牧野省三の情報(まきのしょうぞう) 映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
牧野 省三さんについて調べます
■名前・氏名 |
牧野省三と関係のある人
松山英夫: 満29歳であった1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、これに入社して「企画部長」に就任、翌年1936年(昭和11年)1月、同社の陣容を発表した際に名を連ね、同部のメンバーには岡本潤、中川信夫、坂田重則らがいた。 鈴木澄子: 二川文太郎らの監督作に主演し、多くの映画に出演した後、1928年(昭和3年)、牧野省三の監督作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』に出演したのを最後に、京都を離れ、東京・巣鴨の河合プロダクション(のちの大都映画)に移籍した。 沢田正二郎: 『国定忠治』牧野省三監督、東亜キネマ (1925) 共演:久松喜世子 尾上松之助: 1909年(明治42年)1月、博多で興行中、牧野省三から千本座出勤の話ができ、7月14日を初日として同座に出勤する。 高岩淡: 2012年10月8日、長年にわたって日本映画の発展に大きく貢献した功績により、第46回牧野省三賞を受賞。 尾上卯多五郎: 『一条大蔵卿 平家物語』 : 監督牧野省三、製作日活京都撮影所第二部、1920年8月20日公開 尾上卯多五郎: 『実録忠臣蔵』 : 監督牧野省三、1921年3月10日公開 河津清三郎: シャープクライマックス 人生はドラマだ / マキノ省三(1960年、KTV) - 牧野省三 阪東妻三郎: 1923年(大正12年)2月、牧野省三が京都にマキノ映画製作所を結成するにあたり、マキノの重役である宮川斉が東京に俳優募集に来たところ、阪妻に目を留める。 長門裕之: 両親もそうだが、祖父は「日本映画の父」と呼ばれる牧野省三、狂言作者の竹芝伝蔵、叔父に加東大介、叔母に沢村貞子がいるという演劇・映画などを本業とする芸能一家の一員として誕生。 市川右太衛門: 1925年(大正14年)、歌舞伎界の若手俳優を、自ら主宰する映画会社マキノ・プロダクションに迎えようと考えていた牧野省三が右一の評判を聞き、「主演者」として映画入りを誘う。 真由子: 曽祖父は、牧野省三と加藤伝九郎(狂言作者)。 沢田正二郎: 『恩讐の彼方に』(菊池寛作)、牧野省三監督、東亜キネマ (1925) 明石潮: 1924年(大正13年)5月に新声劇を退座し、牧野省三に招かれて東亜キネマ等持院撮影所に入社。 久世龍: まず長谷川伸を訪ね、牧野省三に紹介を受ける。 池永浩久: 『乃木将軍と生涯』、監督牧野省三、主演尾上松之助、共演牧野正唯、日活関西撮影所、1912年11月15日、浅草・大勝館 - 出演、「澤田三治」名義 井上孝雄: 活動大写真(1965年) - 牧野省三 市川小文治: 同年、東亜キネマから牧野省三らが分離独立し、マキノ・プロダクション設立当初は東亜キネマに残ったが、1926年(大正15年)の、長尾史録監督の『花川戸助六』を最後に、マキノに移籍した。 マキノ正幸: 牧野省三の孫、マキノ雅弘・轟夕起子の子として生まれる。 松田定次: 父親は「日本映画の父」と称された、マキノ・プロダクションの創設者・牧野省三。 浅野進治郎: 1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、浅野はこれに参加、芸名を「浅野 進二郎」と改める。 川谷拓三: 父・川谷庄平は1915年に17歳で日活京都にカメラ助手として入社、牧野省三作品や尾上松之助の映画を撮り、1927年に日活を退社するまでに、主に築山光吉とコンビで237本の映画を撮影したカメラマンで1975年没。 野村芳亭: そのとき牧野省三が野村のよきアドバイザーとなり、牧野とは無二の親友となった。 マキノ光雄: 「日本映画の父」として知られる牧野省三の第六子(次男)であるが、母方の姓を継いだので本名は多田 光次郎(ただ みつじろう)である。 マキノ智子: 「日本映画の父」といわれた牧野省三の四女。 淡島千景: 1955年(昭和30年)に菊池寛賞、1988年(昭和63年)に紫綬褒章、1995年(平成7年)に勲四等宝冠章、2004年(平成16年)に牧野省三賞、2005年(平成17年)にNHK放送文化賞に輝いた。 萬屋錦之介: 1982年、牧野省三賞受賞。 宮城千賀子: 翌1941年(昭和16年)11月26日、同社京都撮影所でマキノ正博や辻吉郎の助監督として働いていた、牧野省三の三男・マキノ真三と恋愛結婚する。 光岡龍三郎: 二川監督の『墓石が鼾をする頃』に出演した後、牧野省三らは東亜キネマと分離するが、光岡は東亜キネマに残る。 北大路欣也: 2021年(令和3年)11月には、京都市文化功労者として表彰され、そして2022年(令和4年)10月には、牧野省三賞を受賞している。 |
