBN 9784569574271。 (原著 ISBN 9784569601809) 林茂『日本の歴史〈25〉太平洋戦争』(改版2刷)中央公論新社、2006年。ISBN 9784122047426。 道越治 [編著]、松橋暉男/松橋雅平 [監修]『近衛文麿「六月終戦」のシナリオ』毎日ワンズ、2006年4月1日。ISBN 9784901622158。 林千勝『日米戦争を策謀したのは誰だ! ロックフェラー、ルーズベルト、近衛文麿 そしてフーバーは──』WAC、2019年2月27日。ISBN 9784898314814。 『太平洋の鷲』(1953年)- 演:高田稔 『軍神山本元帥と連合艦隊』(1956年)- 演:高田稔 『大東亜戦争と国際裁判』(1959年)- 演:高田稔 『皇室と戦争とわが民族』(1960年)- 演:細川俊夫 『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』(1961年)- 演:北竜二 『連合艦隊司令長官 山本五十六』(1968年)- 演:森雅之 『激動の昭和史 軍閥』(1970年)- 演:神山繁 『トラ・トラ・トラ!』(1970年)- 演:千田是也 『大日本帝国』(1982年)- 演:仲谷昇 『帝都大戦』(1989年)- 演:日下武史 『スパイ・ゾルゲ』(2003年)- 演:榎木孝明 『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(2011年)- 演:岸博之 『終戦のエンペラー』(2013年)- 演:中村雅俊 『日本独立』(2020年)- 演:松重豊 『日本の戦後』第2集「サンルームの二時間 憲法GHQ案の衝撃」(1977年、NHK)- 演:高橋昌也 『大いなる朝』(1979年、テレビ朝日)- 演:伊丹十三 『さらば空中戦艦富嶽』(1980年、テレビ朝日)- 演:久米明 『その時歴史は変わった 今つづる父と母の昭和史』(1981年、テレビ朝日)- 演:加藤和夫 『海にかける虹〜山本五十六と日本海軍』(1983年、テレビ東京)- 演:高橋昌也 『華族の女』(1983年、NHK)- 演:高松英郎 『吉田茂』(1983年、関西テレビ)- 演:仲谷昇 『昭和16年の敗戦』(1991年、フジテレビ)- 演:仲谷昇 『命なりけり 悲劇の外相東郷茂徳』(1994年、TBS)- 演:原田清人 『戦後50年特別企画 女たちの戦争 忘れられた戦後史 進駐軍慰安命令』(1995年、フジテレビ)- 演:林秀樹 『憲法はまだか』(1996年、NHK)- 演:江守徹 『ヒロシマ 原爆投下までの4か月』(1996年、TBS)- 演:加藤和夫 『あの戦争は何だったのか 日米開戦と東條英機』(2008年、TBS)- 演:山口祐一郎 『落日燃ゆ』(2009年、テレビ朝日)- 演:平田満 『白洲次郎』(2009年、NHK)- 演:岸部一徳 『負けて、勝つ 〜戦後を創った男・吉田茂〜』(2012年、NHK) - 演:野村萬斎 『経世済民の男 第三部 鬼と呼ばれた男〜松永安左エ門』(2015年、NHK)- 演:利重剛 『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(2019年、NHK大河ドラマ)- 演:しいたけを ^ 近衛は政界に身を投じて以降は、日本は自国と同じ「もたざる国」であるドイツ・イタリアと同一歩調をとるべきと考え、天然資源を各国は平等に持つべきという社会主義的ないし唯物論的平等を持論として展開した。その一方で、西園寺や昭和天皇の主張する英米との協調外交に反対し、これらのスタンスが戦後A級戦犯として起訴される最大の要因になったとされている。 ^ "Contemporary Social Problems - A Course of Lectures delivered at the University of Padua" by Loria, Achille,; Garner, John Leslie (1911) ^ 当時の元老 ^ 実際には蔣介石は日記に倭寇の挑発に対して応戦すべきと書き、翌日の7月9日には動員令を出し、四個師団と戦闘機を華北へ派遣した。 ^ 事前に近衞に計画案を見せ、その一部について近衞が手を入れたという話は、中溝多摩吉配下の青木保三が書いた回想録(『七十年を顧みて』1970年)の中で中溝から聞いた話として載せられている。