鈴木澄子の情報(すずきすみこ) 女優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
鈴木 澄子さんについて調べます
■名前・氏名 |
鈴木澄子と関係のある人
杉狂児: 1928年(昭和3年)2月1日、鈴木澄子とともにマキノを離れて河合映画に入社。 伴淳三郎: 1940年、「化け猫女優」こと鈴木澄子らとハワイ、サンフランシスコ巡業を行い、帰国後、秋田實の応援で小夜福子らと劇団を結成するがほどなく解散。 牧野省三: 牧野が育てた映画人には、内田吐夢、衣笠貞之助、息子のマキノ雅弘、松田定次、二川文太郎、沼田紅緑、滝沢英輔、金森万象、井上金太郎、並木鏡太郎などの映画監督、尾上松之助、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、月形龍之介、市川右太衛門、高木新平、松浦築枝、森静子、鈴木澄子、岡島艶子、娘のマキノ輝子などの俳優・女優がいる。 阪東妻三郎: 森静子、環光子、鈴木澄子、桜木梅子らの女優が出演し、ヒット作を飛ばす。 高田稔: 同年、山本嘉次郎監督の入社第1作『断雲』で鈴木澄子の恋人役に起用され、悪人の為に殺され、鈴木澄子扮する恋人は発狂し、夕陽が落ちて、この悲劇の上に断雲が流れるという何とも救いようの無いドラマの主人公ではあったが、高田はこれでようやく映画俳優としての将来に希望を持つことができたという。 入江たか子: その大映に戦前鈴木澄子主演であてた「化け猫映画」のリメイクの企画が持ち上がり、その主役の話が持ち込まれた。 日高真弓: 鈴木澄子 |
鈴木澄子の情報まとめ
鈴木 澄子(すずき すみこ)さんの誕生日は1904年10月26日です。東京出身の女優のようです。
現在、映画、子役、退社、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。1985年に亡くなられているようです。
鈴木澄子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)鈴木 澄子(すずき すみこ、1904年10月26日 - 1985年1月18日)は、日本の女優である。「化け猫女優」として一世を風靡。初期芸名は鈴木 すみ子(読み同)。 1904年(明治37年)10月26日、東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区下谷)に生まれる。 1921年(大正10年)、満15歳のとき、トーマス・栗原(栗原喜三郎)に見出され、前年に設立された大正活映に入社、同年5月11日公開の栗原の監督した短篇映画『喜撰法師』に出演してデビューする。同社には俳優として、岡田時彦(当時は野羅久良夫)、井上金太郎(当時は栗井饒太郎)、内田吐夢(当時は閉田富)、二川文太郎らが在籍した。 1922年(大正11年)、同社が製作を停止すると、京都に新設された小笠原映画研究所(小笠原プロダクション)に移籍、同所を主宰する小笠原明峯が監督した現代劇『三色すみれ Love in Idleness』に出演した。翌1924年(大正13年)には東亜キネマに移籍した。 帝国キネマ演芸を経て、1925年(大正14年)、マキノ・プロダクションに移籍する。二川文太郎らの監督作に主演し、多くの映画に出演した後、1928年(昭和3年)、牧野省三の監督作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』に出演したのを最後に、京都を離れ、東京・巣鴨の河合プロダクション(のちの大都映画)に移籍した。翌1929年(昭和4年)には市川右太衛門プロダクションに移籍、1930年(昭和5年)には再び帝国キネマに入社した。 1931年(昭和6年)、帝国キネマの新興キネマへの改組にあたり、継続入社し、1937年(昭和12年)、木藤茂が監督した『佐賀怪猫伝』に大友柳太郎とともに出演、同作のヒット以来、多くの怪談映画に主演し、「化け猫女優」と呼ばれた。 1941年(昭和16年)、吉田信三監督の『羅生門』に茨木の童子役で主演したのち、翌1942年(昭和17年)の戦時統制による同社の大日本映画製作(のちの大映、現在の角川映画)への統合にあたり退社、「鈴木澄子一座」を結成して実演の巡業を開始した。 1985年(昭和60年)1月18日、脳出血が原因で死去した。満80歳没。生涯で200作を超える映画に出演した。 すべて出演である。 