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河野洋平の情報 (こうのようへい)
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【11月21日】今日誕生日の芸能人・有名人

河野洋平の情報(こうのようへい) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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河野 洋平さんについて調べます

■名前・氏名
河野 洋平
(読み:こうの ようへい)
■職業
政治家
■河野洋平の誕生日・生年月日
1937年1月15日
丑年(うし年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
神奈川出身

(昭和12年)1937年生まれの人の年齢早見表

河野洋平と同じ1937年生まれの有名人・芸能人

河野洋平と同じ1月15日生まれの有名人・芸能人

河野洋平と同じ出身地神奈川県生まれの有名人・芸能人


河野洋平と関係のある人

瀬戸山三男: 河野洋平


近藤鶴代: 河野洋平


山花貞夫: 追悼演説は同年8月10日に自民党の河野洋平が行っている。


杉原千畝: — 2000年10月10日の外務大臣河野洋平による演説


西岡武夫: ロッキード事件を期に、衆議院議員の河野洋平、田川誠一、山口敏夫、小林正巳、参議院議員の有田一寿と共に、6人で自民党を離党。


前田正男: 河野洋平


甘利明: 在任期間は35日間(10月1日〜11月4日)で、宇野宗佑総裁時代の橋本龍太郎、河野洋平総裁時代の三塚博を下回り、第1次安倍改造内閣総辞職に伴う約1か月の麻生太郎に次ぐ、歴代自民党幹事長で2番目に短い在任期間となった。


宮崎茂一: 河野洋平


衛藤征士郎: なお当時の外務大臣だった河野洋平は、李登輝へのビザ発給に最後まで難色を示していたため、衛藤は河野洋平との関係に終止符を打ち、大勇会を退会した。


高木義明: 同時に河野洋平衆議院議長に対しても、議会を冒とくする行為だとし、院の権威保持に向けた働きかけを求める申し入れを行った。


粕谷茂: かねてより師事していた河野洋平が総裁に就任すると、自民党幹事長代理に就いた。


永田寿康: 2月28日に、民主党から半年間の党員資格停止処分を受け、堀江メール発言で懲罰事犯が提起され、衆議院懲罰委員会に付託されたが、最終的には処分が決定する前の3月31日に衆議院議長河野洋平に辞職願を提出。


増岡博之: 昭和42年(1967年)の総選挙で自民党から当選した同期には山下元利・塩川正十郎・加藤六月・河野洋平・中尾栄一・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・山口敏夫・水野清などがいる。


宮澤喜一: 加藤紘一は大平側近として知られ、個人としての宮澤は加藤よりも河野を後継に望んだとされるが、いわゆるKK戦争における宮澤の煮え切らない態度は、河野洋平の離脱による派閥分裂を招いた。


石原健太郎: 河野洋平を代表とする新自由クラブ結成に伴い1977年の第11回参議院議員通常選挙に立候補する。再度参議院挑戦を目指したが、河野洋平ら周囲の要請により、衆議院に鞍替えする。


相沢英之: 1998年12月には河野洋平、麻生太郎らと宏池会を離脱し、大勇会(河野グループ)に参加、会長代行を務めた。


石破茂: 自民党離党と新党参加を決意したのは、河野洋平自民党総裁(当時)の下で、「憲法改正論議を凍結する」という方針だったことが原因だった。


谷垣禎一: これにより、河野洋平以来2人目の内閣総理大臣に就任しなかった自由民主党総裁、任期中通して野党党首であった唯一の総裁となった(河野は任期中に自社さ連立政権発足に伴い与党に復帰した。


箕輪登: 1967年、自民党公認で第31回衆議院議員総選挙に旧北海道1区から出馬し、得票数4位で初当選を果たした(当選同期に山下元利・増岡博之・加藤六月・塩川正十郎・河野洋平・中尾栄一・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・山口敏夫・水野清など)。


田川誠一: いとこ 河野洋平(政治家)


上原正吉: 河野洋平


村山富市: 6月25日、進退窮まった羽田内閣が総辞職し、社会党を巡り自民党・連立与党が協議を行うなか、自民党総裁の河野洋平が社会党委員長首班の連立政権を打診し、自社さ共同政権構想に合意した。


鯨岡兵輔: その後は三木派、河本派に所属したが、晩年は河本派を離れ、寵愛していた河野洋平の後ろ盾として行動した。


大島友治: 河野洋平


岩下栄一: 1972年、河野洋平文部政務次官の秘書を兼務。


細川護熙: 自民党の河野洋平総裁は合意を批判し、党内に農水族議員を多く抱えていた自民党も批判的な声明を出したが、自民党内も見解が分かれており、開放論者として交渉にあたっていた宮澤前首相は「パーフェクトゲーム」と合意を評価していたという。


加藤紘一: 第2次安倍内閣の集団的自衛権行使容認の方針について「徴兵制まで行き着きかねない」と反対を訴えた他、慰安婦募集の強制性を認めた河野洋平官房長官談話の見直しを進めようとしていた安倍を批判した。


村上正邦: この時、内閣官房長官だった河野洋平は、


木村俊夫: 河野洋平


河野謙三: 河野一郎は兄、河野洋平は甥に当たる。


河野洋平の情報まとめ

もしもしロボ

河野 洋平(こうの ようへい)さんの誕生日は1937年1月15日です。神奈川出身の政治家のようです。

もしもしロボ

卒業、映画、病気、解散、引退、現在、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。亡くなられているようです。

河野洋平のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

河野 洋平(こうの ようへい、1937年〈昭和12年〉1月15日 - )は、日本の政治家。

衆議院議長(第71・72代)、副総理(村山内閣・村山改造内閣)、外務大臣(第118・123-125代)、内閣官房長官(第55代)、科学技術庁長官(第39代)、原子力委員会委員長(第39代)、衆議院議員(14期)、自由民主党総裁(第16代)、新自由クラブ代表(初代・第3代)を歴任。

2003年(平成15年)から2009年(平成21年)まで日本憲政史上最長(当時)の期間にわたって衆議院議長を務めた。

父は副総理兼国務大臣(東京五輪担当)、農林大臣、建設大臣、衆議院議員を務めた河野一郎、叔父は参議院議長を務めた河野謙三、第4代デジタル大臣で衆議院議員の河野太郎は長男。

いわゆる従軍慰安婦について述べた「河野談話」を発表したことで知られる。

稲門体育会会長。

1937年(昭和12年)、神奈川県平塚市に衆議院議員河野一郎とその妻照子の次男として生まれる。1955年(昭和30年)、早稲田大学高等学院を経て、早稲田大学政治経済学部経済学科に入学(同級生に福田康夫)。在学中は競走部に所属した。1959年(昭和34年)に大学を卒業し、丸紅飯田(1972年(昭和47年)に社名変更して丸紅となる)に入社した。大阪本社財務部、食糧部、東京支社砂糖食料品部に勤務。