近衞が手を入れたというのは、1国1党制度に反対の議員は議員1人につき、防共護国団2名、警察官1名、憲兵1名をつけて一時監禁し、大島へ島流しにする、という部分である。回想録には、これはやりすぎではないかと言ってこの部分を消した、と書かれている。それ以外の部分については「中溝君、なかなか面白い計画ですね」と近衞は言ったと書かれている。ただし、伊藤隆によれば、青木の回想録の内容をすべて信用することはできないという。 ^ 週刊『アサヒグラフ』はこれを「平沼・近衛 交流内閣」と皮肉っている。「交流」とは、今で言う「合流」「合体」といった意味。 ^ 東條英機も、戦犯訴追を逃れるために自殺を図ったとされるが未遂に終わっている。 ^ 以上、参考文献『日本の肖像 旧皇族・華族秘蔵アルバム』九毎日新聞社編。京都の新居には女中もいれば書生も抱えており、一般サラリーマンの平均月収100円の時代に、一月当たり150円の生活費をかけていた。ちなみにこの時の新居は宗忠神社の社務所として現存している。 ^ 明治維新後に創設された宮家はほとんどが伏見宮家の系統で、その伏見宮は遠く南北朝時代の崇光天皇の第一皇子・榮仁親王 (1351−1416) を祖としている。 ^ 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和15年7月22日 ^ 農林水産省百年史編纂委員会編『農林水産省百年史 別巻(資料編)』農林水産省百年史刊行会、1981年、p.98、122、歴代大臣 ^ “死ぬまでNHK総裁だった近衛文麿”. 文芸春秋BOOKS (2009年1月26日). 2019年9月8日閲覧。 ^ 『近衛文麿公清談録』 ^ 『第一高等学校一覧 自大正元年至大正2年』第一高等学校、1912年、303頁。 ^ 『清談録』千倉書房。 ^ 勝田龍夫『重臣たちの昭和史』 上、文藝春秋、1981年5月1日。ISBN 9784163626604。 ^ 中西寛「近衛文麿「英米本位の平和主義を排す」論文の背景-普遍主義への対応」(『法學論叢』第132巻・第4-6号) ^ 『官報』第1261号、大正5年10月12日。 ^ Macmillan, Margaret Paris 1919: Six Months That Changed the World, New York: Random House, 2007 page 317-487 ^ 『宮内省職員録(大正15年1月1日現在)』、1926年。NDL。 ^ 若くて知的で長身、演説がレコード発売される人気ぶり 日中戦争を起こしてA級戦犯とされた宰相・近衛文麿 | AERA dot. 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近衛新体制 陽明文庫 ゾルゲ事件 尾崎秀実 後藤隆之助 石渡荘太郎 荻外荘公園 - 近衛家別邸だった荻外荘の跡地 特殊慰安施設協会 自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧 国立国会図書館 憲政資料室 近衛文麿関係文書(MF:陽明文庫蔵) 近衛文麿 | 近代日本人の肖像 近衛文麿公関係文書 「時局に処する国民の覚悟」近衛文麿 - NHK放送史 『近衛文麿』 - コトバンク 表 話 編 歴 伊藤博文 黑田淸隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護煕 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 伊藤博文 - 蜂須賀茂韶 - 近衛篤麿 - 徳川家達 - 近衛文麿 - 松平頼寿 - 徳川圀順 - 徳川家正 議院 - 貴族院 - 参議院 - 衆議院 表 話 編 歴 東久世通禧 細川潤次郎 西園寺公望 黒田長成 蜂須賀正韶 近衛文麿 松平頼寿 佐佐木行忠 酒井忠正 徳川宗敬 議院 衆議院 貴族院 参議院 表 話 編 歴 細川潤次郎 近衛篤麿 西園寺公望 谷干城 由利公正 徳川家達 谷干城 二条基弘 徳川頼倫 蜂須賀正韶 二条厚基 近衛文麿 松平頼寿 徳川圀順 島津忠重 中御門経恭 廃止 表 話 編 歴 箕作麟祥 小畑美稲 近衛篤麿 二条基弘 箕作麟祥 大原重朝 箕作麟祥 小笠原忠忱 村田保 徳川達孝 富井政章 二条基弘 三好退蔵 廣澤金次郎 大原重朝 名村泰蔵 松平康荘 芳川顕正 京極高徳 波多野敬直 奥山政敬 岡部長職 吉井幸蔵 大原重朝 徳川頼倫 万里小路通房 寺島誠一郎 川村鉄太郎 