高峰秀子の情報(たかみねひでこ) 女優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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清水みのる: また、浜松市西区伊左地町では『森の水車』(作詞 清水みのる / 作曲 米山正夫 / 歌 高峰秀子)を記念し、昭和61年に「伊佐地緑地公園」内に水車を設置、通称「森の水車公園」と呼ばれ親しまれている。 市川崑: その後、離脱派が結成した新東宝撮影所に活動を移したが、当時の新東宝は、助監督が監督に昇進するには映画を三本撮ってそれが及第点なら会社として契約するという規約があり、撮影所の所長から「そろそろ、一本撮る心づもりをしておいてくれ」と声をかけられ、やがて新東宝から高峰秀子を主演に新しい女性映画を作って欲しいというオーダーが入った。 松山善三: 斎藤明美『高峰秀子が愛した男』ハースト婦人画報社、2012年/河出書房新社、2017年。 深沢七郎: 出演:田村高廣、高峰秀子、市川染五郎など 清水みのる: 『森の水車』(昭和16年8月)[米山正夫作曲、歌:高峰秀子] ジェラール=フィリップ: 京マチ子、田中絹代、三益愛子、山田五十鈴、池部良、木下惠介監督、早川雪洲ら日本映画界のスターたちも歓迎会に出席し、そのときのフィリップの印象について、高峰秀子は雑誌『映画の友』1954年1月号の記事で『逢へば逢ふ程、自然だし、見れば見る程、優雅だし、話せば話す程、そのデリカシイにはただただ感心するばかり、(中略)言ふなれば、「気に入っちゃった」である。 園井恵子: 1942年1月には、東宝の高峰秀子と共に古川ロッパ一座の舞台へ客演。 木下恵介: 高峰秀子は木下とのTV対談で「私は多くの木下作品に出たが、キッスシーンとベッドシーンは一つもなかった」と述懐している。 乙羽信子: 1950年に東宝で『佐々木小次郎』の映画化が決定したとき、「兎禰」は山根寿子、「那美」は高峰秀子と決まったが、「まん」の配役がどうしても決まらなかった。 長谷川一夫: 長谷川は組合側にも経営者側にも立たず、大河内伝次郎、藤田進、黒川弥太郎、高峰秀子、入江たか子、花井蘭子、山田五十鈴、原節子、山根寿子とともに「十人の旗の会」を結成して日映演東宝支部を脱退、3月25日に新東宝の設立に参加した。 豊田四郎: ただし、この映画では豊田はほとんど撮影現場に姿を見せていなかったことを、主演の高峰秀子がのちの著書『わたしの渡世日記』で記している。 石井ふく子: 一例として父は江利チエミや美空ひばりから慕われ、母は高峰秀子や越路吹雪から慕われたとのこと。 橘公子: 1976年12月の『映画の日』に、永年勤続者として高峰秀子・沢村貞子らとともに表彰された。 天本英世: 『二十四の瞳』では高峰秀子の夫役に抜擢されたが、セリフ覚えが上手くいかず本人の中では大失敗に終わったという。 近江俊郎: 1942年に高峰秀子のために作曲したものの、当時の米英音楽の規制により「米英的なメロディ」として未発売に終わった「山小舎の灯」を持ち込み、この曲に感動した近江が強力なプッシュでNHKのラジオ歌謡に採用させ、大ヒットとなった。 大河内傳次郎: 1946年(昭和21年)、東宝争議が発生し、大河内は経営者側にも労働組合側にもつかないと立ち上がり、それに賛同する藤田進、高峰秀子、長谷川一夫、入江たか子、花井蘭子、山田五十鈴、原節子、黒川弥太郎、山根寿子と共に「十人の旗の会」を結成して東宝を脱退、翌1947年(昭和22年)の新東宝設立に参加した。 竹下景子: 1999年「忍ばずの女」明治座(脚本:高峰秀子 演出:石井ふく子) 新村出: 谷崎潤一郎を通じ、女優の高峰秀子と交流を持つようになる。 藤本真澄: 宣伝映画を頼んだ成瀬とその映画に出演した松竹大船の子役だった高峰秀子と親しくなり後に引き抜くこととなる。 日高真弓: 高峰秀子 入江たか子: 高峰秀子とは生まれも育ちも全く違うが、ウマが合い、姉妹のような関係だった。 千秋実: 1975年(昭和50年)、ドラマ『微笑』で高峰秀子と共演するが、生田スタジオで収録中に脳内出血で倒れ入院し、翌1976年(昭和51年)のドラマ『喜びも悲しみも幾歳月』で再起する。 佐田啓二: その後は木下の『喜びも悲しみも幾歳月』では高峰秀子との灯台守の夫婦役で新婚時代から初老までを演じ、小津安二郎の『秋刀魚の味』など戦後を代表する作品に出演した。 池部良: 腸チフスに罹患した池部は俳優を続けるかを決めかねていたが、東宝や高峰秀子に熱心に請われ、特に高峰には市川崑を付き添いに疎開先の茨城県の山村にまで直接訪れて説得され、俳優に復帰する。 木村伊兵衛: 女優の高峰秀子は著書にて、「いつも洒落ていて、お茶を飲み話しながらいつの間にか撮り終えている木村伊兵衛と、人を被写体としてしか扱わず、ある撮影の時に京橋から新橋まで3往復もさせ、とことん突き詰めて撮るのだが、それでも何故か憎めない土門拳」と評している。 松原操: 1933年、人気スター・伏見信子と人気子役の高峰秀子が共演した松竹映画『十九の春』の同名の主題歌が、ポリドールからコロムビアが引き抜いてきた江口夜詩の作曲により、ミス・コロムビアの歌で発売されると大ヒット。 福田康夫: 好きな映画としては『黄色いリボン』などの西部劇、俳優としては高峰秀子や藤原紀香を挙げている。 小林トシ子: これは高峰秀子が予定されていた大役での出演であった。 宝田明: 映画『放浪記』で主演の高峰秀子から「映画はマイクがあるからあまり張って喋らなくても良い」と教えられたことをきっかけに、映画の演技は気を張らずに軽く演じることが必要だと考えるようになった。 山本嘉次郎: 本多猪四郎、谷口千吉、黒澤明、高峰秀子などを育て、三船敏郎を映画界に送り出したことでも知られ、また榎本健一ともっとも息の合った監督でもあった。 |
高峰秀子の情報まとめ
高峰 秀子(たかみね ひでこ)さんの誕生日は1924年3月27日です。北海道出身の女優のようです。
子役、映画、引退、結婚、母親、ドラマ、退社、脱退、家族、姉妹、父親、テレビ、事件、趣味に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2010年に亡くなられているようです。
高峰秀子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)高峰 秀子(たかみね ひでこ、1924年〈大正13年〉3月27日 - 2010年〈平成22年〉12月28日)は、日本の女優・歌手・エッセイスト。本名:松山 秀子(まつやま ひでこ)、旧姓:平山(ひらやま)。愛称は「デコちゃん」。 子役から大人の女優へ成長、戦前・戦後を通じて半世紀にわたり日本映画界で活躍した女優の1人。1929年(昭和4年)に松竹蒲田撮影所で子役デビューし、天才子役スターとして活躍。ハリウッドの名子役シャーリー・テンプルとも比較されるほどの天才子役ぶりで名を馳せた。その後東宝、新東宝を経てフリーとなる。木下惠介、成瀬巳喜男監督作品に常連出演したほか、小津安二郎、豊田四郎、稲垣浩、五所平之助など日本映画界を彩る巨匠監督の名作に数多く出演した。1979年(昭和54年)に女優を引退し、その後はエッセイストとして活動。主な出演作品に『カルメン故郷に帰る』『二十四の瞳』『浮雲』など。著書に自伝『わたしの渡世日記』など。夫は映画監督の松山善三。 1924年(大正13年)3月27日(木曜日)、北海道函館市に父・平山錦司、母・イソの長女として生まれる。