牧野省三の情報まとめ
牧野 省三(まきの しょうぞう)さんの誕生日は1878年9月22日です。京都出身の映画監督のようです。
映画、母親、結婚、退社、脱退、解散、事故、兄弟、ドラマ、テレビ、父親に関する情報もありますね。1929年に亡くなられているようです。
牧野省三のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)牧野 省三(まきの しょうぞう、1878年9月22日 - 1929年7月25日)は、日本の映画監督、映画製作者、脚本家、実業家。 日本最初の職業的映画監督であり、日本映画の基礎を築いた人物でもある。「映画の父」と呼ばれたD・W・グリフィスになぞらえて「日本映画の父」と呼ばれた。千本座の経営者から映画製作に乗り出し、300本以上の時代劇映画を製作。尾上松之助とコンビを組み、彼の忍術映画でトリック撮影を駆使した。歌舞伎や講談、立川文庫から題材を求め、「スジ、ヌケ、動作」を三大原則とした映画製作で大衆から支持を得た。その後マキノ・プロダクションを設立し、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、高木新平、月形龍之介、市川右太衛門といったスター俳優や、監督の衣笠貞之助、二川文太郎、井上金太郎、内田吐夢ら、脚本家の寿々喜多呂九平、山上伊太郎らを育て上げた。 1878年(明治11年)9月22日、京都府北桑田郡山国村(京北町を経て現・京都市右京区)に生まれる。父は漢方医で幕末の勤王派農兵隊・山国隊の西軍沙汰人(部隊副官)であった藤野齋、母は娘義太夫師の竹本弥奈吉(牧野彌奈)である。兄と妹が一人ずついる。 省三は非嫡出子であったため、彌奈の子として育てられた。彌奈の実家は禁裡御用を務める左官屋で、御所の前に家を構えていた。当時、彌奈は大野屋という寄席と上七軒で置屋を経営しており、西陣の旦那衆に義太夫を教えていた。その母の影響で省三は幼少時から芸事に親しみ、近所の子供たちと芝居ごっこに熱中していた。彌奈の姉弟子である竹本綱尾から義太夫を習い、中村廷笑から芝居道の故実を学んだ。 1901年(明治34年)、牧野家の地所内にあった約300坪の劇場・千本座を母とともに買収・改築し、9月1日に開場した。元々千本座は薩摩の浪人竹内某が持ち主となっていたが、父の藤野が竹内と交渉した末に手に入れた。省三は母親の経営を手伝いながら、自ら舞台に立って義太夫や芝居を披露した。また、この頃に材木問屋「石橋屋」の一人娘・多田ため(後の知世子)と結婚した。 その後25歳の時に、彌奈から千本座の経営を任され、旧劇や小芝居を上演したほか、横田商会の興行で活動写真の上映も行った。1904年(明治37年)、彌奈と大阪・九條繁栄座へ見物に行った際に尾上松之助を発見し、彼を招いて千本座に出演させた。同年、モルガンお雪と失恋した省三がその実体験を基に書いた『モルガンお雪』を千本座で上演し、大当りする。 1908年(明治41年)、千本座を活動写真興行に貸していた縁で、横田商会の横田永之助から映画製作を依頼される。省三は横田よりカメラとフィルムを借り受け、『本能寺合戦』を撮影。中村福之助や嵐璃徳ら千本座の俳優を起用し、真如堂の境内で撮影を行った。続けて横田の請負で『菅原伝授手習鑑』『明烏夢の泡雪』『児島高徳誉の桜』『安達原三段目袖萩祭文の場』『桜田騒動血染雪』を撮っているが、1本30円での請負ではやり切れなかったため、この5本限りで一旦映画製作を停止している。 1909年(明治42年)、5ヶ月ぶりに映画を製作し、『碁盤忠信 源氏礎』を撮る。同作にはこの年に千本座の座頭となった尾上松之助を起用し、松之助とのコンビ2作目の『石山軍記』では睨みをきかせて大きく見得を切る松之助の演技が好評を呼び、以来派手な立ち回りを得意とした松之助は「目玉の松ちゃん」と呼ばれて爆発的な人気を得た。 省三は12年間に渡り、横田商会と日活の2社で200本以上の松之助主演の時代劇を撮っていった。いずれも歌舞伎、講談、立川文庫から題材をとったものだが、編集技術を身につけた牧野がトリック撮影を駆使して撮った忍術映画なども多く作り、子供たちからも熱狂的に支持された。