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藤本真澄の情報 (ふじもとさねずみ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

藤本真澄の情報(ふじもとさねずみ) 映画プロデューサー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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藤本 真澄さんについて調べます

■名前・氏名
藤本 真澄
(読み:ふじもと さねずみ)
■職業
映画プロデューサー
■藤本真澄の誕生日・生年月日
1910年7月15日
戌年(いぬ年)、蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
山口出身

藤本真澄と同じ1910年生まれの有名人・芸能人

藤本真澄と同じ7月15日生まれの有名人・芸能人

藤本真澄と同じ出身地山口県生まれの有名人・芸能人


藤本真澄と関係のある人

市川崑: 山本周五郎の『町奉行所日記』を原作とした、単純明快な痛快時代劇として映画『どら平太』のプロデュースを藤本真澄に、配給を東宝で行う事として、4人で脚本を共同で執筆する事になるが難航し、当初は4人共同監督で映画化とも発表されたが、市川の撮影シーンをどの部分にするかで揉めて中止となる。


田中三郎: また読書寄稿欄を設け、ここに常連のように投稿した映画青年に森岩雄、藤本真澄、双葉十三郎、中川信夫らがおり彼らの映画界入りの切っ掛けを作った。


市川崑: 1967年には、後に千葉県知事となるTBSのディレクターだった堂本暁子の仲介で日伊合作の人形劇映画『トッポ・ジージョのボタン戦争』を、1968年には東京オリンピックのノウハウを活かして、高校球児たちの人間模様を描いたドキュメンタリー映画『第50回全国高校野球選手権大会 青春』を発表すると、1971年には東宝の専務取締役だった藤本真澄の要請で、恋愛映画『愛ふたたび』を発表し、7年ぶりに劇映画へ復帰する。


水の江瀧子: しばらくは撮影所で相手にされず、社内で唯一交流があった江守の部屋に入り浸るのみの日々を送っていたが、勉強も兼ねて東宝のプロデューサー・藤本真澄制作による『女人の館』など数本の映画に出演し、制作の様子を見ながら基本を覚えていった。


中平康: 東宝の藤本真澄、東映の岡田茂に掛け合って映画を撮らせて欲しいと頼んだが、五社協定を理由に断られ、日本では映画が撮らせてもらえないと判断したからであるという。


佐藤和三郎: 〔スタッフ〕監督:千葉泰樹、脚本:笠原良三、音楽:佐藤勝、製作:藤本真澄


鶴田浩二: だが東宝のプロデューサー藤本真澄は稲垣浩監督&三船敏郎主演「宮本武蔵三部作」で佐々木小次郎を演じさせるために松竹から引き抜いたとコメントしており真偽は不明である。


浜美枝: 日本編を見たゴダールは、ロケハンのためヨーロッパに来ていた東宝の藤本真澄に対し、浜を次回作に使いたいと申し出た。


白井晃: 植木等とのぼせもん(2017年、NHK) - 藤本真澄


団令子: 芸名は藤本真澄が作曲家の團伊玖磨から取って名付けた。


佐藤允: 劇団のユニット出演で『坊っちゃん』や『思春の泉』に佐藤 充名義で出演した後、映画監督の谷口千吉からプロデューサーの藤本真澄を紹介されて、1956年に東宝へ入社。


児玉隆也: この中止が江﨑真澄ら、政治家の圧力によるものであることを東宝の藤本真澄制作担当副社長が暴露。


佐原健二: 命名者は当時東宝の専務だった藤本真澄である。


佐々木勝彦: そのドラマを見ていた藤本真澄からの誘いがあり、東宝の専属俳優制末期に入社。


円谷英二: 2月2日、藤本真澄を葬儀委員長として、東宝撮影所で友人葬が行われた。


佐伯秀男: 『大番 完結篇』 : 製作藤本真澄、監督千葉泰樹、原作獅子文六、脚本笠原良三、主演加東大介、製作・配給東宝、1958年7月1日公開(映倫番号 10700) - 「ゴルフ仲間A」役、103分の上映用プリントをNFCが所蔵


三橋達也: 同年、中野英治と手を切り藤本真澄に誘われ東宝へ入社。


佐分利信: 松竹入りの労をとったのは藤本真澄で、彼が五所平之助らによる新人養成グループのメンバーだったことから佐分利を五所に紹介し、五所は若手スターのいなかった松竹蒲田に入れ、若手二枚目として売り出すことになった。


