山本嘉次郎の情報(やまもとかじろう) 映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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うしおそうじ: なお、出版には至らなかったが、映画監督・山本嘉次郎の評伝も企画しており、挿絵や原稿が遺稿として残されている。 ヘンリー大川: エノケンの青春酔虎伝(1934年 山本嘉次郎監督):紳士 役 武智豊子: エノケンの青春酔虎伝 (1934年) 監督山本嘉次郎、主演榎本健一、二村定一 ※P.C.L.映画製作所 高尾光子: 『いたづら小僧』 : 監督・脚本山本嘉次郎、原作佐々木邦、主演伊藤薫 二本柳寛: この間、本名の黒井洵名義で1942年(昭和17年)に公開された東宝映画製作の山本嘉次郎監督映画『ハワイ・マレー沖海戦』と、1943年(昭和18年)に製作された満州映画協会・東宝映画共作の島津保次郎監督映画『誓ひの合唱』『私の鶯』の3本の映画に出演しているが、1979年(昭和54年)に発行された『日本映画俳優全集 男優編』など、ほとんどの資料では戦後に映画初出演としている。 佐伯秀男: 1934年(昭和9年)9月、同座から毛利菊枝、清川玉枝らが脱退、それに同行して創作座の立ち上げに参加する、とする説と、同年同月、ピー・シー・エル映画製作所に入社したとする説があり、いずれの資料でも、同年11月15日に公開された『あるぷす大将』(監督山本嘉次郎)に出演、満22歳で映画界に登場、とする。 佐伯秀男: 翌週の同年7月11日に公開された『白薔薇は咲けど』(監督伏水修)では入江たか子(1911年 - 1995年)の相手役を務め、『美しき鷹』(監督山本嘉次郎、1937年)、『新柳桜』(監督荻原耐、1938年)、『四ツ葉のクローバ』(監督岡田敬、同年)、『街に出たお嬢さん』(監督大谷俊夫、同年)と立て続けに霧立の相手役として主演した。 高峰秀子: P.C.L.移籍第1作は、吉屋信子原作・山本嘉次郎監督の『良人の貞操』で、千葉早智子演じる邦子の妹・睦子を演じた。 田村道美: エノケンのがっちり時代 1939年 監督・脚本山本嘉次郎、音楽栗原重一、主演榎本健一、霧立のぼる、宏川光子、二村定一、横山運平、入江たか子、高田稔 丸山誠治: 山本嘉次郎の助監督となるが、1937年と1943年の二度にわたり応召。 如月寛多: 『エノケンの魔術師』 : P.C.L.映画製作所、山本嘉次郎監督 - ギャングの子分 木村功: また、東宝撮影所でアルバイトをしていた友人を訪ねたとき、山本嘉次郎監督にスカウトされ、『ハワイ・マレー沖海戦』に出演した。 一の宮あつ子: 戦後は東宝争議で新東宝に移り、多くの映画で脇役を演じたが、山本嘉次郎監督の『春の戯れ』では一言も喋らない狂女の役で印象的な演技を見せ、成瀬巳喜男監督の『おかあさん』でもわずかな出演だが味わいのある演技を見せ、バイプレーヤーとして起用されるようになる。 成瀬巳喜男: 同時期に東宝争議によって東宝撮影所の機能が麻痺したため、成瀬も山本嘉次郎、黒澤、谷口千吉らと共に東宝を離れ、映画芸術協会を設立、フリーの立場で東宝、新東宝、松竹、大映などで監督することになる。 花島喜世子: 、監督山本嘉次郎、P.C.L.映画製作所、1937年7月11日 黒澤明: 青年時代は画家を志望していたが、1936年にP.C.L.映画製作所(1937年に東宝に合併)に入社し、山本嘉次郎監督の助監督や脚本家を務めたのち、1943年に『姿三四郎』で監督デビューした。 佐伯秀男: 『むっつり右門捕物帖 鬼面屋敷』(『むッつり右門捕物帖 鬼面屋敷』) : 監督山本嘉次郎、原作佐々木味津三、脚本山本嘉次郎・加藤泰、主演嵐寛寿郎、製作・配給東宝、1955年7月6日公開 - 出演・「渡良瀬官兵衛」役 永田雅一: 山本嘉次郎にも『映画人は信用出来んが、活動屋は信用出来る』と評されている。 小田基義: 山本嘉次郎の助監督を経て、1940年『姑娘(くうにゃん)の凱歌』で監督デビューする。 