1912年(大正元年)に横田商会と他の3社とが合併して設立された日活では、関西撮影所の所長に就任した。 1919年(大正8年)、省三は松之助映画を撮ることを止めて彼と訣別。同年7月10日に日活在籍のままミカド商会を設立した。しかし、1ヶ月後の1920年(大正9年)に横田によって日活に吸収され、独立は失敗に終わった。日活に戻った牧野は、日活時代劇を二部製作制にし、第一部で小林弥六に松之助映画を撮らせ、牧野は第二部で歌舞伎役者の市川姉蔵を起用して監督活動を行った。 1921年(大正10年)4月、姉蔵の死去により2部制は廃止、牧野は「興行映画の製作をしない」ことを条件に日活を退社。6月に等持院境内に牧野教育映画製作所を設立した。9月には等持院撮影所を開設し、牧野の助監督の金森万象、日活の監督である沼田紅緑、同時期に製作活動を中止した大正活動映画の俳優らが参加して、本格的に教育映画の製作を行った。 翌1922年(大正11年)、無名の歌舞伎役者を起用して『実録忠臣蔵』を撮り、大ヒットする。歌舞伎や講談の映画化に過ぎず、歌舞伎的な立ち回りが特徴の古臭い松之助映画とは違い、斬新な演出手法を用いて写実的な描写で描き、谷崎潤一郎は松之助映画と比較して「映画的」だと絶賛した。 牧野教育映画製作所は、大活や国際活映の人材を得て、自主製作・自主配給の機能も持てるようになり、1923年(大正12年)にはマキノ映画製作所に改組、時代劇や現代劇などの一般作品を製作していった。この時に阪東妻三郎をスターに育て上げ、寿々喜多呂九平や二川文太郎などの若き映画人たちを育成した。そんな20前後の若いスタッフたちの自由な発想で作ったリアルな剣戟映画は人気を呼んだ。 1924年(大正13年)8月、東亜キネマに吸収合併され、東亜キネマ甲陽撮影所と等持院撮影所の所長に就任した。1925年(大正14年)1月、新国劇の澤田正二郎主演の『国定忠治』を公開し、大成功を収める。同年6月、ふたたび独立してマキノ・プロダクションを設立した。 1927年(昭和2年)1月、大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』の製作を開始。 この年は松竹、帝国キネマも忠臣蔵を題材とした映画製作を発表しており、三社による競作は話題を呼んだが製作サイドにはプレッシャーが掛かる状態となった。 大石内蔵助役に候補があげられていた實川延若、松本幸四郎が辞退し、最終的には新派の大幹部であった伊井蓉峰が大石役に決まったものの、牧野の希望とは正反対の演技をしてしまったり、当初片岡千恵蔵が演じることに決まっていた浅野内匠頭を諸口十九に演じさせ、不満に感じた千恵蔵が牧野を脱退し、これに続いて嵐寛寿郎ら50名の俳優が脱退してしまう。さらに、編集中にネガを引火させてしまい自宅が全焼するなど、様々なトラブルを引き起こし、不完全な公開となってしまう。 その後、ディスク式トーキーの研究に取り組み、1929年(昭和4年)に国産ディスク式トーキーの『戻橋』を完成させている。 同年6月、持病の糖尿病に加え神経衰弱も加わり床に伏すようになる。同年7月24日には病状が悪化して翌7月25日、心臓麻痺で死去、50歳没。監督としての遺作は1928年(昭和3年)公開の『雷電』だった。葬儀は御室撮影所で営まれ、池永浩久が葬儀委員長を務めた。この様子を映した記録映画が現存しており、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している。墓は等持院にあり、墓所の前には「マキノ省三先生像」と彫られた銅像が建っている。 死後50日を経て、当時まだ21歳であった長男・マキノ雅弘を中心としたマキノ・プロダクションの新体制が発表されたが、省三の妻で同社の代表取締役に就任した牧野知世子を頂点とした「マキノ本家」と撮影所の二股があだになり、賃金未払い、ストライキなど争議の日々を経て、省三没後2年の1931年(昭和6年)に同社は解散した。雅弘は、省三の遺した37万円という巨額な負債を、長男であるというだけの理由でたったひとりで背負うこととなった。1935年(昭和10年)、雅弘はマキノトーキー製作所を設立して安価で良質なトーキーを量産、最期の1年をトーキーに賭けた父・省三の意思を継いだ。 1958年(昭和33年)、牧野の業績を追善し、後進の映画人を表彰する「牧野省三賞」が京都市民映画祭において創設された(のち京都国際映画祭)。 2001年(平成13年)、右京区太秦の三吉稲荷神社に「牧野省三顕彰碑」が設置された。 牧野は映画製作のモットーに「1.スジ、2.ヌケ、3.ドウサ」の三大原則を掲げ、この3つを重要視した。