丸紅飯田在籍中には富士スピードウェイの建設にも関わっており、富士スピードウェイの運営会社として設立された「日本ナスカー株式会社」の副社長も務めていたことがある。ただしその後、同社の経営権が三菱地所に事実上譲渡されたことに伴い、サーキットのオープンを待たずに経営陣から退いている。

後、米国スタンフォード大学留学、ニチリョウ社長を務めた。1965年(昭和40年)、父、一郎が死去。

1967年(昭和42年)、父の地盤を継承して第31回衆議院議員総選挙に自民党公認で初出馬、トップ当選を果たす(当選同期に山下元利・増岡博之・加藤六月・塩川正十郎・中尾栄一・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・水野清など)。自民党では父が率いた河野派の流れをくむ中曽根派に入会。 しかし1970年の佐藤首相の四選をめぐる党内の議論では、派閥の現実路線に反して四選阻止を訴えるなどスジ論を主張した。

1972年(昭和47年)、第2次田中角栄内閣の文部政務次官に就任。

若手時代は「自民党のプリンス」と呼ばれ、勉強会「政治工学研究所」(政工研)を主宰。超派閥的に党内左派の中堅・若手議員を従える立場にあった。1974年(昭和49年)の田中角栄内閣の総辞職に伴う後継総理・総裁選出に際しては、公選が行われることを見越しての河野擁立運動が政工研を中心に展開された。しかし、話し合いによる後継者決定(椎名裁定)が当時の実力者の間で既定路線となっていたこともあり、擁立運動は挫折した。また、三木内閣発足時には環境庁長官への起用が予定されていたが、党内左派の反発で流れた。

1976年(昭和51年)に政工研のメンバーだった田川誠一、西岡武夫、山口敏夫、小林正巳、有田一寿らと自民党を離党、新自由クラブを結成し党首に就任。結党直後の第34回衆議院議員総選挙では都市部を中心に一挙に17人の当選者を出す躍進を遂げた。なお、同年の新自由クラブ立ち上げ当時に、ニッポン放送の深夜放送『オールナイトニッポン』のパーソナリティを務めた経験(1976年7月30日放送)がある。

1979年(昭和54年)、西岡の離党・自民党復党によって打撃を受け、同年の第35回衆議院議員総選挙では惨敗した。後、代表を辞任している。また、自民党が総選挙で過半数割れした後の四十日抗争の際に当時の大平正芳首相から連立の申し出があったが、自民党内の反対で立ち消えになった(連立政権では田川が文部大臣に就任する予定だった)。なお、1981年(昭和56年)には映画『ええじゃないか』に原市之進役で出演したこともある。

1982年(昭和57年)、河野の政界の師匠である中曽根康弘が内閣総理大臣となると、連立政権案が浮上。1983年(昭和58年)、新自由クラブは第37回衆議院議員総選挙で過半数割れした自民党の呼びかけに応じ、連立政権に参加した。1984年(昭和59年)に新自由クラブ代表に復帰。1985年(昭和60年)には第2次中曽根再改造内閣で科学技術庁長官に就任し、政界入りから18年目で初入閣。

1986年(昭和61年)、新自由クラブは解党し、河野も自民党に復党する。

かつて所属した中曽根派から「帰ってこい」と言われたが、中曽根のタカ派体質が馴染めず断り、尊敬する宮澤喜一が領袖を務める宏池会に入る(当時は宮澤派) 。しばらく活動を抑えていたが、1991年(平成3年)には宮澤総裁実現に貢献し、1992年(平成4年)、宮澤改造内閣で内閣官房長官に就任し、また、国務大臣として『婦人問題を総合的に推進するため行政各部の所管する事務の調整』も担当した。河野は「ちょっと待ってください。内閣には森山眞弓さんという文部大臣がおられるから、森山さんにお願いされたらどうですか」と固辞したが、宮澤首相に「君、そういうことをいうからダメなんだ。女性の問題は女性がやればいいという発想が大体間違っている。官房長官のポストはそういうポストだから、君がやれ」と怒られ、婦人問題担当にすることになった。

1993年(平成5年)、小沢一郎ら大量の離党者と第40回衆議院議員総選挙で過半数を割った宮澤内閣が総辞職すると、新党さきがけを結成した武村正義らを懐柔する目的で、後継総裁候補に後藤田正晴が浮上。しかし後藤田が固辞したため、自民党総裁選挙に立候補し、渡辺美智雄を破って自民党総裁に就任。党総裁としては初めて首相の所信表明演説に対して代表質問を行った。総裁選で支持を受けた三塚派から森喜朗を幹事長、橋本龍太郎に「野党は総裁が党務をするから、他党と政策協議にあたる政調会長が幹事長以上に重要だ」と松野頼三の助言を伝え政調会長を受けてもらい、渡辺美智雄から「君とは思想が合わないから」と渡辺派で党役員を出すことを慎重だったが、父・一郎の最後の秘書で河野が信頼していた木部佳昭を総務会長に推薦した。

1994年(平成6年)に政府提出案であった政治改革関連法案が参議院で否決された際、細川護煕首相との党首会談で法案修正で合意した上で成立させた。また羽田内閣総辞職後の政権構想では自分の首相就任を断念して、日本社会党の村山富市を首班に擁立して自社さ連立政権(村山内閣)を成立させ、自民党の政権復帰を実現した。河野は同内閣で副総理・外務大臣に就任した。

1995年(平成7年)の第17回参議院議員通常選挙で与党が敗北すると村山は自民党総裁である河野に政権禅譲を提案。しかし、小渕派会長の小渕恵三が総裁選前の交代を強硬に反対したために実現しなかった。総裁選では、河野は幹事長を三塚派の森喜朗から三塚博に交代するなどして、再選戦略を展開したものの、同じ宮澤派の実力者である加藤紘一が橋本龍太郎を支持したことにより、出馬辞退に追い込まれる。後継の総裁となった橋本が、閣内で通商産業大臣だったこともあり、副総理も橋本に明け渡している(外務大臣職は、内閣総辞職まで続投)。河野は「私の履歴書」で「『平成研(小渕派)と戦って潔く散るか』。こんな意地もないではなかった」と振り返りつつ、直前に妻を病気で亡くし、自身も体調が優れず「気力も体力も残ってはいなかった」と不出馬を決めた理由をつづった。史上初の内閣総理大臣に就任していない自民党総裁となった。また、自民党総裁経験者で、衆議院議長になったのも河野だけである。

1998年(平成10年)12月には、宮澤派の後継を巡って加藤との対立を鮮明にするが、派内の河野支持者の劣勢に加え、河野本人が当時宮澤派を離れ無派閥であったことも影響し、加藤が後継者に決定した。翌1999年(平成11年)1月、河野を支持し、加藤派への移行に反発して宮澤派を離脱した粕谷茂、麻生太郎、相澤英之、衛藤征士郎、森英介らと「大勇会」(河野グループ)を結成し、会長に就任。

