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円谷英二の情報 (つぶらやえいじ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

円谷英二の情報(つぶらやえいじ) 特撮映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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円谷 英二さんについて調べます

■名前・氏名
円谷 英二
(読み:つぶらや えいじ)
■職業
特撮映画監督
■円谷英二の誕生日・生年月日
7月7日 (年齢68歳没)
蟹座(かに座)
■出身地・都道府県
福島出身

円谷英二と同じ7月7日生まれの有名人・芸能人

円谷英二と同じ出身地福島県生まれの有名人・芸能人


円谷英二と関係のある人

有川貞昌: 円谷英二の愛弟子として薫陶を受け、円谷を「オヤジ」と呼んで慕った。


うしおそうじ: 同年、カーク・ダグラスのスタジオからアニメ映画制作の依頼があった円谷英二はうしおに協力を持ちかけ、2人の頭文字「円谷・鷺巣」をとった「TSプロダクション」構想となり、機材や社屋用地の確保まで話は進んだが、アメリカ側の提示した条件と合わず、話は頓挫した。


有川貞昌: 円谷英二との関係[ソースを編集]


井上泰幸: 円谷英二とはイメージ面での擦り合わせで苦労も多く、反発することもあったが、のちに円谷が社外で井上を非常に自慢にしていることを知って驚いたという。


阿部豊: 太平洋戦争中は東宝で活躍し、円谷英二の特撮を存分に生かした『燃ゆる大空』、『南海の花束』、『あの旗を撃て コレヒドールの最後』などの国策戦争映画に辣腕を振るう。


円谷皐: 円谷英二の次男として生まれる。


飯島敏宏: 1964年、TBSテレビ演出部の先輩である円谷一の要請で円谷英二率いる円谷特技プロダクションにやはり映画部所属の監督として出向、『ウルトラQ』の監督や脚本の執筆、金城哲夫の執筆した脚本の改稿を担当する。


松田浩次: 円谷英二


有川貞昌: 1970年(昭和45年)、師匠の円谷英二が死去。


実相寺昭雄: この奇縁は、同作で特技監督を務めた円谷英二にも驚かれたという。


高山良策: 上記のウミガメの作り物に円谷英二が目を留め、彫刻家成田亨の紹介により円谷プロダクション製作の『ウルトラQ』に参加。


犬塚稔: また、犬塚は同作品のカメラマンとして、杉山公平の撮影助手を務めていた円谷英二を登用した。


うしおそうじ: その環境でも『ちどり』『ムクの木の話』『こども議会』『すて猫トラちゃん』といったアニメやアニメ・実写合成作品に携わり、『ムクの木の話』での降雪のエフェクトはオールラッシュを見た円谷英二から評価された。


うしおそうじ: 工学院でのデザイン技術を認められ、5月25日付を以て採用され、特殊技術課課長だった円谷英二に師事する。


円谷皐: 1962年(昭和37年)、フジテレビは東宝との専属契約の切れた円谷英二を担って、父・英二のテレビ界進出の説得に当たるが不調に終わる。この企画のために、円谷英二が発注した光学合成機オプチカル・プリンターは、TBSが引受先となり『ウルトラQ』の制作に生かされる。


手塚勝巳: 元プロスポーツ選手としての体力を買われ、『ゴジラ』でゴジラ役に抜擢されたが、着ぐるみを着てのテストの際に3メートルほど歩いたところでその重さ(150キログラム超)に耐えきれず、国会議事堂のセットにつまずいて倒れてしまったのに対し、自分より若い中島春雄が先に10メートルほど歩いていたため、これを見て円谷英二はメインを中島に交代させた。


佐原健二: 佐原が『ラドン』で特撮現場を訪れた際に、特技監督の円谷英二から絵コンテを見せてもらい本編と特撮を組み合わせるイメージを教わったが、円谷が俳優に絵コンテを見せることはほとんどなかったといい、佐原はこの時点から円谷との信頼関係が始まったと述べている。


実相寺昭雄: しかしこの時「なかなかいい演出だったね、でももっと雪は多いほうが良かったな」と、好意的な評価を送ったのが円谷英二監督だった。


宝田明: 一方、円谷英二からは「主役だから頑張りなさい」と言葉をかけられたという。


伊藤和典: 山形県上山市の映画館「トキワ館」を経営する実家で育ち、中学生のころは円谷英二のような特撮監督になりたいと思っていた。


中野昭慶: 1962年(昭和37年)、円谷英二の指名を受け、『妖星ゴラス』から東宝特殊撮影技術班の助監督となる。


うしおそうじ: 脚本・演出は円谷英二


佐原健二: 日米合作映画『勇者のみ』(フランク・シナトラ監督、三橋達也主演)撮影中の1964年、本多猪四郎と円谷英二が佐原のロケ現場(ハワイのカウアイ島)に出向き、佐原に円谷プロダクション第1回作品の主演への出演交渉を直接行った。


富岡素敬: 有川貞昌によれば、元々は東映でデスクワークを務めていたが現場を希望し、東映のプロデューサーを通じて円谷英二へ紹介された。


中代文雄: 1953年(昭和28年)、円谷英二の勧めで操演技師となる。


石井清子: 映画『宇宙大戦争』で編集助手を務めた際に、石井のミスで1カットダビングできず、円谷英二に怒鳴られ、周囲からも冷ややかな目で見られたことが合った。


金城哲夫: 上京した際に上原より教え子の一人だった円谷皐を介して円谷英二を紹介されて、彼の自宅である円谷特技研究所に出入りしながら東宝特撮映画で健筆を振るっていた関沢新一から脚本家としての指導を受ける。


