永田雅一の情報(ながたまさいち) 映画プロデューサー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
永田 雅一さんについて調べます
■名前・氏名 |
永田雅一と関係のある人
田中春男: 1933年に現代劇部から時代劇部に移るが、1934年に友人で日活京都の製作部長だった永田雅一が興した第一映画社に参加、脇役として活躍した。 小山正明: 1959年も20勝、防御率1.86(リーグ3位)を記録するが、同年のシーズン中の7月に大毎オリオンズのオーナー・永田雅一と東京で密会し移籍の勧誘を受ける。 市川崑: そして、複数の映画監督に総監督打診の話が盥回しされた末に、市川が当時契約していた大映社長の永田雅一の元に持ち込まれた。 山中貞雄: 8月には日活時代劇の秋季大作を予定した『荒木又右衛門』のシナリオを執筆し、自身初の初のトーキー作品として監督するはずだったが、日活社長の中谷貞頼に尺数と撮影日数を制限するように命じられ、それが原因で製作部長兼脚本部長の永田雅一が中谷と衝突して辞任するという騒動が起き、その影響で製作延期となった。 西山和良: 1964年の開幕直前、永田雅一会長の希望により、小山正明・ソロムコー山内一弘・若生智男のトレードの裏で東京オリオンズに金銭移籍。 双葉山定次: 時津風部屋後援会「双葉山会」の笹山忠夫会長や永田雅一が、部屋の土地を買い取るために、亡き師匠の子飼いの直系弟子で31歳と若い豊山なら資金を出すが、粂川部屋から序二段で移籍した預かり弟子で、親方の平均寿命が短い時代に45歳だった鏡里なら資金を出さない意向だった背景もあった。 中野英治: 1934年(昭和9年)、永田雅一が設立した第一映画に参加、伊藤大輔監督の『建設の人々』に出演した。 飯田徳治: 同じタイミングで東京オリオンズオーナーの永田雅一も鶴岡を招聘しており、サンケイは球団社長の水野成夫が大阪へ出向いて就任を要請したが、南海の後任監督だった蔭山和夫が就任から僅か4日後に急死する事態に陥り、鶴岡の南海復帰が決定した。 菅原謙次: 永田雅一(大映社長) 谷本稔: 1960年には10年ぶり2度目のリーグ優勝に貢献し、大洋との日本シリーズでは全4戦に5~6番打者として起用されて15打数3安打に終わる一方、10月12日の第2戦(川崎)でのスクイズプレイ失敗が西本幸雄監督と永田雅一オーナーの対立を招き、西本が解任される事態にまで発展するなど必ずしも順風満帆とは言い難い面もあった。 森田富士郎: 成果を感じた森田は米国製の「ブルースクリーン」の購入を本社に持ちかけ、永田雅一社長も、当時1千万円近かったこの「ブルースクリーン」を京撮に導入してくれた。 本郷功次郎: 大映では藤田進や菅原謙二に続く柔道スターを探していたため、松山がその写真を叔母から借りて、社長の永田雅一に見せたところ「すぐに連れてこい」となった。 佐藤政夫: 選抜会議は永田雅一(当時のロッテ球団オーナー)の主導で実現した制度で、佐藤はこの制度に沿って翌1971年に移籍した。 田宮二郎: 理由は社長・永田雅一の方針によるものと言われている。 伴淳三郎: 極東映画を経て、1937年、日活で親しかった永田雅一が所長を務める新興キネマ京都撮影所に入社し、忍術映画などで活躍する。 内藤幸三: 戦後は朝日軍(この時点でパシフィックと変更していた)の仲間と共に新球団ゴールドスター(1947年から金星スターズ)を立ち上げ、エースとなるが、永田雅一率いる大映に買収されるや「ラッパ(永田のあだ名)」から逃走するかのごとく阪急ブレーブスへ移籍。 夏川静江: このとき日活撮影所所長が池永浩久で、池永の命で永田雅一がマキノの面倒を見てくれた。 ジョージ=アルトマン: きっちりとした服装で球場入りし、入念な練習を欠かさず、紳士的な態度とその全てが模範であり、オーナーの永田雅一でさえアルトマンを賞賛した。 市川春代: 1934年(昭和9年)2月26日東宝の新しい専属契約スターに市川の名が連なったが、当時の同撮影所総務の永田雅一の説得で、市川は同撮影所に留まった。 小栗美二: 同年9月、同撮影所の企画部長・永田雅一が独立し、第一映画を設立、小栗もこれに参加、翌1935年(昭和10年)1月20日に松竹キネマが配給して公開された溝口健二が監督した映画『折鶴お千』のセットをデザインした。 杉下茂: 1961年には毎日大映オリオンズへ投手コーチとして訪問したが、永田雅一からの一言で現役復帰を果たし、同年限りで引退した。 戸倉勝城: 1967年には東京の監督に就任するが、またしても貧打に泣く一方で、あまりバントを試みない強気一辺倒の作戦が永田雅一オーナーの不評を買い、6月にいったん休養し、8月に復帰したがわずか2週間で解任された(後任は濃人渉)。 溝口健二: 京都の満願寺にも分骨されて碑が建てられ、永田雅一が碑の側面に「世界的名監督」と刻ませた。 安部譲二: 永田雅一に大変な恩義を感じており、雅一の孫でTBSラジオのディレクター、プロデューサーを歴任した永田守の頼みは断れないらしく、永田守が初代プロデューサー兼ディレクターを担当した『伊集院光 深夜の馬鹿力』では、内田有紀、遠藤久美子、シャロン・ストーンの物真似を延々させ続けられたり、出会い系サイトに登録してどれくらいモテるか他の出演者と競うなど、他所ではありえない扱いをされることがあった。 