成瀬巳喜男の情報(なるせみきお) 映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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成瀬 巳喜男さんについて調べます
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成瀬巳喜男と関係のある人
水島あやめ: 『純情』(1930年) 監督:成瀬巳喜男 渋谷英男: 乱れ雲(1967年 成瀬巳喜男監督):営業所員 西村潔: 千葉泰樹・黒澤明・堀川弘通・成瀬巳喜男・本多猪四郎・川島雄三・須川栄三・古澤憲吾・恩地日出夫らの助監督を経て、1969年、密室の人間群像を緊迫したサスペンスとして描いた黒沢年男主演のアクションスリラー『死ぬにはまだ早い』で監督に昇進。 菊島隆三: 脚本家として、各映画会社の作品を満遍なく書き連ね、黒澤作品にとどまらず、川島雄三、稲垣浩、成瀬巳喜男作品でも良作、佳作を数多く残している。 山本廉: 東宝専属時代はおもに特撮作品を中心に、岡本喜八監督作品や成瀬巳喜男監督作品などにも出演して活躍した。 藤本真澄: 終戦までに成瀬巳喜男監督の『秀子の車掌さん』や島津保次郎監督の『母の地図』、今井正監督の『望楼の決死隊』、山本薩夫監督の『翼の凱歌』などをプロデュースした。 滝花久子: 稲妻(監督:成瀬巳喜男。 中城ふみ子: 田中絹代はこれまで監督として2本の映画『恋文』『月は上りぬ』を撮っていたが、田中絹代本人が映画化を決めたわけではなく、完成した映画も脚本を手掛けた成瀬巳喜男、小津安二郎の影響が強いものであった。 河村黎吉: 島津作品のほか、成瀬巳喜男、清水、渋谷実、五所平之助、吉村公三郎らの作品でも芸達者ぶりを発揮し、父親役、江戸っ子役で精彩を放った。 林光: 女の中にいる他人(1966年、成瀬巳喜男監督) ヘンリー大川: 禍福(1937年 成瀬巳喜男監督):早川達雄 役 水木洋子: 林芙美子原作・成瀬巳喜男監督の『浮雲』(1955年)などは名高い。 ヘンリー大川: さらに成瀬巳喜男監督の初トーキー映画『乙女ごころ三人姉妹』など、成瀬作品に多数出演。 堀川弘通: そのため、会社からの命令で本作撮影後に成瀬巳喜男監督の下で『驟雨』『妻の心』(1951年)の助監督に就き、きっちり予算内で収め、スケジュールを守る成瀬の演出術を学んだ。 星由里子: 成瀬巳喜男、岡本喜八、福田純監督作品に度々起用されていた。 ヘンリー大川: 鶴八鶴次郎(1938年 成瀬巳喜男監督):松崎 役 月形龍之介: ^ 『はじめに喜劇ありき 清水宏、小津安二郎、成瀬巳喜男、山中貞雄、伊丹万作、そして斎藤寅次郎』p.167 ヘンリー大川: 乙女ごころ三人姉妹(1935年 成瀬巳喜男監督):青山 役 乙羽信子: 秋立ちぬ(1960年、成瀬巳喜男監督) 柳家金語楼: 愉しき哉人生(1944年、東宝、監督:成瀬巳喜男)※主演 高峰秀子: 特に成瀬巳喜男と木下惠介の両監督のほとんどの作品に出演。 ヘンリー大川: 妻よ薔薇のやうに(1935年 成瀬巳喜男監督):精二 役 黛敏郎: 女が階段を上る時(東宝、成瀬巳喜男監督、1960年) 藤本真澄: 放浪記(成瀬巳喜男監督、1962年) 佐野周二: 1953年にはフリーとなり、五所平之助の『大阪の宿』や成瀬巳喜男の『驟雨』などに出演し、演技派俳優として確固たる地位を確立する。 吉村公三郎: 以降は島津をはじめ、同じく島津門下生の五所平之助、豊田四郎や成瀬巳喜男の助監督を務めた後、1939年に『女こそ家を守れ』で本格的に監督デビュー。 栗島すみ子: その後も野村芳亭監督の『死に行く妻』、島津保次郎監督の『麗人』、小津安二郎監督の『結婚学入門』『お嬢さん』、成瀬巳喜男監督の『夜ごとの夢』など当時の有力な監督の作品に出演、昭和4年(1929年)、松竹が新しく導入した「幹部制度」において、岩田、川田、藤野秀夫らと共に大幹部に昇進した。 藤本真澄: 女の中にいる他人(成瀬巳喜男監督、1966年) ヘンリー大川: 女人哀愁(1937年 成瀬巳喜男監督):益田敏雄 役 藤本真澄: 乱れ雲(成瀬巳喜男監督、1967年) |