廣澤金次郎 清棲家教 近衛文麿 吉井幸蔵 中山輔親 松平頼寿 吉井幸蔵 寺島誠一郎 伊東祐弘 土方寧 松平頼寿 柳原義光 溝口直亮 青木信光 柳原義光 浅野長之 織田萬 溝口直亮 青木信光 安保清種 秋元春朝 奥平昌恭 廃止 表 話 編 歴 小笠原長行 山口直毅 仁和寺宮嘉彰親王 山階宮晃親王 三条実美 伊達宗城 東久世通禧 澤宣嘉 山階宮晃親王 伊達宗城 澤宣嘉 澤宣嘉 岩倉具視 副島種臣 (副島種臣(外務事務総裁)) 寺島宗則 井上馨 井上馨 伊藤博文 大隈重信 青木周藏 榎本武揚 陸奥宗光 西園寺公望 大隈重信 西徳二郎 大隈重信 青木周蔵 加藤高明 曾禰荒助 小村壽太郎 林董 寺内正毅 小村壽太郎 内田康哉 桂太郎 牧野伸顯 石井菊次郎 本野一郎 後藤新平 山本權兵衞 伊集院彦吉 松井慶四郎 幣原喜重郎 田中義一 幣原喜重郎 犬養毅 芳澤謙吉 齋藤實 廣田弘毅 有田八郎 林銑十郎 佐藤尚武 宇垣一成 近衛文麿 有田八郎 阿部信行 野村吉三郎 松岡洋右 豊田貞次郎 東郷茂徳 東條英機 谷正之 重光葵 鈴木貫太郎 吉田茂 芦田均 岡崎勝男 岸信介 藤山愛一郎 小坂善太郎 大平正芳 椎名悦三郎 三木武夫 愛知揆一 福田赳夫 木村俊夫 宮澤喜一 鳩山威一郎 園田直 大来佐武郎 伊東正義 櫻内義雄 安倍晋太郎 倉成正 宇野宗佑 三塚博 中山太郎 渡辺美智雄 武藤嘉文 羽田孜 柿澤弘治 河野洋平 池田行彦 小渕恵三 高村正彦 田中眞紀子 小泉純一郎 川口順子 町村信孝 麻生太郎 高村正彦 中曽根弘文 岡田克也 前原誠司 松本剛明 玄葉光一郎 岸田文雄 河野太郎 茂木敏充 林芳正 上川陽子 岩屋毅 表 話 編 歴 高島鞆之助 田中義一 松田源治 原脩次郎 若槻禮次郎 秦豊助 永井柳太郎 岡田啓介 兒玉秀雄 永田秀次郎 結城豊太郎 大谷尊由 宇垣一成 近衛文麿 八田嘉明 小磯國昭 金光庸夫 小磯國昭 松岡洋右 秋田清 豊田貞次郎 東郷茂徳 井野碩哉 廃止 表 話 編 歴 江藤新平 大木喬任 田中不二麿 大木喬任 山田顕義 山田顕義 田中不二麿 河野敏鎌 山縣有朋 芳川顕正 清浦奎吾 曾禰荒助 大東義徹 清浦奎吾 金子堅太郎 清浦奎吾 波多野敬直 松田正久 千家尊福 岡部長職 松田正久 松室致 松田正久 奥田義人 尾崎行雄 松室致 原敬 大木遠吉 岡野敬次郎 田健治郎 平沼騏一郎 鈴木喜三郎 横田千之助 小川平吉 江木翼 原嘉道 渡邊千冬 鈴木喜三郎 川村竹治 小山松吉 小原直 林頼三郎 塩野季彦 宮城長五郎 木村尚達 風見章 柳川平助 近衛文麿 岩村通世 松阪広政 岩田宙造 木村篤太郎 鈴木義男 表 話 編 歴 近衛篤麿1884-1904 近衛文麿1904-1945返上 鷹司熙通1884-1918 鷹司信輔1918-1947 九条道孝1884-1906 九条道実1906-1933 九条道秀1933-1947 一条実輝1884-1924 一条実孝1924-1947 二条基弘1884-1920 二条厚基1920-1927 二条弼基1927-1947 徳川家達1884-1940 徳川家正1940-1947 三条実美1884-1891 三条公美1891-1914 三条実憲1914-1924 三条公輝1924-1945 三条実春1945-1947 毛利元徳1884-1896 毛利元昭1894-1938 毛利元道1938-1947 島津忠義1884-1898 島津忠重1898-1947 島津久光1884-1887 島津忠済1887-1915 島津忠承1915-1947 岩倉具定1884-1910 岩倉具張1910-1914 岩倉具栄1914-1947 徳川慶喜1902受爵-1910 徳川慶久1910-1922 徳川慶光1922-1947 伊藤博文1907陞爵-1910 伊藤博邦1910-1931 伊藤博精1931-1947 大山巌1907陞爵-1916 大山柏1916-1947 山縣有朋1907陞爵-1922 山縣伊三郎1922-1927 山縣有道1927-1945 山縣有信1945-1947 徳大寺実則1911陞爵-1919 徳大寺公弘1919-1937 徳大寺実厚1937-1947 桂太郎1911陞爵-1913 桂広太郎1913-1947 西園寺公望1920陞爵-1940 西園寺八郎1940-1946返上 松方正義1922陞爵-1924 松方巖1924-1927返上 徳川圀順1929陞爵-1947 表 話 編 歴 基実 - 基通 - 家実 - 兼経 - 基平 - 