浜崎真二: 1954年、パ・リーグの永田雅一総裁の画策で、前年までの7球団から追加された高橋ユニオンズの創設に伴い監督に就任。 早川雪洲: 1949年、『三人帰る』の撮影を終えた雪洲は、ちょうどアメリカを訪問していた大映社長の永田雅一に帰国を勧められ、10月に約13年ぶりに日本の土を踏んだ。 森徹: 濃人が監督に昇格した1968年にはハワイキャンプのメンバーからも外され、永田雅一オーナーの説得も振り切り、同年限りで現役を引退。 小栗美二: 1937年(昭和12年)、永田雅一が新興キネマに引き抜かれ京都太秦撮影所長就任するとともに第一映画は解散、小栗も新興キネマの同撮影所に参加する。 稲垣浩: 大映の永田雅一社長は稲垣と同じく小柄で、ロイド眼鏡にコールマンヒゲをしていて、永田が駆け出しのころはよく稲垣と間違われた。 田村道美: 一方、田村は1954年8月に創立したゼネラル・フィルム協会事務局長・ユニオン映画支配人を務め、1960年に退社した後は永田雅一がオーナーをしていた毎日オリオンズの営業部長を務めた。 |
永田雅一の情報まとめ
永田 雅一(ながた まさいち)さんの誕生日は1906年1月21日です。京都出身の映画プロデューサーのようです。
映画、現在、卒業、事件、兄弟、退社、解散、テレビ、引退、結婚、姉妹、脱退に関する情報もありますね。1985年に亡くなられているようです。
永田雅一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)永田 雅一(ながた まさいち、1906年〈明治39年〉1月21日 - 1985年〈昭和60年〉10月24日)は、日本の実業家、映画プロデューサー、プロ野球オーナー、馬主。昭和初期から後期(1930年代後半 - 1980年代前半)に活動。大映社長として『羅生門』などを製作。プロ野球大映球団のオーナーとなり、パ・リーグの初代総裁。大言壮語な語り口から「永田ラッパ」の愛称でも知られた。 京都府京都市三条通油小路下ル(現在の中京区)で生まれた。父・永田芳太郎、母・紀美の長男。生家は染料と友禅の問屋であった。父は熊本県の阿蘇出身、母は東京出身。雅一が3つぐらいのときから家運が傾きはじめた。工場が火事になったり、女中と小僧が金を持って駆け落ちしたりで転落に拍車をかけた。やむなく両親は同じ中京区の御池通神泉苑町に小さい家を建てて引越し、商売を縮小したのだが、父が友人の借金の保証をして破産の憂目を見ることになった。それで再び転居し、同じ町内で新しく借家住いの境涯になった。 小学校卒業と同時に、青雲の志を抱いて上京した。当時東京証券交換所で常務をしていた親戚を頼って「小僧にしてくれ」といったが、小僧になるのにも中学校くらいの学歴が必要だった。そこで補欠試験をうけて大倉商業学校に入った。しかし、学業半ばで父が47歳で脳出血で突如急死したために「両親健在のうちに永田家を復興させたい」という念願は挫折し、その失意も手伝ってか大倉商業を4年で中退した。 1923年9月1日、関東大震災が発生した。永田は青年団の一員として整理によく働いた。その月の18日には避難民を送る長崎丸に便乗を許されて神戸に行き、京都に帰ることができた。 青年多感の永田は、英雄主義的な気持ちから次第に社会主義にかぶれていった。それゆえに特高に絶えず尾行されたにもかかわらず、いろいろなデモや集会に参加した。一時は京都のヤクザ「千本組(皇民党事件の荒寅千本組はその流れを汲む)」に籍をおいた。永田によれば「私の仲間に二条駅で貨物の荷役を請負っていた千本組の元締笹井三左衛門の息子の末三郎というのがいた。この笹井というのは京都でも十番目ぐらいの多額納税者で、一部の子分はともかく、オヤジそのものは決してヤクザではない」という。永田は、警察官に夜となく昼となく尾行される身の上になっていき、これを嘆いた母からは父の位牌を膝の前にして折檻され、家を追放された。 家を追われた永田はマキノ兄弟との縁から1925年、日本活動写真(現・日活)京都撮影所に入所し、映画人としての道を歩む。無声映画時代の映画のロケ現場は見物客からおひねりが飛び交い、それ自体が興行のようなものだった。永田はこのおひねりを拾い集め、撮影仲間と女郎屋へ繰り出すという毎日だったという。 駆け出しの永田は便利屋として働き、持ち前の雄弁さと、人を逸さぬ社交術で、藤村義朗や浅岡信夫、望月圭介らに可愛がられ政界への足場を築く。 1934年8月22日、日活を退社。退社にあたり「日活更生のため身を挺して働いたが、中谷社長の主義、政策方針に合わず退社す」との電報を打った。退社の直接の理由は秋の大作である『荒木又右衛門』の製作に当たり、社長と衝突したためとされている。その後、日活の前関西支店長や宣伝部長らと第一映画社を創立、日活所属の俳優陣の引き抜き合戦を経て、自前のスタジオにて映画を製作している。1936年、同社が解散する際には従業員を前に泣きながら解散の弁を語ったとされる。