佐伯秀男: 『忠臣蔵 後篇』 : 製作青柳信雄、監督山本嘉次郎、脚本三村伸太郎、助演出黒澤明、主演大河内伝次郎、製作東宝映画東京撮影所、配給東宝映画、1939年4月21日公開 - 出演・「赤垣源蔵」役 田村道美: 藤十郎の恋 1938年 監督山本嘉次郎、原作菊池寛、脚本三村伸太郎、製作主任黒澤明、出演長谷川一夫、藤原釜足、滝沢修、入江たか子、山県直代、横山運平 久慈あさみ: 東京の休日(1958年、東宝) 監督:山本嘉次郎 共演:山口淑子、上原謙 八木保太郎: 1925年(大正14年)、田中の紹介で、神戸の山本嘉次郎と岡田嘉子の独立プロダクションに参加するがすぐに解散、翌1926年(大正15年)、再度田中の紹介で映画監督の溝口健二と出会い、紹介されて日活大将軍撮影所助監督部に入社、伊奈精一に師事、同僚に小国英雄、滝村和男、伏水修がおり、この年、内田吐夢と出会う。 高瀬昌弘: 土曜日の天使(1954/8/24 山口淑子主演 山本嘉次郎監督 4th) 佐伯秀男: 『俺も男さ』 : 監督山本嘉次郎、原作村崎守毅、脚本松浦健郎、主演鶴田浩二、製作・配給新東宝、1955年3月14日公開 - 出演・「皆川龍彦」役 長谷川一夫: 『藤十郎の恋』(山本嘉次郎監督)で銀幕復帰。 田中秀夫: また、本作に出演していた志村喬と師匠である山本嘉次郎は夫人同士が仲が良く、撮影当時山本邸を訪問した際に、山本に志村と仕事をしている旨を報告したところ、山本は田中を息子同様の存在と挨拶し、以降は志村とも親しく仕事ができたと述懐している。 榎本健一: その第一作『エノケンの青春酔虎伝』(監督は日活から迎えた山本嘉次郎)は、トーキー初期のヒット作となった。また、喜劇を得意とする監督であった山本嘉次郎とは度々コンビを組んだ。 三船敏郎: 黒澤明によると、審査委員長の山本嘉次郎は三船を推していたが、当時の東宝は労働組合の発言力が強く、審査委員も映画製作者側と組合側の半数ずつで構成されており、その投票による決議で不合格となったため、黒澤たちが「俳優の資質を見極めるのに専門家と門外漢(組合側)が同じ一票ではおかしい」と抗議し、結局山本が「監督として責任を持つ」と発言したことで合格になったという。 佐伯秀男: 『七色の街』 : 製作本木荘二郎、監督・脚本山本嘉次郎、原作武田麟太郎、主演池部良、製作・配給東宝、1952年12月23日公開 - 出演・「藤山」役 |
山本嘉次郎の情報まとめ
山本 嘉次郎(やまもと かじろう)さんの誕生日は1902年3月15日です。東京出身の映画監督のようです。
人物、監督作品などについてまとめました。映画、結婚、離婚に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
山本嘉次郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)山本 嘉次郎(やまもと かじろう、1902年(明治35年)3月15日 - 1974年(昭和49年)9月21日)は、日本の映画監督、俳優、脚本家、随筆家である。脚本を書く際や、俳優としてデビューした当初は、平戸延介、平田延介名義を使用することも多かった。 東京市銀座采女町で生まれる。父の嘉太郎は天狗タバコの総支配人であった。 慶應義塾大学理財科時代に偶然から映画に出演することとなり、1920年に製作された『真夏の夜の夢』で岡田嘉子と共演して俳優デビュー。慶應義塾大学を中退して映画界入りをする。しかし、このことが原因で親から勘当され、その手切金で1922年「無名映画協会」を設立し、自ら出演した。 その後、日活に入社して助監督を務めるかたわら脚本も書き、田坂具隆監督の『春と娘』(1932年、初のアフレコによる全発声映画として有名)の脚本などをてがけた。 関東大震災後には関西で結成された「早川プロダクション」で『熱火の十字球』(1924年)を監督した。これが監督デビュー作である。1934年、P.C.L.に移籍し、エノケン映画を数多く監督。中でも『エノケンのどんぐり頓兵衛』(1936年)『エノケンのちゃっきり金太』(1937年)は、エノケンの持ち味の音楽ギャグを生かした、数あるエノケン映画の中でも屈指の傑作と言われている。 