江崎真澄: 製作担当副社長の藤本真澄は同年10月に同職を辞職した。


佐藤和三郎: 〔スタッフ〕監督:千葉泰樹、脚本:笠原良三、音楽:佐藤勝、製作:藤本真澄


渡辺晋: 藤本真澄賞特別賞(1987年)


小山源喜: 映画でも、『戦争と人間』(五味川純平・原作 山本薩夫・監督)で村岡長太郎関東軍司令官役、『激動の昭和史 軍閥』(藤本真澄製作・堀川弘通・監督)で鈴木貞次郎企画院総裁役、『不毛地帯』(山崎豊子原作)で山田乙三関東軍司令官役、など。


岩内克己: 1965年、藤本真澄プロデューサーから『エレキの若大将』の監督を命じられる。


高峰秀子: しかし、翌1937年(昭和12年)早々にはP.C.L.企画課に務めていた藤本真澄から引き抜き交渉を受ける。


角梨枝子: 1949年、プロデューサー藤本真澄の藤本プロ初の専属女優として迎えられ映画『妻と女記者』(新東宝)でデビューし『山の彼方に』等に出演。


佐藤和三郎: 〔スタッフ〕監督:千葉泰樹、脚本:笠原良三、音楽:佐藤勝、製作:藤本真澄


田中三郎: プロデューサー人生 藤本真澄 映画に賭ける/尾崎秀樹編/東宝出版事業部 1981年12月


千葉泰樹: その職人的な手堅い演出については、南旺映画消滅の頃から千葉をしばしば起用していた東宝の藤本真澄プロデューサーの信頼も厚く、東宝に移籍してからの千葉は、藤本製作作品に欠かせない監督となった。


黒沢年雄: 後で黒沢自身がプロデューサーの藤本真澄から聞いた話によると、この受け答えのぶっきらぼうさが三船敏郎の面接時のそれにそっくりだったという。


水の江滝子: しばらくは撮影所で相手にされず、社内で唯一交流があった江守の部屋に入り浸るのみの日々を送っていたが、勉強も兼ねて東宝のプロデューサー・藤本真澄制作による『女人の館』など数本の映画に出演し、制作の様子を見ながら基本を覚えていった。


藤本真澄の情報まとめ

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藤本 真澄(ふじもと さねずみ)さんの誕生日は1910年7月15日です。山口出身の映画プロデューサーのようです。

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逸話、主な製作映画(企画も含む)などについてまとめました。映画、卒業、子役、結婚、退社、引退、テレビ、病気、ドラマに関する情報もありますね。

藤本真澄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

藤本 真澄ふじもと さねずみ1910年(明治43年)7月15日 - 1979年(昭和54年)5月2日)は、日本の映画プロデューサー。元東宝副社長、東宝映画初代社長。日本映画黄金期のヒット作を多数手掛けた東宝の看板プロデューサーである。

旧満州旅順生まれ。海軍軍医だった父の転任に伴い、長崎県佐世保市、対馬、広島県呉市、神奈川県横須賀市、京都府京都市、広島市で育ち1928年、県立山口中学校卒業後二年浪人。少年期から映画に熱を上げ映画館に通いつめ「塚本靖」名で『キネマ旬報』に映画批評を投稿したりした。「塚本靖」名では東宝の新人時代、アイデアを出した数本の映画に原作者としてのクレジットがある。1934年慶應義塾高等部在学中に三映社でアルバイトをして映画の宣伝を担当、ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』(1930年)やリーフェンシュタールの『青の光』(1932年)などを手掛けた。慶應卒業後は明治製菓で3年間宣伝の仕事を担当。そこで明治製菓とタイアップしていた松竹蒲田撮影所に出入りして五所平之助や成瀬巳喜男と知り合う。宣伝映画を頼んだ成瀬とその映画に出演した松竹大船の子役だった高峰秀子と親しくなり後に引き抜くこととなる。成瀬・高峰とはその後、盟友として多くの名作を生み出し、また終生の友人として付き合った。藤本が明治製菓を辞めた後に入ったのが戸板康二。1937年、森岩雄に誘われて東宝の前身であるP.C.L.映画製作所に入社。

