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有川貞昌の情報 (ありかわさだまさ)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

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有川 貞昌さんについて調べます

■名前・氏名
有川 貞昌
(読み:ありかわ さだまさ)
■職業
特撮監督
■有川貞昌の誕生日・生年月日
1925年6月17日 (年齢80歳没)
丑年(うし年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
東京出身

(大正14年)1925年生まれの人の年齢早見表

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有川貞昌と関係のある人

中代文雄: 特技監督の有川貞昌は、円谷は自身では操演はできないため、中代の感覚を尊重していたと証言している。


川北紘一: 特撮現場への配属を希望し、撮影部特殊技術課に入り、円谷のもと有川貞昌に師事。


中野昭慶: 特技監督は技術者であり、文系・理系どちらかの素養があるとの持論を述べており、理系の天才である有川貞昌、文理両方をこなす円谷英二に対し、自身は文系の凡才であると評している。


富岡素敬: 有川貞昌によれば、元々は東映でデスクワークを務めていたが現場を希望し、東映のプロデューサーを通じて円谷英二へ紹介された。


円谷英二: また、「円谷特技研究所」の有川貞昌、富岡素敬、真野田陽一、樺島幸男らを正式に撮影所に同年に再開された東宝特殊技術課に迎え入れ、特撮スタッフの強化を図る。


中野昭慶: 1971年(昭和46年)、この年に東宝を退社した2代目特技監督の有川貞昌に代わって、東宝3代目の特技監督に就任。


関沢新一: 撮影の有川貞昌は、脚本で細かく書かれると特撮ではやりにくいため、すべて任せてもらえるのがありがたかったと述べている。


円谷英二: 別の部署(録音係)から、円谷を慕って円谷特殊技術研究所に加わった有川貞昌は、円谷とともに切り金加工をして「東宝マーク」を作るなどの仕事をしながら、「いつかはこの東宝の撮影所に、特撮専用のスタジオを設立させる」という夢を語り合ったという。


中代文雄: また、2014年(平成26年)5月に放送された、NHKの番組『プロジェクトX挑戦者たち ゴジラ誕生 〜特撮に賭けた80人の若者たち〜』で、有川貞昌、富岡素敬らと共に出演している。


井上泰幸: 特技監督の有川貞昌は、井上は人間的に温厚でスタッフの掌握がうまく、部署間の対立もうまくまとめていたと証言している。


森岩雄: 東宝で特技監督を務めた有川貞昌によれば、森は映画製作には様々な才能が必要であると認識しており、そうした才能が集まりやすい体制を作っていたと評している。


本多猪四郎: また、特撮作品では円谷英二、有川貞昌、中野昭慶らが特殊技術、特技監督としてビジュアルイメージを支えた。


中島春雄: 余暇には同じく免許を持つ坂野義光らとともに、有川貞昌や富岡素敬ら撮影スタッフを引き入れ、スキューバを教えていた。


円谷英二: 日米合作映画『勇者のみ』の撮影現場の視察に、渡辺明、有川貞昌、本多猪四郎とともにハワイを訪れた。


円谷英二: 円谷はチーフキャメラマン有川貞昌の意見もあり、これらの作品にイーストマン・カラーのフィルムを使用。


円谷英二: また、同じく東宝争議に嫌気がさし、東宝を退社した有川貞昌は、戦時中に観て感激した『雷撃隊出動』を撮った円谷と一度話がしたいと自宅を訪ね、海軍航空隊の対潜哨戒機パイロットだった有川は飛行機の話で円谷と意気投合し、その際、円谷に「我々日本人はもう飛行機(戦闘機)には乗れない。


中島春雄: 円谷英二や有川貞昌と同じく、飛行機乗り志望だった。


福田純: また、特撮映画では特撮班と綿密に打ち合わせをするタイプではなく、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』で特技監督を担当した有川貞昌には「本多猪四郎監督と比べて画面を合わせるのに苦労した」と評されている。


