マキノ雅弘の情報(まきのまさひろ) 映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png?)
マキノ 雅弘さんについて調べます
■名前・氏名 |
マキノ雅弘と関係のある人
本郷秀雄: 『人生とんぼ返り』 : 監督マキノ雅弘、製作・配給日活、1955年11月1日公開 - 太田、116分尺で現存(NFC所蔵) 山縣直代: ^ 『映画渡世 天の巻 - マキノ雅弘自伝』、マキノ雅弘、平凡社、1977年、p.246、p.280、p.338-374. 邦枝完二: 『江戸っ子肌』(1961年、東映京都撮影所) - マキノ雅弘監督作品、結束信二が脚色。 光岡龍三郎: 1936年(昭和11年)からは、牧野省三の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)のマキノトーキー製作所に所属した。 丘さとみ: 阿波おどり 鳴門の海賊(監督:マキノ雅弘) 渡辺銕蔵: 昭和26年、マキノ雅弘監督は喜劇時代劇『豪快三人男』を東映で撮ったが、月形龍之介演じる「島根兼四郎(すまんねかんにんしろ)」という人物が、劇中何かあると屁をこくキャラクターだった。 美空ひばり: ひばりは生前、芸能界で公私にわたり親しかった人物として俳優では、中村錦之助、大川橋蔵、林与一、映画監督では、マキノ雅弘、渡辺邦男、沢島忠、歌手では、橋幸夫、北島三郎、西郷輝彦、森進一、恩人としては伊志井寛、三島由紀夫、岡田茂らの名前を挙げている。 風間杜夫: すぐに子役としての頭角をあらわすと、マキノ雅弘や加藤泰などの日本映画監督による東映作品に多数出演し、少年雑誌の表紙を飾るほどの売れっ子になる。 山本廉: 1953年(昭和28年)、マキノ雅弘監督作品『抱擁』で映画デビューする。 山内鉄也: 時代劇が好きだったことから京都行きを希望し、京都撮影所の助監督となり、内田吐夢監督作品『大菩薩峠』(1957年)を皮切りに、伊藤大輔、松田定次、マキノ雅弘、加藤泰、工藤栄一監督らの時代劇に就く。 丘さとみ: 鞍馬天狗(監督:マキノ雅弘) 山縣直代: 1935年(昭和10年)、マキノ正博(のちのマキノ雅弘)のマキノトーキー製作所設立に参加、同年、根岸東一郎監督の『無鉄砲選手』に出演した。 市川右太衛門: マキノ雅弘は右太衛門の殺陣について、「初めからうまかった。 奥山眞佐子: またマキノ雅弘演劇塾にて映画にも触れる。 依田義賢: 1951年 - お艶殺し 原作谷崎潤一郎、監督マキノ雅弘、 内田一作: 1956年(昭和31年)、『朝やけ決戦場』(マキノ雅弘監督)で関喜誉仁と共同脚本。 山田宏一: 「映画渡世 マキノ雅弘自伝 天の巻・地の巻」 山根貞男と共に聞き書き 田坂具隆: 1942年(昭和17年)、戦時統合により日活が映画製作から一旦撤退したため、松竹へ移籍するが、1943年(昭和18年)、助監督たちを所長のマキノ雅弘に預け、松竹下加茂撮影所を退所。 直木三十五: マキノ雅弘は「大衆文芸同人も聯合映画芸術家協会も、相手は活動屋だとタカをくくって食い物にしていたようだ。 山田宏一: 『日本侠客伝 マキノ雅弘の世界』ワイズ出版 2007 長谷川裕見子: ^ 「映画渡世・地の巻 - マキノ雅弘自伝」には「傷だらけの男」でデビューとあるが誤りである。「映画渡世・地の巻 - マキノ雅弘自伝」、マキノ雅弘、平凡社、1977年、p.225. 中島貞夫: 助監督時代はマキノ雅弘・沢島忠・田坂具隆・今井正らに師事する。マキノ雅弘門下の先輩、脚本家笠原和夫・監督深作欣二は親友で、後に数多くの作品で、コラボレートしている。 鶴田浩二: もっとも松竹入社駆け出しのころは1本が15万円という薄給だった苦痛を味わっており、それが松竹退社と独立プロ設立につながったとマキノ雅弘監督はコメントしている。 市川男女之助: 此村大吉 マキノ雅弘監督 1954年 大映 久慈あさみ: 次郎長三国志シリーズ第三部~第七部 (1953年、東宝) 監督:マキノ雅弘 森の石松(森繁久彌)が恋こがれる投げ節お仲役。 三上於菟吉: 『雪之丞変化』(東映、マキノ雅弘監督、大川橋蔵) 1959年 本郷秀雄: 『やくざ判官』 : 監督マキノ雅弘、1962年7月13日公開 - 八肋、91分尺で現存(NFC所蔵) 阿部豊: 昭和16年12月8日、マキノ雅弘はロケ先で小国英雄に誘われ、初めてゴルフに出かけたが、マキノが打つと阿部が「ナイスショット!」と大声を出して近づいてきた。 森繁久彌: また、1953年からはマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに森の石松役で出演、第8作の『海道一の暴れん坊』で無念の死を遂げるまで大活躍する。 尾上松之助: マキノ雅弘によると松之助は立ち回りをやっても姿勢がよく、非常にちゃんとした姿勢で歌舞伎の立ち回りをしていた。 |
マキノ雅弘の情報まとめ
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