スジはシナリオのこと、ヌケは撮影・現像の技術のこと、ドウサは俳優の演技のことである。スジについて、牧野は「ホン(脚本)さえよかったら、誰でもいい演出家になれる」と語っているように、脚本を特に重視しており、マキノ映画製作所時代に寿々喜多呂九平や山上伊太郎などの若き脚本家を育てており、彼らには当時の監督よりも高額のギャラをあげていた。 尾上松之助の忍術映画では、中止めや二重露光などの技術によるトリック撮影を駆使して、人が瞬間で消えたり、動物に化けたり、空を飛んだりするといった、特殊な演出を行った。そもそもトリック撮影を使用したきっかけは、ある映画を撮影していた時に、牧野がカメラを固定させたままフィルムを交換した際、一人の俳優が用を足しにその場を離れ、それに気がつかなかった牧野が撮影を続行。後日フィルムを上映すると、一人の俳優が忽然と消えてしまったというエピソードからであった。ほか、スピード感を演出するため1秒間に8コマという変則的な撮影法を取り入れたりもしている(当時は1秒間に16コマが標準的な速度である)。 牧野が育てた映画人には、内田吐夢、衣笠貞之助、息子のマキノ雅弘、松田定次、二川文太郎、沼田紅緑、滝沢英輔、金森万象、井上金太郎、並木鏡太郎などの映画監督、尾上松之助、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、月形龍之介、市川右太衛門、高木新平、松浦築枝、森静子、鈴木澄子、岡島艶子、娘のマキノ輝子などの俳優・女優がいる。 手がけた映画は300本以上に上るが、戦災によりその多くが失われ、現存するのは『忠魂義烈 実録忠臣蔵』、『浪人街』第二部など後世に再編集されたもの数編にとどまる。そのため、作品の全体像を知ることはほぼ不可能なのが現状である。 牧野が10年ほどに渡ってコンビを組んでいた松之助と訣別した理由には、松之助に人気が集中し、ついには松之助が製作に口出すようになって、その態度を不快に思ったことや、松之助の映画が低俗的で古臭いものであるということなどがある。 また、忍術映画のヒットにより子供たちの間では忍術ごっこが流行したが、それにより高いところから飛び降りて怪我をするといった事故が発生し、重傷を負う子供たちも続出した。さらにある日、牧野は子供たちに囲まれて、「このウソつき、印を結んでも消えんやないか」と罵られて、石を投げられるという出来事もあった。それをきっかけに牧野は教育映画の製作を決意したという。 マキノ・プロが経営難に陥った際、周囲は監督をやめて経営に専念したほうが良いと勧めたが、本人は「監督は死ぬまでやめん、道楽やによってな。」と断った。 父:藤野齋 母:牧野やな(娘義太夫師) 先妻:松田照 先妻の子:松田定次 後妻:牧野知世子 長男:マキノ雅弘(映画監督) 次男:マキノ光雄(満洲映画協会、東横映画、東映で映画プロデューサーとして活躍) 三男:マキノ真三(妻の宮城千賀子とマキノ芸能社を設立) 長女(冨榮)の夫:高村正次(正映マキノキネマの設立者) 四女:マキノ智子(女優・俳優長門裕之、津川雅彦の母) 省三は、マキノ・プロダクションの時代に姓をカタカナにしたマキノ省三を名乗りはじめたが、以後自社作品に出演する息子や娘たちにもマキノ姓を名乗らせた。 玄姪孫: 宮川大輔 (タレント) - 異母兄弟(藤野齋の嫡出側)の玄孫。 特筆以外は監督作品 本能寺合戦(1908年、横田商会) 菅原伝授手習鑑(1909年、横田商会) 碁盤忠信 源氏礎(1909年、横田商会) 石山軍記(1910年、横田商会) 忠臣蔵もの
忠臣蔵(1912年、横田商会) 増補忠臣蔵(1913年、日活) 忠臣蔵(1913年、日活) 忠臣蔵(1914年、日活) 元禄快挙 十二時忠臣蔵(1917年、日活) 実録忠臣蔵(1921年、日活) 実録忠臣蔵(1922年、牧野教育映画製作所) 忠魂義烈 実録忠臣蔵(1928年、マキノ) - 監督、製作総指揮 怪鼠伝(1915年、日活) 豪傑児雷也(1921年、日活) 怪傑鷹(1924年、マキノ) - 製作総指揮 討たるゝ者(1924年、マキノ) - 総監督 ロビンフットの夢(1924年、マキノ) - 製作総指揮 雄呂血(1925年、阪東妻三郎プロダクション) - 製作総指揮 鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子(1927年、マキノ) - 製作総指揮 悪魔の星の下に(1927年、マキノ) - 製作総指揮 道中悲記(1927年、マキノ) - 製作総指揮 蹴合鶏(1928年、マキノ) - 製作総指揮 浪人街(マキノ) - 製作総指揮