生家は祖父の力松が経営していた「マルヒラ砂場」という蕎麦屋料亭で、力松は他にも「マルヒラ劇場」「マルヒラカフェ」などを経営する土地の実力者だった。兄に實、政二、隆三、弟に孝市郎がいる。 4歳の時に母が結核で亡くなり、かねてから秀子を養女にと望み、名付け親にもなった父の妹・志げの養女となって東京に移り住む。志げは17歳の時に函館に来た活動弁士・荻野市治と駆け落ちして結婚し、高峰秀子の名で女活弁士になったが、後に二人とも活弁を廃業、市治は旅回りの一座の興行ブローカーとなってほとんど家庭を留守にし、志げは内職の針仕事で生計を立てていた。 1929年(昭和4年)9月、家主である階下の住人の友達で、松竹蒲田撮影所の俳優だった野寺正一の案内で養父に連れられて蒲田撮影所を見学に行くことになった。その日は、野村芳亭監督の『母』の子役オーディションの日で、秀子は養父におされてオーディションの列の最後尾に並ばされて飛び入り参加することになったが、野村監督に思いがけなくも選び出され、ヒロインの川田芳子演じる母親の娘役で出演することとなった。10月1日付で松竹蒲田撮影所に入社し、志げの活弁時代の芸名をそのままつけて高峰秀子と名乗った。12月1日に封切られた『母』は、鶴見祐輔原作の母もの映画で、浅草では45日間のロングランヒットを記録し、翌年にはアンコール上映されるほどの大ヒット作となった。初任給は35円で、まもなく住居を鶯谷から撮影所近くの荏原郡蒲田町北蒲田に移した。 たちまち重宝がられた秀子は、五所平之助監督の『大東京の一角』、島津保次郎監督の『愛よ人類と共にあれ』、小津安二郎監督の『東京の合唱』などに出演し人気子役となる。時には男の子の役もやらされ、スタッフから「秀坊」のニックネームで呼ばれた。また、五所監督は秀子を養子にと考えていたが、志げの反対で諦めたという。1931年(昭和6年)、蒲田の尋常小学校に入学するが、徹夜の撮影も多かったためほとんど学校には通えなかった。1932年(昭和7年)4月、明治座の新派公演『松風村雨』に借りられ、花柳章太郎・岡田嘉子と共演。この公演の『満州国』にも溥儀の幼年時代を演じ、すでにうたわれていた天才子役の名を一層高めた。 1934年(昭和9年)、作詞家の藤田まさとに可愛がられた秀子は、東海林太郎が『赤城の子守唄』の大ヒットを記念して日比谷公会堂で行った実演ステージに勘太郎役で出演。これで秀子を気に入った東海林は養女にすることを熱望し、「歌とピアノをみっちり仕込む」と説得、志げと東海林家に移る。東海林の秀子に対する溺愛ぶりは尋常ではなく、秀子を片時も離さず、地方の公演先にまで連れていくほどで、東海林家へ入る時の条件だったピアノと歌のレッスンはお預けになり、撮影所にも通わないようになった。一方、志げは無給で女中がわりに働かされるという扱いを受け、それに耐えかねた秀子は志げを促し東海林家を出て、大森のアパートに引っ越した。これに激怒した藤田は東海林のために書いた「妻恋道中」「鴛鴦道中」を新人の上原敏に歌わせ、以降はほとんど東海林に曲を書かなくなった。 1936年(昭和11年)、松竹は撮影所を蒲田から大船に移す。12歳の秀子は子役から娘役への転換期にあっていたが、同年に五所監督のメロドラマ『新道』に田中絹代演じるヒロインの妹役という大役に抜擢される。田中からは実の妹のように可愛がられ、鎌倉山にあった「絹代御殿」と呼ばれる豪邸に泊まり込んで撮影所通いをするようになった。実生活では、函館大火で破産した祖父の力松一家が秀子を頼って上京し、千駄ヶ谷に家を借りて住まわせ、秀子の肩に9人の生活がかかることになった。 この頃、映画界から逃げ出したいという思いから宝塚歌劇団入りを考え、花柳章太郎と水谷八重子に相談したところ、水谷が宝塚音楽学校校長の小林一三に相談を持ちかけてくれ、無試験で入学を許可するという返事を貰った。しかし、翌1937年(昭和12年)早々にはP.C.L.企画課に務めていた藤本真澄から引き抜き交渉を受ける。引き抜きの条件は月給100円と撮影所近くの家の提供、女学校へ進学させるというもので、それに承諾した秀子は同年1月に松竹を退社してP.C.L.に移籍した。4月には約束通り御茶ノ水の文化学院に入学した。 P.C.L.移籍第1作は、吉屋信子原作・山本嘉次郎監督の『良人の貞操』で、千葉早智子演じる邦子の妹・睦子を演じた。続いて横山隆一の連載漫画を原作とした『江戸っ子健ちゃん』で榎本健一と共演。同年9月にP.C.L.は東宝映画となり、以後も数々の作品に出演、岸井明が命名したデコの愛称で撮影所のペット的存在となった。1938年(昭和13年)には山本監督の『綴方教室』で主演する。これは当時のベストセラーとなった豊田正子の綴方集の映画化で、貧乏の中でもも明るく強く生きる少女を演じて最初期の代表作とした。その一方、仕事の忙しさから文化学院への登校は月に2、3日程度となり、担任教師の河崎なつから「このさい、学校をとるか、仕事をとるかはっきり決めてほしい」と言われ、入学1年半にして退学を余儀なくされた。 東宝ではますます売れっ子となり、1939年(昭和14年)は9本の作品に出演。アイドルとしての人気も高まり、秀子の名前を冠した映画も作られた。『秀子の応援団長』では主題歌「青春グラウンド」を歌いレコードも発売されたが、B面の灰田勝彦が歌う挿入歌「燦めく星座」の方が人気となり、40万枚の大ヒットを記録した。『秀子の車掌さん』は後にコンビを組む成瀬巳喜男監督との初顔合わせ作品である。1940年(昭和15年)、豊田四郎監督の『小島の春』でハンセン病患者を演じた杉村春子の演技にショックを受け、今まで仕方なしにやっていた役者の仕事に本気で取り組もうと決意した。また、声楽家の奥田良三と長門美保に師事して発声を学び、戦中は音響設備のない戦地での慰問公演や歌手活動などを行った。 1941年(昭和16年)、山本監督の『馬』に主演。東北の四季折々の風景の中で、農家の少女と彼女の育てる仔馬の触れ合いをセミドキュメンタリーに描いた作品で、撮影には足かけ3年を費やしたが、撮影中に製作主任でB班監督の黒澤明と恋に落ちる。志げの反対で恋は不実となったが、自伝『わたしの渡世日記』にこのエピソードが記されている。1945年(昭和20年)7月、山本監督の『アメリカようそろ』の撮影のため千葉県の館山に滞在し、洲崎航空隊での慰問公演終了後に終戦を迎えた。特攻隊員を扱った『アメリカようそろ』の製作は中止となっている。 1946年(昭和21年)、占領軍に接収されたアーニー・パイル劇場(元東京宝塚劇場)で、占領軍相手の慰問公演に出演するが、衣装がなくて困っていたところ、入江たか子が手持ちのコートをほどいて衣装に仕立ててくれたという。同年、佐伯清監督の『陽気な女』が戦後第1作となる。8月、日本劇場の『ハワイの夜』に灰田と共演してフラダンスを踊り大ヒットさせるが、東宝では10月に第2次東宝争議が発生。ストに反対する大河内傳次郎に同調し、長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子、山根寿子、花井蘭子とともに十人の旗の会を結成して日本映画演劇労働組合(略称:日映演)傘下の東宝従業員組合を脱退。翌1947年(昭和22年)3月に他の脱退者らと新東宝映画製作所が発足し、秀子は同社専属となった。新東宝での第1作は、萩原遼監督の『大江戸の鬼』で、続いて阿部豊監督の『愛よ星と共に』で16歳から35歳までの女の半生を演じ、次の千葉泰樹監督の『幸福への招待』でも薄幸の女を演じて、おとなの女優としてのイメージを印象づけた。 