大伴昌司: 『怪獣画報』円谷英二 監修 小山内宏と共著 秋田書店 1966 (写真で見る世界シリーズ)


浜田光夫: 同級生には円谷英二の三男・円谷粲や、後に『アイアンキング』の主題歌を担当する子門真人がいた。


中山昭二: ちなみにこの作品には撮影スタッフとして円谷英二も参加しており、はからずも両者は運命的な出会いを果たすことになった。


円谷英二の情報まとめ

もしもしロボ

円谷 英二(つぶらや えいじ)さんの誕生日は7月7日です。福島出身の特撮映画監督のようです。

もしもしロボ

生涯、円谷とゴジラ映画などについてまとめました。映画、現在、退社、家族、卒業、事故、結婚、解散、テレビに関する情報もありますね。68歳で亡くなられているようです。

円谷英二のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

円谷 英二(つぶらや えいじ、1901年〈明治34年〉7月7日 - 1970年〈昭和45年〉1月25日〉)は、日本の特撮監督、映画監督、撮影技師、発明家、株式会社円谷特技プロダクション(現在の円谷プロダクション)の初代社長。福島県岩瀬郡須賀川町(現在の須賀川市)出身。本名は圓谷 英一(つむらや えいいち)。

昭和における特殊撮影技術の第一人者であり、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残したことから、特撮の神様とも呼ばれる。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史と重なっている。

一家は全員カトリック教徒で、英二の洗礼名はペトロ。墓所は東京都府中市のカトリック府中墓地にある。

1957年の東宝特撮映画『地球防衛軍』などでは、圓谷英二の表記名でクレジットされていた。初期や終戦後の一時期には本名でも活動していた。終戦後の本名名義は、戦争責任の追及を逃れるためであったとされる。

生涯

生い立ち

1901年(明治34年)7月7日、福島県岩瀬郡須賀川町(現:須賀川市)で生まれた。生家は大束屋(おおつかや)という糀業を営む商家だった。

1904年(明治37年)、母セイが次男出産後に病死(享年19)。婿養子だった父の白石勇は離縁され、祖母ナツに育てられた。また、5歳年上の叔父一郎が、兄のように英一を助け、可愛がっていた。ナツの家系には、江戸中期に日本へ銅版画や洋画を持ち込んだ亜欧堂田善がおり、後に英二は自身の手先の器用さは田善に由来するものであると考えていることを語っていた。

1908年(明治41年)、須賀川町立尋常高等小学校尋常科に入学。自宅敷地内の蔵の二階を私室としてあてがわれ、水彩画に没頭する。絵の腕は大人も驚く出来だったが、あまり外向的な子供ではなかったという。

1910年(明治43年)、東京の代々木錬兵場で徳川好敏、日野熊蔵両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功。これに強く感銘を受けた円谷は操縦士に憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭する。6年生になると、金属製の飛行機の発動機を製作するほどの飛行機少年だった。

1911年(明治44年)、巡業の活動大写真で『桜島爆発』を鑑賞し、映像よりも映写メカニズムに強く興味を持ち始めた。自身の貯金で、子供用映写機を購入し、巻紙を切ったフィルムで手製の映画を制作した。

1912年(大正元年)、新聞に掲載された一枚の飛行機の写真を元に、精巧な模型飛行機を制作し、地元新聞の『福島民友』の取材を受ける。

1914年(大正3年)、尋常小学校高等科に入学。

1916年(大正5年)、尋常高等小学校8年生の課程を修了した。米国人飛行士アート・スミスが東京で曲芸飛行を行い、この報道を受けてさらに飛行機熱を高める。

同年10月に上京。京橋区の月島機械製作所に見習い入社するが、一月余りで退社

操縦士を夢見て日本飛行学校へ

1916年(大正5年)11月には家族が大反対する中、操縦士を夢見て玉井清太郎と相羽有が8月に創設したばかりの日本飛行学校に第一期生として入学。費用は当時の金で600円したが、叔父の一郎が工面してくれた。

この第一期生応募者には稲垣足穂もいた。稲垣は自書『ヒコーキ野郎たち』でその際の円谷に言及しており、円谷も逝去時まで同著を意識した『ニッポン・ヒコーキ野郎』という企画を構想している。

1917年(大正6年)5月、日本飛行学校教官の玉井清太郎が帝都訪問飛行の際に機体の不備から墜落死。学校は唯一の飛行教官を失った。2機しかなかった飛行機の残り1機も、10月に東京湾岸全域で大きな被害を出した台風による高潮で格納庫もろとも流失。同校は活動停止に陥り、円谷は夢は破れて退学した。

進学と考案

同年、東京・神田の電機学校(現在の東京電機大学)の夜間部に入学。このころ、学費の足しに、叔父の一郎の知り合いが経営する内海玩具製作所という玩具会社で、玩具の嘱託考案係となり、「自動スケート(スケーター)」(足踏みギアの付いた三輪車)、「玩具電話」(電池式で実際に通話が可能。インターフォンとして使用できた)など、様々な玩具を考案した。後の公職追放中も、様々な玩具や商品の発明・新案で糊口をしのいでいた。その中には「自動スピード写真ボックス」なども含まれる。

映画界へ

1919年(大正8年)、18歳。電機学校修了後、新案の玩具「自動スケート」「玩具電話」などが当たって「500円(当時)」という多額の特許料が入り、祝いに玩具会社の職工たちを引き連れて飛鳥山に花見に繰り出した際、職工たちが隣席の者たちと喧嘩を始めた。年若い円谷が仲裁に入ったことで、喧嘩相手だった映画会社の天然色活動写真株式会社(天活)の枝正義郎に認められ、同社に入社しキャメラマンを志すようになり、映画界に入った。

