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河野一郎の情報 (こうのいちろう)
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【6月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

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河野 一郎さんについて調べます

■名前・氏名
河野 一郎
(読み:こうの いちろう)
■職業
政治家
■河野一郎の誕生日・生年月日
1898年6月2日
戌年(いぬ年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
神奈川出身

河野一郎と同じ1898年生まれの有名人・芸能人

河野一郎と同じ6月2日生まれの有名人・芸能人

河野一郎と同じ出身地神奈川県生まれの有名人・芸能人


河野一郎と関係のある人

小野正一: この移籍に際しては、元々親交があった東京の永田雅一と大洋の中部謙吉の両オーナーに懇意にしていた河野一郎が雑談で言った一言で決まったという。


藤尾正行: 読売新聞社記者を経て、河野一郎に見出され1963年の第30回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧栃木2区から出馬し、初当選した(当選同期に小渕恵三・橋本龍太郎・小宮山重四郎・伊東正義・田中六助・渡辺美智雄・佐藤孝行・中川一郎・三原朝雄・西岡武夫らがいる)。当選後、政界入りのきっかけである河野一郎が率いる春秋会に入会。


小野清子: 2011年の任期満了により理事長を退任し、小野の後任には日本アンチ・ドーピング機構会長などを務めた医学者の河野一郎が就任した。


アラン=シリトー: 丸谷才一・河野一郎訳、集英社 1969、のち集英社文庫、新潮文庫


松永東: 鳩山一郎・三木武吉らと行動を共にして分党派自由党に加わって吉田茂ら自由党主流派に対抗、分自党の多くが自由党に復帰しても三木・河野一郎らとと共に復党せず日本自由党に加わった。


中村梅吉: 鳩山の復党後も反吉田「8人の侍」として三木、河野一郎らと日本自由党を結成、政務調査会長となる。


桜内義雄: 改進党時代には当選同期の中曽根康弘とともに青年将校と称され、自民党内では河野一郎派に属していた。


西尾末広: その後は河野一郎らと興亜議員同盟を結成し、1942年(昭和17年)の翼賛選挙では非推薦で当選する。


池田勇人: 1955年の保守合同に参加することは、鳩山を擁する三木武吉や河野一郎、岸らに頭を下げることになり吉田派は迷った。


テッド=ヒューズ: 『クジラがクジラになったわけ』河野一郎訳 旺文社ジュニア図書館 1979/岩波少年文庫 2001 


河野謙三: 兄の河野一郎が公職追放されたため、1947年(昭和22年)4月に兄の代わりに第23回衆議院議員総選挙に、当時の神奈川3区から出馬するが、次点で落選した。


佐藤栄作: 逆に河野一郎、大野伴睦といった党人派が池田政権を支える形となっており、特に河野は池田と密接で、河野は池田からの将来の禅譲に期待を寄せていた。


小金義照: 保守合同後は宏池会に所属し、自由民主党資金局長、全国組織委員長を歴任するが、商工省の先輩である岸信介、同じ選挙区のライバルである河野一郎らと折り合いが悪かったことが災いし、1950年代後半は「万年大臣候補」と呼ばれ、入閣のチャンスに恵まれなかった。


松村謙三: 1964年(昭和39年)- 池田勇人総理退陣時の後継総裁選出について、日中友好及び党人の立場から河野一郎を推す。


河野洋平: 父は副総理兼国務大臣(東京五輪担当)、農林大臣、建設大臣、衆議院議員を務めた河野一郎、叔父は参議院議長を務めた河野謙三、第4代デジタル大臣で衆議院議員の河野太郎は長男。


村井弦斎: 本人の死後、自宅一部、東側を河野一郎に、西側を小平浪平に売却している。


牧野良三: 政党解消後も翼賛議員同盟には所属せず、西尾末広、松本治一郎、河野一郎らと興亜議員同盟に所属したが、翼賛選挙に際しては大政翼賛会と妥協し、翼賛政治体制協議会の推薦候補となる。