その後は松竹の大谷竹次郎の知遇を得て、俳優達を引き連れて大谷が経営する新興キネマの京都撮影所長となるのが表の履歴である。しかし、竹中労の『聞書き アラカン一代』によると撮影所所長の職は第一映画社を解散する前に約束されており、そもそも第一映画社の投下資本は「松竹」の出資であったとしている。大谷の実弟である白井信太郎(新興キネマ)をバックにつけて、日活の分裂に動いた永田がそのまま大谷の傘の下に入ったとしており、引き抜きや労務管理の汚れ仕事を受け持つ別働隊であったと暴露している。 永田の泣きの芝居の一週間前には東宝から金を引き出していた日活の堀久作常務(当時。後に社長)が逮捕され、日活と東宝の提携が調印後、壊されている。何もかも日活配給網を得んとする松竹の野望から始まり、小林一三(阪急阪神東宝グループ創業者)の「大東宝」構想との衝突が根本にあったとされる。1942年、政府の勧奨で映画会社が統合される際に、業界を東宝ブロックと松竹ブロックに二分する動きがあるのを察知すると、当局に掛け合って新興キネマと日活を軸とした第三勢力による統合を認めさせ、「大日本映画製作(大映)」の成立に成功。この立案をした情報局第五部の第二課長に贈賄をしたという噂は当時から残っている。成立と同時に作家の菊池寛を同社社長に担ぎ出し、自らは専務に就任。1947年には社長となる。翌年1月公職追放となるが、間もなく追放解除となり社長に復帰した。 この間、1946年の第22回衆議院議員総選挙に京都選挙区から立候補したが、落選している。政治家とはならなかったものの、河野一郎や岸信介との交流から、一時政界のフィクサーとなっていた時期があった。特に警職法改正で閣内が分裂した際に当時の岸首相が大野伴睦に対してされたとする政権禅譲の密約を交わした際に萩原吉太郎、児玉誉士夫とともに立会人になったとされている。 社員をすべて縁故で固め、その息子や親戚を採用し、自らをカリスマ化した。映画の企画もすべて永田の意見で決められた。監督の森一生は「企画をいくら出しても一本も通らなかった。しまいには『芸者に聞いたらこんなもんあかんゆうた』と言われた」と述懐している。こうした公私混同とは別に、大映の企画副部長を務めた奥田久司は「功罪のうちの功」として、永田が他社に先駆けて1947年ごろに「定年60年制」を独断で採用したことを挙げている(他の映画会社は現在も「定年55年制」である)。 1951年、後述するように個人所有していた競走馬トキノミノルが10戦全勝で東京優駿(日本ダービー)を優勝する。その3ヶ月後には『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭グランプリ、アカデミー外国語映画賞を受賞。 このように大きな栄誉がそれぞれ永田と大映作品にあったこの1951年こそが、若いころの刻苦を乗り越え、やがて強運を掴んで上り詰めた永田の人生の絶頂点であったと見る向きもある。その一方では、トキノミノルが東京優駿からわずか半月後に急死してしまうというアクシデントも起きていた。 とはいえ、この『羅生門』の受賞を契機としてその後も『雨月物語』(ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞受賞)『地獄門』(カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞)などの国際的に名声を得た大作を手掛ける一方、日本初の70ミリ映画『釈迦』も手掛けた。 『地獄門』では、企画会議で全社員が反対するなか、「そんなら俺一人でやる!」と強引に製作。その結果、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲っており、アカデミー特別賞も受賞。一方、多数の証言が一致する点では、永田は『羅生門』では制作立案の段階で無関心であった。試写では途中で席を立った。その後も、海外で続々と受賞し始めるまで、「なんや、サッパリわからん」と、自分の会社の作品をこき下ろしていた。グランプリ受賞の報に狂喜乱舞する新聞記者たちに「で、グランプリってのはどのくらい凄いんだ?」と聞きなおしたが、その後は自分の功績を並べ立てた。黒澤へ顕彰の証を渡さず大映本社に飾った永田に対して、当時の狂句は「黒澤明はグランプリ、永田雅一はシランプリ」と揶揄している。1954年には菊池寛賞を受賞した。 大映全盛期には異例の5割配当を行うなど、自身の手掛ける作品には絶対の自信を持ち、それゆえプロ野球以外の副業にはほとんど関心を示さなかった。映画の製作・配給は行っても、興行はほとんど既存の地方興行主に任せており、直営の映画館は皆無に近かった。東宝の小林一三も「君はグランプリ・プロデューサーだから興行みたいなチマチマしたことはせずに製作すれば必ず僕のところで上映しよう」と言ったとされる。 1953年には、松竹、東宝、東映、新東宝に呼びかけ五社協定締結を主導。各映画会社に所属する技術者や俳優の他社への出演を原則禁止した。五社協定は1954年に戦前の映画制作を再開させた日活への対抗策として発足したが、1958年にその日活も加わって、テレビ業界への対抗策と化した悪名高き六社協定に発展する(1961年に新東宝が倒産して五社協定に戻る)。