この頃に「高峰秀子後援会」が発足し、銀座カネボウビル内に事務所が開設されて機関誌『DECO』が発行された。新東宝が創立1周年を経たぬうちに、十人の旗の会のメンバーである原節子、山田五十鈴、入江たか子らが次々と脱退。それにより秀子は新東宝女優陣の中心となり、1949年(昭和24年)公開の『銀座カンカン娘』では主題歌も歌い、公開前に発売されたレコードは50万枚(1957年時点)もの売上げを記録して大ヒットした。1950年(昭和25年)には阿部監督の『細雪』で花井蘭子、轟夕起子、山根寿子に続く末娘役を演じ、原作者の谷崎潤一郎とは家族を交えた形で、谷崎が亡くなるまで交流を続けた。同年には小津監督の『宗方姉妹』に田中絹代の妹役で出演している。同年11月、当時結婚を想定して交際していた会社の重役が後援会費を使い込み、他の女性と交際していた事が発覚したことから新東宝を退社した。 1951年(昭和26年)、日本初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』に主演。この作品で初めて木下惠介監督とコンビを組んだ。同年6月、カンヌ国際映画祭への出席の話から転じて留学生としてフランスに渡り、6ヶ月間パリに滞在する。悪化していた志げとの関係や、フリーになってからの不安などから逃避でき、映画のことを忘れて自由を満喫できる好機であった。パリ滞在中は、渡辺一夫が学生時代に下宿していたアパートの一室を住まいとした。その時のこぼれ話は『つづりかた巴里』に詳しい。1952年(昭和27年)1月に帰国した。 当時、映画俳優が映画会社に所属しない例は稀有であったが、どの社にも属さずフリー俳優として活動を開始した秀子は、1953年(昭和28年)に映画会社が締結した五社協定に拘束されず、各社の作品に出演した(もっとも、東映と日活には結局一度も出演していない)。それにより名匠の作品にも数多く出演することが出来た。特に成瀬巳喜男と木下惠介の両監督のほとんどの作品に出演。成瀬作品には計17本出演しており、『稲妻』では、母親は同じだが父親が異なる4人兄妹の末娘を好演し、演技派女優としての力量を高めた。成瀬の代表作でもあり、秀子の代表作でもある『浮雲』では森雅之演じる不実な男に振り回されながらも離れられない女、『女が階段を上る時』では生活のために銀座のバーで雇われマダムをする女、『放浪記』では若き日の林芙美子を演じ、成瀬作品で次々と主役を飾った。 木下作品には計12本出演。『二十四の瞳』は『浮雲』と並ぶ秀子の代表作で、小豆島の分教場に赴任する新人教師を演じ、当時の女優賞を独占。『喜びも悲しみも幾歳月』では佐田啓二と灯台守夫婦を演じ、主題歌とともに大ヒット。『風前の灯』ではこれまでのイメージとは正反対のダメ夫婦を佐田と演じた。戦乱に巻き込まれて過酷な運命に見舞われる農婦を演じた『笛吹川』では、18歳から85歳の老け役までを演じ、『永遠の人』でも20歳から49歳までを演じ分けた。『二人で歩いた幾春秋』でも佐田と道路工夫夫婦の半生を演じ、木下作品のヒロインとして活躍を続けた。 成瀬、木下監督以外の作品では、五所平之助監督の『煙突の見える場所』、豊田四郎監督の『雁』、野村芳太郎監督の『張込み』、稲垣浩監督の『無法松の一生』、小林正樹監督の『人間の條件 第5・6部』などに出演した。 1955年(昭和30年)2月25日、当時木下の助監督をしており『二十四の瞳』の撮影で出会った松山善三との婚約を発表。仲人は川口松太郎・三益愛子夫妻と木下惠介の3名だった。めでたい話が漏れてゴシップ扱いにされるのを嫌った木下が自ら報道各社に「松竹の木下ですが、うちの松山君と高峰秀子を結婚させますので取材に来てください」と電話をして関係者一同による記者会見を行い、これが芸能人の結婚記者会見のさきがけといわれている。3月26日に結婚式が行われた。1961年(昭和36年)、松山の監督デビュー作『名もなく貧しく美しく』に主演。小林桂樹と聾唖者の夫婦を演じ、全篇を手話で通すという難役を抜群の演技力で演じのけた。その後も松山が監督した『われ一粒の麦なれど』『六條ゆきやま紬』などに主演した。 1965年(昭和40年)以降は映画出演が減少するも、増村保造監督の『華岡青洲の妻』では市川雷蔵演じる華岡青洲の母役、豊田監督の『恍惚の人』では森繁久彌演じるボケ老人を献身的に世話する嫁役で出演し、貫禄ある姿を見せている。テレビドラマにも、1968年(昭和43年)から出演するようになり、夫の松山脚本による『落日燃ゆ』や東芝日曜劇場で放送された『一筆啓上致します』『春の別れ』などに出演。ほか、フジテレビの「小川宏ショー」内の「高峰秀子対談」コーナーの司会を務めた。舞台では、1972年(昭和47年)10月の紀伊国屋ホールでの反戦劇『ケイトンズヴィル事件の九人』に出演した。 1979年(昭和54年)、木下監督の『衝動殺人 息子よ』に出演予定であった八千草薫が降板し、代役を依頼され出演する。久々の映画出演に製作発表記者会見ではこれで引退かと質問され、「とっくに引退したつもりだったんですけどねえ」と答えている。製作中の後日、女優引退を発表、これが最後の映画出演となった。 引退後は主にエッセイストとして活動したが、松山監督の映画『典子は、今』に助監督として参加したり、1994年(平成6年)放送のテレビドラマ『忍ばずの女』で脚本を書いたりもしている。2003年(平成15年)には映画『葉っぱのフレディ』で朗読を担当した。 2010年(平成22年)12月28日午前5時28分、肺がんにより東京都渋谷区の病院で死去。86歳没。 2012年(平成24年)3月27日、東宝スタジオで高峰秀子を偲ぶ会が開かれ、八千草薫、香川京子、宝田明、司葉子、中村メイコ、戸田菜穂、篠田正浩、野上照代、長山藍子ら約400人の関係者が参列した。また、生前の秀子の遺志を継いで、映画界に貢献した裏方スタッフへの表彰を行う「一本のクギを讃える会」の発足も発表された。 2014年(平成26年)、『キネマ旬報』発表の「オールタイム・ベスト日本映画男優・女優」女優部門で第1位となった(男優第1位は三船敏郎)。ちなみに、2000年(平成12年)に同誌が発表した「20世紀の映画スター」読者選出の日本女優部門でも第1位となっている。 2024年(令和6年)、高峰秀子生誕100周年を記念し「高峰秀子生誕100年プロジェクト」として東京タワーでは大特別展「逆境を乗り越えた大女優 高峰秀子の美学」を開催し、自筆の原稿やイラスト、愛蔵品の数々や出演作のポスターなどが展示された。また、国立映画アーカイブでは「生誕100年 高峰秀子」として22作品の特集上映がされた。そのほかにも様々な展覧会やトークショー、上映会などが行われている。 「子役出身に大女優・名優なし」とのジンクス(このジンクスは、日本のみならず、シャーリー・テンプルほか外国でも同じ類例は多い)を破り、5歳から子役(現存するフィルムでは初出演の『母』や『七つの海』で、その子役像を観ることができる)となり、その後、娘役へと成長、さらに「女」を演じる大女優へと伸びていった。 役柄も非常に幅広く、娘時代には可憐な役柄が多かったが(『婦系図』『その前夜』ほか)、戦後は、時代の先端を生きる職業婦人(『朝の波紋』)、国民的人気を博した女教師(『二十四の瞳』)、男との破滅的恋愛関係に溺れる女(『浮雲』)、意に沿わぬ相手との結婚生活をする妻(『永遠の人』)、聾唖者として社会の底辺に居ながらも強く生きる女性(『名もなく貧しく美しく』)、生活のためやむを得ず銀座のバーに勤めるママ(『女が階段を上る時』)、お妾さん(『妻として女として』)など、とても、一人の女優が演じたとは思えないほど、様々な役を演じ、そのあらゆる役において見事な演技であった。 