中村梅吉: 保守合同で自由民主党が結成された後は河野一郎派 - 中曽根康弘派の幹部として重きをなし、温厚な人柄から各内閣で閣僚・党幹部に起用された。


大川慶次郎: 」翌1949年、競馬サークル「いななき会」を設立、同会のメンバーであった学生の父親が河野一郎の支援者であった縁から河野を顧問に迎える。


天野光晴: 1958年の第28回衆議院議員総選挙で、旧福島1区より前福島県知事大竹作摩や河野一郎の支援の下、立候補し初当選。


ジョン=アップダイク: 河野一郎訳 河出書房新社 1969


ニコライ=ブルガーニン: 鳩山一郎首相と河野一郎農相がソ連を訪問し、日ソ共同宣言と日ソ漁業協定を締結した。


上林山栄吉: 自民党内では鳩山一郎・河野一郎に近かったこともあり、1955年第3次鳩山内閣にて郵政政務次官となる。


佐分利信: 次に、吉岡達夫の小説『オレンジ運河』の映画化を日本初の白黒シネマスコープとして製作する予定でロケハンまで行うが、当時の河野一郎農相の左翼的偏見なる批判などもあり挫折し、日映で製作した『悪徳』を経て、松竹で製作した『乙女の祈り』が最後の監督作となった。


宇野宗佑: 宇野は河野派(春秋会)に入る約束をしており、河野一郎が選挙の応援に訪れていた。


重政誠之: 農商務省時代に、当時朝日新聞記者だった河野一郎と親交を持ち、自民党では河野派(春秋会)に所属、派閥の金庫番あるいは代貸し的な存在となった。


砂田重政: 自民党では河野一郎派の客分格であったが、後輩の風下に立つのは潔しとしなかったのか、かなり金銭的に無理をして「砂田派」(宜軒会)を立ち上げた。


池田勇人: 岸が辞任を認めないため、今度は反主流派三派、池田、三木、石井らで刷新懇談会を作るなどして岸と主流四派を揺さぶり、また行政協定についても、三木や河野一郎らと謀り、そろって改訂を主張して岸に圧力をかけた。


高峰秀子: 1965年(昭和40年)、市川崑に撮影が依頼された映画『東京オリンピック』が、完成前の試写会で河野一郎(オリンピック担当国務大臣)が内容に疑問を投げるコメントを発したことをきっかけに大論争が巻き起こった際、「とってもキレイで楽しい映画だった。


市川崑: だが、完成前の試写を見たオリンピック担当大臣の河野一郎が、臨席した東京都知事に「記録性に欠ける」と批判めいた感想を漏らし、それを聞いた新聞記者が大々的に報道した ことから、「『東京オリンピック』は記録映画か芸術作品か」という大論争を呼び起こすことになった。


河野一郎の情報まとめ

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河野 一郎(こうの いちろう)さんの誕生日は1898年6月2日です。神奈川出身の政治家のようです。

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人物、系譜などについてまとめました。現在、兄弟、卒業、解散、引退、事件、家族に関する情報もありますね。

河野一郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

河野 一郎(こうの いちろう、1898年〈明治31年〉6月2日 - 1965年〈昭和40年〉7月8日)は、日本の政治家。副総理、日本自由党幹事長、自由民主党総務会長。昭和中期の政界実力者の一人。春秋会(河野派)会長、領袖。

自由民主党の党人派の代表格として権勢を誇り、その政治行動は「横紙破り」 と呼ばれた。農林大臣、建設大臣、経済企画庁長官、行政管理庁長官、副総理、国務大臣(東京五輪担当)を務めた。また、地元神奈川県県政にも強い影響力を持ち、県は「河野王国」とも呼ばれた。栄典は従二位勲一等旭日桐花大綬章。また伊勢神宮社家の生まれである榊原辰雄とも親交が深かった。

参議院議長を務めた河野謙三は実弟。衆議院議長、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表を務めた河野洋平は次男。外務大臣、防衛大臣、規制改革担当大臣を務めた衆議院議員の河野太郎は孫にあたる。

1898年、神奈川県足柄下郡豊川村(現在の小田原市成田)の豪農・河野家の次男として生まれる。兄は生まれて数か月で夭折している。父・治平(じへい)は、豊川村長、郡会議員、神奈川県会議長などを歴任した人物。母・タミは曽我兄弟の出生地である曽我の出身で、タミの父・長谷川勝五郎は若いときに百姓から建設業者に転向し東海道線の山北トンネル工事を請け負った。また衆議院議員の長谷川豊吉は、タミの伯父に当たる。