後にこの協定に絡み、大映の看板スターだった山本富士子や田宮二郎が永田との確執から大映を退社し、丸井太郎はガス自殺した。その一方で、日本テレビ創立の際に出資し、フジテレビには親会社の一角として経営に参加していたものの、余りテレビには関心を示さなかった。 このような状況で、「永田ラッパ」と呼ばれたワンマンな放漫経営の弊害は年を追う毎に色濃くなってきたが、極端なワンマン経営およびその性格ゆえに周囲から永田に諫言できる人物もおらず、1960年代半ばからの日本映画界の急激な斜陽と不振の中で、ほとんど製作本位で大作主義だった大映はジリ貧に追い込まれてゆく。その中にあって長谷川一夫の引退、上記の山本・田宮の解雇、勝新太郎の独立、養女の永田雅子と結婚させていわば娘婿の関係にあった市川雷蔵のガン死(1969年)、大型新人スター不在といった問題が重く伸し掛かり、ついに1971年12月23日に東京地方裁判所より破産宣告を受け、倒産。倒産間際に湯浅憲明が、組合からの突き上げを食らいながら完成させた、永田大映最後の映画作品『成熟』(1971年)の本社試写では「出来たのか、出来たのか」と女子職員に支えられながら号泣。湯浅も「あの怪物が」と複雑な心境だったというが、いつもの永田節を聞かされてきた社員たちは、この期に及んでも半信半疑だったという。また、倒産間近となったとき永田は社宅の前で、「ここは抵当に入っている、諸君にはどうか倒産させないためにも、ここ(社宅)を出て行ってもらえないか」と頼み込んだ。その社宅は、約20年前に永田が社員に向かって「諸君、ここには今何もないが、いずれプールや遊園地を造る、ここにいる赤ん坊が20歳になったときには素晴らしい施設が完成しているだろう!」との大見得を切りながら演説した場所だった。その場にいた20歳の青年たちから「あの時の約束はどうした、プールや遊園地はどうした!」と罵声が浴びせられ、これにショックを受けた永田は卒倒寸前となり、腕を抱えられながら退場したという。 それでも、永田は1976年に永田プロダクションを設立。同年、永田の跡を継ぐことを狙っていた徳間康快の徳間書店の子会社となって映画製作に復帰していた大映作品の映画『君よ憤怒の河を渉れ』にプロデューサーとして参加することで、映画界に復帰した。 熱心な日蓮宗信者としても知られ、晩年には萬屋錦之介(初代中村錦之助)主演で映画『日蓮』を製作した。 1947年末、アメリカ視察旅行から帰国した永田は大映作品のアメリカ市場進出のためには、自らがアメリカにおいても名の通った存在でなくてはならないことを痛感。当時、アメリカで尊敬される名誉職の一つがプロ野球オーナーであり、また元々野球好きであったことから、永田もプロ野球チームを持つことを決意する。これを永田に吹き込んだのは、永田と夫人同士が姉妹(いわゆる相婿)だった側近の武田和義。1948年中日ドラゴンズの赤嶺昌志球団代表を慕っていた選手(赤嶺一派)が脱退し、いくところがなく赤嶺と小林次男(横沢三郎の兄)が小西得郎に話を持ち込み、小林、小西の仲介で赤嶺一派と大映球団を組織した。小西の証言では、永田は川口松太郎を通じて小西に会い、小西の仲介で永田のメインブレイン・大麻唯男を間に入れて、赤嶺昌志と永田を繋げたと話している。間もなく、国民野球連盟に所属していた大塚幸之助経営の大塚アスレチックスを買収。この大塚幸之助は後に金星スターズのオーナーとなり、本業の洋傘製造業者・大塚製作所が倒産した後も、永田のブレーンであり続けた。 1948年1月、東急フライヤーズと合同して急映フライヤーズを名乗るが、同年12月、別途金星スターズを買収して大映スターズを結成。以降、本来は副業として球団経営に携わっていたのが次第にプロ野球も本業となり、ついに1953年(昭和28年)パシフィック・リーグ(パ・リーグ)の総裁に就任。高橋ユニオンズの結成による8球団制の採用や、その高橋と大映の合併を契機とする6球団制への再編成と、いずれも球界再編成の主役となった。 「永田ラッパ」はここでも高らかに吹き鳴らされる。自らの映画会社のスターと同じ名前だからと「長谷川一夫」という名の選手を入団させたり、短距離走選手としてオリンピック出場経験のある飯島秀雄を代走専門選手として採用したりした。だが、長谷川が(入団当初の投手ではなく野手として)一定の成績を収めたことと、小山正明と山内一弘の「世紀のトレード」を実現させた実績はあったものの総じてチーム強化に大きく結びついたとは言い難く、あわせてベンチに電話をかけ監督の濃人渉に選手交代を指示するなど現場への介入も多かったため、批判も受けた。一方、時には市川雷蔵などの大映のスターたちを連れながら足しげく観戦に訪れる永田はファンから愛され、オリオンズが勝った試合後に永田の出待ちをし、永田の姿が見えると拍手を送るファンもいた。また、東京スタジアム(後述)のオーナー室に作った神棚にチームに向けてのお祈りを欠かさなかったなど、選手を思う気持ちも並々ならぬものがあった。成田文男は「あの人ぐらいぼくらのことを思ってくれている人はいないと思う」と語っている。 