成瀬巳喜男の情報まとめ
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成瀬 巳喜男(なるせ みきお)さんの誕生日は1905年8月20日です。東京出身の映画監督のようです。
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作風、評価などについてまとめました。映画、卒業、姉妹、結婚、離婚、家族に関する情報もありますね。
成瀬巳喜男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)成瀬 巳喜男(なるせ みきお、1905年8月20日 - 1969年7月2日)は、日本の映画監督。東京府(現東京都)四谷出身。 成瀬は1905年8月20日、東京都四谷区谷町に縫箔職人で、大名成瀬氏一族である士族の父・利三と母・きなの間に二男一女の次男として生まれた。生まれたのが巳年、巳の月、巳の日だったので「巳喜男」と名付けられた。 鮫ヶ橋尋常小学校を卒業後、もともと家が貧しかったため、早く腕に職をつけようと工手学校(現工学院大学)に入るが、父が亡くなって家計が逼迫したことで中退した。1920年、知人の紹介で松竹蒲田撮影所に小道具係として入社する。1922年頃から池田義信の助監督につく。しかし、なかなか監督には昇進出来ず、後から入社した小津安二郎や清水宏らが入社して3・4年で監督に昇進する中、成瀬もまだ五所平之助の下で指示を受けており、都合10年もの下積み時代を過ごした。 1930年、成瀬は城戸四郎が赤穂春雄名義でシナリオを書いた短篇ナンセンス喜劇映画『チャンバラ夫婦』で監督デビューを果たす。最初は短篇のドタバタ喜劇を手がけていたが、1931年の『腰弁頑張れ』で認められる。その後長篇作品も手がけていき、1932年の『蝕める春』でキネマ旬報ベストテン第6位に選ばれ、期待の若手監督として注目された。翌1933年には『君と別れて』『夜ごとの夢』を発表し、両作ともキネマ旬報ベストテンに選ばれて高い評価を得る。 しかし監督に昇格しても個室も与えられず、他の助監督たちとの大部屋暮らしが続いた。しかも他の監督たちが拒んだ脚本で映画を撮らされ、「これを撮ったら、次は好きなのを撮らせてやる」という約束も何度も反故にされた。そこへ成瀬は東宝の前身であるPCLから引き抜きの話が入り、移籍を決心する。それを知った小津安二郎は「それも良し」と日記に書いている。また成瀬はこの時期、後の東宝で成瀬の映画を多数製作することになる藤本真澄とも知りあうことになる。 1934年、成瀬は助監督の山本薩夫とともにPCLに移籍して、初トーキー映画『乙女ごころ三人姉妹』(1935年)を監督する。 次いで監督を手掛けた、中野実の戯曲『女優と詩人』では無残な失敗を喫したとの評価を受けも、3作目の『妻よ薔薇のやうに』(1935年)では批評家から高い評価を受けて『キネマ旬報』ベスト1に選ばれる。この作品は“Kimiko”という英題で1937年にニューヨークで封切られ、アメリカで興行上映された初の日本映画となった。のちに『女優と詩人』『妻よ薔薇のやうに』の主演女優の千葉早智子と1937年に結婚して長男の隆司が生まれるが、3年後の1940年に離婚した。一人息子の隆司は千葉が引き取って育てた。 大佛次郎原作の『雪崩』(1937年)では黒澤明が助監督を務める。黒澤の自伝には、「成瀬さんにしても、物足りない仕事だったと思うが、それでも、私には得る所が多かった。」の記載がある。戦時下では『鶴八鶴次郎』『歌行燈』『芝居道』など「芸道もの」というジャンルで冴えを見せる。 戦争直後は民主主義路線映画『浦島太郎の後裔』『俺もお前も』『春の目ざめ』といった映画の監督を余儀なくされる。同時期に東宝争議によって東宝撮影所の機能が麻痺したため、成瀬も山本嘉次郎、黒澤、谷口千吉らと共に東宝を離れ、映画芸術協会を設立、フリーの立場で東宝、新東宝、松竹、大映などで監督することになる。 