1998年(平成10年)の自民党総裁選挙では、宮澤、加藤らの小渕恵三支持に反し、粕谷、麻生らと共に梶山静六を支持した。しかし、1999年(平成11年)には小渕第2次改造内閣で外務大臣に就任。これは自民党総裁選挙に強行出馬した加藤に対する小渕による冷遇の一環であった。続く森喜朗内閣でも続投し、2000年(平成12年)7月の九州・沖縄サミットではG8外相会議の議長を務めた。しかし在任中は北朝鮮へのコメ支援や台湾の李登輝訪日を巡る対応で批判を浴びることも多かった(後述)。森政権においては有力な後継候補の一人とみなされ、加藤の乱でライバルの加藤紘一が失脚してからは筆頭と見る向きも多かったが、2001年総裁選では自らは出馬せず、派閥からは麻生が出馬した。

2003年(平成15年)に行われた第43回衆議院議員総選挙後の衆議院議長候補選任に際して、自民党総裁として政権奪還の悲願を果たした功労者でありながら、内閣総理大臣に就任出来なかった河野の境遇を見かねた森喜朗に打診されて衆議院議長に就任。イラク戦争については疑問を呈しながらも「やむをえない決断」として武力行使を支持した。

2005年(平成17年)7月の郵政国会で郵政法案に造反が出て5票差の僅差で可決された時には、可否同数になった際の議長決裁も想定していた。2005年(平成17年)8月に衆議院解散で議長失職するが、総選挙後の9月に議長期間が短かったこともあり議長に再選された。

2006年(平成18年)、衆議院議長在任のため派閥活動に関与していなかったこともあって、派閥会長の座を麻生に譲ることを決意。この際、河野派から麻生派への移行では麻生に都合が悪いとして、12月15日に大勇会を正式に解散し、その上で麻生が新たに派閥を結成する形式をとった。

2007年(平成19年)には国会事務総長経験者が就任することが慣例化していた国立国会図書館長人事について、衆議院議長の強い意向として情報工学者の長尾真を起用した。

2008年(平成20年)、ガソリン国会でのガソリン税等暫定税率延長問題に絡み、与党が提出した「つなぎ法案」に対し野党が反発し、国会が混乱した際、江田五月参議院議長と連名で、予算案と歳入法案の徹底審議を行って年度内に一定の結論を得ることで、つなぎ法案を取り下げるものとした斡旋案を提示した。与野党は両院議長の斡旋案に合意した。その後予算案は結局強行採決され、歳入関連法案は衆議院でみなし否決をした上で再可決された。

2008年(平成20年)9月17日、次期衆院選に立候補せず政界を引退する意向であると報じられる。翌9月18日、正式に表明し、牧島かれんを後継とする意向も示した。同年11月20日、衆議院議長としての在任日数が1786日となり明治から大正にかけて議長を務めた大岡育造の記録を抜き、当時の憲政史上最長となった。

2009年(平成21年)7月21日、衆議院は解散され、解散詔書を読み上げるとともに2029日務めた議長の任と議員生活を終えた。この2029日は当時の憲政史上最長記録であり、2020年12月12日に大島理森の在任日数がが2030日となり、抜かれるまで10年以上にわたって1位であった。。

また、その後行われた第45回衆議院議員総選挙で河野の前任の議長を務めていた綿貫民輔が落選したため、次期国会の召集時には一時的に議長経験者が不在となった。

2011年(平成23年)秋の叙勲にて桐花大綬章を受章。

2022年4月には笹川平和財団のインタビューに答えている。

2023年7月、訪中して王毅と会談。

上記陸連会長として、資金を不正運用した上に巨額損失を出している、東京マラソンに関する協賛金を計上しない、人事を身内で固め陸上と無縁な人物を入会させる、等の行為を内部告発されている(週刊新潮2009年3月18日発売号より)。

また、競走馬のオーナーブリーダーとしても知られ、父・一郎から引き継いだ那須野牧場のオーナーとしてナスノコトブキ(1966年菊花賞)、ナスノカオリ(1971年桜花賞)、ナスノチグサ(1973年優駿牝馬)を輩出した。その関係もあり、現在日本軽種馬協会会長を務めている。なお、那須野牧場は河野の次男である河野二郎が社長を務めている。

出身地・選出選挙区ともに首都圏であるが、自民党総裁としては初代の鳩山一郎以来である(河野以後では小泉純一郎がいる)。

河野は新自由クラブを結成した1976年(昭和51年)頃より異常な疲れを感じるようになっており、直後に重度の肝機能障害を指摘された。これは後にC型肝炎と診断され、さらに1997年(平成9年)にアメリカ合衆国で受けた肝臓の生検の結果、肝硬変に近い状態まで進行していることが判明した。これに対してインターフェロンによる治療を受けたものの改善無く、2000年(平成12年)には黄疸が出現、また肝性脳症による意識障害も生じるようになっていたという。

2002年(平成14年)、息子らの勧めによって、肝臓移植手術を受けることを決定、同年4月16日から翌未明にかけて、信州大学医学部附属病院において生体肝移植を受けた。肝臓のドナーは、息子の太郎であった。手術は成功したが、河野は自身のC型肝炎感染経路については不明としている。

北京オリンピックを支援する議員の会会長

日中友好議員連盟所属

日本国際貿易促進協会会長

日韓議員連盟顧問

日本陸上競技連盟元会長(2013年退任)

日本軽種馬協会会長

2023年1月7日の報道特集に出演し、「70数年前に日本は決心したじゃないかと。尊い命を犠牲にして、我々今ここに繁栄を得ているのです。決して忘れません、決してあの過ちは繰り返しません。何十年も言い続けて、その結果がこの政策転換というのは、私はあり得ないと、そう思っているのです」と述べた上で、「安倍政治というものに非常に大きな問題があったと思います。」とし、更に「現状の倍の国防力負担を国民にさせようという状況なら、どれだけその前に外交的努力が行われたのかを問わなければいけないと思います」、「米中関係というものが今や最大の課題だと思っているアメリカにとってみれば、最も中国に近い最前線の日本を自分の味方に完全に取り込んで。その証拠を示すために、あれだけの金額を日本が使えますということを、これだけあからさまにしたというのは、やはりアメリカは大喜びでしょう」「反撃能力というのは威嚇ですよね。明らかに武力による威嚇。武力を予算化しようとしている。どう説明をなさるのか、私にはわかりません。戦わないために何をするかということを、深刻に考えるべきだと思います」と警鐘を鳴らした。。

河野は1980年に朝鮮総連25周年行事に参加して、

この25年間、皆様は着実な歩みで、在日同胞をまとめあげ、日本の広範にわたる人々の理解を得るため努力をされてきており、今日、保守的だといわれる新自由クラブを代表する私が、この席にご招待いただいたことをみても、皆様方の運動の正当性の一端を窺うことができるでしょう。 朝鮮問題についてはさまざまな意見がございますが、今日、日本の近隣国家である朝鮮半島の自主的平和統一を積極的に支持するという意見が大多数であることは疑いの無い事実となっております。このような良い状況というのは黙って座っていれば自然に整うというものではなく、皆様方が、苦難に満ちた道のりをご自身の力で開拓してきたことから勝ち得た結果です。私はこれについて深い敬意を表します。皆様たちは、この25年間絶え間なく、着実に努力を重ね、固い団結を守り、運動を確固たる形へと発展させてきました。皆様の運動なくしては在日同胞の生活や安全、反映は考えられず、彼らを守り育ててきたことは、やはり、皆様方の努力によるものだと思います。