役者によっては個人の個性が前面に出てしまい、「何を演じても、誰それ自身」というタイプの俳優も少なくないが(たとえば、笠智衆は、演技というよりは自身の個性そのものが魅力となっていた俳優であると、山田洋次もNHKの「山田洋次監督が選ぶ日本の名作100本」のなかで指摘している)、高峰秀子の場合、その対極であり、まさに百変化とも言うべき、多様な役を、その役の性根をつかんで演じきった日本映画史上、稀有の名女優であった。晩年にいたっても、舞台出演は極めて少なく、「映画でデビューし映画で引退した」、日本映画史上、最高の大女優・名女優として評価される存在である。 秀子は、女優全盛期の時代から多くの本を出版し続けている。初の著書は1953年(昭和28年)に刊行された、パリ滞在のエッセイ『巴里ひとりある記』(映画世界社)で、以降『まいまいつぶろ』(同)、『私のインタヴュー』(中央公論社)、『瓶の中』(文化出版局)、『いっぴきの虫』(潮出版社)などのエッセイを上梓した。また、松山との共著による『旅は道連れガンダーラ』(同)、『旅は道連れツタンカーメン』(同)などの旅行記、『台所のオーケストラ』(同)などの料理本も書いている。 子役生活のために小学校にも十分に通えない少女時代を送ったが、シナリオ読みや読書による独学で熱心に教養を蓄え、また松山との結婚後は、自宅で松山のシナリオ執筆を口述筆記するなどの機会も得て、筆力を育てた。 1975年(昭和50年)、『週刊朝日』誌上で『わたしの渡世日記』を連載。この本では関係者を実名で登場させ、国民的女優、かつ一人の女性としての半生を率直な態度で回想している。その内容に「本当に本人が書いているのか」という問い合わせが殺到したが、当時の週刊朝日の編集部では、「ゴーストライターを使っているなら、あんな個性的な文章にはなりません」と答えたという。翌年に朝日新聞社より上下巻で刊行され、当時のベストセラーになった。このエッセイで第24回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。 2013年(平成25年)養女の斎藤明美により、未発表だったエッセイが発見され、3月に新潮社から『旅日記 ヨーロッパ二人三脚』のタイトルで刊行。この本は1958年(昭和33年)に夫と欧州を旅した際の旅行記で、自宅の書棚に保管されていたという。斎藤明美による多くの関連出版がある。 新東宝時代の1949年(昭和24年)、銀座で開かれた絵の愛好会・チャーチル会に参加し、翌1950年(昭和25年)の日本橋三越での名士余技絵画展に十号の『緑衣』を出品、4700円の売値がつけられ、会の顧問をしていた画壇の巨匠梅原龍三郎の知遇を受けた。それ以来40年にわたる親交が続き、梅原により高峰がモデルとなった多くの肖像画が描かれることとなった。初めて秀子を描いた肖像画は『カルメン故郷に帰る』のロケ中に軽井沢の別荘で描かれ、目が大きくなりすぎて似ずに何度も描き直した。試行錯誤の後、目が大きいのではなく眼光が強いことに気付いたという。 1974年(昭和49年)3月、秀子は夫の発案で、最初の肖像画を東京国立近代美術館の梅原龍三郎コーナーに寄贈し、翌1975年(昭和50年)に紺綬褒章と木杯を受けた。1987年(昭和62年)に梅原との思い出を綴ったエッセイ『私の梅原龍三郎』(潮出版社)を刊行した。 2005年(平成17年)11月、梅原の絵画作品7点、宮本三郎作の1点、森田元子作の1点、堂本印象作の2点、計11点の肖像画を秀子本人が世田谷区に寄贈し、世田谷美術館に所蔵されている。 1955年(昭和30年)に松山善三と結婚し、麻布十番近くの瀟洒だが、大女優と呼ばれる人物の邸宅としては質素な家に住んでいた。当初は、西洋の教会建築を模した建物であったようだが、平成以降、老後に備えて建物を小じんまりしたものに改装し、晩年は殆ど外部との接触を絶ち、早寝早起きの生活で余生を楽しんでいたと言われる。この時期、自宅にあった映画関係の資料やトロフィーなどの多くも記念館に寄贈している。また軽井沢に別荘を所有していたが、同じく老後に備えて、収集していた骨董などとともに平成期に売却している。最晩年には、文藝春秋の編集者・ライター、斎藤明美を養女としている。 大の愛煙家であった。著書『おいしい人間』によれば、初めて煙草を吸ったのは22歳の時、映画『愛よ星と共に』のために煙草を吸う練習をしたとあり、「それ以来、相当なヘビースモーカーになり果てて今日に及んでいる」と書かれている。著書『コットンが好き』に、お気に入りの灰皿とライターの写真があり、高峰の文章と共に紹介されている。86歳での死因は肺がんであった。 「江戸っ子健ちゃん」で共演した子役の母親を呼びとめて高峰は、「小さい頃不細工な子ほど、大きくなると可愛らしくなるらしいよ」と、わざわざ憎たらしいことを話しかけたという。その子役が花も恥じらう乙女に成長した時、やはりその子の母親をまたも呼びとめ、「ママちゃん、スマン見込み違いだった」と、さらに失礼なことを言ってトドメを刺した。その子役とは中村メイコの事であり、言った本人の高峰はそのことをすっかり忘れていて、メイ子にとても恨まれていたという。ただしその後もメイ子の事を妹分のように可愛がっていた。 1959年(昭和34年)4月10日、皇太子と正田美智子との成婚パレードの生中継にてゲスト解説を務めた。以来美智子妃との親交がある。『文藝春秋』で日本一の美人を決める対談企画があった際、高峰は「『美女』である以前に人柄や教養も含めた『美人』でないといけないという観点」から美智子妃を推し、企画で選出している。 原節子が東宝へ移籍して知り合ってからは原を「お姉ちゃん」と呼ぶ間柄であった。 若手時代に大先輩である杉村春子に化粧パフの洗いかたを指導した。杉村は文学座の後輩らに、高峰秀子から伝授された洗いかたとして、それを伝えたという。しかしパフの洗いかたを指導した当の本人の高峰は、その洗いかたをすっかり忘れていたばかりか、杉村に指導したことすら忘れていたという。 大河内傳次郎主演の『新編 丹下左膳 隻眼の巻』『同 恋車の巻』に出演した縁で、当時建設中であった女人禁制の大河内山荘に招かれたことがある。 自著のエッセイの装丁は長年の知己の安野光雅によるものだが、あるとき、安野のサイン会が開催された際、高峰がサインを待つ行列に並んでいた。それを見つけた安野から、「周りの人が見ていますよ」と声をかけられたところ、高峰は「別に構わないじゃない」と応じたという。 1960年(昭和35年)6月4日、長野県庁広場で同県の安保阻止中央総決起大会が開かれた。このころちょうど高峰主演の映画『笛吹川』のロケ撮影が長野市で行われていた。出演者の高峰、田村高廣、荒木道子、木下惠介監督は安保批判の会のメンバーとともに同大会に参加。高峰ら4人は壇上に立ち、「戦争はいやです。みなさんがんばってください」と訴えた。高峰はさらに大会終了後のデモ隊の先頭に立ち、市内を行進した。 1965年(昭和40年)、市川崑に撮影が依頼された映画『東京オリンピック』が、完成前の試写会で河野一郎(オリンピック担当国務大臣)が内容に疑問を投げるコメントを発したことをきっかけに大論争が巻き起こった際、「とってもキレイで楽しい映画だった。(文句をつけた河野は)頼んでおいてからひどい話じゃありませんか」「市川作品はオリンピックの汚点だなどと乱暴なことばをはくなんて、少なくとも国務相と名の付く人物のすることではない」と擁護コメントを雑誌や新聞に寄せた。