1951年、林芙美子原作、原節子と上原謙主演の『めし』が高い評価を受けた。東宝復帰後の1955年に監督した『浮雲』は一般に成瀬の最高傑作とされている。 成瀬は、林原作の『稲妻』『妻』『晩菊』『浮雲』『放浪記』をはじめとして川端康成原作の『舞姫』『山の音』、室生犀星原作の『あにいもうと』『杏っ子』といった純文学作品から、石坂洋次郎原作の『まごころ』『石中先生行状記』『くちづけ』といった大衆作品まで幅広いジャンルにわたる文芸映画を中心に、人間の細やかな情感を何気ないやりとりで描ききった。 成瀬の遺作は1967年、司葉子、加山雄三主演の『乱れ雲』であった。1969年、成瀬は直腸癌のため63歳で没した。墓所は世田谷区円光寺。なお、成瀬は闘病中に見舞いに訪れた高峰秀子に「白一色の幕を背にして高峰秀子が一人芝居をする」という奇抜な作品の構想を語ったが、ついに実現しなかった。これについては、成瀬と多くの作品でコンビを組んだ名カメラマンの玉井正夫が後年のインタビューで、「その発言は、成瀬さんが死ぬ間際に弱気になっていたからこそ出た言葉ですよ。成瀬さんは、高峰秀子を個人的には好きではなかったですよ」という発言をしている。 成瀬の生誕100周年にあたる2005年には、DVDボックスのリリースや関連書籍の出版、各地の名画座での特集上映などが行われた。 作風成瀬は女性映画の名手として知られており、とくに高峰秀子とのコンビによる多数の作品を手がける。また、小津映画によって神話化された原を『めし』『驟雨』で起用し、市井に生きる飾らない妻の姿を生き生きと演じさせた。 また幸田文が原作の『流れる』では高峰のほか、田中絹代、杉村春子、山田五十鈴、岡田茉莉子、中北千枝子、そしてサイレント映画女優の大女優である栗島すみ子が共演を果たしている。 他に戦前では水久保澄子・忍節子・入江たか子・岡田嘉子、戦後では若山セツ子・杉葉子・久我美子・高峰三枝子・木暮実千代・香川京子・淡島千景・新珠三千代・草笛光子・有馬稲子・団令子・水野久美・淡路恵子・司葉子・星由里子といった女優が彼の映画で輝きを放っている。 スター男優の意外な起用にも長けており、三船敏郎も『石中先生行状記』『妻の心』で黒澤映画で見せる男性的魅力とは異なる側面を見せ、三國連太郎は『夫婦』『妻』で奇妙な味わいを残した。戦前の松竹のスターである上原謙も『めし』以降の諸作で、山村聰とともに飾らない中年男性の姿を手堅く演じ続けた。晩年の『乱れる』と『乱れ雲』では、『若大将』シリーズで人気絶頂だったスター加山から繊細な演技を引き出したことも特筆に値する。 また、小林桂樹に殺人犯として主役を務めさせたり(『女の中にいる他人』)、その風貌から篤実、凡庸な性格の役回りが多い加東大介に結婚詐欺師(『女が階段を上る時』)や若い女と駆け落ちを繰り返す亭主(『女の座』)を演じさせるなど、名脇役として知られる俳優についても意外な一面を引き出している。 数は少ないが、『まごころ』『秀子の車掌さん』『なつかしの顔』『秋立ちぬ』など子どもを主人公とした情感豊かな佳作も手がけている。特に『秋立ちぬ』は、主人公に成瀬本人の幼少時代が重ねられているという意味でも、貴重な作品である。 成瀬の映画を支えていたのは東宝の映画撮影所の優秀な人材によるところも大きく、それは美術監督を務めた中古智による『成瀬巳喜男の設計』に詳しい。成瀬は美術に中古、撮影に玉井正夫、照明に石井長四郎、録音に下永尚、音楽に斎藤一郎、といった「成瀬組」と呼ばれた固定スタッフでの作業を好み、また彼らもそれぞれの持つ一流以上の技術で成瀬のもとを支えた。脚本には水木洋子が多くの作品で貢献している。 また成瀬は非常に時代性を意識した監督であり、作中にさりげなく当時の世相を盛り込むことが多かった。一例として『乱れる』での個人商店とスーパーマーケットとの価格競争や、『妻として女として』で妻や家族が「三種の神器」を欲しがるシーン、などがある。こうした設定が伏線として、話の本筋に活かされることも多い。 