1940年助監督となるが、関連会社の南旺映画に出向して撮った1941年の『結婚の生態』(原作石川達三、監督今井正、主演原節子)を初プロデュースして製作に転じた。終戦までに成瀬巳喜男監督の『秀子の車掌さん』や島津保次郎監督の『母の地図』、今井正監督の『望楼の決死隊』、山本薩夫監督の『翼の凱歌』などをプロデュースした。

戦後1947年、東宝争議で製作責任者となり、翌年の警官隊導入の責任をとって東宝を退社する。1949年独立プロ・「藤本プロダクション」を設立して各社の製作を請け負う。東宝が争議後の混乱で自主製作能力がなく、東宝で製作を中絶されていた『青い山脈』を引き受け大ヒットを記録する。あまりにも有名な主題歌を監督の今井正は嫌で嫌で仕方なかったというが、喧嘩して今井が編集室から飛び出した間に藤本が助監督に指示して入れさせ、ラストシーンに延々と流し続けた、というエピソードが残っている。明治製菓の元宣伝マンという経験から主題歌を作ることで、映画の宣伝効果が格段に上がることを知っていた。出版社・新聞社にも顔が広く原作物の映画化権を次々獲得、作家が小説を書き始める前に映画化権を獲得したといわれる。特に慶應の先輩・石坂洋次郎作品の映画化権を独占した。

1951年、東宝に復帰。この年サラリーマン小説第1号・源氏鶏太原作「ホープさん」を映画化し翌年の『三等重役』を契機としてサラリーマン喜劇を多く製作、これが1956年からの『社長シリーズ』につながる。これは高度経済成長期を背景として大ヒットした。同年製作した『めし』は成瀬が長いスランプから脱出した作品。大ヒットし成瀬は一気に巨匠の1人となった。1953年には「藤本プロダクション」を置いた銀座に有志として株主を集め、名画座「並木座」(映画上映1953年10月-1998年9月)をオープンさせた。1955年に東宝の取締役製作本部長となる。

1950年代の日本映画黄金時代では次々にヒット作を量産した。同じ東宝プロデューサーの田中友幸がアクション映画、東宝特撮、時代劇などを得意としたのに対して、藤本は『社長シリーズ』などのサラリーマン喜劇、『若大将シリーズ』『お姐ちゃんシリーズ』などの青春もの、セクシー・コメディ、成瀬巳喜男監督作品などの文芸作品を主として製作し、共にドル箱路線を確立したふたりは東宝映画の両輪として会社を支えた。稲垣浩監督『日本誕生』『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』、松林宗恵監督『世界大戦争』、岡本喜八監督『日本のいちばん長い日』など、東宝が社を挙げて大作映画を製作する時は、藤本と田中が共同でプロデュースに当たった。藤本と田中は同学年だが、田中が演劇活動を経て映画界入りが遅かった上に、吸収合併組の大宝を経由して東宝入りしたため、その時藤本は既に第一線で活躍中だった。このため田中は藤本の助手をした経験があり、藤本が兄貴分という関係となる。この懸隔は生涯変わらず、藤本が引退したころには既に60台半ばだった田中は結局東宝本体の役員には就いていない(もっとも、これが幸いして田中は非オーナー型では世界でも稀な現役プロデューサーを80代まで貫く生涯が送れた)。藤本の製作した作品数は227本、田中は240本にも及ぶ。東宝には田中、藤本の他、佐藤一郎、森田信義と、4人のプロデューサーがいたが、その中で、藤本が一番力があり、企画のゴーサインは藤本が実権を持っていたという。森岩雄が導入したアメリカのプロデューサー中心のシステムを実践した人物で、徹底したディレクター・システムの松竹と対極にあった。

予算や撮影日数をオーバーする監督を信用しないと著書で述べている。そのためか1958年の黒澤明監督『隠し砦の三悪人』で大幅な予算・日数超過が出て以降、黒澤作品のプロデュースは行っていない。また、豊田四郎監督にも不信を抱いて、東宝の重役になってからは一度も一緒に仕事をしなかった。