と祝辞を送っている。

1993年(平成5年)、韓国の盧泰愚大統領は従軍慰安婦問題で韓国挺身隊問題対策協議会らが主張する「強制連行」の有無について真相究明を求め、日本政府は「強制連行」となる証拠が発見できずに対応に苦慮していた。韓国への外交的な配慮をするため、河野は「文書を探す調査だけでは十分でないという部分もございますから、関係された方々のお話もお聞きをするということを考えております」と国会で答弁し、7月26日から30日にかけて韓国の太平洋戦争遺族会から紹介された16人の慰安婦に対して聞き取り調査を行った。宮澤喜一改造内閣の官房長官として、それまで認めていなかった慰安婦の強制性を認め謝罪する「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(「河野談話」)を発表した。河野は談話中で、「総じて本人たちの意思に反して行われた」「募集・移送・管理等の過程全体としてみれば甘言・強圧という方法により強制があった」という趣旨の発言を行った が、事前に韓国政府と談話の内容を調整していたことや慰安婦の証言の裏付け調査をしていなかったことが明らかにされている。

1997年に平林博内閣官房内閣外政審議室長が「従軍慰安婦に関する限りは強制連行を直接示すような政府資料というものは発見されませんでした」と国会で答弁しており、当時官房副長官であった石原信雄も、当時の日本政府の調査では、軍など日本側当局が慰安婦を強制連行したという資料は確認されなかったと述べている。

調査期間が短かった理由については、第40回衆議院議員総選挙で非自民党の連立政権が発足されることが確実になったため、政権としての実績を残したい焦りがあったためと指摘されている。(談話が発表された翌日に宮澤内閣は総辞職している。)

2012年8月24日、河野談話について、慰安婦の強制連行について証拠がないにもかかわらず、慰安婦の強制性を認めたことについて、石原慎太郎は「訳分からず認めた河野洋平という馬鹿が日韓関係を駄目にした」、橋下徹は「証拠に基づかない内容で最悪だ。日韓関係をこじらせる最大の元凶だ」と相次いで批判し、松原仁国家公安委員会委員長や安倍晋三元首相(当時)も河野談話を問題視する発言を行っている また、野田佳彦元 首相も、2011年の参議院予算委員会で河野談話について「強制連行したという事実を文書では確認できなかった」と発言している。河野は「『昔はどこの国でも(慰安婦は)いたんだよ』と発言するのは卑怯です。スピード違反で捕まった人が、『ほかの人もやっているじゃないか』と自分の罪を認めず、開き直る態度に似ている。」と批判し、「河野談話以降の日韓関係は非常に良好だったじゃないですか」と河野談話が日韓関係を改善させたと主張している。

河野談話は証拠に拠るものではなく、河野の個人的な政治信念に基づくものであることは、本人により認められている。『朝鮮日報』(2012年8月30日付)の取材に対して「私は信念を持って談話を発表した」「(慰安婦の徴集命令を裏付ける証拠資料がないとする批判には)処分されたと推定できる」と述べている。河野は韓国の太平洋戦争遺族会から紹介された16人の慰安婦からの証言(非公開)を「証言は被害者でなければ語り得ない経験である」と判断したことが慰安婦の強制連行を信じる根拠となったと発言していた が、現在は、インドネシアでオランダ人女性が日本軍に強制連行された白馬事件を根拠としている。

慰安婦募集の強制性(強制連行)について、河野は「紙の証拠がない」と証言しており、また、「背後に強大な、圧倒的な権力を持った者がいて、甘言、あるいはだまして(女性を)連れていった」「これはもう結果として断ることができない、本人の意志に反して連れて行かれたということは、言ってみれば強制だった」という見解を述べている。

河野談話は当初から強制連行を示す証拠がないにも拘らず強制性がみられると述べている点が問題視されることがあったが、2014年8月5日および6日に、談話の発火点ともされる朝日新聞の植村隆元記者の書いた慰安婦強制連行を肯定する記事が朝日新聞自身の検証により資料の「誤用」とし強制連行については取り消したことを受け、日本政府は談話の再検証を実施、8月20日に検証結果の報告書を公表した。報告書は、

談話作成時に韓国側と文言調整していた。

元慰安婦とされた女性への聞き取り調査では、事後の裏付け調査を行わなかった。

日韓両政府が文言調整の事実を対外的に非公表とする取り決めがあった。

ことを明らかにしている。

翌21日、自民党政調会議では「正しい史実に基づき、日本の名誉を回復したい。国際社会に正しい情報を積極的に発信すべきだ」として、河野談話に代わる新たな官房長官談話を出すよう政府に要請することを決定した。

また、外国の報道や教科書に慰安婦に関する事実誤認があるとして、自民党が日本政府に訂正の働きかけを求める提言をまとめたことについて、河野はオランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議を持ち出して「強制連行があったことは、否定することのできない事実だ」と反論。「なぜ『申し訳ありませんでした』とできないのか。」と不快感を示した。

外務大臣在任中、日本が批准していた「化学兵器の開発,生産,貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約」の発効に伴い、同条約4条から要請される、中国国内に遺棄された旧日本軍の毒ガス弾の処理において、中国やソ連のもすべて日本が全負担する取り決めを中国と交わした。 なお、同条約および附属文書では、遺棄化学兵器の廃棄に必要な資金技術人員施設等すべての必要なものを遺棄した締約国(つまり中国における旧日本軍の遺棄化学兵器については日本)の責任で用意することを求めており、また、遺棄化学兵器の廃棄を発効後10年間(2007年まで)に終了することを求めている。

在日韓国人の徐龍達が推進していた公立の大学における外国人教員の任用等に関する特別措置法成立のため、藤波孝生、森喜朗らと尽力をした。

2000年(平成12年)に外務大臣として国連からの要請は19万5千トンで山崎拓と共に北朝鮮からの食糧要請は最大限すべきであり、拉致疑惑のせいで支援出来ないのは議論の余地があるとして北朝鮮への50万トンのコメ支援を決定した。しかし拉致問題などが進展しない中で国連の要請を遥かに超える支援には、その算定根拠や決定過程の不透明さも相まって批判が多かった。

1975年(昭和50年)にタイ王国の首都バンコクで行われた東南アジア諸国連合外相会議に議員として出席した際、搭乗した飛行機が機体不良で台湾に緊急着陸した後に、中華人民共和国外交部長(外務大臣)だった喬冠華に会った際に「私は台湾の空港で一歩も外に出ませんでした」と述べた。

2001年(平成13年)の台湾の李登輝前総統訪日に中華人民共和国からの強い抗議を受けて、自らの外務大臣辞任をほのめかしてまで入国ビザ発行に反対した。最終的には森喜朗首相の指示によりビザが交付され、河野は辞任しなかったものの、頑なな親中姿勢や政府内に混乱を招いたことで批判を浴びた。