高峰は直接河野に面会を求め、その席で高峰は市川と映画のすばらしさを訴えるとともに、河野が市川と面談するように依頼した。河野は談笑を交えて、「実は映画のことは少しもわからんのだ」と高峰に答えた。その後河野は高峰のとりもちで市川と面談を重ねた結果、制作スタッフの努力を認め、最終的に「できあがりに百パーセント満足したわけではないが、自由にやらせてやれ」と映画プロデューサーの田口助太郎に電話して矛を収めた。海外版の編集権などは市川に戻った。市川は後年の対談でもこの件を深く感謝している。 1967年(昭和42年)4月に行われた東京都知事選挙では美濃部亮吉の推薦人に名を連ねた。 1972年(昭和47年)以前、国交のなかった中華人民共和国からの映画使節団が訪日した際、外務省からの依頼により夫妻でホスト役を担っていた。戦前の中国の大スターだった趙丹が江青の俳優時代を知っているという理由だけで江青に投獄された際には、ことある都度に知己を通じ「趙丹は元気にしているか」と呼び掛け続けて文化大革命による処刑を阻んだ。この経緯は『わたしの渡世日記』『いっぴきの虫』に詳しい。 映画では佐田啓二をはじめ、田村高廣、仲代達矢、若山富三郎、天本英世、宝田明らなど年少の男優と夫婦役を演じることが多かった。この傾向は木下惠介作品に著しい。『永遠の人』で高峰扮するヒロインを陵辱して夫となり憎みあう夫婦を演じた仲代は、多数の名監督と日本映画史上に作品を残してきた俳優だが、瀬戸内寂聴との対談で、監督以外では唯一高峰の名を挙げ「厳しい人で、たくさんのことを教えられた」と述懐している。 市川崑は助監督時代に高峰の家に下宿していた仲(それ以前に高峰が京都に短期滞在した際、市川の隣室に下宿して食事などを共にしており、その縁で東宝京都撮影所閉鎖後に東京勤務となった市川が高峰家に1年あまり住んでいた)であり、デビュー作から2本に主演。その後市川が大監督となってからの出演はないものの、エッセイでは「戦友」「崑ちゃんと呼ばせて欲しい」と記し、前述の東京オリンピック映画騒動の際には率先して擁護に当たるなど、変わらぬ友情を示した。 街を歩いていてもファンに追いかけられるという人気であったが、ある日逃げ込んだ銀座の骨董品屋で骨董品の魅力に取り付かれる。以後骨董品集めが趣味となり、造詣が深い。「いい仕事してますね」のセリフで有名な中島誠之助も「姐さん」と呼ぶ長年の知己であり、一緒に骨董屋を開いていたこともある。この経緯は自伝『にんげん蚤の市』に詳しい。 『馬』の長期ロケで山形県最上町に滞在した際に、高峰に一目惚れした少年がのちのケーシー高峰で、芸名も初恋の人たる彼女に由来する。 毎日映画コンクール
1955年:女優主演賞『浮雲』 1957年:女優主演賞『喜びも悲しみも幾歳月』『あらくれ』 1961年:女優主演賞『永遠の人』『名もなく貧しく美しく』 2010年:特別賞(没後) 1954年:ブルーリボン賞 主演女優賞『二十四の瞳』『女の園』『この広い空のどこかに』 1955年:キネマ旬報ベスト・テン 女優賞『浮雲』 1956年:第3回東南アジア映画祭 最優秀女優賞『浮雲』 1961年:第5回サンフランシスコ国際映画祭 主演女優賞『名もなく貧しく美しく』 1962年:第12回芸術選奨『名もなく貧しく美しく』『永遠の人』 1965年:第17回ロカルノ国際映画祭 最優秀女優賞『乱れる』 1975年:第21回映団連永年勤続功労賞 1975年:紺綬褒章 1976年:第24回日本エッセイスト・クラブ賞『わたしの渡世日記』 日本アカデミー賞
1996年:会長功労賞 2011年:会長特別賞(没後) 1994年:第4回日本映画批評家大賞 ゴールデン・グローリー賞 2011年:第56回「映画の日」特別功労章(没後) 2011年:おおさかシネマフェスティバル2011 特別賞(没後) 2011年:第29回ゴールデングロス賞 特別功労賞(没後) 太字の題名はキネマ旬報ベスト・テンにランクインした作品 母(1929年、松竹キネマ) - 春子 単行本「高峰秀子解体新書」付録DVDにて見れる。 レヴューの姉妹(1930年、松竹キネマ) - 肇 大東京の一角(1930年、松竹キネマ) - 一郎 麗人(1930年、松竹キネマ) - 少年岩夫 父(1930年、松竹キネマ) - お綱 姉妹篇 母(1930年、松竹キネマ) - ゆき子 私のパパさんママが好き(1931年、松竹キネマ) - みつ子 美わしき愛(1931年、松竹キネマ) - お糸の実の娘 愛よ人類と共にあれ(1931年、松竹キネマ) - 息子泰夫 暴風雨の薔薇(1931年、松竹キネマ) - 晃一 女はいつの世にも(1931年、松竹キネマ) - 太郎 姉妹 前後篇(1931年、松竹キネマ) - 類子 一太郎やあい(1931年、松竹キネマ) - きぬ 東京の合唱(1931年、松竹キネマ) - 長女 麗人の微笑(1931年、松竹キネマ) - 洋一 情熱(1932年、松竹キネマ) - 光子の娘 七つの海 前後編(1932年、松竹キネマ) - 曽根百代 陽気なお嬢さん(1932年、松竹キネマ) - 道子 天国に結ぶ恋(1932年、松竹キネマ) 不如帰(1932年、松竹キネマ) - 道子 鼠小僧次郎吉 解決篇(1932年、松竹キネマ) - 太郎吉 頬を寄すれば(1933年、松竹キネマ) - 美也子 与太者と海水浴(1933年、松竹キネマ) - 敏行 東洋の母(1934年、松竹キネマ) - 静子の子供時代 ぬき足さし足(1934年、松竹キネマ) - とし坊 その夜の女(1934年、松竹キネマ) - 重子 母の愛(1935年、松竹キネマ) - 春江 永久の愛(1935年、松竹キネマ) - 秀子 新道 前篇朱実の巻、新道 後篇良太の巻(1936年、松竹キネマ) - 京子 花嫁かるた(1937年、松竹キネマ) - 菊江 花籠の歌(1937年、松竹キネマ) - 浜子 良人の貞操(1937年、P.C.L.) - 睦子 江戸っ子健ちゃん(1937年、P.C.L.) - ミーちゃん 見世物王国(1937年、P.C.L.) - 秀ちゃん 白薔薇は咲けど(1937年、P.C.L.) - 花屋の娘 お嬢さん(1937年、P.C.L.) - 失業した先生の娘 綴方教室(1938年、東宝映画) - 正子 藤十郎の恋(1938年、東宝映画) - 上村竹之亟 虹立つ丘(1938年、東宝映画) - 逸子 チョコレートと兵隊(1938年、東宝映画) - 茂子 美はしき出発(1939年、東宝映画) - 奈津子 娘の願ひは唯一つ(1939年、東宝映画) - ひで子 ロッパの頬白先生(1939年、東宝映画) - 秀代 忠臣蔵(1939年、東宝映画) - 一力仲居あぐり 樋口一葉(1939年、東宝映画) - 大黒屋みどり われ等が教官(1939年、東宝映画) - 秀子 その前夜(1939年、東宝映画) - おつう 花つみ日記(1939年、東宝映画) - 篠原栄子 新篇丹下左膳 隻眼の巻(1939年、東宝映画) - お春 秀子の應援團長(1940年、南旺映画) そよ風父と共に(1940年、東宝映画) - 秀子 釣鐘草(1940年、東宝映画) - 弓子 エノケンの孫悟空(1940年、東宝映画) - お姫様 昨日消えた男(1941年、東宝映画) - お京 馬(1941年、東宝映画) - 小野田いね 阿波の踊子(1941年、東宝映画) - お光 女学生記(1941年、東京発声) - 鎌田佐智子 秀子の車掌さん(1941年、南旺映画) - おこまさん 