1962年には私財を投じて東京都荒川区南千住にプロ野球専用球場・東京スタジアムを建設、その開場セレモニーでは観客に対し「今後この日本の代表的球場を愛されんことをお願い致します」と語りかけた。しかしその後、東京球場はチームの不調も重なり不入りで不採算が続き、読売ジャイアンツ(巨人、セントラル・リーグ所属の球団)のオーナー・正力松太郎がこの事態を見かねて「巨人にも東京スタジアムを使わせてほしい」と救いの手を差し伸べたものの、永田は「セ・リーグ、とりわけ巨人の世話になるのは御免だ」と、これを頑なに拒んだ(開場以来、東京近辺に本拠地を置くセ・リーグ球団のうち国鉄スワローズと大洋(本拠地は川崎市)には東京スタジアムでの主催試合の開催を許可していたが、巨人には最後まで許可を出さなかった)。しかし現在、観客の入退場に対する利便性を図った設計や、当時の後楽園球場にも劣らなかった各種設備などにおいて、東京スタジアムの先駆性は再評価されている。 1969年、遂に経営難で盟友・岸信介の仲介によりロッテを5年契約のスポンサーに付け、「ロッテオリオンズ」と改名し、副オーナーに岸の私設秘書だった中村長芳を招いた。 翌1970年10月7日の西鉄戦で、ロッテがパ・リーグ優勝を東京スタジアムで決めた時、永田はグラウンドに乱入した観客たちの手により、「永田さんおめでとう」の喝采と共に優勝監督の濃人や殊勲選手よりも前に胴上げされ、永田は号泣しながら宙を舞った(その後も観客たちは選手を片端から胴上げして回った)。 しかしその歓喜の瞬間からわずか3か月後の1971年1月、大映の経営再建に専念するため、永田はロッテ社長の重光武雄に球団経営の肩代わりを要請し、球団を正式にロッテへ譲渡、同時にオーナー職を中村に譲ることとなった。無念のうちに球界を去ることになった永田は記者会見で以下のように語った。 ここまで語った永田は言葉を失い号泣した。 永田が経営を退いた3年後の1974年、ロッテはパ・リーグを制し、中日ドラゴンズとの日本シリーズに臨んだ。ロッテのホーム初戦となる第3戦、後楽園球場のスタンドに、選手や球団の招きに応じ、永田が姿を現した。永田が野球場に足を踏み入れたのは、ロッテのオーナー職を退いて以来初めてのことであった。グラウンドには永田時代を知るロッテ選手だけでなく、中日側にも与那嶺要、近藤貞雄といったオリオンズ在籍経験のある者(指導者)たちが姿を見せていた。永田はその光景を見て「まるで息子たちが試合をしているような気がする」とつぶやいたという。ロッテはシリーズを4勝2敗で制し、日本一を達成した。なお、前述の記者会見で名前の挙がった小山は、前年の1973年に大洋ホエールズに移籍し、同年限りで引退した後、古巣・阪神タイガースのコーチに就任していた。 なお、経営を引き継いだ「株式会社ロッテオリオンズ」は、これまでの功労への配慮から永田を取締役として残留させ、オーナーが重光に交代した後の1981年時点でも、金田正一とともに名を連ねていた。 1985年10月24日、急性肺炎のため死去した。79歳没。1988年、野球殿堂入りを果たした。 1934年にサラブレッドを購入し、競走馬の馬主となる。永田と競馬との縁はこの時を嚆矢とする。10戦無敗で皐月賞、東京優駿(日本ダービー)を制し二冠を達成したが、破傷風にかかり悲劇の最期を遂げたトキノミノルの馬主でもある。「トキノ」とは馬主でもあった菊池寛の冠名であり、「菊池寛の夢が実る」という意味で改名されたもの(デビュー戦の馬名は「パーフェクト」)と言われている。後年、トキノミノルをモデルにした『幻の馬』という映画も製作している。他にも名牝クリフジの産駒で、桜花賞・優駿牝馬の2冠を勝ったヤマイチや、ダービー馬ラッキールーラの母トースト、天皇賞馬オーテモンなども永田所有だった。 勝負服は緑地に黒三本輪で、永田が競馬から手を引いてからはしばらく使われなかったが、現在はグリーンファームの勝負服として登録されている。これはグリーンファームが永田の遺族に氏のかつての勝負服を使わせてほしいと申し出て、遺族が承諾したという経緯がある。 東京スポーツ新聞社を経営していた時期がある。これは、同社の事実上のオーナーであった児玉誉士夫と親交があったことによるもの。東スポは永田の手腕により全国紙へと成長した。なお、プロ野球・国民リーグの大塚アスレチックスから金星スターズを経て大映スターズの経営に携わった大塚幸之助は、最晩年東スポの監査役を務めていた。 当初日本におけるペプシコーラ事業の代表者であった。永田が日本での販売会社を設立し、上掲の大塚幸之助が総支配人を務めていた。映画館で売っているコーラはペプシとよく言われたのはこの所以。先述の東京スタジアムのスコアボードにも、ペプシとミリンダの大広告が見える。また現在も後身たる千葉ロッテの本拠地・千葉マリンスタジアムに広告が掲示され、ロッテリアで扱うコーラはペプシである。 聖心女子学院のパトロンでもある。広尾の旧久邇宮邸を堤康次郎に先んじて買収し寄贈、札幌の敷地を工面したのも永田である。教育にも関心があり、ある時息子の永田秀雅が『あなたは本当は何になりたかったのです』と尋ねたところ『立派な学校を建てて、貧乏人も金持ちも区別なく教育を受けさせてやる仕事だよ』と答えたという。 