2006年(平成18年)8月15日、全国戦没者追悼式の衆議院議長追悼の辞で、当時の天皇明仁、皇后美智子が出席する中、「戦争を主導した当時の指導者たちの責任をあいまいにしてはならない」と戦争責任論に言及し、2007年(平成19年)8月15日全国戦没者追悼式の衆議院議長追悼の辞においては、「日本軍の一部による非人道的な行為によって人権を侵害され、心身に深い傷を負い、今もなお苦しんでおられる方々に、心からなる謝罪とお見舞いの気持ちを申し上げたいと思います 」と天皇皇后と戦没者遺族が出席している中で述べた。

安倍総理大臣が靖国神社に参拝したことについて「まったく評価しない。今やるべきでないことをやっている」と批判している。

2015年、安倍政権の政権運営をめぐり「自民党がこれ以上『右』に行かないようにしてほしい。今は保守政治と言うより右翼政治のような気がする」との懸念を示した。

2016年12月の安倍首相の真珠湾への慰霊訪問に対しての朝日新聞社からのインタビューで「中国人・韓国人に日本への怒りが相当あるのは当然だ」と述べた。さらに朝日新聞記者が「首相に対し、中国・韓国への配慮も暗に求めた」と補足したことに産経新聞は社説で両者を『理解不能』、『激しく戦ったアメリカとの歴史的な和解のための訪問で、中韓にどう配慮しろというのか。そもそも日本は韓国と戦争していない。』と強く批判した。河野を芥川龍之介の侏儒の言葉での政治家への皮肉を引用して『中途半端で要領を得ない知識・見識を振りかざす政治家より、国民の肌感覚の方がはるかにまともである。』と批判した。

2017年5月の講演において、「自民党は改憲党ではない」「中国の嫌がることばかりやっている」などと語った。

このように安倍政権に対して度々批判的な発言を行ってきた河野だが、安倍と盟友関係にあり政権を一貫して支え続けた麻生太郎は自らの派閥の継承者でもあり、深い信頼関係があるとされる。麻生は河野にとって、総裁時代、自らの孤独を癒やしてくれる精神安定剤のような存在だったという。

河野の「外務省が表に出て第一線で当たるのに大事なことが二つある。一つは、力ずくではダメ、話し合いでやらなければいけない、ということ」という主張について、荒木和博は「相手は国家体制自体が拉致犯なのですから、いざというときには実力で奪還するというオプションを持っていなければ話し合いによる解決もできないのではないでしょうか。最優先されるのは被拉致者の安全ですから、最後には色々な手段が考えられます。安明進氏が『片手に棍棒を持って交渉すべきだ』と言ったように、北朝鮮には強硬策を持って臨んだほうが成果は上がるものと思います。『強硬なことを言うと「戦争をする気か」と言われる』と言った人がいましたが、数十人の日本人が長期に亙って拉致されているというのはすでに私たちが戦争の中にいるということの証明です。」と述べている。

クリントン米政権時の2000年(平成12年)10月、オルブライト国務長官(当時)訪朝前に、アメリカ政府は北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除を検討しており、解除に極めて近い状況であったが、日本政府(河野は当時外務大臣)が拉致問題等を理由に指定解除阻止を図っていたことが分かっている。

2011年(平成23年)3月19日に始まった北大西洋条約機構(NATO)による対リビア空爆作戦を日本政府が支持したことについて、自身がコメンテーターとして出演していたTBSの報道番組『サンデーモーニング』内にて、当時中国政府がリビア空爆に反対していたにもかかわらず、菅内閣 (第2次改造)がNATO軍の空爆を安易に支持表明をしてしまったことにより、今後の日中関係に悪影響を与えると批判した。

南京事件については認めつつ、中国政府が犠牲者を30万人としていることについては、「若干、われわれの意見と食い違うものもある」と反論している。

2021年7月1日の中国共産党の結党100周年記念に対し、祝電を送った。

1972年12月 - 文部政務次官(第2次田中角栄内閣)

1985年12月 - 科学技術庁長官(第2次中曽根内閣第2次改造内閣)

1992年12月 - 内閣官房長官(宮沢改造内閣)

1994年6月 - 外務大臣・副総理(村山内閣)

1995年8月 - 外務大臣(村山改造内閣)

1999年10月 - 外務大臣(小渕第2次改造内閣)

2000年4月 - 外務大臣(第1次森内閣・第2次森内閣・第2次森改造内閣)

2003年9月 - 衆議院議長

2005年8月 - 衆議院議長

祖父・治平(政治家)

父・一郎(政治家)

妻・武子(1995年7月没。実業家伊藤恭一娘)

長男・太郎(自由民主党衆議院議員・前内閣府特命担当大臣)

孫 一平

次男・二郎(那須野牧場社長、1964年10月16日生)息子あり

長女・治子(1968年11月2日生)日本動物愛護協会評議員

いとこ・田川誠一(政治家)

『子が語る 父・河野一郎』恒文社、1966年。(非売品)

『拍手はいらない : 新しい政治を求めて』PHP研究所、1976年9月30日。

『私の履歴書』2004年。

『時代の異端者たち』河出書房新社、青木理との共著、2021年

^ 衆議院議長就任に伴う慣例により、派閥(グループ)と自民党籍を離脱。議長在職中に自身を除く全グループメンバーが麻生派所属となった

^ “デジタル庁”. 2022年8月10日閲覧。

^ https://www.wasedajg.ed.jp/blog/10053/

^ スジ論で親分突き上げ 河野二世ら造反『朝日新聞』1970年(昭和45年)10月1日朝刊 12版 2面

^ [時代の証言者]保守・ハト派 河野洋平(14)「消費税反対」の誤解 読売新聞 2012年10月4日

^ 内閣府 男女共同参画局

^ 自民脱党で新自由クラブ 街宣車の天井で刺されて - ニュースソクラ

^ 読売新聞2012年10月18日、時代の証言者、保守・ハト派、河野洋平⑱

^ “自民党総裁選、現職の出馬断念は菅首相が5人目 政界Zoom”. 日本経済新聞. 2021年9月17日閲覧。

^ 小林吉弥「加藤大乱、そして河野か小泉か」『政界』2001年1月号(政界出版社)

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^ 大島衆院議長、在職最長に 「国会の機能果たす」 - 時事通信、2020年12月12日

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^ <日韓関係>慰安婦問題に飛び火…専門家から自制求める声も

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^ 河野洋平氏講演にテキサス親父「敵を間違えてはならない…」 慰安婦めぐり隣の会場で火花 産経新聞 2014年6月21日

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^ 夕刊フジ (2013年12月2日). “河野洋平氏、説明責任を果たす意思示さず 「慰安婦談話」公開質問状への回答 (2/2ページ)”. 夕刊フジ. http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20131202/plt1312021139000-n2.htm 2013年12月2日閲覧。 

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佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 立風書房 2001年 334頁