監督やスタッフ・俳優の売り出しは数多い。三人一組のアイドルの元祖・美空ひばり・江利チエミ・雪村いづみの〈三人娘〉の生みの親。越路吹雪、久慈あさみ、新珠三千代などのタカラジェンヌを映画女優としてスター化。くすぶっていた森繁久彌を『三等重役』で大スターにし河村黎吉、三木のり平らを抜擢した。『三等重役』は"三等○○"という流行語が出来る程大ヒットした。大映でこれもくすぶっていた小林桂樹を移籍させ「ホープさん」で売り出し、全盛期を過ぎた上原謙を成瀬作品に起用し演技派として成功させた。加東大介を大番シリーズに抜擢。堀江史朗に命じ『女殺し油地獄』で中村扇雀を売った。他に加山雄三、田中邦衛、池部良、若山セツ子、司葉子、団令子、杉葉子、島崎雪子、角梨枝子、宝田明、尤敏、小泉博ら。島崎雪子は『青い山脈』で原節子がやった芸名を藤本が付けた。加山を売り出した『若大将シリーズ』は、戦前松竹で製作された「若旦那シリーズ」の主演、上原謙、佐分利信、佐野周二の三人を一人にして焼き直した藤本のアイデア。加山が「若大将」と呼ばれる切っ掛けとなったシリーズ第1作『大学の若大将』のタイトルは、藤本が週刊誌で見た黒岩重吾を「北浜の若大将」と書いた記事から連想したもの。加山は藤本を「僕を育ててくれた恩人」と述べている。星由里子は宝塚ファンを対象にしたコンテストに出場してきた星をスカウトしたもの。1951年当時新東宝にいた市川崑を東宝に戻す。1958年、三橋達也を東京映画から東宝に移籍させた。また大御所・栗島すみ子を1956年の『流れる』で18年ぶりに映画出演させたり、森、田中、川喜多長政と共に三船プロダクション設立に尽力、三船敏郎に命令し三船プロの第1回作品『五十万人の遺産』の監督をさせた。石原慎太郎を石原裕次郎より俳優に向いていると初主演(『日蝕の夏』)、初監督(『若い獣』)に抜擢した。当時は異業種の監督というのは在り得ない時代で、助監督の経験のない石原をいきなり監督に起用した事で揉めに揉めたが、結果として岡本喜八、恩地日出夫ら自社の新人監督の他、各社から新人監督が世に出た。なお石原裕次郎を最初に石原慎太郎から紹介されたのは藤本というが、タイプでないと断ったという。1958年の『裸の大将』は山下清の半生を初めて映像化、仲代達矢を主演に抜擢した1959年の『野獣死すべし』は大藪春彦が流行作家となる切っ掛けとなった。1961年の『みな殺しの歌より 拳銃よさらば!』は、まだ若い歌人だった寺山修司が初めて映画(脚本)に関わった作品、クレジットには無いが森岩雄が酷評した寺山脚本を藤本が強引に映画化した。監督では堀川弘通、松林宗恵、松山善三、須川栄三、岩内克己ら。プロデューサーでは金子正且ら。脚本家では井出俊郎、水木洋子、笠原良三、田波靖男、星川清司ら。渡辺晋が本格的に映画製作に乗り出すのは、藤本が晋と渡辺美佐のふたりを契約プロデューサーに招いたことが切っ掛け。1969年に手掛けた『御用金』は、日本初のテレビ局(フジテレビ)との共同製作で、近年隆盛を極めるテレビ局製作による劇場用映画の最初のもの。売り出しとは違うが、1961年の小津安二郎唯一の東宝(製作は宝塚映画)監督作品『小早川家の秋』は、小津の大ファンだった藤本が酒の席で小津を口説き、1979年の黒澤明監督『影武者』は藤本の企画で、黒澤と勝新太郎の橋渡しをしたのも藤本といわれる。勝の降板は、ビデオカメラの持ち込みといった些末な事ではなく、藤本の急逝によって黒沢と勝のパイプ役がいなくなってしまったのが原因という見方もある。

1953年の五社協定では推進のリーダーであった。顔の広さからテレビの台頭による俳優の出演問題の対策や、五社の映画テレビ局に提供する規定の確立、1954年の日本映画製作者協会(現・日本映画テレビプロデューサー協会)の発足、1958年の映倫の規定改正、同年の「映画の日」制度発足、新著作権法施行による原作者に関わる各団体との折衝などにも奔走。税制改変や補助金などの折衝では国会への陳情活動にも尽力した。