円谷英二: この企画は同プロ初のテレビ作品『ウルトラQ』となり、有川貞昌や小泉一、川北紘一ら東宝の特撮スタッフも多数参加した。


円谷英二: この年、正式に東宝社員となった有川貞昌の他、円谷の誘いを受け、東横映画にいた富岡素敬が、撮影助手として研究所員となった。


有川貞昌の情報まとめ

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有川 貞昌(ありかわ さだまさ)さんの誕生日は1925年6月17日です。東京出身の特撮監督のようです。

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円谷英二との関係、人物・エピソードなどについてまとめました。映画、退社、テレビ、解散、ドラマに関する情報もありますね。80歳で亡くなられているようです。

有川貞昌のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

有川 貞昌ありかわ さだまさ1925年〈大正14年〉6月17日 - 2005年〈平成17年〉9月22日)は、日本の撮影技師、特撮監督。日本映画撮影監督協会会員。通り名は「貞昌」を音読みした「ていしょう」。東京府出身。日本大学工学部卒。

1943年(昭和18年)、日比谷の映画館で東宝映画『南海の花束』(1942年、阿部豊監督)を観て、四発飛行艇「川西大艇」に魅せられ、愛媛県の逓信省愛媛航空機乗員養成所へ入所。飛行機パイロットの訓練を受ける。

1944年(昭和19年)、台湾南部の航空隊に配属され、雷撃機搭乗隊員として、対潜哨戒作戦に従事する。この航空隊での映画会で、『雷撃隊出動』(1944年、山本嘉次郎監督)を鑑賞し、出来栄えの素晴らしさに感動する。

1945年(昭和20年)、内地で敗戦を迎える。本人によれば、「幾度か死地を脱した末のことであった」という。同年8月、東宝で女優を務めていたいとこを介して東宝に入社。技術部音響技術課(録音課)に配属される。

1948年(昭和23年)、前々年からの東宝争議で、東宝撮影所は映画製作が止まってしまう。学生野球の経験があることから、有川は若い女優らと地方へ野球の試合に向かわされ、缶詰会社の社員と試合をして、もらって帰った缶詰を組合に供出するというような日々を送った。

撮影所が政治闘争の場となり、映画製作どころか組合の言いなりのような状態に「思想的に同調できなかった」という有川は、同年6月に東宝撮影所を退社。この前に、戦時中に観て感激した、『雷撃隊出動』を撮影した円谷英二を訪ねたところ、飛行機の話題で意気投合。誘われて円谷が自宅敷地に設置した円谷特殊技術研究所の撮影助手となる。この円谷特殊技術研究所には、利光貞三、富岡素敬、山本久蔵、樺島幸男、荒木秀三郎、真野田陽一らがいた。しかし、最初の仕事は映画ではなく、円谷が発明し販売していたオートスナップの改修であった。

1950年(昭和25年)、東宝に復帰し、正式に専属契約を結ぶ。

この年、GHQによる公職追放でフリーランスの身となっていた円谷が、東宝撮影所内に円谷特殊技術研究所を設置。有川は研究所員として加わり、合成撮影などを請け負い、「東宝マーク」の作成も行う。

1953年(昭和28年)、円谷が嘱託として東宝に復帰。これに伴い、同じく撮影技師の富岡素敬、真野田陽一と共に東宝のカメラマンとなる。

同年、『太平洋の鷲』(本多猪四郎監督)で特撮パートのカメラマンを務める。

1954年(昭和29年)、怪獣映画『ゴジラ』で特撮班のカメラマンを務める。以後、数多くの映画テレビの特撮作品を手がけ、昭和期における特殊撮影技術を代表する一人となる。円谷の下では、引き(ロング画面)のカメラマンを担当。また、円谷の代理で本多猪四郎との連絡役も務めた。