同年、天活作品『哀の曲』のタイトル部分を撮影。

1920年(大正9年)、19歳。神田電機学校を卒業。天活が国際活映(国活)に吸収合併されたことに伴い、国活巣鴨撮影所に入社。

国活ではキャメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て、一人で見事成し遂げた功績から、短期間でキャメラマンに昇進した。

1921年(大正10年)、20歳。国活を退社し兵役に就き、会津若松歩兵連隊で通信班に配属された。

1923年(大正12年)、22歳。除隊後、祖母の家業専念の誘いを拒み上京。東京の撮影所は直前の関東大震災で壊滅状態であったが、国活に復帰して『延命院の傴僂男』を撮影。しかし、この作品は国活の凋落により未公開に終わった。

1924年(大正13年)、23歳。震災後、各映画撮影所が京都へ移転したことに伴い、京都に移住し、小笠原明峰の小笠原プロダクションに移籍した。

1926年(大正15年)、25歳。衣笠貞之助、杉山公平らの衣笠映画聯盟設立(松竹傘下)とともに、連盟に所属。『狂った一頁』の撮影助手を担当した。なかなか本心を明かさず、酒が入ると「テヘラテヘラと笑う」円谷に、衣笠は「テヘラ亭」とあだ名を付けた。

1927年(昭和2年)、26歳。林長二郎(長谷川一夫)初主演作である『稚児の剣法』(監督:犬塚稔)でキャメラマンを担当。林を多重オーバーラップさせる特撮手法などの特殊撮影の開発を採り入れた効果が大いに評価され、大成功を果たした。

1928年(昭和3年)、27歳。正式に松竹京都下加茂撮影所にキャメラマンとして入社。『怪盗沙弥磨』が入社第1作となる。『十字路』(衣笠貞之助監督)を、杉山公平とともに撮影するものの、その進歩的な撮影手法はリアリティ重視だったため、旧来の俳優からの反発を受け、あまり待遇のいい立場ではなかった。

1930年(昭和5年)、29歳。自費を投入して、移動撮影車や木製の撮影用クレーンを自作する。このクレーンで俯瞰撮影中に転落事故を起こし、その看病をしてくれた縁で知り合った荒木マサノ(当時19歳)と結婚し、下加茂撮影所裏の一軒家に居を構えた。

1931年(昭和6年)、30歳。渡欧していた衣笠監督の帰国後1作目となる『黎明以前』を、杉山公平と共同で撮影。ホリゾントを考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行う。4月23日、長男・一が誕生。

このころ、「アイリス・イン、「アイリス・アウト」(画面が丸く開いたり、閉じたりする映像表現)や「フェイド・イン」「フェイド・アウト」、「擬似夜景」といった撮影手法を日本で初めて使用したほか、セットの奥行を出すために背景へのマット画の合成、ミニチュア合成場面の活用、一部の画面を合成するなど、後の特撮技術に通じることを行っている。また、足元から煙を出して臨場感を高める手法で「スモーク円谷」と呼ばれた。給料の約半分を撮影技術の研究費に注ぎ込み、さらに、協力者に対してただ酒を奢る日々だった。

「一番のスタアである林長二郎の顔をリアルに黒く写した」としてその撮影手法が社内や俳優から反発を受け、撮影待遇を、セットもロケも格下の「B級」に落とされ、照明すら制限された。当時の時代劇映画は歌舞伎の延長にあって、映画的リアリティなど無視して二枚目歌舞伎役者たちの白塗りの顔をベタ光でくっきり映すものであり、こうした進歩的かつリアリティ重視の撮影手法はタブーだった。

円谷はこの冷遇の中、足りないライトで撮影したフィルムをネガを特殊現像で捕力したり、チャチなセットを立派に見せるため「グラスワーク」(キャメラの前に絵を描いたガラス板を置く手法)の開発や精度の向上したミニチュアワークを投入したりした。本来は、このような冷遇状況から生まれた工夫だった。

またこのころ、研究資金と生活費の足しに、現像技術を生かした新案の「30分写真ボックス」を四条通の大丸百貨店に売り込み、大丸二階に設置された写真ボックスは大評判になった。円谷は自らボックスに詰め、現像を行った。

1932年(昭和7年)、31歳。「円谷英二」と名乗るようになる。兄のように尊敬する5歳年上の叔父の名が「一郎」だったため、遠慮して「英二」と名乗ったという。

同年、杉山公平の音頭取りの下、酒井宏、碧川道夫、横田達之、玉井正夫ら京都の映画人たちと日本カメラマン協会を結成。11月、犬塚稔とともに日活太秦撮影所に引き抜かれて移籍。

1933年(昭和8年)、32歳。日活入社初作品として、大河内傳次郎の『長脇差風景』を撮影。

同年、映画『キング・コング』が日本で公開された。試写で同作を鑑賞した円谷は、衝撃を受け、フィルムを独自に全巻取り寄せ、一コマ一コマを分析し入念に研究した。

この年の末に日活幹部立会いの下、日活撮影所に設置したスクリーン・プロセスの設備のテストを行うが、不調に終わった。

1934年(昭和9年)、33歳。『浅太郎赤城颪』でスタアだった市川百々之助の顔に「ローキー照明(キーライト)」で影を作り、松竹時代も物議をかもしたその撮影手法を巡って日活の上層部と対立し、同社を退社した。円谷はこの「ローキー照明」を好んだために、日活ではバスター・キートンに引っ掛けて「ロー・キートン」と呼ばれていた。