武蔵坊弁慶(1942年、東宝映画) - 牛若丸 希望の青空(1942年、東宝映画) - 秀子 待って居た男(1942年、東宝映画) - お雪 婦系図(1942年、東宝映画) - 妙子 阿片戦争(1943年、東宝映画) - 麗蘭 愛の世界 山猫とみの話(1943年、東宝映画) - 小田切とみ ハナ子さん(1943年、東宝映画) - チヨコさん 兵六夢物語(1943年、東宝映画) - 怪童女 若き日の歓び(1943年、東宝映画) - 高村裕子 おばあさん(1944年、松竹) - 丸子 三尺左吾平(1944年、東宝) - お妙 勝利の日まで(1945年、東宝) 北の三人(1945年、東宝) - 松本よしえ 陽気な女(1946年、東宝) - 新井陽子 浦島太郎の後裔(1946年、東宝) - 龍田阿加子 明日を創る人々(1946年、東宝) - 高峰 或る夜の殿様(1946年、東宝) - 妙子 東宝ショウボート(1946年、東宝) - 靴磨きの少年 東宝千一夜(1947年、新東宝) - 高山秀子 大江戸の鬼(1947年、新東宝) - 萩原遼 愛よ星と共に(1947年、新東宝) - 白河はるえ 幸福への招待(1947年、新東宝) - 椎名ヒサ 愛情診断書(1948年、新東宝) - 秋枝 花ひらく 真知子より(1948年、新東宝) - 曽根真知子 三百六十五夜(1948年、新東宝) - 小牧蘭子 虹を抱く処女(1948年、新東宝) - 北条あき子 春の戯れ(1949年、映画芸術協会) - お花 グッド・バイ(1949年、新東宝) - 永井きぬ子 銀座カンカン娘(1949年、新東宝) - お秋 処女宝(1950年、新東宝) - 真金 細雪(1950年、新東宝) - 妙子 宗方姉妹(1950年、新東宝) - 満里子 戦火を越えて(1950年、太泉映画) - 朱燕 佐々木小次郎(1950年、東宝) - 琉球娘奈美 女の水鏡(1951年、松竹) - 苗子 カルメン故郷に帰る(1951年、松竹) - おきん 我が家は楽し(1951年、松竹) - 長女朋子 朝の波紋(1952年、新東宝) - 瀧本篤子 東京のえくぼ(1952年、新東宝) - 峯京子 稲妻(1952年、大映) - 小森清子 カルメン純情す(1952年、松竹) - カルメン 女といふ城 マリの巻・夕子の巻(1953年、新東宝) - 築地マリ 煙突の見える場所(1953年、新東宝) - 東仙子 明日はどっちだ(1953年、新東宝) - 光奴 雁(1953年、大映) - お玉 第二の接吻(1954年、滝村プロ) - 山内倭文子 女の園 (1954年、松竹) - 出石芳江 二十四の瞳 (1954年、松竹) - 大石久子 この広い空のどこかに(1954年、松竹) - 泰子 浮雲(1955年、東宝) - 幸田ゆき子 渡り鳥いつ帰る(1955年、東京映画) - 街子 遠い雲(1955年、松竹) - 寺田冬子 くちづけ 第3話「女同士」(1955年、東宝) - 金田朋子 新・平家物語 義仲をめぐる三人の女(1956年、大映) - 冬姫 子供の眼(1956年、松竹) - 喜世子 妻の心(1956年、東宝) - 富田喜代子 流れる(1956年、東宝) - 勝代 雲の墓標より 空ゆかば(1957年、松竹) - さち あらくれ(1957年、東宝) - お島 喜びも悲しみも幾歳月(1957年、松竹) - 有沢きよ子 風前の灯(1957年、松竹) - 佐藤百合子 張込み(1958年、松竹) - 横川さだ子 無法松の一生(1958年、東宝) - 吉岡良子 女が階段を上る時(1960年、東宝) - 矢代圭子 娘・妻・母(1960年、東宝) - 坂西和子 笛吹川(1960年、松竹) - おけい 名もなく貧しく美しく(1961年、東宝) - 片山秋子 人間の條件 第5・6部(1961年、にんじんくらぶ) - 避難民の女 妻として女として(1961年、東宝) - 西垣三保 永遠の人(1961年、松竹) - さだ子 女の座(1962年、東宝) - 石川芳子 山河あり (1962年、松竹) - 井上きしの 二人で歩いた幾春秋(1962年、松竹) - 野中とら江 放浪記(1962年、東宝) - 林ふみ子 ぶらりぶらぶら物語(1962年、東京映画) - 桑田駒子 女の歴史(1963年、東宝) - 清水信子 乱れる(1964年、東宝) - 森田礼子 われ一粒の麦なれど(1964年、東京映画) - 根本倫子 六條ゆきやま紬(1965年、東京映画) - 六條いね ひき逃げ(1966年、東宝) - 伴内国子 続・名もなく貧しく美しく 父と子(1967年、東宝) - 片山秋子 華岡青洲の妻(1967年、大映) - 於継 鬼の棲む館(1969年、大映) - 楓 恍惚の人(1973年、芸苑社) - 立花昭子 スリランカの愛と別れ(1976年、東宝) - ジャカランタ夫人 ふたりのイーダ(1976年、同製作プロ) - 須川菊枝 泣きながら笑う日(1976年、同製作プロ) - 中井雪子 衝動殺人 息子よ(1979年、松竹) - 川瀬雪枝 東芝日曜劇場 (TBS)
第583回「簪マチ子」(1968年) 第605回「君は今どこにいるの」(1968年) 第632回「あさきゆめみし」(1969年) 第674回「父と母の子」(1969年) 第686回「海はあおいか」(1970年) 第735回「一筆啓上致します」(1971年) 第786回「ささやくなら愛を」(1972年) 第863回「雨の日の恋」(1973年) 第891回「春の別れ」(1974年) 第948回「台所のおと」(1975年) 第999回「母の待人」(1976年) 第1099回「流れゆく日々」(1978年) おしくらまんじゅう(1968年、CX) ポーラ名作劇場 / 霰(1969年、NET) 火曜劇場 / 微笑(1975年、NTV) - 近野由美 落日燃ゆ(1976年、NET) - 広田静子 木曜ゴールデンドラマ / 生きるなり(1980年、NTV) 毎日世界ニュース 335 「週間話題 映画使節団ニューヨークへ」 - 1958年1月13日の夜、高峰秀子や南左斗子ら代表団がニューヨークで開催される日本映画見本市に出席するため羽田空港から出発した。 タッパーウェア(1963年) 田辺製薬 味の素「ハイミー」(1980年) キッコーマン「さしみしょうゆ」 小川宏ショー(CX) - 「高峰秀子対談」の司会 第173回 NHKビッグショー」(NHK) 人に歴史あり(東京12チャンネル) - 689回「高峰秀子 女優生活五十年 その長き道のり」 ほか多数 『巴里ひとりある記』、映画世界社、1953年 / 新潮社、2011年11月 ISBN 9784103316114 『まいまいつぶろ』、映画世界社、1955年 / 新潮社、2011年11月 ISBN 9784103316121 『私のインタヴュー』、中央公論社、1958年 / 新潮社、2012年6月 ISBN 9784103316138 『瓶の中』、文化出版局、1972年 / 河出書房新社、2014年4月 ISBN 9784309022680 『わたしの渡世日記 上下』、朝日新聞社、1976年 / 文春文庫、1998年3月 ISBN 9784167587024, ISBN 9784167587031 / 新潮文庫、2012年1月 ISBN 9784101369815, ISBN 9784101369822 『いっぴきの虫』、潮出版社、1978年10月 / 文春文庫、2011年10月 ISBN 9784167587116 『つづりかた巴里』、潮出版社、1979年7月 / 中公文庫、2014年10月 ISBN 9784122060302 『いいもの見つけた』、潮出版社、1980年10月 / 集英社文庫、1986年2月 ISBN 4087490866 『台所のオーケストラ』、潮出版社、1982年6月 / 新潮社、2012年7月 ISBN 9784101369846 『コットンが好き』、潮出版社、1983年10月 / 文春文庫、2003年1月 ISBN 4167587076 『人情話松太郎』、潮出版社、1985年2月 / 文春文庫、2004年1月 ISBN 4167587084 『私の梅原龍三郎』、潮出版社、1987年2月 / 文春文庫、1997年10月 ISBN 4167587017 『道をひらく女性達 丸田芳郎対談集』(著者:丸田芳郎 中根千枝 前橋汀子 今井通子 太田朋子 高峰秀子、編集:花王)(1987年12月1日、創知社)ISBN 9784915510489 『おいしい人間』、潮出版社、1992年5月 / 文春文庫、2004年7月 ISBN 4167587092 『忍ばずの女』、潮出版社、1994年10月 ISBN 4267013624 / 中公文庫、2012年5月 ISBN 9784122056381 『にんげん蚤の市』、文藝春秋、1997年1月 ISBN 4163525807 / 新潮社、2013年1月 ISBN 9784101369587 『にんげんのおへそ』、文藝春秋、1998年5月 ISBN 4163540504 / 新潮社、2012年1月 ISBN 9784101369839 『にんげん住所録』、文藝春秋、2002年7月 ISBN 4163573305 / 文春文庫、2005年7月 ISBN 4167587106 『旅日記 ヨーロッパ二人三脚』、新潮社、2013年3月 ISBN 4103316144 / ちくま文庫、2016年6月 ISBN 448043366X 『旅は道連れガンダーラ』、潮出版社、1979年5月 / 中公文庫、2012年1月 ISBN 9784122055919 『旅は道連れツタンカーメン』、潮出版社、1980年6月 / 中公文庫、2012年3月 ISBN 9784122056213 『旅は道連れアロハ・オエ』、潮出版社、1982年12月 / 中公文庫(改題『旅は道連れアロハ・ハワイ』)、2011年11月 ISBN 9784122055674 『旅は道づれ雪月花』、文化出版局、1986年6月 / ハースト婦人画報社、2012年3月 ISBN 9784573022034 「煙草屋の娘」(1941年(昭和16年))作詞:清水みのる、作曲:米山正夫 ポリドールレコード 「森の水車」(1942年(昭和17年))作詞:清水みのる、作曲:米山正夫 大東亜レコード 「歌え山彦」(1943年(昭和18年))作詞:園ひさし、作曲:鈴木静一 大東亜レコード 「銀座カンカン娘」(1949年(昭和24年)作詞:佐伯孝夫、作曲:服部良一 ビクターレコード 「カルメン故郷に帰る」(1951年(昭和26年)作詞:木下忠司、作曲:黛敏郎 ビクターレコード ^ 長らく散逸したとされていたが、発見され、2014年にDVD化される。 ^ 松竹VHS ^ 別冊宝島2551『日本の女優 100人』p.12. ^ 川本三郎『君美わしく 戦後日本映画女優讃』、文藝春秋、2000年、p.30 ^ キネマ旬報1980、p.401 ^ 高峰1980 上、p.21 ^ 高峰1980 上、p.23 ^ 高峰秀子、KINENOTE、2015年4月29日閲覧 ^ 高峰1980 上、p.28 ^ 本地陽彦「高峰秀子・年譜」(『別冊太陽 女優 高峰秀子』)、平凡社、1999年 ^ キネマ旬報1980、p.402 ^ 高峰1980 上、p.108 ^ 高峰1980 上、p.125 ^ 高峰秀子 第一部4ページ、キネマ写真館、2015年5月2日閲覧 ^ 高峰1980 上、p.186 ^ 高峰1980 上、p.279 ^ キネマ旬報1980、p.403 ^ 『各界成功伝うらおもて』自由国民社、1957年、216-217頁。NDLJP:2971478/116 ^ 高峰1980 下、p.291 ^ キネマ旬報1980、p.406 ^ 映画「二十四の瞳」主演の高峰秀子さん逝く、スポーツニッポン、2015年5月2日閲覧 ^ 高峰1980 下、p.292 ^ 高峰秀子さん死去、数々の名作に主演 読売新聞 2010年12月31日閲覧 ^ 高峰秀子さん偲ぶ会400人…遺志継ぎ、裏方表彰を開始、スポーツニッポン、2015年5月3日閲覧 ^ 高峰秀子さんを偲ぶ会に約400人が出席 昭和を代表する大女優の人柄が語られる、シネマトゥデイ、2015年5月3日閲覧 ^ “オールタイム・ベスト10 日本映画男優・女優”. KINENOTE. キネマ旬報社 (2014年12月). 2016年9月23日閲覧。 ^ “高峰秀子生誕100年プロジェクト公式サイト”. 高峰秀子生誕100年プロジェクト公式サイト. 2024年4月29日閲覧。 ^ “生誕100年 高峰秀子 | 国立映画アーカイブ”. www.nfaj.go.jp. 2024年4月29日閲覧。 ^ 高峰秀子さんの未発表随筆発見 夫との欧州旅行記、日本経済新聞、2015年5月3日閲覧 ^ 高峰1980 下、p.186 ^ 斎藤明美『高峰秀子解体新書』(PHP研究所、2015年)91頁 ^ 『中日新聞』1960年6月5日付朝刊、11版、9面、「高峰秀子が先頭 長野のデモでロケ隊参加」。 ^ 野地2001、p.249 ^ 野地2001、p.250 ^ 『アサヒグラフ』1967年4月28日号、朝日新聞社。 ^ 第65回国会 衆議院 逓信委員会放送に関する小委員会 第1号 昭和46年2月10日 国会会議録検索システム ^ 『AERA』2010年6月14日号 ^ 映画の日 特別功労大章・特別功労章及び感謝状贈呈者一覧、映画産業団体連合会、2015年4月29日閲覧 ^ 放送ライブラリー 番組ID:N00489 ^ 世相風俗観察会(編)『現代風俗史年表 昭和20年(1945)→昭和60年(1985)』(河出書房新社 1986年)p.157 ^ 放送ライブラリー 番組ID:A25033 ^ 放送ライブラリー 番組ID:000673 『日本映画俳優全集 女優編』、キネマ旬報社、1980年。 高峰秀子『わたしの渡世日記 上』、朝日新聞社、1980年。 高峰秀子『わたしの渡世日記 下』、朝日新聞社、1980年。 野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』、小学館、2001年。ISBN 9784093881043。 松竹キネマ 松竹大船撮影所 ピー・シー・エル映画製作所 東宝映画配給 東宝スタジオ 東宝映画 高峰秀子生誕100年プロジェクト 高峰秀子 - 日本映画データベース 高峰秀子 - KINENOTE 高峰秀子 - テレビドラマデータベース 高峰秀子 - NHK人物録 “高峰秀子 1924年生まれ。「二十四の瞳」「カルメ…:日本の大女優 写真特集”. 時事ドットコム. 2016年10月24日閲覧。 “女優として、エッセイストとして輝いた高峰秀子”. 文春写真館. 文藝春秋 (2013年10月28日). 2016年12月15日閲覧。