1968年藍綬褒章受章、映画の日特別功労賞受賞。

1955年9月20日に東宝取締役兼東宝撮影所製作本部長。1962年9月25日に同社専務取締役に就任。

1971年11月8日に東宝映画が設立されると初代社長に就任した。1974年8月22日、東宝副社長に就任。1975年4月、東宝映画社長の座を田中友幸に譲り、東宝取締役に戻る。

1975年5月22日、田中角栄の金脈問題を追及し、失脚に追い込んだジャーナリスト児玉隆也が病死。児玉を主人公にした映画『愛のとこしえ』を畢生の仕事にすると取り組んだが、社命により中止させられた。同年10月、藤本は江崎真澄ら国会議員の強い政治力の介入があったと証言し、東宝副社長を辞した。自ら取締役に降格。

1978年から始まった日本アカデミー賞の第1回総合プロデューサーを務めたのち、1979年逝去。死後正四位勲三等旭日中綬章が贈られた。

全生涯を映画の製作に捧げた藤本の功績を讃え、東宝は藤本の死後藤本賞を設立。1981年より、毎年功績著しい活躍をした映画製作者に対して同賞を授与している。映画界において唯一プロデューサーを顕彰する賞である。

生涯独身を通したが、寂しがり屋な性格で豪酒でもあり、藤本プロ以来の盟友でもある越路吹雪や前記のスタッフ・俳優のほか南海ホークスのファンで鶴岡一人ら、気の合った仲間と毎晩飲み食い歩いていたという源氏鶏太の小説「東京一の淋しい男」は藤本がモデルといわれる(1964年『裸の重役』として映画化)。

逸話

1951年、朝日新聞に林芙美子作「めし」の連載が始まった。作品に着目した藤本はさっそく下落合の林宅を訪ね、映画化の交渉を行う。林の「主人公の夫婦を誰がやるのか」という問いに藤本が「上原謙と原節子でやりたい」と言うと「それは会社の命令か」と言う。藤本は、映画はプロデューサーがつくるものという持論なので「会社の命令? 会社の命令なんか聞きませんよ」と返事する。しかし林は「上原謙と原節子なんて、そんな美人夫婦では駄目。原節子なんて絶対違う。たとえば中北千枝子のような人がいい」と言う。藤本としては、理解も示しつつ「二時間もの間を引っ張れるような魅力のある人でないと作品がもたない」と言うと、林は「それなら、せめて譲って京マチ子」と提案。しかし当時京マチ子は大映の専属女優だったため、東宝作品に招くのは事実上不可能であり、また藤本は、京が関西出身でこの役には向かないと考え、結局その場で映画化について林からの許可は得られなかった。その後も二、三回交渉したが、林が意見を変えず、交渉は進展しなかった。そのうちに林は急逝、朝日新聞の連載も中絶した。小説は未完だが映画化しないのは心惜しいと、藤本は諦めずに林の夫と交渉を続け、ようやく映画化の同意を得た。原作が未完のため、映画後半は独自に書き下ろすことになるが、林の知人であった田中澄江に脚本を依頼した。監督は千葉泰樹に決めたが病気で倒れたため、代わって成瀬巳喜男に依頼する。しかしせっかく仕上がった田中の脚本が藤本も成瀬も気にいらず、結局井出俊郎に脚本直しを依頼、満足のいく脚本となったが、今度は営業関係から、脚本が淡々過ぎて千葉ならともかく、成瀬では淡い作品になってしまい、興行的に危ない、注意願いたい、と書かれた手紙が届いた。藤本はこの手紙を参考にするよう成瀬に渡し「とにかくドラマティックに撮ってくれ」と頼んだ。作品が完成すると成瀬は「あの手紙はもらっておく」と返してくれなかったと言う。本作は興行的にも大ヒットし成瀬や原節子、上原謙、玉井正夫らにとっても重要作となった。また藤本にとっても原作者と揉めたものの、原節子で行ける、と初志を貫いて成功した作品となった。

東宝には藤本派と田中友幸派の二大派閥があって、非常に仲の悪い時期があった。田中派だった水野久美は、藤本らと海外へ行くとホテルの朝食の時に、藤本は自身は可愛がっていた女優には「あれ食べるかい」「これどうかい」などと親切にするが、水野は完全無視。酷いいじめに遭い、海外で帰るわけにもいかず、それは辛く泣きたくなる程であったという。