武州鉄道汚職事件では、武州鉄道の発起人に名をつらねていたので贈賄罪で逮捕・起訴されたが裁判で無罪となる。 1957年には日本相撲協会に請われて設立されたばかりの運営審議委員会委員となり、死去時まで務めた。 永田が熱心な日蓮宗信者であることは有名であるが、これは母・紀美の影響によるものである。紀美は家業の友禅染問屋が急激に傾いたことを機に日蓮宗に入信。身延山への百回詣でを願掛けし、毎年山に登り続けた姿を見続けることとなる。後年になって『人一倍雑念的存在であるわしが、殊勝にも信仰の道に入ったのは、全て母の信仰心に追うものなんじゃ』と語っている。 1952年 - 1953年ごろからは12月31日になると身延山の七面山に入り、元旦会のお籠りをしていたという。永田全盛期には元旦会や節分会になると長谷川一夫や時津風理事長などを従えて来山していたという。 1958年には映画『日蓮と蒙古大襲来』の制作に関わっている。 晩年の20年ほどは信徒総代となる。失火によって焼失した鐘楼をほぼ独力の寄付により再建するほか、様々な施設の寄付にかかわっている。また、紀美の銅像を境内に建立しているが、霊場のしかも総本山への個人をモデルとした銅像建立は異例である。また、墓所は池上本門寺に営まれた。 『最後の活動屋』を標榜していた。山本嘉次郎にも『映画人は信用出来んが、活動屋は信用出来る』と評されている。 母・紀美の『百回詣で』に対抗して『百回仲人』の願を立てていたという。百回目の仲人は坪内ミキ子夫妻。 1955年(昭和30年)紫綬褒章 1961年(昭和36年)フランス芸術文化勲章 1966年(昭和41年)藍綬褒章。 TBSラジオのディレクター(のちプロデューサー→TCエンタテインメント専務取締役)で『コサキン怪傑アドレナリン』および後継の『コサキンDEワァオ!』、『伊集院光 深夜の馬鹿力』などを担当した永田守は孫。特に『深夜の馬鹿力』においては「永田家には足を向けて寝られないほどの大恩がある」と語る安部譲二が数々の企画に出演するなど、永田家の影響力を窺い知る逸話がある。その守に雅一は「大映パパ」と呼ばせていたという。 歌舞伎役者市川雷蔵の妻・太田雅子(一般人)は永田と養子縁組関係にあった。 外食産業専門コンサルタント会社「株式会社ブグラーマネージメント」代表取締役社長兼CEOである永田雅乙(YouTube上で永田ラッパとしても活躍)は曾孫にあたる。 日本芸能界初のプロ和太鼓奏者である高山正行の夫人の叔父にあたる。 ^ 山形県鶴岡の商工会議所の出資で制作され、すでに末期状態だった大映は一銭も負担していない。 ^ 東急の参事で強羅ホテル社長・猿丸元が、小林次男の仲介で、五島慶太と永田を会わせてフィフティの合併、急映フライヤーズを誕生させたもの。 ^ 小山正明によると、トレードの裏では、永田本人が直接、阪神球団社長の戸沢一隆に「小山をくれないか」と熱心に電話攻勢をかけていたという。 ^ 『私の履歴書 経済人2』211頁 ^ 『私の履歴書 経済人2』213頁 ^ 『私の履歴書 経済人2』214頁 ^ 『私の履歴書 経済人2』215頁 ^ 『ガメラを創った男 評伝 映画監督・湯浅憲明』(アスペクト) ^ 田中純一郎『一業一人伝「永田雅一」』、時事通信社、1962年、P27 - 28 ^ 日活中谷社長と衝突、辞表提出『東京朝日新聞』昭和9年8月23日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p492 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 「第一映画社」を設立、スター大挙参加『大阪毎日新聞』昭和9年8月24日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p492) ^ 日活社長、館主やスターの遺留に奔走『大阪毎日新聞』昭和9年8月25日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p492) ^ 『20世紀日本人名事典』 (日外アソシエーツ、2004年) ^ 『大映特撮コレクション 大魔神』(徳間書店) ^ 遠山彰『日本ダービー物語』(丸善)、P42 ^ 外部リンクに映像 ^ 関三穂『プロ野球史再発掘 5』、P258 - 267 ^ 関三穂『プロ野球史再発掘 4』ベースボール・マガジン社、1987年、P25、26 ^ 関三穂『プロ野球史再発掘 5』、P232、262 ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、100頁。ISBN 9784309225043。 ^ 澤宮 61ページ ^ 澤宮 62ページ ^ 澤宮 143ページ ^ 澤宮 117ページ ^ 澤宮 26ページ ^ スポーツニッポン、八木沢荘六の我が道、2021年11月21日、11版 ^ 澤宮 146ページ ^ 澤宮 154ページ ^ この項全て、澤宮 161-162ページ ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)20頁 ^ 高永武敏・原田宏共著「激動の相撲昭和史」ベースボール・マガジン社、p.153 ^ 「永田 雅一」『20世紀日本人名事典』。