同年、円谷の特殊技術に注目した大沢善夫の誘いにより、撮影技術研究所主任として、東宝の前身であるJOトーキーに移る。

10月、『百万人の合唱』で、大沢善夫から資金を受け、自ら設計した鉄製クレーンを完成し、撮影に使用した。

1935年(昭和10年)、34歳。2月から8月にかけ連合艦隊の練習艦「浅間」に乗艦、ハワイからフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを回り、練習生の実習風景のドキュメンタリーである長編記録映画『赤道を越えて』を演出。これが監督第1作となった。5月10日、次男・皐が誕生。政岡憲三と、人形アニメーションが活用されたファンタジー映画『かぐや姫』を撮影。

1936年(昭和11年)、35歳。ナチス・ドイツの宣伝相・ヨーゼフ・ゲッベルスの指示で製作された日独合作映画『新しき土』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用。精巧なミニチュアワークによる天変地異は、この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られる監督のアーノルド・ファンクらドイツ側スタッフを唸らせた。

このスクリーン・プロセス装置は、円谷が京都時代から私費を投じて開発し続け、JOに移って大沢善夫の援助でついに完成させたものだった。ファンクは「これほどの装置はドイツにもない」と感嘆し、円谷に「ドイツに持って帰りたいから、ぜひ譲ってくれ」と頼み込んだほどだった。

また、同時に、『日本スキー発達史』(澤蘭子主演)をファンクのスタッフとともに撮影。日本初の合作映画となるはずであったが、未編集のまま公開されなかった。

同年、人気芸者・市丸の主演2作目(薄田研二共演)となる『小唄磯 鳥追いお市』で、監督としてデビュー。撮影、編集すべてを手掛けた。

東宝入社と大東亜戦争

1937年(昭和12年)、36歳。9月10日を以て、株式會社冩眞化学研究所、P.C.L.映画製作所、東宝映画配給の3社と、円谷の所属するJOが合併し、「東宝映画株式会社」が設立された。

これに伴い、米国の映画産業の中心地ハリウッド視察で特殊撮影の重要性を痛感していた常務取締役の森岩雄に招かれ、同年11月に東京の砧にあったピー・シー・エル撮影所を使用し、「東宝東京撮影所」に移転。ところが、撮影技術を理解できない東京撮影所の撮影技師たちから「ズボラヤをカメラマンと認めるわけにはいかない」と理不尽なボイコットを受け、撮影できなかった。そこで、特殊技術を痛感していた森は、円谷のために一計を案じ、11月27日付で特殊技術課を設立して、課長待遇で迎えることにした。しかし、これは直属の部下のいない孤立無援の出発であり、後に円谷もこの状況を「部下なし課長」と自嘲気味に回想している。ここで、円谷は研究予算を受け、自身の設計による国産初のオプチカル・プリンターの研究を開始した。

同年12月27日、マサノと二児とともに、東宝の用意した東京・祖師谷の一戸建て住居に移住。

1939年(昭和14年)、38歳。特殊技術課に隣接する線画室に、鷺巣富雄が採用された。鷺巣は、円谷から動画技術を指導され、個人的に円谷のオプチカル・プリンターの実験の助手を務めた。

この年、陸軍航空本部の依頼を受け、嘱託として埼玉県の熊谷陸軍飛行学校で飛行機操縦の教材映画(「文化映画」)を演出兼任で撮影。『飛行理論』の空中撮影を、円谷は一人で操縦しながら撮影、アクロバット飛行も披露し、陸軍を唸らせた。この空撮部分は円谷自身の編集によって、『飛行機は何故飛ぶか』『グライダー』にも活用された。また、『嗚呼南郷少佐』を監督(撮影兼任)した。

夏ごろから、円谷は特技課に川上景司、奥野文四郎、向山宏、天羽四郎、西浦貢、渡辺善夫、上村貞夫らを招き、人材の充実を図った。

1940年(昭和15年)、39歳。5月に、『皇道日本』で撮影を担当。同じく、『海軍爆撃隊』では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影、経歴上初めて「特殊技術撮影」のクレジットが冠された。

この『海軍爆撃隊』は、文化映画部部長松崎啓次が円谷のミニチュアテストフィルムの出来栄えを見て、「第一回航空映画」として企画したものである。「飛行機を吊り固定し、背景の岩山を回転させて岩肌を縫う飛行シーンを撮る」という、後年の『ハワイ・マレー沖海戦』の先駆けとなる円谷の特撮は、公開時には大評判となった。

同年9月、『燃ゆる大空』で奥野とともに特撮を担当、日本カメラマン協会特殊技術賞を受賞。

1941年(昭和16年)、40歳。12月8日、太平洋戦争が勃発したことに伴い、東宝は本格的に軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画を制作することになった。俄然特撮の需要が高まり、円谷率いる特技課は以後、特撮が重要な役目を果たすこれら戦争映画全てを担当していく。

同年、『上海の月』(成瀬巳喜男監督)で、上海湾内を襲う台風の大がかりなミニチュア特撮を担当。

1942年(昭和17年)、41歳。阿部豊監督作品『南海の花束』で本格的なミニチュアワークによる特撮シーンを演出。この作品では、監督の許可を得て、自ら絵コンテを構成しており、特に落雷を受けた海面が爆発する描写が圧巻であるとの評判を受けた。

同年12月8日、特撮を手掛けた『ハワイ・マレー沖海戦』が公開され、大ヒットとなった。撮影中から皇族や軍、著名人が見学に押しかけて目を見張った、フルスケールのハワイ・真珠湾の特撮セットが話題となり、日本映画界に特撮の重要性を知らしめた。本作品で円谷は「日本映画撮影者協会技術研究賞」を受賞。製作部特殊技術課長兼特殊撮影主任に就任した。この作品で美術スタッフに渡辺明、利光貞三が加入した。