『喜撰法師』 : 監督栗原喜三郎、大正活映、1921年 『蛇性の婬』 : 監督栗原喜三郎、大正活映、1921年 『三色すみれ Love in Idleness』 : 監督小笠原明峯、小笠原映画研究所、1923年 - 夏川家の薄ノロ女中 『愛の牢獄』 : 監督阪田重則、東亜キネマ等持院撮影所、1924年 『断雲』 : 監督山本嘉次郎、東亜キネマ甲陽撮影所、1924年 - 妹お愛 『山語らず』 : 監督青山杉作、帝国キネマ演芸東京撮影所、1924年 『輝く首途』 : 監督山下秀一、帝国キネマ演芸、1925年 『女怪』 : 監督金森万象、マキノ・プロダクション御室撮影所、1926年 『照る日くもる日』 : 監督第一篇・第二篇 二川文太郎 / 第三篇 中島宝三 / 第四篇 人見吉之助、マキノ・プロダクション御室撮影所、1926年 - 1927年 『忠魂義烈 実録忠臣蔵』 : 監督マキノ省三、監督補秋篠珊次郎、マキノ・プロダクション御室撮影所、1928年 『娘年頃』 : 監督松本英一、河合プロダクション、1928年 『花井お梅』 : 監督丘虹二、河合映画製作社、1929年 『高橋お伝』 : 監督丘虹二、河合映画製作社、1929年 『かるめん』 : 監督竹内俊一、松竹下加茂撮影所、1929年 『旋風時代』 :監督志波西果、帝国キネマ演芸、1930年 『牢獄の花嫁』 : 監督沖博文、阪東妻三郎プロダクション / 新興キネマ、1931年 『月形半平太』 : 監督岡山俊太郎、阪東妻三郎プロダクション / 新興キネマ、1931年 『鏡山競艶録』 : 監督寿々喜多呂九平、新興キネマ、1933年 『祇園祭』 :監督溝口健二、新興キネマ、1933年 『おせん』 :監督石田民三、新興キネマ、1934年 『お伝地獄』 : 監督石田民三、新興キネマ京都撮影所、1935年 『太閤記 藤吉郎出世飛躍の巻』 : 監督渡辺新太郎、新興キネマ京都撮影所、1936年 『夜嵐お絹』 : 監督渡辺新太郎、新興キネマ京都撮影所、1936年 『佐賀怪猫伝』 : 監督木藤茂、新興キネマ京都撮影所、1937年 『有馬猫』 : 監督木藤茂、新興キネマ京都撮影所、1937年 『薩摩飛脚』 : 監督伊藤大輔、新興キネマ京都撮影所、1938年 『鏡山競艶録』 : 監督寿々喜多呂九平、新興キネマ京都撮影所、1938年 『怪猫謎の三味線(英語版)』 : 監督牛原虚彦、新興キネマ京都撮影所、1938年 『怪猫赤壁大明神』 : 監督森一生、新興キネマ京都撮影所、1938年 『紫式部』 : 監督野淵昶、新興キネマ京都撮影所、1939年 『笠森おせん』 : 監督西原孝、新興キネマ京都撮影所、1939年 『山吹猫』 : 監督藤原忠、新興キネマ京都撮影所、1940年 『羅生門』 : 監督吉田信三、新興キネマ京都撮影所、1941年 『怪猫からくり天井』 : 監督深田金之助、東映京都撮影所、1958年 - 秋篠 『白い巨塔』 : 監督小林俊一・青木征雄、フジプロダクション / 田宮企画、テレビ映画、1978年 - 1979年 ^ 鈴木澄子、『講談社 日本人名大辞典』、講談社、コトバンク、2010年2月8日閲覧。 ^ 鈴木澄子、キネマ旬報映画データベース、2010年2月8日閲覧。 ^ 鈴木澄子、日本映画データベース、2010年2月8日閲覧。 ^ 薩摩飛脚、東京国立近代美術館フィルムセンター、2010年2月8日閲覧。 ^ 白い巨塔、テレビドラマデータベース、2010年2月8日閲覧。 Sumiko Suzuki - IMDb(英語) 鈴木澄子 - 日本映画データベース 鈴木澄子 - KINENOTE 鈴木澄子 - allcinema VIAF イスラエル 日本 日本の女優 日本の舞台女優 サイレント映画の俳優 大正活映の俳優 東亜キネマの俳優 帝国キネマの俳優 マキノ・プロダクションの俳優 大都映画の俳優 市川右太衛門プロダクションの俳優 新興キネマの俳優 東京都区部出身の人物 1904年生 1985年没 外部リンクがリンク切れになっている記事/2016年10月 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにあるJMDb人物と企業識別子 ウィキデータにあるKINENOTE ID ウィキデータにあるallcinema人物識別子 VIAF識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事
2024/11/18 05:41更新
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