1938年、高峰秀子主演で『綴方教室』を監督、1941年には黒澤明を助監督に『馬』を制作した。この2作品は従来扱われていなかった世界を扱った佳作として高い評価を受けた。 第二次世界大戦中の1942年、円谷英二が特技監督を務めた『ハワイ・マレー沖海戦』を東宝映画で制作する。この映画は海軍省の至上命令で制作されたが、日本の航空母艦の資料提供を一切受けられなかった。このため米国の航空母艦資料(写真等)を基に甲板セットを組んだところ、海軍同席の完成試写で宮家の激怒(米国空母と類似している為)を買い、あわや封切り差し止めとなりかけた。無事公開できたことについて山本は戦後、「誰がどうやってあの場を収め、公開にこぎつけられたか未だにわからない」と語っている。 1944年には陸軍省後援の『加藤隼戦闘隊』を東宝で制作・公開。藤田進を主演(加藤建夫戦隊長役)に、特技監督は前作と同じく円谷英二を迎えた。一式戦闘機「隼」をはじめとする実物機や陸軍落下傘部隊を多数動員するなど陸軍全面協力のもと撮影が行われ、本作は同年の興行収入のトップを記録した。 フィリピンのマニラへ「三人のマリア」という映画を撮影に赴き、そのまま戦火に巻き込まれて帰れなくなる。フィリピンの捕虜を収容した一般キャンプへ。キャンプでは慰問演劇団の大顧問に。キャンプの演劇団は大盛況だった。 戦後、東宝争議により東宝を離れるが、1951年に復帰。同年に高千穂ひづるのデビュー作『ホープさん』、翌々年1953年には、東宝で初のカラー映画『花の中の娘たち』を作り、健在をアピールした。 1955年女優・松山 恵子(柴田きく代)と結婚。長男・山本一雅(柴田一雅)が誕生するが2年後に離婚した。 晩年は、監督作品には恵まれなかったが、脚本を多数執筆。「カツドウヤ」を自称する小粋な生き方は多くの文化人をひきつけた。また、1960年代には東宝の俳優養成所の所長を務め後進の指導にあたった。時には自ら指導を行なう真摯な態度は研修生たちに慕われ、尊敬の念をもって「ヤマカジ先生」と呼ばれた。 1974年、動脈硬化のため死去。墓所は多磨霊園。 人物非常に好奇心が強く、博学で、グルメでもあったため、姓名をもじって「ナンデモカジロウ」とあだ名された。著書も多い。また徳川夢声司会のラジオ番組『話の泉』にも、サトウ・ハチロー、堀内敬三らと出演。その博学ぶりを披露した。 本多猪四郎、谷口千吉、黒澤明、高峰秀子などを育て、三船敏郎を映画界に送り出したことでも知られ、また榎本健一ともっとも息の合った監督でもあった。 PCLで助監督募集の審査部長を務めていた時、最後の3人まで絞られた中の黒澤明を上層部の反対を押し切って採用に結びつけた。黒澤は当日ボロボロの格好をして面接態度も芳しくなかったが、黒澤の絵画の話だけには強い情熱心を感じた山本は会社に黒澤を強く推したという。戦後、三船敏郎の採用面接の際には、東宝撮影部の山田一夫の強い依頼もあったが、「ああいう風変わりな人間が一人くらいいてもいいだろう」と、彼の粗暴な態度に辟易していた他の面接官の猛反対を押し切って採用させ、更に後々渋谷で靴磨きをしていた黒部進に身元保証人になるからニューフェイス試験を受けるよう促すなど好奇心旺盛な人柄ゆえに先見の明があった。 助監督を採用する条件は、「酒が綺麗に呑めることと、トリッペルに罹ったことがあること」と冗談めかして公言していた。助監督たちには、「先生」呼ばわりさせず、「ヤマさん」と呼ばせた 。 葬儀は撮影所で友人葬が執り行われ、かつて山本が見出した俳優、三船敏郎が世話役の一人として、かいがいしくその任にあたったという。 監督作品
2024/06/16 15:16更新
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yamamoto kajirou
山本嘉次郎と同じ誕生日3月15日生まれ、同じ東京出身の人
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