浪人街 第二話 楽屋風呂 第一篇(1929年) 浪人街 第二話 楽屋風呂 解決篇(1929年) クライマックス 人生はドラマだ / マキノ省三(テレビドラマ、1960年) カツドウ屋一代(テレビドラマ、1968年) あゝにっぽん活動大写真(ドキュメンタリー番組、1978年) 活動屋ばんざい 日本映画の草分け 監督マキノ省三のカチンコ人生(テレビドラマ、1979年) ^ 藤野齋(近江守)(1831年 - 1903年)は、山国郷の名主・藤野五右衛門の長男で、山国隊を組織して新政府軍の東征に参加した。後に山国神社の宮司となり、没後に正五位を贈られた ^ 妹は牧野京子という元女優で、彌奈と愛人の中村延笑との間に生まれたため、省三の異父妹にあたる ^ 『日本映画の歴史』p.105、今村昌平著『日本映画の誕生』p.174では大野席と記述されている ^ 竹本綱太夫の生母 ^ 彌奈の愛人で、後に千本座の俳優となる片岡市之正の父親 ^ 多田ための父親は笹井三左衛門(千本組親分)の兄弟分である多田虎之助である ^ 小林淳「序章 東宝空想特撮映画誕生前夜」『東宝空想特撮映画 轟く 1954-1984』アルファベータブックス〈叢書・20世紀の芸術と文学〉、2022年5月14日、18頁。ISBN 978-4-86598-094-3。 ^ 朝日日本歴史人物事典「牧野省三」の項 ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus「藤野斎」の項 ^ 岸松雄著『人物日本映画史』p.19 ^ 『日本映画俳優全集 男優篇』p.143 ^ 『日本の創造力 近代・現代を開花させた四七〇人』p.442 ^ マキノ雅弘著『マキノ雅弘自伝』p.8 ^ 北川鉄夫著『マキノ光雄』p.15 ^ 佐藤忠男著『日本の映画人 日本映画の創造者たち』p.544 ^ 『キネマ旬報 第661-664号』p.147 ^ 千本座 - 立命館大学 ^ 『カツドウ屋一代 伝記牧野省三』p.20 ^ 『尾上松之助自伝』 ^ 田中純一郎著『日本映画発達史Ⅰ 活動写真時代』p.146 ^ 『日本映画俳優全集 男優篇』p.133 ^ 「忠臣蔵」三社競作など映画界は花盛り『中外商業新報』昭和2年1月10日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p18 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 映画界の長老死去『大阪毎日新聞』昭和4年7月26日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p601 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 『カツドウ屋一代 伝記牧野省三』p.225 ^ 『映画渡世・天の巻 マキノ雅弘自伝』 ^ 『カツドウ屋一代 伝記牧野省三』p.65 ^ 牧野 省三 - イメージライブラリー - 武蔵野美術大学 ^ 『カツドウ屋一代 伝記牧野省三』p.69 ^ 日本映画大衆化の先頭に『東京朝日新聞』昭和4年7月28日(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p601 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ 宮川大輔、遠い親戚になんと津川雅彦さん「嘘やん!サブイボ止まらへん…」 2019年8月13日スポニチアネックス 東亜キネマ 連合映画芸術家協会 タカマツ・アズマプロダクション 阪東妻三郎プロダクション 小泉吾郎 牧野省三 - 日本映画データベース Shozo Makino - IMDb(英語) FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data アメリカ 日本 日本のサイレント映画監督 日本の映画プロデューサー 日本の脚本家 20世紀日本の実業家 マキノ一家 京都市出身の人物 1878年生 1929年没 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにあるJMDb人物と企業識別子 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/15 23:35更新
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