家基 - 家平 - 経忠 - 経平 - 道嗣 - 兼嗣 - 忠嗣 - 房嗣 - 政家 - 尚通 - 稙家 - 前久 - 信尹 - 信尋 - 尚嗣 - 基熙 - 家熙 - 家久 - 内前 - 経熙 - 基前 - 忠煕 - 忠房 - 篤麿 - 文麿 - 文隆 - 忠煇 表 話 編 歴 初代 近衛篤麿:1898(明治31)年-1904(明治37)年 第2代 青木周蔵:1904(明治37)年-1907(明治40)年 第3代 鍋島直大:1907(明治40)年-1918(大正7)年・総裁:1918(大正7)年-1921(大正10)年 第4代 牧野伸顕:1918(大正7)年-1936(昭和11)年 第5代 近衛文麿:1936(昭和11)年-1945(昭和20)年 表 話 編 歴 初代 林毅陸 1946-1950 第2代 本間喜一 1950-1955 第3代 小岩井浄 1955-1959 第4代 本間喜一 1959-1963 第5代 脇坂雄治 1963-1967 第6代 玉城肇 1967-1969 第7代 山田文雄 1969-1970 第8代 細迫朝夫 1970-1972 第9代 久曾神昇 1972-1984 第10代 浜田稔 1984-1987 第11代 石井吉也 1987-1988 第12代 牧野由朗 1988-1992 第13代 石井吉也 1992-1999 第14代 武田信照 1999-2007 第15代 堀彰三 2007-2008 第16代 佐藤元彦 2008-2015 第17代 川井伸一 2015-2023 第18代 広瀬裕樹 2023- 佐藤正 1900 根津一 1900-1901 根津一 1901-1902 杉浦重剛 1902-1903 根津一 1903-1923 大津麟平 1923-1926 近衛文麿 1926-1931 大内暢三 1931-1940 矢田七太郎 1940-1942 大内暢三 1940 矢田七太郎 1940-1943 臨時代理 北野大吉 1943-1944 本間喜一 1944-1946 カテゴリ メディア 愛知大学 東亜同文書院大学 学校法人 東亜同文会会長 人物 東亜同文書院大学の人物 FAST ISNI VIAF WorldCat ノルウェー フランス BnF data ドイツ イタリア イスラエル アメリカ 日本 チェコ 韓国 オランダ CiNii Books CiNii Research SNAC IdRef 近衛文麿 近衛家 日本の内閣総理大臣 昭和時代戦前の閣僚 日本の外務大臣 拓務大臣 日本の司法大臣 日本の貴族院議長 日本の貴族院副議長 貴族院公爵議員 大正時代の貴族院議員 昭和時代の貴族院議員 在職中に死去した日本の貴族院議員 日本の枢密院関係者 麝香間祗候 日中戦争の人物 太平洋戦争の人物 第二次世界大戦期の政治家 A級戦犯容疑者 日本の国家社会主義者 全体主義 東亜同文会の人物 南洋協会の人物 昭和研究会の人物 京都大学出身の人物 旧制第一高等学校出身の人物 旧制学習院高等科出身の人物 学習院中・高等科出身の人物 東亜同文書院大学の学長 東亜同文書院大学の教員 法学士取得者 日本の日記作家 20世紀アジアの統治者 20世紀日本の政治家 20世紀日本の著作家 自殺した日本の人物 毒死した人物 東京都区部出身の人物 従二位受位者 勲一等瑞宝章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 イタリア王冠勲章受章者 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者 ドイツ鷲勲章受章者 白象勲章受章者 1891年生 1945年没 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BIBSYS識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 ICCU識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NKC識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 SNAC-ID識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
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