一郎は「早く学校に行きたい、行きたい」という強い希望をもっていた。そこで母はその希望に同意し、元来一郎は六月二日生まれだが、戸籍の「六」を「三」に改ざんして、学校に提出し一年先に小学校に入学している。これが後に問題化し、戸籍法違反の廉で、父は監獄に入った。

小学校を卒業後、神奈川県立小田原中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)に入学。中学二年の時に、英語教師の排斥運動を動機としたストライキを起こした。結果的にこの騒動が原因で、一郎を含む首謀者以下十数名がその教師に落第点をつけられ、一年落第させられている。また、当時小田原中の教師であった武田裕吉に「トカゲ」というあだ名をつけたり、仲間のひとりが黒板の溝に本物のトカゲを入れておどかすなど、田舎中学の生徒の考えつく限りの悪戯をしていた。結局、武田は自分から辞めていったが、結果的に嫌がらせや陰湿なイジメをして追い出す格好となってしまったことに一郎は「慙愧の念に堪えない」と反省している。

中学を卒業する頃、久原鉱業の全盛時代であり、日本の工業化が非常な勢いで進められていた。一郎はその風潮の感化を受け鉱山学を勉強しようと志し、早稲田大学の理工科を受験するも不合格となり、一年間中央予備校に通う。二度目の受験後、大学から「理工科は遺憾ながら点数が少し足りない。ほかの学科なら、何科を志望してもよい」という通知を受け取り、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学する。1923年(大正12年)に同大学を卒業。早稲田大学時代は、弟・謙三とともに競走部の陸上長距離選手として鳴らし、草創期の箱根駅伝で活躍。総合優勝も経験している。

大学卒業後に朝日新聞社の入社試験を受け、一次試験に合格するも二次試験で落とされる。しかし、杉浦重剛の推薦で下村海南のところに紹介状をもって出かけて行ったことが機縁で入社する。

1931年(昭和6年)、犬養毅内閣の山本悌二郎農林大臣の秘書官となり、翌1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に神奈川3区から出馬し、当選。当選後は、立憲政友会に所属した。鈴木喜三郎総裁の後継をめぐる党内抗争では、鳩山一郎を担いで奔走したが、中島知久平が優位に立っていた。河野は、久原房之助を擁立して対抗し、政友会は、正統派(久原派)と革新派(中島派)に分裂するに至る。1942年(昭和17年)の翼賛選挙では、非推薦で選挙戦を戦い当選した。

終戦後、1945年(昭和20年)11月に旧政友会正統派の勢力を糾合して、鳩山一郎を総裁とする日本自由党を結党。幹事長として、鳩山内閣の結成に奔走するが、1946年(昭和21年)5月4日、鳩山に公職追放令が下り、吉田茂が後継総裁として大命降下をうけ、組閣に取り掛かる。組閣をめぐっては、吉田が旧政党人を軍部に迎合したとみなし、人事について相談しなかったことなどをきっかけとして、不倶戴天の間柄となる。さらに6月20日には、河野自身も公職追放となった。追放中の1948年(昭和23年)に政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会で証人喚問された。1951年(昭和26年)8月7日に追放解除となり、三木武吉と共に自由党に復党。以降は反吉田派の急先鋒として鳩山政権樹立に向けて奔走するが、1952年(昭和27年)9月29日、解散総選挙を目前にして、吉田が鳩山派に打撃を与えるべく、石橋湛山と河野を党から除名した。三木武吉の工作によって、12月に除名取り消しとなる。1953年(昭和28年)3月14日、鳩山、三木ら21名と自由党から分党。内閣不信任案に賛成投票し、バカヤロー解散・総選挙へと繋がるきっかけを作った。11月に鳩山、石橋らが自由党に復帰した後も、三木、河野ら8名の代議士は日本自由党を結成して、自由党反主流派と改進党の連携を模索し、ついに3派を合同させ日本民主党を結成し、鳩山を総裁とし、吉田内閣を打倒する。