同年、国産初のオプチカル・プリンターを完成させた。この円谷特製のオプチカル・プリンターは手動式で使いやすく、きめの細かい合成ができたという。

1943年(昭和18年)、42歳。『ハワイ・マレー沖海戦』の成功を見て、松竹映画が円谷組から特撮スタッフの引き抜きを図り、特技課の川上景司、奥野文四郎を始め、10名ばかりが高給を条件に松竹に移籍、円谷率いる特技課は大打撃を被る。

1944年(昭和19年)、43歳。『加藤隼戦闘隊』『雷撃隊出動』『あの旗を撃て コレヒドールの最後』の特撮を担当。また、大映に出向し、『かくて神風は吹く』を担当。2月12日、三男・粲が誕生。戦火は激しくなる一方で、円谷は自宅の庭に防空壕を作った。

同年、東宝は創立記念日に、山本嘉次郎とともに円谷を功労者表彰した。

同年、東宝が日本初の特撮専門スタジオである航空教育資料製作第二工場を設立し、工場長に就任。軍の依頼により新兵教育用の教材映画を手掛けた。敗戦までのこの時期に、特殊な撮影法やミニチュアの使用、合成技術など、特撮技術のノウハウのほとんどが蓄積された。

1945年(昭和20年)、44歳。『勝利の日まで』『間諜海の薔薇』『北の三人』の特撮を担当、また、大映京都で『生ける椅子』を担当。

同年8月1日、召集令状を受け、仙台連隊に入隊するも15日に終戦。除隊後、風刺喜劇『東京五人男』(斎藤寅次郎監督)の特殊技術を担当。

1946年(昭和21年)、45歳。東宝がこの年製作した18本の映画のうち8本の特撮を担当。

1947年(昭和22年)、46歳。撮影所は前年3月からこの年10月まで東宝争議に突入。労働組合はバリケードを組み、円谷が戦時中に使用した、零戦のエンジンを搭載した特撮用の大扇風機が警官隊撃退用に引っ張り出される始末であった。この大争議で東宝は映画制作どころではなくなり、円谷も『東宝千一夜』と『九十九人目の花嫁』の二本の特撮担当のみだった。

1月に東宝は「部課制」を廃止し、「職区制」を採り、特技課は「十三職区」に分割された。円谷はこの「職区長」として「南旺撮影所」の所長に任命された。しかし、政治闘争の場と化していく撮影所内部に嫌気がさした円谷は、この役職を捨て、東宝を退社し、独立した。

また、同じく東宝争議に嫌気がさし、東宝を退社した有川貞昌は、戦時中に観て感激した『雷撃隊出動』を撮った円谷と一度話がしたいと自宅を訪ね、海軍航空隊の対潜哨戒機パイロットだった有川は飛行機の話で円谷と意気投合し、その際、円谷に「我々日本人はもう飛行機(戦闘機)には乗れない。しかし、乗りたいと思う若い人は一杯いる筈だ、その夢を実現できるのは我々しかいない。映画ならまた飛行機を飛ばせられる。一緒に新しい飛行機映画をやらないか」と誘われた。同じ飛行機乗りとして、この言葉に感動した有川は「円谷特殊技術研究所」の研究員となり、後に円谷組のキャメラマンに抜擢され、さらには東宝の2代目特技監督になった。

公職追放と東宝復帰

1948年(昭和23年)、47歳。3月に連合国軍最高司令官総司令部の公職追放の指定により「戦時中に教材映画、戦意高揚映画に加担した」として、公的な立場での仕事が続けられなくなり、重役陣ともども東宝を追放された円谷は、正式に東宝を依願退職。また、東宝も十三職区(特殊技術課)を解散した。

6月、福井駅前の大和百貨店から、戦前の「30分写真ボックス」を完全自動化改良した新案特許の「5分間スピード自動写真ボックス」を20台受注。フル操業で用意し、出荷するも、折しも福井を襲った福井地震によって、駅に到着した全機を失うという憂き目に遭った。鷺巣富雄は、この時の円谷の様子を、「見ていられないほどの落胆振りだった」と語っている。

フリーとなった円谷は、東京・祖師谷の自宅の庭にプレハブを建て、円谷特殊技術研究所を設立、外部スタッフとして『富士山頂』(新東宝)、『肉体の門』(吉本プロ)、『颱風圏の女』(松竹大船)の特撮技術パートを担当。同研究所は他に大映京都、新東宝、松竹大船などの映画の特殊技術パートを担当したが、ノンクレジットも多く、全容は不明である。

映画音楽の伊福部昭によれば、この年に月形龍之介との付き合いで、京都の小料理屋で円谷と知り合い、その後、飲み友達になった。円谷は貧窮しており、伊福部は数年にわたって「ただ酒をおごらされた」と語っているが、この間互いに名乗り合うこともなかった。2人は『ゴジラ』の製作発表の場で、ようやく互いの素性を知って驚き合ったというが、伊福部によれば、おかげで以後の仕事はお互いに気心の知れた、全く気兼ねのないものとなったという。

1949年(昭和24年)、48歳。京都に赴き、大映京都撮影所で『透明人間現わる』『幽霊列車』の特撮シーンを担当。大映は『透明人間現わる』を、円谷の戦後初の本格的復帰作として用意し、円谷は戦前の本家ハリウッド映画にも匹敵する透明人間の見事な視覚効果を演出した。しかし、円谷はこの特撮に満足せず、予定していた大映入社を断念した。