表 話 編 歴 高峰秀子(1955) 山田五十鈴(1956) 山田五十鈴(1957) 田中絹代(1958) 新珠三千代(1959) 山本富士子(1960) 若尾文子(1961) 岡田茉莉子(1962) 左幸子(1963) 京マチ子(1964) 若尾文子(1965) 司葉子(1966) 岩下志麻(1967) 若尾文子(1968) 岩下志麻(1969) 倍賞千恵子(1970) 富司純子(1971) 伊佐山ひろ子(1972) 江波杏子(1973) 田中絹代(1974) 浅丘ルリ子(1975) 原田美枝子(1976) 岩下志麻(1977) 梶芽衣子(1978) 桃井かおり(1979) 大谷直子(1980) 倍賞千恵子(1981) 倍賞千恵子(1982) 田中裕子(1983) 吉永小百合(1984) 倍賞美津子(1985) 秋野暢子(1986) 宮本信子(1987) 桃井かおり(1988) 田中好子(1989) 松坂慶子(1990) 北林谷栄(1991) 大竹しのぶ(1992) ルビー・モレノ(1993) 高岡早紀(1994) 杉村春子(1995) 原田美枝子(1996) 桃井かおり(1997) 原田美枝子(1998) 鈴木京香(1999) 藤山直美(2000) 片岡礼子(2001) 宮沢りえ(2002) 寺島しのぶ(2003) 宮沢りえ(2004) 田中裕子(2005) 中谷美紀(2006) 竹内結子(2007) 小泉今日子(2008) 松たか子(2009) 寺島しのぶ(2010) 永作博美(2011) 安藤サクラ(2012) 真木よう子(2013) 安藤サクラ(2014) 深津絵里(2015) 宮沢りえ(2016) 蒼井優(2017) 安藤サクラ(2018) 瀧内公美(2019) 水川あさみ(2020) 尾野真千子(2021) 岸井ゆきの(2022) 趣里(2023) 表 話 編 歴 淡島千景(1950) 原節子(1951) 山田五十鈴(1952) 乙羽信子(1953) 高峰秀子(1954) 淡島千景(1955) 山田五十鈴(1956) 望月優子(1957) 山本富士子(1958) 北林谷栄(1959) 岸惠子(1960) 若尾文子(1961) 吉永小百合(1962) 左幸子(1963) 岩下志麻(1964) 若尾文子(1965) 司葉子(1966) 浅丘ルリ子(1975) 秋吉久美子(1976) 岩下志麻(1977) 梶芽衣子(1978) 桃井かおり(1979) 十朱幸代(1980) 松坂慶子(1981) 夏目雅子(1982) 田中裕子(1983) 薬師丸ひろ子(1984) 十朱幸代(1985) いしだあゆみ(1986) 三田佳子(1987) 桃井かおり(1988) 田中好子(1989) 松坂慶子(1990) 工藤夕貴(1991) 三田佳子(1992) ルビー・モレノ(1993) 高岡早紀(1994) 中山美穂(1995) 桃井かおり(1997) 原田美枝子(1998) 鈴木京香(1999) 吉永小百合(2000) 天海祐希(2001) 片岡礼子(2002) 寺島しのぶ(2003) 宮沢りえ(2004) 小泉今日子(2005) 蒼井優(2006) 麻生久美子(2007) 木村多江(2008) 綾瀬はるか(2009) 寺島しのぶ(2010) 永作博美(2011) 安藤サクラ(2012) 貫地谷しほり(2013) 安藤サクラ(2014) 有村架純(2015) 大竹しのぶ(2016) 新垣結衣(2017) 門脇麦(2018) 長澤まさみ(2019) 長澤まさみ(2020) 永野芽郁(2021) 倍賞千恵子(2022) 吉永小百合(2023) 括弧内は作品年度を示す、授賞式の年は翌年(2月) 作品賞 監督賞 主演男優賞 主演女優賞 助演男優賞 助演女優賞 新人賞 表 話 編 歴 田中絹代(1947) 田中絹代(1948) 原節子(1949) 京マチ子(1950) 原節子(1951) 山田五十鈴(1952) 望月優子(1953) 高峰秀子(1954) 高峰秀子(1955) 山田五十鈴(1956) 高峰秀子(1957) 淡島千景(1958) 北林谷栄(1959) 岸惠子(1960) 高峰秀子(1961) 岡田茉莉子(1962) 左幸子(1963) 京マチ子(1964) 左幸子(1965) 司葉子(1966) 岩下志麻(1967) 乙羽信子(1968) 岩下志麻(1969) 倍賞千恵子(1970) 富司純子(1971) 栗原小巻(1972) 賀来敦子(1973) 田中絹代(1974) 浅丘ルリ子(1975) 秋吉久美子(1976) 岩下志麻(1977) 梶芽衣子(1978) 桃井かおり(1979) 倍賞千恵子(1980) 倍賞千恵子(1981) 松坂慶子(1982) 田中裕子(1983) 吉永小百合(1984) 倍賞美津子(1985) いしだあゆみ(1986) 十朱幸代(1987) 小泉今日子(1988) 田中好子(1989) 松坂慶子(1990) 北林谷栄(1991) 藤谷美和子(1992) ルビー・モレノ(1993) 吉永小百合 (1994) 杉村春子(1995) 高岡早紀(1996) 桃井かおり(1997) 原田美枝子(1998) 大竹しのぶ(1999) 藤山直美(2000) 牧瀬里穂(2001) 大塚寧々(2002) 寺島しのぶ(2003) 深田恭子(2004) 田中裕子(2005) 中谷美紀(2006) 麻生久美子(2007) 小池栄子(2008) 小西真奈美(2009) 寺島しのぶ(2010) 小泉今日子(2011) 田畑智子(2012) 赤木春恵(2013) 安藤サクラ(2014) 綾瀬はるか(2015) 筒井真理子(2016) 長澤まさみ(2017) 安藤サクラ(2018) シム・ウンギョン(2019) 水川あさみ(2020) 尾野真千子(2021) 岸井ゆきの(2022) 杉咲花(2023) 括弧内は作品年度を示す、授賞式の年は翌年(2月) FAST ISNI VIAF WorldCat ノルウェー スペイン フランス BnF data ドイツ イスラエル アメリカ 日本 チェコ オーストラリア 韓国 オランダ
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IdRef 高峰秀子 松山善三 日本の女優 日本の子役 日本の女性歌手 20世紀日本の女性随筆家 サイレント映画の俳優 戦前の松竹の俳優 松竹の俳優 東宝の俳優 新東宝の俳優 紺綬褒章受章者 肺癌で亡くなった人物 北海道出身の人物 1924年生 2010年没 外部リンクがリンク切れになっている記事/2012年6月 プロジェクト人物伝項目 書きかけの節のある項目 ウィキデータにあるJMDb人物と企業識別子 ウィキデータにあるKINENOTE ID ウィキデータと異なるNHK人物録ID FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BIBSYS識別子が指定されている記事 BNE識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NKC識別子が指定されている記事 NLA識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 MusicBrainz識別子が指定されている記事 Trove識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/21 17:30更新
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takamine hideko
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