1954年(昭和29年)、第1次鳩山内閣で農林大臣に就任し、第2次、第3次鳩山内閣でも農林大臣に留任した。翌1955年(昭和30年)、自由民主党結党に参画し、党内で大派閥の河野派を形成した。

同年6月3日、ロンドンで日ソの国交回復交渉が始まったが、北方領土の扱いを巡り日ソ両国は衝突し交渉決裂となる。この交渉において2島返還などの譲歩を示していたにもかかわらず拒否された形となったソ連は、「漁業制限区域」を設定し日本の漁船を一方的に締め出すという報復に出た。水産業界への打撃は大きく、そこで水産業を所管する農林相であった河野に白羽の矢が立った。日ソ漁業条約を結ぶべく、河野はモスクワへ向かった。1956年4月29日、イシコフ漁業相との交渉が始まるが進展は無かった。埒が明かないと踏んだ河野はブルガーニン首相との直接交渉を要請し、受け入れられた。会談で、ブルガーニンは「日露戦争で貴国が勝った時には、樺太も取れば、漁業の権益も取った。今度は負けたのだから、こっちのいうことを聞くのが当たり前ではないか」と主張し、さらに「私の方でいま残っているのは、国後、択捉の問題だけであって、あとは全部、貴国のいい分を聞いているのだから、問題は解決しているのと同じだ」と述べた。これに対し河野は

と反論した。ブルガーニンは「よくわかった」と答え、その場でイシコフに協力を指示し、漁業条約は締結された。また、国交正常化の交渉を7月31日までに開始することでも合意した。調印式を終えて帰国した河野を、羽田空港では数千人が出迎えた。

1956年、日ソ平和条約交渉でフルシチョフ共産党第1書記を向うに渡り合い、同年10月には日ソ共同宣言を成立させ、鳩山首相と共に調印に扱ぎつけた。鳩山引退後の自由民主党総裁公選では岸信介を支持し、石橋湛山に一敗地にまみれるが、岸内閣成立後は主流派となる。1957年(昭和32年)の内閣改造では、経済企画庁長官として入閣。第2次岸内閣下では党総務会長に就任。しかし、1959年(昭和34年)6月に幹事長就任を岸首相に拒否されたため、反主流派に転ずる。日米安保条約改定では岸内閣に批判的立場を取り、衆議院における強行採決で、河野派は三木派とともに欠席した。

岸退陣後の自民党総裁公選では党人派の結集を画策し、大野伴睦、石井光次郎を擁立するが、官僚派(旧吉田派)の池田勇人に敗れる。一時、河野新党の結成を目論むが、大野らに翻意を促され、断念。大野の仲介により池田首相に接近をはかり、1961年(昭和36年)7月の内閣改造で農林大臣として入閣。1962年(昭和37年)7月の改造では建設大臣として、東京オリンピックに向けた道路や施設の整備に辣腕をふるう。建設大臣を2年務めた後、1964年(昭和39年)7月の第三次池田内閣では、副総理、東京オリンピック担当の国務大臣に横滑りした。この人事が決まった際、河野は「オリンピックについては建設大臣のときにやるべきことはやった。あとは文部大臣の管轄ではないのか」と必ずしも歓迎しない反応を新聞記者に示している。

1963年(昭和38年)7月には、右翼の野村秋介らに、自宅を焼き討ちされている(河野一郎邸焼き討ち事件)。

1964年10月に東京オリンピック終了と共に、池田が病のため退陣表明するに当たっては後継総裁候補の一人に擬せられたが、後継総裁は池田の指名で佐藤栄作に落ち着いた。

1964年11月9日発足の第1次佐藤内閣では、副総理兼体育振興のスポーツ担当大臣を務めたが、1965年(昭和40年)6月3日の内閣改造では、閣内残留を拒否。1ヶ月後の7月8日、大動脈瘤破裂のため急死した。享年67。死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。