1950年(昭和25年)、49歳。『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』の特撮を担当。円谷は東宝撮影所内に六畳ほどの広さの円谷特殊技術研究所を移設。東宝の本編のタイトルや予告編を制作するようになり、主に合成処理を請け負った。この年、正式に東宝社員となった有川貞昌の他、円谷の誘いを受け、東横映画にいた富岡素敬が、撮影助手として研究所員となった。富岡、有川を合わせて4~5人の陣容だった。

円谷は昭和25年から29年までの東宝全ての本編・予告編のタイトル部分を撮影しており、東宝映画の東宝マークを制作したのもこの時期である。

この年の『佐々木小次郎』(稲垣浩監督)での特撮が東宝作品の復帰第1作となるが、この時点ではまだ嘱託扱いだった。

1952年(昭和27年)、51歳。2月に、日本独立後の公職追放解除を受けた。同じく公職追放を受けていた森岩雄が製作顧問として東宝に復帰したことで、再び円谷も本社に招かれ、『港へ来た男』の特殊技術を担当。これが、正式な作品契約としての東宝復帰作となる。

5月、企画部に「クジラの怪物が東京を襲う」という映画企画を持ち込んだ。

7月、東宝は体制を一新し、「製作本部」を設置。本部長には5月にアメリカ映画界視察を終え、帰国した森岩雄が就任。新しいシステムの導入として、田中友幸を含む、9人から成るプロデューサー陣を組み、制作体制を強化。

1953年(昭和28年)、52歳。東映で『ひめゆりの塔』、松竹で『君の名は(第一部)』、重宗プロ他で『雲ながるる果てに』を担当。既に東宝に復帰していた状況で担当したこれらの他社作品は、復帰前に受注したものとみられる。

この年、東宝は1億6千万円(当時)かけて砧撮影所を整備。総天然色時代に対応し、磁気録音機や常設のオープンセット、発電設備など、撮影設備・特撮機材を充実させた。また、「円谷特技研究所」の有川貞昌、富岡素敬、真野田陽一、樺島幸男らを正式に撮影所に同年に再開された東宝特殊技術課に迎え入れ、特撮スタッフの強化を図る。

こうした中、満を持して戦記映画『太平洋の鷲』が公開された。この作品は、前年にハリウッド視察を行った森岩雄によって、「ピクトリアル・スケッチ」(壁に貼り付けた総覧的な絵コンテ)が導入された、初の特撮映画である。この映画に特技監督として招かれた円谷は、松竹大船と交わした「特殊技術部嘱託」を辞任してこれに当たり、その後長きに渡って名コンビを組むことになる監督の本多猪四郎とともにこの『太平洋の鷲』を作りあげた。

この年、日本初の立体映画(トービジョン)作品、『飛び出した日曜日』(村田武雄監督)、『私は狙われている』(田尻繁監督)で立体撮影を担当。

また、企画部に「インド洋で大蛸が日本船を襲う」という映画のアイディアを持ち込んだ。田中友幸はこれが『ゴジラ』の草案の一つになったとしている。

1954年(昭和29年)、53歳。田中友幸によって、『G作品』(ゴジラ)の企画が起こされ、日本初の本格的特撮怪獣映画『ゴジラ』となった。円谷は新たに特撮班を編成してこれに当たった。この『ゴジラ』から、飯塚定雄、井上泰幸、入江義夫、開米栄三らが特技課に加入。

11月3日、満を持して製作された『ゴジラ』が公開され、空前の大ヒットとなった。日劇ではつめかけた観客の列が何重にも取り囲み、田中友幸がチケットもぎを手伝うほどだった。円谷英二の名は再び脚光を浴び、同作は邦画初の全米公開作となり、その名は海外にも轟いた。当作で「日本映画技術賞」を受賞。

1955年(昭和30年)、54歳。『ゴジラの逆襲』で、特技監督の肩書を与えられた。

その後、『獣人雪男』『地球防衛軍』『大怪獣バラン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『キングコング対ゴジラ』などの怪獣・SF映画において特撮技術を監督。これらは東宝のドル箱シリーズとなり、『宇宙大戦争』以後は円谷の特撮作品というだけで、製作中から海外の映画会社が契約を結びに来日したほどである。

1956年(昭和31年)、55歳。日本初の総天然色特撮作品『白夫人の妖恋』を担当。続いてこれも怪獣映画では日本初の総天然色作品『空の大怪獣 ラドン』を担当。円谷はチーフキャメラマン有川貞昌の意見もあり、これらの作品にイーストマン・カラーのフィルムを使用。以降、これが定番フィルムとなった。

また、東宝内とは別に、自宅敷地の「円谷特殊技術研究所」を再開。東宝で賄いきれない合成処理や、人形アニメ撮影などを行った。研究員の収入は、円谷の個人負担だった。

1957年(昭和32年)、56歳。東宝は特撮部門の強化を目論み、製作部に円谷陣頭の特殊技術課を組み入れて再編成。『地球防衛軍』で「日本映画技術賞」を受賞。

1958年(昭和33年)、57歳。日米合作企画『大怪獣バラン』を担当。『バラン』から、特殊美術課スタッフとして村瀬継蔵が円谷組に正式に参加した。

1959年(昭和34年)、58歳。6,200万円(当時)の予算を投じた国産初のカラー・シネスコ用合成機「トーホー・バーサタイル・プロセス」を完成させ、『日本誕生』で日本初使用。「日本映画技術賞」を受賞し、映画の日に特別功労表彰された。

この年、自宅敷地内の「円谷特殊技術研究所」に佐川和夫、中野稔が研究所生として参加。二人はこの後、東宝特技課に入社して『日本誕生』の現場に加わっている。佐川によれば、この時期金城哲夫も研究所にいたという。