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話

ネオ・ニューリーダー

KK戦争

谷垣禎一 - (河野同様、内閣総理大臣ではない自由民主党総裁。)

鯨岡兵輔 - 河野の後ろ盾として行動した

松本純 - 河野の側近で、河野の長男・太郎とは1996年衆院選当選同期である。

親中派

妙智会教団

日本端子

『河野洋平』 - コトバンク

中島信行

星亨

楠本正隆

鳩山和夫

片岡健吉

河野広中

松田正久

杉田定一

長谷場純孝

大岡育造

長谷場純孝

奥繁三郎

島田三郎

大岡育造

奥繁三郎

粕谷義三

森田茂

元田肇

川原茂輔

堀切善兵衛

藤沢幾之輔

中村啓次郎

秋田清

浜田国松

富田幸次郎

小山松寿

田子一民

岡田忠彦

島田俊雄

樋貝詮三

山崎猛

松岡駒吉

幣原喜重郎

林讓治

大野伴睦

堤康次郎

松永東

益谷秀次

星島二郎

加藤鐐五郎

清瀬一郎

船田中

山口喜久一郎

綾部健太郎

石井光次郎

松田竹千代

船田中

中村梅吉

前尾繁三郎

保利茂

灘尾弘吉

福田一

福永健司

坂田道太

原健三郎

田村元

櫻内義雄

土井たか子

伊藤宗一郎

綿貫民輔

河野洋平

横路孝弘

伊吹文明

町村信孝

大島理森

細田博之

額賀福志郎

議院

衆議院

貴族院

参議院

中村弘毅

井上毅

土方久元

田中光顯

田中光顯

小牧昌業

周布公平

平山成信

伊東巳代治

高橋健三

平山成信

鮫島武之助

武富時敏

安広伴一郎

鮫島武之助

柴田家門

石渡敏一

南弘

柴田家門

南弘

江木翼

山之内一次

児玉秀雄

高橋光威

三土忠造

宮田光雄

樺山資英

小橋一太

塚本清治

鳩山一郎

鈴木富士彌

川崎卓吉

森恪

柴田善三郎

堀切善次郎

河田烈

吉田茂

白根竹介

藤沼庄平

大橋八郎

風見章

田辺治通

太田耕造

遠藤柳作

石渡荘太郎

富田健治

星野直樹

三浦一雄

田中武雄

広瀬久忠

石渡荘太郎

迫水久常

緒方竹虎

次田大三郎

楢橋渡

林譲治

林譲治

西尾末広

苫米地義三

佐藤栄作

増田甲子七

岡崎勝男

保利茂

緒方竹虎

福永健司

根本龍太郎

石田博英

愛知揆一

赤城宗徳

椎名悦三郎

大平正芳

黒金泰美

鈴木善幸

橋本登美三郎

愛知揆一

福永健司

木村俊夫

保利茂

竹下登

二階堂進

竹下登

井出一太郎

園田直

安倍晋太郎

田中六助

伊東正義

宮澤喜一

後藤田正晴

藤波孝生

後藤田正晴

小渕恵三

塩川正十郎

山下徳夫

森山眞弓

坂本三十次

加藤紘一

河野洋平

武村正義

熊谷弘

五十嵐広三

野坂浩賢

梶山静六

村岡兼造

野中広務

青木幹雄

中川秀直

福田康夫

細田博之

安倍晋三

塩崎恭久

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河村建夫

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藤村修

菅義偉

加藤勝信

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山階宮晃親王

三条実美

伊達宗城

東久世通禧

澤宣嘉

山階宮晃親王

伊達宗城

澤宣嘉

澤宣嘉

岩倉具視

副島種臣

(副島種臣(外務事務総裁))

寺島宗則

井上馨

井上馨

伊藤博文

大隈重信

青木周藏

榎本武揚

陸奥宗光

西園寺公望

大隈重信

西徳二郎

大隈重信

青木周蔵

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曾禰荒助

小村壽太郎

林董

寺内正毅

小村壽太郎

内田康哉

桂太郎

牧野伸顯

石井菊次郎

本野一郎

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伊集院彦吉

松井慶四郎

幣原喜重郎

田中義一

幣原喜重郎

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芳澤謙吉

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林銑十郎

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有田八郎

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東郷茂徳

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吉田茂

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小坂善太郎

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省庁再編により、文部大臣と科学技術庁長官は文部科学大臣に統合された。テンプレート中の科学技術庁長官は国務大臣としてのもの。

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所得倍増計画

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1964年東京オリンピック

岸派分裂

財界四天王

日韓基本条約

非核三原則(日米核持ち込み問題)

公害国会

日本万国博覧会

沖縄返還(西山事件

佐藤派五奉行

黒い霧事件

日通事件

日中国交正常化

日本列島改造論

第1次オイルショック

第一次角福戦争

青嵐会結成

椎名裁定

ロッキード事件

三木おろし

日中平和友好条約調印

福田ドクトリン

大福密約

第二次角福戦争

田園都市構想

総合安全保障構想

第2次オイルショック

ダグラス・グラマン事件

四十日抗争

第三次角福戦争

ハプニング解散

「和の政治」

増税なき財政再建

新保守主義

「戦後政治の総決算」(国鉄分割民営化ほか)

二階堂擁立構想

死んだふり解散

創政会結成と田中派分裂

皇民党事件

ニューリーダー(安竹宮)と中曽根裁定

消費税導入

昭和天皇崩御

竹下派七奉行

ネオ・ニューリーダー

リクルート事件

参院選惨敗

バブル景気

自衛隊初の海外派遣

YKK

一龍戦争

一六戦争

安倍派四天王分裂と三六戦争

海部おろし

バブル崩壊

東京佐川急便事件

ゼネコン汚職

KK戦争

経世会(金竹小)分裂

嘘つき解散

小選挙区比例代表並立制

自社さ連立政権

阪神・淡路大震災

失われた10年

六大改革と中央省庁再編の決定

保保連合構想

金融国会

ITバブル

ブッチホン

五人組

KSD事件

加藤の乱

神の国解散

自公連立政権

聖域なき構造改革

金融再生プログラム

郵政民営化

年金未納問題(政治家の年金未納)

小泉劇場(小泉旋風)と抵抗勢力

日歯連事件(日歯連闇献金事件

中二階と麻垣康三

美しい国

憲法改正論議(国民投票法)

防衛省昇格

教育基本法改正

価値観外交(自由と繁栄の弧)

再チャレンジ

年金記録問題

フールファイブ

大宏池会構想

参院選惨敗、第一党より転落

麻生包囲網

中宏池会

大連立構想

世界金融危機(リーマン・ショック)

麻生おろし

自民大敗、民主大勝

参院選勝利、改選第一党へ復帰

東日本大震災

三党合意(社会保障と税の一体改革)

結党以来初の総裁再登板

近いうち解散

3年ぶりの政権奪還、自公で2/3確保

アベノミクス

参院選圧勝、ねじれ解消

2020年夏季五輪開催地が東京に決定

国家安全保障会議創設

特定秘密保護法制定

防衛装備移転三原則

地方創生

一億総活躍社会

集団的自衛権の行使容認(平和安全法制)