人物

新東京国際空港問題との関わり

新東京国際空港(現在の成田国際空港)建設にあたっては、建設大臣として強硬に木更津沖埋め立て案を推進していた。1963年8月27日に、航空行政を管轄する運輸大臣であった綾部健太郎から、羽田空港との管制の兼ね合いを理由に木更津案を否定し、代案として富里や霞ヶ浦周辺を候補地として示されたときには、河野は「いったい道路や河川改修はどうするのだ。建設省の手を借りずに何ができるというのだ。羽田など廃港してしまえ。羽田は生鮮品や砂利、セメントなど建設資材の流通基地として存続すれば良い。新空港は木更津沖だ」と大変な剣幕であった。なお、河野は浚渫業を営む小川栄一と近しい関係にあり、産業計画会議が1964年に出した勧告『産業計画会議の提案する新東京国際空港』は河野が松永安左衛門らに働きかけて出させたものだといわれる。

1963年12月11日に運輸省航空審議会が富里を最有力候補とする答申を出した後も、浦安沖など東京湾内の埋立による建設を主張し続けた。河野自身「なぜこんなに(空港問題に)ムキになるのかと、自分でも思うことがある。医療にしろ、三矢問題にしろ、当面の問題がいろいろあるのに、五年さき、八年さきの問題にうき身をやつして、なんになるのだろうなあ。だいたい、そのころ、僕も(運輸相に就任した)松浦君もどうなっているかわからんのにね」と述べていたが、その言葉どおり1965年に急逝した。

新空港の建設地は、河野が死亡した4か月後に運輸省案の『富里八街空港』に一旦内定するが、河野の介入もあって政府部内での意見調整に時間が費やされた結果、地元との調整が全く行われていなかったために、現地での大規模な反対運動を招いた。これらを受けて、翌1966年に空港規模を縮小したうえで、約4 km北東に移動して国有地や公有地が多い成田市三里塚に決定した(→成田空港問題)。

人物評

「河野一郎という人物は、肌を接して日常の馬鹿げたことから付き合っていないとなかなか真価は分からない。仲間はとことんまで守りかわいがるが、敵は徹底的にやっつける。地方豪族に特有の一族郎党主義を信条としていた。この中に入り込むと、団結、友情に覆われて、人間が溶かされていく。味方は何でも善、敵は何でも悪というふうになりやすい」 - 中曽根康弘

その他

建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、『日本で国際会議場にふさわしいところは京都である…』との考えで京都市の宝が池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。地元よりの陳情を抑えての決断であった。

酒がまったく飲めない体質だったが、フルシチョフにコニャックを薦められた際、「国益のために死ぬ気で飲んだ」という(フルシチョフは河野が飲めない体質なのを予め知っていたが、河野はこれを逆手に取り一気飲みした後グラスを逆さにしフルシチョフらを瞠目させた)。そのフルシチョフらと日ソ漁業交渉で渡り合ったとき、興奮してテーブルを叩いたため前にあったティーカップが倒れテーブルクロスが紅茶で汚れたので、河野は苦笑しながら謝罪した。ささいな出来事だが、これがフルシチョフらの河野に対する印象を好転させたという。長い間スターリンの理不尽な暴政に耐えてきた彼らにとって、小さなことでも間違いと分かれば素直に謝る姿が好ましく思われたのである。

1963年7月、憂国道志会の野村秋介により自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。その大磯の吉田邸も46年後の2009年3月に火災で焼失した。

農林大臣時代と建設大臣時代にそれぞれ大臣としての権限を発揮して事務官と技官の棲み分けといった旧例を無視する形で官僚人事を断行した。

系譜

河野氏

 
 
 
 
杉田湛誓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石橋湛山
 
 
 
石橋藤左衛門
 
きん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
石橋湛一
 
久美子
 
 
 
 
 
 
 
 
岩井尊記
 
うめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
足立正
 
足立龍雄
 
 
足立正晃
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
山梨勝之進
 
泰子
 
 
啓子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
伊藤忠兵衛
 
伊藤恭一
 
 
伊藤勲
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
本郷房太郎
 
周子
 
 
武子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河野謙三
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河野治平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河野太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河野一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河野洋平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
照子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田川平三郎
 
 
 
 
 
 
 
田川誠一
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田川誠治
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田川秀雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河野一郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
河野謙三
 