一方、戦後の作品では街頭シーンでチンドン屋が登場することが非常に多い。ほとんどは話に絡むことがなく(『めし』でわずかに登場人物が言及する程度である)BGMとしての意味合いも兼ねていたが、成瀬自身が特に好んで取り上げていたと言われている。 成瀬の映画で国内外を問わず最も高い評価を受けているのは『浮雲』であるが、『浮雲』はその重い雰囲気、こってりとした画調などが成瀬作品として異質であり、『浮雲』をして代表作とするべきではないという意見もある。成瀬も『浮雲』を自身の最高傑作とは見なしていなかったといわれている。 成瀬はスタッフには慕われていたが、無口な性格で付き合いをほとんど持たなかった。情趣に富んだやるせない作風のため、姓名をもじって「ヤルセナキオ」とあだ名された。成瀬の下で助監督の経験をし、自身も成瀬映画のファンであった石井輝男も成瀬のことを大学教授のような物静かな人と語っている。 映画撮影は几帳面におこなわれ(ただし撮影の段取り、コンテニュイティは誰にも見せず)、撮影予定日数以内に必ず納め、また毎日の監督の作業時間は朝の9時から夕方の4時45分であり、近くのレストランの定席でコップ酒を口にすると5時の撮影所のサイレンが鳴る、という撮り方だった。『秋立ちぬ』で助監督を務めた中野昭慶は、成瀬の演出は即編集できるものとなっており、フィルムに無駄がなく勉強になったと語っている。 評価成瀬は国内では生前から一定の評価を得ていたが、それは個性的な映画作家というより、むしろ職人監督としてであった。 成瀬に関しては、後に松竹社長となる蒲田撮影所の城戸四郎所長が「小津は二人いらない」と言ったという伝説がある。その小津は成瀬が監督した『浮雲』を「俺にはできないシャシンだ」と賛している。また溝口健二は「あの人のシャシンはうまいことはうまいが、いつもキンタマが有りませんね」と評している。 かつて教えを受けた石井輝男は不肖の弟子と自ら認めているが、「映画は映画館で上映される数週間だけの命である」とする成瀬の姿勢に敬意を払っていた。 黒澤明も自伝の中で自身が助監督についた『雪崩』の撮影での成瀬について、撮影中の時間の使い方など全く無駄が無く「なにもかも自分でやってしまうので、助監督は手持ち無沙汰だった」と振り返っている。また、成瀬の監督としての仕事振りについても「映画のエキスパート」「その腕前の確かな事は、比類がない」と評している。黒澤のスクリプターとして多くの黒澤作品に参加している野上照代は「黒澤さんが一番尊敬してたのは間違いなく成瀬さん」と自著に書いている。 成瀬の国際的名声が高まったのは死から10年以上もたってからで、川喜多かしこのような熱心な映画ファンの尽力により1983年のロカルノ国際映画祭で特集上映プログラムが組まれて以降である。その後、1988年では香港国際映画祭で、1998年にはサン・セバスティアン国際映画祭で特集上映が組まれた。フランス映画誌『カイエ・デュ・シネマ』は、成瀬のことを小津、溝口、黒澤に次ぐ日本の「第4の巨匠」と讃えた。 1990年には成瀬の映画の美術を多数担当した中古智と蓮實重彦とのインタビュー『成瀬巳喜男の設計』が筑摩書房から刊行される。ジャン・ピエール・リモザン、レオス・カラックス、ダニエル・シュミット、エドワード・ヤンといった映画監督たちが成瀬に敬意を表している。シュミットはドキュメンタリー映画『書かれた顔』で『晩菊』の一部を引用し、主演の杉村へのインタビューを果たした。 成瀬の系統的な評価に関しては、長く「戦中戦後にスランプの時期があったが、『めし』を契機に復活を果たし女性映画の名手となった」とする意見が支配的であった。しかし、近年は戦中作品を中心に評価が向上しつつある。 2024/06/14 20:23更新
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naruse mikio
成瀬巳喜男と同じ誕生日8月20日生まれ、同じ東京出身の人
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