黒澤明監督の『椿三十郎』の主役は最初、小林桂樹だったが藤本がどうしても納得せず三船敏郎になったという。

日本映画の黄金時代、量産時代に300本近い作品をプロデュースし、その3分の2をヒットさせた活動屋。大変な高給取りであり、毎晩銀座の一流バーで散財していたと伝えられる。しかし生涯独身だったこともあってか、かなりの遺産を残し、藤本賞は今もその遺産を基にして運営しているといわれる。

性格は、声が大きく、口角泡を飛ばして怒鳴ってばかり、ガサツ、とてもせっかちなど、共に働いた人からの評価はあまり好意的ではない。白川由美は「原節子さんが好きで、結婚を申し込んだようですが、軽くいなされたという話はウワサとして聞いたことがあります。あのおっとりとした原さんとは、合わなかったんじゃないですか」と話している。金子正且は「あれだけの地位にいて、穏やかないいひとだったら、女性が放っておかなかったんでしょう。藤本さんと噂になったのは水商売の女性ばかり」と述べている。藤本が生涯独身だったのは、一説によると原への愛によるものといわれる。1963年にスクリーンを去った原に、藤本は自身が亡くなるまで、女一人生活していけるだけの給料を支払っていた。

原が引退して10年たった1974年の山口瞳との対談では、山口から酒を飲まされ原との仲がどうなのかと誘導尋問的に散々責め立てられるが、頑なに「大恋愛ではない。こちらが一方的に惚れていただけ」との答えに終始している。

石原慎太郎を政界に進出するようアドバイスをした人間といわれている。

主な製作映画(企画も含む)

秀子の車掌さん(成瀬巳喜男監督、1941年)

青い山脈(今井正監督、1949年)

めし(成瀬巳喜男監督、1951年)

若人の歌(千葉泰樹監督、1951年)

ホープさん サラリーマン虎の巻(山本嘉次郎監督、1951年)

三等重役(春原政久監督、1952年)

プーサン(市川崑監督、1953年)

山の音(成瀬巳喜男監督、1954年)

晩菊(成瀬巳喜男監督、1954年)

浮雲(成瀬巳喜男監督、1955年)

社長シリーズ(1956年 - 1970年)

驟雨(成瀬巳喜男監督、1956年)

流れる(成瀬巳喜男監督、1956年)

大番シリーズ(千葉泰樹監督、1957年 - 1958年)

隠し砦の三悪人(黒澤明監督、1958年)

若い獣(石原慎太郎監督、1958年)

裸の大将(堀川弘通監督、1958年)

お姐ちゃんシリーズ(1959年-1963年)

孫悟空(山本嘉次郎監督、1959年)

野獣死すべし(須川栄三監督、1959年)

戦国群盗伝 (1959年)

私は貝になりたい(橋本忍監督、1959年)

日本誕生(稲垣浩監督、1959年)

がんばれ! 盤嶽 (1960年)

名もなく貧しく美しく(松山善三監督、1961年)

特急にっぽん(川島雄三監督、1961年)

大学の若大将(杉江敏男監督、1961年)

世界大戦争(松林宗恵監督、1961年)

小早川家の秋(小津安二郎監督、1961年)

放浪記(成瀬巳喜男監督、1962年)

箱根山 (1962年)

ぶらりぶらぶら物語(1962年)

五十万人の遺産(三船敏郎監督、1963年)

海底軍艦(本多猪四郎監督、1963年〔企画のみ〕)

江分利満氏の優雅な生活(岡本喜八監督、1963年)

乱れる(成瀬巳喜男監督、1964年)

君も出世ができる(須川栄三監督、1964年)

海の若大将(古澤憲吾監督、1965年)

大冒険(クレージーキャッツ結成10周年記念、古澤憲吾監督、1965年)

けものみち(須川栄三監督、1965年)

エレキの若大将(岩内克己監督、1965年)

クレージーの無責任清水港(坪島孝監督、1966年)

女の中にいる他人(成瀬巳喜男監督、1966年)

アルプスの若大将(古澤憲吾監督、1966年)

日本のいちばん長い日(岡本喜八監督、1967年)

乱れ雲(成瀬巳喜男監督、1967年)