1960年(昭和35年)、59歳。当時プロデュース業に乗り出していたカーク・ダグラスが、「世界の円谷にぜひアニメの監督を」と、ディズニー社を後ろ盾に、アニメ映画制作の声をかけた。東宝側の森岩雄は断ったものの、ダグラスにかねて熱望していたオックスベリー(Oxberry)社の合成機器オプチカル・プリンターの提供まで含めて直接話を持ちかけられた円谷は、自宅の円谷特殊技術研究所のスタッフでは賄えないと、先んじてアニメ会社ピープロを設立していた鷺巣富雄に協力を依頼。合資会社として2人の頭文字をとった「TSプロダクション」の設立構想に発展したが、ダグラス側の提示した契約内容が折り合わず、頓挫。

同年、公開予定の『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』撮影のため、東宝撮影所内に東洋一の規模である三千坪の特撮用大プールが完成。また、妻・マサノの熱心な勧めでカトリック教徒になった。

1961年(昭和36年)、60歳。前年に続き、アニメ技術の導入に意欲を燃やし、鷺巣らと組んで、特撮とアニメを組み合わせた長編映画の企画を複数検討。長編実写・動画映画『双子の一寸法師』を企画。

同年、世界同時公開を目指して制作された『モスラ』が公開。マスコミから「世界のツブラヤ」と称された。

1962年(昭和37年)、61歳。アメリカに外遊し、ハリウッドの映画会社各社を歴訪した。また、東宝撮影所内に円谷念願の特撮専用ステージである第11ステージが完成。中野昭慶、川北紘一が円谷組に加わった。

この年、大韓民国との合作映画『大沈清伝』の特撮を担当。また、『オリンピックショウ 地上最大のクイズ』に映画キャンペーンのため、ゲスト出演した。

テレビ界へ

1963年(昭和38年)、62歳。東宝との専属契約を解除。同年、東宝の出資とフジテレビの後押しを受け、株式会社円谷特技プロダクションを設立、社長に就任。フジテレビ映画部にいた次男・皐が監査役に入り、「円谷特技研究所」時代の弟子である高野宏一、中野稔、佐川和夫、金城哲夫らをスタッフに招いた。同プロの初仕事として、日活・石原プロ提携映画『太平洋ひとりぼっち』の嵐の特撮シーンを制作した。

この年、フジテレビは、皐を通し、円谷特技プロに国産初のテレビ特撮シリーズ『WOO』の企画を持ち込んだ。最終的に局の事情で、企画は頓挫したものの、円谷は同企画の特撮用に、アメリカ「オックスベリー社」に当時世界で2台しかなかった最新型のオプチカル・プリンター「シリーズ1200」を発注していた。慌てた皐はキャンセル打診したが、既に出荷後だったため、TBSの映画部にいた長男・一に依頼し、この高額機材をTBSで引き受けてもらうことにした。

また、東宝撮影所にオックスベリー社の最新式オプチカル・プリンター「シリーズ900」が設置された。

1964年(昭和39年)、63歳。日米合作映画『勇者のみ』の撮影現場の視察に、渡辺明、有川貞昌、本多猪四郎とともにハワイを訪れた。また、よみうりランドの水中バレエ劇場「竜宮城」開場に併せ、特殊美術を担当。高山良策の造形物を目に留め、この縁で高山は円谷特技プロと関わるようになった。

一方、TBSでは、長男・一の下、前年に円谷特技プロから引き受けたオプチカル・プリンター「シリーズ1200」を生かしたテレビ特撮番組として『UNBALANCE』を企画。この企画は同プロ初のテレビ作品『ウルトラQ』となり、有川貞昌や小泉一、川北紘一ら東宝の特撮スタッフも多数参加した。白黒作品ながら全編映画用の35mmフィルムを使用するという破格の体制で、9月27日より制作が開始された。

1965年(昭和40年)、64歳。『太平洋奇跡の作戦 キスカ』『怪獣大戦争』で「日本映画技術賞」を受賞。『キスカ』では、白黒映画の限界に迫るリアルな艦船シーンに公開当時、「実写なのか?特撮なのか?」と議論が起こった。

1966年(昭和41年)、65歳。1月2日より、円谷特技プロが1年かけて映画並みの製作費と体制で製作したテレビ特撮番組『ウルトラQ』がTBSで放映開始。TBS側の意向で怪獣キャラクターを前面に押し出した番組制作もあり、同番組は大ヒットとなった。この『ウルトラQ』は日本全国に一大「怪獣ブーム」を巻き起こすことになった。

同年、TBSのドキュメント番組『現代の主役 ウルトラQのおやじ』や、『ウルトラマン前夜祭』に出演。

続いて7月より、円谷特技プロのテレビ特撮番組第2弾『ウルトラマン』を放映開始。「変身する巨大ヒーロー」というキャラクターは、さらに怪獣ブームを巻き起こした。これらのヒットにより、「円谷英二」の名はお茶の間にまで知れ渡り、特撮の神様と呼ばれるようになった。

また、大阪万博の三菱未来館の映像担当が決定し、カナダへ外遊し、モントリオール万国博覧会を視察。この外遊中に招かれて、アメリカで『エド・サリヴァン・ショー』に出演、また、イギリスにも歴訪し、ジェリー&シルヴィア・アンダーソン夫妻らのAPフィルムズを訪れ、『サンダーバード』の特撮現場を見学。翌年に、円谷特技プロで制作する『ウルトラセブン』『マイティジャック』のメカ描写で、「『サンダーバード』に追いつけ」として、同作をかなり意識した制作姿勢を見せた。

1967年(昭和42年)、66歳。『キングコングの逆襲』が公開。円谷は戦前に研究した『キング・コング』の1シーン(恐竜との格闘)を、完全にリメイクしている。

また、この年の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』で「特技監修」になり、弟子の有川に特撮監督の座を譲った。