森友学園問題及び加計学園問題

組織犯罪処罰法改正によるテロ等準備罪新設

都民ファーストの会と三大政党制

憲法改正論議

憲政史上初の皇位継承と令和改元

河井夫妻選挙違反事件

桜を見る会問題

新型コロナウイルス感染症の流行

岸破義信

安倍政権の継承

東北新社役職員による総務省幹部接待問題

2020年東京オリンピック・パラリンピック

デジタル庁設置

未来選択選挙

新しい資本主義

ロシアによるウクライナ侵攻への対応

安倍晋三銃撃事件

参院選で改選過半数を獲得

安倍晋三元首相の国葬

旧統一教会問題

政治資金パーティー収入の裏金問題

岸田おろし

衆院選での与党大敗

石破おろし

30年ぶりの少数与党

国民民主党との政策協議開始

宏池会(宏池会系)

宏池会(池田派 → 前尾派 → 大平派 → 鈴木派 → 宮澤派) → 木曜研究会(加藤派 → 小里派 → 谷垣派 → 古賀派に合流×) 、※新財政研究会(堀内派 → 丹羽・古賀派) → 宏池政策研究会(古賀派 → 岸田派 → ×)、※大勇会(河野派) → 為公会(麻生派) → 志公会(麻生派)、※有隣会(谷垣グループ → ×)

平成研究会(木曜研究会系)

木曜研究会(佐藤派) → 周山会(佐藤派) → 周山クラブ(保利グループ → 福田派に合流×)、※七日会(田中派) → 政治同友会(田中派) → 木曜クラブ(田中派 → 二階堂派 → ×)、※経世会(竹下(登)派 → 小渕派) → 平成政治研究会(小渕派) → 平成研究会(小渕派 → 橋本派 → 津島派 → 額賀派 → 竹下(亘)派 → 茂木派)、※改革フォーラム21(羽田・小沢派 → 新生党に合流×)

水曜会

水曜会(緒方派 → 石井派 → ×)

白政会

白政会(大野派) → 睦政会(大野派) → 一新会(船田派 → ×)、※一陽会(村上派) → 巽会(水田派 → ×)

清和政策研究会(十日会系)

十日会(岸派 → ×)、※党風刷新懇話会 → 党風刷新連盟 → 紀尾井会(福田派) → 八日会(福田派) → 清和会(福田派 → 安倍(晋太郎)派 → 三塚派) → 21世紀を考える会・新政策研究会(三塚派 → 森派) → 清和政策研究会(森派 → 町村派 → 細田派 → 安倍(晋三)派 → ×)、※政眞会(加藤派 → 新生党に合流×)、※愛正会(藤山派 → 水田派に合流×)、※(南条・平井派 → 福田派に合流×)、※交友クラブ(川島派 → 椎名派 → ×)、※(亀井グループ → 村上・亀井派に合流×)

志帥会、近未来政治研究会(春秋会系)

春秋会(河野派 → 森派 → 園田派 → 福田派に合流×)、※新政同志会(中曽根派) → 政策科学研究所(中曽根派 → 渡辺派 → 旧渡辺派 → 村上派 → 村上・亀井派に合流×) → 志帥会(村上・亀井派 → 江藤・亀井派 → 亀井派 → 伊吹派 → 二階派)、※近未来政治研究会(山崎派 → 石原派 → 森山派 → ×)、※さいこう日本(甘利グループ)、※国益と国民の生活を守る会(平沼グループ → 日本のこころに合流×)

番町政策研究所(政策研究会系)

政策研究会(松村・三木派) → 政策同志会(松村・三木派) → 政策懇談会(松村・三木派 → ) → 政策懇談会(三木派) → 新政策研究会(河本派) → 番町政策研究所(河本派 → 高村派 → 大島派 → 山東派 → 麻生派に合流×)、※(松村派 → ×)、※(早川派 → 福田派に合流×)

二日会

火曜会(石橋派)、二日会(石田派 → 三木派に合流×)

青嵐会、自由革新同友会(中川グループ → 石原グループ → 福田派に合流×)

新しい波(二階グループ → 伊吹派に合流×)

83会、新しい風(武部グループ → ×)、伝統と創造の会(稲田グループ)、保守団結の会

さわらび会(石破グループ) → 水月会(石破派 → 石破グループ)

無派閥連絡会、無派閥有志の会、のぞみ(山本グループ)、きさらぎ会(鳩山グループ → 菅グループ)、 ガネーシャの会

自由民主党総裁選挙

総裁 - 副総裁 - 幹事長 - 総務会長 - 政務調査会長 - 国会対策委員長 - 参議院議員会長 - 選挙対策委員長 - 幹事長代行 - 総裁特別補佐

自由民主党国会議員一覧 - 総務会 - 政務調査会 - 税制調査会 - 国会対策委員会 - 参議院議員団 - 青年局 - 学生部 - シャドウキャビネット - 中央政治大学院 - シンクタンク2005・日本 - 過去を学び、分厚い保守政治を目指す若手議員の会 - 文化芸術懇話会 - アベノミクスを成功させる会 - 日本教職員組合問題究明議員連盟(議員連盟) - 国民政治協会(政治資金団体) - 自由社会を守る国民会議(党友) - 自由民主党同志会(院外団) - 自民党ネットサポーターズクラブ

自公民路線

自共共闘

自社さ連立政権

保保連合構想

自公連立政権

大連立構想

創生「日本」

新自由クラブ

新党さきがけ

新生党

自由改革連合(改革の会 - 自由党 - 新党みらい - 高志会)

国民新党

新党日本

新党大地

新党改革

日本維新の会

沖縄自由民主党

新自由クラブ

税金党

保守新党

日本のこころ

(自由党 → 憲政党 → 立憲政友会 → 同交会 → )日本自由党 → 民主自由党 → 自由党

(立憲改進党 → 進歩党 → 憲政本党 → 立憲国民党 → 立憲同志会 → 憲政会 → 立憲民政党 → 翼賛議員同盟 → 翼賛政治会 → 大日本政治会 → )日本進歩党 → 民主党 → 国民民主党(国民協同党が合流) → 改進党 → 日本自由党 → 日本民主党

(護国同志会 → )日本協同党 → 協同民主党 → 国民協同党 → 民主党と合同し国民民主党を結党

国民政治協会(政治資金団体) - 自由社会を守る国民会議(党友)