怪獣総進撃(本多猪四郎監督、1968年〔企画のみ〕)

御用金(五社英雄監督、1969年)

緯度0大作戦(本多猪四郎監督、1969年〔企画のみ〕)

激動の昭和史 軍閥(堀川弘通監督、1970年)

激動の昭和史 沖縄決戦(岡本喜八監督、1971年)

野獣狩り(須川栄三監督、1973年)

日本沈没(森谷司郎監督、1973年)

青春の門(浦山桐郎監督、1975年)

燃える秋(小林正樹監督、1978年)

2024/06/16 17:26更新

fujimoto sanezumi


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藤本 泉(ふじもと いずみ、1991年10月21日 - )は、日本の女優。埼玉県出身。 かつてはスターダストプロモーション芸能1部に所属していた。 中学時代、強い目力がスカウトの目に留まり、現所…

藤本 主税(ふじもと ちから)
1977年10月31日生まれの有名人 山口出身

藤本 主税(ふじもと ちから、1977年10月31日 - )は、山口県出身の元プロサッカー選手(MF)。元日本代表。サッカー指導者。徳島県育ちであることから、ゴールを決めると阿波踊りのパフォーマンスを…

藤本 淳吾(ふじもと じゅんご)
1984年3月24日生まれの有名人 神奈川出身

藤本 淳吾(ふじもと じゅんご、1984年3月24日 - )は、神奈川県大和市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元日本代表。 小学生の頃より地元の横浜マリノスプラ…

藤本 永治(ふじもと えいじ)
1931年7月5日生まれの有名人 東京出身

藤本 永治(ふじもと えいじ、1931年7月5日 - 2018年11月)は毎日放送(MBS)の元アナウンサーである。愛称は「MBSの永ちゃん」(矢沢永吉に対抗して)。 東京都出身。中央大学卒業後、…

藤本 万梨乃(ふじもと まりの)
1995年10月30日生まれの有名人 福岡出身

藤本 万梨乃(ふじもと まりの、1995年10月30日 - )は、フジテレビ所属の女性アナウンサー。 福岡県出身。福岡雙葉小学校、福岡雙葉中学校・高等学校を卒業後、一浪して東京大学理科二類に入学し…

藤本 真理子(ふじもと まりこ)
1970年1月29日生まれの有名人 福岡出身

藤本 真理子(ふじもと まりこ、1970年1月29日 - )は、日本の女優、タレント、モデル。福岡県出身。身長163cm。血液型O型。趣味は読書、料理。特技は剣道(2級)、テニス、ピアノ演奏。1999…

藤本 理子(ふじもと りこ)
2002年7月3日生まれの有名人 神奈川出身

藤本 理子(ふじもと りこ、2002年7月3日 - )は日本映画大学に在学する日本の女子大生タレント・YouTuber。 友達と趣味でやっている自主制作映画での共演がきっかけで知り合った友人から、…

藤本 統紀子(ふじもと ときこ)
1935年2月11日生まれの有名人 出身

藤本 統紀子(ふじもと ときこ、1935年〈昭和10年〉2月11日 - )は、日本のタレント、エッセイスト。作家・藤本義一の妻。義一との間に2女があり、次女はアーティストのフジモト芽子(まいこ)。 …

藤本 あき(ふじもと あき)
1962年12月15日生まれの有名人 愛知出身

藤本 あき(ふじもと あき、1962年12月15日 - )は、日本の元歌手、タレントである。本名︰君塚 明恵(きみつか あきえ)、旧姓︰加藤。アイドルグループ、トライアングルの元メンバー。 愛知県…

藤本 ゆき(ふじもと ゆき)
1988年1月14日生まれの有名人 兵庫出身

藤本 ゆき(ふじもと ゆき、1988年1月14日 - )は、日本のグラビアアイドル、タレント。兵庫県神戸市出身。愛称は「ゆっきゃ」。所属事務所はエイムプロモーション。かつてはノイエに所属していた。 …

藤本 綾(ふじもと あや)
1983年1月28日生まれの有名人 大阪出身

藤本 綾(ふじもと あや、1983年1月28日 - )は、日本の元グラビアアイドル、元スポーツキャスター、元タレント。大阪府出身。 2000年、第25回ホリプロタレントスカウトキャラバンでグランプ…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「藤本真澄」を素材として二次利用しています。

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