1968年(昭和43年)、67歳。ハリウッドの特撮監督リンウッド・ダン(英語版)が来日、東宝撮影所の円谷を表敬訪問した。

同年、株式会社円谷特技プロダクションを、株式会社円谷プロダクションに社名変更した。

1969年(昭和44年)、68歳。自身最後の特撮劇場作品となる『日本海大海戦』が公開。円谷は、翌年の大阪万博の三菱未来館のサークロマ撮影で、鳴門の渦潮を訪れていた最中に倒れ、入院。監修としてクレジットされている『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』は、直接関与していない。12月に静岡県伊東市浮山の別荘へ居を移す。

同年、『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』を最後に、東宝は特殊技術課の廃止を決定。

死去と没後

1970年(昭和45年)1月25日、静岡県伊東市の浮山別荘にて妻・マサノと静養中、気管支喘息の発作に伴う狭心症により死去。68歳没。最期まで映画『ニッポン・ヒコーキ野郎』と長編特撮映画『かぐや姫』の企画を練っていた。本多は、入院中は絶対安静のため見舞いを遠慮していたが、入院前に3月になったら次の仕事として従来の作品とは趣向を変えた新しい怪獣映画の打ち合わせをする約束をしており、別荘へ移った後も円谷がそれについて言及していたことを伝え聞いていたという。

1月30日、日本政府より勲四等瑞宝章を授与。

2月2日、藤本真澄を葬儀委員長として、東宝撮影所で友人葬が行われた。

3月1日をもって、東宝は「特殊技術課」を正式に廃止。

東宝は、彼の死後まもなく本体での映画製作を中止。機能の一部は子会社の東宝映画などに移管されるものの、本体は勝プロなどを含めた外部作品配給会社に転換した。

2019年1月11日、「円谷英二ミュージアム」が故郷の須賀川市に開館した。

2021年、出身地の須賀川市は同郷の円谷幸吉とともに円谷英二に「名誉市民」号の贈与を決定し、同年7月7日に授与式が実施された。

親族

妻:円谷マサノ

長男:円谷一(円谷プロ2代目社長)

    孫:円谷昌弘(円谷プロ5代目社長)

    孫:円谷英明(円谷コミュニケーションズ社長>円谷プロ6代目社長>円谷ドリームファクトリー社長)

      曽孫:円谷洋平(SHOWROOM株式会社 執行役員)

      孫:円谷浩(俳優)

      孫:円谷一美(シンガーソングライター 又紀仁美)

      次男:円谷皐(円谷プロ3代目社長>2代目会長・円谷音楽出版(現:円谷ミュージック)初代代表取締役・円谷エンタープライズ初代社長)

        孫:円谷一夫(円谷プロ4代目社長>3代目会長>8代目社長>名誉会長)

        三男:円谷粲(英語版)(円谷映像(円谷エンターティメント)社長>円谷プロ副社長)

          孫:円谷優子(歌手)

          義弟:荒木秀三郎(東宝キャメラマン)

          円谷とゴジラ映画

          別の部署(録音係)から、円谷を慕って円谷特殊技術研究所に加わった有川貞昌は、円谷とともに切り金加工をして「東宝マーク」を作るなどの仕事をしながら、「いつかはこの東宝の撮影所に、特撮専用のスタジオを設立させる」という夢を語り合ったという。そんな肩身の狭い思いを強いられた円谷たち特技スタッフの苦労も、『ゴジラ』によって一気に報われることとなる。『ゴジラ』のおかげで円谷は専用のスタジオを任され、スタッフも正当な報酬を得られる身分になったのである。一方で、何かというと『ゴジラ』の話題ばかり出されることを、円谷は煙たがっていたという。

          そんな東宝の看板番組となった「ゴジラシリーズ」にしても、円谷が最も気にかけていたのは「マンネリ化」であった。有川や円谷一夫は、「オヤジは『ゴジラの逆襲』ですでにゴジラを描き切っていた」と述べているほどで、新味の無くなった『ゴジラ』が飽きられることは、特撮映画全般の制作にも影響が及ぶ。実際、『キングコング対ゴジラ』以降、円谷は新怪獣の造形に力を注ぎ、その描写にゴジラ以上のカットを費やしている。ついにゴジラが宇宙へ飛び出した『怪獣大戦争』で、ゴジラものの企画は限界に来た感があり、実相寺昭雄は本多猪四郎の言として「段々怪獣の数が増えて情けない」との当時の円谷のボヤキを紹介している。特殊美術の入江義夫は、円谷が「あまり怪獣ものを続けてやるのはよくない」と言っていたと証言しており、円谷は怪獣ものは好きではないと思っていたという。撮影助手であった森喜弘も、円谷は怪獣ものを『ゴジラ』1本で終えるつもりであったと述べている。

          この『怪獣大戦争』での「ゴジラのシェー」にしても、このアイディアを柴山撮影所長(当時)が提案した際には円谷は早速これを採り入れていて、「お客さんが喜ぶ面白いアイディアを入れることが出来て、本当に良かった」とコメントしている。有川によると『南海の大決闘』でのゴジラとエビラの岩石バレーボールや、加山雄三の物真似であるとかいったものも、そういった流れの一つである。円谷にしてみれば、こうした観客サービスはファンの思惑とは別次元の、娯楽映画の一環として自然なものだったと考えられる。そして、この『南海の大決闘』から、円谷はゴジラシリーズの特撮演出を後進の有川に任せ、自身は他作品にウェイトを移しているのである。

2024/06/12 08:08更新

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