https://kotobank.jp/word/%E6%B0%B8%E7%94%B0%20%E9%9B%85%E4%B8%80。コトバンクより2017年12月11日閲覧。 『私の履歴書 経済人2』 日本経済新聞社 1980年、209-252頁 澤宮優『東京スタジアムがあった 永田雅一、オリオンズの夢』河出書房新社、2015年 菊池夏樹 『菊池寛と大映』 白水社、2011年 大川博 ウォルト・ディズニー 青木一三 - 大毎(→東京)オリオンズで永田の部下として活動。 ネズラ1964 永田雅一 - allcinema 永田雅一 - KINENOTE 永田雅一 - 日本映画データベース Masaichi Nagata - IMDb(英語) 第27回アカデミー賞「地獄門」受賞映像
Sabrina and Gate of Hell Win Costume Design: 1955 Oscars - YouTube 衣裳デザイン賞(和田三造)代理登壇:永田雅一プロデューサー 表 話 編 歴 東京スポーツ(東京) 中京スポーツ(名古屋) 大阪スポーツ(大阪) 九州スポーツ(福岡) やまと新聞 東京スポーツ杯2歳ステークス プロレス夢のオールスター戦 東京スポーツ映画大賞 プロレス大賞 AV OPEN〜あなたが決める!セルアダルトビデオ日本一決定戦〜 ALL TOGETHER みこすり半劇場 タイガーマスク・ザ・スター ビートたけし 安藤勝己 中村均 児玉誉士夫 吉田彦太郎 永田雅一 山田隆 桜井康雄 門馬忠雄 江尻良文 柴田惣一 アントニオ猪木 松井秀喜 小橋建太 ストロング小林 塩崎利雄 高橋三千綱 田原成貴 プロレス(全日本プロレス / 新日本プロレス) 飛ばし 表 話 編 歴 大怪獣ガメラ 対バルゴン 対ギャオス 対バイラス 対ギロン 対ジャイガー 対ジグラ 宇宙怪獣ガメラ ガメラ ガメラ2 ガメラ3 小さき勇者たち〜ガメラ〜 GAMERA -Rebirth- ガメラ ギャオス レギオン ガメラの歌 ガメラマーチ 愛は未来へ… 神話 そら もういちど教えてほしい 小さき勇者たち〜ガメラ〜OST Eternal Love 怪獣クイズだ大集合!! GAMERA1999 ガメラ4 ガメラ対バルゴン COMIC VERSION ムービーモンスターシリーズ 超全集 The Tower II 戦姫絶唱シンフォギアXD UNLIMITED 巨影都市 斉藤米二郎 永田雅一 永田秀雅 仲野和正 徳山雅也 大葉博一 徳間康快 高橋二三 伊藤和典 龍居由佳里 湯浅憲明 築地米三郎 田中重雄 金子修介 樋口真嗣 田﨑竜太 金子功 山内正 木下忠司 廣瀬健次郎 菊池俊輔 大谷幸 上野洋子 荒垣輝雄 泉梅之助 真鍋尚晃 鈴木潤 大橋明 福沢博文 佐々木俊宜 井上章 井上泰幸 三池敏夫 八木正夫 高山良策 開米栄三 三上陸男 村瀬継蔵 前澤範 品田冬樹 原口智生 若狭新一 船越英二 本郷功次郎 大村崑 坪内ミキ子 笠原玲子 夏木章 藤山浩二 中山忍 藤谷文子 螢雪次朗 鈴木昶 高木明法 島倉二千六 飯塚定雄 橋本満明 松本肇 石田兵衛 松本衆三 冨田功 普嶋信一 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治、鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一、二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義、藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂、西沢道夫 78 松木謙治郎、浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘、小鶴誠 81 飯田徳治、岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂、白石勝巳、荒巻淳 88 長嶋茂雄、別当薫、西本幸雄、金田正一 89 島秀之助、野村克也、野口二郎 90 真田重蔵、張本勲 91 牧野茂、筒井修、島岡吉郎 92 廣岡達朗、坪内道則、吉田義男 93 稲尾和久、村山実 94 王貞治、与那嶺要 95 杉浦忠、石井藤吉郎 96 藤田元司、衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太、広瀬叔功、古葉竹識、近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫、小山正明 02 山内一弘、鈴木啓示、福本豊、田宮謙次郎 03 上田利治、関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治、森祇晶 06 