マキノ 雅弘(まきの まさひろ)さんの誕生日は1908年2月29日です。京都出身の映画監督のようです。
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
来歴・人物などについてまとめました。映画、子役、テレビ、ドラマ、現在、退社、解散、結婚、離婚、事件、引退に関する情報もありますね。85歳で亡くなられているようです。
マキノ雅弘のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)マキノ 雅弘(マキノ まさひろ、1908年2月29日 - 1993年10月29日)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、録音技師、俳優、実業家。本名:牧野 正唯(まきの まさただ)。 「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三の息子。父の死後マキノ・プロダクション撮影部長、松竹太秦撮影所長などを歴任、生涯に261本もの劇場映画を監督・製作し、日本映画の黄金時代を築いた。沖縄アクターズスクール開設者のマキノ正幸は実子。 甥の津川雅彦が映画監督を務めた際、マキノ雅彦の名義を用いた。 職業名の変遷は下記の通り。 マキノ 正唯 (牧野とも、まきの まさただ)
マキノ 正博 (牧野−とも、まきの まさひろ)
マキノ 雅弘 (牧野−とも、まきの まさひろ)
マキノ 雅裕 (まきの まさひろ)
マキノ 雅広 (まきの まさひろ)
マキノ 陶六 (牧野−とも、まきの すえろく) 牧 陶六 (まき すえろく、監督名でもある) 牧野 正雄 (まきの まさお) 青山 正雄 (あおやま まさお、1932年、1作のみの監督名、嵐寿之助の本名を拝借) 立春 大吉 (りっしゅん だいきち、1936年 − 1937年、マキノトーキー時代) 江戸川 浩二 (えどがわ こうじ、1939年のみ) 観世 光太 (かんぜ こうた、1941年 − 1962年) ほか多数 来歴・人物生まれながらの活動屋1908年(明治41年)、牧野正唯は、父・省三が映画製作を始めた年の2月29日に京都府京都市上京区で生まれた。 幼少のころは父が撮影所長を務めていた日活で子役として働いていた。小学校の同級生に後のカメラマン宮川一夫がいた。「映画に専念しろ」という父に反発して京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校)に進学した。しばらくは一商のラグビー選手として活躍し、1925年に開催された第8回日本フットボール優勝大会で全国制覇に貢献。のちの映画監督の久保為義、山中貞雄らがいた。 17歳のとき、赤痢にかかり、病床に伏したことを機に高校を退学、父が所長を務める東亜キネマ等持院撮影所で、今度は助監督として駆り出されるようになった。やがて父の興したマキノ・プロダクションで、18歳のとき、富沢進郎の共同監督として『青い眼の人形』で監督デビューを果たした。 山上伊太郎の脚本による『浪人街 第一話 美しき獲物』は1928年(昭和3年)のキネマ旬報ベストテン第1位に輝き、『崇禅寺馬場』が4位、『蹴合鶏』が7位を勝ち取った。翌1929年(昭和4年)には『首の座』で2年連続第1位、『浪人街 第三話 憑かれた人々』も3位に入選した。ところが、正博の監督した作品は評論家や左翼青年からは高い評価を得たものの興行的には失敗であった。1929年(昭和4年)、父の陣頭指揮のもと、トーキーの研究にとりくみ、同年7月5日、マキノ・プロダクション第1回トーキー作品として、日本初のディスク式トーキーによる監督作『戻橋』を発表する。そのわずか20日後、同年7月25日、父・省三は、37万円という今の金額に換算すると数億円とも言われる、巨額の負債を負ったまま死去する。 正博はマキノグループが抱える37万円の借金を返済すべく、自らが陣頭指揮を執って娯楽作品を次々と世に送るが、かえって経営は危機に瀕して、数度のストライキや撮影所全焼という不幸が重なり、ついにマキノプロを引き払って、1932年(昭和7年)にひとまずは日活に入社。しかし、ここでも不況下の首切りによるストライキが起こって撮影が一向に進まず、正博も間もなく会社から解雇される。 録音技師兼監督退社後は東京映音に入社し、録音技術すなわちトーキーの研究をし、東日大毎ニュース映画、大日本ビールのコマーシャル映画など記録映画の製作に携わり、みずからトーキー録音機を考案、日活で『さくら音頭』を試作。さらには永田雅一の第一映画社に招かれて、トーキー映画の録音と現像を指導、この頃の伊藤大輔、溝口健二の監督したトーキーは「録音技師・マキノ正博」の手によるものだった。 1935年(昭和10年)に嵐寛寿郎プロダクションで『春霞八百八町』などで再びメガホンをとり、それまでのトーキー映画での成果を引っさげ、同年、安価で良質なトーキー映画を製作するためにマキノトーキー製作所を設立した。