日本行政書士政治連盟 - 日本司法書士政治連盟 - 全国土地家屋調査士政治連盟 - 日本公認会計士政治連盟 - 全国社会保険労務士政治連盟 - 日本酒造組合連合会 - 日本蒸留酒酒造組合 - ビール酒造組合 - 日本洋酒酒造組合 - 全国卸売酒販組合中央会 - 全国小売酒販政治連盟 - 全国たばこ販売政治連盟 - 全国たばこ耕作組合中央会 - 全私学連合会 - 全日本私立幼稚園連合会 - 全国専修学校各種学校総連合会 - 全日本教職員連盟 - 日本私立中学高等学校連合会 - 一般社団法人全国教育問題協議会 - 全国ゴルフ関連団体協議会 - 私立幼稚園経営者懇談会 - 全国私立小中高等学校保護者会連合会 - 神道政治連盟 - 財団法人全日本仏教会 - 天台宗 - 高野山真言宗 - 真言宗智山派 - 真言宗豊山派 - 浄土宗 - 浄土真宗本願寺派 - 真宗大谷派 - 臨済宗妙心寺派 - 曹洞宗 - 日蓮宗 - インナートリップ・イデオローグ・リサーチセンター - 崇教真光 - 立正佼成会 - 佛所護念会教団 - 妙智会教団 - 新生佛教教団 - 松緑神道大和山 - 世界救世教 - 日本医師連盟 - 日本歯科医師連盟 - 日本薬剤師連盟 - 日本看護連盟 - 日本製薬団体連合会 - 日本保育推進連盟 - 日本柔道整復師会 - 日本歯科技工士連盟 - 全国介護政治連盟 - 全国旅館政治連盟 - 全国飲食業生活衛生同業組合連合会 - 全日本美容生活衛生同業組合連合会 - 全国クリーニング業政治連盟 - 環境保全政治連盟 - 日本環境保全協会 - 日本造園組合連合会 - 全国ビルメンテナンス政治連盟 - 全国商工政治連盟 - 全国石油政治連盟 - 全国LPガス政治連盟 - 日本商工連盟 - 全国中小企業政治協会 - 全国商店街政治連盟 - 社団法人日本調査業協会 - 社団法人全日本ダンス協会連合会 - 全国農業者農政運動組織協議会 - 21全国農政推進同志会 - 日本森林組合連合会 - 社団法人全国林業協会 - 日本酪農政治連盟 - 全国畜産政治連盟 - 全国漁業協同組合連合会 - 大日本水産会 - 日本自動車工業会 - 日本中古自動車販売協会連合会 - 日本自動車販売協会連合会 - 日本港湾空港建設協会連合会 - 日本自動車整備振興会連合会 - 社団法人全日本トラック協会 - 東日本ときわ会宮城県支部 - 21テレコム会議 - 全国土地改良政治連盟 - 日本港湾空港建設協会連合会 - 社団法人全国建設業協会 - 社団法人日本建設業団体連合会 - 社団法人日本建設業連合会 - 社団法人日本建設業経営協会 - 社団法人全国中小建設業協会 - 社団法人日本道路建設業協会 - 社団法人日本橋梁建設協会 - 社団法人建設コンサルタンツ協会 - 社団法人プレストレスト・コンクリート建設業協会 - 社団法人建設産業専門団体連合会 - 社団法人日本鳶工業連合会 - 社団法人日本造園建設業協会 - 社団法人全国建設業産業団体連合会 - 社団法人全国測量設計業協会連合会 - 社団法人全国地質調査業協会連合会 - 社団法人全国さく井協会 - 社団法人建設電気技術協会 - 日本下水コンポスト協会 - 社団法人全国道路標識・標示業協会 - 社団法人全国鐵構工業協会 - 社団法人日本建設躯体工事業団体連合会 - 社団法人日本塗装工業会 - 一般社団法人日本プレハブ駐車場工業会 - 社団法人不動産協会 - 全国不動産政治連盟 - 全日本不動産政治連盟 - 社団法人住宅生産団体連合会 - 全国生コンクリート工業組合連合会 - 軍恩連盟全国協議会 - 日本傷痍軍人会(解散) - 社団法人日本郷友連盟 - あすの会(解散

片山哲

鈴木雄二

萩原寿雄

岩本信行

磯崎貞序

岡崎勝男

岩本信行

小金義照

河野謙三

中西伊之助

片山哲

河野一郎

小金義照

岩本信行

岡崎勝男

片山哲

安藤覚

河野一郎

岡崎勝男

小金義照

河野一郎

片山哲

森島守人

安藤覚

小金義照

森島守人

河野一郎

岩本信行

片山哲

小金義照

森島守人

河野一郎

小金義照

安藤覚

片山哲

河野一郎

平林剛

安藤覚

木村剛輔

小金義照

河野洋平

河村勝

加藤万吉

平林剛

小濱新次

河野洋平

小濱新次

河村勝

小金義照

平林剛

河野洋平

小濱新次

増本一彦

平林剛

河村勝

甘利正

加藤万吉

戸沢政方

小濱新次

加藤万吉

戸沢政方

戸沢政方

加藤万吉

甘利正

橋本文彦

加藤万吉

甘利明

橋本文彦

加藤万吉

甘利明

戸沢政方

加藤万吉

河上覃雄

甘利明

藤井裕久

藤井裕久

甘利明

河上覃雄

加藤万吉

中島章夫

河野洋平

河村勝

平林剛

河野洋平

河村勝

亀井善之

亀井善之

河野洋平

平林剛

河村勝

河野洋平

富塚三夫

亀井善之

河野洋平

河村勝

富塚三夫

河野洋平

亀井善之

河野洋平

小泉晨一

亀井善之

松本純

佐藤謙一郎

松本純

中林美恵子

松本純

篠原豪

菅義偉

西川知雄

小此木八郎

岡本英子

小此木八郎

中西健治

飯島忠義

大石尚子

林潤

長島一由

浅尾慶一郎

早稲田夕季

田中慶秋

坂井学

田中慶秋

坂井学

池田元久

上田勇

池田元久

上田勇

青柳陽一郎

古川直季

青柳陽一郎

鈴木恒夫

首藤信彦

鈴木恒夫

首藤信彦

鈴木馨祐

中谷一馬

中田宏

江田憲司

岩國哲人

江田憲司

松沢成文

笠浩史

山内康一

笠浩史

永井英慈

田中和徳

城島光力

田中和徳

小泉純一郎

小泉進次郎

桜井郁三

江﨑洋一郎

中塚一宏

桜井郁三

中塚一宏

星野剛士

阿部知子

冨沢篤紘

甘利明

橘秀徳

甘利明

太栄志

藤井裕久

赤間二郎

本村賢太郎

赤間二郎

河野太郎

亀井善之

亀井善太郎

後藤祐一

義家弘介

後藤祐一

義家弘介

後藤祐一

河野洋平

神山洋介

牧島かれん

(2002年新設)

樋高剛

山際大志郎

樋高剛

山際大志郎

宗野創

(2022年新設)

草間剛

(2022年新設)

大塚小百合

平沼亮三 1929 - 1958

春日弘 1959 - 1964

河野一郎 1965

河野謙三 1965 - 1975

青木半治 1975 - 1999

河野洋平 1999 - 2013

横川浩 2013 - 2021

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2024/11/21 18:14更新

kouno youhei


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河野 万里奈(かわの まりな、本名同じ。1990年5月21日 - )は、日本の女性歌手。福岡県春日市出身。身長148cm。血液型はB型。 ボンド所属。以前は河野 マリナとしてソニー・ミュージックアー…

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