門田博光、高木守道、山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二、堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学、津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄、秋山幸二、佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹、工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜、金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾、山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信、黒田博樹 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一、平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 59 正力松太郎、平岡凞、青井鉞男、安部磯雄、橋戸信、押川清、久慈次郎、沢村栄治、小野三千麿 60 飛田忠順、河野安通志、桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登、宮武三郎、景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎、田邊宗英、小林一三 69 三宅大輔、田部武雄、森岡二朗、島田善介、有馬頼寧 70 田村駒治郎、直木松太郎、中馬庚 71 小西得郎、水野利八 72 中野武二、太田茂 73 内海弘蔵、天野貞祐、広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄、西村幸生 78 伊丹安広、吉原正喜、岡田源三郎 79 平沼亮三、谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫、小川正太郎 82 鈴木龍二、外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄、山内以九士 86 中河美芳、松方正雄 87 藤田信男、山下実 88 横沢三郎、芥田武夫、永田雅一 89 池田恒雄、伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征、村上實 96 牧野直隆、保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志、井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟、長谷川良平 02 中澤不二雄、生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守、豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規、君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎、大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男、村山龍平 16 松本瀧藏、山中正竹 17 郷司裕、鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉、石井連藏 21 川島勝司、佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 02 フランク・オドール、正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン、鈴鹿栄 表 話 編 歴 本田親男 1950 - 1953 山田潤二 1954 - 1956 安部元喜 1957 永田雅一 1958 - 1971 中村長芳 1971 - 1972 重光武雄 1972 - 2020 重光昭夫 2020 - FAST ISNI VIAF WorldCat スペイン ドイツ イスラエル アメリカ 日本 Trove(オーストラリア)
IdRef 20世紀日本の実業家 日本の映画プロデューサー プロ野球のオーナー 菊池寛賞受賞者 日本の野球殿堂表彰者 市川雷蔵 馬主 新興キネマの人物 日活の人物 大映の人物 大映ユニオンズ関連人物 千葉ロッテマリーンズ関連人物 日本野球機構の人物 東京スポーツの人物 衆議院議員総選挙の立候補経験者 プロレスの関係者 公職追放者 芸術文化勲章受章者 紫綬褒章受章者 藍綬褒章受章者 私の履歴書の登場人物 京都市出身の人物 1906年生 1985年没 2024/11/14 14:08更新
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nagata masaichi
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