マキノトーキーの全作品は、正博自身がプロデューサーと録音技師を務めている。 プログラムピクチャーの名手1937年(昭和12年)にマキノ・トーキーは資金難により解散し、正博ももう2度とプロダクションは持つものかと心に決め、一介の雇われ監督として日活に招かれる。しかしこの間、日活に所属していたスターの阪東妻三郎(『恋山彦』『血煙高田の馬場』)、片岡千恵蔵(『江戸の荒鷲』)、月形龍之介(『妖棋伝』)らの主演作を休む暇もなくスピーディに撮りつづけ、いずれもヒット作となった。 1939年(昭和14年)には和製オペレッタ映画『鴛鴦歌合戦』を監督、公開当時はあまり大きな反響がなかったが、後年、再評価が高まり、現在では『血煙高田馬場』に並んで正博の戦前の代表作となっている。 1本の作品を約10日程度で撮り上げてしまう正博であったが、特に『鴛鴦道中』はなんと撮影期間28時間という超人的な離れ業もやってのけた。負債は完済し、女優の轟夕起子と結婚した(1940年結婚 - 1950年離婚)。この頃までに正博は「早撮りの名人」の異名をとるが、それは以前から「早撮監督」として知られていた渡辺邦男もうなるほどの技量だった。 正博は人形浄瑠璃を学び、女優に対する演技指導では自ら演技をしてみせた。1940年頃には、当時まだ10代だった藤間紫が踊る日本舞踊に感銘を受け、以後はもっぱら日本舞踊を研究し、その所作を女優の演技指導に活用するようになる。松竹太秦撮影所長に就任する。 第二次世界大戦後はヒロポン中毒に苦しんだこともあったが、黒澤明脚本による『殺陣師段平』、村上元三原作の「次郎長三国志」シリーズ(東宝で9部作、東映で4部作)、東映では仁侠映画の走りとなった『日本侠客伝』シリーズなど数々の傑作を生み出し、高倉健らを銀幕の大スタアの座に押し上げるのに一役買った。藤純子を自宅に住まわせ、女優のイロハを一から叩き込み、彼女を東映随一の女優に育てあげたり、日活では「梶芽衣子」の名付け親にもなっている。 1960年(昭和35年)には、生放送のテレビドラマ『秋葉の宿』でテレビにも進出。1965年(昭和40年)の『竜馬がゆく』などを手掛けたほか、1968年(昭和43年)には父・省三の生涯を描いた『カツドウ屋一代』を映像化した。テレビドラマ・テレビ映画は、1981年(昭和56年)の『旅がらす事件帖』最終回まで手掛けた。 1971年(昭和46年)岡田茂の東映社長就任と同時に東映を退社。 1972年(昭和47年)に監督した東映オールスター映画『純子引退記念映画 関東緋桜一家』が最後の劇場作品となった。同作は興行的には大成功だったが、批評家からはあまり高く評価されず、これが映画監督引退を決断するきっかけの一つとなった。 1977年(昭和52年)、山田宏一および山根貞男の構成により『マキノ雅弘自伝 映画渡世 天の巻・地の巻』を平凡社から上梓する。 1993年(平成5年)10月29日、死去した。85歳没。サッカーファンで、臨終の床でもいわゆる「ドーハの悲劇」の試合をテレビで観戦しており、試合途中で日本代表の勝利を確信して死去したという。墓所は京都市等持院。 人となり野村芳亭、池永浩久、高松豊次郎、根岸寛一、城戸四郎らの映画人とは父の代から交流があった。 翌日の撮影脚本が気に入らないと、夜のうちに脚本を真っ赤に修正し、翌朝それを配布して撮影を続けた。 自身も俳優経験があるため、俳優の演技指導を自らの動きでやってみせ、男役・女役ともに巧みだった。 自伝『映画渡世・天の巻』には次のような述懐がある:「父はよくこう云っていた。ホンさえよかったら、誰でもいい演出家になれる、と。1 スジ、2 ヌケ、3 ドウサ、というのが父の映画憲法だった。スジとは筋すなわちストーリーの面白さ、ヌケとは画面がきれいにぬけていること、ドウサとは動作で、これが、この順序通りに、父にとっては映画の三原則にほかならなかった。」 2024/06/23 08:11更新
|
makino masahiro
マキノ雅弘と同じ誕生日2月29日生まれ、同じ京都出身の人
TOPニュース
Hey! Say! JUMPの有岡大貴と松岡茉優が結婚を発表
NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に
King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表
平野紫耀、神宮寺勇太、岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。
元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕
マキノ雅弘と近い名前の人
話題のアホネイター
![マキノ雅弘](https://if2.info/geinou/logo/マキノ雅弘.gif)
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「マキノ雅弘」を素材として二次利用しています。