 
河野鉄雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
園子
 
 
河野剛雄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顕子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡本良平
 
岡本茂俊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡本伝之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡本達彬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
岡本経世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田川誠一
 
伸子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田川秀雄
 
 
 
 
 
和子
 
 
 
 
 
 

これ以外にも加納久朗・麻生太郎・鈴木善幸・宮澤喜一・小川平吉・谷村裕・吉國一郎・岸田文雄・石橋正二郎・美濃部亮吉・濱口儀兵衛・藤山愛一郎・久邇邦昭・昭和天皇・安西正夫・大原總一郎・正田英三郎・濱口雄幸・犬養毅・橋本龍太郎・橋本大二郎・田中角栄・田中直紀・太田誠一・櫻内義雄・福田赳夫・福田康夫・越智隆雄・山崎種二・安倍晋三・松崎昭雄・森永太平・今井善衛・鈴木三郎助・鈴木恭二・盛田昭夫・永野重雄・中曽根康弘・西園寺公望・鮎川義介・豊田章一郎・豊田達郎・清水満昭・武田國男・細川護熙・近衛文麿・北野隆興・中部幾次郎・中部謙吉・中部慶次郎・上野十蔵・永山治・竹下登・小沢一郎・金丸信などと縁戚関係にある。

2024/06/20 11:17更新

kouno ichirou


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1986年6月2日生まれの有名人 神奈川出身

浦 えりか(うら えりか、1986年6月2日 - )は、日本の女優、歌手、プロレスラー、元グラビアアイドル。夫はSEKAI NO OWARIのDJ LOVE。神奈川県出身。ファインモーション所属。以前…

鷲尾 真知子(わしお まちこ)
1949年6月2日生まれの有名人 神奈川出身

鷲尾 真知子(わしお まちこ、1949年〈昭和24年〉6月2日 - )は、日本の女優・声優。神奈川県出身。シス・カンパニー所属。夫は俳優の中嶋しゅう。 両親は満州で終戦を迎え、命がけの引き揚げを体…

宮沢 なお(みやざわ なお)
1987年6月2日生まれの有名人 神奈川出身

宮沢 なお(みやざわ なお、1987年6月2日 - )は、日本のタレント、歌手。神奈川県出身。アイント所属。 2009年8月に佐倉真衣、藤田舞美と共にダンスポーカルユニット『SHAKE』(シェイク…

青明寺浦正(せいみょうじ うらまさ)
【風男塾】
1986年6月2日生まれの有名人 神奈川出身

中野風女シスターズ(なかのふじょシスターズ)は日本の女性アイドルグループ。現在は活動休止中であり、彼女たちが男装した姿『風男塾』(ふだんじゅく)としてのみ活動している。 インターネットテレビのSh…

大村 はま(おおむら はま)
1906年6月2日生まれの有名人 神奈川出身

大村 はま(おおむら はま、本名:大村 濱(読み同じ)、(英文:Ohmura Hama)1906年(明治39年)6月2日 - 2005年(平成17年)4月17日)は、日本の国語教師、国語教育研究家。西…

伊東 勇(いとう いさむ)
1944年6月2日生まれの有名人 神奈川出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 伊東 勇(いとう いさむ、1948年9月6日 - )は、福岡県出身の元プロ野球選手(投手)。 福岡第一高では甲子園に出場できなかっ…

島野 修(しまの おさむ)
1950年6月2日生まれの有名人 神奈川出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 島野 修(しまの おさむ、1950年6月2日 - 2010年5月8日)は、神奈川県横浜市出身のプロ野球選手(投手、右投右打)、スーツア…

富田 京子(とみた きょうこ)
1965年6月2日生まれの有名人 神奈川出身

富田 京子(とみた きょうこ、1965年6月2日 - )は、日本のドラマー、作詞家、ミュージシャン、ラジオパーソナリティ。神奈川県横浜市戸塚区生まれ。「プリンセス プリンセス」のメンバーとして知られる…


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鴻池 祥肇(こうのいけ よしただ)
1940年11月28日生まれの有名人 兵庫出身