1957年(昭和32年)、『地球防衛軍』(本多猪四郎監督)のタイトルロールで、初めて「撮影」としてクレジット記名される。

1960年(昭和35年)、『電送人間』(福田純監督)より撮影技師となる。

1962年(昭和37年)、『紅の空』(谷口千吉監督)で特技監督の円谷を補佐し、特技演出を務める。

1963年(昭和38年)、円谷英二が株式会社円谷特技プロダクションを創設。円谷に請われ、同社とフジテレビとの番組企画『WoO』に企画参画する。

1965年(昭和40年)、円谷特技プロダクション製作のテレビ映画『ウルトラQ』の「五郎とゴロー」「1/8計画」で特技監督デビュー。以後、円谷特技プロのテレビ作品で腕を振るう。

1966年(昭和41年)、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(福田純監督)では、円谷に代わって実質的に特撮演出のほとんどを務める。

1967年(昭和42年)、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(福田純監督)で、正式に東宝の2代目特技監督の役職を得る。

1968年(昭和43年)、円谷特技プロダクションが「円谷プロダクション」と社名変更。登記上の取締役に就任(名義のみ)。

1969年(昭和44年)、円谷とともに大阪万博の『三菱未来館』の「サークロマ立体映像」を制作。

1970年(昭和45年)、師匠の円谷英二が死去。「サークロマ立体映像」の仕上げを行う。円谷の死去直後にクランクインした『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』(本多猪四郎監督)で特技監督を担当、これが東宝での最後の特撮劇場作品となる。

1971年(昭和46年)、東宝特技課の解散に伴い、東宝を退社。このことについて、「オヤジ(円谷の敬称)がいなくなっちゃったんじゃ、もう東宝にいる意味が無くなった」との趣旨のコメントを残している。この年、東宝の系列会社である国際放映に移籍。

1972年(昭和47年)、東宝に請われてテレビドラマ『愛の戦士レインボーマン』(NET)の特撮を担当。テレビの低予算下での、ミニチュアなど自作しながらの「手作り特撮」が、大いに勉強になったと語っている。

1977年(昭和52年)、元東宝の造形スタッフの村瀬継蔵に招かれ、香港のショウ・ブラザーズ製作の『北京原人の逆襲』(ホー・メン・ファ監督)で特技監督を務める。

1979年(昭和54年)、『西遊記II』(日本テレビ)で、プロデューサーを務める。

晩年は映像関係の専門学校の講師として、特撮技術の指導に当たった。

2005年(平成17年)9月22日、肺癌のため死去。80歳没。告別式は代々幡斎場で行われた。

円谷英二との関係

出会い

有川は戦時中に観た『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年、山本嘉次郎監督)や『雷撃隊出動』(1944年、山本嘉次郎監督)を観て感激し、パイロットを目指して海軍航空隊に入隊したが、これらの映像を記録フィルムと信じて疑わなかったという。

1947年(昭和22年)に東宝を辞めた際に、円谷英二監督が有川と同じ理由で東宝を辞め、独立したと聞いて、人から聞いた住所をあてに個人的に自宅を訪問した。映画が記録フィルムであると信じていた有川は円谷に、「『雷撃隊出動』の現場担当者は、どこの部隊の人ですか」と聞いたのであるが、円谷に「あれは映画で、飛行機は模型だよ」と言われてびっくりしたという。このときは特撮の知識など何もなかったが、円谷自身三等飛行士であることから、夜中まで飛行機の話題で話し込むこととなった。

この突然の訪問の帰り際に、円谷に「どうだ、日本ではもう飛行機(戦闘機)は飛ばせられんが映画ならできる。君も一緒にやらんか?」と言われた有川は、夢中で「はい!」と答えた。これがその後25年にわたる、円谷と特撮との歴史の始まりだったと有川は述懐している。

撮影現場での関係

円谷英二の愛弟子として薫陶を受け、円谷を「オヤジ」と呼んで慕った。

意見の違いでぶつかり合うこともあったが、「そこは信頼関係ですから、根に持つこともありませんでしたね」と語っている。師と仰ぐ円谷と同じく、元は飛行機乗り志望であり、『空の大怪獣 ラドン』(本多猪四郎監督)を始め、多くの映画で特撮用の空中撮影のために、円谷と2人でセスナの操縦桿を握っている。

しかし、自身と円谷とでは飛行機に対する憧れのあり方は異なっていたといい、有川は実戦経験に基づいていたのに対し、円谷は人が空を飛ぶことそのものに夢を抱いていたと述べている。『太平洋の鷲』では、円谷の方針に対して実乗経験から意見したが押し切られ、渋々撮影したものの、映像を見て円谷のやり方に納得し、以後円谷に全面の信頼を置くようになったという。

『ゴジラ』では、「アップを撮れ」という円谷の指示に対しサイズがわからないと聞いたところ「編集は俺がやる」と返され、これではカメラマンではなく「カメラ番」ではないかとひがんだが、サイズは自分に任されているのだと思い直して必死に撮影に挑み、完成した際には報われた思いであったという。有川は、後年のインタビューでも当時の自身はカメラマンではなくカメラ番であったと述懐している。

円谷はテレビ時代の到来を予感し、円谷プロダクションを設立し、特撮テレビ番組の製作に乗り出したが、有川はテレビ業界が発展するとは思えず小さなテレビ画面で特撮をやることには反対であったといい、円谷にも反対意見を直接述べたという。その後、有川は円谷の要請で円谷プロ作品も手掛けることになったが、実際にやってみてやはり映画の方が性に合っていると実感したという。

特技監督を引き継いだことについて、円谷から自身の技量を認められたと受け止めている一方で、本業以外の仕事が忙しくなり特技監督という立場にこだわらなくなった円谷から仕事を押し付けられたという心情でもあったという。有川は本編監督と話し合うのが苦手であったといい、『南海の大決戦』では本編側とすり合わせなければならない部分は円谷に相談し話を通してもらっていたと述べている。

人物・エピソード

『ゴジラ』のころは専属のスクリプターはおらず、有川が事実上その役割を担っていた。

前年の『白夫人の妖恋』(豊田四郎監督)に次いで、日本初の総天然色フィルムによる特撮怪獣映画となる『空の大怪獣 ラドン』では、特撮・本編合わせてスタッフ全員が未経験のカラー撮影にあたり、どの会社のカラーフィルムを使うかが論議となった。結局、イーストマン・カラーが用いられたが、これは特撮班カメラマンである有川の強い推薦によるものだった。

この『空の大怪獣 ラドン』で、福岡市天神地区で特撮スタッフとロケハンをしていたところ、地元のチンピラたちが因縁をつけてきた。ところが、彼らが東宝の特撮スタッフだと知ると、チンピラたちは「なんね、この九州にゴジラが来るとね!?」と驚いて態度を豹変させ、歓待してくれたという。

有川によると、『ゴジラの息子』は、有川がオヤジ(円谷)を継いで、東宝の二代目特技監督に就任したことを祝って、「ゴジラにも息子をやろう」と生まれた企画だったという。

円谷は自身の持つイメージをスタッフに作らせるというタイプの監督であったが、有川は自分で枠を決めてスタッフを動かすというやり方であった。当時は一人前の監督のつもりで一人で思い悩むこともなかったが、現場を離れてからは自分はスタッフに支えられていたのだと反省するようになったという。

特技監督時代は、円谷がやらなかったことをやろうという方針で、怪獣に生物としてのリアリティを演出するなどしていた。田中友幸は、有川の作風について「思い切った合成シーンの使用や、独特のカメラアングルは、カメラマンならではの出来栄え」であったと評している。書籍『ゴジラ大百科 新モスラ編』では、怪獣対決の演出に特徴があると評している。

有川が唯一都市破壊描写を演出した『怪獣総進撃』では、ゴジラの手前にマンダを配するなど、従来にない立体的な表現を行った。

川北紘一によれば、現場では非常に厳しい人物であったという。

有川の後を継いで特技監督となった中野昭慶は、監督には理系か文系どちらかの素養があるとの持論を述べており、有川は理系の天才であると評している。また、特撮カメラマンとしては、重いカメラで飛び回るラジコン飛行機を的確に捉える有川の反射神経や運動神経の高さを評価しており、パイロット経験のあった円谷・有川のコンビによる飛行機の動きには独特のリアリティがあったと述べている。

2024/06/09 17:51更新

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