鴻池 祥肇(こうのいけ よしただ、1940年11月28日 - 2018年12月25日)は、日本の政治家。位階は正三位。 内閣官房副長官(麻生内閣)、防災担当大臣兼構造改革特区担当大臣(第1次小泉第1…

河野 和久(こうの かずひさ)
1950年12月30日生まれの有名人 広島出身

河野 和久(こうの かずひさ、1950年12月30日 - )は広島県出身の元サッカー選手。ディフェンダー(DF)。 高校卒業後、日立入りし、忠実なサイドバックとして長くレギュラーとしてプレーした。…

河野 明子(かわの あきこ)
1978年12月19日生まれの有名人 東京出身

河野 明子(かわの あきこ、1978年12月19日 - )は、元テレビ朝日アナウンサー。夫は元プロ野球選手、野球指導者の井端弘和。 慶應義塾幼稚舎、慶應義塾中等部、慶應義塾女子高等学校、慶應義塾大…

河野 景子(こうの けいこ)
1964年11月12日生まれの有名人 宮崎出身

河野 景子(こうの けいこ、本名同じ、1964年(昭和39年)11月12日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、元フジテレビアナウンサー。 元夫は元大相撲力士で第65代横綱の貴乃花光司で、…

河野 由佳(こうの ゆか)
1981年9月30日生まれの有名人 東京出身

河野 由佳(こうの ゆか、1981年9月30日 - )は、日本の女優。神奈川県出身。以前はスペースクラフト・田辺エージェンシー・BESIDEを経て、MIYAZU ROOMに所属 和光学園中学校…

河野 淳吾(こうの じゅんご)
1982年7月9日生まれの有名人 神奈川出身

河野 淳吾(こうの じゅんご、1982年7月9日 - )は、神奈川県足柄下郡湯河原町出身の競輪選手、元プロサッカー選手。日本競輪選手会神奈川支部に所属。 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)でプレー…

河野 広貴(かわの ひろき)
1990年3月30日生まれの有名人 神奈川出身

FW (ST,WG) / 河野 広貴(かわの ひろき、1990年3月30日 - )は、神奈川県相模原市出身のサッカー選手。ポジションはフォワード(FW)及びミッドフィールダー(MF)。 兄の影…

河野 和正(かわの かずまさ)
1970年11月7日生まれの有名人 大分出身

河野 和正(かわの かずまさ、1970年11月7日 - )は、大分県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 1989年にマツダSCに入団、サテライトチームであるマツダSC東洋で経験をつみ、トップチ…

河野 陽吾(こうの ようご)
1962年12月18日生まれの有名人 大阪出身

河野 陽吾(こうの ようご、1962年12月18日 - )は、日本の作曲家、編曲家、歌手、キーボーディスト。大阪府堺市出身。 1984年4月1日 - MAKE-UPのメンバーとしてデビュー(198…

河野 万里奈(かわの まりな)
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河野 万里奈(かわの まりな、本名同じ。1990年5月21日 - )は、日本の女性歌手。福岡県春日市出身。身長148cm。血液型はB型。 ボンド所属。以前は河野 マリナとしてソニー・ミュージックアー…

河野 謙三(こうの けんぞう)
1901年5月14日生まれの有名人 神奈川出身

河野 謙三(こうの けんぞう、1901年(明治34年)5月14日 - 1983年(昭和58年)10月16日)は、日本の政治家。従二位勲一等旭日桐花大綬章。 参議院議員(5期)、衆議院議員(1期)、参…

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河野 茉莉(かわの まり、4月8日 - )は、日本の女性声優。山口県出身。AIR AGENCY所属。 Talk back、AIR AGENCY声優養成所卒業。 人物 方言は山口弁。 趣味は映…

河野 匡泰(こうの まさひろ)
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河野 匡泰(こうの まさひろ、6月1日 - )は、日本の男性俳優、声優。長野県出身。 アマチュア活動の際に使用していた芸名が現在の芸名になっている。 それ以前のプロ活動においては河野清人(こうの …

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河野 智之(こうの ともゆき、1971年10月19日 - )は、日本の男性声優。81プロデュースに所属していた。東京都出身。声種はバスバリトン。 モジャ公(ユキババ) しましまとらのしまじろう(青…

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